横山秀夫(作家) ・ラジオ深夜便のつどいin前橋
横山さんの代表作の一つ「64」が海外で翻訳されて、広く親しまれています。
今年ドイツミステリー小説海外部門で第1位に選ばれるなど欧米各地で高い評価を受けています。
そして横山さんは7年振りの新刊「ノースライト」が発表され話題になっています。
東京都出身、62歳、大学卒業後1979年上毛新聞社に入社。
以後12年間記者として勤務、34歳の時に「ルパンの消息」が第9回サントリーミステリー大賞佳作を受賞したことを契機に退社、作家活動に入る。
1998年に「陰の季節」で第5回松本清張賞を受賞し、その後も次々に話題作を発表しました。
講演会、「物語でしかかけない真実、群馬の記者時代が出発点だった」と題して伺っています。
「ノースライト」では、主人公は家の設計をする1級建築士、子ども時代はダムの工事現場で働く両親に連れられてあちこち点々と渡りをしていたという設定です。
ノースライトとは主人公の青瀬が自信を持って作り上げた家の特徴を表しています。
北側から家の中に注ぐ柔らかい光のことです。
その家族が家の完成後に入居していない。
ブルーノ・タウトの作品に良く似た椅子だけが置かれていた、と言うのがミステリーになっている。
ブルーノ・タウトは群馬県にゆかりのある有名なドイツの建築家。
「旅」と言う雑誌に連載を始めたのが、10何年も前でした。
高崎市のマンションに一人で借りていて 2,3年部屋にこもって書いていました。
心筋梗塞で入院したが戻っても、同様な状況で、最期まで一生ここから出られないのではないかと言う様な思いでした。
人間がそこに住むと言う事はどういう事だろう、みたいなことを深刻に考えていました。
定住しない生き方などを考えて建築家の方々の話を聞いて「ノースライト」と言う作品になりました。
記者時代に群馬県はくまなく回りましたし、愛着が深くて、記者をやめたときには東京に帰るという選択肢もありましたが、群馬県に住むことになりました。
書くことは特技だと子ども時代から思っていまして、上毛新聞に入れてもらいました。
最初は警察担当の記者でしたが、聞いた途端に飛び出してしまうことから、あだ名が「かっ跳びの横山」と言われたようです。
横山は事件記者になるために生まれてきた様な男だと、言われる様な記者であったことは確かですね。
段々と齟齬が生じてきて、34歳の時に辞めました。
自分自身に正義感、使命感と言うようなことが足りないと言う事に気付いたことが一つ。
犯罪者を紙面で断罪したりすることが、はたして資格が自分にあるのかと言うのが疑問の一つでした。
もう一つは新聞、メディアは人の心を世の中に伝えるのが苦手なメディアなんだと言う事を痛感したと言うのが二つ目の理由でした。
真実、事実は点のような研ぎ済まされたものでないといけないと言うような感覚に陥るが実際には真実、事実と言うものは面積があるものと言うふうに私は考えます。
小説では人間の心理を追うと言う意味では、小説の主人公は羨ましいなあと思ったりします。
記者と違って作家になってからは何かを書く為に誰かに取材に行くと言うことはめったにしない。
事実と想像をふくらまして書いた事の段差をいかに無くして一つのものとして見せるかと言うのが小説の或る意味技術であると思います。
割れる様な食器を買ってくれなかったとう事を書くだけならば、ノンフィクションで書けばいいと言う事で、人の気持ちが絡んだと言うことになればいくら事実を積み重ねても真実にはならないと言うのが、私の記者をやった最終結論です。
映像は人間を見せているが、人間は悲しいかな演技する動物です。
人間は相手の人の期待に応えようとする動物で、なにを自分に期待しているかはひしひしと感じるものなので、カメラも取材陣も無いたった一人だったらどういう状況で居るかという事は考えます。
小説の中には13歳の少女が出るが、雑談で聞いたりするが、最終的には自分以外の人は想像の産物だと思うところから始めます。
父親の側から見た13歳のひな子と言うのが一つの造形としてああいう形で現れいると言うことです。
追い詰められた時にひょっと頭に周りに現れる、あれあれとか、そうなると前と矛盾してしまうんじゃないのと本当に言うんです。
自分の意識と繋がっているんだと思います。
更に追い詰められるとその「ぴよぴよ」がいっぱい出てくるわけです。
ぴよぴよ云うんで「ぴよぴよ」と名付けたんですが。
意識下と意識の表層が繋がっているんだと思います。
「ノースライト」の時には最期の一回だけ出てきました。
自分の頭の中にある事だけで全てを担うと言うそういうやり方なので、逆に広く様々な情報は自分の耳に目には入れる様にしていて、後は常識を疑うと言う事が一番重要ですかね。
自分以外の人間が自分とは違う人間だと言う事を、発見するまでの過程を書くのがミステリーだと思っているので、自分の物差しで人を計ろうとしているのですが、実際には違うんだと言う事を気付くという過程がミステリーだと言うふうに自分では思っています。
エネルギーと言う事であるならば、おそらく負のエネルギーの方が人間の心の中のエネルギーとしては強いと思う、悔しさ、恨みとか負のエネルギーは正のエネルギーよりも圧倒的に強いと思う。
負のエネルギーですらエネルギーなんだから正のエネルギーへの転嫁装置を作ることが、
思っていたことの一つですね。
負のエネルギーを負のエネルギーとして放出したら、結局自分に返ってくるのはその何倍もの負のエネルギーだと言うことですね
正のエネルギーに変えて行くのは自己点検ですね。
自分がどういう状況にあるかと言う事を、知っているか知らないかと言う事だと思います。
組織の中にいると染まっていくことがあるかもしれないが、おかしいなとか、辛いなと思った時には自己点検することだと思います。
気が付かないまま負のエネルギーを膨らましてゆくと負の雪だるま人間になってしまう、それこそ恐ろしい。
「64」は組織と個人の小説で、個人が組織体を認めたうえでどう生きて行くかと言うのが一つの大きなテーマで、欧米人の個人主義が進んでいる、欧米の人達がはたして主人公の気持ちが判るか懐疑的だったが、自分たちにもそう言った事が底流にあると言っていました。
普遍性と言うことに対して、深堀して物語を作っていきたいと思っています。
(記載不足で上手く纏められなくて、理解しにくい所が多々あると思いますが、ご了承ください。)
2019年5月31日金曜日
2019年5月30日木曜日
重森千靑(作庭家) ・三代目、我が道を行く
重森千靑(作庭家) ・三代目、我が道を行く
61歳、昭和を代表する著名な作庭家三玲(みれい)さんを祖父に、同じ作庭家である完途(かんと)さんを父に持ちます。
千靑(ちさを)さんは大学を卒業後、作庭家としての道を歩みます。
現在は東京と京都を拠点に日本庭園の設計と庭園師の研究をされながら庭園を身近に感じ、理解を深めてもらおうとホームページで、日本庭園の情報を発信したり講演や講師の活動を広く行っています。
重森さんは自分は3代目と言われるが、自分のすべきことを見付けて自分の道を歩んでいるとおっしゃいます。
重森の家は長男が継いでゆくと言うか、重要視されていました。
私は次男なのでそういう事はやらなくてもいいんだろうとずーっと思っていました。
オートバイの草レースにはまり込んで、古いバイクで出られるレースがあって、古いバイクを改造してサーキット用に仕上げて行ったりしていました。
プロと一緒に走った時に絶対太刀打ちできないと思いました。
16歳の時にオートバイで旅をすることに引きずり込まれました。
オートバイをいじっているとパーツ代にお金がかかるので、アルバイトをまた次に何かしようと思っていました。
「つくばい」と言う本、父がそれを出すと言う事で実測をしていましたが、人数が足りないから来ないかと言われて、一緒に行きました。
(つくばい=手を清めるために置かれた背の低い手水鉢に役石をおいて趣を加えたもの。)
その時の場所が凄いところばかりで非公開で、京都のお茶の藪之内流と言う流派の路地のつくばいの実測、表千家、裏千家、武者小路千家の3千家のうちの武者小路千家へ丸々一日行って実測したり、桂離宮にあるつくばいが沢山ありますが、それを実測したりだとかやりました。
今でもやりたいと思う凄くいい仕事でした。
陽の射し方が刻々変わって言って、庭園っていいものだなと思いました。
なんとなく引きずりこまれて行って、気が付いたらどっぷりはまっていました。
長男は大学の時にやらないと言っていました。
私は大学は文学部でした。
父は「間違っても造園科などに行くなよ」と言われました。
重森の家の庭の考え方はちょっと違うからと言われました。
28歳の時に東京の父の家の庭木が繁茂し過ぎていたので植木屋を呼んだが、その人は重森にかつて居た人でした。
息子さんが来てくれればと言う事で5年位一緒にやらせていただきました。
実際の物を作る立場から見ると全然見方が違ってきました。
理論的なものだけだと細かいものが見られないが、気が付く事が出来ました。
親方からは「見えない所ほど丁寧にやれ」と言われました。
その後1年間父のカバン持ち的な事をやりましたが、1年経たないうちに父が亡くなってしまいました。
突き放されてしまったような状態で、でもそれでいまの自分があるのかなあと思います。
祖父、父に対するプレッシャーは凄くありました。
どうやって行くかはおいおい考えて行くしかないと思いました。
一般の人に日本庭園ってこんなものですよと、判りやすく伝えられる仕事も一つの仕事なんではないかと思いました。
1995年あたりからインターネットがぽつぽつ始まり、世界の情報が得られることが凄いと感じました。
自分から発信すると言う事が凄いと思って、日本庭園の情報発信をしていこうと思いました。
重森の3人目のやり方が少し確立できたんかなと思いました。
祖父が200庭以上、父が100庭以上やって、私は今50庭位です。
北は秋田県、西は姫路です。
作品も最初力が入り過ぎていて、段々肩の力が抜けて行っていると言う感じです。
京都の松尾大社の庭園は最初祖父がつくって、池の庭の部分は祖父が倒れて未完成部分で父に依頼されたが、祖父の設計部分をやることに対しては父がやらなければいけないと言う事に対して厭だったようです。(比較されて見られる)
父は出来るだけ自分の考え方を捨てて作り上げました。
そのかたわらを私が担当することになりましたが、長老さん達から方ことごとく言われたのは「君の石の組み方は、三玲さんだな」と言われました。
京都の真正極楽寺(通称真如堂)に10年前ぐらいに庭園を作ったのですが、そこにある材料を生かして作りたいと思って、作り上げましたが、綺麗な庭園にまとまったねと言われました。(「随縁の庭」)
「肩の力が抜けてきている」という意味合いは、石の組み方、植栽の扱い方、地割りといいますが、庭全体を直線と曲線を融合させながら作って行く、意味があって、自分の中で経てきた人生観の中で今答えを持って、それを表現できるようになったと言う事が大きかったと思います。
絵画,彫刻などは自分が作りたいと思う作品を作るが、依頼者があり自分のお金で作るわけではないので、庭園の場合はそれができないところがある。
石を中心にした庭作りで維持管理に手間がかからないようにと言うのが重森の考え方でした。
植物は伸びるし、草取りはしなければいけないし、水やりを必ずしなければいけないし、庭園は愛情を持って接していかないとダメになってしまうので、できるだけ維持管理が最小限でプロの手を余り入れなくても、綺麗な状態を保つことができることが重森の特徴だと思います。
松が主流で、広葉樹では伸びるのが早くて、年一回は剪定が必要なので時と場所に寄ります。
祖父は四国で取れる緑泥片岩(緑色片岩)は美しいと言う事で昭和15年に作り始めた庭園から青石一辺倒になり、父も同様でした。
違った指向でいきたいと思って、地元の石を中心にしようと思いました。
京都ではチャートと言う岩石が取れますので、京都で庭作りではチャートを中心とした物にしたりしています。
竜安寺はチャートと青石が半分ずつ組まれています。
石は基本的には加工しないで行い、岩組みといいます。
山岳風景、鶴や亀を表したり、自然の姿のままで身立てて作り上げて行く、これが庭作りをやっていて一番面白いと思います。
石と対話をする、そういうことに繋がってきます、石の思いを聞き取って庭作りをして行くとその庭は綺麗になる訳です。
「作庭記」にはそう言った事が書かれています。
歳を取って来ると、「石が呼んでくれる」と言う事がなんとなくあります。
そういう時には対話が出来たなあと、本当に嬉しいですね。
次のステップとしては海外でも日本庭園を深く理解してもらうように積極的に活動していきたいと思います。
庭園を通して文化交流ができればいいと思います。
61歳、昭和を代表する著名な作庭家三玲(みれい)さんを祖父に、同じ作庭家である完途(かんと)さんを父に持ちます。
千靑(ちさを)さんは大学を卒業後、作庭家としての道を歩みます。
現在は東京と京都を拠点に日本庭園の設計と庭園師の研究をされながら庭園を身近に感じ、理解を深めてもらおうとホームページで、日本庭園の情報を発信したり講演や講師の活動を広く行っています。
重森さんは自分は3代目と言われるが、自分のすべきことを見付けて自分の道を歩んでいるとおっしゃいます。
重森の家は長男が継いでゆくと言うか、重要視されていました。
私は次男なのでそういう事はやらなくてもいいんだろうとずーっと思っていました。
オートバイの草レースにはまり込んで、古いバイクで出られるレースがあって、古いバイクを改造してサーキット用に仕上げて行ったりしていました。
プロと一緒に走った時に絶対太刀打ちできないと思いました。
16歳の時にオートバイで旅をすることに引きずり込まれました。
オートバイをいじっているとパーツ代にお金がかかるので、アルバイトをまた次に何かしようと思っていました。
「つくばい」と言う本、父がそれを出すと言う事で実測をしていましたが、人数が足りないから来ないかと言われて、一緒に行きました。
(つくばい=手を清めるために置かれた背の低い手水鉢に役石をおいて趣を加えたもの。)
その時の場所が凄いところばかりで非公開で、京都のお茶の藪之内流と言う流派の路地のつくばいの実測、表千家、裏千家、武者小路千家の3千家のうちの武者小路千家へ丸々一日行って実測したり、桂離宮にあるつくばいが沢山ありますが、それを実測したりだとかやりました。
今でもやりたいと思う凄くいい仕事でした。
陽の射し方が刻々変わって言って、庭園っていいものだなと思いました。
なんとなく引きずりこまれて行って、気が付いたらどっぷりはまっていました。
長男は大学の時にやらないと言っていました。
私は大学は文学部でした。
父は「間違っても造園科などに行くなよ」と言われました。
重森の家の庭の考え方はちょっと違うからと言われました。
28歳の時に東京の父の家の庭木が繁茂し過ぎていたので植木屋を呼んだが、その人は重森にかつて居た人でした。
息子さんが来てくれればと言う事で5年位一緒にやらせていただきました。
実際の物を作る立場から見ると全然見方が違ってきました。
理論的なものだけだと細かいものが見られないが、気が付く事が出来ました。
親方からは「見えない所ほど丁寧にやれ」と言われました。
その後1年間父のカバン持ち的な事をやりましたが、1年経たないうちに父が亡くなってしまいました。
突き放されてしまったような状態で、でもそれでいまの自分があるのかなあと思います。
祖父、父に対するプレッシャーは凄くありました。
どうやって行くかはおいおい考えて行くしかないと思いました。
一般の人に日本庭園ってこんなものですよと、判りやすく伝えられる仕事も一つの仕事なんではないかと思いました。
1995年あたりからインターネットがぽつぽつ始まり、世界の情報が得られることが凄いと感じました。
自分から発信すると言う事が凄いと思って、日本庭園の情報発信をしていこうと思いました。
重森の3人目のやり方が少し確立できたんかなと思いました。
祖父が200庭以上、父が100庭以上やって、私は今50庭位です。
北は秋田県、西は姫路です。
作品も最初力が入り過ぎていて、段々肩の力が抜けて行っていると言う感じです。
京都の松尾大社の庭園は最初祖父がつくって、池の庭の部分は祖父が倒れて未完成部分で父に依頼されたが、祖父の設計部分をやることに対しては父がやらなければいけないと言う事に対して厭だったようです。(比較されて見られる)
父は出来るだけ自分の考え方を捨てて作り上げました。
そのかたわらを私が担当することになりましたが、長老さん達から方ことごとく言われたのは「君の石の組み方は、三玲さんだな」と言われました。
京都の真正極楽寺(通称真如堂)に10年前ぐらいに庭園を作ったのですが、そこにある材料を生かして作りたいと思って、作り上げましたが、綺麗な庭園にまとまったねと言われました。(「随縁の庭」)
「肩の力が抜けてきている」という意味合いは、石の組み方、植栽の扱い方、地割りといいますが、庭全体を直線と曲線を融合させながら作って行く、意味があって、自分の中で経てきた人生観の中で今答えを持って、それを表現できるようになったと言う事が大きかったと思います。
絵画,彫刻などは自分が作りたいと思う作品を作るが、依頼者があり自分のお金で作るわけではないので、庭園の場合はそれができないところがある。
石を中心にした庭作りで維持管理に手間がかからないようにと言うのが重森の考え方でした。
植物は伸びるし、草取りはしなければいけないし、水やりを必ずしなければいけないし、庭園は愛情を持って接していかないとダメになってしまうので、できるだけ維持管理が最小限でプロの手を余り入れなくても、綺麗な状態を保つことができることが重森の特徴だと思います。
松が主流で、広葉樹では伸びるのが早くて、年一回は剪定が必要なので時と場所に寄ります。
祖父は四国で取れる緑泥片岩(緑色片岩)は美しいと言う事で昭和15年に作り始めた庭園から青石一辺倒になり、父も同様でした。
違った指向でいきたいと思って、地元の石を中心にしようと思いました。
京都ではチャートと言う岩石が取れますので、京都で庭作りではチャートを中心とした物にしたりしています。
竜安寺はチャートと青石が半分ずつ組まれています。
石は基本的には加工しないで行い、岩組みといいます。
山岳風景、鶴や亀を表したり、自然の姿のままで身立てて作り上げて行く、これが庭作りをやっていて一番面白いと思います。
石と対話をする、そういうことに繋がってきます、石の思いを聞き取って庭作りをして行くとその庭は綺麗になる訳です。
「作庭記」にはそう言った事が書かれています。
歳を取って来ると、「石が呼んでくれる」と言う事がなんとなくあります。
そういう時には対話が出来たなあと、本当に嬉しいですね。
次のステップとしては海外でも日本庭園を深く理解してもらうように積極的に活動していきたいと思います。
庭園を通して文化交流ができればいいと思います。
2019年5月29日水曜日
サヘル・ローズ(タレント) ・【心に花を咲かせて】イランはバラの国だから
サヘル・ローズ(タレント) ・【心に花を咲かせて】イランはバラの国だから
TV、舞台で活躍しているサヘルさんはイラン人です。
私にとってイランは遠い国で、たまにニュースで知る映像には花や緑はなかったように記憶しているんですが、サヘルさんいわく、イランは薔薇の国だそうです。
サヘル・ローズと云う名前も薔薇ですよね。
この名前は養母であるフローラ・ジャスミンさんがつけてくれたもので、フローラさんが薔薇が大好きなことから名付けられたと言う事です。
実はサヘル・ローズさんは1980年代のイラン、イラク戦争の時代に生れて、孤児になり児童養護施設で暮らしていました。
学生時代からボランティア活動に熱心だったフローラ・ジャスミンさんがサヘルさんがいる児童養護施設を訪ねてサヘルさんがフローラさんになついて、「ママになって」と願ったことからフローラさんはサヘルさんを養女としたのです。
当時フローラさんは独身でした。
その後知人を頼ってサヘルさんが8歳の時に、二人は来日、その後の暮らしは苦労の連続で涙なしには聞けないものでした。
今はサヘルさんがTV、ラジオ、舞台で活躍するようになって、お母さんと二人沢山の薔薇を育てて幸せに暮らしています。
サヘルさんにイランと言う国の事、これまでの人生と薔薇の話を伺いました。
イランと言うと砂漠地帯で砂漠というイメージがあると思いますが、日本と同じように四季があります。
四季折々の花があり、季節をちゃんとお花のカレンダーで楽しむ国民性で薔薇は国花であって、ダマスカスがフランスに送られて香水になったりします。
元はほとんどイランの薔薇です。
早朝の薔薇ツアーがあり、薔薇は早朝に良い香りをするので早朝に紡いで、機械で絞りだして薔薇水を作って、それをお土産に帰ってもらいます。
至るところに薔薇が植えてあって国中が薔薇の香りがします。
バラジャムもあり、デザートの中にも必ず薔薇が添えられています。
毎晩花屋さんにいって、お父さんたちが家に帰るまえにお菓子と花束を買って帰るんです。
家族に花をプレゼントすることによって、花のようにいつも豊かで温かい気持ちでいようと、花を愛でる文化なんです。
私はフローラさんと出会い、養子縁組が成立して8歳で日本に来ました。
「おしん」を見て育ってきたので、日本に来たら全然違って衝撃でした。
公園で生活しなければいけない時期もあり、食べ物も無かったり、色んな過酷な環境で生活してきましたが、いつも私の手を握ってくれていたお母さんフローラの存在が大きかったです。
どうして余り苦しいと感じなかったかと言うと、育ててくれたお母さんが本当に苦しい事があっても、彼女が全部受け止めてくれて、私にはそれを感じさせないようにしました。
お母さんは身を削って、働いたり、食べ物を与えてくれたり、冬場でも穴の空いた着物を着て、私には綺麗な洋服を買ってくれて、私が頑張るのは貴方が普通の子として生きて行ってほしいし、生活させたいからとすべてを犠牲にして私を育てて下さった人です。
「自分は血は繋がってないけれど、サエルを世界一愛してる自信がある」と言ってくれて、その言葉は凄くうれしかったです。
いつも一人ぼっちで、血のつながりって良いなあと思っていましたが、大人になるにつれて血のつながりだけがすべてではない、心で繋がる事がすごく大事だと思いました。
心で繋がり合っているので不思議と顔、声、喋り方がお母さんに似てきたなと思います。
或る時、お母さんから言われたのは「サヘル、お願いがある。 次生まれ変わった時にはお母さんのお腹の中から出て来てくれる。 お願い」と言われました。
本当に全てを愛してくれているんだなあと思い、どんな親子よりも彼女との親子関係を誇りに思っています。
お母さんを心配させたくないと思って、本当に苦しい時に或る時からお母さんの前で優等生の自分を演じるようになっていました。
お母さんは強い人だと思っていましたが、或る時に家でお母さんが一人で泣いている姿を見た時に、母親も私の為を思って優等生のお母さんを演じていて、大人だから泣いてはいけないと思ってしまうけれど、そんなことは本当はない、どこかで心の中にもっているチャイルドは誰しも持っている物で、苦しい時に苦しいと言える環境って、お互いに作る事ってすごく大切で、私はそれを気付いてあげられなかった。
苦しい事は苦しいと言っていいんだと言う事を母に云えた時に、お母さんも本当の姿を見せてくれて、やっとお互い理解しあえました、それが中学3年生でした。
それまでは偉大なお母さんだと言う事があり、プレッシャーを感じながら生きてきました。
私も頑張り過ぎて心が崩壊した時がありました。
頑張ると言う言葉はあまり好きではなくて、いい加減に生きることも大切です。
加減を見て生きると言う事も、人生の中で学んでいくことも大切かなと思います。
「あなたとわたし」という詩集を出しました。
私も居るけれど貴方と言うもう一人の自分がある、どちらも認めてほしいと思っているんです。
愛されたいと思っている時期があって、どこかで不安を感じながら生きていた幼少期の時に、全体を通して出さなかった自分の心の弱さをいつも文章で溜めていました。
国民性でイランの人はみんな詩人です。
言葉に対して敏感な国民性です、詩を愛でる国です。
学校の授業でも詩を書きます。
去年一冊の詩集にする機会を得ました。
私が持っている闇とか孤独は決して汚いものではない、人の孤独や闇は誰しも抱えているもの、それを私は言葉にして提示することによって、それぞれが思っている孤独や闇は決してマイナスではなくて、仲間がいるんだと言う事を思ってもらいたいと思ってこの本を書きました。
最初のページが「私を愛してほしい」、最期のページが「あなた自身を愛してほしい」表表紙と裏表紙になっています。
自分を愛した時にやっと人が愛せるんですよね。
弱さは長所に変えられる、強くなる必要はない。
弱い自分自身もたいせつに包んでほしいとの思いでこの一冊を書きました。
お母さんが居てやっと私が存在する。
苦しかった人生だったのかもしれないけれども、良い経験をしたなと思います。
幼少期、養護施設で生活したこと、家が無かった時代、ご飯が無かった事、いじめられたことも全部今の私を作ってくれた土台、血となり肉となっているので、いい人生だったと振り返られる様な大人になれたので良かったです。
悩みながら出会った方々に救われました。
一人では決して人間一人では生きていなくて、誰かが必ずどこかで背中を押してくれたり支えてくれたりする人がいるから、人は生きられるものだと思っています。
お母さんもそうですが、多くの日本の方々に救われて育ててもらった人生なんです。
公園で生活している時にも家にかくまってくれたのも給食のおばさんですし、ご飯が無い時にもスーパーで働いている人がご飯をくれたり、全てが人と人がつなげてくれたご縁によって生かされてきて、ペルシャ絨毯に例えると縦の糸と横の糸が重なって人生が織り込まれていくことで私と言う絨毯が完成されてゆく、色んな糸を貰って自分の人生を作っているんだなあと思います。
お母さんが「今は自慢の娘だ」と言ってくれるのが何よりうれしいです。
今度は私が仕事をするようになり、これからはお母さんには好きなことをやってもらいたいと思います。
お母さんは日本語、社交ダンスを習いたいと言う事で通っていて、ガーデニングもしたいという事でお母さんのやりたいことをさせてあげたりとそれをエネルギーにしています。
お母さんは「私がいなくてもこのお庭には私の魂があるから、ここでお母さんの事を思い出してほしい、この庭はそのためのお庭」と言われました。
今私は110種類の薔薇を育てています。
お母さんは「そこにもう一個のお母さんの夢を叶えて欲しい、サヘル・ローズという薔薇をつくって、それがお母さんの最期の願い」と言われ、叶えてあげたいと思います。
お母さんと共に施設の子どもたちに対しても支援をしているので、仕事を頑張っていきたいと思います。
4万5000人以上の子どもたちが社会的養護化で自分の家では生活ができないので施設、里親、乳児院に受け入れられているその数で、心のどこかに傷を負ったり、一人ぼっちになったりしていて、その子たちと対話をしたり旅行に連れて行ったりすることをお母さんと二人でやっています。
誰か信じてくれる大人がいれば人間って必ず変われる、それをお母さんから学んだので、今度は私が子どもたちと触れ合って行く中で、誰か信じてくれる大人がいて必ず人間は這い上がってこれるんだと、やれることが自分にはあるんだと自信を持ってもらいたいんです。
そういうローズモデルを世界中に作りたいんです。
その子どもたちに私の生い立ち、人生の話をします。
ハーフというのではなく純粋な外国人で日本の芸能界でやってゆくにはとても大変でした、ルビー・モレノさんと私ぐらい、でとっても苦労をしました。
日本人に似た顔つきであまり役がなく、やれるのは死体役ぐらいだねと言われて、5,6年死体役をやっていましたが、どこかで負けたくないと言う思いがありました。
がんばってきた結果自信があると言う事を自分の経験があるからこそ胸を張って言えるんです。
周りができないと言う周りの言葉は信じなくていい、貴方自身がやれるよ思って信じれば変われる、自分自身を信じることがまず大事、自分で道を切り開くことは出来るんだと言う事を子どもたちに経験を通して伝えたい。
よく強いんですねと言われるが、本当は弱いんです。
昔だったら隅っこで膝を抱えている子でしたが、大人になってこうして泣けている自分って良い事なんだなと思います、泣きたい時に泣く事ってすごく大切です。
泣きたいときに泣こうって思いました。
幸せを置き去りにしないためにも、自分の弱さ、辛さと向き合う事、毎日感謝をすることは凄く大事です。
最近感謝ノートを作りました、毎日その日その人の事を思い浮かべて誰にどういう感謝をしたかと言う事を5つ書くようにしています。
苦しい事の方が記憶に残る、幸せはどこかで凄い勢いで走って行く。
幸せの背中を見届けてあげた時に、ちゃんと幸せも走ってくれているからこそ、苦しいと思ってる辛い子の手も握ってあげられたら、この子の辛いと思っている背中を押してあげたら、今度前にもって行った時に辛さが幸せにくるタイミングが来ると思っています。
「私は貴方の視線から生れた」、という言葉を大事にしています。
お互いに目を合わせてその人の瞳に映っている自分を確かめてやっと自分が存在することを感じますので、なるべくその人をちゃんと見たいし、名前を確かめたいし、その人が存在している事を確かめてそれを声にだして伝えたい。
私は言霊の力を信じているので、なるべく出会った人の名前を確認したいと思います。
どんなに朝早くても母は玄関先で私のほっぺにキスをして、手を握って33歳の娘を送ってくれるんです。
母は「私にとっては最初に出会った時のずーっと7歳の小さなサエルだよ」、と言ってくれるんです。
母はずーっと私を育てるために必死で働いたので結構一人ぼっちなんです。
ガーデニングをするようになって声をかけてくれる人がいろいろ出来て、花が人とのコミュニケーションのツールになったんです。
お花が欲しいリスト表が出来ていて今順番待ちになっています。
お庭が集う場所になりました。
私にとっての夢はお母さんの名前を歴史に残すことです、こういうお母さんに育ててもらってこういう親子がいたと言う事を歴史に残したいと思います。
それを世界中にたたえたい、そのためにはもっと自分が大きな人間になって、いつかアカデミー賞を取ってオスカー像を御母さんにプレゼントしたい。
受賞のスピーチは世界中に発信されるので、お母さんの感謝の気持ちを述べたいのと、悩んでいる子供たちに対していい意味でローズモデルになれたらいいなあと思いますし、もっともっと自分自身が大きくなって児童養護施設、バングラディッシュのこと、社会の現状を伝えたい。
私の人生は人の為になにかをしたい人生で在りたい、偽善者と言われてもいい、人を幸せにしたい、人の幸せを見てやっと自分が幸せになれるので。
TV、舞台で活躍しているサヘルさんはイラン人です。
私にとってイランは遠い国で、たまにニュースで知る映像には花や緑はなかったように記憶しているんですが、サヘルさんいわく、イランは薔薇の国だそうです。
サヘル・ローズと云う名前も薔薇ですよね。
この名前は養母であるフローラ・ジャスミンさんがつけてくれたもので、フローラさんが薔薇が大好きなことから名付けられたと言う事です。
実はサヘル・ローズさんは1980年代のイラン、イラク戦争の時代に生れて、孤児になり児童養護施設で暮らしていました。
学生時代からボランティア活動に熱心だったフローラ・ジャスミンさんがサヘルさんがいる児童養護施設を訪ねてサヘルさんがフローラさんになついて、「ママになって」と願ったことからフローラさんはサヘルさんを養女としたのです。
当時フローラさんは独身でした。
その後知人を頼ってサヘルさんが8歳の時に、二人は来日、その後の暮らしは苦労の連続で涙なしには聞けないものでした。
今はサヘルさんがTV、ラジオ、舞台で活躍するようになって、お母さんと二人沢山の薔薇を育てて幸せに暮らしています。
サヘルさんにイランと言う国の事、これまでの人生と薔薇の話を伺いました。
イランと言うと砂漠地帯で砂漠というイメージがあると思いますが、日本と同じように四季があります。
四季折々の花があり、季節をちゃんとお花のカレンダーで楽しむ国民性で薔薇は国花であって、ダマスカスがフランスに送られて香水になったりします。
元はほとんどイランの薔薇です。
早朝の薔薇ツアーがあり、薔薇は早朝に良い香りをするので早朝に紡いで、機械で絞りだして薔薇水を作って、それをお土産に帰ってもらいます。
至るところに薔薇が植えてあって国中が薔薇の香りがします。
バラジャムもあり、デザートの中にも必ず薔薇が添えられています。
毎晩花屋さんにいって、お父さんたちが家に帰るまえにお菓子と花束を買って帰るんです。
家族に花をプレゼントすることによって、花のようにいつも豊かで温かい気持ちでいようと、花を愛でる文化なんです。
私はフローラさんと出会い、養子縁組が成立して8歳で日本に来ました。
「おしん」を見て育ってきたので、日本に来たら全然違って衝撃でした。
公園で生活しなければいけない時期もあり、食べ物も無かったり、色んな過酷な環境で生活してきましたが、いつも私の手を握ってくれていたお母さんフローラの存在が大きかったです。
どうして余り苦しいと感じなかったかと言うと、育ててくれたお母さんが本当に苦しい事があっても、彼女が全部受け止めてくれて、私にはそれを感じさせないようにしました。
お母さんは身を削って、働いたり、食べ物を与えてくれたり、冬場でも穴の空いた着物を着て、私には綺麗な洋服を買ってくれて、私が頑張るのは貴方が普通の子として生きて行ってほしいし、生活させたいからとすべてを犠牲にして私を育てて下さった人です。
「自分は血は繋がってないけれど、サエルを世界一愛してる自信がある」と言ってくれて、その言葉は凄くうれしかったです。
いつも一人ぼっちで、血のつながりって良いなあと思っていましたが、大人になるにつれて血のつながりだけがすべてではない、心で繋がる事がすごく大事だと思いました。
心で繋がり合っているので不思議と顔、声、喋り方がお母さんに似てきたなと思います。
或る時、お母さんから言われたのは「サヘル、お願いがある。 次生まれ変わった時にはお母さんのお腹の中から出て来てくれる。 お願い」と言われました。
本当に全てを愛してくれているんだなあと思い、どんな親子よりも彼女との親子関係を誇りに思っています。
お母さんを心配させたくないと思って、本当に苦しい時に或る時からお母さんの前で優等生の自分を演じるようになっていました。
お母さんは強い人だと思っていましたが、或る時に家でお母さんが一人で泣いている姿を見た時に、母親も私の為を思って優等生のお母さんを演じていて、大人だから泣いてはいけないと思ってしまうけれど、そんなことは本当はない、どこかで心の中にもっているチャイルドは誰しも持っている物で、苦しい時に苦しいと言える環境って、お互いに作る事ってすごく大切で、私はそれを気付いてあげられなかった。
苦しい事は苦しいと言っていいんだと言う事を母に云えた時に、お母さんも本当の姿を見せてくれて、やっとお互い理解しあえました、それが中学3年生でした。
それまでは偉大なお母さんだと言う事があり、プレッシャーを感じながら生きてきました。
私も頑張り過ぎて心が崩壊した時がありました。
頑張ると言う言葉はあまり好きではなくて、いい加減に生きることも大切です。
加減を見て生きると言う事も、人生の中で学んでいくことも大切かなと思います。
「あなたとわたし」という詩集を出しました。
私も居るけれど貴方と言うもう一人の自分がある、どちらも認めてほしいと思っているんです。
愛されたいと思っている時期があって、どこかで不安を感じながら生きていた幼少期の時に、全体を通して出さなかった自分の心の弱さをいつも文章で溜めていました。
国民性でイランの人はみんな詩人です。
言葉に対して敏感な国民性です、詩を愛でる国です。
学校の授業でも詩を書きます。
去年一冊の詩集にする機会を得ました。
私が持っている闇とか孤独は決して汚いものではない、人の孤独や闇は誰しも抱えているもの、それを私は言葉にして提示することによって、それぞれが思っている孤独や闇は決してマイナスではなくて、仲間がいるんだと言う事を思ってもらいたいと思ってこの本を書きました。
最初のページが「私を愛してほしい」、最期のページが「あなた自身を愛してほしい」表表紙と裏表紙になっています。
自分を愛した時にやっと人が愛せるんですよね。
弱さは長所に変えられる、強くなる必要はない。
弱い自分自身もたいせつに包んでほしいとの思いでこの一冊を書きました。
お母さんが居てやっと私が存在する。
苦しかった人生だったのかもしれないけれども、良い経験をしたなと思います。
幼少期、養護施設で生活したこと、家が無かった時代、ご飯が無かった事、いじめられたことも全部今の私を作ってくれた土台、血となり肉となっているので、いい人生だったと振り返られる様な大人になれたので良かったです。
悩みながら出会った方々に救われました。
一人では決して人間一人では生きていなくて、誰かが必ずどこかで背中を押してくれたり支えてくれたりする人がいるから、人は生きられるものだと思っています。
お母さんもそうですが、多くの日本の方々に救われて育ててもらった人生なんです。
公園で生活している時にも家にかくまってくれたのも給食のおばさんですし、ご飯が無い時にもスーパーで働いている人がご飯をくれたり、全てが人と人がつなげてくれたご縁によって生かされてきて、ペルシャ絨毯に例えると縦の糸と横の糸が重なって人生が織り込まれていくことで私と言う絨毯が完成されてゆく、色んな糸を貰って自分の人生を作っているんだなあと思います。
お母さんが「今は自慢の娘だ」と言ってくれるのが何よりうれしいです。
今度は私が仕事をするようになり、これからはお母さんには好きなことをやってもらいたいと思います。
お母さんは日本語、社交ダンスを習いたいと言う事で通っていて、ガーデニングもしたいという事でお母さんのやりたいことをさせてあげたりとそれをエネルギーにしています。
お母さんは「私がいなくてもこのお庭には私の魂があるから、ここでお母さんの事を思い出してほしい、この庭はそのためのお庭」と言われました。
今私は110種類の薔薇を育てています。
お母さんは「そこにもう一個のお母さんの夢を叶えて欲しい、サヘル・ローズという薔薇をつくって、それがお母さんの最期の願い」と言われ、叶えてあげたいと思います。
お母さんと共に施設の子どもたちに対しても支援をしているので、仕事を頑張っていきたいと思います。
4万5000人以上の子どもたちが社会的養護化で自分の家では生活ができないので施設、里親、乳児院に受け入れられているその数で、心のどこかに傷を負ったり、一人ぼっちになったりしていて、その子たちと対話をしたり旅行に連れて行ったりすることをお母さんと二人でやっています。
誰か信じてくれる大人がいれば人間って必ず変われる、それをお母さんから学んだので、今度は私が子どもたちと触れ合って行く中で、誰か信じてくれる大人がいて必ず人間は這い上がってこれるんだと、やれることが自分にはあるんだと自信を持ってもらいたいんです。
そういうローズモデルを世界中に作りたいんです。
その子どもたちに私の生い立ち、人生の話をします。
ハーフというのではなく純粋な外国人で日本の芸能界でやってゆくにはとても大変でした、ルビー・モレノさんと私ぐらい、でとっても苦労をしました。
日本人に似た顔つきであまり役がなく、やれるのは死体役ぐらいだねと言われて、5,6年死体役をやっていましたが、どこかで負けたくないと言う思いがありました。
がんばってきた結果自信があると言う事を自分の経験があるからこそ胸を張って言えるんです。
周りができないと言う周りの言葉は信じなくていい、貴方自身がやれるよ思って信じれば変われる、自分自身を信じることがまず大事、自分で道を切り開くことは出来るんだと言う事を子どもたちに経験を通して伝えたい。
よく強いんですねと言われるが、本当は弱いんです。
昔だったら隅っこで膝を抱えている子でしたが、大人になってこうして泣けている自分って良い事なんだなと思います、泣きたい時に泣く事ってすごく大切です。
泣きたいときに泣こうって思いました。
幸せを置き去りにしないためにも、自分の弱さ、辛さと向き合う事、毎日感謝をすることは凄く大事です。
最近感謝ノートを作りました、毎日その日その人の事を思い浮かべて誰にどういう感謝をしたかと言う事を5つ書くようにしています。
苦しい事の方が記憶に残る、幸せはどこかで凄い勢いで走って行く。
幸せの背中を見届けてあげた時に、ちゃんと幸せも走ってくれているからこそ、苦しいと思ってる辛い子の手も握ってあげられたら、この子の辛いと思っている背中を押してあげたら、今度前にもって行った時に辛さが幸せにくるタイミングが来ると思っています。
「私は貴方の視線から生れた」、という言葉を大事にしています。
お互いに目を合わせてその人の瞳に映っている自分を確かめてやっと自分が存在することを感じますので、なるべくその人をちゃんと見たいし、名前を確かめたいし、その人が存在している事を確かめてそれを声にだして伝えたい。
私は言霊の力を信じているので、なるべく出会った人の名前を確認したいと思います。
どんなに朝早くても母は玄関先で私のほっぺにキスをして、手を握って33歳の娘を送ってくれるんです。
母は「私にとっては最初に出会った時のずーっと7歳の小さなサエルだよ」、と言ってくれるんです。
母はずーっと私を育てるために必死で働いたので結構一人ぼっちなんです。
ガーデニングをするようになって声をかけてくれる人がいろいろ出来て、花が人とのコミュニケーションのツールになったんです。
お花が欲しいリスト表が出来ていて今順番待ちになっています。
お庭が集う場所になりました。
私にとっての夢はお母さんの名前を歴史に残すことです、こういうお母さんに育ててもらってこういう親子がいたと言う事を歴史に残したいと思います。
それを世界中にたたえたい、そのためにはもっと自分が大きな人間になって、いつかアカデミー賞を取ってオスカー像を御母さんにプレゼントしたい。
受賞のスピーチは世界中に発信されるので、お母さんの感謝の気持ちを述べたいのと、悩んでいる子供たちに対していい意味でローズモデルになれたらいいなあと思いますし、もっともっと自分自身が大きくなって児童養護施設、バングラディッシュのこと、社会の現状を伝えたい。
私の人生は人の為になにかをしたい人生で在りたい、偽善者と言われてもいい、人を幸せにしたい、人の幸せを見てやっと自分が幸せになれるので。
2019年5月28日火曜日
森田光江(ガーデンオーナー) ・花も笑顔も咲かせます
森田光江(ガーデンオーナー) ・花も笑顔も咲かせます
水辺の散歩道が自慢の東京都小平市、無料で公開されている個人の喫茶店のオープンガーデンが30か所近くあります。
その一人森田オープンガーデンは3000平方メートルを越える広大な庭に様々な花が咲き乱れています。
オーナーの森田光江さん(73歳)は土とかが趣味の御主人と花を育てて来ました。
12年前に主人をがんで亡くされ、悲しみで何も手が付かなくなっていました。
そんな森田さんを励まし立ち直らせたのが、大切に育ててきた庭の花々でした。
それからは花に愛情を注ぎ、庭を花いっぱいにしようと一年中庭に出て、草花と一緒に時間を過ごしています。
自慢のカモミールの花が見ごろを迎えた今月初め、森田さんのオープンガーデンを訪ねてお聞きしました。
この時期は最高の季節だと思っています。
約1000坪弱あります。
主人が12年前に亡くなりましたが、その頃は野菜が中心で花がちょっと植えていましたが、主人が亡くなってからは花が中心で野菜がちょっぴりとなっています。
12年前5月11日に亡くなりました。
末期がんで手の着けようがないと言われてしまいました。
長く生きても1年と言われました。
処置は出来ず水を飲むぐらいと言われて家に帰ってきましたが、その時の夫の笑顔が忘れられませんでした。
家に帰ってから1週間後に亡くなりました。
花がなかったら今の私は無いです。
沢山のお花友達もできました、本当に今は幸せです。
カモミールは野菊のような白い可憐な花で至るところに咲いていますが、モッコウバラがこれから咲いて白い滝のようになります。
お花の情報交換、それが一番幸せな時期です。
お茶の器も友達が焼いてくれます。
玉川上水の緑路に面していて恵まれています。
立ち寄って色んな人に出会っています。
外国では中国、イギリスの人達が来て話をしたりしています。
オープンガーデンの発祥の地はイギリスだそうです。
小平はオープンガーデンが多くて26軒ありそれぞれが工夫をしてます。
草取りで、どくだみ、ちやが、すぎなは最初退治していましたが、すぎなの近くにつくしがでて、そう思ったら取るのを辞めました。
ガーデンで草取り募集中と言う事でやっています。
水やりは朝2時間、夜2時間やっています。
自分より先にお花にごはんをやっています。
冬はビニールハウスでひ孫と一緒に仕事をしています。
ガラスの温室にしたかったが、ビニールハウスは父の遺品なんです。
除草剤など薬剤は使っていませんから、蜜蜂の業者さんにお貸ししています。
3月に水仙が咲き、菜の花が咲き黄色の世界になります。
今頃になるとカモミール、モッコウバラとか白の世界になります。
次にヒマワリなど黄色の世界になり、ゆりも凄いです。
ユリの切り花を売っているところからゆりの球根を貰って来ます。
3月から11月までは必ず何かが咲いています。
カモミールなど種はまいていないです、鳥が運んだりして来ます。
果物も色々なります。
1年がかりで腐葉土を作って、腐葉土を冬の間にすき込んでいるので土がふかふかです。
テーブルがあってそこで食事をして、ハンモックもあります。
東日本の大震災では被災地に花を植えに行ったり、わかめのお手伝いに行っています。
お茶代は全額寄付しています。
103歳の実の親が元気でいます。
101歳の時に転んで大たい骨を骨折して、介護付きの老人ホームに入っていますがとっても元気です。
ご飯も自分で食べるし新聞も読みます。
母の処に行くのが一番幸せです。
中学の一つ下の中島さんがボランティアで看板を作ってくれたり、テーブルを塗り替えたりしてくれます。
色んな人が手伝ってやってくれます。
昔グレープフルーツを食べ、その種を育てていた人がならないからと言う事で、ここに植えましたが20年経って今では沢山なっています。
皆さんに差し上げました。
秋には色んな果物がなります、自由にどうぞと言っています。
遠いところでは沖縄、北海道など全国から来ます。
今日はどんな方が来るかなあと思って楽しみです。
もう少し英語の勉強をしておけばよかったと思いますが、意外と手真似と単語を並べて何とか通じるところもあります。
ポットに植えて、あるいは切り花で販売しようかなと思っています。
数年前心臓を患ったが、20~30年前に貴方はこれ以上よくなりませんといわれたが、
階段を昇るのが大変だったし不整脈があったが、今は全然健康です。
夜は家で採れた野菜を食べご飯は食べないでいますが、体重も減りましたし、健康です。
新鮮な野菜は最高です。
旅で何処へ行くにも花に会いに行きます。
主人がここの元をつくってくれて感謝しています、そして皆さんに愛されるガーデンを健康で最期までやっていきたいと思っています。
水辺の散歩道が自慢の東京都小平市、無料で公開されている個人の喫茶店のオープンガーデンが30か所近くあります。
その一人森田オープンガーデンは3000平方メートルを越える広大な庭に様々な花が咲き乱れています。
オーナーの森田光江さん(73歳)は土とかが趣味の御主人と花を育てて来ました。
12年前に主人をがんで亡くされ、悲しみで何も手が付かなくなっていました。
そんな森田さんを励まし立ち直らせたのが、大切に育ててきた庭の花々でした。
それからは花に愛情を注ぎ、庭を花いっぱいにしようと一年中庭に出て、草花と一緒に時間を過ごしています。
自慢のカモミールの花が見ごろを迎えた今月初め、森田さんのオープンガーデンを訪ねてお聞きしました。
この時期は最高の季節だと思っています。
約1000坪弱あります。
主人が12年前に亡くなりましたが、その頃は野菜が中心で花がちょっと植えていましたが、主人が亡くなってからは花が中心で野菜がちょっぴりとなっています。
12年前5月11日に亡くなりました。
末期がんで手の着けようがないと言われてしまいました。
長く生きても1年と言われました。
処置は出来ず水を飲むぐらいと言われて家に帰ってきましたが、その時の夫の笑顔が忘れられませんでした。
家に帰ってから1週間後に亡くなりました。
花がなかったら今の私は無いです。
沢山のお花友達もできました、本当に今は幸せです。
カモミールは野菊のような白い可憐な花で至るところに咲いていますが、モッコウバラがこれから咲いて白い滝のようになります。
お花の情報交換、それが一番幸せな時期です。
お茶の器も友達が焼いてくれます。
玉川上水の緑路に面していて恵まれています。
立ち寄って色んな人に出会っています。
外国では中国、イギリスの人達が来て話をしたりしています。
オープンガーデンの発祥の地はイギリスだそうです。
小平はオープンガーデンが多くて26軒ありそれぞれが工夫をしてます。
草取りで、どくだみ、ちやが、すぎなは最初退治していましたが、すぎなの近くにつくしがでて、そう思ったら取るのを辞めました。
ガーデンで草取り募集中と言う事でやっています。
水やりは朝2時間、夜2時間やっています。
自分より先にお花にごはんをやっています。
冬はビニールハウスでひ孫と一緒に仕事をしています。
ガラスの温室にしたかったが、ビニールハウスは父の遺品なんです。
除草剤など薬剤は使っていませんから、蜜蜂の業者さんにお貸ししています。
3月に水仙が咲き、菜の花が咲き黄色の世界になります。
今頃になるとカモミール、モッコウバラとか白の世界になります。
次にヒマワリなど黄色の世界になり、ゆりも凄いです。
ユリの切り花を売っているところからゆりの球根を貰って来ます。
3月から11月までは必ず何かが咲いています。
カモミールなど種はまいていないです、鳥が運んだりして来ます。
果物も色々なります。
1年がかりで腐葉土を作って、腐葉土を冬の間にすき込んでいるので土がふかふかです。
テーブルがあってそこで食事をして、ハンモックもあります。
東日本の大震災では被災地に花を植えに行ったり、わかめのお手伝いに行っています。
お茶代は全額寄付しています。
103歳の実の親が元気でいます。
101歳の時に転んで大たい骨を骨折して、介護付きの老人ホームに入っていますがとっても元気です。
ご飯も自分で食べるし新聞も読みます。
母の処に行くのが一番幸せです。
中学の一つ下の中島さんがボランティアで看板を作ってくれたり、テーブルを塗り替えたりしてくれます。
色んな人が手伝ってやってくれます。
昔グレープフルーツを食べ、その種を育てていた人がならないからと言う事で、ここに植えましたが20年経って今では沢山なっています。
皆さんに差し上げました。
秋には色んな果物がなります、自由にどうぞと言っています。
遠いところでは沖縄、北海道など全国から来ます。
今日はどんな方が来るかなあと思って楽しみです。
もう少し英語の勉強をしておけばよかったと思いますが、意外と手真似と単語を並べて何とか通じるところもあります。
ポットに植えて、あるいは切り花で販売しようかなと思っています。
数年前心臓を患ったが、20~30年前に貴方はこれ以上よくなりませんといわれたが、
階段を昇るのが大変だったし不整脈があったが、今は全然健康です。
夜は家で採れた野菜を食べご飯は食べないでいますが、体重も減りましたし、健康です。
新鮮な野菜は最高です。
旅で何処へ行くにも花に会いに行きます。
主人がここの元をつくってくれて感謝しています、そして皆さんに愛されるガーデンを健康で最期までやっていきたいと思っています。
2019年5月27日月曜日
頭木弘樹(文学紹介者) ・【絶望名言】トルストイ
頭木弘樹(文学紹介者) ・【絶望名言】トルストイ
「結婚なんて決してするものではない。
そうでないと、とんでもない取り返しのつかない失敗をすることになる。
君の持っている美しい気高い資質が、すっかり駄目になってしまう。
くだらないことの為に何もかも使いはたされてしまう。」 (「戦争と平和」の一節、トルストイ)
小説を読むと退屈するけれどトルストイの人生は面白くてしょうが無い、興味が尽きない。
今回はトルストイの晩年の結婚生活の話です、これがとっても興味深い。
1828年生まれ、(江戸の後期にあたる。)1910年亡くなる。(82歳)
ほかにも
「全く結婚しないことである。
これができる人間はめったに居るものではない。
だがこれができる人間は幸福である。」
「いよいよ結婚する前に十遍でも、二十遍でも、いや百編でも考えてみる方がいい。」
凄く結婚に対する否定だが、それは自分が結婚しているからです。
34歳の時に18歳のソフィアと結婚する。
「戦争と平和」を書いている時にはうまく行っていたが、晩年になるとお互いに酷く苦しめるようになる。
82歳で家出をして小さな駅で亡くなる。
理想と現実のぶつかり合い、トルストイは理想を激しく求めるタイプ。
生れながらの貴族で身分が高くてお金もちだった。
晩年には私有財産を持つことはよくないと言う事で、領地も農民に与えて、著作権も放棄しようとしていた。
妻にしてみれば大変なことなので反対するが、世界3大悪妻に例えられている。
(病気をするとお金があるなしで切実な問題で、何にもできない人間になるとお金に綺麗なことは言っていられない、現実はシビアだと感じます。(頭木))
妻の方にしてみれば現実ががっちりあったはずで当然そう思います。
トルストイには13人子どもがいました。
「子どもは神の祝福である、子どもは喜びであると言うのはみなウソだ。
それは昔の話で今ではそんなことは全然当てはまらない。
子どもは苦しみである。
ただそれだけのことである。」 (「クロイツェル・ソナタ」の一節)
子どもがいることで子どもが夫婦の喧嘩の種になってしまう。
トルストイに娘が付いて妻に息子が付いて、子ども同士も反目し合っていた。
親がいがみ合っていると子どもにとっては、かなり不可解だと思います。
「幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである。」 (「アンナ・カレーニナ」の一節)
健康と病気の関係を直ぐ思い浮かべます、健康は一種類ですが、病気は凄く種類があります。
自分とはまったく関係ないと思っていた思いもよらないことが、突然自分のことになる。
どんな不幸が来るかわからない凄味がこの言葉にはあると思います。
トルストイは自分の日記を婚約時代からソフィアに読ませた、結婚後も読ませた。
日記を読ませることは変わっていて、赤裸々に本音が書いてありそれを妻に読ませる。
激しい色んな女性経験の話も書いてありそれは妻にとってはショックです。
理想としては夫婦関係に秘密があっては良くない、自分を受け入れてほしいと言う事だが、妻にとってはたまったものではない。
これは特殊な不幸です。
晩年になるとチェルトコフという中年男性が一番弟子のような形でついて、トルストイの言ったことを世界に広める役をしていて、これに対して妻は厭がっていた。
妻に読ませた日記の中に「私は女性に恋をした事はない。所が今までしばしば男性には恋をしてきた。」と書かれている。
チェルトコフが財産放棄とか著作権放棄を勧めていた人でもありました。
チェルトコフが来てからその後妻に日記を見せなくなる。
ソフィアとしては大変だったと思う。
秘密があってはいけないと言う事は潔癖過ぎると思いますし、晩年は日記を見せてもらえなくなる。
「私の行為はそれがどのような行為であろうと早晩全て忘れられてしまい、この私と言うものは完全に無くなってしまうのだ。
それなのになんであくせくするんだ、どうして人はこの事実に目をつぶって生きて行くことができるのか、実に驚くべきことだ。
そうだ、性に酔いしれている間だけ我々は生きることができるのだ。
が、そうした陶酔からさめると同時に、それが悉く欺瞞であり愚劣な迷いにすぎないことを求めないわけにはいかないのだ。
つまりこの意味において人生には面白い事や可笑しい事など何にもないのだ。
ただもう残酷で愚劣なだけなのである(「懺悔」の一節)
懺悔はトルストイの本音が書かれていて吃驚する。
トルストイは若いころはよくないことを一杯している、ギャンブル、酒、女、さんざんです。
家族、名声、財産、才能、健康など全部揃っている訳です。
だけど虚しい、それは結局死んでしまう。
あと身近な人が沢山亡くなっている。
母親を2歳で亡くして、9歳で父親を亡くして、お婆さんに引き取られるがお婆さんも翌年亡くなって、伯母さんにひきとられるが伯母さんも亡くなり、兄のニコライも結核で亡くなって、13人の子どもも5人は幼くして亡くなる。
お気に入りの次女のマリアも35歳の若さで亡くなる。
死んだら虚しいと言う思いがどうしてもなる、そういう虚しさに晩年とらわれる。
全て満たされても最期に残るのが、死と言う問題なんです。
トルストイが東洋の寓話だと言って紹介しているものがある。
「猛獣に追いかけられて井戸に飛び込むが、井戸の底には龍が口を開けて待っている。
井戸の側面の草にしがみつく。 そうすると2匹の鼠が草をかじってそのままでは下に落ちるしかない。
しかし、掴まっている草に花が咲いていて、蜜がたまっていてそれを舐めるわけで、蜜のおいしさに夢中になることが生きることに夢中になることだと、でも今こんな状態なんだと気付いてしまうと、蜜の甘いおいしさなんて感じることが出来ない、今自分は気付いてしまったと、そういうふうに言っています。
我々も蜜の味に執着するか、蜜の味がしないか。
今の人生の楽しみをなるべく味わってどうせ死ぬんだから、だからこそ今の楽しみをどんどん味わおうとする人と、どうせ死ぬんで虚しいんだから、楽しみなんか何もない、いっそ禁欲的に生きていく方がいいのではないかと両極端に別れる場合が多い。
「人生最期の日だと思って今日を生きろ」みたいな言葉があるが、疑問があります。
人生本当に最期の日だったら仕事なんか行かないし、恨みのある人を殴りに行くかもしれない。
本当は明日もあると思う、明日の為に今日は犠牲にしていることはどうしてもあるが、そういう毎日を過ごしていると虚しさはどんどん増します。
虚しくないように頑張るが、それも限界があり答えの出ない難しいことだと思います。
トルストイの理想はいずれ死んで全てが消えうせてしまうとして、それでも無意味ではないと確信できる生き方、そういう生き方をずーっと探していたんだと思います。
トルストイは神の教えに従って生きようと言うところに行きつく訳です。
自分よりも他人を愛して、人の為に生きるというこういう生き方をしていれば、例え死んでしまって消えてしまっても、全く無意味な人生とはいえないと言うふうに到達する訳です。
しかし矛盾が生じる、他人の為に生きようとすると、一番身近な他人は妻で、妻の為に生きようとすると、財産を放棄しようとする理想が叶わない。
当時トルストイ主義と言って世界中に広まっていた。
ガンジーはトルストイの非暴力主義に凄く影響を受けてインド独立の父になったわけです。
世界をよくしていくために役立っているが、一番な身近な家庭ではうまくいかなかった。
トルストイは葛藤をどうにも解決しようがなくて、最期に家出をして小さな駅で亡くなるわけです。
トルストイは、みんな思っているけどやれないことを、全部やろうとするわけです。
しかし身近な周囲は犠牲になってしまう面があるわけです。
それが簡単に善し悪しが言えないところです。
トルストイは字が汚くて自分でも読めない位で、それを読めるのが妻だけで、それはトルストイがどう考えるか判るわけで、かなりソフィアの手が入っていて、だから結婚していなかったら名作が生れたかどうか、できたとしてももっと違った内容だったかもしれない。
結婚3か月ごろのトルストイの日記
「家庭の幸福が私をすっかり飲みつくしている。
夜中や朝目が覚めて彼女の姿を見ると愛おしさを覚える。
彼女は私を見つめ愛する。
彼女が私のすぐそばに座っていると愛おしい気持ちになる。
私たちはこの上なく愛し合っている。」
私は彼女を愛している。」
「結婚なんて決してするものではない。
そうでないと、とんでもない取り返しのつかない失敗をすることになる。
君の持っている美しい気高い資質が、すっかり駄目になってしまう。
くだらないことの為に何もかも使いはたされてしまう。」 (「戦争と平和」の一節、トルストイ)
小説を読むと退屈するけれどトルストイの人生は面白くてしょうが無い、興味が尽きない。
今回はトルストイの晩年の結婚生活の話です、これがとっても興味深い。
1828年生まれ、(江戸の後期にあたる。)1910年亡くなる。(82歳)
ほかにも
「全く結婚しないことである。
これができる人間はめったに居るものではない。
だがこれができる人間は幸福である。」
「いよいよ結婚する前に十遍でも、二十遍でも、いや百編でも考えてみる方がいい。」
凄く結婚に対する否定だが、それは自分が結婚しているからです。
34歳の時に18歳のソフィアと結婚する。
「戦争と平和」を書いている時にはうまく行っていたが、晩年になるとお互いに酷く苦しめるようになる。
82歳で家出をして小さな駅で亡くなる。
理想と現実のぶつかり合い、トルストイは理想を激しく求めるタイプ。
生れながらの貴族で身分が高くてお金もちだった。
晩年には私有財産を持つことはよくないと言う事で、領地も農民に与えて、著作権も放棄しようとしていた。
妻にしてみれば大変なことなので反対するが、世界3大悪妻に例えられている。
(病気をするとお金があるなしで切実な問題で、何にもできない人間になるとお金に綺麗なことは言っていられない、現実はシビアだと感じます。(頭木))
妻の方にしてみれば現実ががっちりあったはずで当然そう思います。
トルストイには13人子どもがいました。
「子どもは神の祝福である、子どもは喜びであると言うのはみなウソだ。
それは昔の話で今ではそんなことは全然当てはまらない。
子どもは苦しみである。
ただそれだけのことである。」 (「クロイツェル・ソナタ」の一節)
子どもがいることで子どもが夫婦の喧嘩の種になってしまう。
トルストイに娘が付いて妻に息子が付いて、子ども同士も反目し合っていた。
親がいがみ合っていると子どもにとっては、かなり不可解だと思います。
「幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである。」 (「アンナ・カレーニナ」の一節)
健康と病気の関係を直ぐ思い浮かべます、健康は一種類ですが、病気は凄く種類があります。
自分とはまったく関係ないと思っていた思いもよらないことが、突然自分のことになる。
どんな不幸が来るかわからない凄味がこの言葉にはあると思います。
トルストイは自分の日記を婚約時代からソフィアに読ませた、結婚後も読ませた。
日記を読ませることは変わっていて、赤裸々に本音が書いてありそれを妻に読ませる。
激しい色んな女性経験の話も書いてありそれは妻にとってはショックです。
理想としては夫婦関係に秘密があっては良くない、自分を受け入れてほしいと言う事だが、妻にとってはたまったものではない。
これは特殊な不幸です。
晩年になるとチェルトコフという中年男性が一番弟子のような形でついて、トルストイの言ったことを世界に広める役をしていて、これに対して妻は厭がっていた。
妻に読ませた日記の中に「私は女性に恋をした事はない。所が今までしばしば男性には恋をしてきた。」と書かれている。
チェルトコフが財産放棄とか著作権放棄を勧めていた人でもありました。
チェルトコフが来てからその後妻に日記を見せなくなる。
ソフィアとしては大変だったと思う。
秘密があってはいけないと言う事は潔癖過ぎると思いますし、晩年は日記を見せてもらえなくなる。
「私の行為はそれがどのような行為であろうと早晩全て忘れられてしまい、この私と言うものは完全に無くなってしまうのだ。
それなのになんであくせくするんだ、どうして人はこの事実に目をつぶって生きて行くことができるのか、実に驚くべきことだ。
そうだ、性に酔いしれている間だけ我々は生きることができるのだ。
が、そうした陶酔からさめると同時に、それが悉く欺瞞であり愚劣な迷いにすぎないことを求めないわけにはいかないのだ。
つまりこの意味において人生には面白い事や可笑しい事など何にもないのだ。
ただもう残酷で愚劣なだけなのである(「懺悔」の一節)
懺悔はトルストイの本音が書かれていて吃驚する。
トルストイは若いころはよくないことを一杯している、ギャンブル、酒、女、さんざんです。
家族、名声、財産、才能、健康など全部揃っている訳です。
だけど虚しい、それは結局死んでしまう。
あと身近な人が沢山亡くなっている。
母親を2歳で亡くして、9歳で父親を亡くして、お婆さんに引き取られるがお婆さんも翌年亡くなって、伯母さんにひきとられるが伯母さんも亡くなり、兄のニコライも結核で亡くなって、13人の子どもも5人は幼くして亡くなる。
お気に入りの次女のマリアも35歳の若さで亡くなる。
死んだら虚しいと言う思いがどうしてもなる、そういう虚しさに晩年とらわれる。
全て満たされても最期に残るのが、死と言う問題なんです。
トルストイが東洋の寓話だと言って紹介しているものがある。
「猛獣に追いかけられて井戸に飛び込むが、井戸の底には龍が口を開けて待っている。
井戸の側面の草にしがみつく。 そうすると2匹の鼠が草をかじってそのままでは下に落ちるしかない。
しかし、掴まっている草に花が咲いていて、蜜がたまっていてそれを舐めるわけで、蜜のおいしさに夢中になることが生きることに夢中になることだと、でも今こんな状態なんだと気付いてしまうと、蜜の甘いおいしさなんて感じることが出来ない、今自分は気付いてしまったと、そういうふうに言っています。
我々も蜜の味に執着するか、蜜の味がしないか。
今の人生の楽しみをなるべく味わってどうせ死ぬんだから、だからこそ今の楽しみをどんどん味わおうとする人と、どうせ死ぬんで虚しいんだから、楽しみなんか何もない、いっそ禁欲的に生きていく方がいいのではないかと両極端に別れる場合が多い。
「人生最期の日だと思って今日を生きろ」みたいな言葉があるが、疑問があります。
人生本当に最期の日だったら仕事なんか行かないし、恨みのある人を殴りに行くかもしれない。
本当は明日もあると思う、明日の為に今日は犠牲にしていることはどうしてもあるが、そういう毎日を過ごしていると虚しさはどんどん増します。
虚しくないように頑張るが、それも限界があり答えの出ない難しいことだと思います。
トルストイの理想はいずれ死んで全てが消えうせてしまうとして、それでも無意味ではないと確信できる生き方、そういう生き方をずーっと探していたんだと思います。
トルストイは神の教えに従って生きようと言うところに行きつく訳です。
自分よりも他人を愛して、人の為に生きるというこういう生き方をしていれば、例え死んでしまって消えてしまっても、全く無意味な人生とはいえないと言うふうに到達する訳です。
しかし矛盾が生じる、他人の為に生きようとすると、一番身近な他人は妻で、妻の為に生きようとすると、財産を放棄しようとする理想が叶わない。
当時トルストイ主義と言って世界中に広まっていた。
ガンジーはトルストイの非暴力主義に凄く影響を受けてインド独立の父になったわけです。
世界をよくしていくために役立っているが、一番な身近な家庭ではうまくいかなかった。
トルストイは葛藤をどうにも解決しようがなくて、最期に家出をして小さな駅で亡くなるわけです。
トルストイは、みんな思っているけどやれないことを、全部やろうとするわけです。
しかし身近な周囲は犠牲になってしまう面があるわけです。
それが簡単に善し悪しが言えないところです。
トルストイは字が汚くて自分でも読めない位で、それを読めるのが妻だけで、それはトルストイがどう考えるか判るわけで、かなりソフィアの手が入っていて、だから結婚していなかったら名作が生れたかどうか、できたとしてももっと違った内容だったかもしれない。
結婚3か月ごろのトルストイの日記
「家庭の幸福が私をすっかり飲みつくしている。
夜中や朝目が覚めて彼女の姿を見ると愛おしさを覚える。
彼女は私を見つめ愛する。
彼女が私のすぐそばに座っていると愛おしい気持ちになる。
私たちはこの上なく愛し合っている。」
私は彼女を愛している。」
2019年5月26日日曜日
高野進(東海大学教授) ・【特選 スポーツ名場面の裏側で】五輪陸上ファイナリストの証言
高野進(東海大学教授・【特選スポーツ名場面の裏側で】五輪陸上ファイナリストの証言
(初回2013.12.13)
静岡県富士宮市出身 58歳、東海大学時代から頭角を現し、日本人選手が最も苦手と言われる種目の400mでオリンピック、世界選手権に3回出場、バルセロナオリンピックでは昭和7年のロサンゼルスオリンピック100mで吉岡隆徳さんが6位に入って以来、60年ぶりにオリンピック短距離での決勝進出を果たしました。
400mを44秒78は30年近くたった現在でも日本記録です。
現役引退後は母校の東海大学で指導、研究を続けるかたわら、日本ランニング振興機構を設立、理事長として子どもたちを中心にした、幅広い年齢の人達に走ることの楽しさを教えています。
日本陸連理事、北京、ロンドン二つののオリンピックの代表監督を務めた高野さんに伺いました。
湘南キャンパスには2万人の学生がいます。
7,8階建ての校舎が18在ります。
400mトラックの全天候型6レーン 公認トラックがあります。
19歳の時からここで練習してきました。
当時は土のトラックでした。
4年に一度のアジア大会では400m2連覇を含めて200,1600、リレーを併せて4個の金メダル、世界選手権大会でも3回連続で1991年東京世界選手権では日本の短距離界では初めて決勝に残って7位になりました。
400mの日本記録は自己更新を含めて10回以上出し、日本選手権400mは7回の優勝。
1984年ロサンゼルスオリンピック、23歳 初オリンピック。
開幕直前の競技会で日本記録45秒85を出す。
80~90人のエントリーがあったと思います。
準決勝の1組目で8位となり決勝に進出できなかったが、上出来だと思った。
1988年 ソウルオリンピック、27歳
一次予選45秒42で全体で2番目の記録で通過、二次予選も通過、準決勝第二組で44秒90(日本新記録)だったが、惜しくも決勝進出を逃す。
45秒00を2回くらい出していて、44秒台は壁だったが壁を破ったのは日本人として歴史を作ったなあと当時思いました。
1991年世界選手権400mで日本選手で初めて決勝進出、7位となり世界から注目を集める。
1992年バロセロナオリンピック
44秒90はもう限界かなと思って、1989年には400mを辞めて100mしか走らなかった。
1990年にアジア大会があり200mで代表で出て、これまでこの種目だけ金メダルを取っていないと言う事で、金メダルを取ることができました。(29歳)
ハイペースにシフトして400mも30歳で日本記録を出せました。
これが大きな自信になりました。
バルセロナオリンピックでは31歳になっていました。
教師としての仕事もある中で調整をしなければいけなかった。
世界選手権400m決勝進出で周りから注目されるようになりプレッシャーを感じるようになりました。
毎日トラックにカメラが来るような状態になり、メダリストになれるのではないかと周りが騒ぐようになりました。
自分ではファイナリストになりたいと言うようになり、ファイナリストと言う言葉が日本でも浸透するようになりました。
8月1日 一次予選余裕で通過、二次予選通過、8月3日準決勝1組で45秒09で4位
ゴール、ファイナリストとなる。
胸をなでおろしました。
決勝では8位だったが、力が残っていなかった。
決勝まで4回を5日をかけてやるので31歳の年齢では体力が限界で大変でした。
記録は45秒18でした。
400mを走り終わって1分後には全身に疲労物質が回ってきて、頭は痛くなるし筋肉は痛くなるし呼吸は乱れっぱなしで、30分ぐらいはまともには歩けなかった。
日本人としてスプリント種目で決勝に残ったと言うのは、個人としても嬉しかったが日本人としても嬉しかったです。
44秒78はトラックの中では日本記録として一番古い記録として残っているが、指導者としてはあまり喜べるものではない。
100mのタイムも上がってきているし、日本人のスプリント力も大分上がってきて400mもいずれ破ってくれるのではないかと期待しています。
400mは毎回死ぬつもりで走らないとだめです、自分のエネルギーを出しつくすわけですから、必死に逃げきるというそういうエネルギー系です。
今思うと荒業のような感じです。
苦労と言うふうには全く考えていなかった。
当時は日常の当たり前なことで生活習慣の一つになっていました。
振り返ってみると同じことはできないと思います。
小学校からずーっと走り続けてきたが、何故自分をそう言うふうに掻きたててきたのかと言うと、ゴールした後の先にいつも新しい光景があります。
新しい自分が待っている様な気持になってきて、スタート地点に立った時に、それまでの自分に別れを告げる気持ちになっていました。
400m走り終わると必ず新しい自分になっていると、それが次の自分に会うような気持で走っていました。
中学時代の同級生にったら多分別人だと思います、ほとんど人前では話せなかったし、スポーツもあまり好きではなかったし、オリンピックに出る様な選手になり、東海大学に勤めて学生に講義したりと言う自分は想像がつかなかった。
一方、どんどん自分自身の幹が太くなって枝葉が出て、色んな世界に自分の生きざまが広がっていくような、それがやってきて良かったことだと思います。
日本ランニング機構の理事長になっていますが、私の自身のライフワークとして走ると言う事は人類の挑戦なんです、ようやく2本足で立った時代から進化を重ねてきて、我々は走りながら進化をしてきた。
或る生物学者は「持久力を持った捕食者」と人間のことを言っているが、我々は狩猟採集時代に足の速い草食動物を追い詰めてしとめてきた。
その間に実はセオトニン、ドーパミン、アレドナリンとかが出てきて、やる気、粘り強さが人間自身に備わってきた。
さらに栄養素が運動することによって脳に送られていき、知能が非常に高くなってきた。
脳の成長には運動が欠かせないと言う事でランニングが欠かせないと思って、自分が走り続けてきたら、小学校、中学校時代あんなに駄目な人間だったのに、走り続けてきてまともな社会人になれた。
鍛えればいいと思っている人がいるが、ランニング技能が必要です。
走り方を疎かにしてしまうと一生直らない。
小学生時代のように脳が柔らかいうちに、ターゲットにしたアカデミーや色んな指導形態を取って走り方を覚えてもらっている。
寝たきりにならないように高齢者は元気でなければならない。
そのためには走ると言う運動も取り入れた方がいいと思っている。
散歩中に3歩走れば(10歩でもいいが)ずーっと走らなくても良いと思っています。
2,3セットやればいいと思う。
ランニング技能検定をやっています。
遅くてもいいから正しく走れるようにすれば、それも立派な目標となります。
日本ランニング機構を作った大きな目的の一つはランニングを技能として浸透させていきたいと言う事と、それを教える指導者を増やしていきたい。
日本人のファイナリストを筆頭に、子どもたちの走り方をよくする、高齢者の健脚、運動の指導など、これを総称してを日本人総アスリート計画と言う事で推進しています。
(初回2013.12.13)
静岡県富士宮市出身 58歳、東海大学時代から頭角を現し、日本人選手が最も苦手と言われる種目の400mでオリンピック、世界選手権に3回出場、バルセロナオリンピックでは昭和7年のロサンゼルスオリンピック100mで吉岡隆徳さんが6位に入って以来、60年ぶりにオリンピック短距離での決勝進出を果たしました。
400mを44秒78は30年近くたった現在でも日本記録です。
現役引退後は母校の東海大学で指導、研究を続けるかたわら、日本ランニング振興機構を設立、理事長として子どもたちを中心にした、幅広い年齢の人達に走ることの楽しさを教えています。
日本陸連理事、北京、ロンドン二つののオリンピックの代表監督を務めた高野さんに伺いました。
湘南キャンパスには2万人の学生がいます。
7,8階建ての校舎が18在ります。
400mトラックの全天候型6レーン 公認トラックがあります。
19歳の時からここで練習してきました。
当時は土のトラックでした。
4年に一度のアジア大会では400m2連覇を含めて200,1600、リレーを併せて4個の金メダル、世界選手権大会でも3回連続で1991年東京世界選手権では日本の短距離界では初めて決勝に残って7位になりました。
400mの日本記録は自己更新を含めて10回以上出し、日本選手権400mは7回の優勝。
1984年ロサンゼルスオリンピック、23歳 初オリンピック。
開幕直前の競技会で日本記録45秒85を出す。
80~90人のエントリーがあったと思います。
準決勝の1組目で8位となり決勝に進出できなかったが、上出来だと思った。
1988年 ソウルオリンピック、27歳
一次予選45秒42で全体で2番目の記録で通過、二次予選も通過、準決勝第二組で44秒90(日本新記録)だったが、惜しくも決勝進出を逃す。
45秒00を2回くらい出していて、44秒台は壁だったが壁を破ったのは日本人として歴史を作ったなあと当時思いました。
1991年世界選手権400mで日本選手で初めて決勝進出、7位となり世界から注目を集める。
1992年バロセロナオリンピック
44秒90はもう限界かなと思って、1989年には400mを辞めて100mしか走らなかった。
1990年にアジア大会があり200mで代表で出て、これまでこの種目だけ金メダルを取っていないと言う事で、金メダルを取ることができました。(29歳)
ハイペースにシフトして400mも30歳で日本記録を出せました。
これが大きな自信になりました。
バルセロナオリンピックでは31歳になっていました。
教師としての仕事もある中で調整をしなければいけなかった。
世界選手権400m決勝進出で周りから注目されるようになりプレッシャーを感じるようになりました。
毎日トラックにカメラが来るような状態になり、メダリストになれるのではないかと周りが騒ぐようになりました。
自分ではファイナリストになりたいと言うようになり、ファイナリストと言う言葉が日本でも浸透するようになりました。
8月1日 一次予選余裕で通過、二次予選通過、8月3日準決勝1組で45秒09で4位
ゴール、ファイナリストとなる。
胸をなでおろしました。
決勝では8位だったが、力が残っていなかった。
決勝まで4回を5日をかけてやるので31歳の年齢では体力が限界で大変でした。
記録は45秒18でした。
400mを走り終わって1分後には全身に疲労物質が回ってきて、頭は痛くなるし筋肉は痛くなるし呼吸は乱れっぱなしで、30分ぐらいはまともには歩けなかった。
日本人としてスプリント種目で決勝に残ったと言うのは、個人としても嬉しかったが日本人としても嬉しかったです。
44秒78はトラックの中では日本記録として一番古い記録として残っているが、指導者としてはあまり喜べるものではない。
100mのタイムも上がってきているし、日本人のスプリント力も大分上がってきて400mもいずれ破ってくれるのではないかと期待しています。
400mは毎回死ぬつもりで走らないとだめです、自分のエネルギーを出しつくすわけですから、必死に逃げきるというそういうエネルギー系です。
今思うと荒業のような感じです。
苦労と言うふうには全く考えていなかった。
当時は日常の当たり前なことで生活習慣の一つになっていました。
振り返ってみると同じことはできないと思います。
小学校からずーっと走り続けてきたが、何故自分をそう言うふうに掻きたててきたのかと言うと、ゴールした後の先にいつも新しい光景があります。
新しい自分が待っている様な気持になってきて、スタート地点に立った時に、それまでの自分に別れを告げる気持ちになっていました。
400m走り終わると必ず新しい自分になっていると、それが次の自分に会うような気持で走っていました。
中学時代の同級生にったら多分別人だと思います、ほとんど人前では話せなかったし、スポーツもあまり好きではなかったし、オリンピックに出る様な選手になり、東海大学に勤めて学生に講義したりと言う自分は想像がつかなかった。
一方、どんどん自分自身の幹が太くなって枝葉が出て、色んな世界に自分の生きざまが広がっていくような、それがやってきて良かったことだと思います。
日本ランニング機構の理事長になっていますが、私の自身のライフワークとして走ると言う事は人類の挑戦なんです、ようやく2本足で立った時代から進化を重ねてきて、我々は走りながら進化をしてきた。
或る生物学者は「持久力を持った捕食者」と人間のことを言っているが、我々は狩猟採集時代に足の速い草食動物を追い詰めてしとめてきた。
その間に実はセオトニン、ドーパミン、アレドナリンとかが出てきて、やる気、粘り強さが人間自身に備わってきた。
さらに栄養素が運動することによって脳に送られていき、知能が非常に高くなってきた。
脳の成長には運動が欠かせないと言う事でランニングが欠かせないと思って、自分が走り続けてきたら、小学校、中学校時代あんなに駄目な人間だったのに、走り続けてきてまともな社会人になれた。
鍛えればいいと思っている人がいるが、ランニング技能が必要です。
走り方を疎かにしてしまうと一生直らない。
小学生時代のように脳が柔らかいうちに、ターゲットにしたアカデミーや色んな指導形態を取って走り方を覚えてもらっている。
寝たきりにならないように高齢者は元気でなければならない。
そのためには走ると言う運動も取り入れた方がいいと思っている。
散歩中に3歩走れば(10歩でもいいが)ずーっと走らなくても良いと思っています。
2,3セットやればいいと思う。
ランニング技能検定をやっています。
遅くてもいいから正しく走れるようにすれば、それも立派な目標となります。
日本ランニング機構を作った大きな目的の一つはランニングを技能として浸透させていきたいと言う事と、それを教える指導者を増やしていきたい。
日本人のファイナリストを筆頭に、子どもたちの走り方をよくする、高齢者の健脚、運動の指導など、これを総称してを日本人総アスリート計画と言う事で推進しています。
2019年5月25日土曜日
立川志の輔(落語家) ・【舌の記憶】あの時あの味(2)
立川志の輔(落語家) ・【舌の記憶】あの時あの味(2)
圧倒的なパワーと重層的に語られる志の輔落語、その濃密な世界は何処からどのようにして生まれるのか、志の輔落語を貫くものは何なのか、立川談志の話もたっぷり伺いました、「落語でなにがいいたいんだ」という題で伺います。。
師匠はこんなにお茶目なんだ、こんなに不思議な人だと思ったのは「ガッテン」25年続けている中で15年経った頃でした。
スタッフが「ガッテン」に出てもらえないかと言う事で、師匠に伺いました。
出て質問してもらえればいいといったら、「唐辛子は何故辛いのか」、と言うんです。
動物に食べてもらって、熟して甘くなったものをおいしいから鳥に食べてもらって糞とともに種をばらまく、そのおかげで自分の子孫は世界中に広がって行く。
辛い唐辛子を喜んで食う鳥なんていないのに、なんで辛らくなっているのか調べてこいと言う事で、スタッフが当時の志の吉を連れてメキシコまで行きました。
調べてみたら、辛味や甘味が判らない鳥がいて、唐辛子を食べてくれていて、他の動物に食べてもらいたくない、味の判らない鳥だけがたべてくれればいい、と言う事で辛らくなっているんだと考えられると言う事で放送して、カメラに向かって「ガッテン」して頂けましょうかと師匠もTVを見ていると思っていったんですが、放送後、「俺は立川談志だ、あんなことでガッテンできると思っているのか」と製作室に電話がかかってきて、師匠から苦情が来ました。
わざわざ放送直後にかかってきたわけで、大騒ぎになりました。
恐ろしいし、きびしいが振り返ってみるとお茶目な人でした。
古典落語で5年ぐらいたってうまくできたと思っていたら「お前、今の落語でなにがいいたいんだ」と言われました。
「落語を教わった通りとか、俺が教えた通りならば、俺がやればそれで済むんだ」と言う訳です。
お客さんが満足する中には、笑う、良い時間であった、もうひとつは人間こう生きれば楽なのかとか、こう考えれば幸せかとか、ここまではしてもいいけどここからしてはいけないとか、判ったと言う感じの満足感の大きな種類の一つだから、それをもって、と思ったら、新作落語でも、全ての落語、全部の作品に談志の何とか論(金銭論、教育論とか)が入っているんです。
古典落語の根底に人間ってこういうもんなんだ、という談志論がそれぞれの作品の中に結果的にはいっている、酒を飲んじゃあいけないがこの状況なら人間飲んじゃうよなと言う様な、談志論がそれぞれの作品の中に入っている、だから「落語でなにがいいたいんだ」と言って、そういった事に対して気付かせようとしたんでしょうね。
お客さんが笑っただけで、良くできましたと思っているんじゃねえだろうなと、いつも思いだす言葉ですね。
『牡丹燈籠』は全部を読んでみた時に『牡丹燈籠』は違うテーマの作品だと思った時に、初めから終わりまで2時間半で全部やろうと考えたのは15年前からで毎年やっています。
毎年登場人物がこの人は素敵だなと、毎年違うんです。
三遊亭圓朝師匠の大作です。
「忠臣蔵」は文楽の為の戯曲であって、その大元になった赤穂事件の出来事で、忠臣蔵ではないんだと、歌舞伎座で観てあーそうなんだと思って、「忠臣蔵」を初めから終わりまで説明出来て2時間半で何とかできないかと思って、これも7年目になり毎年これもやっています。
やっていて毎年角度が違うので、やっていて飽きないです。
「みどりの窓口」「歓喜の歌」これは新作落語ですが、清水義範さんの存在が無ければ沢山の新作落語は出来なかった。
「ゴミの定理」と言う本にゴミがどんどん増え続けて行くとお金を払わなければいけない時代が来ますよ、と言われた時代に、ゴミは人それぞれに定義が違っていて、物が届いた時に人によってはゴミになってしまう。
清水義範さんのエッセーの作品を新作落語に練っていきました。
自分の体験談から来たものもあります。(「歓喜の歌」など)
いくら落語でもリアリティーが半分、面白さが半分ないと、と言う事はあります。
新作を作ると古典落語の凄さが判ります。
江戸時代は短い話だったろうが、何十人、何百人と携わりながら、練ってたしてひいてを繰り返し、一番いい状態の物を僕等は師匠に教わりながら来るので、無駄なく見事なセリフだけが残ったのが古典落語だと思います。
談志師匠は古典落語しかやりませんでしたが、「みどりの窓口」を談志師匠が面白いと言ってくれたのは凄く嬉しかったです。
「ガッテン」が週に一回来るのが、リフレッシュになります。
TV、ラジオ、映画それぞれに携われましたが、それぞれのジャンルの作り方、楽しみ方、表現の仕方が全然違うので何をやってもリフレッシュになります。
パワフルなのは富山県民の血ですかね。
持久力があると言うか、地道にこつこつとやる県民性ですかね。
毎月富山で落語会をやっていますが、富山の人にあうたびに富山に生れて良かったなと思います。
富山弁で「気の毒な」と言う言葉がありますが、「有難う」「すみません」など全部含めて言う言葉です。
「あなたに気の毒な想いをさせました」と言う意味です。
富山弁でこの「気の毒な」と言う言葉が一番好きです。
圧倒的なパワーと重層的に語られる志の輔落語、その濃密な世界は何処からどのようにして生まれるのか、志の輔落語を貫くものは何なのか、立川談志の話もたっぷり伺いました、「落語でなにがいいたいんだ」という題で伺います。。
師匠はこんなにお茶目なんだ、こんなに不思議な人だと思ったのは「ガッテン」25年続けている中で15年経った頃でした。
スタッフが「ガッテン」に出てもらえないかと言う事で、師匠に伺いました。
出て質問してもらえればいいといったら、「唐辛子は何故辛いのか」、と言うんです。
動物に食べてもらって、熟して甘くなったものをおいしいから鳥に食べてもらって糞とともに種をばらまく、そのおかげで自分の子孫は世界中に広がって行く。
辛い唐辛子を喜んで食う鳥なんていないのに、なんで辛らくなっているのか調べてこいと言う事で、スタッフが当時の志の吉を連れてメキシコまで行きました。
調べてみたら、辛味や甘味が判らない鳥がいて、唐辛子を食べてくれていて、他の動物に食べてもらいたくない、味の判らない鳥だけがたべてくれればいい、と言う事で辛らくなっているんだと考えられると言う事で放送して、カメラに向かって「ガッテン」して頂けましょうかと師匠もTVを見ていると思っていったんですが、放送後、「俺は立川談志だ、あんなことでガッテンできると思っているのか」と製作室に電話がかかってきて、師匠から苦情が来ました。
わざわざ放送直後にかかってきたわけで、大騒ぎになりました。
恐ろしいし、きびしいが振り返ってみるとお茶目な人でした。
古典落語で5年ぐらいたってうまくできたと思っていたら「お前、今の落語でなにがいいたいんだ」と言われました。
「落語を教わった通りとか、俺が教えた通りならば、俺がやればそれで済むんだ」と言う訳です。
お客さんが満足する中には、笑う、良い時間であった、もうひとつは人間こう生きれば楽なのかとか、こう考えれば幸せかとか、ここまではしてもいいけどここからしてはいけないとか、判ったと言う感じの満足感の大きな種類の一つだから、それをもって、と思ったら、新作落語でも、全ての落語、全部の作品に談志の何とか論(金銭論、教育論とか)が入っているんです。
古典落語の根底に人間ってこういうもんなんだ、という談志論がそれぞれの作品の中に結果的にはいっている、酒を飲んじゃあいけないがこの状況なら人間飲んじゃうよなと言う様な、談志論がそれぞれの作品の中に入っている、だから「落語でなにがいいたいんだ」と言って、そういった事に対して気付かせようとしたんでしょうね。
お客さんが笑っただけで、良くできましたと思っているんじゃねえだろうなと、いつも思いだす言葉ですね。
『牡丹燈籠』は全部を読んでみた時に『牡丹燈籠』は違うテーマの作品だと思った時に、初めから終わりまで2時間半で全部やろうと考えたのは15年前からで毎年やっています。
毎年登場人物がこの人は素敵だなと、毎年違うんです。
三遊亭圓朝師匠の大作です。
「忠臣蔵」は文楽の為の戯曲であって、その大元になった赤穂事件の出来事で、忠臣蔵ではないんだと、歌舞伎座で観てあーそうなんだと思って、「忠臣蔵」を初めから終わりまで説明出来て2時間半で何とかできないかと思って、これも7年目になり毎年これもやっています。
やっていて毎年角度が違うので、やっていて飽きないです。
「みどりの窓口」「歓喜の歌」これは新作落語ですが、清水義範さんの存在が無ければ沢山の新作落語は出来なかった。
「ゴミの定理」と言う本にゴミがどんどん増え続けて行くとお金を払わなければいけない時代が来ますよ、と言われた時代に、ゴミは人それぞれに定義が違っていて、物が届いた時に人によってはゴミになってしまう。
清水義範さんのエッセーの作品を新作落語に練っていきました。
自分の体験談から来たものもあります。(「歓喜の歌」など)
いくら落語でもリアリティーが半分、面白さが半分ないと、と言う事はあります。
新作を作ると古典落語の凄さが判ります。
江戸時代は短い話だったろうが、何十人、何百人と携わりながら、練ってたしてひいてを繰り返し、一番いい状態の物を僕等は師匠に教わりながら来るので、無駄なく見事なセリフだけが残ったのが古典落語だと思います。
談志師匠は古典落語しかやりませんでしたが、「みどりの窓口」を談志師匠が面白いと言ってくれたのは凄く嬉しかったです。
「ガッテン」が週に一回来るのが、リフレッシュになります。
TV、ラジオ、映画それぞれに携われましたが、それぞれのジャンルの作り方、楽しみ方、表現の仕方が全然違うので何をやってもリフレッシュになります。
パワフルなのは富山県民の血ですかね。
持久力があると言うか、地道にこつこつとやる県民性ですかね。
毎月富山で落語会をやっていますが、富山の人にあうたびに富山に生れて良かったなと思います。
富山弁で「気の毒な」と言う言葉がありますが、「有難う」「すみません」など全部含めて言う言葉です。
「あなたに気の毒な想いをさせました」と言う意味です。
富山弁でこの「気の毒な」と言う言葉が一番好きです。
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