2015年8月14日金曜日

赤木春恵(女優)         ・満州からの引揚で決意したこと(2)

赤木春恵(女優)           ・満州からの引揚で決意したこと(2)
「ペコロスの母に会いに行く」 89歳の時の映画。  主演女優をする。
台本を頂いた時に中味を知らずに、もりさきあずまさんが監督をするという事で簡単に映画を引き受けた。
主演女優賞を頂き、ギネスの世界記録、映画で134本を脇役を演ずる。
「ペコロスの母に会いに行く」 認知症の役で、息子が面倒をみる。
女優になったのが昭和15年、当時情報が伝わらなくて、なんで中国と戦争しているのか、なんでアメリカと闘わなくてはいけないのか、意味もわかっていなかった。
NHKの放送、TV等を見て、最近判った様なものです。

満州から京都に戻ってきて大叔父、大叔母さんのもとで(二人とも教育者)で母と私は離れの一室に寄宿して、学校に通っていたが、母は溺愛型だったので、心配して大叔母が私を厳しくしつけてくれたが、それがあとになって良かったと思います。
学校に行っても神社の掃除と、陸軍病院の慰問とかばっかりだった。
見合いして結婚するコースが決まっていて、それをなんとかしたくて兄の所の撮影所に遊びに行き、監督さんに女優になるかと言われて、自由になるために女優になる事を決めることになる。
試験を受けないといけなくて、芸術概論、演劇概論、日舞、三味線、馬術など色々あった。
基礎をきちっとやれたことが有難かった。
当時の映画は皆戦争に結びつけていた。
竹やり訓練、バケツリレー等をやらされた。
デビューは腰元の役で、金魚鉢をもって廊下を歩く役だったが、なかなかOKにならなかった。
男の人がたりないので笠をかぶって、遠くの方で参加した。

軍部の要請でトラックに乗って慰問してほしいとの事で、各師団を回る。
鈴鹿航空隊の明日出発するという特攻隊の慰問に行った時は、しびれるような思いだった。
丸坊主で20歳そこそこで、シーンと静まり返って、笑うところは笑わないし、泣くとこも泣かないし、拍手する時も拍手は無いし、シーンと静まりかえったところで色々やるのですが、すごくこたえましたね。
本人たちもそれどころではなかったと思います。
大映を辞めて満州に行って、戻って来てから片岡千恵蔵さんの口添えで再び大映に入る事になる。
目標をずーっと先に置く事がいいと思っていて、40,50歳になった時にいい役者だといわれるように
なりたいと思っていた、自分自身をよく知っていますから。
森光子さんとは慰問団でトラックの上で初めて会いました。
森さんは南方に私は満州に行きました。
お互いに生きて帰ってきて、森さんが病気になり、もう亡くなったのではないかという、噂まで飛んだが、お互いに会って抱き合ってから本当のお友達になりました。

森繁さんは森繁劇団を大阪で発足して、或るとき浪花千恵子さんが出られなくて、ピンチヒッターの話があったが事情があり断りに行ったが、森繁さんの演説を聞いてすっかり傾倒してしまった。
森繁さんは知性があります。
森繁劇団を10年手伝う事になるが、朝のTV小説(「藍より青く」)の話がきたので、両方できないので、森繁劇団とは離れることになる。(50歳ぐらいの時)
いい作品でやりがいがあった。
その後、橋田壽賀子さんが「四季の家」を書いて私を推薦してくれた。
明けても暮れても明けても暮れても、橋田-石井のコンビで全部出ているというありさまでした。
舞台が好きだったので、「渡る世間・・。」の途中15年間務めたが、配役の中で病気にしてもらって、
降ろさせてもらいました、最後の方にもう一度出ましたが。
舞台の魅力は瞬間的なものです、常に本番で、大勢の観客の前でお芝居ができるという事はすごく楽しみです。

人に迷惑をかけたくないという事で86歳で舞台を辞めることにしました。(足が駄目になって)
「藍より青く」の初日にアキレスを切った時からずーっと仕事があったもので、断れなくてリハビリをせずに仕事をしました、その後遺症です。
3年B組金八先生』に校長の君塚美弥子役でレギュラー出演する。
いろんな人生を演じられるので面白い。