2015年8月10日月曜日

三上智恵(ジャーナリスト・映画監督)  ・沖縄から戦争と平和を考える

三上智恵(ジャーナリスト・映画監督)  ・沖縄から戦争と平和を考える
名護市辺野古への新しい基地の建設を始め沖縄の置かれた状況が再び大きくクローズアップされています。
三上さんは東京の出身、20年前の 1995年から沖縄の民間放送のキャスターとして、沖縄が抱える問題を報道してきました。
去年3月長年勤めていた放送局を退職して、新たに映画監督として独立し、沖縄の実情を訴え続けています、
最新の作品は「戦場(いくさば)ぬ止(と)み」というドキュメンタリー映画、今注目を集めている辺野古の住民の目から、この1年の辺野古の動きを追っています。

映画を作るかどうかわからないけれども、フリーになって辺野古の方にいくという、何も決めないで辞めました。
「戦場(いくさば)ぬ止(と)み」 全国で放映中。
タイトルは辺野古のゲート前フェンスに掲げられた琉歌の一節に由来している。
戦場のとどめ 戦場になっている沖縄の苦しい状況にとどめを刺すという意味。
8、8、8、6 琉歌  5、7、5、7、7の句体の短歌とは違う。
「今年(くとし)しむ月(ぢち) 戦場(いくさば)ぬ止(と)み 沖縄(うちなー)ぬ思(うむ)い 世界(しけ)に語(かた)ら」 
「今年11月の知事選挙で 沖縄の長い間続いた戦場を、終わらせようじゃないか。
平和を望む沖縄の気持ちを、世界中に知らしめようじゃないか。」
基地の問題、アメリカの戦争に加担させられているという、戦争から解放されたことが無い。
更に新しい大きな基地、軍港ができるのを迎えて、沖縄の運命はさらに戦争と密接になってしまうのではないかというのが、沖縄の人達の歴史から出てくる言葉だと思う。
これをドキュメンタリーの芯にしたかった。

70年の歴史、戦争からこっち生きてきたかを垣間見ないと、全国の人に判ってもらいたいので、資料映像、歌、写真とかで70年を判ってもらえうように工夫した。
島袋文子さん 86歳 主人公の一人。
戦争で体の不自由な母と10歳の弟の手を引いて、15歳だった文子さんが解放先で火炎放射器で焼かれて、そのあとに人生を大変苦労する。
だからこそ今の86歳になってもゲートの前に立って、資材を積んだトラックが入ってくる時に、立ちはだかるという、勇敢なお婆さん。
歌、踊りとか、緊張した場面で歌ったり踊ったりする、空手の演舞等もする場面もある。
沖縄県民の戦いは鋭角では折れるので、鈍角で、鈍器で大きい壁に穴をあけていかなくてはいけないと、言っている。(余裕のある戦い)

1995年 阪神大震災で避難所暮らしをして、秋に開局した沖縄の民間放送局に移った時に、9月にアメリカ兵の暴行事件があり、沖縄の人は怒りをもって立ちあがった。
太田知事は代理署名をしないことを宣言した。
(地主がアメリカ軍に土地を貸したくないと言っても、最終的には沖縄県知事の権限で代理で署名するという手続きがあったが。)
1966年にアメリカ軍は今の大浦湾のほとんど同じ形の軍港と滑走路の基地を造る計画があった。
防衛省とアメリカとの間で、1960年代のあの計画を参考にしようというメールがある事が判っていて、何が何でもあそこに基地を作らなければいけないという理由は、深さのある大浦湾というところにしか軍港ができない、ということがまずあって、暴行事件があろうがなかろうが、あそこには作りたいという意図があったことは、譲れない事実だと思っている。
日本の税金で作る口実の一つになってしまったのではないかと思っている

1945年3月になると、沖縄で一番激しい戦いがあるが、
1944年に日本軍がたくさんやってきて沖縄を守ってくれるというのでいい部屋を貸して、食べものも美味しいものを食べてもらって日本軍を大変歓迎した。
3月になると慶良間に上陸、4月1日本島に上陸、北部まで3日間で行ってしまう、5月末前田高地の戦い、今の新都心あたりのシュガーローフの戦い安里52高地の戦い)、とか、沖縄戦を追体験するようにあえてドキュメンタリーを私は自分でやっていて、どんなふうにアメリカ軍が来て戦ったのか、自分に叩き込もうとしていると事があって、3月から6月は辛いです。
沖縄の地表は沢山の血を吸っているので、地下からの声をいつも聞いているような気がする。
二度と沖縄を戦場にしたくはないので、それはあなたが頑張りなさいと言われているように感じます。
だからこういう映画を作っているんだと思います。
この数年、物凄い勢いで戻ってしまっているのではないかと危機感に襲われることがあります。
「戦場(いくさば)ぬ止(と)み」 本も出版。

「ちゅーばー」 勇ましくて強い人を言う。 島袋さんを含め3人の方。
中村文子さん 1フィート運動の事務局長で昨年亡くなる。(97歳)
米軍の撮った沖縄戦の映像を沖縄市民のカンパで1フィートずつ買い戻す運動。
学校の先生だったが、優秀な女生徒を放課後も教えて、那覇の師範学校に入れるが、戦争を終わってみるとひめゆりの一員として命を落としてしまう。
自分の教え子をひめゆりの部隊に入れるようになってしまった、後悔の思いから反戦平和運動の先頭に立ってゆく。
「空に1機の戦闘機も飛ばない、陸に1台の戦車も走らない、海に軍艦の1つも浮かばない、もともとの沖縄に戻すんだ」とおっしゃっていて、それを引き継いで実現させたいと思っている。
東恩納文子さん 名護市の市議会議員、東恩納琢磨さん 辺野古にやぐらを立てて座りこんで基地闘争をやっていた人のお母さん。
2000年沖縄サミットの時に、私にクリントンに会えるのかと聞いてきた人。
自分の息子は仕事を辞めてまで、反対運動をやっていて哀れで仕方がない、自分の命をもって終わらせることができるのであれば自分の命は惜しくないから、クリントンに合わせてほしいとの事だった。
3人の文子さんから学んだことは多い。

これ以上の負担は、だれかがいつか止めないと、次の世代に丸投げしてしまう、平成島ぐるみ闘争の流れを確固たるものにしたいとこの映画には有ります。
「標的の村」という映画を見て頂いた方のカンパから元になってこの映画の製作資金になっている。
民族学を教えていて、宮古島がフィールドになっていて、学術用語でシャーマン 沖縄の共同体、神様、自然とを結び付ける役割の女性たちの世界を映像にしたい。