2014年9月9日火曜日

大木晴子(元フォーク広場歌姫) ・あの歌声から45年、新宿西口広場の歌姫

大木晴子(元フォーク広場歌姫)  あの歌声から45年、新宿西口広場の歌姫
昭和44年2月の土曜日の夕方の事です。、
新宿駅の西口の地下広場に数人の若者がギターを片手に反戦歌を歌い始めました。
やがて、1000人、2000人と人が増え続け、最後となった7月には7000人が集まったという、新宿西口地下広場、しかし機動隊が出てフォークゲリラと呼ばれた反戦の歌声は消えてゆきました。
ベトナム戦争反対を訴え歌を歌い、道行く人と議論を交わした5か月間、参加した若者もニュースでそれを見ていた若い人達にも、大きな影響を与えました。
その中心にいたのが歌姫と言われた山本晴子さん、今は家庭の主婦大木晴子さん。

過ごした時間をとても幸せに思っているので、あまり歳を取ったと言う風には思っていない。
昭和44年、1969年2月28日 夕刻からおよそ5か月間、中味がとても濃かったので凄く人生の中の濃い時間の様な気がする。
西口広場で最初に歌った歌は「友よ」だったと思います。
仲間たちは10人はいなかったと思います。
ベトナム戦争が大変で、フォークソングを歌いながら戦争反対の意思表示をしようと言うのが趣旨だったので、自分たちの心のメッセージを話しながら集ったのが1969年の地下広場でのフォークイヤーの始まりです。
女性は何人かいたが、主に歌っていたのが私だけだった。

きっかけは?
前年の12月に、新宿で花束デモをベ平連がしたんですが、それに関西からフォークソングを歌って反戦の意思表示をしている人達がいて、その人たちが来て、一緒にデモをしたんですが、それがきっかけになったと思います。
私はクリスチャンで教会でもベトナム戦争にかかわって、子供達にいろんなものを送ろうと運動をし
ていたが、生ぬるく感じて、ベ平連デモに行ってみようという事になり、月に1回参加するようになる。
ベ平連は小田 実開高 健等の呼びかけで始まった。
大学紛争、東大の攻防戦、成田空港の運動もあり、さまざまな運動が展開された時代。
負傷した米兵の人達が、王子の野戦病院があって、そこにデモがあって、そこにも、成田にも行きました。

今度出した本についている地下広場と言う映画があるが、その映像を見て頂けると判ると思うが、
本当に好奇心があったし、自分で考える努力をしていると思うし、顔つきが今の人達とははっきり違うと思う。
ものは恵まれていない時代ですが、心は凄く豊かだった様な気がします。
人の事まで思いやることのできる時代だったように思います。
毎週土曜日夕方、新宿駅の西口地下広場で歌う様になる。
歌い終わった後も色々小さな輪ができて、議論が行われた。
電車で帰るときでも会話があったり、おじさんから気を付けて帰れよ、言ってくれたりした。
後姿を見て、家庭の様子が判る様な気がした。(小津監督の映画の様な) 
本当に情がそこにある時代、どこでそれを忘れてきちゃったのかと、いつも思うのですが。

西口地下広場は秩序は保たれていて、警察が入ってこなければそれなりに人は人で立場を作り上げていたと思うが、権力が入ってこなければあの広場はもうちょっと違う形になっていたかもしれない。
人数が増えてきても、恐いと言うイメージはなかった。
個が生きてると言うか、暴動になる様な恐さはなかった。
混雑しているところに私たち数人がギターを持ってゆくと、さーっと道が出来て、私たちは柱のところに向かうが、凄く感動的だった。
ギターをセットしたころは「友よ」を歌いだせるような状況になっていた。(皆が一つになっていた)
フォーク ジョーン・バエズ 高石ともや 等ドンドン出てきた時代。(戦争を知らない子供達、野に咲く花)

機動隊が入ってくる。  催涙弾を打ち込まれた、すごい状況でした。
5か月間の一番最後の頃は歌は歌えない様になった。 7000人が埋まる。
2月ごろは地下広場だったが、7月ごろには通路になって道路交通法違反で逮捕される。
悪いことをしたとは思っていなかったので、平気でした。(今思うと良い体験をしたと思う)
3泊4日で戻ってこられた。  太陽はまぶしいと思った。
フォークゲリラと呼ばれたが、あまり抵抗はなかった。
友人の2人は起訴されて、裁判闘争があったり大変だったが。
その手記 「あの仲間たちはどこへ行ったんだろう」 ずーっと引きずりながら生きてきて、なかなかそこから抜けきることができなくて苦しんできたと思う。
私たちも支えきれなくて、その重みを抱えながら、この本を出すことによって区切りが付けられたと言う事は凄く良かったと思います。

私は教育の原点に戻らなければ、いけないんだと思って、幼稚園の教師になる。
仲間も重さを抱えながら、それぞれ歩んできたんだと思います。
本当に個が強くなる事が大事な事かもしれません。
イラク戦争が始まる1ヶ月前から、土曜日に戦争反対の気持ちを表わすために地下広場に立ち続けていますが、12年目になる。
自分と向き合う事で気持ちが強くなる。
1969年のあのときは、個が、本当に沢山の人と向き合った。 それは本当に宝物ですね。
それぞれ自分なりに、いい時間を持ったと確信できる時が来ると思います。

イスラエルの攻撃を受けて、沢山の子供達が亡くなった写真を見て、今でもこの歌は歌えると言う歌がある。 「歌」中川五郎 当時は良く広場では歌っていた。
ガザで父親が亡くなった子供を抱えながら、傷ついた子供を抱き寄せてる写真があって泣きました。
それを見てイスラエル大使館前でスタンディングをしなければいけないと思って立ち始めました。
プラカードを持って立っていて何になるのと思うかもしれないが、誰かがどこかで頑張っていると言う事はきっと誰かの力になると思うんです。
自分でホームページを作ったり、フェースブック、ツイッターで繋がってゆくと、手に取る様に判る。
私はいつも自分に出来ることをしたいと思っているので、やっぱり子供達に残していけるものは、平和な世界を残していきたい。
一人一人が出来ることをしなければいけないと凄く思う。
お互いのそれぞれ一人一人は違うから、それぞれのいいところを見つめ合う努力をしてほしい。
垣根を作らないで、平和は育くまないとやってこないので、一人の努力が、繋がって繋がって出来るものだと思う。
右側、左側の人もそれぞれ意思表示をしてちゃんとものを伝えて、誰だって人を殺すのも殺されるのも嫌なはずなんだからその原点に立って、平和が育くむ事ができたらなあと思います。
よく話せばきっと判りあえると、私は馬鹿みたいにどっかでずーっと信じています。