2017年8月27日日曜日

江夏豊(プロ野球評論家)・【スポーツ名場面の裏側で】勝負に生きた男

江夏豊(プロ野球評論家)・【スポーツ名場面の裏側で】勝負に生きた男
阪神、南海、広島、日本ハム、西武のプロ野球5球団で通算18年間で206勝193セーブを挙げた江夏さんに伺います。
69歳、大阪学院高校からドラフト1位で阪神タイガースに入団しました。
新人時代から6年連続奪三振王となり、2年目、20歳のシーズンでは25勝を挙げ、最多勝、沢村賞、ベストナインでセ・リーグ最高のピッチャーとなりました。
その後南海に移籍してからはリリーフに転向し、4球団8年間で 5度の最優秀救援投手になりました。
その間、広島で2回、日本ハムで1回チームのリーグ優勝に貢献し、優勝請負人といわれました。
しかし、リリーフ転向当時は日本球界にリードして8回か9回にマウンドに上がる専門の ピッチャーはいませんでした。
ゲームの後半から準備する調整法をめぐってチームメートから批判を受けるなど、抑え役の先駆者としてつらい体験もあったそうです。

高校時代の甲子園は歳をとっても、僕にとってはいまだに憧れです。
開会式、行進、選手宣誓などが終わるまでは、大概正座して見守っています。
昭和42年阪神に入団、12勝マークして、奪三振王となり、6年間続くことになる。
村山さんから5勝したら背広をプレゼントするといわれて、貰う事が出来ました。
2年目からはライバルとして見られて、村山さんからは話もして貰えませんでした。
昭和43年には25勝を挙げ、最多勝、沢村賞、ベストナインに選ばれる。
1シーズンの奪三振記録401、50年間日本記録として残っている大記録を作った。

3つの名場面
①昭和43年日本新記録達成、それまでは稲尾選手の353個、9月17日の巨人戦
記録を作るんだったら、王さんから三振取りたいと言いました。(願望)
1回2三振、2回2三振、3回2三振、4回に王さんから三振を取り(この回も2三  振)、新記録だと思ったら、キャッチャー辻さんからタイ記録だといわれてしまった。
5,6,7回まで点を取られないようにして、(ピッチャーからは三振を取れたと思うが)
王さんと3回目の対決となった。
1ボール、2ストライクからの4球目、胸元へ投げる。
355個目の三振を取る、その後延長戦に入り、12回裏2アウト1,2塁、江夏が高橋一三
投手から打って1-0で勝つことになる。

②入団5年目、昭和46年オールスターゲーム、第一戦に先発、1回三者連続三振、2回三者連続三振、3回2三振、9人目はファールフライになるが、スタンドに入るので「追うな」と田淵選手に言った。
その言葉がマスコミの方たちに勝ってに変えられて、「取るな」になってしまった。
(早くこの緊張感から逃れたいとの思いがあったと思う)
結局3人目も三振に打ち取る。(固唾を飲んで見守っていてシーンとした状況だった。)
王さんが記念のボールを取ってきてくれました。
あのときは田淵捕手とノーサインでやりました。
2回の表に阪急の米田投手から3ランホームランを打って、このゲームのMVPに選ばれる。

昭和48年8月30日、甲子園球場で対中日戦、延長11回、1-0、サヨナラゲームでノーヒットノーランを達成する。

③昭和54年 広島が4年ぶりに優勝した時、近鉄との日本シリーズ。
3勝3敗の後の第7戦、4-3で広島がリード、7回から江夏がマウンドに上がる。
9回裏ノーアウト満塁となる。
逃げ切るのは難しいと当然思いました。
ブルペンが動いて、池谷、北別府をリリーフ練習場に走らせたが、それは僕にとっては納得できなかったし、悔しかった。
腹立たしさが先に来て、古葉監督を見つめていました。
衣笠さんが投球練習場を見るな、次のバッターに全力を掛けろと言ってきた。
後からの話では、衣笠さんがきて「もし辞めるならおれも一緒に辞めてやる」と言い、
古葉監督は「同点になったとき、次の延長10回の裏のピッチャーをだれにするかは当然で、二人のピッチャーをリリーフの投球練習に行かせました、監督としては当たり前でしょう」と言いました。
前年の首位打者佐々木選手を三振。石綿選手の時にスクイズを外す。
ノーアウト満塁では逆転にするという強硬策、1アウトになって次のバッターが同点にすると云うのが野球のセオリーで、スクイズしかないと思った。
何球目にスクイズ来るかが、バッターとの駆け引きだった。
2球目を投げようとしたら石綿選手が動く気配があった。
(脇が開いていた、そうするとバットコントロールはできない)
カーブのサインだったので、その握りで投げました。
石綿選手の時にスクイズを外し2アウト、2,3塁になりました。
3人目を三振に打ち取り、優勝することが出来ました。
カープ創設30周年でした。

いい時代に野球をやらせてもらったと思います。
王さん、長島さんと勝負ができたということはピッチャーとしての財産だと思います。
昭和52年野村監督からリリーフをやってみないかといわれたのが、大きな転換点となった。
当時はリリーフは完全に先発できない投手として、ワンランク下だった。
100球は無理だが、30から40球ならばまだ放れると、野村監督がリリーフを考え出してくれました。
基本的にはピッチャーをやるからにはやはり先発ですよ。
王さんと対決した時に、首を7回振ったが、田淵選手からは直球とカーブしかないのに、なんで7回も首を振るのかと言われたことがあります。
相手に対して効果があればやっていきます。
夏場の暑い時にはわざとピッチャーを歩かせたりしたこともあります。
色々考えることで工夫して面白いです、工夫が大事です。

酒は一滴も頂けません、大の甘党で食べること自体が大好きです。
食べて食べてシュークリームはもう食べあきました。
昭和43年生まれて初めてピザを頂いた時には、世の中にこんな美味いものがあるのかと思いました。
焼き肉は良く食いに行きましたが、23歳のときに尿酸値が上がって痛風になりました。
心臓は持って生まれた病気でWPW(Wolff-Parkinson-White syndrome、WPW症候群)と云う病名です。
現役時代は医師からたえずニトログリセリンを持っているように言われました。
肩肘の痛み止めの薬を何百本と打ってきました。
足の甲が高くて両足首は7か所ひびが入っています。
本が好きで司馬遼太郎、浅田次郎さんの作品が大好きです。
本は自分で好きなように想像できるので素晴らしい世界だと思います。
平成5年に覚せい剤取り締まり法違反で2年余りの懲役刑をうけて、社会的制裁も受けて、
もうあの件は思い出したくもないし、2度と同じ過ちはしない、それだけです。
天狗になる事はあるが、天狗の鼻はいつかは折れる、鼻が折れても、もう一度又同じ階段を一歩一歩昇っていって二度と鼻が折れない様なしっかりした自分を作ればいいんじゃないかと思います。
後悔しない、精一杯燃え尽きることと、同じ泣くんだったら勝って泣いてくれ、負けて泣くのはつまらないと言いたいです。


















佐々木