苅谷由佳(「泉北レモンの街ストーリー」リーダー)・「ニュータウンにレモンを植えよう」
大阪府南部の堺市を中心に広がる泉北ニュータウン、昭和42年に入居が始まりました。
開発が始まってから53年という事になります。
このマンションや団地、宅地が広がる街ニュータウンにレモンの木を植えていこうというグループ「泉北レモンの街ストーリー」が活動を始めて今年で5年になります。
メンバーは現在15人、3月上旬の日曜日にレモンを使ったお菓子を持ち寄って試食会が行われます。
試食会には30代から70代まで年齢幅も広く、このグループに入った動機も様々です。
レモンの木を植えてきて800本を越えました。
15×20cmの板に「泉北レモンの街ストーリー」というスタンプが押してあり、新しく苗木を植えたいという人に1枚500円で購入していただき、苗木、門扉、玄関などに付けて苗木を育ててもらいます。
これが活動資金になります。
レモンの木をアゲハ蝶が好きで、春先は幼虫が食べているので取っていただくぐらいで、後は年に3,4回肥料をやる程度、水やりで育て易いです。
レモンは柑橘類なので実は1,2月に収穫で、4月ぐらいからつぼみができて5月に花が咲きます。
白い花で凄く甘い良い香りがします。
葉っぱは常緑樹でいつもついています。
レモンは完熟しても木に付いていて鳥も突っつかないです。
2014年に自分たちでもっと泉北の魅力を見つけて泉北の素晴らしい所を発信してゆこうというプロジェクトが広報に載っていたりして、メンバーに応募しました。
庭で出来たレモン、ハッサク、ミカンとか大根をたくさん持って行ってグループのところに持って行って貰っていただいていました。
レモン、ハッサクでママレードを作るとおいしいという事で作ったりしていました。
泉北で何かしたい人があればプレゼンテーションしてくださいと言う事で、レモンが特産品になればいいと思ったので、プレゼンテーションしました。
同調してくれる人が13人いました。
家には2本のレモンの木があり300個ぐらい獲れます。
昔からこの辺の地域には柑橘類がよく植えられていました。
大坂では鎌倉時代から柑橘類が植えられるようになり、200年前ぐらいからは温州ミカンが入ってきて、明治時代にミカンの栽培が広がり大正2年には全国柑橘大会が開催されるほど著名な産地になりました。
レモンがこの地の特産品になることを確信しました。
泉北の駅を降り経ったら春にはレモンの甘い香りで包まれるような街に成ったらなあと思いました。
堺市南区は1993年には16万人いた人口が4万人減ってきて、高齢化率も31%を超え、市の平均を上回っていて、空き家も増えてきている。
街の潤いをどうするかという事ですが。
新しく植えたられた木は「N」が入り、既存の木でプレート希望の方は「K」が入っています。
レモンの実はいろんなものに使われます。
今前にあるのがマーマレードだったり、刻んでフロマージュをビスケットに載せています、
シロップはレモンを輪切りにしてはちみつも入れて、作ります。
こういったものは一部商品化しています。
活動も丸5年になりました。
堺市南区の人たちは自然への感度が強く、レモンの街にしようという事に対して受け入れていただけたものと思います。
色々な土地で暮らした経験があるので泉北に戻ってきたときには、地元にずーっと住んでいた方より泉北の良さに気付かされたのかもしれません。
2020年3月14日土曜日
2020年3月13日金曜日
武井照子(元NHKアナウンサー) ・「戦中戦後の放送を生きて」
武井照子(元NHKアナウンサー) ・「戦中戦後の放送を生きて」
武井さんは大正14年埼玉県生まれ、昭和19年戦争中にお国のためにとNHKに入りアナウンサーとして働き始めます。
戦後ラジオ番組「婦人の時間」の司会を担当しているときに結婚、一人のお子さんに恵まれます。
当時子育てしながら働き続ける女性はほとんどいない時代で、武井さんはNHKの働く母親第一号となりました。
28歳でディレクターに転身後は子育ての経験を生かし、子どもたちが言葉やお話を楽しめるような番組つくりに力を注ぎました。
武井さんは今も子どもに朗読する活動を続けています。
現在94歳です。
健康という事は一番大事です。
子どもの頃は本当に自由でした。
自然の中で暮らしていました。
健康の土台を作ってくれたような気がします。
小さいころからマザーグースを聞いて育ちました。
母が身体が弱かった分、叔父叔母が良く面倒を見てくれました。
言葉は意味が分からなくても楽しいものだと思いました、音韻も大事だと思っています。
健康だけでなく、精神的なもの、音楽もレコードがあってクラシックも聞きました。
昭和19年NHKに入社しました。
当時空襲が来るようになって、勉強ができない状態でした。
昭和19年9月に繰り上げ卒業になって、NHKから募集があり、やってみたらお国のためになるのではないかと考えて、受けたら通ってしまって、親に話したら母親は東京には空襲があり行くと命にもかかわる事なので大反対でした。
父は放送は大事だし、放送局は返って危なくないかもしれないと思ったらしくて最後には許してくれました。
5月に空襲があり叔父の家で一人でいました。
防空頭巾をかぶり逃げる途中に防火用水がありその水をかぶって目黒川まで逃げていきました。
朝までいて放送局まで歩いていきました。
放送局にその日泊まって、翌日また空襲があり放送会館の周りに焼夷弾が一杯落ちて、これは死ぬと思いました。
朝になって放送会館は無事でしたが、周り中廃墟で、太陽を見ても煙っていて見えないんですね。
戦災者慰問激励吹奏楽の楽団が演奏していて演奏の中で「どんな困難がありましょうとも、必ず試練に耐えて勝利の日のために、長大な最期のひと押しを送りましょう。
一機でも多く特攻機を、一機でも早く翼で仇を討つために共に頑張りましょう。」こういうことを言っていた時代です。
戦後にいろんな本を読んだ時に、単純にこの程度のことならばたいしたことはないなあとおもっていることがだんだん積もってくると、やはり大変なことが起こってくるんじゃないかなあと思います。
今の社会でも同様なことを思います。
戦後、GHQのCIEという民間情報教育局の指導による「婦人の時間」が始まる。
或る日スタジオに呼ばれて録音したんですが、それがオーディションだった様で、私に決まったようでした。
*当時の「婦人の時間」についての放送
23歳で結婚、翌年妊娠したがへその緒が絡んで亡くなってしまった。
亡くなって初めて子どもの大切さを感じて、泣き泣き暮らしていましたが、仕事に戻っていきました。
子どもの番組の担当になって行きました。
子どもたちが私の周りに取り付いてきて、子どもに対する考え方とか、かわいさとかがもう一回私に叩きつけられたかなと思って、次に子供が生まれた時にはそれがよくわかりました。(25歳)
当時国中が貧乏で大変でした。
当時子育てをしながら仕事を持つという事は大変でした。
追い詰められていて「仕事を辞めてもう一回初めからやり直す、何をやっても私は駄目」と長岡輝子さん言ったら、「辞めたら全部今までできなかったことができるの?」と聞いてきて、そういわれたらできないと思いました。
「人間は全部は出来ない、頑張る事しかない、50点でもいいから頑張りなさい、私もそうしてやってきたの、それでよかったと思っている。」と言ってくださって、心がすっとなって、できないことを人のせいに、仕事のせいにしていると思いました。
出来ないで当然、やってみようと思いました。
28歳の時にアナウンサーからディレクターに転身しました。
ディレクターは何にもない所から作るので、発想の楽しさがあるので子どものものをやっていきたいと思いました。
今やりたいことは何かを考えたときに、子どものことをやってみたいと思いました。
昭和29年「お話でてこい」が始まりました。(今も親しまれている。)
子どものものは女の人がいいと言われていたが、男性の語りで進めていきました。
周りからは反対されたが、段々慣れていきました。
自分の子どもを見て考えられたので良かったと思います。
昭和52年から「ことばあそびの会」を作って、昭和57年に朗読「ベルクの会」を作りました。
NHK退職後も朗読の活動を続けています。
大事なことは文字を読むのではなくて、意味を子どもに伝えて子どもの反応を引き出したいと思っています。
*新美南吉「狐」 脚色:武井照子 話:武井照子
エリック・C. ホガード という人の「小さな魚」を読んだときに胸を突かれました。
イタリアの戦争の中での元教師が、「自分は一生懸命に沢山の本を読んだが、その中に書いてある作品の余白について知らなかった。
イタリアで自分は全体主義者だった。
ムッソリーニがイタリアの栄光について語ったが、戦争の悲惨さとかは語っていない。
語ったことは判るけれども、語らなかったことを知らなかった、それはみんながそうだったからということは言い訳なんだ」、と言っています。
何べん読んでもそれが心にあります。
「小さな魚」を子どもたちに読んであげています。
文学作品の中にある大事なテーマみたいなものを、今の子どもにわかってもらいたい、考える子どもになってほしいというのが願いです。
武井さんは大正14年埼玉県生まれ、昭和19年戦争中にお国のためにとNHKに入りアナウンサーとして働き始めます。
戦後ラジオ番組「婦人の時間」の司会を担当しているときに結婚、一人のお子さんに恵まれます。
当時子育てしながら働き続ける女性はほとんどいない時代で、武井さんはNHKの働く母親第一号となりました。
28歳でディレクターに転身後は子育ての経験を生かし、子どもたちが言葉やお話を楽しめるような番組つくりに力を注ぎました。
武井さんは今も子どもに朗読する活動を続けています。
現在94歳です。
健康という事は一番大事です。
子どもの頃は本当に自由でした。
自然の中で暮らしていました。
健康の土台を作ってくれたような気がします。
小さいころからマザーグースを聞いて育ちました。
母が身体が弱かった分、叔父叔母が良く面倒を見てくれました。
言葉は意味が分からなくても楽しいものだと思いました、音韻も大事だと思っています。
健康だけでなく、精神的なもの、音楽もレコードがあってクラシックも聞きました。
昭和19年NHKに入社しました。
当時空襲が来るようになって、勉強ができない状態でした。
昭和19年9月に繰り上げ卒業になって、NHKから募集があり、やってみたらお国のためになるのではないかと考えて、受けたら通ってしまって、親に話したら母親は東京には空襲があり行くと命にもかかわる事なので大反対でした。
父は放送は大事だし、放送局は返って危なくないかもしれないと思ったらしくて最後には許してくれました。
5月に空襲があり叔父の家で一人でいました。
防空頭巾をかぶり逃げる途中に防火用水がありその水をかぶって目黒川まで逃げていきました。
朝までいて放送局まで歩いていきました。
放送局にその日泊まって、翌日また空襲があり放送会館の周りに焼夷弾が一杯落ちて、これは死ぬと思いました。
朝になって放送会館は無事でしたが、周り中廃墟で、太陽を見ても煙っていて見えないんですね。
戦災者慰問激励吹奏楽の楽団が演奏していて演奏の中で「どんな困難がありましょうとも、必ず試練に耐えて勝利の日のために、長大な最期のひと押しを送りましょう。
一機でも多く特攻機を、一機でも早く翼で仇を討つために共に頑張りましょう。」こういうことを言っていた時代です。
戦後にいろんな本を読んだ時に、単純にこの程度のことならばたいしたことはないなあとおもっていることがだんだん積もってくると、やはり大変なことが起こってくるんじゃないかなあと思います。
今の社会でも同様なことを思います。
戦後、GHQのCIEという民間情報教育局の指導による「婦人の時間」が始まる。
或る日スタジオに呼ばれて録音したんですが、それがオーディションだった様で、私に決まったようでした。
*当時の「婦人の時間」についての放送
23歳で結婚、翌年妊娠したがへその緒が絡んで亡くなってしまった。
亡くなって初めて子どもの大切さを感じて、泣き泣き暮らしていましたが、仕事に戻っていきました。
子どもの番組の担当になって行きました。
子どもたちが私の周りに取り付いてきて、子どもに対する考え方とか、かわいさとかがもう一回私に叩きつけられたかなと思って、次に子供が生まれた時にはそれがよくわかりました。(25歳)
当時国中が貧乏で大変でした。
当時子育てをしながら仕事を持つという事は大変でした。
追い詰められていて「仕事を辞めてもう一回初めからやり直す、何をやっても私は駄目」と長岡輝子さん言ったら、「辞めたら全部今までできなかったことができるの?」と聞いてきて、そういわれたらできないと思いました。
「人間は全部は出来ない、頑張る事しかない、50点でもいいから頑張りなさい、私もそうしてやってきたの、それでよかったと思っている。」と言ってくださって、心がすっとなって、できないことを人のせいに、仕事のせいにしていると思いました。
出来ないで当然、やってみようと思いました。
28歳の時にアナウンサーからディレクターに転身しました。
ディレクターは何にもない所から作るので、発想の楽しさがあるので子どものものをやっていきたいと思いました。
今やりたいことは何かを考えたときに、子どものことをやってみたいと思いました。
昭和29年「お話でてこい」が始まりました。(今も親しまれている。)
子どものものは女の人がいいと言われていたが、男性の語りで進めていきました。
周りからは反対されたが、段々慣れていきました。
自分の子どもを見て考えられたので良かったと思います。
昭和52年から「ことばあそびの会」を作って、昭和57年に朗読「ベルクの会」を作りました。
NHK退職後も朗読の活動を続けています。
大事なことは文字を読むのではなくて、意味を子どもに伝えて子どもの反応を引き出したいと思っています。
*新美南吉「狐」 脚色:武井照子 話:武井照子
エリック・C. ホガード という人の「小さな魚」を読んだときに胸を突かれました。
イタリアの戦争の中での元教師が、「自分は一生懸命に沢山の本を読んだが、その中に書いてある作品の余白について知らなかった。
イタリアで自分は全体主義者だった。
ムッソリーニがイタリアの栄光について語ったが、戦争の悲惨さとかは語っていない。
語ったことは判るけれども、語らなかったことを知らなかった、それはみんながそうだったからということは言い訳なんだ」、と言っています。
何べん読んでもそれが心にあります。
「小さな魚」を子どもたちに読んであげています。
文学作品の中にある大事なテーマみたいなものを、今の子どもにわかってもらいたい、考える子どもになってほしいというのが願いです。
2020年3月12日木曜日
桂文珍(落語家) ・「落語家の道 50年」
桂文珍(落語家) ・「落語家の道 50年」
桂文珍さんは兵庫県丹波出身の71歳、大学時代初めて落語を知り、落語研究会を作って、美憂亭 さろん(ビューティーサロン)と名乗り活発な活動をしました、
大学3年の1969年に5代目桂分枝さんに入門、その5年後関西のTV番組『ヤングおー!おー!』のユニット「ザ・パンダ」に参加し大人気となりました。
そして関西大学で非常勤講師やTVのキャスターを務めるなど落語以外でも活躍しました。
今年で芸歴50年、あっという間でした。
兵庫県丹波は黒豆が有名でイノシシ、猿が来たりしていました。
実家は農家で長男した。
山間の村でしたが、空を眺めてパイロットになりたいという思いがありました。
操縦ライセンスは取って2500時間ぐらいは飛んでいます。
小学校の頃家族がラジオの前に集まって笑うんですが、金馬師匠の落語などがありました。
「二十の扉」、「お父さんはお人好し」とかいろいろ楽しんで聞いていました。
笑って和むという事が好きでした。
高校は篠山鳳鳴高校でコーラス部の部長をやっていました。
大学は大阪産業大学へ行きました。
親は公務員か先生を希望していました。
友人が授業中に肩を揺らしていて、落語の本を読んで笑っていたので、今度落語研究会を作りたいという事で一緒にやらないかという事でした。
落語を覚えてくれという事で、それを覚えてみんなのまえで落語をやったら受けました。
落語研究会を作って7名集まってよそのクラスでもやったりしていました。
上方落語学生連盟を作って副理事をやっていまして、東京落語学生連盟などと全国大会をやったりしていました。
プロになってやると学生時代は受けたのに全然受けないんです。
考えてみると世代が違う、お金を払って聞きに来ている、この差は物凄く大きいんです。
大学3年生の時に3代目桂小文枝(後の5代目桂文枝)に入門しました。
1974年に、『ヤングおー!おー!』のユニット「ザ・パンダ」(月亭八方・桂きん枝・林家小染)に参加。
人気があって芸に力がないのがつらかったです。
解散した時にはほっとして、これで落語に集中できると思いました。
上方では前座、二つ目、真打が無くて、稼ぐようになれば真打という事です。
昭和51年に上方お笑い大賞、昭和60年花王名人大賞、平成21年に芸術選奨文部科学大臣賞受賞、平成22年に紫綬褒章受ける。
1988年(40歳)関西大学文学部の非常勤講師を務め15年間やりました。
彼らの質問に答えるのが難しかった。(どうして座っているのかとか、いろいろ)
改めていろいろ学びました。
慶応大学にも非常勤講師として行きました。
伝統芸能という広いくくりの中の講義だったのでいろんな芸能の話をします。
上方歌舞伎、能楽、文楽、義太夫など。
1991年から報道キャスターを14年間やりましたが、これも難しくて勉強させてもらいました。
アウンサンスーチーさんにインタビューさせてもらったり、ペルーに行ったり、ポルポト政権のカンボジアなどいろいろ海外に行きました。
現場に行くといろいろ判ることがありました。
平和であることのありがたさ、皆さんが笑ってすごいしていただけることの大切さなどキャスターをやっている間に学んだことでした。
阪神淡路大震災もこの間にありました。(45,6歳)
地震で壊れないものを大切にしようと思いました。
友情、健康、家族そういうものを大切にしようと、その中に芸というものもあり、重心を芸により傾けていこうというきっかけになりました。
TVはインパクトがありコンパクトのものが受けるので、芸の世界はフィクションでありそこで表現できるものでお客様に届くものがあって楽しんで頂いたらいいなと思っていて、談志師匠はこれは「業の肯定」なんていうようなことですが、これをフィクションの中で描けるのがエンターテーメントとしてのありようだろうと若い時からおっしゃっていますが、そういうのをお伺いしながらそっちの方へ重心を移してゆくと言う風に段々変わってきました。
人様の話も先輩後輩関係なくどの人の話も聞くのが大好きで、落語のみならず漫才も見聞きするのが好きです。
71歳なので徳勝龍が33歳で優勝がありましたが、「もう33歳ではなくてまだ33歳」という事で僕は拍手しましたが、まだ71歳だという意識で健康管理に時間を割きながら長生きして皆さんに少しでも楽しんでいただきたいと思っています。
桂文珍さんは兵庫県丹波出身の71歳、大学時代初めて落語を知り、落語研究会を作って、美憂亭 さろん(ビューティーサロン)と名乗り活発な活動をしました、
大学3年の1969年に5代目桂分枝さんに入門、その5年後関西のTV番組『ヤングおー!おー!』のユニット「ザ・パンダ」に参加し大人気となりました。
そして関西大学で非常勤講師やTVのキャスターを務めるなど落語以外でも活躍しました。
今年で芸歴50年、あっという間でした。
兵庫県丹波は黒豆が有名でイノシシ、猿が来たりしていました。
実家は農家で長男した。
山間の村でしたが、空を眺めてパイロットになりたいという思いがありました。
操縦ライセンスは取って2500時間ぐらいは飛んでいます。
小学校の頃家族がラジオの前に集まって笑うんですが、金馬師匠の落語などがありました。
「二十の扉」、「お父さんはお人好し」とかいろいろ楽しんで聞いていました。
笑って和むという事が好きでした。
高校は篠山鳳鳴高校でコーラス部の部長をやっていました。
大学は大阪産業大学へ行きました。
親は公務員か先生を希望していました。
友人が授業中に肩を揺らしていて、落語の本を読んで笑っていたので、今度落語研究会を作りたいという事で一緒にやらないかという事でした。
落語を覚えてくれという事で、それを覚えてみんなのまえで落語をやったら受けました。
落語研究会を作って7名集まってよそのクラスでもやったりしていました。
上方落語学生連盟を作って副理事をやっていまして、東京落語学生連盟などと全国大会をやったりしていました。
プロになってやると学生時代は受けたのに全然受けないんです。
考えてみると世代が違う、お金を払って聞きに来ている、この差は物凄く大きいんです。
大学3年生の時に3代目桂小文枝(後の5代目桂文枝)に入門しました。
1974年に、『ヤングおー!おー!』のユニット「ザ・パンダ」(月亭八方・桂きん枝・林家小染)に参加。
人気があって芸に力がないのがつらかったです。
解散した時にはほっとして、これで落語に集中できると思いました。
上方では前座、二つ目、真打が無くて、稼ぐようになれば真打という事です。
昭和51年に上方お笑い大賞、昭和60年花王名人大賞、平成21年に芸術選奨文部科学大臣賞受賞、平成22年に紫綬褒章受ける。
1988年(40歳)関西大学文学部の非常勤講師を務め15年間やりました。
彼らの質問に答えるのが難しかった。(どうして座っているのかとか、いろいろ)
改めていろいろ学びました。
慶応大学にも非常勤講師として行きました。
伝統芸能という広いくくりの中の講義だったのでいろんな芸能の話をします。
上方歌舞伎、能楽、文楽、義太夫など。
1991年から報道キャスターを14年間やりましたが、これも難しくて勉強させてもらいました。
アウンサンスーチーさんにインタビューさせてもらったり、ペルーに行ったり、ポルポト政権のカンボジアなどいろいろ海外に行きました。
現場に行くといろいろ判ることがありました。
平和であることのありがたさ、皆さんが笑ってすごいしていただけることの大切さなどキャスターをやっている間に学んだことでした。
阪神淡路大震災もこの間にありました。(45,6歳)
地震で壊れないものを大切にしようと思いました。
友情、健康、家族そういうものを大切にしようと、その中に芸というものもあり、重心を芸により傾けていこうというきっかけになりました。
TVはインパクトがありコンパクトのものが受けるので、芸の世界はフィクションでありそこで表現できるものでお客様に届くものがあって楽しんで頂いたらいいなと思っていて、談志師匠はこれは「業の肯定」なんていうようなことですが、これをフィクションの中で描けるのがエンターテーメントとしてのありようだろうと若い時からおっしゃっていますが、そういうのをお伺いしながらそっちの方へ重心を移してゆくと言う風に段々変わってきました。
人様の話も先輩後輩関係なくどの人の話も聞くのが大好きで、落語のみならず漫才も見聞きするのが好きです。
71歳なので徳勝龍が33歳で優勝がありましたが、「もう33歳ではなくてまだ33歳」という事で僕は拍手しましたが、まだ71歳だという意識で健康管理に時間を割きながら長生きして皆さんに少しでも楽しんでいただきたいと思っています。
2020年3月11日水曜日
山田洋次(映画監督) ・「震災を語る~映画監督 山田洋次」
山田洋次(映画監督) ・「震災を語る~映画監督 山田洋次」
山田さんは現在88歳、最近では映画「男はつらいよ」の50作目を手掛け今も精力的に作品を生み出しています。
これまで日本が震災に見舞われるたびに被災地に心を寄せてきた山田さん、25年前の阪神淡路大震災が起きたときには兵庫県神戸市の被災地で「男はつらいよ」の撮影を行い、東日本大震災の後は岩手、宮城、福島に何度も足を運んで被災した人たちの声にも耳を傾けてきました。
震災と原発事故から9年、今東北の被災地をどう見ているのか、山田さんが考える復興とは何か、山田さんが見据える被災地の希望とは何か、伺いました。
TVで見た恐ろしい映像を見たときの衝撃は、日常生活の中に理解できない突然刃物でぶった切りに入ってきたような、そういう思いを日本中の人がみんなしたわけで、強烈な記憶は今でも生々しく残っています。
震災に出会った人にとっては昨日のことのような思いがしているのではないかなあ。
あの日は家にいて大きい地震だなあと体験したぐらいでした。
「東京家族」を4月にクランクインする予定でしたが、1年間延期しました。
数日してスタッフルームでこのまま撮影をしていいのかどうか、3月11日以降日本が大きく変わっていくのではないかと感じていました。
3月11日以前の脚本で撮り続けていいのか、違うのではないかと、この国が大きな変わり方をするとすれば、その時点でこそその映画を作らなければいけない、今この映画を作ることは一旦中止した方がいいのではないかと大決断をしました。
物語をもう一遍構築しなおそうと考えて、その映画を再開した訳です。
早い時期に海沿いの街を茫然と歩いてみたりしましたが、「陸前高田に黄色いハンカチが翻っていますよ」と、家を流されてしまった大工さんが若い時に見た映画を思い出して、これはくじけられるかという事で流された敷地の庭に柱を立てて黄色いハンカチを何枚も下げて、のっぺらぼうになってしまっているんで道行く人の目印になっているんですよと言う話を聞いて吃驚して、「黄色いハンカチ」の作者としては嬉しかったというか、感動したというか、見に行きたくなって見に行きました。
柱とか黄色の布地を寄せ集めでできていて、「幸せの黄色いハンカチ」のリメイクをやってた放送局に頼んでそこで使っていた本格的なものを譲ってもらって、その横に柱を立ててもらって黄色いハンカチを取り付けて、大工の菅野さんもとても喜んでくれました。
今でも菅野さんとは手紙のやり取りをしています。
当時見た被災地の光景はただ茫然と見ていました。
街が消えてしまって、亡くなった人も多くいて、何百年という歴史も一緒に消えてしまった訳で、隣近所とのコミュニティーも全部消えてしまったわけです。
回復するのには100年も200年もの歳月が必要になるんだろうなあと思います。
これから先大変なんだろうなあと思います。
人の横のつながりと縦の時間軸のつながりがあって初めて街が成り立つという事を詩人の田村隆一さんから聞いたことがあります。
一つの街として形成するのには少なくとも3代の年月が必要なんだと、いう事を聞いています。
人と人との間には時々どうしようもなくトラブルが起きることがある。
そのトラブルを何とか乗り越えようとする、乗り越えたときには新しい人間関係が生まれる。
それが家族であり地域でもあるのではないのか、そんな体験を追体験を観客は寅さんの映画の中でして思わず笑ったり涙ぐんだりする。
寅さんは迷惑をかける男だから寅さんの失言によって家族が大混乱する。
大喧嘩して最期にはお前なんか出て行けという事になるが、あの寅さんという邪魔者が大変必要な邪魔者なんです。
寅さんがいるからもめ事を起こして、再生しようとする努力をすることによって生活経験を積んでゆくわけです。
前は変なおじさんさんおばさんがいたりして、みんな苦労しるという体験を知っていたから、だから寅さんの家族と一緒に笑ったり泣いたりできたんじゃないですかね、段々そういう体験が少なくなってきているのではないか、日本の家族の家族関係が段々希薄になってきているからね。
僕たちの国は果たして幸福な国かという大きな課題をみんなが考えるようになったのは、大震災前とはずいぶん違うのではないか。
問題は幸福な国、幸福な社会に向かって僕たちの国は進んでいるんだろうかという検討は必要なんじゃないかと思います。
家族、隣近所との絆が大事なんだなという事、コミュニティーはそういう力を持っているのだと気が付いたという事はあると思います。
阪神淡路大震災の時に、寅さんの撮影に来てくれと言われて、寅さんのロケーションをやったことがありました。
街の人と人との厚いつながり方、具体的な暮らしの上でも精神的な支えあいという上でもみんな求めていたし、100年、200年かけて作り上げてきたのにそれが消えてしまっている。
建物道路は立派になっても、そっちの方はどうしたら回復できるのだろうとか、行政はどう考えているんだろうかとか考えさせられました。
地域のつながりを作るのは難しい、年月がかかるわけです。
これからに日本で地方が豊かになってゆくという風にはどうしても思えない。
都心に集中して行ってしまう。
被災地を含めて日本の大きな課題だと思います。
地域を纏めるのは若い人の力が必要だと思うし、子どもが沢山いないといけない、子どもを通して親たちがが仲良くなってゆくので。
避難指示が解除される中で、戻れる状態にはなりつつあるが、違うところで生活のスペースができているので、若い人が戻れない戻らないという様な状況があります。
家族、隣近所のつながりは目に見えないことで、目に見えないものを回復するという事は大変難しい問題はあるが、しかし回復しなければいけないと思うが、家族の繋がりが薄れていって回復しづらいというのは被災地だけでなく日本全体の問題だと思います。
浪江町では2万人いた人口が今戻ってきている人は1000人ぐらいです。
地域がどんどん消えてゆくというか、地域における人と人との温かい繋がり、コニュニティーが消えつつあるような不安感を抱いているようなときにあの大震災が起きてしまった。
一層そういったことを考えざるを得なくなった。
役所でお互いに名前を呼びあうとか人間臭い努力が沢山沢山必要なのではないかと思います。
日本中の人がもっともっと東北の人たちに関心を持たなくてはいけないし、応援しないといけないのではないかと思います。
山田さんは現在88歳、最近では映画「男はつらいよ」の50作目を手掛け今も精力的に作品を生み出しています。
これまで日本が震災に見舞われるたびに被災地に心を寄せてきた山田さん、25年前の阪神淡路大震災が起きたときには兵庫県神戸市の被災地で「男はつらいよ」の撮影を行い、東日本大震災の後は岩手、宮城、福島に何度も足を運んで被災した人たちの声にも耳を傾けてきました。
震災と原発事故から9年、今東北の被災地をどう見ているのか、山田さんが考える復興とは何か、山田さんが見据える被災地の希望とは何か、伺いました。
TVで見た恐ろしい映像を見たときの衝撃は、日常生活の中に理解できない突然刃物でぶった切りに入ってきたような、そういう思いを日本中の人がみんなしたわけで、強烈な記憶は今でも生々しく残っています。
震災に出会った人にとっては昨日のことのような思いがしているのではないかなあ。
あの日は家にいて大きい地震だなあと体験したぐらいでした。
「東京家族」を4月にクランクインする予定でしたが、1年間延期しました。
数日してスタッフルームでこのまま撮影をしていいのかどうか、3月11日以降日本が大きく変わっていくのではないかと感じていました。
3月11日以前の脚本で撮り続けていいのか、違うのではないかと、この国が大きな変わり方をするとすれば、その時点でこそその映画を作らなければいけない、今この映画を作ることは一旦中止した方がいいのではないかと大決断をしました。
物語をもう一遍構築しなおそうと考えて、その映画を再開した訳です。
早い時期に海沿いの街を茫然と歩いてみたりしましたが、「陸前高田に黄色いハンカチが翻っていますよ」と、家を流されてしまった大工さんが若い時に見た映画を思い出して、これはくじけられるかという事で流された敷地の庭に柱を立てて黄色いハンカチを何枚も下げて、のっぺらぼうになってしまっているんで道行く人の目印になっているんですよと言う話を聞いて吃驚して、「黄色いハンカチ」の作者としては嬉しかったというか、感動したというか、見に行きたくなって見に行きました。
柱とか黄色の布地を寄せ集めでできていて、「幸せの黄色いハンカチ」のリメイクをやってた放送局に頼んでそこで使っていた本格的なものを譲ってもらって、その横に柱を立ててもらって黄色いハンカチを取り付けて、大工の菅野さんもとても喜んでくれました。
今でも菅野さんとは手紙のやり取りをしています。
当時見た被災地の光景はただ茫然と見ていました。
街が消えてしまって、亡くなった人も多くいて、何百年という歴史も一緒に消えてしまった訳で、隣近所とのコミュニティーも全部消えてしまったわけです。
回復するのには100年も200年もの歳月が必要になるんだろうなあと思います。
これから先大変なんだろうなあと思います。
人の横のつながりと縦の時間軸のつながりがあって初めて街が成り立つという事を詩人の田村隆一さんから聞いたことがあります。
一つの街として形成するのには少なくとも3代の年月が必要なんだと、いう事を聞いています。
人と人との間には時々どうしようもなくトラブルが起きることがある。
そのトラブルを何とか乗り越えようとする、乗り越えたときには新しい人間関係が生まれる。
それが家族であり地域でもあるのではないのか、そんな体験を追体験を観客は寅さんの映画の中でして思わず笑ったり涙ぐんだりする。
寅さんは迷惑をかける男だから寅さんの失言によって家族が大混乱する。
大喧嘩して最期にはお前なんか出て行けという事になるが、あの寅さんという邪魔者が大変必要な邪魔者なんです。
寅さんがいるからもめ事を起こして、再生しようとする努力をすることによって生活経験を積んでゆくわけです。
前は変なおじさんさんおばさんがいたりして、みんな苦労しるという体験を知っていたから、だから寅さんの家族と一緒に笑ったり泣いたりできたんじゃないですかね、段々そういう体験が少なくなってきているのではないか、日本の家族の家族関係が段々希薄になってきているからね。
僕たちの国は果たして幸福な国かという大きな課題をみんなが考えるようになったのは、大震災前とはずいぶん違うのではないか。
問題は幸福な国、幸福な社会に向かって僕たちの国は進んでいるんだろうかという検討は必要なんじゃないかと思います。
家族、隣近所との絆が大事なんだなという事、コミュニティーはそういう力を持っているのだと気が付いたという事はあると思います。
阪神淡路大震災の時に、寅さんの撮影に来てくれと言われて、寅さんのロケーションをやったことがありました。
街の人と人との厚いつながり方、具体的な暮らしの上でも精神的な支えあいという上でもみんな求めていたし、100年、200年かけて作り上げてきたのにそれが消えてしまっている。
建物道路は立派になっても、そっちの方はどうしたら回復できるのだろうとか、行政はどう考えているんだろうかとか考えさせられました。
地域のつながりを作るのは難しい、年月がかかるわけです。
これからに日本で地方が豊かになってゆくという風にはどうしても思えない。
都心に集中して行ってしまう。
被災地を含めて日本の大きな課題だと思います。
地域を纏めるのは若い人の力が必要だと思うし、子どもが沢山いないといけない、子どもを通して親たちがが仲良くなってゆくので。
避難指示が解除される中で、戻れる状態にはなりつつあるが、違うところで生活のスペースができているので、若い人が戻れない戻らないという様な状況があります。
家族、隣近所のつながりは目に見えないことで、目に見えないものを回復するという事は大変難しい問題はあるが、しかし回復しなければいけないと思うが、家族の繋がりが薄れていって回復しづらいというのは被災地だけでなく日本全体の問題だと思います。
浪江町では2万人いた人口が今戻ってきている人は1000人ぐらいです。
地域がどんどん消えてゆくというか、地域における人と人との温かい繋がり、コニュニティーが消えつつあるような不安感を抱いているようなときにあの大震災が起きてしまった。
一層そういったことを考えざるを得なくなった。
役所でお互いに名前を呼びあうとか人間臭い努力が沢山沢山必要なのではないかと思います。
日本中の人がもっともっと東北の人たちに関心を持たなくてはいけないし、応援しないといけないのではないかと思います。
2020年3月10日火曜日
竹内静代(東京大空襲体験者) ・「私は東京大空襲を生き延びた」
竹内静代(東京大空襲体験者) ・「私は東京大空襲を生き延びた」
竹内さんは75年前の昭和20年、13歳の時に空襲を受けました。
昭和19年第一東京私立高等女学校(現在の深川高校)の2年生だった竹内さんは毎日軍需工場で働いていました。
年が明けると空襲は一段と激しくなり2月下旬の空襲で家財と家屋を焼失、3月10日に東京大空襲に見舞われました。
この空襲でおよそ10万人が焼死したと言われています。
竹内さんは戦後中学校の教師になりました。
子どもや多くの人たちに空襲や戦争を伝えていたつもりだが、戦争の風化は止まらない、今こそ当時の出来事を正確に伝えることが大事と、講演会や若い世代との朗読会を通して戦争と空襲を伝えています。
戦争に負けて75年経ったというのは、本当に75年あったのかなあと言う思いがあります。
1945年の1年間はいつまでたっても忘れられない一年です。
色々なところで自分の体験を話すのですが、防空壕といってもイメージできない、それ以外にも言葉が通じなくなってきている。
大事なことを消してゆくような風潮があるような気がしてそれが怖さにもなります。
昭和18年11月から勤労学徒動員で藤倉電線という工場に勤めていて、11月の末頃から空襲が激しくなっていきました。
昭和19年元日から空襲があり着の身着のままで寝起きしていました。
2月25日は雪が降っていて、午後空襲がありあっという間に木造の家が焼けてしまいました。
防空壕から出てみると家が燃えているのが見えてバケツで消火活動しましたが、全く無理で逃げようという事になりました。
母が台所に仕掛けてあった釜を取りに行ったら、炎が入ってきて頭などを火傷しました。
母と火のトンネルをくぐって雪の原っぱまで逃げていきました。
非難している人が沢山いました。
飛行機の爆音とともに機銃掃射もあり凄く怖かったです。
何棟も何棟も家屋が大きな音と共に崩れ落ちて行く姿も目に入りました。
焼け出されて2月に14歳になり、3月9日午後10時30分ごろには13,4人は入れる共同防空壕にいました。
様子を見るという事で叔父さんが入り口を開けてみると、砂町銀座の方が真っ赤に燃えていました。
防空壕にいた人達は気が付いたらどこかに逃げたらしくて、私たち親子3人だけでした。
逃げて行く間もいろんななものが飛んできました。
荒川放水路にかかっている葛西橋まで行きました。
母はみんなが逃げて行く方向に逃げようと言いましたが、父は橋を渡って暗い方に逃げなければ駄目だという事で、強風の中揺れる橋を渡って逃げていきました。
これが助かった大きな原因でした。
一つの2mぐらいの収束焼夷弾に50cmほどの焼夷弾が38本が入っています。
高度800mぐらいのところで38本がばらけて落ちてきます。
2時間半の空襲でそれを36万発落としたと言われています。
3月11日父の実家の出雲に帰ろうという事になり、飲まず食わず眠らず、東京駅まで歩いて行きました。
焼け焦げた原っぱがずーっと続いていました。
防火用水に頭から突っ込んで焼け死んだ人、コンクリートの建物から上半身出して焼け死んだ人など目にしました。
歩いていると焼け死んだ人たちが一杯いて、焼けこんだ匂いが鼻を突きました。
やっと東京駅に着いた時には夕方でした。
最初は焼け死んだ人は熱かっただろうなあとか可哀そうとか思っていましたが、そのうちにただ目に映っているのを見ているだけ、何の感情もないそういう感じでした。
終戦は出雲で迎えました。
ラジオの放送は聞いたが、ガーがー言っていて何の話だか分からなかった。
戦争が負けたと言われたが、勝つまでは・・・といわれてずーっときたので、負けるという語彙が私の中には無いんです、理解できなかった。
祖母が大事にしていた叔父の弁当箱を、教室に出さざるを得なかったことがとっても残念でした。
終戦の直前、先生が戦争で鉄砲球などに使うから金属を持ってくるように言われ、何もなくてふっと思ったのがアルミのお弁当箱で、それは叔父の形見で祖母が大事にしていたものでした。
母はとんでもないという事でしたが、祖母に言って「持って行かないと非国民になってしまう」と言ったら、悲しそうな顔をしていたが出してくれました。
あくる日先生のところに持って行ったら、はいと言って受取ってくれたが、それから10日ぐらいして戦争は終わってしまいました。
弁当箱を金づちでぺしゃんこにしているときに祖母は涙を流していたが、どうしてあの時に「おばあちゃん ごめんね」と一言が言えなかったんだろうと思います。
今でも胸に突き刺さるような辛い思い出です。
今でも戦争を語り継ぐ会をやっています。
本を3冊作りました。
戦争の悲惨さをあちこちで「ひつじの会」3人で語っています。
75年続いてきた平和は絶対に手放してはいけないし、あんな思いを若い人には絶対させたくない。
明日に先生に教えてもらえる、明日に友達と会える、明日という事がとっても大事に思えたんです。
明日のことを何気なく考えるという事はなんて幸せなんだろう思います。
あの頃は明日が判らなかった、明日が死ぬか生きるかわからない毎日でしたから。
竹内さんは75年前の昭和20年、13歳の時に空襲を受けました。
昭和19年第一東京私立高等女学校(現在の深川高校)の2年生だった竹内さんは毎日軍需工場で働いていました。
年が明けると空襲は一段と激しくなり2月下旬の空襲で家財と家屋を焼失、3月10日に東京大空襲に見舞われました。
この空襲でおよそ10万人が焼死したと言われています。
竹内さんは戦後中学校の教師になりました。
子どもや多くの人たちに空襲や戦争を伝えていたつもりだが、戦争の風化は止まらない、今こそ当時の出来事を正確に伝えることが大事と、講演会や若い世代との朗読会を通して戦争と空襲を伝えています。
戦争に負けて75年経ったというのは、本当に75年あったのかなあと言う思いがあります。
1945年の1年間はいつまでたっても忘れられない一年です。
色々なところで自分の体験を話すのですが、防空壕といってもイメージできない、それ以外にも言葉が通じなくなってきている。
大事なことを消してゆくような風潮があるような気がしてそれが怖さにもなります。
昭和18年11月から勤労学徒動員で藤倉電線という工場に勤めていて、11月の末頃から空襲が激しくなっていきました。
昭和19年元日から空襲があり着の身着のままで寝起きしていました。
2月25日は雪が降っていて、午後空襲がありあっという間に木造の家が焼けてしまいました。
防空壕から出てみると家が燃えているのが見えてバケツで消火活動しましたが、全く無理で逃げようという事になりました。
母が台所に仕掛けてあった釜を取りに行ったら、炎が入ってきて頭などを火傷しました。
母と火のトンネルをくぐって雪の原っぱまで逃げていきました。
非難している人が沢山いました。
飛行機の爆音とともに機銃掃射もあり凄く怖かったです。
何棟も何棟も家屋が大きな音と共に崩れ落ちて行く姿も目に入りました。
焼け出されて2月に14歳になり、3月9日午後10時30分ごろには13,4人は入れる共同防空壕にいました。
様子を見るという事で叔父さんが入り口を開けてみると、砂町銀座の方が真っ赤に燃えていました。
防空壕にいた人達は気が付いたらどこかに逃げたらしくて、私たち親子3人だけでした。
逃げて行く間もいろんななものが飛んできました。
荒川放水路にかかっている葛西橋まで行きました。
母はみんなが逃げて行く方向に逃げようと言いましたが、父は橋を渡って暗い方に逃げなければ駄目だという事で、強風の中揺れる橋を渡って逃げていきました。
これが助かった大きな原因でした。
一つの2mぐらいの収束焼夷弾に50cmほどの焼夷弾が38本が入っています。
高度800mぐらいのところで38本がばらけて落ちてきます。
2時間半の空襲でそれを36万発落としたと言われています。
3月11日父の実家の出雲に帰ろうという事になり、飲まず食わず眠らず、東京駅まで歩いて行きました。
焼け焦げた原っぱがずーっと続いていました。
防火用水に頭から突っ込んで焼け死んだ人、コンクリートの建物から上半身出して焼け死んだ人など目にしました。
歩いていると焼け死んだ人たちが一杯いて、焼けこんだ匂いが鼻を突きました。
やっと東京駅に着いた時には夕方でした。
最初は焼け死んだ人は熱かっただろうなあとか可哀そうとか思っていましたが、そのうちにただ目に映っているのを見ているだけ、何の感情もないそういう感じでした。
終戦は出雲で迎えました。
ラジオの放送は聞いたが、ガーがー言っていて何の話だか分からなかった。
戦争が負けたと言われたが、勝つまでは・・・といわれてずーっときたので、負けるという語彙が私の中には無いんです、理解できなかった。
祖母が大事にしていた叔父の弁当箱を、教室に出さざるを得なかったことがとっても残念でした。
終戦の直前、先生が戦争で鉄砲球などに使うから金属を持ってくるように言われ、何もなくてふっと思ったのがアルミのお弁当箱で、それは叔父の形見で祖母が大事にしていたものでした。
母はとんでもないという事でしたが、祖母に言って「持って行かないと非国民になってしまう」と言ったら、悲しそうな顔をしていたが出してくれました。
あくる日先生のところに持って行ったら、はいと言って受取ってくれたが、それから10日ぐらいして戦争は終わってしまいました。
弁当箱を金づちでぺしゃんこにしているときに祖母は涙を流していたが、どうしてあの時に「おばあちゃん ごめんね」と一言が言えなかったんだろうと思います。
今でも胸に突き刺さるような辛い思い出です。
今でも戦争を語り継ぐ会をやっています。
本を3冊作りました。
戦争の悲惨さをあちこちで「ひつじの会」3人で語っています。
75年続いてきた平和は絶対に手放してはいけないし、あんな思いを若い人には絶対させたくない。
明日に先生に教えてもらえる、明日に友達と会える、明日という事がとっても大事に思えたんです。
明日のことを何気なく考えるという事はなんて幸せなんだろう思います。
あの頃は明日が判らなかった、明日が死ぬか生きるかわからない毎日でしたから。
2020年3月9日月曜日
畠山聖子(新体操日本代表 畠山愛理の母) ・【アスリート誕生物語】
畠山聖子(新体操日本代表 畠山愛理の母) ・【アスリート誕生物語】
子育ての秘訣を聞いています。
畠山愛理さんはロンドンオリンピック団体7位入賞、2015年世界選手権団体種目別リボンで銅メダル、リオデジャネイロオリンピック団体8位入賞と活躍し、現在NHKのサンデースポーツのレポーターなどとしても忙しい毎日を送っています。
昨年プロ野球広島カープの鈴木誠也選手と結婚して、東京と広島を往復の生活をしています。
広島で試合があるときには絶対居たいという希望が強いんです。
アスリートフードマイスターの資格も取ったようです。
自分もアスリートだったので食べる事が大事だと実感していると思うのでそういった点でも支えたいという思いが強いようです。
名前には愛という言葉を入れたかった、愛を配れるようになってほしいという思いを込めて愛という字をつけたかった。
夫が理という言葉を考えてくれました。
上に兄が二人いたので、自分が出来ないことがあるとすごく悔しがって、負けず嫌いな性格も育ってきたと思います。
食べ物は珍しくカレーが嫌いでしたが、大人になったら食べられるようになりました。
小学校の1年生の時に運動をやらせたいと思って、近所で新体操をやっていて、そこに行くことになりました。
ピアノも習いました。(新体操に役に立ちました。)
楽しそうにやっていたので嬉しい気持ちになりました。
新体操にはあまり男性は関わらないので、夫は発表会とか試合にはあまり行かずにいて、その後大きな大会には見に行くようになりました。
子育ての方針は、本人の意志をなるべく尊重してあげるという考え方です。
脚力、瞬発力、バランスなどは遊びの中でちゃんとついてきていたのかなあと思いました。
ただ身体は硬かったので、風呂上りに毎日柔軟体操をやっていました。
小学校6年生の時に日本チャイルド選手権という全国規模の試合があって、入賞出来て今度はオリンピック選手だと卒業文集にも書いていました。
オリンピックという言葉が出てきて嬉しく感じました。
都心の練習場に行くので駅までの送迎の時間が楽しかったです。
技のこととかいろいろ話す貴重な時間でした。
中学1年生の頃強度の貧血になり、疲れやすくなってしまって、病院に連れていったら貧血だという事でした。
病院での鉄分の処方と食事も気を使いました。
中学2年の時に演技中に腰に激痛が走って演技は終えたものの、次のリボンの種目は無理で病院に行ったら全治3か月といわれてしまいました。
疲労骨折でした。
1か月後に団体の演技があり、先生から出てほしいという事だったが、その後の子どもの健康を考えるとできないと思って、最終的に2週間は安静にするという事で決着がつきました。
2週間で痛みも引いてきて徐々に練習もできるようになったが、精神的の追い詰められて体育館のドアのところで吐き気がしてしまったりして、新体操も辞めたいと思ってしまいました。
授業中に新体操のことを考えだしたら涙が止まらなくなり、保健室に行って自分の気持ちを全部ぶつけて話を聞いてもらったら保健室の先生が「辞めたいんだったらやめた方が、もし全日本ジュニアの大会に出るのであれば、コーチとかほかの人のことは考えずに自分のためにやったらいいんじゃない」と言ってくれたそうです。
気持ちが前向きになって、その先生の言葉が無かったら新体操は続けていなかったと思います。
その保健室の先生はロンドンオリンピックの時にはロンドンまで応援に来てくださいました。
先生の言葉は一人の人間の人生を変えるだけの力があるものだと思いました。
全日本ジュニアの大会の種目別フープでは2位になり、総合では8位でした。
中学3年生でフェアリージャパンオーディションに合格、新体操日本ナショナル選抜団体チームに入ることができました。
オーディションに合格後3日目にロシアに長期合宿に行くことになりました。
2012年17歳でロンドンオリンピックの出場が決まりましたが、前年の世界選手権で切符を獲得できました。
まさか夢が叶うとは思っていなかったので、周りの方々のお陰で有難かったです。
ロンドンでは7位入賞、立派だと思いました。
日本女子体育大学に進学、2015年世界選手権団体種目別リボンで銅メダル。
2016年リオデジャネイロオリンピック代表に選ばれ、団体8位入賞。
2分半の演技ですが、4年間かけて練習してきているので、息をつめてみてしまうほど一生懸命応援しました。
その後引退を表明する。
スポーツコメンテーターとして進路を進むことになるが、ほかのスポーツのルールが全く分からなかったのでノートを作って必死に勉強しています。
親子の会話が多い家族だとは思っています。
一番の親孝行は愛理が幸せに暮らしているというのを親に見せてくれることです、子どもが幸せなのが親の一番の幸せです。
子育ての秘訣を聞いています。
畠山愛理さんはロンドンオリンピック団体7位入賞、2015年世界選手権団体種目別リボンで銅メダル、リオデジャネイロオリンピック団体8位入賞と活躍し、現在NHKのサンデースポーツのレポーターなどとしても忙しい毎日を送っています。
昨年プロ野球広島カープの鈴木誠也選手と結婚して、東京と広島を往復の生活をしています。
広島で試合があるときには絶対居たいという希望が強いんです。
アスリートフードマイスターの資格も取ったようです。
自分もアスリートだったので食べる事が大事だと実感していると思うのでそういった点でも支えたいという思いが強いようです。
名前には愛という言葉を入れたかった、愛を配れるようになってほしいという思いを込めて愛という字をつけたかった。
夫が理という言葉を考えてくれました。
上に兄が二人いたので、自分が出来ないことがあるとすごく悔しがって、負けず嫌いな性格も育ってきたと思います。
食べ物は珍しくカレーが嫌いでしたが、大人になったら食べられるようになりました。
小学校の1年生の時に運動をやらせたいと思って、近所で新体操をやっていて、そこに行くことになりました。
ピアノも習いました。(新体操に役に立ちました。)
楽しそうにやっていたので嬉しい気持ちになりました。
新体操にはあまり男性は関わらないので、夫は発表会とか試合にはあまり行かずにいて、その後大きな大会には見に行くようになりました。
子育ての方針は、本人の意志をなるべく尊重してあげるという考え方です。
脚力、瞬発力、バランスなどは遊びの中でちゃんとついてきていたのかなあと思いました。
ただ身体は硬かったので、風呂上りに毎日柔軟体操をやっていました。
小学校6年生の時に日本チャイルド選手権という全国規模の試合があって、入賞出来て今度はオリンピック選手だと卒業文集にも書いていました。
オリンピックという言葉が出てきて嬉しく感じました。
都心の練習場に行くので駅までの送迎の時間が楽しかったです。
技のこととかいろいろ話す貴重な時間でした。
中学1年生の頃強度の貧血になり、疲れやすくなってしまって、病院に連れていったら貧血だという事でした。
病院での鉄分の処方と食事も気を使いました。
中学2年の時に演技中に腰に激痛が走って演技は終えたものの、次のリボンの種目は無理で病院に行ったら全治3か月といわれてしまいました。
疲労骨折でした。
1か月後に団体の演技があり、先生から出てほしいという事だったが、その後の子どもの健康を考えるとできないと思って、最終的に2週間は安静にするという事で決着がつきました。
2週間で痛みも引いてきて徐々に練習もできるようになったが、精神的の追い詰められて体育館のドアのところで吐き気がしてしまったりして、新体操も辞めたいと思ってしまいました。
授業中に新体操のことを考えだしたら涙が止まらなくなり、保健室に行って自分の気持ちを全部ぶつけて話を聞いてもらったら保健室の先生が「辞めたいんだったらやめた方が、もし全日本ジュニアの大会に出るのであれば、コーチとかほかの人のことは考えずに自分のためにやったらいいんじゃない」と言ってくれたそうです。
気持ちが前向きになって、その先生の言葉が無かったら新体操は続けていなかったと思います。
その保健室の先生はロンドンオリンピックの時にはロンドンまで応援に来てくださいました。
先生の言葉は一人の人間の人生を変えるだけの力があるものだと思いました。
全日本ジュニアの大会の種目別フープでは2位になり、総合では8位でした。
中学3年生でフェアリージャパンオーディションに合格、新体操日本ナショナル選抜団体チームに入ることができました。
オーディションに合格後3日目にロシアに長期合宿に行くことになりました。
2012年17歳でロンドンオリンピックの出場が決まりましたが、前年の世界選手権で切符を獲得できました。
まさか夢が叶うとは思っていなかったので、周りの方々のお陰で有難かったです。
ロンドンでは7位入賞、立派だと思いました。
日本女子体育大学に進学、2015年世界選手権団体種目別リボンで銅メダル。
2016年リオデジャネイロオリンピック代表に選ばれ、団体8位入賞。
2分半の演技ですが、4年間かけて練習してきているので、息をつめてみてしまうほど一生懸命応援しました。
その後引退を表明する。
スポーツコメンテーターとして進路を進むことになるが、ほかのスポーツのルールが全く分からなかったのでノートを作って必死に勉強しています。
親子の会話が多い家族だとは思っています。
一番の親孝行は愛理が幸せに暮らしているというのを親に見せてくれることです、子どもが幸せなのが親の一番の幸せです。
2020年3月8日日曜日
山田栄子(声優) ・【時代を創った声】
山田栄子(声優) ・【時代を創った声】
山田さんはアニメ「赤毛のアン」のアン役やNHKの人形劇「ざわざわ森のがんこちゃん」のお母さん役など多くの作品に出演されました。
3人のお子さんを育てられた山田さん、20年前に乳がんを患いました。
いまは完治していますが、仕事ばかりしていた山田さんは子どもときちんと向き合うきっかけになったと言います。
現在も様々な仕事に取り組んでいる山田さんに伺いました。
『赤毛のアン』のアン・シャーリー役、『小公女セーラ』では、主人公セーラのいじめ役・ラビニアを担当、『キャプテン翼』での岬太郎役など多くのキャラクターを演じてきた。
NHKの人形劇「ざわざわ森のがんこちゃん」のお母さん役など多くの作品に出演してきた。
小さいころは男の子と一緒に遊んでいました。
結婚するまでずーっと横浜にいました。
一旦中目黒の住みましたが、今も横浜に住んでいます。
中学生の時にバレーボール部に入っていましたが、演劇部のシンデレラを見て自分もやってみたいと思いました。
演劇部に中学2年の時に入り、高校3年まで演劇部にいました。
たまたま東欧で芝居する機会があり一か月ぐらい行きました、それを機会に劇団芸協に入りました。
東欧では私の方が感動しました。
劇団では下手なのがよくわかりました。
怒られるのも楽しかったです。
アニメ「赤毛のアン」のアン役を初めてやって、1年間通して終わったときに悲しくて悲しくてしょうがなかったです。
1979年 声優としてのデビューでした。
宮内浩平さんから赤毛のアンというオーディションをやっているという事で、行けば2000円もらえるという事で行きました。
合格するとは思っていなくて、言われたところをいろいろ1時間ぐらい読んでいて、もう一回来てくれという事で、赤毛のアンの本を慌てて買って読んで,余計なことをいろいろ考えてしまって、再度やったときには「このあいだ来た人ですか」といわれて、もう結構ですと言われ帰って来ましたが、帰りに泣いてしまいました。
テープが1時間ぐらい取ってあったので、それを聞いて高畑勲さんが決めてくれました。
気合を入れ過ぎてしまうのは駄目だと思いました。
島本 須美さんの「ルパン三世」に出てくるお姫様の声は凄く好きで、何と純粋な声なんだろうと思いました。
アンでは変な声の方がいいと言われて、素直にやればいいんだと思って後は楽しくやりました。
最初の頃は高い声でやっていて段々落ち着いてきました。
私とアンは似ているようなところがあると思いました。
『小公女セーラ』ではラビニアを担当して、難しかったです。
島本 須美さんの主人公セーラのいじめ役ですが、ねちねちといじめるのが上手く出来なくて、イライラしてきました。
「忍者ハットリくん」の影千代(ケムマキの弟子の忍者猫)は苦労しました。
そのまんまで出来るので少年役は楽しいです。
影千代はアドリブが多くて、アドリブが出来なくて大変でした。
最初の2か月が胃が痛くなりました。
家でいろいろ訓練してゆき、半年後には自分でアドリブが言えるようになりました。
子どもは30歳、25歳、と23歳の3人です。
子どもが3人目の時に乳がんになってしまって、子どもをちゃんと見ていなかったんだなあと反省しました。
初期だったので先生は大丈夫だと言いましたが、自分としては子どもより仕事優先で来ていたのに気が付いて、辞めるという決心がつきました。
毎日ではないので責任をとるから人形劇「ざわざわ森のがんこちゃん」だけは辞めないでといわれて、それ以外は一切やめました。
死ぬんだったら子どもとは最後まで一緒にいてやるんだと思ってそういいました。
10年間そうしました。
病院に来なくていいと言われて、やっぱり芝居がしたいと思ってしまって、舞台をいろいろやるようになりました。
今は楽しくてしょうがないです。
新劇協会にはずーっと入っていましたが、10年経って新劇協会で年に一度「詩と朗読の夕べ」があり、それに参加してみようと思いました。
その練習するときが面白くて、観客賞を頂いてそれが励みになりもう一度やってみようと思いました。
歳を取ってくると演技に対して言ってくれる人が少なくなりました。
先輩のところに2か所に行って勉強しています。
声だけですと、声の表現をするにはさらにお腹から気持ちを込めて言わないと伝わらないといつも思っています。
小さい声でもお腹から、魂から言わないと、という思いです。
若い人へのアドバイスとしては、芝居をちゃんとやりたいと思ったら、自分でいい先生を見つけて、仕事しながらでも勉強してほしいと思います。
自分の演技をテープに取って聞いて、自分で自分にダメ出しを毎回してみる。
そうすると絶対によくなっていきます。
本当に自分は何をやりたいのか、どんな役者になりたいのか自分のビジョンをしっかり持って行くことが大切かと思います。
語りを始めたので一人語りでお客さんが呼べて満足していただける、そういう私になりたいと思っています。
山田さんはアニメ「赤毛のアン」のアン役やNHKの人形劇「ざわざわ森のがんこちゃん」のお母さん役など多くの作品に出演されました。
3人のお子さんを育てられた山田さん、20年前に乳がんを患いました。
いまは完治していますが、仕事ばかりしていた山田さんは子どもときちんと向き合うきっかけになったと言います。
現在も様々な仕事に取り組んでいる山田さんに伺いました。
『赤毛のアン』のアン・シャーリー役、『小公女セーラ』では、主人公セーラのいじめ役・ラビニアを担当、『キャプテン翼』での岬太郎役など多くのキャラクターを演じてきた。
NHKの人形劇「ざわざわ森のがんこちゃん」のお母さん役など多くの作品に出演してきた。
小さいころは男の子と一緒に遊んでいました。
結婚するまでずーっと横浜にいました。
一旦中目黒の住みましたが、今も横浜に住んでいます。
中学生の時にバレーボール部に入っていましたが、演劇部のシンデレラを見て自分もやってみたいと思いました。
演劇部に中学2年の時に入り、高校3年まで演劇部にいました。
たまたま東欧で芝居する機会があり一か月ぐらい行きました、それを機会に劇団芸協に入りました。
東欧では私の方が感動しました。
劇団では下手なのがよくわかりました。
怒られるのも楽しかったです。
アニメ「赤毛のアン」のアン役を初めてやって、1年間通して終わったときに悲しくて悲しくてしょうがなかったです。
1979年 声優としてのデビューでした。
宮内浩平さんから赤毛のアンというオーディションをやっているという事で、行けば2000円もらえるという事で行きました。
合格するとは思っていなくて、言われたところをいろいろ1時間ぐらい読んでいて、もう一回来てくれという事で、赤毛のアンの本を慌てて買って読んで,余計なことをいろいろ考えてしまって、再度やったときには「このあいだ来た人ですか」といわれて、もう結構ですと言われ帰って来ましたが、帰りに泣いてしまいました。
テープが1時間ぐらい取ってあったので、それを聞いて高畑勲さんが決めてくれました。
気合を入れ過ぎてしまうのは駄目だと思いました。
島本 須美さんの「ルパン三世」に出てくるお姫様の声は凄く好きで、何と純粋な声なんだろうと思いました。
アンでは変な声の方がいいと言われて、素直にやればいいんだと思って後は楽しくやりました。
最初の頃は高い声でやっていて段々落ち着いてきました。
私とアンは似ているようなところがあると思いました。
『小公女セーラ』ではラビニアを担当して、難しかったです。
島本 須美さんの主人公セーラのいじめ役ですが、ねちねちといじめるのが上手く出来なくて、イライラしてきました。
「忍者ハットリくん」の影千代(ケムマキの弟子の忍者猫)は苦労しました。
そのまんまで出来るので少年役は楽しいです。
影千代はアドリブが多くて、アドリブが出来なくて大変でした。
最初の2か月が胃が痛くなりました。
家でいろいろ訓練してゆき、半年後には自分でアドリブが言えるようになりました。
子どもは30歳、25歳、と23歳の3人です。
子どもが3人目の時に乳がんになってしまって、子どもをちゃんと見ていなかったんだなあと反省しました。
初期だったので先生は大丈夫だと言いましたが、自分としては子どもより仕事優先で来ていたのに気が付いて、辞めるという決心がつきました。
毎日ではないので責任をとるから人形劇「ざわざわ森のがんこちゃん」だけは辞めないでといわれて、それ以外は一切やめました。
死ぬんだったら子どもとは最後まで一緒にいてやるんだと思ってそういいました。
10年間そうしました。
病院に来なくていいと言われて、やっぱり芝居がしたいと思ってしまって、舞台をいろいろやるようになりました。
今は楽しくてしょうがないです。
新劇協会にはずーっと入っていましたが、10年経って新劇協会で年に一度「詩と朗読の夕べ」があり、それに参加してみようと思いました。
その練習するときが面白くて、観客賞を頂いてそれが励みになりもう一度やってみようと思いました。
歳を取ってくると演技に対して言ってくれる人が少なくなりました。
先輩のところに2か所に行って勉強しています。
声だけですと、声の表現をするにはさらにお腹から気持ちを込めて言わないと伝わらないといつも思っています。
小さい声でもお腹から、魂から言わないと、という思いです。
若い人へのアドバイスとしては、芝居をちゃんとやりたいと思ったら、自分でいい先生を見つけて、仕事しながらでも勉強してほしいと思います。
自分の演技をテープに取って聞いて、自分で自分にダメ出しを毎回してみる。
そうすると絶対によくなっていきます。
本当に自分は何をやりたいのか、どんな役者になりたいのか自分のビジョンをしっかり持って行くことが大切かと思います。
語りを始めたので一人語りでお客さんが呼べて満足していただける、そういう私になりたいと思っています。
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