おーなり由子(絵本作家) ・目にみえるもの、みえないもの
52歳、「幸福な質問」、「あかちゃんが笑うから」等、だれもがいやされ微笑んでしまう、おーなりさんの絵本はどのようにして生まれたのでしょうか。
今回のステージでは作品を朗読で紹介しながら、おーなりさんに大きな影響を与えた故郷大阪茨木市での出会いや作品に込めた思いなどを伺いました。
「モーラと私」 モーラはソーセージのような形をしたピンク色の生き物で目と口、細い4本脚としっぽを持っています。
「モーラと一緒にいるとうれしい。私とモーラは友達だもの。
モーラは或る日忘れたキャラメルみたいに私のポケットに入っていた。・・・・
家に帰ってミルクをあげた。・・・バナナは大好きみたい。・・・
モーラはお父さんとお母さんからは見えない。だからご飯の時モーラが隣りに座っても気が付かないの。・・・・
モーラはいつも面白いことを思いついて私を笑わしてくれる。・・・
モーラは言葉が喋れない、嬉しいと泣く、悲しいと泣く。・・・
モーラは時々眠れない夜などに夜を飛び越えて空を飛び越えて私をそこに連れて行ってくれる。・・・
私は温かい草の上をモーラところころ転がる、光みたいに。
私はモーラのお腹に足を載せていつの間にか眠ってしまう。・・・
モーラ、モーラずっと友達。・・・
或る時夏のキャンプから帰ったら、モーラがいなくなっていた。・・・
あの緑の野原に遊びに行ってたんだって。・・・
もうモーラは時々しかやってこない。・・・
私の小さな現実に綺麗な野原を見付ける。
そして嬉しいこと悲しいこと、同じように抱きしめながら尊敬する大人や恋人、沢山の人とめぐり合う。・・・
大人になっても私はモーラのことを忘れない。
多分もっとたくさん歳をとっても。」
茨木市は大事な人もたくさんいるし、懐かしい思い出も沢山あるし、自分の根っこを育ててくれたような場所です。
人前で話すのが得意ではなく、余り出たくないと思っていました。
モーラはどの人の心の中にもある自由な場所に連れて行ってくれる、小さな生き物と云う感じです。
自由な場所は絵本の中では野原になっています。
1965年大阪市に生まれて、8歳の時に茨木に引っ越してきました。
絵と詩を書くのが好きでした。
本にして自分の絵の世界を作っていました。
小学校5年生から3年間子供の漫画教室に通いました。
近所に浮田要三さん(抽象画家)が住んでいて、絵のことを見てくれたりしました。
道に長く絵を描いて母親に怒られて、浮田さんの家に謝りに行ったら気に入っていると言ってくれて、気持を見抜かれたような感じがしました、判る大人の人がいると云うことの体験が大きかったです。
井上直久先生 高校の美術部の顧問の先生。
宮沢賢治が好きな先生でした。
茨木市をイバラーロというふうに絵を描いていた先生です。
眼の前にあるものを面白く見る、日常の見えるものに魔法を掛けるようなことで、物の見方が豊かに広がって行くような感じを学びました。
高校2年生の時に少女漫画誌に応募して入選する。
翌年 入選作 「路地裏の風景」で漫画家デビュー。
京都の大学に進学、美術学部で学びながら、漫画家として書き続ける。
1990年25歳で結婚、茨木から東京に引っ越しをする。
「言葉の形」
「もしも話す言葉が目に見えたらどんな形をしているだろう。
例えば美しい言葉は花の形、・・・・恋によって色は変わるのかなあ。
きっぱりとした声ならオレンジの花、静かな声なら青い花、優しい声は桜色・・・
誰かを傷付ける言葉が針の形をしているとしたらどうだろう。
話すたびにとがった針が口から発射されて相手にささるのがみえたとしたら。・・・
刺さった場所や血の滲んだ傷口まで見えるとしたら、言葉の使い方は変わるだろうか。
だけど厳しく傷つけるような言葉でも、それが大事な忠告だった時には見分けがつくとしたらどうだろう。
例えばそんな言葉は木の実の形をしていたら、投げつけられた時は痛いけど、拾って育てたら実ることもある木の実。
観て直ぐ分ったら素直に受け取ることができるだろか。
恋人がささやく愛の言葉はどんな色や形をしているだろう。・・・・
虹色に光ってパチンと消えるシャボン玉?・・・
もしも言葉が目に見えたら、楽しい言葉はタンバリン、悲しい言葉は冷たい水滴。
自分を立派に見せるための言葉が、すぐに光をうしなって砂のように枯れて行くのを見るかもしれない。・・・
黙っているという言葉の裏側に豊かな森が広がっているかもしれない。・・・
私の話す言葉はどんな形や色をしているだろう。
誰かを守るためについた嘘なら、それはきっと静かで柔らかな毛布になり、涙を笑い飛ばす言葉は光る入道雲のように明るく湧いて雨のあとの虹を作る。
短い正直な言葉が心の湖の深い場所にすーっと差し込む透明な光のように。・・・
毎日消えて行く話し言葉のむこうの心の形を探す。
大切な人に花のような言葉を届けることができるように。
届いた言葉が木漏れ日の様に笑いますように。」
誰かと話した時に心の中にとどまっている言葉は忘れられない言葉はあります。
「なにがどうっちゅうことはない」と父がよく言っていました。
無事に生きて居るんだから、他の小さな事はどうでもいい、と云うような感じ。
「言葉の形」は絵よりも先に文章が出来ました。
夫は、絵本作家のはたこうしろうさん。
2005年長男誕生、中学1年になります。
「抱っこ」
「抱っこ 抱っこ 一杯触っているといっぱいかわいくなってくる
抱っこ 抱っこ 抱っこしていると思っていたら抱っこされていた
小さい指が私の背中をギュッと掴んで、子供の腕の中は私で一杯」
「くっつく」
「昨日は頭のてっぺん、おとといはお尻、このあいだはおでこだったっけ
寝て居る時、身体のどこかが私にくっつていると安心している赤ん坊
今朝は足の裏 小さい足の裏がパスっと私の頭を蹴っ飛ばして私のあごのすぐ下に
そうしてでんくるりんとさかさま 今はお尻突き出してスースー眠っているよ」
「お母さん お母さん お母さん 声がする・・・・」 (涙ぐんで言葉がつまる)
台所にいてもお風呂場にいてもトイレに入っていても服を着替えて居ても
お母さん その声が何度も何度も夕方に溶けて行く
お母さん 怒った声で言う
お母さん 泣きながら言う
お母さん 跳ねるように言う
お母さん お母さん お母さん 呼ばれながら私はお母さんになって行く」
「赤ちゃんが笑うから」
「私が嬉しい時、赤ちゃんが笑う 私が悲しい時 赤ちゃんが笑う
私が心を心配事でいっぱいにしている時、赤ちゃんが笑う
母さんは弱い、時々凄く弱くなる
お乳をあげながら不安はあちこちからこぼれおちてくる。
悲しいニュースを見るたびに世界は土砂降りのように感じられ、未来は何処までも灰色の雲で一杯で、何処までも何処までも 何処までも何処までも
そんな時バアーキション 大きなヘンテコなくしゃみ
赤ちゃんから大人見たいなくしゃみが出て私は正気にかえる
そうだった、世界は何時だって始まったばかり
生まれてきた子供達は言う、これから生きて行く世界をひどいと決めつけないでよ
僕らを弱いと決めつけないでよ
僕らは生きたい、僕らは愛したい、僕らは触りたい、僕らは感じたい
登り坂でも下り坂でも僕らはいっぱい遊びたい。
土砂降りの中で歌おう、がれきを蹴飛ばし歌おう
そうしてトランペットのようなおならがぱんぱんぱんと鳴り響いて、雲を吹き飛ばすと新しい空の幕が上がる。
噴水みたいな光を撒き散らして、子供達が笑う声 赤やんが笑う声
ねえねえ 何もないのにどうして笑ってるの
嬉しいことあるよ ここに全部あるよ ここに全部
うれしいことは抱っこ 嬉しいことは胸の中 嬉しいことは朝の匂い
嬉しいことは暖かな日だまり 嬉しい事は優しい声
手 柔らかい小さい手 その手が触れるとどこからか光る泉が不思議な強さであふれてくる
弱いかあさんの胸にもあふれてくる
ほら ほら ほら ほら ほらここに私を抱きしめてくれる小さな手
嬉しいことあるよ 全部ここにあるよ」
2017年7月15日土曜日
2017年7月14日金曜日
山下惣一(農民作家) ・“小さな農業”が日本を支える
山下惣一(農民作家) ・“小さな農業”が日本を支える
今年の4月に福岡市で開かれた小農学会のシンポジウムで、佐賀県唐津市の農民作家山下さんが日本の農業は儲かったから続いてきたからではなく、農業が必要だったから続いてきたと指摘しました。
生産者の得ている対価があまりにも低いので、仕方なく出稼ぎに出て居るのだとおっしゃいます。
一昨年小農学会をたちあげる。
日本の農業は戦後の農地解放でみんな小さな農家に成ってしまって全部小農じゃないですか。
面積で区切るのではなくて、目的で区別した。
家族で働いて暮らしてゆくことを目的にしている、それが小農です。
守田志郎と云う人が最初に「小農」と使っている。
生活の糧を稼ぐためにやるのが労働であって、暮らしのためにやる。
小農だということは、家族が、これは私たちのやっている農業だ、ということのできる農業生活と生産となので、他人の働きに頼ったり、他人の働きでもうけたりしようとしない農業をいうのである。
松田喜一先生は仕事を労働にしてはいけないと、仕事を楽しむ、道楽にしなさいと言っている。
35歳の頃、規模拡大路線で蜜柑などを植えたりしていたが、中山間地の棚田が多かったので3段か4段で31枚という棚田があった。
それを1枚にしたいと思って、そばに兼業農家の帯のような棚田がありそれがないと形が取れないので交渉して譲り受けました。
そこには藁人形を燃やした跡があり、田んぼは先祖からあずかってるものなので、先祖別れの儀式をしたと云うことで、衝撃的でした。
自分が大きくなることだけを考えて居て、相手のことを考えていなかったということに気がつきました。
それからは規模拡大は目指しませんでした。
単作にしないで色々作り、一年中収入が絶えないようにやっています。
身の丈サイズが一番いいと思います。
2014年に国連が国際家族農業年と定めて報告書を出した。
「家族農業が世界の未来を開く」といって、本を読んだら自分が言っていることが全部書いてあるような気がした。
世界の農家の70%が1ヘクタール以下、世界の農業の90%は家族農業だと言っています。
①世界の農業の90%は家族農業、家族農業は世界の農業の土台である。
②飢えている人たちは8憶いると言われて居て、その半分は農民。(土地なし、零細農民)
農業をやる人を手助けする。
③大規模農業に比べて小規模農業は土地生産性が高い、面積当たりの収量は多い、環境保全的である。
④多くの人にとって故郷であり、文化、芸能の伝承者でもある。
民俗芸能はそこでしか残っていない。
⑤農業の専門特化でやるのは非常にリスクは高い。
リーマンショック後の不況時にヨーロッパの企業農業はバタバタ倒産した。
兼業農家がリスク回避の有効な手段だと書いてある。
オランダの農家の90%は兼業農家、大面積でやっているフランスでは60%は農業以外で収入を得て居る
日本の兼業農家は75%、アメリカでは70%近くが兼業(日本とは兼業の形態が違うが)
農産物輸出国は悲惨です、余っている物を作っているから。
ブラジルなどは悲惨です。
九州で智慧を出し合って展開を始めて居ます。
将来的にはオーガニックに成って行くのではないか、地産地消。
富裕層を目指して米を作ろうとは思っていない、日本人の為の農業をやりたい。
人間は向学心があると思う。
父親は養子で家をつぶすのが怖かった。
教育のため子供を都会に出すが帰ってこない、そうするうちに家は潰れる、教育は家をつぶし、村を滅ぼすと云う事で高校に行かせてくれなかった。
通信教育で2年間勉強して、試験だけ受けてみたいと言ったら、田んぼから突き落されてドロンコに成り泣きました。
2回家出をしました、自分が逃げても農業も家も辛い労働も残るわけで、逃げることはまずいと思って逃げなくてもいいような村を作るべきだと思った。
小説を読み始めました、主に太宰治でした。
自分でも書けるのではないかと思って、文芸雑誌に投稿したりしました。
32歳のころに草刈り機で足を切ってしまって、田んぼに入れなくなり、佐賀県での文学賞があると云うことを新聞で知って、改めて書きました。
地元の同人雑誌に入って、書いた小説で農民文学賞を貰いました(「海鳴り」)
NHKのTV 『ひこばえの歌』
ひこばえ:樹木の切り株や根元から生えてくる若芽。
枯れても枯れても芽が出てくる、農家の永遠みたいなものを象徴させたかった。
今は雑誌と新聞のコラムを書いているぐらいで書く気はしません。
書くと云うことは書くことに責任を取ることなので、勉強はします、ずーっと人生勉強でした。
悔いはないです、81歳でも現役でやっていますので。
食べるのは他の命を頂くことだと云うことは、今の日本には全く無くなってしまっている。
農家に嫁いだ女性たちは農業は好きだと云う人は居なくて、仕方なくやっているうちに好きになってくる、植物、農作物、家畜も決して裏切らない、これが一番いいですね。
娯楽の楽しみは生産の喜びには及ばない。
棒の一方の端が苦、他方が楽だとすると、人間は真ん中にいて、苦を克服していくと苦が減って楽が増える、これは農業では良く判る。
今年の4月に福岡市で開かれた小農学会のシンポジウムで、佐賀県唐津市の農民作家山下さんが日本の農業は儲かったから続いてきたからではなく、農業が必要だったから続いてきたと指摘しました。
生産者の得ている対価があまりにも低いので、仕方なく出稼ぎに出て居るのだとおっしゃいます。
一昨年小農学会をたちあげる。
日本の農業は戦後の農地解放でみんな小さな農家に成ってしまって全部小農じゃないですか。
面積で区切るのではなくて、目的で区別した。
家族で働いて暮らしてゆくことを目的にしている、それが小農です。
守田志郎と云う人が最初に「小農」と使っている。
生活の糧を稼ぐためにやるのが労働であって、暮らしのためにやる。
小農だということは、家族が、これは私たちのやっている農業だ、ということのできる農業生活と生産となので、他人の働きに頼ったり、他人の働きでもうけたりしようとしない農業をいうのである。
松田喜一先生は仕事を労働にしてはいけないと、仕事を楽しむ、道楽にしなさいと言っている。
35歳の頃、規模拡大路線で蜜柑などを植えたりしていたが、中山間地の棚田が多かったので3段か4段で31枚という棚田があった。
それを1枚にしたいと思って、そばに兼業農家の帯のような棚田がありそれがないと形が取れないので交渉して譲り受けました。
そこには藁人形を燃やした跡があり、田んぼは先祖からあずかってるものなので、先祖別れの儀式をしたと云うことで、衝撃的でした。
自分が大きくなることだけを考えて居て、相手のことを考えていなかったということに気がつきました。
それからは規模拡大は目指しませんでした。
単作にしないで色々作り、一年中収入が絶えないようにやっています。
身の丈サイズが一番いいと思います。
2014年に国連が国際家族農業年と定めて報告書を出した。
「家族農業が世界の未来を開く」といって、本を読んだら自分が言っていることが全部書いてあるような気がした。
世界の農家の70%が1ヘクタール以下、世界の農業の90%は家族農業だと言っています。
①世界の農業の90%は家族農業、家族農業は世界の農業の土台である。
②飢えている人たちは8憶いると言われて居て、その半分は農民。(土地なし、零細農民)
農業をやる人を手助けする。
③大規模農業に比べて小規模農業は土地生産性が高い、面積当たりの収量は多い、環境保全的である。
④多くの人にとって故郷であり、文化、芸能の伝承者でもある。
民俗芸能はそこでしか残っていない。
⑤農業の専門特化でやるのは非常にリスクは高い。
リーマンショック後の不況時にヨーロッパの企業農業はバタバタ倒産した。
兼業農家がリスク回避の有効な手段だと書いてある。
オランダの農家の90%は兼業農家、大面積でやっているフランスでは60%は農業以外で収入を得て居る
日本の兼業農家は75%、アメリカでは70%近くが兼業(日本とは兼業の形態が違うが)
農産物輸出国は悲惨です、余っている物を作っているから。
ブラジルなどは悲惨です。
九州で智慧を出し合って展開を始めて居ます。
将来的にはオーガニックに成って行くのではないか、地産地消。
富裕層を目指して米を作ろうとは思っていない、日本人の為の農業をやりたい。
人間は向学心があると思う。
父親は養子で家をつぶすのが怖かった。
教育のため子供を都会に出すが帰ってこない、そうするうちに家は潰れる、教育は家をつぶし、村を滅ぼすと云う事で高校に行かせてくれなかった。
通信教育で2年間勉強して、試験だけ受けてみたいと言ったら、田んぼから突き落されてドロンコに成り泣きました。
2回家出をしました、自分が逃げても農業も家も辛い労働も残るわけで、逃げることはまずいと思って逃げなくてもいいような村を作るべきだと思った。
小説を読み始めました、主に太宰治でした。
自分でも書けるのではないかと思って、文芸雑誌に投稿したりしました。
32歳のころに草刈り機で足を切ってしまって、田んぼに入れなくなり、佐賀県での文学賞があると云うことを新聞で知って、改めて書きました。
地元の同人雑誌に入って、書いた小説で農民文学賞を貰いました(「海鳴り」)
NHKのTV 『ひこばえの歌』
ひこばえ:樹木の切り株や根元から生えてくる若芽。
枯れても枯れても芽が出てくる、農家の永遠みたいなものを象徴させたかった。
今は雑誌と新聞のコラムを書いているぐらいで書く気はしません。
書くと云うことは書くことに責任を取ることなので、勉強はします、ずーっと人生勉強でした。
悔いはないです、81歳でも現役でやっていますので。
食べるのは他の命を頂くことだと云うことは、今の日本には全く無くなってしまっている。
農家に嫁いだ女性たちは農業は好きだと云う人は居なくて、仕方なくやっているうちに好きになってくる、植物、農作物、家畜も決して裏切らない、これが一番いいですね。
娯楽の楽しみは生産の喜びには及ばない。
棒の一方の端が苦、他方が楽だとすると、人間は真ん中にいて、苦を克服していくと苦が減って楽が増える、これは農業では良く判る。
2017年7月13日木曜日
吉沢久子(家事評論家・エッセイスト) ・今が一番幸せ
吉沢久子(家事評論家・エッセイスト)・今が一番幸せ
今年白寿を迎えた日本の家事評論家の草分け的存在、吉沢さんはお姑さんと御主人を看取った後、33年間一人暮らしを続けています。
ニュースキャスターだった古谷綱正さんのお兄さんで、文芸評論家だった御主人の古谷綱武さんと元外交官夫人だったお姑さんからは、目に見えない素敵なプレゼントを沢山いただいたと言います。
その最も大きなプレゼントが自由気ままな時間を一人占めできる、一人暮らしだと云います。
閑静なところで向かいの隣の家が谷川俊太郎さんの家で、 曾孫が出来たそうです。
主人が亡くなってから、33年間一人暮らしを続けています。
一人暮らしは素敵で、自分が思った通りに暮らせてこんなに快適なのかと思います。
夫からものを買ってもらったことは一度もないですが、言葉ではいろいろ残してもらいました。
自分の生き方を考えることになり、言葉のプレゼントだと思います。
「人は一人では生きられない、みんなと一緒に生きていくものなので、それを考えて生きなさい」といわれました。(一人誇らしげに生きるなと云うような事)
友達関係を残してくれたりもしました。
昨日も数人集まって一緒にご飯を食べて、勉強会をやっていました。
人との繋がりは本当に大事だと思います。
「美しいもの綺麗なものはどんな小さいものでも見逃すな」とも云われました。
花だけではなくて、人の動作、言葉なども暖かかったりするとハッと感じます。
自宅で咲いた小さな花を飾っています。
「人が死んだらだれも言ってくれないぞ」といわれました。(言ってくれるうちが花)
「人の言葉をちゃんと聞け」といわれました。
「言葉を大事にしろ」といわれました。
お姑さんからは「この年にならないと判らないないことがたくさんある」といわれました。(身体の事とか、昨日できたことが今日はできなくなったとか)
「今日を大事にしなさい」と云うことなんですが。
最後まで毎日お化粧をするし、朝晩違う着物を着てきたりとか、外交官の奥さんの生活をしていました。
朝ご飯が出来ましたと云うと、「今行きます、有難う」と自然に出てきて良いなと思いました。(有難うと云う感謝の言葉の素晴らしさが自然と出てきていた)
言葉に出すと云う事が大事だと思います。(日本人は言葉に出すと云う事が下手)
人間は自立しなければいけない。
自分の生活を自分で律してゆくことが自立だと思っていまして、食事でも一人になるとめんどくさくなってコンビニに行って買ってきたりするが、自分が大事だと思ったら身体を大事にしなければならないので、きちんと作って食べる、それも自立の一つではないかと思います。
小さな事の積み重ねだと思います。
自分の足で立って、自分の頭で考える、そういうものを生涯持って生きたいと思います。
自分で決めたことは自分でやります。
畑をやっていて今は菜っ葉が沢山あり、青汁にして飲んでいます。
紫陽花が咲いて、その時に何をしないといけないか、虫干ししておこうとか、衣料を風に当てておこうとか、花に教えてもらい家事をやります。(家事暦)
萩が咲けば冬仕度とか。
犬は大好きですが、散歩に連れて行ってやれないので、今は飼えません。
メダカを飼っていましたが、白鷺が来て嬉しいと思っていたら、メダカも金魚も居無くなってしまいました、食べちゃいました、それが自然界ですね。
白鷺町という地名がありますが、昔は沢山いたんでしょうね。
歳をとると変な事にこだわって頑張っている人がいますが、ちょっと良くないと思いますね。(外が見え無くなって来る)
年寄りの冷や水と言いますが、若かぶることをすると失敗が多いんじゃないでしょうか。
97歳まで病院に行ったことがなかったですが、変だと思って病院にいきましたが、貧血と云うことで時々輸血をして貰ったりします。
人生の下り坂での喪失感と云うものはないです、その時その時で楽しみ方を知っているので、下り坂の風景もなかなかいいものだと思っています。
昔は落ち着いて見る暇がなかったが、暇が出来てゆっくり見られるようになったのも歳を取ったお陰だと思います。
下り坂の風景は落ち着いて見られるし、しっかり見られます。
失ってゆく機能を嘆いていてはいけない、生きていけるし、文明の利器(メガネ、補聴器など)も一杯あるし、その中で感謝して生きていけば面白いです。
断捨離、いらないものを持つ必要がないので普段からそうしていればいいと思います。
大事だと思ったら取っておいてもいいと思います、自分を大事にしているものは何かと思ったら、必要だと云うものはあると思います。
昔、新聞に連載を書くことになったが、肩書きが必要と云うことで家事評論家ではどうかと言われて、それでも良いかと思いました。(家事評論家第一号と云うことだそうです)
文章を書くことは昔から好きでした、速記もやりました。
台所の戦後史を書きたくて、戦後変わったのは台所でした。(場所、道具など)
台所の歴史と女性が繋がっています、それを書きたかった。
自分で何かあった時に連絡先とか書き残しておくとか、普段から誰かに言っておくとかは必要だと思います。
献体はしている(40年前)ので、処置は考えてあるので、なんかの連絡がつけばいいと思います。
遺言も書いてあります。
生き方は死に方でもあるし、どういうふうに死にたいか、その後の自分のことを多少は考えておかないと他人に迷惑をかけるので。
葬式はしないと云う風にしています。(夫もそうだった)
だれにでもそういう日は来るので、その時人には迷惑をかけないようにしたいと思います。
今のところ本当に幸せです。
歳を取ったら幸せになりたいですね、それはその人の思い方で成るんでしょうね。
著書「ほんとうの贅沢」、「人間、最後はひとり。」、「ひとりの老後は大丈夫?」・・・
今年白寿を迎えた日本の家事評論家の草分け的存在、吉沢さんはお姑さんと御主人を看取った後、33年間一人暮らしを続けています。
ニュースキャスターだった古谷綱正さんのお兄さんで、文芸評論家だった御主人の古谷綱武さんと元外交官夫人だったお姑さんからは、目に見えない素敵なプレゼントを沢山いただいたと言います。
その最も大きなプレゼントが自由気ままな時間を一人占めできる、一人暮らしだと云います。
閑静なところで向かいの隣の家が谷川俊太郎さんの家で、 曾孫が出来たそうです。
主人が亡くなってから、33年間一人暮らしを続けています。
一人暮らしは素敵で、自分が思った通りに暮らせてこんなに快適なのかと思います。
夫からものを買ってもらったことは一度もないですが、言葉ではいろいろ残してもらいました。
自分の生き方を考えることになり、言葉のプレゼントだと思います。
「人は一人では生きられない、みんなと一緒に生きていくものなので、それを考えて生きなさい」といわれました。(一人誇らしげに生きるなと云うような事)
友達関係を残してくれたりもしました。
昨日も数人集まって一緒にご飯を食べて、勉強会をやっていました。
人との繋がりは本当に大事だと思います。
「美しいもの綺麗なものはどんな小さいものでも見逃すな」とも云われました。
花だけではなくて、人の動作、言葉なども暖かかったりするとハッと感じます。
自宅で咲いた小さな花を飾っています。
「人が死んだらだれも言ってくれないぞ」といわれました。(言ってくれるうちが花)
「人の言葉をちゃんと聞け」といわれました。
「言葉を大事にしろ」といわれました。
お姑さんからは「この年にならないと判らないないことがたくさんある」といわれました。(身体の事とか、昨日できたことが今日はできなくなったとか)
「今日を大事にしなさい」と云うことなんですが。
最後まで毎日お化粧をするし、朝晩違う着物を着てきたりとか、外交官の奥さんの生活をしていました。
朝ご飯が出来ましたと云うと、「今行きます、有難う」と自然に出てきて良いなと思いました。(有難うと云う感謝の言葉の素晴らしさが自然と出てきていた)
言葉に出すと云う事が大事だと思います。(日本人は言葉に出すと云う事が下手)
人間は自立しなければいけない。
自分の生活を自分で律してゆくことが自立だと思っていまして、食事でも一人になるとめんどくさくなってコンビニに行って買ってきたりするが、自分が大事だと思ったら身体を大事にしなければならないので、きちんと作って食べる、それも自立の一つではないかと思います。
小さな事の積み重ねだと思います。
自分の足で立って、自分の頭で考える、そういうものを生涯持って生きたいと思います。
自分で決めたことは自分でやります。
畑をやっていて今は菜っ葉が沢山あり、青汁にして飲んでいます。
紫陽花が咲いて、その時に何をしないといけないか、虫干ししておこうとか、衣料を風に当てておこうとか、花に教えてもらい家事をやります。(家事暦)
萩が咲けば冬仕度とか。
犬は大好きですが、散歩に連れて行ってやれないので、今は飼えません。
メダカを飼っていましたが、白鷺が来て嬉しいと思っていたら、メダカも金魚も居無くなってしまいました、食べちゃいました、それが自然界ですね。
白鷺町という地名がありますが、昔は沢山いたんでしょうね。
歳をとると変な事にこだわって頑張っている人がいますが、ちょっと良くないと思いますね。(外が見え無くなって来る)
年寄りの冷や水と言いますが、若かぶることをすると失敗が多いんじゃないでしょうか。
97歳まで病院に行ったことがなかったですが、変だと思って病院にいきましたが、貧血と云うことで時々輸血をして貰ったりします。
人生の下り坂での喪失感と云うものはないです、その時その時で楽しみ方を知っているので、下り坂の風景もなかなかいいものだと思っています。
昔は落ち着いて見る暇がなかったが、暇が出来てゆっくり見られるようになったのも歳を取ったお陰だと思います。
下り坂の風景は落ち着いて見られるし、しっかり見られます。
失ってゆく機能を嘆いていてはいけない、生きていけるし、文明の利器(メガネ、補聴器など)も一杯あるし、その中で感謝して生きていけば面白いです。
断捨離、いらないものを持つ必要がないので普段からそうしていればいいと思います。
大事だと思ったら取っておいてもいいと思います、自分を大事にしているものは何かと思ったら、必要だと云うものはあると思います。
昔、新聞に連載を書くことになったが、肩書きが必要と云うことで家事評論家ではどうかと言われて、それでも良いかと思いました。(家事評論家第一号と云うことだそうです)
文章を書くことは昔から好きでした、速記もやりました。
台所の戦後史を書きたくて、戦後変わったのは台所でした。(場所、道具など)
台所の歴史と女性が繋がっています、それを書きたかった。
自分で何かあった時に連絡先とか書き残しておくとか、普段から誰かに言っておくとかは必要だと思います。
献体はしている(40年前)ので、処置は考えてあるので、なんかの連絡がつけばいいと思います。
遺言も書いてあります。
生き方は死に方でもあるし、どういうふうに死にたいか、その後の自分のことを多少は考えておかないと他人に迷惑をかけるので。
葬式はしないと云う風にしています。(夫もそうだった)
だれにでもそういう日は来るので、その時人には迷惑をかけないようにしたいと思います。
今のところ本当に幸せです。
歳を取ったら幸せになりたいですね、それはその人の思い方で成るんでしょうね。
著書「ほんとうの贅沢」、「人間、最後はひとり。」、「ひとりの老後は大丈夫?」・・・
2017年7月12日水曜日
浜口真弓(浜口庫之助夫人) ・夫からの贈り物
浜口真弓(浜口庫之助夫人) ・夫からの贈り物
浜口庫之助さんは大正6年、神戸市生まれ、生誕100年にあたります。
昭和34年黄色いサクランボで作曲家デビュー、作詞にもさいのうを発揮し、「僕は泣いちっち」「星のフラメンコ」「バラが咲いた」「夜霧よ今夜も有難う」など数多くのヒット曲を手掛け、ソングライターとして活躍しました。
浜口真弓さんは渚まゆみの芸名で活動していた29歳の時、浜口庫之助さんと結婚しました。
長女にも恵まれ仲睦まじい日々を送りましたが、平成2年浜口庫之助さんは73歳で亡くなってしまいます。
自宅には未発表の作品が数多く見つかりました。
残された楽譜や草稿を大切な贈り物として浜口庫之助さんの音楽世界を少しでも多くの人に知って貰いたいと活動しています。
生誕100年で主人の残した作品をみなさんに忘れてほしくないので、頑張っています。
7月22日が誕生日です。 73歳で亡くなる。
私は16歳で大映のニューフェイスで受かって、主役で『夕やけ小やけの赤とんぼ』デビュー、「渚まゆみ」は作曲家の山田耕作さんが命名しました。
紹介してもらって、歌わせてもらえず発声練習など受けました。
そのうち演歌っぽい歌を練習して、歌ったら、肩を触ってごらんと言われて、泣くような感じで震えていて、こういうふうに歌わなければね、といわれました。
でもその時はどんなことかわからなかった。(感情で歌いなさい、と云うことでしょうか)
浜口庫之助さんはリズムが凄いですね。
歌のことで怒られたことはないです、人間的な面での基本は厳しいです。
地方へ行った時に電話をやり取りしていましたが、必ず「愛してる?」って聞くんです電話の度にそうでした、そうすると私は「愛してるわよ」と云っていました。
会話の内容が「空に太陽がある限り」と云う歌に成ってでたんです。
見合いの話があったが、結婚するんだったら先生みたいな人が良いと言ったら、その後先生のほうから結婚を云われました。(主人が妻を亡くして10年後)
結婚生活では1年後に娘(あんず)が生まれましたが、私に対する生活態度には厳しかったです。
今思うとありがたいと思いました。
育児についての歌もいろいろな歌を作りました。
娘が15歳の時に主人は亡くなりました。
私は娘を留学をさせたいと思っていましたが、主人はミュージカルなどを書くために英語を勉強するというようならば賛成するが、英語をしゃべりさせたいだけで行くのであれば賛成しないと言われました、それよりも日本の事をしっかり勉強させなさいと云っていました。
娘は結局留学しませんでした。
その後、ロンドンに行って博士を取ったんで、主人も喜んでいると思います。
娘も母親になりました。
孫アナベルちゃんが英語で歌う「バラが咲いた」浜口庫之助さんが歌う「バラが咲いた」のディユエットCD作成。(2年前 6歳)
実感したことをだいたい歌にしていました。 「主婦とロマン」
喧嘩したことなども歌にしていますが、そうすると仲良くなってしまいます。
点滴していてもリズムをとったりしていました。
「バラが咲いた」薔薇が散っても心の中に薔薇が咲いていると云うのが凄いと思っています。
結婚期間は17年間で、主人は7年間は元気で10年間は病気でした。
亡くなる時も「君が明るくて助かった、有難う」だけでしたが、今思うとよく主人はわかってくれたなあと思います。
主人であり、先生であり、父親のような存在でした。
厳しいことをいろいろ云われましたが、今思うと何もかも有難たいと思います。
浜口庫之助さんは大正6年、神戸市生まれ、生誕100年にあたります。
昭和34年黄色いサクランボで作曲家デビュー、作詞にもさいのうを発揮し、「僕は泣いちっち」「星のフラメンコ」「バラが咲いた」「夜霧よ今夜も有難う」など数多くのヒット曲を手掛け、ソングライターとして活躍しました。
浜口真弓さんは渚まゆみの芸名で活動していた29歳の時、浜口庫之助さんと結婚しました。
長女にも恵まれ仲睦まじい日々を送りましたが、平成2年浜口庫之助さんは73歳で亡くなってしまいます。
自宅には未発表の作品が数多く見つかりました。
残された楽譜や草稿を大切な贈り物として浜口庫之助さんの音楽世界を少しでも多くの人に知って貰いたいと活動しています。
生誕100年で主人の残した作品をみなさんに忘れてほしくないので、頑張っています。
7月22日が誕生日です。 73歳で亡くなる。
私は16歳で大映のニューフェイスで受かって、主役で『夕やけ小やけの赤とんぼ』デビュー、「渚まゆみ」は作曲家の山田耕作さんが命名しました。
紹介してもらって、歌わせてもらえず発声練習など受けました。
そのうち演歌っぽい歌を練習して、歌ったら、肩を触ってごらんと言われて、泣くような感じで震えていて、こういうふうに歌わなければね、といわれました。
でもその時はどんなことかわからなかった。(感情で歌いなさい、と云うことでしょうか)
浜口庫之助さんはリズムが凄いですね。
歌のことで怒られたことはないです、人間的な面での基本は厳しいです。
地方へ行った時に電話をやり取りしていましたが、必ず「愛してる?」って聞くんです電話の度にそうでした、そうすると私は「愛してるわよ」と云っていました。
会話の内容が「空に太陽がある限り」と云う歌に成ってでたんです。
見合いの話があったが、結婚するんだったら先生みたいな人が良いと言ったら、その後先生のほうから結婚を云われました。(主人が妻を亡くして10年後)
結婚生活では1年後に娘(あんず)が生まれましたが、私に対する生活態度には厳しかったです。
今思うとありがたいと思いました。
育児についての歌もいろいろな歌を作りました。
娘が15歳の時に主人は亡くなりました。
私は娘を留学をさせたいと思っていましたが、主人はミュージカルなどを書くために英語を勉強するというようならば賛成するが、英語をしゃべりさせたいだけで行くのであれば賛成しないと言われました、それよりも日本の事をしっかり勉強させなさいと云っていました。
娘は結局留学しませんでした。
その後、ロンドンに行って博士を取ったんで、主人も喜んでいると思います。
娘も母親になりました。
孫アナベルちゃんが英語で歌う「バラが咲いた」浜口庫之助さんが歌う「バラが咲いた」のディユエットCD作成。(2年前 6歳)
実感したことをだいたい歌にしていました。 「主婦とロマン」
喧嘩したことなども歌にしていますが、そうすると仲良くなってしまいます。
点滴していてもリズムをとったりしていました。
「バラが咲いた」薔薇が散っても心の中に薔薇が咲いていると云うのが凄いと思っています。
結婚期間は17年間で、主人は7年間は元気で10年間は病気でした。
亡くなる時も「君が明るくて助かった、有難う」だけでしたが、今思うとよく主人はわかってくれたなあと思います。
主人であり、先生であり、父親のような存在でした。
厳しいことをいろいろ云われましたが、今思うと何もかも有難たいと思います。
2017年7月11日火曜日
保坂紀夫(竹造形作家・工業デザイナー)・竹に魅了された男
保坂紀夫(竹造形作家・工業デザイナー)・竹に魅了された男
1940年山梨県生まれ、77歳。(9月17日に亡くなられた)
子供のころから竹林など自然に囲まれて暮らしてきました。
武蔵野美術大学を卒業し、企業デザイナーとして15年間働いた後、会社を辞めて山梨県に戻り甲府にデザイン会社を設立しました。
学生時代から考えていた念願の竹を素材にした創作活動に入りました。
少しづつ学んでいた竹の編み方の技術を本格的に習得するため、全国各地に修行にでかけ、竹アートの世界に入りました。
カゴ、ザル、花器、オブジェなど、さまざまな作品を作って展覧会に出品し、多くの賞を受賞されています。
2006年には山梨県北杜市大泉町に創作活動の場と作品を展示する場として、竹の造形美術館を作り今年で11年目を迎えました。
100点以上が展示、1階、2階合わせて面積はおよそ100坪あまり。
地元の杉とヒノキで作っていて塗装は柿渋、壁も全部和紙で貼ってあります。
標高は1100mぐらいのところなので、冬場は閉館に成っています。
作品は3つのパターンに別れている。
①伝統的な技法を用いた実用のもの。
②伝統的な技法+独自技術を用いたデザイン性と実用性を兼ねたもの。
③素材としての竹を実用性をともなわない自由な作品。
大学では工業デザインをやっていましたが、細かな立体設計などを15年間やって、その間に修行して竹の作家に移行していきました。
竹の持っている特性は素晴らしいと思いました。
竹は1200種類ぐらいありますが、こういうものに向いているのは真竹だと思います。
精密なものから何mと云う大きなものまで作ります。
作品に応じて竹を選んで作ります。
最初アトリエだけつくりました(2003年)、倉庫も2つあり大きなものまで作れます。
色んな素材を扱ってきたが、精密なものは作れる、反発するし、光も通すし、その人の技術によって生きてくれるところに魅力を感じます。
造形力を掻き立てられる素材です。
できるだけ長く持たしたいものは、さらし竹といって、竹を煮沸してアクを抜いて干して、編み取る?と狂わない。
節があるので、作品によって節を考えて作ります。
始めようと思った時には竹林は全国に何十か所もあったが、減ってきてしまいました。
農業用とか漁業用とか使い方、入れるものによって編み方が120種類以上ありました。
編み方について修行して歩きました。
竹の種類は日本には600~700種類あります。
竹の産地により編み方がちがうという事もあります。
真竹系は繊維が緻密で正確なものを作れるし細いものから太いものまであり、節間が長い、それは強いと云うことでもあります。(弱い竹は節間が沢山ないと折れてしまう)
子供のころは農村で北に風よけの竹やぶがあり、竹やぶで遊んだりしていました。
絵は好きでした。
父親は教員で色々な情報が入りました。
中学の時に甲府に転校して美術部に入り、高校でも美術部に入りました。
工業デザイナーを目指して武蔵野美術大学に入りました。
3年から工業デザイナーの方の勉強をしました。
就職はプラスチックのメーカーに入って、プラスチックの製品をデザインしました。
ビールの箱、パッケージ、家庭用品、などのデザインをやっていました。
15年ぐらいやっているうちにプラスチックのゴミの問題が出てきて、もう工業デザインをやらなくて良いかなあと思いまして、竹に興味を持つようにもなりました。
デザインは注文でやるので、自分で作りたいものをやるわけではないので、どこかで転換したいとの思いがありました。
オイルショックがあり、会社の人も減らされ宣伝もやらされるようになり、長男であったので両親の面倒を見なければいけなくなって山梨に戻りました。
デザイン会社を立ちあげデザイン会社をやりながら、竹の作品を展覧会に出品して行きました。
工芸品のショップもやりながら、全国を回って竹の技術を磨いていきました。(40歳台)
段々個展もできるようになり、竹の個展は珍しいと云うことで色々開きました。
そのうちに海外の展覧会にも出品するようになりました。
フィンランドが最初でしたが、竹が好評で海外での個展の話も持ち上がりました。
竹は職人の仕事と云うことだったが、ファインアートとして美術大学では扱っていなかったが、東京芸術大学から特別授業をやってほしいと云うことで、そこから色々な大学で授業をやる様になりました。
60種類の編み方がありますが、編み方を色々応用して無限と云っていいほどの沢山の編み方に広がっていきました。(「時代編み」という編み方も生み出しました)
一つの作品で十何種類も組み合わせて作っている作品もあります。
「矢鱈かご」 衝撃的な編み方でした。
綺麗に編んであると云うよりも、繊細なものと実用的で荒々しくて強さを持ったかごを作ってみたかった。
作っているうちに、ああやってみようこうやってみようという事が浮かんできます。
3~4年の真竹を使っています、年がとってしまうと硬くなってしまいます。
新作を考えて居て試作を作っていますが、新作を作るまでに5~6個の試作品を作ります。
1940年山梨県生まれ、77歳。(9月17日に亡くなられた)
子供のころから竹林など自然に囲まれて暮らしてきました。
武蔵野美術大学を卒業し、企業デザイナーとして15年間働いた後、会社を辞めて山梨県に戻り甲府にデザイン会社を設立しました。
学生時代から考えていた念願の竹を素材にした創作活動に入りました。
少しづつ学んでいた竹の編み方の技術を本格的に習得するため、全国各地に修行にでかけ、竹アートの世界に入りました。
カゴ、ザル、花器、オブジェなど、さまざまな作品を作って展覧会に出品し、多くの賞を受賞されています。
2006年には山梨県北杜市大泉町に創作活動の場と作品を展示する場として、竹の造形美術館を作り今年で11年目を迎えました。
100点以上が展示、1階、2階合わせて面積はおよそ100坪あまり。
地元の杉とヒノキで作っていて塗装は柿渋、壁も全部和紙で貼ってあります。
標高は1100mぐらいのところなので、冬場は閉館に成っています。
作品は3つのパターンに別れている。
①伝統的な技法を用いた実用のもの。
②伝統的な技法+独自技術を用いたデザイン性と実用性を兼ねたもの。
③素材としての竹を実用性をともなわない自由な作品。
大学では工業デザインをやっていましたが、細かな立体設計などを15年間やって、その間に修行して竹の作家に移行していきました。
竹の持っている特性は素晴らしいと思いました。
竹は1200種類ぐらいありますが、こういうものに向いているのは真竹だと思います。
精密なものから何mと云う大きなものまで作ります。
作品に応じて竹を選んで作ります。
最初アトリエだけつくりました(2003年)、倉庫も2つあり大きなものまで作れます。
色んな素材を扱ってきたが、精密なものは作れる、反発するし、光も通すし、その人の技術によって生きてくれるところに魅力を感じます。
造形力を掻き立てられる素材です。
できるだけ長く持たしたいものは、さらし竹といって、竹を煮沸してアクを抜いて干して、編み取る?と狂わない。
節があるので、作品によって節を考えて作ります。
始めようと思った時には竹林は全国に何十か所もあったが、減ってきてしまいました。
農業用とか漁業用とか使い方、入れるものによって編み方が120種類以上ありました。
編み方について修行して歩きました。
竹の種類は日本には600~700種類あります。
竹の産地により編み方がちがうという事もあります。
真竹系は繊維が緻密で正確なものを作れるし細いものから太いものまであり、節間が長い、それは強いと云うことでもあります。(弱い竹は節間が沢山ないと折れてしまう)
子供のころは農村で北に風よけの竹やぶがあり、竹やぶで遊んだりしていました。
絵は好きでした。
父親は教員で色々な情報が入りました。
中学の時に甲府に転校して美術部に入り、高校でも美術部に入りました。
工業デザイナーを目指して武蔵野美術大学に入りました。
3年から工業デザイナーの方の勉強をしました。
就職はプラスチックのメーカーに入って、プラスチックの製品をデザインしました。
ビールの箱、パッケージ、家庭用品、などのデザインをやっていました。
15年ぐらいやっているうちにプラスチックのゴミの問題が出てきて、もう工業デザインをやらなくて良いかなあと思いまして、竹に興味を持つようにもなりました。
デザインは注文でやるので、自分で作りたいものをやるわけではないので、どこかで転換したいとの思いがありました。
オイルショックがあり、会社の人も減らされ宣伝もやらされるようになり、長男であったので両親の面倒を見なければいけなくなって山梨に戻りました。
デザイン会社を立ちあげデザイン会社をやりながら、竹の作品を展覧会に出品して行きました。
工芸品のショップもやりながら、全国を回って竹の技術を磨いていきました。(40歳台)
段々個展もできるようになり、竹の個展は珍しいと云うことで色々開きました。
そのうちに海外の展覧会にも出品するようになりました。
フィンランドが最初でしたが、竹が好評で海外での個展の話も持ち上がりました。
竹は職人の仕事と云うことだったが、ファインアートとして美術大学では扱っていなかったが、東京芸術大学から特別授業をやってほしいと云うことで、そこから色々な大学で授業をやる様になりました。
60種類の編み方がありますが、編み方を色々応用して無限と云っていいほどの沢山の編み方に広がっていきました。(「時代編み」という編み方も生み出しました)
一つの作品で十何種類も組み合わせて作っている作品もあります。
「矢鱈かご」 衝撃的な編み方でした。
綺麗に編んであると云うよりも、繊細なものと実用的で荒々しくて強さを持ったかごを作ってみたかった。
作っているうちに、ああやってみようこうやってみようという事が浮かんできます。
3~4年の真竹を使っています、年がとってしまうと硬くなってしまいます。
新作を考えて居て試作を作っていますが、新作を作るまでに5~6個の試作品を作ります。
2017年7月9日日曜日
浅川伸(日本アンチ・ドーピング機構 専務理事)・【“2020”に託すもの】クリーンオリンピック実現のために
浅川伸(日本アンチ・ドーピング機構 専務理事)
・【“2020”に託すもの】クリーンオリンピック実現のために
今スポーツ界が抱えている課題の一つが、禁止されている薬物を投与するドーピングの問題です。
ドーピングのないクルーンなオリンピックをどう実現していくのか、日本アンチ・ドーピング機構 専務理事浅川さんに伺います。
ドーピングに対してそれは良くないとルールを設定したり、コンセプト、概念を発信してゆく活動だと思っています。
ドーピング検査を通して確認をして、使っていたら制裁措置を課して競技の公正性を担保して行く。
競技自体が本当の勝負であると云う事が興奮の源泉、応援していてわくわくすると云うのはそこになって来る。
相手を欺くと云う事がわかっていながら競技に臨んで、表彰台に立って国歌を聞く一番の栄誉を持って行ってしまうと云う事が実際に起こってる。
選手の人権問題を取り扱っているとまで言っていいのではないかと思っています。
スポーツの商業的な価値が経済的なリターンが得られるスポーツと云うことになってきた。
それは一義的には悪いことではないと思うが、不正をしてその地位を手に入れると云うアプローチが起こってきている。
世界アンチ・ドーピング機構、日本アンチ・ドーピング機構がある。
日本アンチ・ドーピング機構は国内で検査をする。
IOCは大規模な競技大会の主催団体と云う概念の中に入って来ます。
世界アンチ・ドーピング機構はどこの組織からも独立したオペレーションが出来ると云う事が理念の中心に置かれています。
世界アンチ・ドーピング機構の理事会の半分は各国政府と、半分はIOCを中心とするスポーツ界が理事会を構成している。
世界アンチ・ドーピング機構の意思決定の構造自体を今のままでいいのか、組織のありようを議論しようとちょうど起こっているところです。
禁止されている薬の多くは治療目的で医療のために開発されているものがほとんどだと思っています。
健常者に対して適切な使用量を越えて投与すると云うことで、ハイパーな状態をねらってやってゆくのがドーピングとおもっています。
筋肉の強度を高める(ステロイド)、持久力を高める(赤血球を多くすると酸素の運搬能力が高まる)、体重制限の種目の時に水を抜く利尿作用(一階級下げる作用)
物などがある。
競技会外検査を何時やるのかと云うことも重要、摘発できるタイミングもある。
性悪説、陰性の履歴がない選手はその国に到着次第検査の対象になる時代です。
普段からの検査履歴は重要な部分に成って来る。
新薬の開発の中で副作用が大きいため中途で取りやめたものでも、競技力の向上に繋がることになった場合に、使用すると危険だと云うことを発信したこともあります。
リオオリンピックの前にロシアの組織的なドーピングがあったが、ロシアアンチ・ドーピング機構とラボラトリーの組合わせが、選手の嘘をかくす機能として活用されていたと言いう事に成っていた。
想定を超える事情に成っていた。
パラリンピックは出場停止になったが、以外は通常の参加となった。
ピョンヤンのオリンピックにロシアの選手が参加できるのかが、一つの大きな関心ごとに成って来る。
主催者の役割についても議論することが必要になって来ると思います。
東京オリンピックについても取り組みが必要で、未曾有の規模のドーピング検査を実施すると云うのが数字の上であり、立ち向かって行かなければいけない実態です。
実施するための検査員、海外の検査員、では足りないので検査員の育成をしていかなければいけない。
尿の採取にも立ち会わなければいけない。
検査の待合室では話が出来る色んな言語の検査員が必要で、選手の快適さを考えながらドーピング検査を実施していくことを考えています。
採取、分析を併せてドーピング検査と云われますが、採取でも日本の検査員の評価は高いです。
分析は日本ではLSIメディエンスがやっていますが、トップクラスの評価を得て居ます。
東京オリンピックに対しての検査員の規模は3合目あたりだと思います。
1988年ソウルオリンピックのベン・ジョンソン、はキーワードの様に語られている。
アスリ-トと私達組織と向き合う時に①知識として持たなければいけない、ドーピング検査を恒常的にうける立場に立った時は必須になって来ると思います、②何故アンチドーピング活動が必要なのかということが、きちんと理解することが必要と思います。
人間としてのしっかりした基盤を作っていく、トップアスリートは若い人たちに範を示すと云うことになるので、知識と自覚、理解との部分があるかと思っています。
最近はトップアスリート、コーチはアンチ・ドーピング活動に対して、ネガティブにはなってきてはいません。
・【“2020”に託すもの】クリーンオリンピック実現のために
今スポーツ界が抱えている課題の一つが、禁止されている薬物を投与するドーピングの問題です。
ドーピングのないクルーンなオリンピックをどう実現していくのか、日本アンチ・ドーピング機構 専務理事浅川さんに伺います。
ドーピングに対してそれは良くないとルールを設定したり、コンセプト、概念を発信してゆく活動だと思っています。
ドーピング検査を通して確認をして、使っていたら制裁措置を課して競技の公正性を担保して行く。
競技自体が本当の勝負であると云う事が興奮の源泉、応援していてわくわくすると云うのはそこになって来る。
相手を欺くと云う事がわかっていながら競技に臨んで、表彰台に立って国歌を聞く一番の栄誉を持って行ってしまうと云う事が実際に起こってる。
選手の人権問題を取り扱っているとまで言っていいのではないかと思っています。
スポーツの商業的な価値が経済的なリターンが得られるスポーツと云うことになってきた。
それは一義的には悪いことではないと思うが、不正をしてその地位を手に入れると云うアプローチが起こってきている。
世界アンチ・ドーピング機構、日本アンチ・ドーピング機構がある。
日本アンチ・ドーピング機構は国内で検査をする。
IOCは大規模な競技大会の主催団体と云う概念の中に入って来ます。
世界アンチ・ドーピング機構はどこの組織からも独立したオペレーションが出来ると云う事が理念の中心に置かれています。
世界アンチ・ドーピング機構の理事会の半分は各国政府と、半分はIOCを中心とするスポーツ界が理事会を構成している。
世界アンチ・ドーピング機構の意思決定の構造自体を今のままでいいのか、組織のありようを議論しようとちょうど起こっているところです。
禁止されている薬の多くは治療目的で医療のために開発されているものがほとんどだと思っています。
健常者に対して適切な使用量を越えて投与すると云うことで、ハイパーな状態をねらってやってゆくのがドーピングとおもっています。
筋肉の強度を高める(ステロイド)、持久力を高める(赤血球を多くすると酸素の運搬能力が高まる)、体重制限の種目の時に水を抜く利尿作用(一階級下げる作用)
物などがある。
競技会外検査を何時やるのかと云うことも重要、摘発できるタイミングもある。
性悪説、陰性の履歴がない選手はその国に到着次第検査の対象になる時代です。
普段からの検査履歴は重要な部分に成って来る。
新薬の開発の中で副作用が大きいため中途で取りやめたものでも、競技力の向上に繋がることになった場合に、使用すると危険だと云うことを発信したこともあります。
リオオリンピックの前にロシアの組織的なドーピングがあったが、ロシアアンチ・ドーピング機構とラボラトリーの組合わせが、選手の嘘をかくす機能として活用されていたと言いう事に成っていた。
想定を超える事情に成っていた。
パラリンピックは出場停止になったが、以外は通常の参加となった。
ピョンヤンのオリンピックにロシアの選手が参加できるのかが、一つの大きな関心ごとに成って来る。
主催者の役割についても議論することが必要になって来ると思います。
東京オリンピックについても取り組みが必要で、未曾有の規模のドーピング検査を実施すると云うのが数字の上であり、立ち向かって行かなければいけない実態です。
実施するための検査員、海外の検査員、では足りないので検査員の育成をしていかなければいけない。
尿の採取にも立ち会わなければいけない。
検査の待合室では話が出来る色んな言語の検査員が必要で、選手の快適さを考えながらドーピング検査を実施していくことを考えています。
採取、分析を併せてドーピング検査と云われますが、採取でも日本の検査員の評価は高いです。
分析は日本ではLSIメディエンスがやっていますが、トップクラスの評価を得て居ます。
東京オリンピックに対しての検査員の規模は3合目あたりだと思います。
1988年ソウルオリンピックのベン・ジョンソン、はキーワードの様に語られている。
アスリ-トと私達組織と向き合う時に①知識として持たなければいけない、ドーピング検査を恒常的にうける立場に立った時は必須になって来ると思います、②何故アンチドーピング活動が必要なのかということが、きちんと理解することが必要と思います。
人間としてのしっかりした基盤を作っていく、トップアスリートは若い人たちに範を示すと云うことになるので、知識と自覚、理解との部分があるかと思っています。
最近はトップアスリート、コーチはアンチ・ドーピング活動に対して、ネガティブにはなってきてはいません。
2017年7月8日土曜日
澤木万理子(宇治川の鵜飼・鵜匠) ・鵜飼に恋して(H28/7/16 OA)
澤木万理子(宇治川の鵜飼・鵜匠) ・鵜飼に恋して(H28/7/16 OA)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2016/07/blog-post_16.htmlをご覧ください。
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2016/07/blog-post_16.htmlをご覧ください。
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