2017年8月26日土曜日

池澤夏樹(作家)          ・母を語る(H26/2/18 OA)

池澤夏樹(作家)          ・母を語る(H26/2/18 OA)
池澤さんは1945年、北海道生まれ、母は詩人の原條あき子、父は作家の福永武彦です。
幼い頃に、両親は離婚、母は間もなく夏樹さんを連れ再婚、高校生になるまで実父のことは知らずに育ちます。
埼玉大学工学部に入学しますが中退、世界各地を旅し、ギリシャで3年間暮らし、帰国後に初の詩集「塩の道」を出版、1988年「スティル・ライフ」で第98回芥川賞を受賞します。
その後沖縄、パリに住み、現在は北海道の札幌市で暮らしながら、小説、評論などを発表しています。
小説「花を運ぶ妹」で毎日出版文化賞、「すばらしい新世界」で芸術選奨文部科学大臣賞、評論「楽しい終末」で伊藤整文学賞を受賞しました。
2007年に紫綬褒章を受賞、池澤さんが物書きとして絶対的な信頼をおいていたというお母様について伺います。

札幌の前はフランスに5年間住んでいて、その前は沖縄にいました。
段々歳なのか、郷里に近い気候の所がいいと思って、帯広だと不便で、札幌にしました。
道路が広くて、札幌はアメリカの地方都市がモデルだと思います。
知らないところに行ってみるのが好きで、何か感じるし、それをきっかけに何か書けるかもしれない。
私の名前は相談して付けたのではないかと思います。
2歳ちょっとで別々になりました。
父が結核になり、治療のために、東京清瀬に移って、介護のために母親も東京に行ってしまって、祖父母、叔母に育てられました。
父は完全に記憶から無くなっています。
小学校に入る直前に東京に行きますが、その時には離婚していて、新しい父がいました。
福永のことは高校生になるまで知りませんでした。(母はなにも言わなかった)
池澤の父は僕とは16歳違いです。(可笑しいはずだが)
何の疑問も持っていなかった。

母は詩人の原條あき子
福永武彦さんの戦後日記、最初帯広のサナトリュウムにいて、その後東京の清瀬に移ったが、非常に不安な精神的混乱の時期を書いたのがあの日記です。
母親は英語が専門でしたから手紙のやり取りで、半分冗談、半分日本語で言いにくいことを英語で言い変えてみるということはあったようです。
女子大を9月に繰り上げ卒業して、卒業式の3日後に結婚しました。
私が生まれたのが終戦一か月前なので、混乱の時期で食べるものがない、職もない、住むところがないという時期に夫が結核になり、絶望みたいな感じで、余裕がなくて、いま読み返しても心痛むような日々です。
二人とも詩を書くので、文学の話をすればきりが無かったが、帯広で中学の英語の先生になったがこれで安心と思ったら結核になった。
辛い時期が7,8年続く訳です。
進駐軍が手紙の検閲をしていたが、そこで働いたり、軍人専用のデパートで売り子をしていたりしました。(母は英語が役に立ちました。)

しかし母は疲れ果ててしまい、それが数年続いて、妻が働いてお金を得ていると夫の医療費の補充が無くなるようなことになって、形式的に別れるということが、気持ちの上でも離婚になりました。
小学校にあがるときに東京に行ったがその時には新しい父親でした。
その時の印象はありません、受け入れただけでした。
池澤が小さな広告代理店をやりますが、必死で手伝って文章を書いていましたが、あれをやったので詩が書けなくなったというようなことを言っていました。
高校生のころに母は又長い詩を書いていましたが、テーマは福永との別れのことですね。
自分の方が福永を捨てたんだと、悔恨の思いが最後までついてまわって、何とか表現したいというようなものでした。(私が20歳の頃よんだが、意味付けまでは判りませんでした。)
高校生の時に、両親から事情を教えてもらいました。(それまでは何の疑いもなかった)
大学(理系)は中退してぶらぶらしていて、それぞれにいろいろな思いを抱えていたと思います。
そうそうまっすぐそっちの道(文系)に行ってたまるかと云うような思いもありました。
理系への限界を感じて、中退しました。
親たちが思う自分になったのは芥川賞を貰った時だと思います。(43歳頃)

小学生のころに父と知らされずに会ったこともありました。
母親は干渉しない人でした。
芥川賞を受賞して受賞式のあいさつで、ここまで育ててくれた池澤の父に感謝しますと言いましたが、その時には母親は亡くなっていましたが。
文章を書くようになってから、理系の物の考え方は残っています。(良かったと思う)
心の深いところでは自分も書く側に回りたいと思っていたんだろうと思うが、うかつに試してみて自分にその才能が一切ないとわかったら、その先の人生何していいかわからない、憶病なんです。
先に伸ばしていて、一つのきっかけは福永が亡くなったことです。
父がいる間はとても小説などを書くことを想像もしなかった。(抑圧していた)
父親はうっとうしいもんです。

翻訳家はお米を買うためにやっていました。
詩は書いてみたけれども、詩人として身を立てられるとは思わなかった。
母のような抒情的な言葉使いはできませんでした。
今になって考えると、母と僕は近くて、出口が見つからないでうろうろしていたときに、母親は透け透けに見えていたと思うので、ほっておくしかないと思っていたと思います。
書いたものを見せていましたが、面白いんじゃないというぐらいで干渉はしませんでした。
うかつな事を言って先を狭めてしまう、気にしながら知らん顔していたんでしょうね。
やることなすこと、母親が気にいる、受け入れてくれるようにふるまってきた。
それがなかなかできなかったのは力がなかったからで、人生の物差しとしては母親の審美眼といいますか、文学感、社会感、言葉のセンスが一番です。
母の一族は淡路島で明治の初期に開拓移民として北海道に来てさんざん苦労するんですが、その話は子供のころからきいていて、いずれ書かなければいけないのではと思っていました。
「静かな大地」を新聞に連載して、これで随分気が楽になりました。
文学的センスを母から僕は継承できたと、思ってくれればそれは親孝行ですね。
「やがて麗しい春の訪れ」(「やがて麗しい五月が訪れ」?)という詩集(原條あき子)を一冊まとめました。(母の死後)
自分の中にあった、父親、母親のタブーが歳を取るとほどけるものだなあと思っています。