2014年9月1日月曜日

坂本道徳(理事長)       ・炭坑の島・軍艦島に住んで

坂本道徳(NPO法人軍艦島を世界遺産にする会・理事長) 炭坑の島・軍艦島に住んで
長崎港から30分ほど船に乗ると、かつて海底炭坑で栄えた島々の一番端に在る島、端島が見えてきます。
この小さな島に立つ9階建てのアパート群には、60年ほど前、5000人を越える人たちが暮らしていました。
夜も煌々と明かりがともりそびえたつ高層アパートの端島をいつしか、軍艦島と呼ぶようになりました。
40年前石炭産業の衰退で、廃墟の島、無人の島になりましたが、この島を世界遺産にしようと、頑張っている人がいます。

端島に住んでいた人達にとって軍艦島と言う名前は抵抗がある。
2年に一回長崎に100名~150名集まるが、軍艦島が有名になったが、ここは端島だと皆が言う。
私は8年間住んだ。(11歳~19歳)
昭和33年の建築 7階建の学校 1~4階が小学校 5、7階が中学校 6階が講堂兼体育館
私は9階建の9階に住んでいた。 エレベーターは無かった。
渡り廊下で繋がっていたので、別棟の9階同士は繋がっていた。
最後に作られたのが体育館で71号棟だった。
映画館、お寺、神社、パチンコ屋、電気屋、食堂、地下には小さなデパートがあった。
台風、火事に対しては恐怖感があったが、生活は不自由しなかった。

台風8号で見学場所を完全に破壊してしまって、現在上陸はできない。(復旧のめどは立っていない)
我々が語っていかなくてはいけないのは、軍艦島そのもの物よりも炭坑と言うものを語り続けなければいけない。
父親たちからバトンタッチされたものがある、炭坑の厳しさ、そこで働いて我々を育ててくれたという物の中に、その炭坑の生活があったからこそ今の自分があるので、厳しい環境のなかで親は仕事をしているんだと言う事を、理解させることが必要だと思う。
炭坑は一つの集落を作るので、親たちが何をしているか、全員が知っている。
まずエレベーターで地下600mまで降りてゆく。 
そこからが坑道で、先端を掘り続けてゆく、最高で1000mまで降りて行って、そこから2500m先まで掘り続けてゆく。
湿度が90% 温度も39度前後有ったそうです。
過酷な条件の中で真黒になって、石炭を掘っていたので厳しい事だった。
3交代で24時間掘っていた。 だから明かりが消えることがなかった。

4.5畳と6.5畳で親子5人で住んでいた。
共用スペース(洗濯、風呂、トイレなど)があったので、コミュニケーションは密になる。
どういう生活をしていたかは、丸見えだった。
TVは当時あって、未来を先取りしていた。
学校と仕事場が近かったが、消音器が取り付けられていて、うるさくなかった。
コンクリートで緑がなくて、緑化運動を行った。(緑なき端島)
田ぼまで作った事がある。 一つの安らぎになる。
いじめなどはなかった、運命共同体だったので。近所の親から何度となく叱られたりした。
お互いに協力していかなければ、コミュニケーションは成りたたない。

地球は運命共同体、資源がなくなるということは、どういう事なのか、いま世界中で資源の事でいろんないさかいがあるが、資源は人間のものではなくて、地球のもの。
それを私たちは人間として使っている、搾り取っている。
搾り取った時にどういう風景になるの、というと軍艦島の風景になる、未来を先取りしている。
未来を先取りしていると言う事はこういう事なんです。
それで世界遺産にして、皆に見てほしい。
形を見に来てほしいのではなく、この風景が我々の未来になってはいけないので、この島は未来から私たちに警鐘を鳴らしている。

この島の歴史、未来を先取りして行った事を考えてほしい。
観光で島を見に来る人は5年間で、50万人が越えた。 
若い人たちが来た時に、廃墟の島を見たくて来て、私の話を聞いて、最後に一言私の方から上陸出来てよかったですねと声をかけたら、彼らが言った言葉は私が上陸できたことよりも、坂本さんの言葉を聞いて有難かったと言われた。
単に彼等は、この島の姿をカメラにおさめるために来たが、ここに日本の未来があると言う話を聞きながら僕らはいったい何をしなければいけないのかと言う事を私は感じたと言われた時に、あー伝わったと感じた。
一人でも二人でも伝わってゆく事によって、世の中を変える原動力になる。
その役目を私はやっていると思っている。
実際島に住んで、ガイドしているのは、私一人です。

長崎港から船で出て、端島までの島は全部炭坑の島だった。
石炭を掘るよりも、石炭を買うという政策により、石炭産業は衰退していった。
まだ石炭はあると思うが、掘れない状況に在ると思う。
端島だけでも、記録に残っているだけでも215名が犠牲になっている。
親から具体的な話は聞いてはいない。(酒を飲み交わしては上司の話などはしていたようだ)
一緒に働いている人達との絆は深かった。

名前は「みちのり」だが「どうとく」みんな「どうとう」と呼ぶ、「みちのり」と呼ぶのは母親だけだった。
学校から帰ると2~3時間は共同風呂でしゃべっていたりした。(TVはあまり見なかった)
隣りの島 高島とはライバル意識が高かった。
大学で下宿していて、こずかいが無くなって島に帰ったが、丁度両親が立っていて、その日が島を出てゆく日だった。(昭和49年)
端島に対して、さようなら、と手を振っていた。(故郷をもう捨てていかなければいけないと言う想い)
2度と帰れないという故郷、せつない思いがあったと言う事を、島に来る皆さんには判ってほしい。
東西160m、南北が480m 直ぐに一周してしまう。
サッカーコート1面に2000人が詰め込まれるような人口密度 東京の人口密度の9倍

世界遺産の動きは、来年の7月ぐらいに、明治日本の産業革命遺産と言う形で、端島炭坑は世界遺産の一つの構成資産としてなるんだろうと思います。
私たちが望んでいる軍艦島が世界遺産になることではない。
明治時代の産業革命遺産にかかわったと言う物証、この島では岸壁ぐらい、建物等は大正時の物。
全体が世界遺産になるわけではない。
世界遺産登録への動きは12年前に動き始めたが、当時はだれも興味を示さなかった。
今は行政さんも躍起になっているが。

産業革命の後にエネルギー革命があり、石炭産業が切り捨てられていった、そしてここで観光革命が起こった。
この革命の中で翻弄されていったのが軍艦島・端島です。
本を2冊出版することになった。
記憶を残してゆくためには、島の生活を残す、文章だったら残すことができる。