2014年9月2日火曜日

大井玄(内科医)         ・”終末期”に生まれる人生の詩歌

大井玄(東京大学名誉教授・内科医)  ・”終末期”に生まれる人生の詩歌
東京大学医学部で学び、ハーバード大学公衆衛生大学院を修了した内科医の大井玄さんは、若い時分、医療の力を信じて全ての病は進んだ技術で治せるという、楽観的な見方を持っていました。
しかし1980年代に長野県佐久市で、寝たきり老人や認知症老人の訪問診療事業に参加してからはその考え方は見事に打ち砕かれてしまったと話しています。
実際の闘病生活の場では、生老病死 これは仏教用語で人としてまぬがれる事のできない4つの苦しみ、①生まれること、②年を取ること ③病気をすること ④死ぬこと 4つの苦を指しています。
この生老病死が一緒になっており、医療の効率を考えるよりも、病や障害と共に生き、涙を流しながら笑ったり歌ったりすることがいかに大事かを痛感したと言います。
大井さんは闘病生活の中から人生の本当の姿を見つめる詩歌が生まれてくることも体験しました。

看取り医の仕事は、看取られる人に大往生を用意してあげる。
①苦痛のない平穏な看取り。
②家族の人たちは亡くなる方のために一生懸命やったとしても、必ずある種の自分はやってなかったのではないかと悔いが残る。
それがそうではなくて、あなたたちはよくやったんだという、ねぎらいと言うか安心を与える事が大切。
③平穏に亡くなって行く為には、孫、ひ孫がいてそばにいる訳だが、この人たちに対してある種の文化的な伝統を継承してもらう。
看取りはその3つを考えていないといけない。

我々は生まれた時は両親に頼っているが、自立して生きているが最後には、生きる、生かされるにの関係が圧倒的に行かされるになってゆく。
生かしてあげている人たちの為を考えないといけない。
その考えは看取り医への役目なんです。
唯の医療技術だけではない。
人生の最終ステージを平穏に終末に導いてゆく、そして次の世代に継承してゆく。
地域医療にも携わる。 私が看ている人たちは大部分認知症が多いが、その人たちも段々看取られる人になりつつある。
家庭をどの様になにうまくつないでやってあげるかが、非常に大切。

医学の道に進むきっかけは?
父が医者になりたかったが、山形県の庄内地方に大地震が起こって、その時に自分の母が亡くなって叔母さんに育てられたが、父を医者にはしてくれなかった。(代代町医者だった)
私が大学に行くときに進路を医学部に考えた。
ハーバード大学、大学院に進む。
尿毒症は直ぐに亡くなっていたが、腎臓透析 血液透析 最初は数年 その後20年、25年と生きられる様になった。
子供の白血病は全部致命的だったが、私が卒業してから10年余りの間に、7割ぐらいが病状は治まることになる。

いままで大きな死因が次々に懇望されて、医学は万能感を与える、それは誤解ですが、若いころはそんな感じがした。
1979年から長野県佐久市に行って、当時寝た切り老人ボケ老人と言われたが、宅診に伺って診察を行った。
そういった人達をもう一度頭脳明晰にするとか、立ってシャンシャン歩けるようにする、それはほとんど不可能。
いままで自分が見ていた医学の側面はごく一部だと判ってきた。
認知症の一番大切なところは、記憶力が低下してしまう。
その人が夜間の譫妄を起こす、いろんな?妄想 そういうものは防ぐことができる。
佐久に寝たきり老人、ぼけ老人の宅診に伺った頃は、丁度日本も高齢化社会が言われ始めた。
認知症についても理解がなかった。

当時長谷川和夫先生は認知症の第一人者だったが、その人に色々聞いたが、おばあさんは病院に入っているとおとなしいが、家に帰ってきたら騒ぐ、長谷川先生はそれは私も判らないが、この人が家に帰ったら夜騒ぐだろうと云う事は判ると言っていた。
病院に入院すしているときには落ちついているが、お嫁さんがお見舞いに来るがしゃべった後にしくしく泣いている。
有る種の人間関係の悪さと言うか緊張がある。
夜間の譫妄、暴れたりする、それは確実な予測でした。
ご本人にとって、自分がぼけていると言う事を気がつかないようにしてあげると言う事は可能です。
「老夫婦 今日も元気に 物忘れ」
1970~1980年のころ、認知症をどういう風に介護していいのかわからなかった。

老いてゆく事の一つの道筋として、認知症がある。
筋力が落ちてきて歩けなくなることもある。
老いと病の過程を如何に巧く利用するか、その時に病から歌が生まれる事は、そういう訳で、歌が出てくる、それは大切な訳です。
医療効率はこのステージでは考えられない。
如何に巧く穏やかに人生の残りを過ごさせてあげるか、これが大切です。
終末期医療は幅広いものになるが、看取りは、その方が持っている病は恐らく良くなることはないだろう。
だけど、それのおもわしくない症状を抑えてゆく事は出来る。

認知症での盗害妄想 財布を取られたり、お金を取られたりする妄想。

嫁さんの最初の感情は自分をいじめている、と感じる。
最初は付き合ってあげるが、付き合って上げられなくなる、孤立してしまう。
一番人間関係に於いて素晴らしいのは、沖縄の農村。
1970年代の仲間 琉球大学の人が調査する。
はっきりした認知症4%、東京の在宅老人の認知症も4%だった。
沖縄では異常精神症状のある人はいなかったが、東京では半分が異常性精神症状があり、2割が夜間の譫妄があった。
沖縄の農村ではお年寄りが自分の誇りを持つ様な風に、文化的に守らせる。
文化の中で一番大切なのは言葉、生活のリズム。
言葉としてのシステム、敬語のシステムがきちっとしている。(年寄りを敬う)

沖縄では生活のリズムがゆっくりしている。
沖縄では時間的な約束を早めに確認しておかないと間に合わない。
人が遅れても怒らない。 
結婚式でも沢山呼ぶ、6時半始まるのに、私も知っているので7時半ぐらいに行くが、実際にはじまるのは9時頃、だれも怒ったりはしない、しかし始まったら余興ばっかり。
ゆったりとした時間で皆がにこやかにという事は、物凄く大切です。
「老夫婦 今日も元気に 物忘れ」 病から歌が生まれる、と言う事はまさにそのこと。
愉快に自分たちを保つ事が出来る。

小檜山霞さん 文学少女で日本図書新聞に務めていた方 ヘビースモーカー
自分の周りは本だらけで、俳句が素晴らしい。
「雪女 白き指先 したたれり」
「人体の 大方は水 ももすする」
「かあ様の そのかあ様の ふなごろぶ?」
「銀河系 宇宙の隅の 蛍狩り」

「命かな 書く事もなき 初日記」 
老いて、病気になって何も出来なくなっているが、彼女の思考が残っていて、何かを書きたいが、日記帳を手にとって何かを書きたい。
男性よりも女性の方がキチンとして、老いながら歌を作ったりする力を持っている人が何人かいる。
患者さんのカルテにつぶやいた俳句、和歌を書き記している。
生老病死は必ず通る道すじですから、段々病になって老いて、人生の最後が見えたところでその過程を味わう事が出来る。
味わうと言う事は歌ができる一番の原因になる元になる。

俳号「大井玄人」として 俳句を作っている。
終戦直後、秋田の疎開先で母が古着の行商をやっていた。  黙々とお米をしょって帰る。
蛍がたくさん飛んでいる。
「米負いて、母と歩みし 蛍道」
「痴呆仏 いこいたまいし ハスの上」 認知症は怖いと思うがそうではない。 
痛み止めもなんにもいらないで亡くなってゆく、そういう方はある種の仏様みたいなもの、それが痴呆仏。
①出来る限りきちんと歩いたりする、動くと言う事、楽しむと言う事、俳句を作ると言う事は一つの楽 しみ方という事です。
②苦痛の中において歌を考えることができるとすれば、苦痛を味わって言うと言う、楽しみ方。
③人のために何か喜ばす事。 電話で、今日はどうだったか、ご飯はおいしいか、通じはちゃんとあるか、夜はよく寝ているか、痛いところはないか 聞いて基本的なところが皆OKだったら、それはよかってね、と言ってあげる。