寒川 旭(産業技術総合研究所 名誉リサーチャー・「地震考古学で探る未来の地震」(初回:2019/3/16)
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2019/03/blog-post_16.htmlをご覧ください。
2020年3月7日土曜日
2020年3月6日金曜日
松浦常子(みかん農家) ・「視力を失って得た人生」
松浦常子(みかん農家) ・「視力を失って得た人生」
松浦さんは71歳、ミカン農家として生き生きと働いていた36歳の時に網膜色素変性症と診断され、いずれ失明すると告げられました。
将来への希望が持てず20年近く辛い日々を過ごしましたが、インターネットを通じて同じ境遇の人たちと出会ったことで生きる意欲を取り戻したと言います。
その後愛媛県に患者会を設立、地元宇和島市でも視覚障害者の交流会を開催するなどして、仲間の輪を少しずつ広げています。
そうした体験をつづった手記「私が歩んできた二つの人生」がNHK障害福祉賞を受けました。
「私が歩んできた二つの人生」は私が晴眼者であったら知らなかった世界ですが、別の世界を知って別の人生が生きられるという事が判りました。
一生懸命ミカン作りをしてきたときと、ミカン作りを辞めて同じ障害を持ち同じ悩みを持つ人たちと歩み始めて、二つの人生だなと思いました。
真っ暗かなあと思ったら白くて何も見えない感じです。
有難いことにほんのぼんやりとは見えるんです。
見えなくなってきたのが判ったのは40代後半ぐらいです。
36歳の時に網膜色素変性症だと言われたときには何にも感じていませんでした。
コンタクトをしていて目にゴミが入ってごろごろしていたので病院に行ったら、目の奥に重大な病気があります、網膜色素変性症という事でまず夜見えにくくなり段々視野が欠けていって最後にはいずれ失明しますと言われました。
そのうち失明してしまうのかと、いつも頭に隅にありました。
子どもは長男が中学1年、次男が4年生、娘が1年生の時でした。
夫はそれほど深刻にはとらえていなかったと思います。
50歳になってミカンの取り残しをしたりまぶしく感じたりして、夕方には見えにくくなりました。
人から具合はどうといわれて、段々人に会う事も嫌になってきました。
地域の婦人会もその時期に辞めてしまいました。
そのころJRPS(日本網膜色素変性症協会)を知りました。
東京に本部があり当時28支部ありました。
情報を知りたいと思ってネットで調べましたら、JRPSが判ってここに入ろうと思いました。
その日のうちに会員登録の手続きをしました。
私一人ではなく同じ思いをしているのがこんなに沢山いるんだと思えて気が楽になりました。
愛媛県では休会中だったので、本部から西日本ML(メーリングリスト)を紹介されてそちらに入りました。
不自由な思いをぶつけました。
周りからいろんなアイディアを出してくれたり、障害者手帳を申請した方がいいとかアドバイスしてくれました。
障害者2級でした。
色々な情報を得ることができました。
便利グッズをいろいろ紹介させてもらいました。
愛媛にもこんな交流の場があればいいなあと思いました。
友達から「無ければつくればいいんじゃない」といわれてそれでは作ろうと思いました。
まずは仲間集めをしないといけないと思って、新聞に載せてもらおうと思いました。
電話を頂いたりして何人かの仲間ができました。
立ち上げるのには学術会員が1名必要という事で、会員が30名以上とか条件がありました。
愛媛県大学のロービジョン外来を受診して、その医師に協力してもらえないかどうか伺ったら、快く引き受けていただけました。
会が発足したのは平成19年でした。
最初は40名足らずでしたが、今は103名になりました。
大きな柱が病気の治療法の確立ですので、病気について知ろうという事で医療講演会などはよく開催します。
情報を得るのにはパソコンを習いましょうという事で、月に一回午前中に学習して、あと点字を習う方もいて、午後はいろんなことをやります。
最初来られる方は沈んでいますが、そのうちに笑えるようになります。
中学生の頃にパール・バックの『 大地』という本を読んで、土に生きるという事はいいなあと思ってミカン農家に嫁ぎたいと思いました。
ミカン農家が斜陽になりミカンだけでは食べていけないような時代になり、ミカンの温室栽培をやり、品種の改良などもして、いちご栽培、ブロッコリー栽培したりして何とか苦労しながら続けてきました。
今は夫が一人でミカン栽培はやっています。
申し訳ないとは思って感謝しています。
豪雨で被害を受けて1か月以上断水にもあって大変でした。
全国から励ましを一杯頂きました。
人と人とのつながりをつくづく感じました。
ミカンはこれからは剪定作用があり、4月末5月ごろに花が咲くころに成ったら消毒作業などもあります。
今はスプリンクラーで楽にはなりましたが。
色んな人とかかわりあいながら、全国の皆さんにいろんなことを発信していきたいと思います。
松浦さんは71歳、ミカン農家として生き生きと働いていた36歳の時に網膜色素変性症と診断され、いずれ失明すると告げられました。
将来への希望が持てず20年近く辛い日々を過ごしましたが、インターネットを通じて同じ境遇の人たちと出会ったことで生きる意欲を取り戻したと言います。
その後愛媛県に患者会を設立、地元宇和島市でも視覚障害者の交流会を開催するなどして、仲間の輪を少しずつ広げています。
そうした体験をつづった手記「私が歩んできた二つの人生」がNHK障害福祉賞を受けました。
「私が歩んできた二つの人生」は私が晴眼者であったら知らなかった世界ですが、別の世界を知って別の人生が生きられるという事が判りました。
一生懸命ミカン作りをしてきたときと、ミカン作りを辞めて同じ障害を持ち同じ悩みを持つ人たちと歩み始めて、二つの人生だなと思いました。
真っ暗かなあと思ったら白くて何も見えない感じです。
有難いことにほんのぼんやりとは見えるんです。
見えなくなってきたのが判ったのは40代後半ぐらいです。
36歳の時に網膜色素変性症だと言われたときには何にも感じていませんでした。
コンタクトをしていて目にゴミが入ってごろごろしていたので病院に行ったら、目の奥に重大な病気があります、網膜色素変性症という事でまず夜見えにくくなり段々視野が欠けていって最後にはいずれ失明しますと言われました。
そのうち失明してしまうのかと、いつも頭に隅にありました。
子どもは長男が中学1年、次男が4年生、娘が1年生の時でした。
夫はそれほど深刻にはとらえていなかったと思います。
50歳になってミカンの取り残しをしたりまぶしく感じたりして、夕方には見えにくくなりました。
人から具合はどうといわれて、段々人に会う事も嫌になってきました。
地域の婦人会もその時期に辞めてしまいました。
そのころJRPS(日本網膜色素変性症協会)を知りました。
東京に本部があり当時28支部ありました。
情報を知りたいと思ってネットで調べましたら、JRPSが判ってここに入ろうと思いました。
その日のうちに会員登録の手続きをしました。
私一人ではなく同じ思いをしているのがこんなに沢山いるんだと思えて気が楽になりました。
愛媛県では休会中だったので、本部から西日本ML(メーリングリスト)を紹介されてそちらに入りました。
不自由な思いをぶつけました。
周りからいろんなアイディアを出してくれたり、障害者手帳を申請した方がいいとかアドバイスしてくれました。
障害者2級でした。
色々な情報を得ることができました。
便利グッズをいろいろ紹介させてもらいました。
愛媛にもこんな交流の場があればいいなあと思いました。
友達から「無ければつくればいいんじゃない」といわれてそれでは作ろうと思いました。
まずは仲間集めをしないといけないと思って、新聞に載せてもらおうと思いました。
電話を頂いたりして何人かの仲間ができました。
立ち上げるのには学術会員が1名必要という事で、会員が30名以上とか条件がありました。
愛媛県大学のロービジョン外来を受診して、その医師に協力してもらえないかどうか伺ったら、快く引き受けていただけました。
会が発足したのは平成19年でした。
最初は40名足らずでしたが、今は103名になりました。
大きな柱が病気の治療法の確立ですので、病気について知ろうという事で医療講演会などはよく開催します。
情報を得るのにはパソコンを習いましょうという事で、月に一回午前中に学習して、あと点字を習う方もいて、午後はいろんなことをやります。
最初来られる方は沈んでいますが、そのうちに笑えるようになります。
中学生の頃にパール・バックの『 大地』という本を読んで、土に生きるという事はいいなあと思ってミカン農家に嫁ぎたいと思いました。
ミカン農家が斜陽になりミカンだけでは食べていけないような時代になり、ミカンの温室栽培をやり、品種の改良などもして、いちご栽培、ブロッコリー栽培したりして何とか苦労しながら続けてきました。
今は夫が一人でミカン栽培はやっています。
申し訳ないとは思って感謝しています。
豪雨で被害を受けて1か月以上断水にもあって大変でした。
全国から励ましを一杯頂きました。
人と人とのつながりをつくづく感じました。
ミカンはこれからは剪定作用があり、4月末5月ごろに花が咲くころに成ったら消毒作業などもあります。
今はスプリンクラーで楽にはなりましたが。
色んな人とかかわりあいながら、全国の皆さんにいろんなことを発信していきたいと思います。
2020年3月5日木曜日
今泉吉晴(動物生態学者) ・「森の動物ヒミズを知っていますか」
今泉吉晴(動物生態学者) ・「森の動物ヒミズを知っていますか」
今泉さんは昭和15年東京生まれ、79歳。
子どものころから東京郊外の野山にいた生き物を観察するのが大好きな少年でした。
小学生の時に動物学者の父親から森の動物ヒミズを初めて見せてもらいます。
子どもの手のひらに乗るようなヒミズはビロードのような黒い毛に覆われ心地の良い手触りのする可愛らしい動物でした。
ヒミズはモグラの一種で森に住んでいます。
モグラの様に強力な前足を持たないため、落ち葉をそっと横にそえる程度の穴を掘ります。
ヒミズはなぜ森の中で暮らしどんな行動をしているのだろうか。
この好奇心が森の動物たちの研究に入る発端でした。
動物学は動物の分類が学問の中心でしたが、今泉さんは動物の暮らしの中にお邪魔してその生態や、行動を学ばせてもらう研究を行ってきました。
山梨県都留市でムササビと森を守る運動をおこし、東京から都留市に移住、森に山小屋を作り、住み込んで動物たちの観察を続けました。
現在は岩手県花巻市に住み研究を続けています。
モグラの仲間は雪で覆われると一段と地下が安全な場所になるので、ほっとしているかもしれません。
モグラはトンネルの中に居れば安心しています。
モグラを飼う方法を考えて、金網を丸くしてトンネルのようにするとモグラは落ち着きます。
小学校の低学年の時に、父が動物学者で富士山に調査に行って帰ってきて夜中に起こされて、真っ黒な小さなモグラのような動物で、それがヒミズでびっくりしました。
父も初めてで見せたかったようです。
ヒミズは地下で何をハンターしているのか、ミミズをどうやってハンターしているのかという論文でした。
ミミズがどうやって逃げるかを知っていて、摑まえる時にどうするかというと噛みついてミミズは引きずられると静かになる、そういったことを研究しました。
臭いを察知して、いろいろの行動を一つのパターンにして記憶させているわけです。
ヒミズの狩りの行動を解明していこうという研究です。
子どものころはザリガニなどをみたりするのが好きでした。
ヒミズの自然な行動を知りたいと森の中に住みたいと思いました。
モグラは都会にもいるが、ヒミズは山にしかいなくてそれはどうしてかという事が不思議でした。
動物行動学の理論を使って理論を研究することも山では研究できる。
都会、畑などは地面が赤裸、山に行くと露出した地面はなくて落ち葉の層がありその下には落ち葉が腐った層がありその下が普通の土で、地面の構造が違う。
ヒミズは落ち葉の層と土の層の境界にトンネルを掘るんです。
ヒミズは土だけの層には住めないという言ことが判りました。
モグラはブルトーザーのような手をして爪も長くて掻きとって、それを手で押してゆき、垂直に彫ってゆき、地面に土を押し上げて、モグラ塚ができる。
ヒミズは柔らかい土を掘っていく。
雪が降ると落ち葉と雪の間を掘ってエサを探すので新しい領域の餌場ができる。
1985年に山小屋を建てて、ムササビとも仲良くなり2階建てにしました。
本来の暮らしを研究するためには仲良くしないといけない。
摑まえて無理やり馴らすとか、餌付けをするとかはしない。
人間は嫌われています、行くとみんな逃げてしまいます。
そっとしてないと姿を見せてはくれない。
ムササビも見るのがとっても難しい動物だと言われていました。
中学時代から高尾山にムササビを見にしょっちゅう行っていました。
都留でムササビを見る会を作りました。
ムササビは高さの3倍は飛びます。
山小屋でのムササビを見ようとしたが出てきませんでした。
ムササビは春には強風などで赤ちゃんが落ちていることもあり、拾う事ができて肌身離さず育てました。
育てる手順も段々判ってきて、遊んであげたり、掌に載せたりしているうちにいろんな欲求が出てきて、山小屋からちょっと出たりしているうちに滑空ができるようになり、そのうちに出て行って、朝戻ってくるようにもなる。
肩にぽとんと乗って朝の迎える楽しさがあります。
ムササビが壁の隙間に巣をつくって子育てをしましたが、絶対的な信頼を得たと思いました。
壁の部分をガラスにしていろんな行動を観察することができました。
山小屋にいるといろんな接点ができて、共同体として迎え入れられました。
動物がこっちを見ているし、こっちもみて、お互いが了解してゆく関係が進展して深い関係になってゆくわけです。
共存の関係になってゆく前提はどうしたらいいかという事で、動物もほかの関係の中で生きているが、人間は自然を自分の利益のために行動するので、動物と上手くやってゆくにはそれを最小限にしないといけない。
対等になるには人間が持っているいろんな無茶なことに使うと本当の姿を見せてくれない。
シートンの動物記とかいろいろ翻訳しています。
面白いと思ったのはソローが山のなかでの生活とか、お金持ちにしかできないと思うが誰にでもできると言っているんですね。
一日だけ働いてほかの日は自分のために使う、そういう生活ができるよと言うところから始まるんです。
幾つも発想の展開をしないと山小屋での暮らしというものはできないと思います。
シートンは大学なんか行かない方がいいという事で開拓地に行くわけで、そこが大学でもあるわけです。
そこで学んだことから新しい動物学、自然学というか新しい世界を捉える哲学を組み立ててゆくという事をやった訳です。
動物分類学からあたらしい動物行動学に衣替えした訳です。
人間が歩いて土が固まってくるとヒミズが進めなくなってキツネなどにやられてしまうのでヒミズにとっていい土の状態を落ち葉に替わる安心空間、例えば竹の枝を使ってできないかとかそんなことをやっています。
今泉さんは昭和15年東京生まれ、79歳。
子どものころから東京郊外の野山にいた生き物を観察するのが大好きな少年でした。
小学生の時に動物学者の父親から森の動物ヒミズを初めて見せてもらいます。
子どもの手のひらに乗るようなヒミズはビロードのような黒い毛に覆われ心地の良い手触りのする可愛らしい動物でした。
ヒミズはモグラの一種で森に住んでいます。
モグラの様に強力な前足を持たないため、落ち葉をそっと横にそえる程度の穴を掘ります。
ヒミズはなぜ森の中で暮らしどんな行動をしているのだろうか。
この好奇心が森の動物たちの研究に入る発端でした。
動物学は動物の分類が学問の中心でしたが、今泉さんは動物の暮らしの中にお邪魔してその生態や、行動を学ばせてもらう研究を行ってきました。
山梨県都留市でムササビと森を守る運動をおこし、東京から都留市に移住、森に山小屋を作り、住み込んで動物たちの観察を続けました。
現在は岩手県花巻市に住み研究を続けています。
モグラの仲間は雪で覆われると一段と地下が安全な場所になるので、ほっとしているかもしれません。
モグラはトンネルの中に居れば安心しています。
モグラを飼う方法を考えて、金網を丸くしてトンネルのようにするとモグラは落ち着きます。
小学校の低学年の時に、父が動物学者で富士山に調査に行って帰ってきて夜中に起こされて、真っ黒な小さなモグラのような動物で、それがヒミズでびっくりしました。
父も初めてで見せたかったようです。
ヒミズは地下で何をハンターしているのか、ミミズをどうやってハンターしているのかという論文でした。
ミミズがどうやって逃げるかを知っていて、摑まえる時にどうするかというと噛みついてミミズは引きずられると静かになる、そういったことを研究しました。
臭いを察知して、いろいろの行動を一つのパターンにして記憶させているわけです。
ヒミズの狩りの行動を解明していこうという研究です。
子どものころはザリガニなどをみたりするのが好きでした。
ヒミズの自然な行動を知りたいと森の中に住みたいと思いました。
モグラは都会にもいるが、ヒミズは山にしかいなくてそれはどうしてかという事が不思議でした。
動物行動学の理論を使って理論を研究することも山では研究できる。
都会、畑などは地面が赤裸、山に行くと露出した地面はなくて落ち葉の層がありその下には落ち葉が腐った層がありその下が普通の土で、地面の構造が違う。
ヒミズは落ち葉の層と土の層の境界にトンネルを掘るんです。
ヒミズは土だけの層には住めないという言ことが判りました。
モグラはブルトーザーのような手をして爪も長くて掻きとって、それを手で押してゆき、垂直に彫ってゆき、地面に土を押し上げて、モグラ塚ができる。
ヒミズは柔らかい土を掘っていく。
雪が降ると落ち葉と雪の間を掘ってエサを探すので新しい領域の餌場ができる。
1985年に山小屋を建てて、ムササビとも仲良くなり2階建てにしました。
本来の暮らしを研究するためには仲良くしないといけない。
摑まえて無理やり馴らすとか、餌付けをするとかはしない。
人間は嫌われています、行くとみんな逃げてしまいます。
そっとしてないと姿を見せてはくれない。
ムササビも見るのがとっても難しい動物だと言われていました。
中学時代から高尾山にムササビを見にしょっちゅう行っていました。
都留でムササビを見る会を作りました。
ムササビは高さの3倍は飛びます。
山小屋でのムササビを見ようとしたが出てきませんでした。
ムササビは春には強風などで赤ちゃんが落ちていることもあり、拾う事ができて肌身離さず育てました。
育てる手順も段々判ってきて、遊んであげたり、掌に載せたりしているうちにいろんな欲求が出てきて、山小屋からちょっと出たりしているうちに滑空ができるようになり、そのうちに出て行って、朝戻ってくるようにもなる。
肩にぽとんと乗って朝の迎える楽しさがあります。
ムササビが壁の隙間に巣をつくって子育てをしましたが、絶対的な信頼を得たと思いました。
壁の部分をガラスにしていろんな行動を観察することができました。
山小屋にいるといろんな接点ができて、共同体として迎え入れられました。
動物がこっちを見ているし、こっちもみて、お互いが了解してゆく関係が進展して深い関係になってゆくわけです。
共存の関係になってゆく前提はどうしたらいいかという事で、動物もほかの関係の中で生きているが、人間は自然を自分の利益のために行動するので、動物と上手くやってゆくにはそれを最小限にしないといけない。
対等になるには人間が持っているいろんな無茶なことに使うと本当の姿を見せてくれない。
シートンの動物記とかいろいろ翻訳しています。
面白いと思ったのはソローが山のなかでの生活とか、お金持ちにしかできないと思うが誰にでもできると言っているんですね。
一日だけ働いてほかの日は自分のために使う、そういう生活ができるよと言うところから始まるんです。
幾つも発想の展開をしないと山小屋での暮らしというものはできないと思います。
シートンは大学なんか行かない方がいいという事で開拓地に行くわけで、そこが大学でもあるわけです。
そこで学んだことから新しい動物学、自然学というか新しい世界を捉える哲学を組み立ててゆくという事をやった訳です。
動物分類学からあたらしい動物行動学に衣替えした訳です。
人間が歩いて土が固まってくるとヒミズが進めなくなってキツネなどにやられてしまうのでヒミズにとっていい土の状態を落ち葉に替わる安心空間、例えば竹の枝を使ってできないかとかそんなことをやっています。
2020年3月4日水曜日
佐々木勝年(NPO理事長) ・「もったいない精神で建築を変える」
佐々木勝年(NPO理事長) ・「もったいない精神で建築を変える」
佐々木さんは1944年千葉県生まれ、法政大学大学院で経済学を学び会社勤務の後1980年にマーケティングや地域開発、事業戦略を手がける会社を設立しました。
20年後の2000年に大学教授や一級建築士らと特定非営利活動法人NPO持続建築を立ち上げ、今日まで活動を続けています。
自然環境と社会環境がバランスよく調和し快適な生活が持続出来るような建築を基本理念に様々な事業を展開しています。
住宅やビルの建築では30年から50年で建て替えるスクラップ&ビルド方式ではなく、もったいない精神で出来るだけ長持ちする方式を推奨しています。
「中小建物の100年建築物語」というセミナーを昨年11月に開催しました。
まだ使える建物を改修して使って行こうという事なんです。
木造建築は大体30年で寿命が来ているのではないか、コンクリートの建物だと大体60年ぐらいで寿命が来ると考えているわけです。
こういう建築物に対してもう一度再検討すべきではないかと考えました。
もったいない精神をベースにして発想の転換を図っていかなくてはいけない。
中古ビルの建物を改修して診断して一生懸命メンテをやってできるだけ長く伸ばして、建物の改修をして建物の価値を高めて行くという方法がありうると考えたんです。
4事例あったんですが、その中の一つ、健康マンションの事例。
小さな事業所ビルです。
レイアウトの変更、従来事務所と屋上バルコニースペースがあったんですが、その中に一部張り出すようにバッファー空間、使用領域が曖昧なスペースを作って、レイアウトの変更をしました。
使い続ける100年改修
電気配線、配管が露出する様な形にして何が問題かが判る様にする。
杉の木材を床材として使いました。
壁と天井は漆喰塗装。
35歳で会社を立ち上げました。
事業領域は①事業の開発、建物の開発、②農業の分野での農業の経営関係③マーケティングとか事業計画を作ってゆく。
リゾート開発とか進めてゆくうちに、環境の問題が大きく立ちはだかってきました。
環境を守り環境を作ってゆく、環境創業というよな立場で考えてゆくべきではないかと思いました。
開発との両立も十分ありうるのではないかと思いました。
農業でも同じような環境の問題(農薬とか)が解決すべき問題としてあるように思いました。
2000年にNPOを作ったときには、秋田県の大潟村に新しい環境の新村を作り上げようという構想を村の方から委託されました。
その時に東大の名誉教授の高橋先生が環境持続という形と建築、構造物というものを一致させて、自然環境と人工的な環境、社会環境とバランスよく調和して持続的に快適な生活が営むような建築、環境持続建築ということを目的に発足することができました。
自然再生エネルギーを利用して最終的にはZEHの開発を行いました。
(ZEH ゼッチ とは、Net Zero Energy House(ネット・ゼロ・エネルギー・ハウス)の略。 住まいの断熱性・省エネ性能を上げること、そして太陽光発電などでエネルギーを創ることにより、年間の一次消費エネルギー量(空調・給湯・照明・換気)の収支をプラスマイナス「ゼロ」にする住宅)
病院のエネルギー消費分析、21世紀はどういう住まい方とか、などのセミナー事業など多様なことをやっています。
我々の大きな特徴とするものが二つあって
①セミナー事業
②ワークショップ 子どもたちと遊ぶ住環境教育
①セミナー事業
地域を支える拠点と施設環境作り、幼稚園や保育施設、高齢者施設、学校、病院とか診療所こういったものが地域には不可欠なもので地域の特性を踏まえて作り出さなければいけない建物に入っていくんじゃないかと思います。。
高齢者施設、施設というものから住まいという考え方に替える方がいいという考え方があります。
最初にその考え方を提案したのが京都大学の外山先生でした。(ユニットケア)
個室が一つの家になって生活している。
②ワークショップ 子どもたちと遊ぶ住環境教育
熱というものを中心に置きながら、冬に暖かい住宅、夏に涼しい住宅、ダンボールを使いながらいろんな工夫をして作ってみる。
暖かい家を維持するのにはどうしたらいいのか、涼しい家を作るのにはどうしたらいいのか、みんなと一緒に子どもたちと考えて行くというものです。
それぞれ温度湿度を計測する。
子どもたちはそれなりに考えてやっていきます。
どうしてて涼しいのかが判ってくるわけです。
病院は非常にエネルギーを消費します。
空調もしっかりかけるので、例えば1平米当たりどの程度エネルギーを消費しているのか算出します。
1平米当たりエネルギーをどのぐらい下げてゆくのか、目標ができてゆきます。
ある私立病院では2006年に比較して下げて来ています。
CTとか瞬間的に大量にエネルギーを使う装置もいろいろ増えてきているので、増加するという現状もあります。
圧倒的に多いのは古くなった4,5階程度の中小のビル群です、あとは住宅です。
それが街の表情や形を示してきている。
新しい顔を少し変えて作ってゆくという事が重要なことだと思います。
「中小建物の100年建築物語」というセミナーを昨年11月に開催しましたが、ビルのオーナーに参加していただきました。
改修も視野に入れなければいけないと思っています。
建築廃棄物が廃棄物の中で一番多いので、どのように減らしていったらいいのか、あらかじめ作ったり改修したりするときに考える必要があると思います。
資源循環型の社会のシステムというものを考えていかなければいけないんじゃないかと思います。
来年も「中小建物の100年建築物語」というセミナーを具体例を示しながら行いたいと思っています。
今までの成果の報告もしていきます。
佐々木さんは1944年千葉県生まれ、法政大学大学院で経済学を学び会社勤務の後1980年にマーケティングや地域開発、事業戦略を手がける会社を設立しました。
20年後の2000年に大学教授や一級建築士らと特定非営利活動法人NPO持続建築を立ち上げ、今日まで活動を続けています。
自然環境と社会環境がバランスよく調和し快適な生活が持続出来るような建築を基本理念に様々な事業を展開しています。
住宅やビルの建築では30年から50年で建て替えるスクラップ&ビルド方式ではなく、もったいない精神で出来るだけ長持ちする方式を推奨しています。
「中小建物の100年建築物語」というセミナーを昨年11月に開催しました。
まだ使える建物を改修して使って行こうという事なんです。
木造建築は大体30年で寿命が来ているのではないか、コンクリートの建物だと大体60年ぐらいで寿命が来ると考えているわけです。
こういう建築物に対してもう一度再検討すべきではないかと考えました。
もったいない精神をベースにして発想の転換を図っていかなくてはいけない。
中古ビルの建物を改修して診断して一生懸命メンテをやってできるだけ長く伸ばして、建物の改修をして建物の価値を高めて行くという方法がありうると考えたんです。
4事例あったんですが、その中の一つ、健康マンションの事例。
小さな事業所ビルです。
レイアウトの変更、従来事務所と屋上バルコニースペースがあったんですが、その中に一部張り出すようにバッファー空間、使用領域が曖昧なスペースを作って、レイアウトの変更をしました。
使い続ける100年改修
電気配線、配管が露出する様な形にして何が問題かが判る様にする。
杉の木材を床材として使いました。
壁と天井は漆喰塗装。
35歳で会社を立ち上げました。
事業領域は①事業の開発、建物の開発、②農業の分野での農業の経営関係③マーケティングとか事業計画を作ってゆく。
リゾート開発とか進めてゆくうちに、環境の問題が大きく立ちはだかってきました。
環境を守り環境を作ってゆく、環境創業というよな立場で考えてゆくべきではないかと思いました。
開発との両立も十分ありうるのではないかと思いました。
農業でも同じような環境の問題(農薬とか)が解決すべき問題としてあるように思いました。
2000年にNPOを作ったときには、秋田県の大潟村に新しい環境の新村を作り上げようという構想を村の方から委託されました。
その時に東大の名誉教授の高橋先生が環境持続という形と建築、構造物というものを一致させて、自然環境と人工的な環境、社会環境とバランスよく調和して持続的に快適な生活が営むような建築、環境持続建築ということを目的に発足することができました。
自然再生エネルギーを利用して最終的にはZEHの開発を行いました。
(ZEH ゼッチ とは、Net Zero Energy House(ネット・ゼロ・エネルギー・ハウス)の略。 住まいの断熱性・省エネ性能を上げること、そして太陽光発電などでエネルギーを創ることにより、年間の一次消費エネルギー量(空調・給湯・照明・換気)の収支をプラスマイナス「ゼロ」にする住宅)
病院のエネルギー消費分析、21世紀はどういう住まい方とか、などのセミナー事業など多様なことをやっています。
我々の大きな特徴とするものが二つあって
①セミナー事業
②ワークショップ 子どもたちと遊ぶ住環境教育
①セミナー事業
地域を支える拠点と施設環境作り、幼稚園や保育施設、高齢者施設、学校、病院とか診療所こういったものが地域には不可欠なもので地域の特性を踏まえて作り出さなければいけない建物に入っていくんじゃないかと思います。。
高齢者施設、施設というものから住まいという考え方に替える方がいいという考え方があります。
最初にその考え方を提案したのが京都大学の外山先生でした。(ユニットケア)
個室が一つの家になって生活している。
②ワークショップ 子どもたちと遊ぶ住環境教育
熱というものを中心に置きながら、冬に暖かい住宅、夏に涼しい住宅、ダンボールを使いながらいろんな工夫をして作ってみる。
暖かい家を維持するのにはどうしたらいいのか、涼しい家を作るのにはどうしたらいいのか、みんなと一緒に子どもたちと考えて行くというものです。
それぞれ温度湿度を計測する。
子どもたちはそれなりに考えてやっていきます。
どうしてて涼しいのかが判ってくるわけです。
病院は非常にエネルギーを消費します。
空調もしっかりかけるので、例えば1平米当たりどの程度エネルギーを消費しているのか算出します。
1平米当たりエネルギーをどのぐらい下げてゆくのか、目標ができてゆきます。
ある私立病院では2006年に比較して下げて来ています。
CTとか瞬間的に大量にエネルギーを使う装置もいろいろ増えてきているので、増加するという現状もあります。
圧倒的に多いのは古くなった4,5階程度の中小のビル群です、あとは住宅です。
それが街の表情や形を示してきている。
新しい顔を少し変えて作ってゆくという事が重要なことだと思います。
「中小建物の100年建築物語」というセミナーを昨年11月に開催しましたが、ビルのオーナーに参加していただきました。
改修も視野に入れなければいけないと思っています。
建築廃棄物が廃棄物の中で一番多いので、どのように減らしていったらいいのか、あらかじめ作ったり改修したりするときに考える必要があると思います。
資源循環型の社会のシステムというものを考えていかなければいけないんじゃないかと思います。
来年も「中小建物の100年建築物語」というセミナーを具体例を示しながら行いたいと思っています。
今までの成果の報告もしていきます。
2020年3月3日火曜日
小坂忠(シンガーソングライター・牧師) ・「音楽は生きる支え」
小坂忠(シンガーソングライター・牧師) ・「音楽は生きる支え」
小坂さんは1948年東京生まれ、1966年ロックグループ「ザ・フローラル」でデビューしました。
その後細野晴臣さん、松本隆さん、柳田ヒロさんらと「エイプリル・フール」を結成、数々の曲を発表して若者の心をつかみました。
1976年からクリスチャンとして教会を中心にゴスペルソングを歌うようになりました。
そして20年余りの時を経て再び細野晴臣さんたちと音楽活動を再開しました。
以来円熟味の有る歌声でますます多くの人を魅了しています。
ユニット“茂 忠(しげちゅう)のコンサートを大阪で3月に行います。
大学に入ったときに学生運動が盛んで学校が封鎖されてやる事がないので、音楽仲間でバンドを作って活動をしていました。
その時に新人バンドのオーディションがあり受けに行きました、それでプロに成っちゃました。
1966年ロックグループ「ザ・フローラル」でデビューしました。
モンキーズの前座でした。
その後細野晴臣さん松本隆さん、柳田ヒロさんらと「エイプリル・フール」を結成しました。
60年代の後半は新しい文化がふつふつと湧いてくる面白い時代でした。
演劇、デザイン、映画、音楽、京築の世界など、それまでの世界と違うカウンターカルチャー的な新しい世界が生まれた時代でした。
そういった同じ土俵に居たかった。
ロックミュージカル「HAIR」に出演しました。
次のバンドの構想もありましたが、断念しましたが、彼らははっぴいえんどの前身バンド「ヴァレンタイン・ブルー」を結成しました。
その後ソロとしても音楽活動をするようになりました。
1975年、細野晴臣さん、鈴木茂さん、林立夫さん、松任谷正隆さんを中心に結成されたティン・パン・アレーの演奏によるオリジナルアルバム『HORO』リリースしました。
*『HORO』 作詞、作曲:細野晴臣
ソロ活動もしながら作詞作曲の活動もしていきました。
子ども向けの「おかあさんと一緒」の番組の曲も作りました。
しかし音楽活動を辞めて1976年からクリスチャンとして教会を中心にゴスペルソングを歌うようになりました。
1976年に娘が全身に熱湯を浴びてしまうという大やけどを負ってしまい、ショックをうけて、教会に行って祈ってもらいなさいと言われて、娘のことなら何でもやろうと思って教会に行きました。
不思議なことに娘は火傷が回復して、それから真剣に神様はいるんだと思いはじめ、教会に通い始めました。
1991年に牧師になりました。
刑務所とか少年院にいって歌うようになり始めました。
クリスチャンになって歌う意味合いが大分変りました。
僕が歌う事で誰かが励まされたり、希望が持てたりして僕が歌う意味があるわけです。
ホスピルソングを自分でも作るようになりましたが、新しいものなので非難を受けましたが、若い人たちはすごく喜んでくれました。
チャペルコンサートもしています。
日曜日には礼拝があり、いろいろ相談もあります。
一番大きいのは家庭の問題です。
20年ぐらいそういった活動があり、2000年からティン・パン・アレーのコンサートにゲスト出演。25年ぶりの共演となった。
2016年、デビューから50周年となりました。
娘も歌手になってアメリカで音楽活動をしています。
2017年にがんが見つかりました。
熊本の被災支援コンサートをやってお腹が痛くて我慢して帰ってきて、医師に診てもらったら深刻だというんです、緊急入院しました。
大腸がんのステージ4で、胃がんも見つかり、大腸のがんの摘出と、胃を2/3切除、胆嚢炎で3つを一緒に取りました。
入院生活は2か月半で50日絶食でした。
退院したその足でウナギを食べに行きました。
歌えるように毎日リハビリをしていたので1か月後には90分コンサートをやりました。
今は体調はすこぶるいいです。
2018年夏70歳になりコンサートを行いました。
*上を向いて歩こう 歌:小坂忠
どんなに歳をとっていても夢を持つことは大事だと思います。
支援コンサート 東北、気仙沼でやる計画でしたが、コロナウイスのことで中止になってしまって残念です。
200回ぐらい支援コンサートを積み重ねてやってきました。
*明日になれば 歌:小坂忠
小坂さんは1948年東京生まれ、1966年ロックグループ「ザ・フローラル」でデビューしました。
その後細野晴臣さん、松本隆さん、柳田ヒロさんらと「エイプリル・フール」を結成、数々の曲を発表して若者の心をつかみました。
1976年からクリスチャンとして教会を中心にゴスペルソングを歌うようになりました。
そして20年余りの時を経て再び細野晴臣さんたちと音楽活動を再開しました。
以来円熟味の有る歌声でますます多くの人を魅了しています。
ユニット“茂 忠(しげちゅう)のコンサートを大阪で3月に行います。
大学に入ったときに学生運動が盛んで学校が封鎖されてやる事がないので、音楽仲間でバンドを作って活動をしていました。
その時に新人バンドのオーディションがあり受けに行きました、それでプロに成っちゃました。
1966年ロックグループ「ザ・フローラル」でデビューしました。
モンキーズの前座でした。
その後細野晴臣さん松本隆さん、柳田ヒロさんらと「エイプリル・フール」を結成しました。
60年代の後半は新しい文化がふつふつと湧いてくる面白い時代でした。
演劇、デザイン、映画、音楽、京築の世界など、それまでの世界と違うカウンターカルチャー的な新しい世界が生まれた時代でした。
そういった同じ土俵に居たかった。
ロックミュージカル「HAIR」に出演しました。
次のバンドの構想もありましたが、断念しましたが、彼らははっぴいえんどの前身バンド「ヴァレンタイン・ブルー」を結成しました。
その後ソロとしても音楽活動をするようになりました。
1975年、細野晴臣さん、鈴木茂さん、林立夫さん、松任谷正隆さんを中心に結成されたティン・パン・アレーの演奏によるオリジナルアルバム『HORO』リリースしました。
*『HORO』 作詞、作曲:細野晴臣
ソロ活動もしながら作詞作曲の活動もしていきました。
子ども向けの「おかあさんと一緒」の番組の曲も作りました。
しかし音楽活動を辞めて1976年からクリスチャンとして教会を中心にゴスペルソングを歌うようになりました。
1976年に娘が全身に熱湯を浴びてしまうという大やけどを負ってしまい、ショックをうけて、教会に行って祈ってもらいなさいと言われて、娘のことなら何でもやろうと思って教会に行きました。
不思議なことに娘は火傷が回復して、それから真剣に神様はいるんだと思いはじめ、教会に通い始めました。
1991年に牧師になりました。
刑務所とか少年院にいって歌うようになり始めました。
クリスチャンになって歌う意味合いが大分変りました。
僕が歌う事で誰かが励まされたり、希望が持てたりして僕が歌う意味があるわけです。
ホスピルソングを自分でも作るようになりましたが、新しいものなので非難を受けましたが、若い人たちはすごく喜んでくれました。
チャペルコンサートもしています。
日曜日には礼拝があり、いろいろ相談もあります。
一番大きいのは家庭の問題です。
20年ぐらいそういった活動があり、2000年からティン・パン・アレーのコンサートにゲスト出演。25年ぶりの共演となった。
2016年、デビューから50周年となりました。
娘も歌手になってアメリカで音楽活動をしています。
2017年にがんが見つかりました。
熊本の被災支援コンサートをやってお腹が痛くて我慢して帰ってきて、医師に診てもらったら深刻だというんです、緊急入院しました。
大腸がんのステージ4で、胃がんも見つかり、大腸のがんの摘出と、胃を2/3切除、胆嚢炎で3つを一緒に取りました。
入院生活は2か月半で50日絶食でした。
退院したその足でウナギを食べに行きました。
歌えるように毎日リハビリをしていたので1か月後には90分コンサートをやりました。
今は体調はすこぶるいいです。
2018年夏70歳になりコンサートを行いました。
*上を向いて歩こう 歌:小坂忠
どんなに歳をとっていても夢を持つことは大事だと思います。
支援コンサート 東北、気仙沼でやる計画でしたが、コロナウイスのことで中止になってしまって残念です。
200回ぐらい支援コンサートを積み重ねてやってきました。
*明日になれば 歌:小坂忠
2020年3月2日月曜日
穂村弘(歌人) ・【ほむほむのふむふむ】
穂村弘(歌人) ・【ほむほむのふむふむ】
この一年多くの変化もなく、父と八丈島に行って山に登ったりしてきました。
健康に気を使いながら過ごしてきました。
3月という事で春の歌を選びました。
昔からひな祭りやお人形の歌はたくさんありましたが、楽しいとかハッピーとか愉快な歌は見た記憶がないので、不思議に思って岩波現代短歌辞典を開いてみたら、ひな祭りの項目に、近代にいたるまでの女性に忍従を強いられた生き方の象徴としてひな人形が連想されるからであろうと書かれていて、又「嬉しいひな祭り」という童謡があるが、タイトルは嬉しいだが、曲が何故かさびしい感じです。
そういう事かと思いました。
「われにふかき 睡魔は来たる ひとりづつ 雛人形を醒まして 飾り終ふれば」 小島ゆかり
一人づつ目覚めさせて飾ってゆくと、今度は自分がなんだか眠くなってしまったという歌で、彼女たちと自分がどこか深いところで繋がっているのかもしれなというそんなことを感じさせる歌です。
「雛のある部屋に足し算教えつつ雪ふるように切なさがふる」 東直子
お母さんが娘に足し算を教えているような光景が浮かびます。
切なさという事で女性から女性へのつながりがあるようで、ひな人形にも三人官女、五人囃しとか七段飾りとか数が一杯出てきます。
深いところで数というものがつながっているのかもしれません。
ふわっとした切なさが全体に流れている様ないい歌だと思います。
「屋上でサンドイッチを食べていた卒業なんて信じなかった」 加藤千恵
高校生が屋上でサンドイッチを食べているとなんだかどの時間がいつまでも続くような感じがする、勿論そんなことはないのは知っているが、卒業なんて信じないという感じがあるのかなあと思います。
なんか普遍的な感じがします。
屋上で、というのは自由があるぎりぎりの線というところですね。
「海だけのページが卒業アルバムにあってそれから閉じていません」 伊舎堂仁
伊舎堂仁さんは1988年生まれ、卒業アルバムの歌で、修学旅行、臨海学校とかでいった海のページが入っている。
みんなが一杯写っている写真よりも海だけのページが青春のきらめきのピークにあるような不思議な感じ。
その感覚が判る様な気がします。
心の中のページをいつまでもきらめきのページを閉じたくないような、今も心の中に広がっているようなそんな歌だと思います。
「まとめると穂村さんからくださいを斎藤さんからそれ本当を」 最近の作品 伊舎堂仁
「桜花いのちいっぱいに咲くからに命をかけてわが眺めたり」 岡本かの子
岡本太郎の母親、桜と対決するような凄い歌です。
桜の歌はいっぱいあるが以前は人間の向こうにある大きなものという様な自然の捉え方がそうだったんですが、近代に入って私というものを強く意識するようになって、桜対自分のような、当時としては衝撃的だったんだと思います 。
「水流にさくら零(ふ)る日よ魚の見るさくらはいかに美しから ん」 小島ゆかり
人間は桜が地上から水に落ちて行くのを見えるが、凄いのは魚の視線を想像している。
水がレンズの様になるかもしれないし、我々にはないアングルだから新鮮な桜の歌だと思いました。
「桜という母の歌集にポトリと春の涎を垂らしてしまう」 小島なお
桜という題名の本に外では桜が咲いている時に、眠くて涎を落としてしまった。
面白い季節感の捉え方です。
母親は小島ゆかり。
「ひな壇に誰もいなくてきらきらと笛や刀が散らばっている」 穂村弘
空想ですが、誰もいなくて何があったんだろうと、不穏な世界を描きたかった。
時空のはざま的なところがあります。
「母のいない桜の季節父のために買う簡単な携帯電話」 穂村弘
母が亡くなって父のために簡単な携帯電話を買いに行くが、買う事が母の不在感を逆に感じさせる。
華やかな季節だがでも父は一人。
「節分の豆をつまんで子どもらに三粒、五粒手のひらに湯気」 リスナー原沢源治?
大人だけでは盛り上がらない、子どもがいるとイベント感が盛り上がる。
子どもたちの生命力の湯気では。
クローズアップがいいと思います。
「ふためいて270度回転す今晩は鍋今晩は鍋」 リスナー松村麻衣子?
パニックしている状態を270度と言う角度で表現しているのが面白いです。
(短歌の漢字ひらがななど間違っているかもしれません)
この一年多くの変化もなく、父と八丈島に行って山に登ったりしてきました。
健康に気を使いながら過ごしてきました。
3月という事で春の歌を選びました。
昔からひな祭りやお人形の歌はたくさんありましたが、楽しいとかハッピーとか愉快な歌は見た記憶がないので、不思議に思って岩波現代短歌辞典を開いてみたら、ひな祭りの項目に、近代にいたるまでの女性に忍従を強いられた生き方の象徴としてひな人形が連想されるからであろうと書かれていて、又「嬉しいひな祭り」という童謡があるが、タイトルは嬉しいだが、曲が何故かさびしい感じです。
そういう事かと思いました。
「われにふかき 睡魔は来たる ひとりづつ 雛人形を醒まして 飾り終ふれば」 小島ゆかり
一人づつ目覚めさせて飾ってゆくと、今度は自分がなんだか眠くなってしまったという歌で、彼女たちと自分がどこか深いところで繋がっているのかもしれなというそんなことを感じさせる歌です。
「雛のある部屋に足し算教えつつ雪ふるように切なさがふる」 東直子
お母さんが娘に足し算を教えているような光景が浮かびます。
切なさという事で女性から女性へのつながりがあるようで、ひな人形にも三人官女、五人囃しとか七段飾りとか数が一杯出てきます。
深いところで数というものがつながっているのかもしれません。
ふわっとした切なさが全体に流れている様ないい歌だと思います。
「屋上でサンドイッチを食べていた卒業なんて信じなかった」 加藤千恵
高校生が屋上でサンドイッチを食べているとなんだかどの時間がいつまでも続くような感じがする、勿論そんなことはないのは知っているが、卒業なんて信じないという感じがあるのかなあと思います。
なんか普遍的な感じがします。
屋上で、というのは自由があるぎりぎりの線というところですね。
「海だけのページが卒業アルバムにあってそれから閉じていません」 伊舎堂仁
伊舎堂仁さんは1988年生まれ、卒業アルバムの歌で、修学旅行、臨海学校とかでいった海のページが入っている。
みんなが一杯写っている写真よりも海だけのページが青春のきらめきのピークにあるような不思議な感じ。
その感覚が判る様な気がします。
心の中のページをいつまでもきらめきのページを閉じたくないような、今も心の中に広がっているようなそんな歌だと思います。
「まとめると穂村さんからくださいを斎藤さんからそれ本当を」 最近の作品 伊舎堂仁
「桜花いのちいっぱいに咲くからに命をかけてわが眺めたり」 岡本かの子
岡本太郎の母親、桜と対決するような凄い歌です。
桜の歌はいっぱいあるが以前は人間の向こうにある大きなものという様な自然の捉え方がそうだったんですが、近代に入って私というものを強く意識するようになって、桜対自分のような、当時としては衝撃的だったんだと思います 。
「水流にさくら零(ふ)る日よ魚の見るさくらはいかに美しから ん」 小島ゆかり
人間は桜が地上から水に落ちて行くのを見えるが、凄いのは魚の視線を想像している。
水がレンズの様になるかもしれないし、我々にはないアングルだから新鮮な桜の歌だと思いました。
「桜という母の歌集にポトリと春の涎を垂らしてしまう」 小島なお
桜という題名の本に外では桜が咲いている時に、眠くて涎を落としてしまった。
面白い季節感の捉え方です。
母親は小島ゆかり。
「ひな壇に誰もいなくてきらきらと笛や刀が散らばっている」 穂村弘
空想ですが、誰もいなくて何があったんだろうと、不穏な世界を描きたかった。
時空のはざま的なところがあります。
「母のいない桜の季節父のために買う簡単な携帯電話」 穂村弘
母が亡くなって父のために簡単な携帯電話を買いに行くが、買う事が母の不在感を逆に感じさせる。
華やかな季節だがでも父は一人。
「節分の豆をつまんで子どもらに三粒、五粒手のひらに湯気」 リスナー原沢源治?
大人だけでは盛り上がらない、子どもがいるとイベント感が盛り上がる。
子どもたちの生命力の湯気では。
クローズアップがいいと思います。
「ふためいて270度回転す今晩は鍋今晩は鍋」 リスナー松村麻衣子?
パニックしている状態を270度と言う角度で表現しているのが面白いです。
(短歌の漢字ひらがななど間違っているかもしれません)
2020年3月1日日曜日
鮫島純子(エッセイスト) ・「祖父・渋沢栄一の教え」
鮫島純子(エッセイスト) ・「祖父・渋沢栄一の教え」
今年は日本資本主義の父と言われる渋沢栄一の生誕180周年に当たります。
来年の大河ドラマ「青天を衝け」の主人公、4年後に発行される新1万円札の肖像画も決まって脚光を浴びています。
エッセーイストの鮫島純子さん(97歳)は名付け親だった祖父渋沢栄一を直接知る数少ない生き証人です。
鮫島純子さんにとって渋沢栄一はどんな祖父だったのか、祖父からどんな教えを受けたのか、伺いました。
4年後に発行される新1万円札の肖像画も決まって、講演が多くなってあちこちにお呼ばれされています。
父は渋沢栄一の三男渋沢 正雄 日本製鉄の副社長、石川島飛行機製造所の初代社長、母は岡山藩の池田家の出身。
大正11年に飛鳥山で生まれました。(祖父の家から歩いて5分ぐらい)
父が早く会社を引けた後などには良くご機嫌伺にいって、私たちも一緒に夕食を頂きました。
いとこたちと一緒に歳の順に「ごきげんよう」と申しますと、祖父は一人づつ飴を口の中に入れてくれました。
私は年の離れた孫だったのでペット的な存在でした。
叱られた覚えは全然ありませんでした。
世界中の人がかわいかったのではないかと、グローバルな愛を感じていました。
小学校低学年の頃御木本さんのビルに呼んで頂いて、御木本さんが如何に丸い真珠を作るのに御腐心があったのかという映画を映してくださって、お昼ご飯にあこや貝のフライが出ました。
「皆さんお気を付けください、フライの中には真珠が入っていますから」という事で、ポロンと出ました、それを集めて母が私がかたづくときにブローチにしてくれました。
それは嬉しい楽しい思い出として残っていますが、大きくなって聞きましたら、御木本さんがご商売の資金が無くなったという事を聞いて、祖父がこれは生糸と共に大事な日本の商品だから応援しなければいけない、と言ってお手伝いしたらしくて、その恩返しが御馳走だったという事を聞きました。
世界の日本であるために一生懸命だったという事に後で知りました。
祖父が亡くなったときは9歳何か月でした。
子どもながらに崇高な顔をしていました。
一番驚いたのは天皇家から勅使の方がいらっしゃって、御沙汰書と言って、よく働いたねと言う意味のお言葉を頂戴して、みんなが緊張してお読み上げを伺っていたという思い出があります。
葬列になったときにはあまりにも列が沢山で、82台という車がついて、飛鳥山から青山斎場まで皆さんが沿道に出てきて今の皇室の御大葬のように並んでくれました。
祖父自身も決して贅沢な日常ではなかったのを記憶しています。
叔父の渋沢英雄が書いてあるなかに、祖父が亡くなるころに20名ばかり訪問があり、祖父は肺炎で寝ていましたが、貧しい方が20万人困っていて、議会にその人たちを助けるという法案は通ってるのに実際にはお金が来ないので、なんとか早く頂きたいのでついては大蔵大臣に渋沢さんから頼んでほしいという代表の方たちだとわかったら、臥せっているのにもかかわらず自分が大蔵省にお願い行くという事になって、侍医さんが引き留めたのに大蔵省に伺うという電話を掛けさせたという事が書いてあるので祖父らしいと思って読みました。
大蔵省から「御病気ではこちらから伺います」と言ったが、「お願いする側に来るというのは、それは筋が通らない」と言ってこちらから出かけたそうです。
(500位以上の会社の設立に携わって、日本資本主義の父と呼ばれる。)
一つ一ついろいろ大変だったらしいですね。
亡くなるときに父たちが「お父さん 一生はどうでいたか」と聞いたら「面白かったよ」と言ったというのは私はよく聞かされました。
「世界が平和でなければみんなの幸せはなく、みんなが幸せにならなければ自分も幸せには成れない。」
私は聞かされたた覚えはないのですが、DNAの中にはいっているのか、自分たちの使命は世界の平和を作り上げる
一人一人の使命があるんだと、ふっと考えるとおじいさまのお考えだったんだと思います。
「純子」という名は祖父がつけてくれて命名書がありますが、祖父の考えで付けたのですが、漢文で書いてあるので意味はよくわかりません。
結婚は20歳、大学に行きたかったが、一刻も早くもらってくださる所へとそんな感じでした。
岩倉具視卿のひ孫にあたる方です。
軍服に身を固めてサーベルをして白い手袋をしてのお見合いの席で、もらってくださるならばという事でその姿に直ぐOKしました。
鈴木貫太郎さんが仲人でした。
雅叙園での防空壕にかつらをつけたまま入りました。
夫は慌てて軍服のまま横須賀に跳んでいきました。
結婚してからこの人は嫌だったなあという事は一度もありませんでした。
医師から夫は喉頭がんで直ぐ手術といわれてびっくりしました。
ここまで生かしてもらって十分人生を楽しんだので一切治療はしないで、自然死でいいという事でした。
宣告後1年7か月生きていました。(85歳 私は78歳)
その間に青森と京都に3家族で旅行に行きました。
最期は私一人でいろいろな思い出を思い出しながら見送りました。
車の運転は周りからうるさく言われて95歳で返上しました。
明治神宮がすぐ近くにあり、主人に連れられて一回り回っていました。
今は半周り太陽に感謝しながら歩いています。
歩く姿勢が健康に基本だと言われてそれを守って歩いています。
いつでもポジティブにと言う癖をつけていて、悔しがったり相手を恨んだりという事はまず皆無になりました。
オレオレ詐欺に遭いましたが、過去に頂いたものがこれでゼロになっったのかなあと言う考え方で、悪役を演じてくれてプラスマイナスゼロにしてくれたのを「有り難う」ということと、あの人たちの親は自分の息子がこんなことをしていると親に同情するとともに、あの人たちに人生の仕組みなんて、その時その人にとって得をしたと思うかもしれないけれど、長い目で見ると何処かで又帳消しになるんだからという、人生の仕組みを教えてあげられなかった自分が悔しいというそんな思いでした。
足を骨折してしまいましたが、頭ではなくて良かったなあと、「有り難う」に持って行こうと癖がついています。
癖をつけるために「有り難う」という言葉はいろんなところに貼っていましたが、今はトイレだけになりました。
神様は感謝だけでいいんで、お願い事なんてとうにご存じなんだから、今更御利益のために神社詣でをするのはおかしいという考え方は、そういう会話から自然と身についているんだろうと思います。
列車の二等席に乗ったときにご老人と席が近くあり、「お天道様も大事ですね、神様も大事ですね」と言って、「みんな神様から頂いているご縁なんだと諭していただいて、宇宙に遍満して我々をいつも見守ってくださるのが神様なんだ、お姿は見えないけれどもいつでも守ってくださる鵜ですよ」と、気が付かせていただいて、それが神への感謝の基本だったのかもしれません。
父の一高の時代の校長先生が新渡戸先生で祖父とはごじっこんだった様で、そこでご挨拶してそのご老人が新渡戸先生だと判りました。
一昨年の7月に夜中に胸が苦しくなり、死に時かなあと思いましたが、世界人類が平和でありますようにと祈るとスーッと治ってしまうんです。
でも嫁などから病院に連れていかれて直ぐ手術となり、6時間の手術でした。
健康で居られてまだ方々に行ってお話しするのが私の役目なんだと思っています。
今年は日本資本主義の父と言われる渋沢栄一の生誕180周年に当たります。
来年の大河ドラマ「青天を衝け」の主人公、4年後に発行される新1万円札の肖像画も決まって脚光を浴びています。
エッセーイストの鮫島純子さん(97歳)は名付け親だった祖父渋沢栄一を直接知る数少ない生き証人です。
鮫島純子さんにとって渋沢栄一はどんな祖父だったのか、祖父からどんな教えを受けたのか、伺いました。
4年後に発行される新1万円札の肖像画も決まって、講演が多くなってあちこちにお呼ばれされています。
父は渋沢栄一の三男渋沢 正雄 日本製鉄の副社長、石川島飛行機製造所の初代社長、母は岡山藩の池田家の出身。
大正11年に飛鳥山で生まれました。(祖父の家から歩いて5分ぐらい)
父が早く会社を引けた後などには良くご機嫌伺にいって、私たちも一緒に夕食を頂きました。
いとこたちと一緒に歳の順に「ごきげんよう」と申しますと、祖父は一人づつ飴を口の中に入れてくれました。
私は年の離れた孫だったのでペット的な存在でした。
叱られた覚えは全然ありませんでした。
世界中の人がかわいかったのではないかと、グローバルな愛を感じていました。
小学校低学年の頃御木本さんのビルに呼んで頂いて、御木本さんが如何に丸い真珠を作るのに御腐心があったのかという映画を映してくださって、お昼ご飯にあこや貝のフライが出ました。
「皆さんお気を付けください、フライの中には真珠が入っていますから」という事で、ポロンと出ました、それを集めて母が私がかたづくときにブローチにしてくれました。
それは嬉しい楽しい思い出として残っていますが、大きくなって聞きましたら、御木本さんがご商売の資金が無くなったという事を聞いて、祖父がこれは生糸と共に大事な日本の商品だから応援しなければいけない、と言ってお手伝いしたらしくて、その恩返しが御馳走だったという事を聞きました。
世界の日本であるために一生懸命だったという事に後で知りました。
祖父が亡くなったときは9歳何か月でした。
子どもながらに崇高な顔をしていました。
一番驚いたのは天皇家から勅使の方がいらっしゃって、御沙汰書と言って、よく働いたねと言う意味のお言葉を頂戴して、みんなが緊張してお読み上げを伺っていたという思い出があります。
葬列になったときにはあまりにも列が沢山で、82台という車がついて、飛鳥山から青山斎場まで皆さんが沿道に出てきて今の皇室の御大葬のように並んでくれました。
祖父自身も決して贅沢な日常ではなかったのを記憶しています。
叔父の渋沢英雄が書いてあるなかに、祖父が亡くなるころに20名ばかり訪問があり、祖父は肺炎で寝ていましたが、貧しい方が20万人困っていて、議会にその人たちを助けるという法案は通ってるのに実際にはお金が来ないので、なんとか早く頂きたいのでついては大蔵大臣に渋沢さんから頼んでほしいという代表の方たちだとわかったら、臥せっているのにもかかわらず自分が大蔵省にお願い行くという事になって、侍医さんが引き留めたのに大蔵省に伺うという電話を掛けさせたという事が書いてあるので祖父らしいと思って読みました。
大蔵省から「御病気ではこちらから伺います」と言ったが、「お願いする側に来るというのは、それは筋が通らない」と言ってこちらから出かけたそうです。
(500位以上の会社の設立に携わって、日本資本主義の父と呼ばれる。)
一つ一ついろいろ大変だったらしいですね。
亡くなるときに父たちが「お父さん 一生はどうでいたか」と聞いたら「面白かったよ」と言ったというのは私はよく聞かされました。
「世界が平和でなければみんなの幸せはなく、みんなが幸せにならなければ自分も幸せには成れない。」
私は聞かされたた覚えはないのですが、DNAの中にはいっているのか、自分たちの使命は世界の平和を作り上げる
一人一人の使命があるんだと、ふっと考えるとおじいさまのお考えだったんだと思います。
「純子」という名は祖父がつけてくれて命名書がありますが、祖父の考えで付けたのですが、漢文で書いてあるので意味はよくわかりません。
結婚は20歳、大学に行きたかったが、一刻も早くもらってくださる所へとそんな感じでした。
岩倉具視卿のひ孫にあたる方です。
軍服に身を固めてサーベルをして白い手袋をしてのお見合いの席で、もらってくださるならばという事でその姿に直ぐOKしました。
鈴木貫太郎さんが仲人でした。
雅叙園での防空壕にかつらをつけたまま入りました。
夫は慌てて軍服のまま横須賀に跳んでいきました。
結婚してからこの人は嫌だったなあという事は一度もありませんでした。
医師から夫は喉頭がんで直ぐ手術といわれてびっくりしました。
ここまで生かしてもらって十分人生を楽しんだので一切治療はしないで、自然死でいいという事でした。
宣告後1年7か月生きていました。(85歳 私は78歳)
その間に青森と京都に3家族で旅行に行きました。
最期は私一人でいろいろな思い出を思い出しながら見送りました。
車の運転は周りからうるさく言われて95歳で返上しました。
明治神宮がすぐ近くにあり、主人に連れられて一回り回っていました。
今は半周り太陽に感謝しながら歩いています。
歩く姿勢が健康に基本だと言われてそれを守って歩いています。
いつでもポジティブにと言う癖をつけていて、悔しがったり相手を恨んだりという事はまず皆無になりました。
オレオレ詐欺に遭いましたが、過去に頂いたものがこれでゼロになっったのかなあと言う考え方で、悪役を演じてくれてプラスマイナスゼロにしてくれたのを「有り難う」ということと、あの人たちの親は自分の息子がこんなことをしていると親に同情するとともに、あの人たちに人生の仕組みなんて、その時その人にとって得をしたと思うかもしれないけれど、長い目で見ると何処かで又帳消しになるんだからという、人生の仕組みを教えてあげられなかった自分が悔しいというそんな思いでした。
足を骨折してしまいましたが、頭ではなくて良かったなあと、「有り難う」に持って行こうと癖がついています。
癖をつけるために「有り難う」という言葉はいろんなところに貼っていましたが、今はトイレだけになりました。
神様は感謝だけでいいんで、お願い事なんてとうにご存じなんだから、今更御利益のために神社詣でをするのはおかしいという考え方は、そういう会話から自然と身についているんだろうと思います。
列車の二等席に乗ったときにご老人と席が近くあり、「お天道様も大事ですね、神様も大事ですね」と言って、「みんな神様から頂いているご縁なんだと諭していただいて、宇宙に遍満して我々をいつも見守ってくださるのが神様なんだ、お姿は見えないけれどもいつでも守ってくださる鵜ですよ」と、気が付かせていただいて、それが神への感謝の基本だったのかもしれません。
父の一高の時代の校長先生が新渡戸先生で祖父とはごじっこんだった様で、そこでご挨拶してそのご老人が新渡戸先生だと判りました。
一昨年の7月に夜中に胸が苦しくなり、死に時かなあと思いましたが、世界人類が平和でありますようにと祈るとスーッと治ってしまうんです。
でも嫁などから病院に連れていかれて直ぐ手術となり、6時間の手術でした。
健康で居られてまだ方々に行ってお話しするのが私の役目なんだと思っています。
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