2015年8月13日木曜日

赤木春恵(女優)         ・満州からの引揚で決意したこと(1)

赤木春恵(女優)           ・満州からの引揚で決意したこと(1)
1924年 大正13年旧満州生まれ、京都に家族と戻り、昭和15年松竹のニューフェースで女優になりました。
太平洋戦争が始まり、軍需工場や国内各地の部隊を慰問しているうちに、戦争は激しくなるばかりです。
昭和20年2月、以前暮らしていた満州に旅立ちます。
8月9日のソ連軍の突然の侵攻、8月15日の玉音放送、終戦、満州で慰問劇団の座長だった赤木さんは無事に日本に着くまで苦労の連続でした。

本当は戦争のことをあまり語りたくない、家族にもあまり喋っていない。
マスコミから取材が来ると、おしゃべりした後は寝つきが悪い、細かいことを思い出してしまう。
8月15日大事な放送があるという事で、玉音放送を聞いたが、雑音が烈しくよくわからなかった。次兄が劇団の創設で借金をしていて、劇団の借金の話をどのタイミングで話したらいいか、考えて話したらそんなときではない、そんなことはどうでもいい、身の振り方、どうやってこれから生きていくかを考える方が先だと言われて、借金の話のことで頭がいっぱいだった、私はほっとした。

伊藤大輔の助監督を次兄(9歳上)はしていたが、戦争高揚の映画ばっかりで不満をもっていた。
私は大映にいたが、満州に行こうということになって、昭和20年2月に出掛ける。
母だけは京都に残った。
ハルピンは天国みたいなところだった。
慰問に出かけるが、満映の理事長と、満州演芸協会のトップ 甘粕正彦さんだったので、その前で整列して敬礼して出発した。
満州の名のある場所は全部回っている。
最後にソ連との国境に近い春化に行ったが、ソ連に近いという事は判らなかった。
部隊長が慰問どころではなく、夕食を食べたら琿春(司令部がある)にお帰り下さいと言われた。
食事中にドンドンと鳴って、なんですかと問い合わせたら戦争ですと言われて、まさかソ連だとは思わなかった。
部隊長に絶えず電話がかかってきていた。

翌朝、あまりにも騒がしくて、戦争だという事で、宿屋の日本人は逃げてしまっていた。
司令部に行ったら、こちらでは慰問どころではないので、琿春にお帰り下さいという事で、琿春行きのトラック13台を出すので、それに乗って下さいと言われて、それに乗って朝鮮まで走った。
関東軍から派遣されたので、勝手に行動することが許されないと思って、南に向かう人たちと袂を分かって、北の新京に向かって行こうとして、、列車のダイヤが滅茶滅茶で、北に行く列車に乗ろうとして司令部に行ったら、どこから来たのかを問われ、春化から琿春に来て朝鮮に来たと言ったら、春化では後2時間遅かったら死んでいたと、司令部の方から言われた。
満州開拓団の人たちも逃げることで精一杯だった。
北に行く列車が来てハルピンについて2日後に大事な放送があるとの事だった。
ハルピンは夢の国みたいに静かだった。

昭和21年10月21日に日本に帰ってくるが、それまではハルピンで働かなければならず、ウエートレス、洋服屋さんの手伝い、ダンサー等もやった。
八路軍は規律が良かったが、市中引きまわしみたいに、首からプラカードをぶら下げられて、戦争文化犯罪者、歴史の嘘をおしえた、と書かれていて、日本人の校長先生とか、広場で人民裁判で石を投げぶつける、そういうのを見るとたまらなく不愉快で寒気がした。
奥地から開拓団がハルピンに流れてきて、悲しい話を一杯持ち込んできて、大勢で逃げている時に、池の中に身をひそめていたら、赤ちゃんが泣きそうになったので、赤ちゃんが泣いたら場所が判って襲撃されるというので、自分の赤ちゃんを水につけてしまったという様な話とか様々な話を聞いた。
慰問先で発疹チフスを移されてしまったが、熱が高いと生きてる鶏の胸を裂いて、胸部に当てると熱を吸収して治るという話があり、代わりに山鳩を使って無理やり押さえられてやられて、1週間ぐらい経ったら・・・。(地震情報)
入院するが窓にはカーテンが無く、日差しが強くて、衛生兵がもんぺをカーテンの代わりにしてくれて、もんぺの白い椿の花が自分の中で全部鳩に見える。
「ごめんね、ごめんね」、と言い続けたそうで、「私は死なない、私は日本に帰るんだ」と言い続けたそうです。
命を助けられてた、生きて帰れただけで有難いと思わなければならない。

二人の兄である、長男 次男 共に亡くしてしまう。
長男は病気で日本に帰ってきて亡くなってしまう。(戦病死)
男の人が戦争を起こすんじゃないですか、私たちの頃は本当に女の人は何も知らない、ただただ銃後を守る、人間同士の殺し合いなので、いやですね。
もう戦争は駄目です、戦争をしないでほしい。