2011年7月2日土曜日

山本一力(63歳)        ・私の深夜便とっておきの話

山本一力(63歳) 私の深夜便とっておきの話
<概要>
生家は高知市の大地主であったが没落、14歳の時に上京。通信機輸出会社、旅行代理店、
コピーライターなど10数回の転職を経て、
1997年に『蒼龍』でオール讀物新人賞を受賞してデビュー  2002年には『あかね空』で直木賞
バブル時代、借金を億単位で抱え込み、その返済のために小説を発表したら、それが世に認めた
ジョン万次郎坂本竜馬中岡慎太郎の事  無名な人々の役等
年上の人がいないと不安  今まで先輩がいたが今はいない
30代の人に「こうだよな」といってもそうは聞こえない 「こうしろ」みたいなニュアンスになってしまう
(年齢差からくるもの)
深夜便ディレクターはほぼ同年代なのでああ言えば、こうと返って来る安心感がある
今年私は大変幸せな体験が出来ました 2月桂浜に行きました 坂本竜馬の記念館がある、
竜馬のことを調べに行くには整った記念館です
前田さん 竜馬の事に関して生き字引のような人 その時ジョン・万次郎の乗っていた、アメリカで
乗っていた捕鯨船 ジョンハウランド号という3本マストの大きな船
その模型船を高知の人が作ったと前田さんから聞いた ジョン万次郎を書いているのでそれを
見たいがために行きました

その模型を見ていると、自分より先輩の人から「山本一力さんですか」といわれる→中学一年の時
の担任の先生だった
昭和35年代は学校では土佐弁だったがその先生はうるさくしている時に必ず「やめよ」と言っていた
その先生(森田先生)には「やめよ」と言うあだ名がついた 存命の先生方の集まりが年1回あり、
その会に呼ばれることになった
全員が年長者 本当に嬉しかった 年上の人が示してくれること、普通に生きている姿を見ているだ
けでいろんなことを学ぶことが出来る
皆さんが普通に呼吸して、普通に街を歩かれて、何の気なしに物をしゃべられて、やっていることを
多くの年下のものが見ているんです

自分ではそのことを意識していなくても、多くの者が皆さんの姿を見てる
3/11日本は大変つらい経験をしました  多くの爪痕がいまだに残っています
この高知でも津波の被害があったことをつい最近知りました 青のりが全滅したり、養殖してい
魚が駄目になったり、辛い目に会った人がこの高知にもいた
世の中で何が不幸と言え、ひどい目に会いながらそのことを全然気付いてもらえず、誰にも判って
もらえないまま、朽ち果ててゆくという事は本当に辛い事です
しかし、その方たちは黙っていらっしゃる 東北の人達があんな凄い目に遭っているのに自分たちが
どうだとは言えない

私より上の人達はあまり大声では言わない  それは自分たちの力で片付けてゆくんだという・・・
それを内に貯めてやり過ごすという生きかた
として学んできた世代とも言える名もな人達がなさる方がはるかに大きい 乞われて仙台に行くが、
私は世に名は知られているだけに過ぎない
それは一人一人の頭の中に生きかたを積み重ねてきた、生きかたが、そのままが、教えになると言う事です
皆さんから物を教わりたい若い世代が沢山います  そういう人たちに是非知恵を授けてあげて
いただきたい
これらの事は年長者の務めであると私はこの頃強く思います 定年を過ぎた後、社会の第一線から
は引くという形になるかも知れない

それは仕方ありません  第一線から退く事と自分に責任が課せられているんだという事とは全く
関係がありません
歳が重なれば重なるほど、その責任というのはきっと重くなってゆくんです 決して軽くはならない 
なぜならば生きていることが手本になるからです
良い歳をしたものが、とか言われるのは、歳にふさわしくなく浅はかな振る舞いをしたり、自分勝手な
ことを考えたり、より多くの人を見るのではなしに
狭い自分だけの目で、俺が良ければと言う目で物を判断したりして、それはやっぱりいい歳をして
しょうがねえな、という事になるのかもしれない
こういう考えに至ったのも、私が2年間深夜便に出させていただいた事が大きなきっかけです   
ラジオは相手の顔が見えません

同じ経験をしてきた方々が、自分以外にも一杯いるという事が解るという事は物凄く力が付きす
自分一人じゃないんだという事が判るという事は、特にしんどい時には元気が出ます 
そのことを言うのを示していけるのが、歳を重ねていった人こそなんだろうなと、今強く思います
63~64歳の間に、毎年先生たちが開いている会に招いてもらった こんな事があるとは夢にも
思わなかった
本当に、生きていれば63歳を過ぎてから、こういう経験が出来るという事は、人生と言うのは本当に
不思議です
何が待ち受けているのか判らない  怖いこともあります その反面楽しいこともあります 嬉しいこと
もあります

この様な思いもかけない出会いと言うのは、若い頃はいろんな出会いというのは、先が限られている
なんて思って生きていませんでしたから
出合うという事に対して、それほど大きな感動を覚えないで生きてきました 
ジョン万次郎が捕鯨船に助けられ、最初に立ち寄ったのがハワイです  1841年あの頃のハワイと
言うのはアメリカ西海岸から中国に向かうのに
ハワイを経由して向かう商船が途中の補給基地としていたのがハワイです ジョン万次郎は14歳で
ハワイの地を踏みます
物書きとして小説を書いてゆく時に、どういう風なスポットライトの当て方をしてゆくのかというのは
、物書きに課せられた大きな使命でもある

私は今、坂本竜馬も書いていますし、このジョン万次郎もそうなんですが、どちらも共通している事は
突き詰めれば一つです
それはどう言う事かと言うと 竜馬が竜馬たりうるためには、中岡慎太郎がいなければ絶対に竜馬は
あの功績は残していません
これは断言します  歴史がそのことを書いている  竜馬は先を行くが、知恵袋は中岡慎太郎です
中岡慎太郎の銅像は室戸岬にあります 生誕の地の北川村ではありません  村の人の言 
山の中に建てても見に来てくれない
見に来てくれるところに建てて、中岡慎太郎の功績をたたえたい
 
お金は北川村の人が出して自分たちは裏方に徹して、像が建っている栄誉は
室戸岬の人達に譲っている  これは日本人が大事にしている生きかたです  
人生を生きてゆくのに一人称で生きていない
一人称で生きるという事は「俺が、俺が」です  あれは俺がやった、これは俺がやった 
 これがある部分の主流になっている
かつて、日本人はそうではなかった  

知恵袋として自分の位置を決めて、そのことに誇りを持って、竜馬を兄さん、兄さん慕って
生きていった中岡慎太郎の事を書かずして
坂本竜馬の物語は成り立たない
万次郎も全く同じ 万次郎は物凄い功績を残している  しかし 万次郎が生きてゆくためには5人
の存在がある
事情があって4人が残って、万次郎だけが捕鯨船に乗って旅を続け、アメリカ東海岸のニューヘッドフォード
という街に上陸する
4人はハワイに残っていて、重助さんは間もなくハワイでなくなる 寅右衛門さんはハワイで居を構えて
残っている

そして、遭難してハワイにたどり着きアメリカに渡った人々が沢山いる事が記録に残っている 
それらの人々を寅右衛門さんはハワイに於いて面倒見ている
筆之丞さんと五右衛門さんは土佐藩から見、聞きしたことは一切しゃべってはならぬと、
言い渡されている

子息達は話を一切聞いていない  藩の言いつけを守って口外していない 
人生で歳を重ねてゆくという事は、生きてゆく中でいろんな経験を自分のなかに取り込んでゆく 
筆之丞さんが万次郎さんと一緒に遭難をした時には36歳です 万次郎さんは14歳 筆之丞さんの
知識と経験があったが故に万次郎さんは助かった
魯も舵も全部流されて、さあどうすると言ったときに、人は当然うろたえる  14歳の万次郎さんが
一人で流されていたら一日持たなかったかも知れない
「大丈夫だ うろたえるな」の一言で残り4人の生命が決まる そういう役目が課せられている 
歳を重ねてゆくという事がどういう事なのかと言う事が、毎日小説を書けば書くほど、よくそのことを
強く思う

無名の人がこの世の中に、果たしてくれる力です  名前のある人は、その名前に従って何か言って
いればいいのです
圧倒的な人は無名の人達です  名前が通っていなかったからといってその人の人生が無意味かと
言ったらとんでもない
名もない人が積み重ねて行っている事で、今の世が成り立ってる
名前のある人が何かやることは、ほんのひとかけらです  中には名前のある人が心得違いをして
、とんでもないことをやる人も出てくる
大事なことは、俺は人に見られている、俺の背中を見て生きかたを学ぼうとしている奴が何人もいる 
そのことを自覚して恥ずべきことを
己で慎んでゆくという事です 
 
人に讃えてもらえなくても、人に名を知られなくても、その人がやってきたという事は、必ず誰かは
見ています
その見ていた者が感銘を覚えれば、必ず次の人間に伝えます  
そうやって時代のバトンが受け渡されてゆくんです
このラジオ深夜便のリスナーの多くの人達がそういう役目を背負っている 
次の世代に渡してやる為のバトンを自分で握っている人達です
その伝わったものが芽をふけば、やがて花が咲き、実を結んで後の世代に受け継がれてゆきす
若い人達の是非良い手本になってやって下さい