2014年9月7日日曜日

保坂正康(作家)         ・昭和史を味わう(第6回)

保坂正康(作家)  昭和史を味わう(第6回) 満州事変の頃 軍事主導体制への移行
83年前 昭和6年9月におこった満州事変から、昭和11年2月 2・26事件 が対象。
満州 黒竜江省、遼寧省、吉林省 の3省からなる。
きっかけになるのが昭和6年9月におこった満州事変。
明治37~38年の日ロ戦争でロシアが3省に持っていた権益を日本がとった。
鉄道網を日本が取ることになる。(戦勝の代償)
面として押さえているわけではなかったので、面として押さえたいと言うのが日本の軍の中に一貫してあった。
不況で日本の生存権を広げようと、云う考え方で、軍人がこの地域を一つの日本の生存権として、確保しようとした。

生活圏として軍事的、政治的に支配して国民が移住して、と言う空間にしたいと言うのがあってそれを生命線とした。
駐留していたのが関東軍
昭和6年9月18日満州事変が起こる。
関東軍の中に、板垣征四郎石原莞爾 参謀が赴任する事になるが、、石原は独自の考え方を持っていた。
満州と言うものを日本の国益と、押さえる事によって、世界的には単なる侵略と成ると言うので、いろんな民族が混じりあった一つの理想国家を作ろうと言うのが、石原の考えでした。
関東軍は日本の陸軍省や参謀本部の云う事をきかない、独自に計画を持つ。
計画に基づいて、謀略と言う形で現実を作ってゆく、それを陸軍省や参謀本部に認めさせると言う手法を取った。

柳条湖事件
石原莞爾を中心とした、関東軍の参謀たちが、中国人が鉄道を破壊したと、謀略をするわけです。
それを関東軍が破壊した中国人に対して排除する、そこのところに軍を駐留させる。
中国軍との間で交戦状態になってゆく。
抗日中国人は日本が雇った。
日本の謀略として満州事変は起こされた。(当時は隠されていたが国際社会の中では徐々に知られていった)
謀略と判ったのは戦後、東京裁判などで全部明らかになってゆく。

犬養 毅首相演説 この演説の3カ月後に5・15事件で殺されてしまう。
①中国との関係を将来にわたってどういう風にしてゆくか、根本の問題。
②今、満州事変以後の軍事的な衝突をどう解決するか。
孫文とも親しくて、辛亥革命にも協力的だったので、中国に古い人脈を持っていたので、日中関係を正常に戻したい想いがあったが、軍人たちは生ぬるいという反感を持っていた。
5・15事件の背景には犬養の中国観に対して軍人側の不満があったと思います。
昭和7年3月に満州国が成立する。
この素早いプログラムは石原莞爾らが古くから考えていたプログラムが下敷きになっている。
満州は当時中国は開拓されていないと言うところもあったので、石原達はそれを日本が介在する事によって国家を作ろうとしたのだと思う。
石原の考え方等も日本の当時のインテリなどにも或る程度受け入れられていた。

王道楽土」、「五族協和」をスローガン  満州族、漢族、蒙古族、朝鮮族、日本族が融和した状態で、一つの理想郷を作ろうじゃないかと、云う事ですが、結局日本が上に立ったような国になるが、面白いのは板垣、石原等が溥儀(辛亥革命で追放されて天津で蟄居生活だった清朝最後の帝政)を帝政の地位に据える。
日本でも不況で、農地が限られているから、満州に行って、耕作農民になろうと、武装移民といった形で開拓に入る。
日本が勝手に来て国を作ったり、土地を奪って、農業を始める訳ですから、面白くないことは当然です。
日本の知識人の中にも、他人の土地に行ってそんなことをしていいのか、と言う様な考えが確かにあったが、でもそれを打ち消す声、耕作地が日本では16%しかない様なところで日本国民はどうして生きてゆくのか、やはり新しい土地を求めて生きてゆく、生存してゆく権利、生存権を広めてゆくという形の考え方が当時あったので、説得力を持った。

満州国ができ上ってゆく。
昭和7年9月15日 満州国承認演説 斎藤 実首相
国際社会の中で必ずしも私たちの考え方は受け入れられている訳ではないことを、正直に語っている。
中国は国際連盟に提訴する。  調査団(リットン調査団)を派遣する。
9・18事変 国恥日(中国)
2010年9月 海上保安庁に中国漁船がぶつかってきた。
2012年9月 尖閣諸島国有化
相互の歴史の理解と言うのが、今の挑発行為の中で異様に興奮を生むと言うのは得策ではないと思う。
石原莞爾も戦後、軍事主導で有ったことに対する自責の念を漏らしている。

リットン調査団
日本が侵略している。
今後の解決策 中国の自治的な政府は認めるが、欧米列強、日本が顧問役、相談役の様な国の関係と、中国が持つ自主的な権利との間の調整をするような形の融和的な案が提示される。
日本は反対する。(軍事で獲得した権益がぼけてゆくので)  42:1 
松岡 洋右  満洲国に対するかなり熱心な人、「生命線」と言う言葉を松岡が作ったと言われる。
国際連盟脱退の方向に向かう。  脱退の演説を英語で行うが最後に脱退するときに、「さよなら」と日本語で言って出てゆく。
昭和8年2月に国際連盟から脱退する。

昭和11年2・26事件が起きる。
軍事色が強まってゆく中で、ピークに達する事件。
日本の社会は軍事色が濃厚になってゆく。
2月27日 戒厳令
2月29日 戒厳司令部から 「兵に告ぐ」 放送が出された。
「兵に告ぐ  勅令が発せられたのである。 すでに天皇陛下のご命令が発せられたのである。
お前たちは上官の命令を正しいものと信じて、絶対服従をして誠心誠意活動をして来たのであろうが、このうえお前たちがあくまでも抵抗したならば、これは勅命に反抗する事になり、逆賊と成らなければならぬ。  
正しいことをしたと信じていたのに、それを間違っていたと知ったならば、いたずらに今までのいきがかりや、義理上からいつまでも反抗的態度を取って、天皇陛下に背きたてまつり逆賊としての汚名を永久に受ける様なことがあってはならぬ。
今からでも決して遅くないから、ただちに抵抗を止めて軍旗のもとに復帰するようにせよ」

将校の人達の命令で参加したわけで 参加したらクーデターを起こしたんだと言う事を知ったわけで、お前たちには責任はない、唯このままずーっといるとこれからは責任を問われるぞ、と言っている訳です。
憲兵隊の元に帰順してゆく事になる。
庶民は現実の苦しさを変えてゆくのに、軍を新しい変えてゆく勢力として受け入れてしまった。
新しく受け入れた軍が、やはり生活は良くなった。
満州国ができ上ると日本の商品が入ってゆく。 労働力を受け入れる先ができるので、景気が良くなって行くので、それが軍事色を肯定してゆく理由だったのかなあと思います。

軍事で入って行っていいのかと、常識的におかしいと云う人は随分いた。
生 悠々 信濃毎日新聞の論説委員 軍のやり方は常に日本の温厚な政治を大事にする政治の仕組みとは逆な形で、それを壊してゆくのではないかという立場から軍を批判すると言う論説を書く。
鶴彬 川柳作家 弾圧されるが。
「銃剣で 奪った美田の 移民村」
「こうりゃんの 実りへ 戦車と靴の鋲」

昭和歌謡 
「急げよ 幌馬車」(歌:松平晃)、「国境の街」(歌:東海林太郎)、「緑の地平線」 (歌:楠木繁夫)








2014年9月6日土曜日

オール巨人(漫才師)       ・漫才も闘病も全力投球

オール巨人(漫才師)         漫才も闘病も全力投球
昭和50年のデビュー以来、不動の人気を誇ります。 背が高い方がオール巨人さん、大坂生まれ62歳
常に第一線で活躍し、順風満帆の漫才人生に見えましたが、影を落としたのがC型肝炎。
しかし、仕事を続けながらC型肝炎ウイルスを無くす治療にチャレンジしました。
更に何度もあったと言うコンビ解消の危機、オール巨人さんは常に全力投球で乗り越えてきました。

来年40周年、考えたこともなかった。  短い感じがする。
昭和26年生まれ、良く笑わしていたようです。(物マネを良くやっていたようです)
高校卒業後、実家の卵問屋を手伝いながら、素人の演芸番組を次々に出演していた。
TVに出たりするようになると、商売がうまく行く様になる。
私は一人で漫談、物マネをやっていて、山田さんがアマチュア軍団を作って、慰問に行こうと動いて、それでオール阪神さんと出会った。
2人大きいのと、小さいのと、面白いから漫才をやってほしいとあるプロデューサーから言われて、やったところ面白くて受けた。
吉本に入ったらどうかと言う事で、吉本に入ることになる。

弟子にならないと、吉本に入れないとの事で、岡八郎さんが弟子に逃げられたばっかりで、困っていたために岡八郎の弟子になる事になる。
きつい師匠で、一月持たないと周りから言われた。
師匠とは相性が良かった、兎に角失敗しないように気を付けた。
卵の商売をやっていたので非常に細かいところまで気を付けていた、それが役に立ったと思う。
師匠を送るために、事前に50ccのバイクで走って、一番いいルートを考えたりした。
飲み物の事についても、色々事前に調べて、師匠から喜ばれる様にした。
酒を飲みに行くときに、師匠は財布を預けれくれるが、悪い人もいて、財布を無くしたと嘘を言ってお金を誤魔化す人もいた。(師匠も判っていたのではないか?)

岡八郎 全部がアドリブの様な感じでやっていた。(舞台人)
漫才でも同じだが、台本の通りやっていると思われると、芸人の負けです。
師匠は凄い読書家だった。 台本を覚えるのは師匠は早かった。
師匠の白い衣装にジュースを掛けてしまったことはあるが、周りではこれは殴られると思っていたようだが、「洗濯屋へ出しておけ」と言っただけで、何にもなかった。
周りでは、どうしてやと、きょとんとしていた。
二人が組んで始めたが、面白くないと、お客さんから、中味が入った缶ジュースを投げられたこともあるが、直ぐにお客さんから喜ばれる様になった。
稽古は3時間を毎日8年間やっていた。(阪神君がおかしくなるぐらい)
殴り合いのケンカは無かったが、1週間に1回は大きな喧嘩はやっていた。
先ずは3年間は別れない様に、目標を決めてやって、3年間が過ぎるころは人気が出ていた。
上方漫才大賞を3回貰っている。(あとは「やすし、きよし」だけだった)

阪神君が別の仕事で、出番に大変遅れてしまって、なんとか先輩、師匠らにお願いして、穴を埋めてもらっていたが、帰って来た時にあまり反省の色が見られない様な、雰囲気があり、大喧嘩になり、これでコンビは解消だ、というはめになったが、仕事がその後も入っており、やっているうちに、仕事が入ってきて、現在に至る。(解散問題は解決していない)
今は仲がいい。
漫才のライバルは沢山いたので、ある意味でラッキーだった。
42歳の時に、仕事に行って、お腹が痛いと言う事で、調べたら盲腸だった。
手術をするときに、血液検査をやって、C型肝炎で有る事が判った。
自覚症状がないまま進行する事がある。
輸血、血液製剤の投与、適切な消毒をしない器具を使っての医療行為など、血液を介して感染する、半分は感染源が不明、日本の感染者は150万~200万人と言われる。

妻がC型肝炎だった。  私は60歳前までは放っておいた。(18年間) 自覚症状がなかった。
2010年2月から治療を開始した。 週に1回抗がん剤の注射を打つ。
レベトールと言う薬、体重に合わせて飲む。 注射と薬の副作用が辛い。
立ちくらみ ヘモグロビンは酸素を送る仕事だが、人の空気の半分で生きている。(高山で仕事をしているようなもの) 味覚障害、耳鳴り、寝れない、爪が柔らかくなる、・・・・・。

兎に角最後まで治療をやろうと決めていた。
私が仕事を休んだら、お客さんに申し訳がないと、一日も休んだことはない。
舞台に上がる5段の階段がしんどい。 
荒い息が止まらなくて、途中で倒れそうになった時が何回か有った。
体重は8kg痩せ、顔もげっそりし、顔色も悪くてほほ紅をしたりした。
TVでやったネタは舞台では絶対やらない様にしている。
72週治療して、半年再発の確認をして、よくなった事が確認された。
飲酒も再開できたが、止めていたいたので最初はなかなか誘ってもらえなかった。
妻は私が治ってから、半年後に治療をして、半年後に治った。
(それまでに2回治療したが駄目だった。)
若い方からお年寄りまで、判る様な漫才をやらなければいけないのかなあと思う。
「いとし・こいし」先生の様な漫才師になりたい、と思っている。






























2014年9月5日金曜日

清水義範(作家)         ・海外旅行で磨く人間観察力

清水義範(作家)   海外旅行で磨く人間観察力
昭和22年名古屋市生まれ 愛知教育大学を卒業後、上京し、会社務めを経て作家活動に入りました。
1981年「昭和御前試合」でデビュー、1988年「国語入試問題必勝法」で第9回吉川英治文学新人賞を受賞しました。
その後もユニークな発想、ユーモア溢れる作品を数多く発表しています。
清水さんは40歳の時、旅行好きな奥さんに誘われる様にして、初めての海外旅行をインドで体験しました。
以来、海外旅行が何よりの趣味となり、夫婦でイスラムの国々バルカン半島の国々などを廻りました。
清水さんは小説家として日々人間観察をしていますが、日常から離れた海外旅行のなかでもその国をとことん知る為に、人間や風物の観察を続けています。
又帰国してから旅行記を書き上げる事で、清水さんの旅は完結すると言います。

最近は東南アジアを廻っています。(現在半分ぐらい)
ベトナム、カンボジア、マレーシア、シンガポールを今後廻ろうと思います。
中途にイギリス旅行が入っている。 タイで食べものが口に合わなくて、お楽しみでヨーロッパの方に行こうかと思っていたが、ウイーンを予約したがキャンセルが多くていけなくなり、イギリスに行く事になる。
シェークスピアの生れた家とか、嵐が丘の作者のエミリー・ブロンテの家に行こうとか文学的でした。
基本的にはパッケージツアーの枠内で旅行する。 見るものを効率よく旅行出来るようになっている。
30分、1時間の自由時間を貰うと、路上にテントを出している店を探して、ビールを飲んでます。
旅行に行くときは白紙状態(妻は予習している)でいって、見るもの、初の出会いを楽しんでいる。

海外旅行のきっかけは?
結婚したら旅行の好きな妻だった。
一度妻に旅行に行こうと誘われて40歳の時に、インドに出かけた。
慣れないとビビる様な所、道を歩いているだけで、物売りが10人ぐらいついて廻って通してくれないところを搔き分けてゆく様な感じ。
権利の主張を大声でまくし立てるし、この激しさにショックを受けて、なじめないなあと思った。
最初3日間はおびえていた。 観光しないで、バスの中にいたこともある。
段々インドにはまる事になってゆく。
インド人のずうずうしさ、身勝手を考えていたら、もし自分がインドに生まれて、インドで育ったら、あの人たちと同じようなことをするだろうと理解するようになった。
必死に生きているインド人はなかなか魅力的だという気がしてきて、旅の後半は慣れてきて、面白い国だと思う様になった。(その後2回インドに出かけた)

インドはヒンズー教徒、イスラム教徒が多い、イスラム社会の存在に眼を向けさせられた。
イスラム諸国を廻るようになり、イタリア、バルカン諸国、東南アジア、イギリスと廻るようになる。
トルコのモスクのドーム建築が大変魅力的で、イスラムを全然知らないことに気がついて、50代の10年間イスラムの国を廻る。 10カ国廻ることになる。
地中海の周りが多くて、行った先々で古代ローマ遺跡ばっかり見物させられる。
その前は古代ローマの地域だったと言う事で、それではちょっとイタリアに行きたくなって、イタリアに2回行った。
次はどこへ行こうかと考えて、面白そうなのでバルカン半島に行こうと思った。
南から北へ、オスマントルコが侵略の手を伸ばしていって、北の方ではウイーンのハプスブルグ家がハンガリーと組んでハンガリー・オーストリア二重帝国で、バルカン半島を北から来て、そのぶつかってせめぎ合いなんです。 国情が複雑になりやすいところ。
国の中にいろんな民族が住んでいて、戦争になりやすい。
行った時は落ちついた時期になっていたが、戦争の爪痕は建物などにも残っており、人々の表情も暗い表情が感じ取られた。

トルコ人 親日的 男性は一日一回は怒る。
トルコ人の男性は怒りっぽいというか、直ぐ大声を出して喧嘩越しになる。
誇りを持っていて、父親が一家の主で父親が何でも決めて、それをちょっと傷つけられたりすると、激怒する。   両方が大声でまくし立てる。
アヤソフィア寺院(現在は博物館になっている)で撮影禁止になっている所で、壁のモザイク画の写真を取ろうとしたら、注意されたが、案内していたトルコの観光局の役人が接待中に言われた事に対してメンツが立たないと言う事で抗議する、そういったことで喧嘩を始めていた。

エジプトは古代エジプトの遺跡ばっかり見て廻るので、イスラムの国としてのエジプトを見たいなあと思っているのは変人だが、カイロなどに行くとイスラムのモスクに行ったりするが、エジプトは流石に歴史の古さからくる、基本的な生活文化がしっかりしているなと感じた。
エジプト人は何かをしてあげたりすると、必ずお礼を言う。 感謝を顔で、態度で表す。
同じ北アフリカのチュニジアあたりでは、買っても無愛想に売ってくれるだけ。
現地のガイド 一番良いケースは一つの国を同じガイドが全部説明する方がいい。
街ごとにガイドが変わって、案内してくれるところもある。(ヨーロッパ方式)
ルーマニア 日本の大学で学んだと言う35歳の青年ガイドへの質問 「ルーマニアでは生活の中の文化、伝統は守られていますか?」と言う質問に対して、青年ガイドがとても皮肉な答えをしたのが忘れられない。
「お役人などが物資を途中でくすめるという生活文化は守られています。」と答えた。
元共産主義の国なので中間搾取が今でも行われている、と言う事を云いたかった。

レバノン、サラエボ (ボスニア・ヘルツェゴビナ)  かつての内戦地域 等も現地のガイドさんがいる。
空港までの地下トンネルがあって、レールが敷いてある。
10歳の時にこののトンネルでドイツに逃げて、20歳の時にこのトンネルで戻ってきたという若いガイドさんがいて、まだ間もない事だったことを実感した。
雇用促進でガイドを設けることがある。 ほとんど歩いてると言う様なガイドさんもいる。

世界遺産 インドのタージ・マハル イランのペルセポリス ヨルダンのペトラ(渓谷の中の古代の街)などはとっても美しい、当然だなあとは思う。
ハンガリーのホルトバージは、唯の草原で牛や馬が飼われているだけ、なんで世界遺産なのかと思う。
のどかさだけで世界遺産になっている。
滅びの美 ペルシャのペルセポリス 神殿の跡に円柱がただ建っているだけ。
木製の屋根などがその上にあったが、焼き払われてしまっていて、焼き払ったのはアレキサンダー大王だったりして、その古さに魅力がある。
アルバニアは現在民主主義の国 かつて共産主義の国で、ソ連、中国とも仲たがいして、国交断絶して、鎖国状態でやってきた国で、国中にコンクリートの塊のようなトーチカが60万個あるが、戦争に使われたのは一度もなかった。 国民の3人に一つ作ってしまった。
元共産国はなにかが国営だったり、学校教育の在り方に名残があり、融通のきかなさがある。

イスラムの国々に行って、私たちは羊肉は大丈夫だったが、嫌いだと言う人はイスラムの国に行くのは辛いと思う、ほとんど毎回羊肉の焼いたのを食べさせられる。
スペイン、イタリアは美味しい。
ほとんどのイスラムの国々では、外国人旅行者はホテルの中で酒は飲めるが、イランでは絶対駄目、酒を持ちこんでホテルの中で飲むのも禁止。
1週間は酒なしで過ごした。
トルコ料理は大変おいしい、トルコの料理でイスラムの料理にはまった。

パッケージツアーではあるが、目を凝らして見るようにしている。
旅行記を後で書かなければいけないので、最低限その国の歴史、どういう王朝が有ったのか、勉強して判ってから旅行記を書く。
旅行記を書き終わって私の旅行は終了となる。
イタリアのシチリア島のタオルミーナに案内されて4月9日広場に案内された。
何故そこが4月9日広場なのか? 調べたら19世紀後半にイタリアが一つの国に独立する運動がおこるが、その時に青年イタリア党のジュゼッペ・ガリバルディ という英雄がシチリア島にやってきて運動をはじめるがそれが4月9日だった。
旅行記は読む人に、行って来たかのように判る様に、歴史、地理、建物などを最低限書く様にしている。











2014年9月4日木曜日

熊谷 榧(画家)         ・我が人生 山と絵と、父、モリカズ

熊谷 榧 (熊谷守一美術館長・画家) 我が人生 山と絵と、父、モリカズ
1929年昭和4年 東京生まれ 日本女子大学在学中 北アルプス穂高岳の残雪に魅了されて、絵をかき始めて、父熊谷守一と同じ画家への道を進むことになります。
画壇の仙人と言われた熊谷守一は、晩年はほとんど外出する事もなく、庭で蟻やあぶ、カタツムリなどを観察し、絵をかいてきました。
父とは反対に娘の榧(かや)さんは、山スキーが大好きで海外の山にも登り、登山中の岩場では可憐な花に我を忘れてスケッチする程の、行動的な画家です。
85歳の今も山に魅かれ絵をかき、陶芸や石の彫刻にも取り組んでこられました。

熊谷守一美術館 この建物も作ったのも岡秀世さんと言って、コンクリートの塊みたいで面白い建物です。
子供の時から、父が二科会の会員だったためそこの絵描きさんの人を教えていたので、いつも家には絵描きがあふれていて、人間はみんな絵をかくものと誤解するほどだった。
絵が好きで4歳ぐらいの頃から絵をかいていたら長谷川 利行さんが面白い絵だと言って絵を交換したりした事がある。
食糧難の時代だったので、絵の学校には行かずに、食料を何とかならないかと理科系の大学に進む。    高校の物理、数学の先生の免許は持っている。
著作物 山のこと、と滑ることが多い。 
クラスメートに長野県松本出身の方がいて、その人が上高地に連れて行ってくれた、それがきっかけで山にいくようになった。
穂高岳が好き。 

熊谷守一  画壇の仙人と言われたが、極普通の人だと思う。
私は父が50歳の時の子供です。父が生まれたのも祖父が50歳の時の子供だった。
小学生の頃、アトリエで石炭ストーブに石炭を運んでいる時に、「生きるってどういうこと」と聞いたら、「燃えてるストーブも生きていると言えば、生きている」と言って えーっと思った。
[人の本を読まない、本は人の滓だ]と言っていて、自分で考えると言う人だった。
絵描きなのでよーく見て観察している。
最晩年は太陽をかいた、じっくりと自然物を見て、自分で考える、それが特色です。
守一は岐阜県中津川市生まれ 父は岐阜市長、子供の頃は何不自由なく過ごす。
絵をやりたかったが、父は大反対だったが、慶応大学に行けば絵をやってもいいと口を滑らしたため、しめたと慶応大学に行って、慶応大学を直ぐに止めて結局共立美術学館(東京芸大の前身)に入る。
父は成績が良くて首席で卒業する。

東北旅行は歩いて回る。 その留守中に父が亡くなって破産するが、樺太に2年ほど(カメラマンのかわりとして)絵描きが連れられて行ったが、その時のスケッチは残っていない。
故郷に戻って、6年間引っ込んでいる間に馬に乗っていたらしいが、最後の2年間は川で材木流しをやった。  ほとんど絵をかいていなかった。
クラスメートに斎藤豊作と言う人がいて、フランスから帰って来た時に、守一がいないので、故郷にきて引っ張りだした。
その人は埼玉の大金持ちで、月40円 守一にやっていたが、何年かしてフランスに永住して、音楽家などと付き合うようになり、経済的に援助してもらう様になる。
無欲の人と言われるが、ただお金がなかっただけ。(ただただ友情によるもの)

陽(次男)が死んでから私が生まれた。
「歴史」  出展して拒否された作品 真っ黒で何も見えないが、赤外線で取って一部再現出来て岐阜県美術館で展示される。 「陽の死んだ日」「ヤキバノカエリ」「土饅頭」「猫」
死と言う事が守一にとって一番の関心事だった。 死人の絵が多い。
「仏前」 黒いお盆の中に白い卵が3つ 3つ上の姉が肺結核で亡くなって、亡くなってからおそなえした。
女の人が列車に轢かれて、ばらばらになる事件、それを目撃して非常にショックを受けて、生きると言う事より死ぬ事に非常に関心があったようだ。
「母子像」 私が結婚して8年目に上の息子が生まれて、赤ん坊を抱いて来たら(ちっとも母性愛のない人だと言われていて、違和感を感じて)スケッチして油絵をかいたもの。

人に勝つ事が嫌いな人で、学生時代剣道をやっていたが、剣道の先生には強いが、勝つ気がないので試合をすると負ける、だから文化勲章なんて大嫌いだった。
晩年は庭にしゃがりこんで、猫、鳥、生き物に執着した。
視線が低く成ると、犬や猫の気持ちが判ると言っていた。
何でもじっくり見て、蟻の左の2番目から出すと言っていたが、アメリカの昆虫学者に聞いたらそうとも言えないと言っていた。
詩人のアーサー・ビナードさんは守一の何周年か何かに講演してもらったことがある。

「そこの壺に花が挿してあるとする、ただそれを書いただけで、地球の傾きかげんが判る様でないといけない」  守一の言葉
存在感のある絵でないといけない、筆が走った様な絵はいけないと言う事だと思います。
私は絵の学校には行かなかったけれど、父 守一の絵を見てて、やっぱり守一の絵に影響された。
守一の絵は線と面の張り絵みたいで、1954年 25歳の時に初めて個展をして、その時は張り絵だった。
当時山に行っていたので、山の絵を描く様になった。
段々守一の絵から離れて、山の絵を描く様になった。
最近は歳なので山にも登れなくなって、散歩にも行けなくなった。
今年パリで9月個展をやることになった。
スケッチブックを持たないで山に行ったことはない。
富良野で地元のガイドが案内してくれて、安心していたところ雪崩にあってしまったが、全員助け出された。

1977年に父が亡くなって、1978年から陶芸と彫刻をやる様になった。
2001年からは石の彫刻をやる様になった。 
のみで彫るのではなく電気カッターがあるので、でも電気カッターも危ないと言われる。
私立での美術館ではやっていけないと言われて、公共に寄付した方が続けられると言われて、2007年豊島区立になった。

守一はお金がなかったけれど、皆から好かれた。
クラスメートの青木繁さんは気があっていて、長文の手紙が10通ぐらい残っていたが、田舎に引っ込んでいたころに青木繁が死んだと言う事を聞いて、世の中が真っ暗になると言うか生きているのが嫌になる様にショックだったらしい。(満28歳8か月で亡くなる)
青木繁は誇り高い人だから人からお金を貰ったりしない。
守一はお金持ちで育った子だったから、割と平気で友だちからお金を貰う。
100畳敷きの部屋にいたそうなので、立派な家に住みたいとは思わなかった。
信時 潔さんが「もう一回人生を繰り返すことができたら、僕はこりごり、君はどう?」と聞いたところ、「僕は何度でも生きるよ」と言ったそうですが、生きることが好きだったんですね。
「石ころ一つあれば、一生(数日かもしれないが)は楽しめる」、と言っていた。
晩年 書をたくさん書いて、書は人がらそのものが出るので、それでみんなに守一の人柄が喜ばれるのかなあと最近思います。
「無一物」 「五風十雨」 など好きで書いている。
 


2014年9月3日水曜日

大澤美香(HALL代表)     ・気楽にオペラ如何ですか?

大澤美香(はなみがわ風の丘HALL代表・一級建築士) 気楽にオペラ如何ですか?
大澤さんは千葉市の出身 49歳  2000年3月に自宅2階に小さなオペラホール風の丘ホールを造り活発な活動を続けています、今日はこの14年間の大澤さんの歩みとその思いを語って頂きます。

オペラに興味を持つとは思わなかった人生が14年前から始まって、知らない世界に飛び込んで必死だった。
1階が事務所、2階が85~90席のホール 22坪 舞台が幅7m 奥行き3m 小さなホール
3階は自宅兼、楽屋控室、ヘアメーク等になっている。
音響は音が響く状態のものを考えて作った。 
天井は音を吸わせる様な設計をしました。
照明は普通の家庭用の照明機材を使っておこなった。
字幕は正面のコンクリートの壁にプロジェクターから投影する形で日本語の字幕が出るようにしています。
目の前で演じている人と字幕がセットで視界に入ってくるのでお客様には凄く好評です。

ホールを作るきっかけは?
たまたま友だちが市民オペラの合唱団で、チケットを買ってほしいと言われて、「フィガロの結婚」を見に行ったのが初めてで、演技、音楽、話全部にひきこまれてしまった。
建築士なので千葉と他を比較すると、地域の都市計画の部分でも、千葉がもう少しもっといい形で芸術を生かせる様な風土、地の利を生かしてうまく作ってほしいとの思いと、1995年ぐらいから地下鉄サリン事件とか、連続児童殺傷事件とか、急に想像できない事件が多発して、地域のコミュニティー、人と人とのつながりが薄くなっているので地域の安全が見守られないとか、思って、心が痛んだ。
行政に頼らずに、自分たちが地域のコミュニティーをもう少し活発にして地域の安全を見守る目を作っていきたい、その為には、音楽、芸術を行う事で、交流のきっかけが生まれて、ドンドン広がってゆく事で、地域が安全になってくれればいいなあと思った。

オペラを掘り下げてゆくと、地球の上で生まれた芸術として、話自体が人間の生きざまだったりする。
人間て、どの国に生れようが、どの時代に生れようが、繰り返して人間て人生を生きている様な気がする。
古典と言うものには人間の生きざま、を学ぶべきことがいっぱいある様な気がする。
そこから汲みとる事によって、先の未来で過ちを繰り返さない様に、学ぶ材料として古典があると思う。
仕事がもの凄く忙しくて、オペラを知ったことによって自分の精神的に疲れていた事が癒された。
オペラに出会ってから、その時の友人が小さいレストランで歌っているので、来ないかと言われていったら、小さなところでやっていた。
数メーターの距離で、彼等の声は凄く迫力があってこれはすごいなあと思った。
歌、演技、を2時間以上もやる事に、すごいいろんな才能がなければできない、感動してしまった。
子供ができなかったので社会に何か恩返しができないものかと、思った時に、主人に相談した。

建築で稼いだお金をそのままそこに持っていけば、迷惑を掛けないのでいいか? と話した。
駅から歩ける場所を探して、予算に見合って切り売りしてくれる場所が見つかって、自分で設計をして、施工会社にも結構無理をお願いした。
最初いつも満席だった。 最初のオペラの為のチラシに想いのたけを全部書きいれた。
其れを見た新聞記者が興味をもって、新聞に掲載された。 半年分が完売されてしまった。
全部違う出演者でやりたいと要望して、蓋を開けてみたら、凄い有名な人達がずらっといた。
1年、1年勉強しながらきた。
3年ぐらいしたら、子宝に恵まれ出産することになり、オペラは休止する事にして、建築の仕事と、出産だけに専念した。
その後は自分で企画製作など全部やる様になった。

最近 風の丘では良いメンバーで良い演出家、良いピアニストがついて、充実して演奏ができることが素晴らしいと、風の丘に呼んでもらえると嬉しいとソリストに言っていただける。
延べ130回以上の公演を行った。
演出家 大きな劇場ばっかりでやっているので、小さい所の良さ、小さいところだからこそ伝えられるオペラのよさがあって、そこが風の丘では伝えられると言う事があって、ここだけの楽しみがあるとして、演出家の方も楽しんできてくださっている。
演出家の方の指導が歌い手さんにとっても勉強になるので、相乗効果で、トップレベルの人達も何とか公演に参加してくださる。
演出家も伝えたいという思いがあり、稽古日数が当初よりも3~4倍になった。
ギャラを上げないといけない様な状況。

公的な場所 体育館などを利用させてもらう事もあるが、行政からの負担は無くて費用はすべて自分で負担している。
子供が出来て、お金がかかってしまって、こんなことをやっていてと言われたが、周りから言われてたり、ソリストから感謝の言葉を言われて、辞めるに辞められず、全部自分でやるので、時間が避けられず、収入源が建築であるが、建築がほとんどやれずに、収入が途絶えてしまって、オペラをやめようかなと思ったりする時期があった。
おととし、10ケ月オペラをやらない時間を作った。
企業にお願いして見ようと思って、電話、手紙などで協力依頼をしたが、全部駄目だった。 
名古屋の方が電話してきて、御支援させてくださいと言ってきてくださった。
こんなことが有るのかと、年間3公演あるが、全部に少しずつ寄付をしてくださった。

精神的にも楽になり、社会貢献したいと思う事に気持ちが向かう様になった。
無形の芸術に対する価値観と言う事でチケット代は下げることはしたくなかった。
でも敷居が高くなってしまうと言うことにもなり、どこかからお金を援助してもらえると、お金の部分で安くして地域のかたたちにも、と言う事が出来る。
いじめ、差別、偏見 にたいして地域で考えていこうと言う事でオペラを使う。
泣いた赤鬼」 いじめ問題を考える。
(赤おには人間と仲良くしたいが、人間とは違うので思う様にいかず、青鬼が人間をいじめてそこに赤鬼が来て青鬼をやっつければ、赤鬼は人間と仲良くなれるので、そうしようと青鬼が提案して、実行する。  赤鬼は人間と仲良くなり、青鬼は赤鬼に人間と仲良くしてください、と手紙に書き残してその地から去ってゆく事になる。その手紙を見て赤鬼は涙を流して泣く。)
一般公開にして、地元の人達に来てもらって、いじめを考える事だけでなく、地域の交流の場としてのきっかけの「泣いた赤おに」にしたいと、教育委員会長さんにお話をしたら、賛同してもらって学校を使っていいと言う事になった。

お客さんの中から、サポーターの会ができ上って、何十人が名を連ねてくださった。
無償で協力してもらって、それが申し訳なく思っていたら、私たちも上の世代からそういう風にしてもらったのをあなたに返しているだけだから、あなたもそれを人にしてあげればいいのだから、それがお返しだからと、言って下さる。(オペラを始めようと思った時の気持ちが実現している。)
PRのためにぬいぐるみに入って宣伝している。
企業メセナ協議会の助成認定を受けている。 「風の丘」の公演は一般の方々に対しても、寄付していただくと最大限の寄付控除の対象になっている。
一般の方にも応援をしてもらう様にお願いしたら、個人の方でも寄付をしてくださるかたが多くなってきている。
千葉市が今年から、助成を始めて、それにも応募したら通って、社会が評価してくださって有難いと思っている。
何が一番大切で、何を持って生きてゆくべきか、社会がどう向かって言ったらいいか、わからなくなることが多いが、その時人間が作ってきた素晴らしい芸術を正しく評価できる、正しく再現出来て後世に繋げて、残していけるような活動に対して、もうちょっと評価して頂ける日本の社会にと、是非お願いしたいと思う。






 

2014年9月2日火曜日

大井玄(内科医)         ・”終末期”に生まれる人生の詩歌

大井玄(東京大学名誉教授・内科医)  ・”終末期”に生まれる人生の詩歌
東京大学医学部で学び、ハーバード大学公衆衛生大学院を修了した内科医の大井玄さんは、若い時分、医療の力を信じて全ての病は進んだ技術で治せるという、楽観的な見方を持っていました。
しかし1980年代に長野県佐久市で、寝たきり老人や認知症老人の訪問診療事業に参加してからはその考え方は見事に打ち砕かれてしまったと話しています。
実際の闘病生活の場では、生老病死 これは仏教用語で人としてまぬがれる事のできない4つの苦しみ、①生まれること、②年を取ること ③病気をすること ④死ぬこと 4つの苦を指しています。
この生老病死が一緒になっており、医療の効率を考えるよりも、病や障害と共に生き、涙を流しながら笑ったり歌ったりすることがいかに大事かを痛感したと言います。
大井さんは闘病生活の中から人生の本当の姿を見つめる詩歌が生まれてくることも体験しました。

看取り医の仕事は、看取られる人に大往生を用意してあげる。
①苦痛のない平穏な看取り。
②家族の人たちは亡くなる方のために一生懸命やったとしても、必ずある種の自分はやってなかったのではないかと悔いが残る。
それがそうではなくて、あなたたちはよくやったんだという、ねぎらいと言うか安心を与える事が大切。
③平穏に亡くなって行く為には、孫、ひ孫がいてそばにいる訳だが、この人たちに対してある種の文化的な伝統を継承してもらう。
看取りはその3つを考えていないといけない。

我々は生まれた時は両親に頼っているが、自立して生きているが最後には、生きる、生かされるにの関係が圧倒的に行かされるになってゆく。
生かしてあげている人たちの為を考えないといけない。
その考えは看取り医への役目なんです。
唯の医療技術だけではない。
人生の最終ステージを平穏に終末に導いてゆく、そして次の世代に継承してゆく。
地域医療にも携わる。 私が看ている人たちは大部分認知症が多いが、その人たちも段々看取られる人になりつつある。
家庭をどの様になにうまくつないでやってあげるかが、非常に大切。

医学の道に進むきっかけは?
父が医者になりたかったが、山形県の庄内地方に大地震が起こって、その時に自分の母が亡くなって叔母さんに育てられたが、父を医者にはしてくれなかった。(代代町医者だった)
私が大学に行くときに進路を医学部に考えた。
ハーバード大学、大学院に進む。
尿毒症は直ぐに亡くなっていたが、腎臓透析 血液透析 最初は数年 その後20年、25年と生きられる様になった。
子供の白血病は全部致命的だったが、私が卒業してから10年余りの間に、7割ぐらいが病状は治まることになる。

いままで大きな死因が次々に懇望されて、医学は万能感を与える、それは誤解ですが、若いころはそんな感じがした。
1979年から長野県佐久市に行って、当時寝た切り老人ボケ老人と言われたが、宅診に伺って診察を行った。
そういった人達をもう一度頭脳明晰にするとか、立ってシャンシャン歩けるようにする、それはほとんど不可能。
いままで自分が見ていた医学の側面はごく一部だと判ってきた。
認知症の一番大切なところは、記憶力が低下してしまう。
その人が夜間の譫妄を起こす、いろんな?妄想 そういうものは防ぐことができる。
佐久に寝たきり老人、ぼけ老人の宅診に伺った頃は、丁度日本も高齢化社会が言われ始めた。
認知症についても理解がなかった。

当時長谷川和夫先生は認知症の第一人者だったが、その人に色々聞いたが、おばあさんは病院に入っているとおとなしいが、家に帰ってきたら騒ぐ、長谷川先生はそれは私も判らないが、この人が家に帰ったら夜騒ぐだろうと云う事は判ると言っていた。
病院に入院すしているときには落ちついているが、お嫁さんがお見舞いに来るがしゃべった後にしくしく泣いている。
有る種の人間関係の悪さと言うか緊張がある。
夜間の譫妄、暴れたりする、それは確実な予測でした。
ご本人にとって、自分がぼけていると言う事を気がつかないようにしてあげると言う事は可能です。
「老夫婦 今日も元気に 物忘れ」
1970~1980年のころ、認知症をどういう風に介護していいのかわからなかった。

老いてゆく事の一つの道筋として、認知症がある。
筋力が落ちてきて歩けなくなることもある。
老いと病の過程を如何に巧く利用するか、その時に病から歌が生まれる事は、そういう訳で、歌が出てくる、それは大切な訳です。
医療効率はこのステージでは考えられない。
如何に巧く穏やかに人生の残りを過ごさせてあげるか、これが大切です。
終末期医療は幅広いものになるが、看取りは、その方が持っている病は恐らく良くなることはないだろう。
だけど、それのおもわしくない症状を抑えてゆく事は出来る。

認知症での盗害妄想 財布を取られたり、お金を取られたりする妄想。

嫁さんの最初の感情は自分をいじめている、と感じる。
最初は付き合ってあげるが、付き合って上げられなくなる、孤立してしまう。
一番人間関係に於いて素晴らしいのは、沖縄の農村。
1970年代の仲間 琉球大学の人が調査する。
はっきりした認知症4%、東京の在宅老人の認知症も4%だった。
沖縄では異常精神症状のある人はいなかったが、東京では半分が異常性精神症状があり、2割が夜間の譫妄があった。
沖縄の農村ではお年寄りが自分の誇りを持つ様な風に、文化的に守らせる。
文化の中で一番大切なのは言葉、生活のリズム。
言葉としてのシステム、敬語のシステムがきちっとしている。(年寄りを敬う)

沖縄では生活のリズムがゆっくりしている。
沖縄では時間的な約束を早めに確認しておかないと間に合わない。
人が遅れても怒らない。 
結婚式でも沢山呼ぶ、6時半始まるのに、私も知っているので7時半ぐらいに行くが、実際にはじまるのは9時頃、だれも怒ったりはしない、しかし始まったら余興ばっかり。
ゆったりとした時間で皆がにこやかにという事は、物凄く大切です。
「老夫婦 今日も元気に 物忘れ」 病から歌が生まれる、と言う事はまさにそのこと。
愉快に自分たちを保つ事が出来る。

小檜山霞さん 文学少女で日本図書新聞に務めていた方 ヘビースモーカー
自分の周りは本だらけで、俳句が素晴らしい。
「雪女 白き指先 したたれり」
「人体の 大方は水 ももすする」
「かあ様の そのかあ様の ふなごろぶ?」
「銀河系 宇宙の隅の 蛍狩り」

「命かな 書く事もなき 初日記」 
老いて、病気になって何も出来なくなっているが、彼女の思考が残っていて、何かを書きたいが、日記帳を手にとって何かを書きたい。
男性よりも女性の方がキチンとして、老いながら歌を作ったりする力を持っている人が何人かいる。
患者さんのカルテにつぶやいた俳句、和歌を書き記している。
生老病死は必ず通る道すじですから、段々病になって老いて、人生の最後が見えたところでその過程を味わう事が出来る。
味わうと言う事は歌ができる一番の原因になる元になる。

俳号「大井玄人」として 俳句を作っている。
終戦直後、秋田の疎開先で母が古着の行商をやっていた。  黙々とお米をしょって帰る。
蛍がたくさん飛んでいる。
「米負いて、母と歩みし 蛍道」
「痴呆仏 いこいたまいし ハスの上」 認知症は怖いと思うがそうではない。 
痛み止めもなんにもいらないで亡くなってゆく、そういう方はある種の仏様みたいなもの、それが痴呆仏。
①出来る限りきちんと歩いたりする、動くと言う事、楽しむと言う事、俳句を作ると言う事は一つの楽 しみ方という事です。
②苦痛の中において歌を考えることができるとすれば、苦痛を味わって言うと言う、楽しみ方。
③人のために何か喜ばす事。 電話で、今日はどうだったか、ご飯はおいしいか、通じはちゃんとあるか、夜はよく寝ているか、痛いところはないか 聞いて基本的なところが皆OKだったら、それはよかってね、と言ってあげる。





2014年9月1日月曜日

坂本道徳(理事長)       ・炭坑の島・軍艦島に住んで

坂本道徳(NPO法人軍艦島を世界遺産にする会・理事長) 炭坑の島・軍艦島に住んで
長崎港から30分ほど船に乗ると、かつて海底炭坑で栄えた島々の一番端に在る島、端島が見えてきます。
この小さな島に立つ9階建てのアパート群には、60年ほど前、5000人を越える人たちが暮らしていました。
夜も煌々と明かりがともりそびえたつ高層アパートの端島をいつしか、軍艦島と呼ぶようになりました。
40年前石炭産業の衰退で、廃墟の島、無人の島になりましたが、この島を世界遺産にしようと、頑張っている人がいます。

端島に住んでいた人達にとって軍艦島と言う名前は抵抗がある。
2年に一回長崎に100名~150名集まるが、軍艦島が有名になったが、ここは端島だと皆が言う。
私は8年間住んだ。(11歳~19歳)
昭和33年の建築 7階建の学校 1~4階が小学校 5、7階が中学校 6階が講堂兼体育館
私は9階建の9階に住んでいた。 エレベーターは無かった。
渡り廊下で繋がっていたので、別棟の9階同士は繋がっていた。
最後に作られたのが体育館で71号棟だった。
映画館、お寺、神社、パチンコ屋、電気屋、食堂、地下には小さなデパートがあった。
台風、火事に対しては恐怖感があったが、生活は不自由しなかった。

台風8号で見学場所を完全に破壊してしまって、現在上陸はできない。(復旧のめどは立っていない)
我々が語っていかなくてはいけないのは、軍艦島そのもの物よりも炭坑と言うものを語り続けなければいけない。
父親たちからバトンタッチされたものがある、炭坑の厳しさ、そこで働いて我々を育ててくれたという物の中に、その炭坑の生活があったからこそ今の自分があるので、厳しい環境のなかで親は仕事をしているんだと言う事を、理解させることが必要だと思う。
炭坑は一つの集落を作るので、親たちが何をしているか、全員が知っている。
まずエレベーターで地下600mまで降りてゆく。 
そこからが坑道で、先端を掘り続けてゆく、最高で1000mまで降りて行って、そこから2500m先まで掘り続けてゆく。
湿度が90% 温度も39度前後有ったそうです。
過酷な条件の中で真黒になって、石炭を掘っていたので厳しい事だった。
3交代で24時間掘っていた。 だから明かりが消えることがなかった。

4.5畳と6.5畳で親子5人で住んでいた。
共用スペース(洗濯、風呂、トイレなど)があったので、コミュニケーションは密になる。
どういう生活をしていたかは、丸見えだった。
TVは当時あって、未来を先取りしていた。
学校と仕事場が近かったが、消音器が取り付けられていて、うるさくなかった。
コンクリートで緑がなくて、緑化運動を行った。(緑なき端島)
田ぼまで作った事がある。 一つの安らぎになる。
いじめなどはなかった、運命共同体だったので。近所の親から何度となく叱られたりした。
お互いに協力していかなければ、コミュニケーションは成りたたない。

地球は運命共同体、資源がなくなるということは、どういう事なのか、いま世界中で資源の事でいろんないさかいがあるが、資源は人間のものではなくて、地球のもの。
それを私たちは人間として使っている、搾り取っている。
搾り取った時にどういう風景になるの、というと軍艦島の風景になる、未来を先取りしている。
未来を先取りしていると言う事はこういう事なんです。
それで世界遺産にして、皆に見てほしい。
形を見に来てほしいのではなく、この風景が我々の未来になってはいけないので、この島は未来から私たちに警鐘を鳴らしている。

この島の歴史、未来を先取りして行った事を考えてほしい。
観光で島を見に来る人は5年間で、50万人が越えた。 
若い人たちが来た時に、廃墟の島を見たくて来て、私の話を聞いて、最後に一言私の方から上陸出来てよかったですねと声をかけたら、彼らが言った言葉は私が上陸できたことよりも、坂本さんの言葉を聞いて有難かったと言われた。
単に彼等は、この島の姿をカメラにおさめるために来たが、ここに日本の未来があると言う話を聞きながら僕らはいったい何をしなければいけないのかと言う事を私は感じたと言われた時に、あー伝わったと感じた。
一人でも二人でも伝わってゆく事によって、世の中を変える原動力になる。
その役目を私はやっていると思っている。
実際島に住んで、ガイドしているのは、私一人です。

長崎港から船で出て、端島までの島は全部炭坑の島だった。
石炭を掘るよりも、石炭を買うという政策により、石炭産業は衰退していった。
まだ石炭はあると思うが、掘れない状況に在ると思う。
端島だけでも、記録に残っているだけでも215名が犠牲になっている。
親から具体的な話は聞いてはいない。(酒を飲み交わしては上司の話などはしていたようだ)
一緒に働いている人達との絆は深かった。

名前は「みちのり」だが「どうとく」みんな「どうとう」と呼ぶ、「みちのり」と呼ぶのは母親だけだった。
学校から帰ると2~3時間は共同風呂でしゃべっていたりした。(TVはあまり見なかった)
隣りの島 高島とはライバル意識が高かった。
大学で下宿していて、こずかいが無くなって島に帰ったが、丁度両親が立っていて、その日が島を出てゆく日だった。(昭和49年)
端島に対して、さようなら、と手を振っていた。(故郷をもう捨てていかなければいけないと言う想い)
2度と帰れないという故郷、せつない思いがあったと言う事を、島に来る皆さんには判ってほしい。
東西160m、南北が480m 直ぐに一周してしまう。
サッカーコート1面に2000人が詰め込まれるような人口密度 東京の人口密度の9倍

世界遺産の動きは、来年の7月ぐらいに、明治日本の産業革命遺産と言う形で、端島炭坑は世界遺産の一つの構成資産としてなるんだろうと思います。
私たちが望んでいる軍艦島が世界遺産になることではない。
明治時代の産業革命遺産にかかわったと言う物証、この島では岸壁ぐらい、建物等は大正時の物。
全体が世界遺産になるわけではない。
世界遺産登録への動きは12年前に動き始めたが、当時はだれも興味を示さなかった。
今は行政さんも躍起になっているが。

産業革命の後にエネルギー革命があり、石炭産業が切り捨てられていった、そしてここで観光革命が起こった。
この革命の中で翻弄されていったのが軍艦島・端島です。
本を2冊出版することになった。
記憶を残してゆくためには、島の生活を残す、文章だったら残すことができる。