2017年8月31日木曜日

野際陽子(女優)           ・女優が語る私の人生

野際陽子(女優)     ・女優が語る私の人生
富山市出身、立教大学を卒業後、昭和33年にNHKアナウンサーとして勤務、その後
女優として「キーハンター」、冬彦さん現象を起こした「ずっとあなたが好きだった」、「ダブル・キッチン」等話題のドラマに数多く出演されました。
司会者やナレーターとしても活躍されました、今年6月13日に亡くなられました。
81歳でした。
平成22年8月に放送した「女優が語る私の人生」から。

「ゲゲゲの女房」のヒロインのおばあさんの役、ナレーションも担当。
ナレーションはアナウンサーであったことは余り強く出さないようにしています。
ドラマに添って溶け込んでいくように意識しています。
私はインタビューしているときは、NHKのアナウンサー時代に身についてしまった性(さが)というか、そういうものがどうしても抜けきれないものがあります。
4年間は相当濃密だったと思います。(昭和33~37年)
当時は女子学生の氷河期だった。
NHKのアナウンサーをやりながらも、詩の朗読とかそういう雰囲気のものをやりたいとは思っていました。
誘いがあって、女優の道に入りました。
昭和38年に「赤いダイヤ」に出演、その後フランスに1年行きました。(30歳)
とにかくフランスに行きたいという思いが強かった。(先のことは何とかなるだろうと思っていました)

フランスでの体験は私の無駄には成っていないと思います。
「キーハンター」昭和43年から5年続きました。
元フランス情報局の諜報部員、何カ国語も操ると云う役。
「スパイ大作戦」のベースが企画の中にあったようです。
フランスから帰るときに1着ぐらい買おうと思って、フランスでは全部ミニスカートだったので、ミニスカートを買いました。
ミニスカートをはいて帰ってきたら、その後あっと言う間にミニスカートになりました。(ミニスカートの第一号と言われているが)
母親役、姑役で新たな境地を見出す。
冬彦のドラマはあんなに反響があるとは思いませんでした。
佐野史郎演じる冬彦のお母さん役で、ちょっと怖いような役柄。
非の打ちどころがないと思っていた息子が嫁を貰ったらうまくいかなくなってしまった。
「冬彦さん」、「マザーーコンプレクス」が流行語になった。
息子を溺愛して息子に期待をかけてしまうお母さんは、全世界的にあるようです。

冬彦は変ですが、私は凄く素直に役をやっていたように思います。
「ダブル・キッチン」はコメディーですが、いくらなんでもこんな言葉は言わないと思いましたが。
しかし、周りを見渡すと居るんですね。
どんな人でもいる可能性があると言うつもりでいると、どんな役でもできるということにあの役で気が付きました。
嫁と姑の新しいホームドラマ、お互いに主張してあっさりすると云う、ドロドロ感は無かった。
あくまで息子の事を思って演じたつもりです。
私自身は嫁がいないし、娘ですから、私は小心者だと思っているので、ああいうところは全くないです。
言いたいと思ったことは一度自分の心の中で考えて、言っていいかどうか考えてから発言する方なので、何も考えないでポロっと云う人は不思議な気がするくらいなんです。
収録が終わると、とたんにあの役の事はほとんど切れてしまっていますから、うちにいるときは仕事の事は考えていないという感じでした。

生まれは富山のしないです。
3歳と10カ月で父と家族で東京に出てきて、杉並に住みました。
5人兄弟の長女で、初孫だったのでちやほやされて内弁慶でした。
親は忙しかったので一人遊びをしていました。
おばさんたちの着物を引っ張り出して来て、踊ったり、流行歌を歌ったりしていました。
叔母が琴をやっていたので琴をやってみたり、真似をしていました。
映画の中の主人公になりたいと思って、綺麗になりたいと思って、そちらの方に関心を持ちました。
いっとき女優になりたいと思っていましたが、母親から女優(高峰秀子)の写真を見せられて、女優とはこういう人だと言われ、駄目なんだと諦めました。
中学高校は立教女学院で6年間過ごしました。
男女平等、民主主義が入ってきて、海綿のように吸い取っていた時代でした。
制服もなかったし、禁止事項が無かったような思いがあり、映画も一人で行っても何にも言われませんでした。
つつましさ、しとやかさも失っていない少女時代だったと思います。

映画が好きだったので映画部つくって、日本映画、アメリカ映画など観て、段々とフランス映画も見るようになり、フランスにあこがれるようになりました。
本もフランスの本を読むようになりました。
大学時代はフランスの演劇もやるようになりました。
現在は、水彩で花を夢中で描いています。
自然のものと向かい合っているので、疲れないし、忠実に描こうと思ってやっています。
道端にも色んな花が咲いています。
じーっと見るので、本当に凝視するので、これってなんでこんなふうなんだろうとか発見があって面白いです。
これからは色々なおばあさん役をやっていきたいと思っています。


























2017年8月30日水曜日

小沢信男(作家)         ・【ぼくの“東京今昔物語”】アンコール

小沢信男(作家)         ・【ぼくの“東京今昔物語”】アンコール
*「明日への言葉」が今日で累積投稿数 2000回を迎える事になりました。
最初の投稿が2011年2月22日で、奇しくも東日本大震災が発生した3月11日の21日程前のことでした。
その後、2014年10月23日から頸椎を痛めてしまい、左腕が痛くて投稿を中止して、もしかしたらこれで投稿を終了するようかとも思いましたが、その後大分回復したため、改めて続けることが出来ました。
但し、現在でもその後遺症が若干残っており、左の親指と人差し指に若干しびれがありますが、キーボードを叩くにはほぼ影響がありません。
これまで、高校時代からの友人、Mさんからは何時も励ましの言葉をいただきました。
又Kさんには或る時期から、私の誤字、脱字に見かねて、指摘して頂きまして(校正)、読み易い文章にすることが出来ました。
時々一緒に飲む仲間のHさんからも励ましの言葉をいただきました。
改めてこの方々にこの場を借りて御礼申し上げます。
風邪をひいたり、二日酔いになった時も何とか続けてこられました、しかしこれからどの位続けられるか判りませんが、一歩一歩進んでいきたいと思います。
累積投稿数 2000回記念と云うことで、これにかこつけて飲み仲間4人で飲み会を行う予定です。

トラブルにより録音できませんでしたが、改めてパソコンの「聞き逃し」で対応します。
1927年生まれ、90歳
小説、詩、俳句、評論、エッセー、ルポルタージュ等多くのジャンルを行き来しながら60年以上に渡って執筆活動を続けて来ました。
代表作「犯罪紳士録」、東京の各地を歩いて書き上げた『東京骨灰紀行』,『裸の大将一代記 山下清の見た夢』などがあります。

新しい処、商店街などを歩くのが好きです。
今は元気ですが、若い時は病気(結核)をしました。
若い時から詩を書いていました。
50歳代から俳句をやりだしました。
垣根をまたいで行くのが好きです。
小学校2年生の時に綴り方をまとめるようにと、先生から言われました。
花電車 (2年生の1学期)
「この間、家の人と花電車を見にゆきましたが、 人が大勢いるので一番前で見ていると、お父さんが一番後の方が見えると言うので、後ろの方に行ったが良く見えないので、僕良く見えないと言ったら、お父さんは僕をおんぶしてくれました。
良く見えました。
花電車を数えてみたら、10台ありました。
そのうち一番綺麗なのは一番うしろでした。
孔雀が羽根を広げているところでした。
帰りに花電社の絵葉書や満州国の皇帝陛下の絵葉書を買って帰りました。」

花電車が出るときはみんな見物に行きました。
色んな絵葉書があり、集めている人もいました。
父は銀座でハイヤー業をやっていました。
アメリカの中古車で6~8人乗っていました。
銀座西8丁目地図
蕎麦屋、民芸品店、魚屋、風呂屋、芸者置き場などがありました。
このへんが新橋芸者の本拠です。
芸者が風呂屋に来るが、母親に連れられて小学校3年生ぐらいまで女風呂に入っていました。
芸者さんは人力車で来ていたので、人力車を見ると芸者が来ているかどうか判りました。
谷中銀座みたいに銀座もごちゃごちゃしていました。

戦争は時期に終わると思っていました。
支那事変がはじまって南京が陥落して、もうおしまいだと思っていた。
旗行列、提灯行列が何日も続いた。
ところがちっとも終わらない、ガソリンが入らなくなり商売ができなくなり、米が配給制になりひどい世の中になっていった。
日本は経済封鎖されて(今北朝鮮に対して行っているが危ない)今のうちに戦争をしないとガソリンが入らないということで、真珠湾攻撃をすることになる。
空襲は無茶苦茶だった。
8月15日戦争が終わって、戦争に負けるのは良かったですよ。
宮城前の二重橋でみんなが土下座をしているということで見に行ったら、有楽町で証拠書類を皆焼いていました。
占領軍が来たら、女性陣を揃えるとか、大人はしょうがない奴だと段々見えてくる。
権力が変わるということは面白いですよ。

銀座で商売できないから世田谷に引っ越して、渋谷によく遊びに行きました。
結核になり何年もぶらぶらしていました。
日大芸術学部に入り(池袋)、一つ一つ街を体験してそのことが面白かった。
東京は面白い、現在と歴史が重なっている。
総じて言うと世の中がつまらなくなる一方で、人類は滅びる方向に向かっているんだろうと、大まかに見るとそう思います。
お茶の水の本屋街だったところが、楽器街になって行ってあれは今の若者たちは楽器で表現するというふうになってきているんだと思う。

それぞれの分野が、実を言うと、文壇、俳壇、歌壇とか○壇があって階級社会ですね。
保守的ですね。
私はそういうことにとらわれることはありません、ジャンルをまたいでゆく楽しさです。
割と喜怒哀楽があるが、それが長生きの秘訣かもしれません。
2020年東京オリンピックがありますが、オリンピックはあっという間に終わります。
大工事をしてゼネコンが儲かる、それだけの話ですよ。
前回のオリンピックでは都市改造がありプラスの面がありましたが、マイナスもありました。
東京は江戸と云う街を薩長土肥に占領された非占領都市であって、薩長土肥が占領者、いまだに占領されている。
占領者が勝手気ままにいじくりまわしている。

近代が行き詰っているというのは、世界の常識じゃないですかね。
近代をどう乗り越えて行くかと云うことが、人類に課された課題だと思います。
そういう意味では私は絶望はしていません、若い人たちを頼もしく思います。
グローバルがやってきているのに、支配階級は国民に向けて教育勅語など冗談ではない。
我々も国境を越えればいい。
民衆次元で国境を越えて行く、近代の限界を越えて行く。
私の元気の秘訣は好奇心だろうね。
友人が大事ですよ、女の友達も大事ですよ。




















2017年8月29日火曜日

鶴丸礼子(服飾デザイナー)     ・身体の個性が輝く服を

鶴丸礼子(服飾デザイナー)     ・身体の個性が輝く服を
60歳、幼いころから服を作ることが大好きだった鶴丸さんは、服飾の専門学校を卒業し、
フランスブランドのオートクチュールで働いた後、服飾デザイナーになりました。
やがて障害や身体の痛みで既製服を着る事が難しい人たちがいることを知り、試行錯誤の後、10年掛けてどんな体形にもあう独自の製図法を生み出しました。
ことしの3月には一人一人の希望をかなえ、身体の個性を輝かせる服を紹介した写真集を出版しました。

写真集から3点
①バタフライジャケット、高齢の女性が椅子に坐っている。(足の具合がちょっと悪い方)娘、孫が両脇にいる。
濃い青の生地に鶴が描かれているデザインを3人が着ている。(絵に描かれていたもの)
布を自分でオリジナルで作ることをやって来ました。
車椅子に坐ったままで手の全く動かない人でも、他の人が簡単に着せることができる。

②黒いマオカラージャケット、普段は電動車椅子で生活する人、1歳8カ月でポリオ(急性灰白髄炎)に感染して、歩けなくなり就寝以外は身体の周りにコルセットを巻いている。
背中がつっぱたり、右手が細くて握力がない、依頼がありました。
左手だけしか動かないので、内ポケットも左手が使えるようにしました。
第一声が首が楽、とおしゃっていました。
生地はなめらか、カシミヤ・ドスキンという生地で皺にはならず家でも洗えます。
一年中着ることが出来ます。

③目の見えない女性が、点字服を着ている。
袖のところと肩の処にきらきら光るラインストーンが付いている。
この人は右目が義眼で、左目が僅かに見える。
障害の重い方をベースに考えて作るので、この洋服も全く見えないという事を想定して作っています。
ラインストーン(コバルトブルーを使っている)、点字の形にして服に付けるアイディアは私が出しました。
彼女はメイクに目覚めて、自分と同じように見えない人のためにお化粧するやり方を教えられる人になりたいということで、彼女はコスメの勉強をしています。

障害を洋服で解消したり、治したりすることはできないが、今ある自分を人と違うおしゃれが出来ることで、ジロジロ見られることが厭だったことが、注目されることが快感なってどんどん変わってきて、前向きになって来ます。
どうせ生きていくのなら楽しく生きていかなければいけないと思います。
洋服は着たら脱ぐことができるので、今日も明日もずーっと変えることができる。
ジャージで過ごすよりは、人と違ったおしゃれが出来る訳です。
ファッション性だけではなくて、20分かかって着ていたのが4分でできるとか、そうすると自信にも繋がっていきます。

小学校の時に列車事故で片足になった1つ先輩の女性がいました。
大人になって最初に出会った障害のある方は私が藍染の個展をしたときに洋服を買って下さった人で、自分の体形に合わせて作ってくださいと言われました。
日本にバリアフリーと云う概念が入ってきて、そういう方たちと会って行く中で、こういう人たちのためになんで服を作ってこなかったのだろうと、猛反省しました。
色んな障害者が集まる施設等に行ったときに、なんとかしなければいけないと思いました。
最低、バストと背丈で計算方式があり、コンピューターで平均値を出すわけで、複雑な計算があるが、私は身体にメジャーを当てて前後左右をきちっと測って、腕を伸ばした時、曲げた時なども違うし、ゆがみもあり、一回でピッタリいく製図法を模索していて、そうしているうちにどんどん測るところが増えて来ました。
解決するための共通項が出来たりして、46か所を測ってそのうちの26か所を使って一回で正確な原形を作ることを確立しましたが、自分でもびっくりしました。
一般的には原形には補正が必要だが。

鶴丸式製図法が生まれました。(20年前)
測るところと測るところに1cm弱のシールを貼って、その中心間を測ります。
他の人と共有して作ることができます。
鶴丸式の採寸士というライセンスを持っていただいて、測ったデータが来て、会ったことのない方の洋服が作れるようになったらいいなあと思って、そういう学校も作っていきたい。
一つずつ出来ることからやって実現に向けてやっています。
スーツで10万円ぐらいで、保健が適用されれば安くできると思っています。
繊維筋痛症の方がいましたが、身体が触っても痙攣が来るぐらい痛い難病、痛みは治らないが最後はおしゃれしかないということで来ましたと言っていました。

測定が非常に難しいと立体裁断という手法を使うが、カーブしていたりしていて、難易度が高くて、直接布を体に当てていって、ピンを打って型紙を作って行く立体裁断をやらないと無理です。(身体のゆがみにも対応できる)
オートクチュール、フランスのオートクチュールの組合に入っていないといけない。
最高級の製縫技術で、全て手作業で行います。
ハ差し(昔ながらの仕立て)、片仮名のハの字のように掬いながら布にカーブを付けて行く。
このやり方が厚生労働省の1級技能士の検定試験の実技の課題なので、弟子たちには必ず教えてハ差しと云うやり方でやっていきます。
弟子たちには世界にどんどん出て行ってほしい。
弟子は30人ぐらいいますが、2年ぐらいしたらだいたいみなさんプロになります。
難しい仕事、めんどくさい仕事ほど学ぶ事が多いので、お客様に感謝する気持ちでなるべく授業料を払う気持ちで少し安くしています。

私は幼稚園の時から人形の洋服をつくっていました。
中学の時に初めて自分のワンピースを作って、高校でも作っていて、短大ではほとんど洋服を作っていました。
短大は初等教育の学校の先生になるための短大でしたが、被服科の教室を無断で使っていました。
あなたは面白い物を作るから、卒業したらうちの学院にいらっしゃいと言われました。
文化服装学院の夜間に行きながら仕事に行っていました。
20歳から睡眠が3時間と云う生活になりました。
自分の服を1年間に365枚作ったことがあります。(翌日着る服を作った)
体調を崩して、仕事を辞めて、翌日はパリに行きその後世界の色々なところに旅行しました。
その後自分のブランドの立ち上げてやろうと思いました。
アメリカから日本を見たときにいいなと思いました。(藍染、シルクスキン・・・)
どんな人にも着る喜びを味わっていただきたいと思います。
技術者をどんどん育成していきたいと思っていて、洋服のリフォームに関して自分の経験してきたことを情報提供して、やり方が綺麗に上手になっていただきたいと思っています。
大分は自分の人生の半分居るので、障害者たちのファッションは大分が頑張っているな、というようになりたいと思っている。
これはどんな人の身体にもぴったりするので、鶴丸式製図法を世界標準にしたいと思っています。
障害を持たれた方、高齢の方、洋服を身体に合せて作って行くと、ゆがんでいる者がゆがんでいないように見えるので、後ろ姿を見てもらいたい、後ろ姿に自信を持っていただく、そうすると気分も変わってきて人にも優しくなれると思います。










2017年8月28日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)       ・シェークスピア【絶望名言】

頭木弘樹(文学紹介者)       ・シェークスピア【絶望名言】
「後で1週間嘆くことになるとわかっていて、誰が1分間の快楽を求めるだろうか。
これから先の人生の喜びの全てと引き換えに、今欲しいものを手に入れる人がいるだろうか。
甘いブドウ一粒の為にブドウの木を切り倒してしまう人がいるだろうか」シェークスピア

代表作は4代悲劇、「ハムレット」、「オセロ」、「リア王」、「マクベス」のほか「ロミオとジュリエット」、「ベニスの商人」など多くの作品に渡ります。

「甘いブドウ一粒の為にブドウの木を切り倒してしまう人がいるだろうか」
後になったら後悔するに決まっているわけだが、でもやってしまう。
痩せたいと思っているのに目の前のおいしそうなケーキを食べてしまう、等々。
人間の弱さを見事に表している。
今は社会一般の風潮として自分をコントロール出来た方がいいと思っている人が多いと思う、健康管理、体重管理、感情管理・・・。
病院に入院しているときに50歳代の人が入院していて、血液がサラサラになってはいけないという人で、納豆を食べると血液がサラサラになってしまうので、納豆を食べないようにと云う風に言われていたが、或る晩血が流れて来ていて、夜中に処置して命は大丈夫だったが、あなたは納豆を食べたでしょうということで、その方は大出血をするのがわかっていて、その人は納豆を食べてしまった。
逆にきちんとコントロールできる人には、判らないこと、出来ないことがあると思う。
人間はここまで逸脱してしまうということがわかっているからこそ、人を使えるということもありうる。
一概にコントロールできているからいいとはいえない、出来てないからこそ判ることもある、出来ることもあるという面もあると思います。

ハムレット
「不幸は一人ではやってこない、群れをなしてやって来る。」
右手でグラス、左手でお皿を持っているとして、うっかり右手のグラスを落として割ってしまうと、あわてて左手のお皿を割ってしまうということは、ありがちです。
不幸、失敗があったときは更にそれが次を呼び込んでしまうかもしれないということは、気持ちの中に持っていたほうがいいと思う。
一病息災と云うが、一病あると合併症、副作用、そこをかばうあまり他に問題が起きたりする。
次の不幸を呼び込まないようにする。

リア王
「どん底まで落ちたと言えるうちは、まだ本当にどん底ではない。」
私は20歳で病気になった時はどん底だと思っていたが、まだまだ底があった。
生きているうちはまだ本当のどん底ではないのかなとも思います。
息しているだけでも、本当のどん底ではないかもしれない。
恐れ、は大事だと思う。
人生を恐れないからいい加減に生きてしまう。
宮古島で物凄い台風が来た時には、どうしようもなくて、ただ祈るしかない、何に祈っているわけでもないがただ祈る、そう言う境地も大事なのではないかと思うようになりました。
宗教心とも違ってどうしようもない状況に恐れを感じて、ただ恐れて祈る、そういう境地もあった方がいいような気がします。
*「わが涙よあふれよ」 ジョン・ダウランド作曲  演奏

「明けない夜もある。」
「明けない夜は無い」と云う言い方があるがこれは一般的、マクベスに出てくる言葉。
嘆き始めたばっかりなのに、「明けない夜は無い」はちょっと早くはないですか。
「明けない夜は長い」と云う意味でもあるわけで、泣きだしたばっかりの人に涙はいずれ乾くよといきなり云うのはおかしいと思う。
覚悟を促す言葉ではないかと思って、「朝が来なければ、夜は永遠に続くからな」と松岡さんは訳した。
私としては更に「明けない夜もある。」と訳したい、そう思うぐらいです。
「明けない夜は無い」と云う言い方は自然現象のように時間が経てば自然に消えてゆくと思われるが、心の闇はそうはいかないと思う。
時間とともに癒されない悲しさもあると思う。
そういったことを知っておくことも必要だと思います。

お気に召すまま
「逆境がもたらしてくれるものは素晴らしい、それはヒキガエルの様に見苦しく、毒があるが、頭の中に貴重な宝石が隠れている。」
ヒキガエルは身体の表面に毒を分泌している。
頭の中に貴重な宝石が隠れている。 当時宝石でトード(toad=蛙)ストーンと云うのがあってヒキガエル石、指輪に使われていたが、魔よけ、毒消しとかに効果がありといわれていた。
トードストーンはヒキガエルの胎内に発生するものだといわれていて、頭の中に出来たトードストーンは貴重だといわれていた。
トードストーンは本当は魚の化石らしい。
逆境の中で素晴らしいものを見つけることは、ヒキガエルの頭の中に綺麗な宝石を見つけると云うふうにたとえられている訳です。
辛い目に会うと初めて気づくことはあります。
正直には逆境がない方がいいと思うが。(無理だとは思うが)
不幸なことがあって逆境に陥ってしまったときに、周りの人が求めるのは、元に復活してくるか、別の分野で頭角を現してくることを求める。
逆境の中から何か大切なものを見つけて、それを教えてほしいというようなことがあるが、逆境に陥って必ず宝石が見つかることがないかもしれない。
私が逆境を経験して得た宝石は、文学です、絶望名言は私にとって宝石ですが、立ち直れるという宝石よりは倒れたままでいさせてくれる枕のようなものだと思っています。

マクベス
「明日、また明日、そしてまた明日、一日一日をとぼとぼと歩んでゆき、ついには人生の最期の瞬間にたどり着く。
昨日と云う日はすべておろかものたちが塵と化して行く死への道を照らしてきた。
消えろ、消えろ、つかの間のともしび、人生は歩き回る影法師、哀れな役者だ。
舞台の上では大見えを切っても出番が終わればそれっきり、我を忘れた人間のたわごとだ。
劇場にとらわれてわめきたてているが、そこに意味などないのだ。」
いまの世の中にもそのまま通じるよう感じがしました。
太宰治のような感じがします。
ろうそくと云う感覚は凄くあります、ちょっとしたことで大きく揺らいで消えかねない。何とか風の中で頑張って、消えそうになっても点いて居てくれる危うさがあります。
シェークスピアの絶望名言の魅力は常にもっと先があるぞと暗示している所ではないかと思います。
たかをくくってはいけない、まだまだ自分の知らないもっと深い悲しみ、どん底があるかもしれない、現実に対する畏敬の念を持つことは人生に対して、他人に対しても、もっと優しく丁寧に接する事に繋がるのではないかと思います。








































2017年8月27日日曜日

江夏豊(プロ野球評論家)・【スポーツ名場面の裏側で】勝負に生きた男

江夏豊(プロ野球評論家)・【スポーツ名場面の裏側で】勝負に生きた男
阪神、南海、広島、日本ハム、西武のプロ野球5球団で通算18年間で206勝193セーブを挙げた江夏さんに伺います。
69歳、大阪学院高校からドラフト1位で阪神タイガースに入団しました。
新人時代から6年連続奪三振王となり、2年目、20歳のシーズンでは25勝を挙げ、最多勝、沢村賞、ベストナインでセ・リーグ最高のピッチャーとなりました。
その後南海に移籍してからはリリーフに転向し、4球団8年間で 5度の最優秀救援投手になりました。
その間、広島で2回、日本ハムで1回チームのリーグ優勝に貢献し、優勝請負人といわれました。
しかし、リリーフ転向当時は日本球界にリードして8回か9回にマウンドに上がる専門の ピッチャーはいませんでした。
ゲームの後半から準備する調整法をめぐってチームメートから批判を受けるなど、抑え役の先駆者としてつらい体験もあったそうです。

高校時代の甲子園は歳をとっても、僕にとってはいまだに憧れです。
開会式、行進、選手宣誓などが終わるまでは、大概正座して見守っています。
昭和42年阪神に入団、12勝マークして、奪三振王となり、6年間続くことになる。
村山さんから5勝したら背広をプレゼントするといわれて、貰う事が出来ました。
2年目からはライバルとして見られて、村山さんからは話もして貰えませんでした。
昭和43年には25勝を挙げ、最多勝、沢村賞、ベストナインに選ばれる。
1シーズンの奪三振記録401、50年間日本記録として残っている大記録を作った。

3つの名場面
①昭和43年日本新記録達成、それまでは稲尾選手の353個、9月17日の巨人戦
記録を作るんだったら、王さんから三振取りたいと言いました。(願望)
1回2三振、2回2三振、3回2三振、4回に王さんから三振を取り(この回も2三  振)、新記録だと思ったら、キャッチャー辻さんからタイ記録だといわれてしまった。
5,6,7回まで点を取られないようにして、(ピッチャーからは三振を取れたと思うが)
王さんと3回目の対決となった。
1ボール、2ストライクからの4球目、胸元へ投げる。
355個目の三振を取る、その後延長戦に入り、12回裏2アウト1,2塁、江夏が高橋一三
投手から打って1-0で勝つことになる。

②入団5年目、昭和46年オールスターゲーム、第一戦に先発、1回三者連続三振、2回三者連続三振、3回2三振、9人目はファールフライになるが、スタンドに入るので「追うな」と田淵選手に言った。
その言葉がマスコミの方たちに勝ってに変えられて、「取るな」になってしまった。
(早くこの緊張感から逃れたいとの思いがあったと思う)
結局3人目も三振に打ち取る。(固唾を飲んで見守っていてシーンとした状況だった。)
王さんが記念のボールを取ってきてくれました。
あのときは田淵捕手とノーサインでやりました。
2回の表に阪急の米田投手から3ランホームランを打って、このゲームのMVPに選ばれる。

昭和48年8月30日、甲子園球場で対中日戦、延長11回、1-0、サヨナラゲームでノーヒットノーランを達成する。

③昭和54年 広島が4年ぶりに優勝した時、近鉄との日本シリーズ。
3勝3敗の後の第7戦、4-3で広島がリード、7回から江夏がマウンドに上がる。
9回裏ノーアウト満塁となる。
逃げ切るのは難しいと当然思いました。
ブルペンが動いて、池谷、北別府をリリーフ練習場に走らせたが、それは僕にとっては納得できなかったし、悔しかった。
腹立たしさが先に来て、古葉監督を見つめていました。
衣笠さんが投球練習場を見るな、次のバッターに全力を掛けろと言ってきた。
後からの話では、衣笠さんがきて「もし辞めるならおれも一緒に辞めてやる」と言い、
古葉監督は「同点になったとき、次の延長10回の裏のピッチャーをだれにするかは当然で、二人のピッチャーをリリーフの投球練習に行かせました、監督としては当たり前でしょう」と言いました。
前年の首位打者佐々木選手を三振。石綿選手の時にスクイズを外す。
ノーアウト満塁では逆転にするという強硬策、1アウトになって次のバッターが同点にすると云うのが野球のセオリーで、スクイズしかないと思った。
何球目にスクイズ来るかが、バッターとの駆け引きだった。
2球目を投げようとしたら石綿選手が動く気配があった。
(脇が開いていた、そうするとバットコントロールはできない)
カーブのサインだったので、その握りで投げました。
石綿選手の時にスクイズを外し2アウト、2,3塁になりました。
3人目を三振に打ち取り、優勝することが出来ました。
カープ創設30周年でした。

いい時代に野球をやらせてもらったと思います。
王さん、長島さんと勝負ができたということはピッチャーとしての財産だと思います。
昭和52年野村監督からリリーフをやってみないかといわれたのが、大きな転換点となった。
当時はリリーフは完全に先発できない投手として、ワンランク下だった。
100球は無理だが、30から40球ならばまだ放れると、野村監督がリリーフを考え出してくれました。
基本的にはピッチャーをやるからにはやはり先発ですよ。
王さんと対決した時に、首を7回振ったが、田淵選手からは直球とカーブしかないのに、なんで7回も首を振るのかと言われたことがあります。
相手に対して効果があればやっていきます。
夏場の暑い時にはわざとピッチャーを歩かせたりしたこともあります。
色々考えることで工夫して面白いです、工夫が大事です。

酒は一滴も頂けません、大の甘党で食べること自体が大好きです。
食べて食べてシュークリームはもう食べあきました。
昭和43年生まれて初めてピザを頂いた時には、世の中にこんな美味いものがあるのかと思いました。
焼き肉は良く食いに行きましたが、23歳のときに尿酸値が上がって痛風になりました。
心臓は持って生まれた病気でWPW(Wolff-Parkinson-White syndrome、WPW症候群)と云う病名です。
現役時代は医師からたえずニトログリセリンを持っているように言われました。
肩肘の痛み止めの薬を何百本と打ってきました。
足の甲が高くて両足首は7か所ひびが入っています。
本が好きで司馬遼太郎、浅田次郎さんの作品が大好きです。
本は自分で好きなように想像できるので素晴らしい世界だと思います。
平成5年に覚せい剤取り締まり法違反で2年余りの懲役刑をうけて、社会的制裁も受けて、
もうあの件は思い出したくもないし、2度と同じ過ちはしない、それだけです。
天狗になる事はあるが、天狗の鼻はいつかは折れる、鼻が折れても、もう一度又同じ階段を一歩一歩昇っていって二度と鼻が折れない様なしっかりした自分を作ればいいんじゃないかと思います。
後悔しない、精一杯燃え尽きることと、同じ泣くんだったら勝って泣いてくれ、負けて泣くのはつまらないと言いたいです。


















佐々木











2017年8月26日土曜日

池澤夏樹(作家)          ・母を語る(H26/2/18 OA)

池澤夏樹(作家)          ・母を語る(H26/2/18 OA)
池澤さんは1945年、北海道生まれ、母は詩人の原條あき子、父は作家の福永武彦です。
幼い頃に、両親は離婚、母は間もなく夏樹さんを連れ再婚、高校生になるまで実父のことは知らずに育ちます。
埼玉大学工学部に入学しますが中退、世界各地を旅し、ギリシャで3年間暮らし、帰国後に初の詩集「塩の道」を出版、1988年「スティル・ライフ」で第98回芥川賞を受賞します。
その後沖縄、パリに住み、現在は北海道の札幌市で暮らしながら、小説、評論などを発表しています。
小説「花を運ぶ妹」で毎日出版文化賞、「すばらしい新世界」で芸術選奨文部科学大臣賞、評論「楽しい終末」で伊藤整文学賞を受賞しました。
2007年に紫綬褒章を受賞、池澤さんが物書きとして絶対的な信頼をおいていたというお母様について伺います。

札幌の前はフランスに5年間住んでいて、その前は沖縄にいました。
段々歳なのか、郷里に近い気候の所がいいと思って、帯広だと不便で、札幌にしました。
道路が広くて、札幌はアメリカの地方都市がモデルだと思います。
知らないところに行ってみるのが好きで、何か感じるし、それをきっかけに何か書けるかもしれない。
私の名前は相談して付けたのではないかと思います。
2歳ちょっとで別々になりました。
父が結核になり、治療のために、東京清瀬に移って、介護のために母親も東京に行ってしまって、祖父母、叔母に育てられました。
父は完全に記憶から無くなっています。
小学校に入る直前に東京に行きますが、その時には離婚していて、新しい父がいました。
福永のことは高校生になるまで知りませんでした。(母はなにも言わなかった)
池澤の父は僕とは16歳違いです。(可笑しいはずだが)
何の疑問も持っていなかった。

母は詩人の原條あき子
福永武彦さんの戦後日記、最初帯広のサナトリュウムにいて、その後東京の清瀬に移ったが、非常に不安な精神的混乱の時期を書いたのがあの日記です。
母親は英語が専門でしたから手紙のやり取りで、半分冗談、半分日本語で言いにくいことを英語で言い変えてみるということはあったようです。
女子大を9月に繰り上げ卒業して、卒業式の3日後に結婚しました。
私が生まれたのが終戦一か月前なので、混乱の時期で食べるものがない、職もない、住むところがないという時期に夫が結核になり、絶望みたいな感じで、余裕がなくて、いま読み返しても心痛むような日々です。
二人とも詩を書くので、文学の話をすればきりが無かったが、帯広で中学の英語の先生になったがこれで安心と思ったら結核になった。
辛い時期が7,8年続く訳です。
進駐軍が手紙の検閲をしていたが、そこで働いたり、軍人専用のデパートで売り子をしていたりしました。(母は英語が役に立ちました。)

しかし母は疲れ果ててしまい、それが数年続いて、妻が働いてお金を得ていると夫の医療費の補充が無くなるようなことになって、形式的に別れるということが、気持ちの上でも離婚になりました。
小学校にあがるときに東京に行ったがその時には新しい父親でした。
その時の印象はありません、受け入れただけでした。
池澤が小さな広告代理店をやりますが、必死で手伝って文章を書いていましたが、あれをやったので詩が書けなくなったというようなことを言っていました。
高校生のころに母は又長い詩を書いていましたが、テーマは福永との別れのことですね。
自分の方が福永を捨てたんだと、悔恨の思いが最後までついてまわって、何とか表現したいというようなものでした。(私が20歳の頃よんだが、意味付けまでは判りませんでした。)
高校生の時に、両親から事情を教えてもらいました。(それまでは何の疑いもなかった)
大学(理系)は中退してぶらぶらしていて、それぞれにいろいろな思いを抱えていたと思います。
そうそうまっすぐそっちの道(文系)に行ってたまるかと云うような思いもありました。
理系への限界を感じて、中退しました。
親たちが思う自分になったのは芥川賞を貰った時だと思います。(43歳頃)

小学生のころに父と知らされずに会ったこともありました。
母親は干渉しない人でした。
芥川賞を受賞して受賞式のあいさつで、ここまで育ててくれた池澤の父に感謝しますと言いましたが、その時には母親は亡くなっていましたが。
文章を書くようになってから、理系の物の考え方は残っています。(良かったと思う)
心の深いところでは自分も書く側に回りたいと思っていたんだろうと思うが、うかつに試してみて自分にその才能が一切ないとわかったら、その先の人生何していいかわからない、憶病なんです。
先に伸ばしていて、一つのきっかけは福永が亡くなったことです。
父がいる間はとても小説などを書くことを想像もしなかった。(抑圧していた)
父親はうっとうしいもんです。

翻訳家はお米を買うためにやっていました。
詩は書いてみたけれども、詩人として身を立てられるとは思わなかった。
母のような抒情的な言葉使いはできませんでした。
今になって考えると、母と僕は近くて、出口が見つからないでうろうろしていたときに、母親は透け透けに見えていたと思うので、ほっておくしかないと思っていたと思います。
書いたものを見せていましたが、面白いんじゃないというぐらいで干渉はしませんでした。
うかつな事を言って先を狭めてしまう、気にしながら知らん顔していたんでしょうね。
やることなすこと、母親が気にいる、受け入れてくれるようにふるまってきた。
それがなかなかできなかったのは力がなかったからで、人生の物差しとしては母親の審美眼といいますか、文学感、社会感、言葉のセンスが一番です。
母の一族は淡路島で明治の初期に開拓移民として北海道に来てさんざん苦労するんですが、その話は子供のころからきいていて、いずれ書かなければいけないのではと思っていました。
「静かな大地」を新聞に連載して、これで随分気が楽になりました。
文学的センスを母から僕は継承できたと、思ってくれればそれは親孝行ですね。
「やがて麗しい春の訪れ」(「やがて麗しい五月が訪れ」?)という詩集(原條あき子)を一冊まとめました。(母の死後)
自分の中にあった、父親、母親のタブーが歳を取るとほどけるものだなあと思っています。




















2017年8月25日金曜日