2026年8月7日金曜日

鳥谷邦武(元特攻隊員・シベリア抑留経験者) ・「白紙の遺書に込めた思い~二度の死線を越えて~」

鳥谷邦武(元特攻隊員・シベリア抑留経験者) ・「白紙の遺書に込めた思い~二度の死線を越えて~」

鳥谷さんは大正151926年佐賀県佐賀市生まれ、昭和1816歳で陸軍少年飛行兵を志願して厳しい訓練を経て戦闘機のパイロットになりました。 昭和20年終戦の年、18歳の鳥谷さんが満州の部隊で特攻隊となりますが、出撃命令が出ぬまま、ソ連軍の捕虜となって、およそ2年間の抑留生活を送りました。 100歳を目前にした今もなお講演やメディアなどで戦争の悲惨さを積極的に伝えています。 死を前提とした特攻、生きることを諦めかけたシベリア抑留、その両方を経験した鳥谷さんに伺いました。

19454月、18歳の時に特攻隊への編入が命じられました。 第一命令は、特攻隊の編成、第二命令は、この部隊から朝鮮経由で知覧まで行く。第3命令は出撃と言う順番になります。  第二命令を受けた時は、とうとう俺のところまで来たかと言う気持ちでした。 諦めるよりしょうがありませんでした。 命令に背く事はできません。 上官の命令は、天皇陛下の命令と同じだと言うふうに言われてきていました。 特攻の戦法は下の下と言われてました。 初めから特別攻撃隊があるんだったら志願はしなかったです。 みんなが言ってます。 最後は使命感だけで突っ込むと思います。  遺書も書くように言われましたが、私は書きませんでした。   爪と髪の毛と白紙でした。 白紙ならば自分で想像してみることがでいる。 白紙が精一杯の抵抗です。 同期生が先に出撃したときに、「お前たちは来るなよ。」って言う言葉が印象的でした

満州南部の飛行場で終戦を迎えます。  これで内地に帰れると言う思いはありました。  ソ連軍の侵攻があって、シベリアに抑留されると言うことになりました。 バイカル湖を通ったときには、日本に帰れないと言う思いがありました。    夏服のままだったので、冬は非常に寒かったです。(マイナス63℃まで下がる時がある。) 雪をかき分けて遺体処理もしました。 情報も入らないので、明日がどうなるか分かりませんでした。 腹が減る、寒い、衣服はない、労働は朝昼晩三交代で仕事をする、残酷な生き方に対して特攻で死ねばよかったって言う思いも頭に浮かびました。 

1947年6月に舞鶴に戻ってきました。 帰ってくる1週間ぐらい前に事故で亡くなった人もいました。 戦争はするもんじゃないです。 本当に馬鹿らしい。 残るのは悲しみだけです。 特攻隊には表と裏があります。 特攻の出撃した知覧とかで堂々と遺書などで発表してます。  裏の事はなか書かれません。 書いたら没収されるし、場合によっては卑怯と言われるかもしれない。 特攻の命令を受けたけれども、まずは死にたくない。 死にたくないと言うのが本音です。 それは書けない。

特攻に向かう班長から1人ずつ呼ばれて、「お前は技術はいいけれども優しすぎるから、いつかお前はやられるぞ。」と言われました。 とどめを刺す人間になれという事でしょうね。 成れないですね。  戦争に正義はないです。 殺し合いですから。 争いの解決方法はやっぱり話し合いでしょうね。 それしかないです。    戦争は百害あって一利なしです。  自分の命は大事にしなければいけないです。  亡くなったら、二度とこの世には出て来ません。 愛する人に会うこともできません。





 

2026年8月3日月曜日

清田明宏(国連パレスチナ難民救済事業機関保健局長・医師)・「医療支援の現場が直面するガザの現実」

清田明宏(国連パレスチナ難民救済事業機関保健局長・医師)・「医療支援の現場が直面するガザの現実」

 清田さんは高知医科大学(現在の高知大学医学部)を卒業後、2010年からUNRWA(国連パレスチナ難民救済事業機関)の保険局長として怪我や病気の治療、衛生環境を整えることに力を尽くしてきました。 2023年からパレスチナのガザ地区で続いてきたイスラエルとイスラム組織、ハマスの衝突。 去年10月停戦合意が発行したものの、ガザ地区では、イスラエル軍の散発的な攻撃が続いています。   現在、清田さんはイスラエルの制限下でガザに立ち入れない中、隣国ヨルダンを拠点に支援を行っています。 ガザで目の当たりにした戦闘の現実、そしてそこで暮らす人々の今と未来についてお話を伺いました。

ヨルダンと日本との時差は6時間です。 気温は35度から40度近くになりますが、湿気が少なくて乾いているので何とかなると言う感じです。  20251月以降ガザに入ることができていません。 ヨルダンから指示を出しながら支援活動を続けています。  一般の人もそうですが、我々の職員も戦争が始まってから何度も何度も避難してみんな疲れ切ってます。  ある人が言いました「世界は一体いつになったら我々を普通の人間として見てくれるのか。」と言われました。 言葉がありませんでした。

うちもガザに12,000人の職員がいますが、既に400人近くの人が戦争で亡くなってます。  我々の想像を超えた事は何度も何度も何度も起こって厳しい状態に置かれていますが、それに対する世界の反応は非常に遅いか、ないと言うのはガザの一般的な反応です。  「世界中から見捨てられて見放されて誰も助けに来てくれない。」そういう風に言われてはっとします。 私にできるのは少しでも心の支えになればと言う思いはあります。 それが1番大事な仕事の1つではあります。 

停戦合意後も状況はどんどん悪くなっていっています。  衛生状況が悪いので、ネズミの種類が増えて、それに伴ってネズミを媒介とする感染症が増えてきてます。薬も不足意味できちんとした治療ができない状況です。 上下水道は機能していなくて、ゴミも山積しています。 壊れた家に住んでたり、テントに住んでいて、住居環境が悪く、医療サービス、医療システムがきちんと機能していません。 

基本的にはイスラエルが食料の搬入制限しています。 絶対数が足りません。   入ってきたものも略奪行為などが発生してます。 小さな赤ちゃんの写真。  腕が7.5cmしかない。 栄養失調も単純な食料不足だけではありません。 住居環境、上下水道、医療システム、家族全体の安全が損われるなど、総合的に進んで危機になったと思います。  小さい時に栄養失調になると、脳神経も犯されることもあります。 後でいろんな影響が出ます。 戦争で両親を亡くした子供さん、空爆で怪我をした人々が沢山います。 かつてガザは貧しくてもホームレスがいなくて、何とか助け合って生活を支えて生きてきました。 今はそれが崩壊していて、それが1番問題だと私は思っています。  ガザに行って、1番衝撃を受けたのは土地勘があるはずなのに、周りを見ても全く自分がどこにいるかわからない状況でした

2024年の夏に4台の車で予防接種のために出かけましたが、イスラエル軍によってブルドーザーが出てきたり、戦車が出てきて車の隊列が挟まれてしまったりして、検問所に7、8時間止められていましたが、南部に帰ってきました。

知り合いの歯医者の家族の事ですが、銀行からお金を借りて開業すると言うことでしたが、予定が107日で、その当日に戦争が開始され、すべてをなくしてしまいました。 戦争が始まって半年位の間は13回避難したと言っています。 23回は野宿したそうです。 そういった話はいっぱいあります。  戦争は残酷で良い事は1つもありません。 早く終わってほしいと今でも思います。

ガザの子供たちは学校に行けず、教育は受けられない。  学校はほぼ全て避難所になっています。 学校に行けなくなると、社会に接することができなくなり、きちんとしたしつけもできなくなる。 メンタルヘルスについてもカウンセラーが聞いているうちに一緒に泣き出してしまうと言うようなことがあります。(同じような環境下) メンタルヘルスのケアにはまだ程遠いと思ってます。

大学を出ても就職がなかなかできない状態です。 「なんで仕事が欲しいのか。」と聞いたら、「人間としての尊厳が欲しい。」と言ったんです。 「職がないと人間としての尊厳が保たれれない。」と言われた。 はっとしました。

治療方法を標準化していきたいと思ってます。(効率の向上) それはそれは大事なことだと思ってます。 国際的な医学誌日発表して、ガザではこういった栄養失調が起こっているという事を残すことが大事だと思っています。(世の中に伝えてゆく。) 有ってはいけないと思うことが、次から次へと起こって、それに対して黙ってていいのかと言う思いはあります。  世の中の不条理に対して黙っていると言うことをせずに声を上げるということだけでもいいし、私のような形でそこで仕事をすることもできます。 

パレスチナ問題、中東問題の安定化に貢献すると言うのはあると思います。   世界中がつながっていると言うことを、今回の戦争で多分日本の方が感じられたのではないかと思います。 日本の人道支援と言うのはものすごく評価が高いです。日本に対する期待は強いです。  海外への援助、困っている人を助けると言う事はどんどん続けることが必要だと思っています。 栄養失調の腕が7.5センチの女の子の写真を見て心が動いて欲しいです。  それがすべての始まりだと思います。  これはひどい、これはかわいそうと思うことが大事で、それが第一歩だと思います。  まずは戦争がなくなって、平和になって、人がゆっくり寝て、そしてガザの将来を考えると言うことに早くなってほしいと思ってます。




2026年7月31日金曜日

清水葵(日本駆け込み寺代表理事)      ・「27歳が“命つなぐ”駆け込み寺~新宿・歌舞伎町 若者支援の現場から」

 清水葵(日本駆け込み寺代表理事)  ・「27歳が“命つなぐ”駆け込み寺~新宿・歌舞伎町 若者支援の現場から」

新宿歌舞伎町では、数年前から家庭や学校に居場所がない若者たちが集まるようになりました。 そんな若者たちを支えてきた支援団体の代表に27歳の女性が就任しました。 声にならないSOSに向き合う清水葵さんの奮闘の日々を追いました。

歓楽街の新宿の一角に6年前から10代から20代の若者たちが集まるようになりました。 一時的な快楽を求めて、市販薬を大量に摂取するオーバードーズ(過剰摂取(かじょうせっしゅ、overdose、略称:OD)を繰り返したり、ホストクラブにはまって借金に追い詰められたり、深刻な問題が後を絶ちまません。 この場所で若者の悩みに寄り添い、支援活動を続けている女性がいます。  清水葵さん27歳です。    去年4月歌舞伎町で20年以上悩みを抱える人たちの相談活動を続けてきた公益社団法人日本駆け駆け込み寺の代表理事に就任しました。

清水さん以外に80人のボランティアが登録されています。 毎日昼の12時から夜の9時まで事務所を訪ねてくる若者の相談に乗ったり、毎週土曜日には子供食堂を開いたりしてするなど居場所を提供しています。 この日には明日が14歳から20代まで15人ほどが過ごしていました。 声かけを続けることで、若者がいつでも頼ってきてくれるきっかけになればと考えています。 駆け込み寺には毎日20人から多いときには50人ぐらい若者が立ち寄るようになりました。 清水さんが大事にしている事は、毎日明かりを絶やさないことです。(安心できる空間)

愚痴や不満をぶちあけることで、ちょっとでも自分を傷つける選択をしないでいてくれたらいいなと思ってます。 清水さんは今危機に立たされています。 代表に就任した直後、去年5月当時事務局長をしていた40代の男性がコカイン所持の疑いで逮捕、また相談に来ていた20代の女性との不適切な関係も明らかになり、駆け込み寺は社会から信用を失いました。 自分のやるべきことと覚悟は決まったなと思いました。 組織の再生を進めていきました。 

トラブルにならないためのチェック機構をいろいろ設けました。 運営資金のほとんどを占めていた行政からの助成金は打ち止めになり、寄付をしていてくれた支援者も離れてしまいました。 今は街頭募金のみです。 歌舞伎町に居場所を求める若者たちの実態は、より深刻さを増していると清水さんは感じています。

2人の男性が深刻そうに相談に来て、内容は歌舞伎町のホテルで20代の女性がリストカットで亡くなり、交際していたこの男性たちの仲間の1人(21歳)が同じ部屋で大量の市販薬を飲み、意識不明で病院に搬送されたということでした。

もう一つ深刻なのは、女性がホストクラブにはまり身を滅ぼしていくケースが後を絶たないと言うことです。 歌舞伎町には300店舗を超えるホストクラブが営業しています。 SNSやマッチングアプリを使った営業が行われ、若い女性も気軽に入店するようになりました。 借金の返済に売春等を強要されるケースがあいついでいます。  24歳のある女性は、ホストクラブに通うきっかけになったのは、親からのDVで家庭内に居場所がなくなったことでした。 18歳で家出してマッチングアプリで交際しました。 その男性がホストだったため、ホストクラブに通うようになりました。 高額な借金を背負うようになりました。 借金の返済に風俗店で働くように勧められました。今年2月に清水さんのところに相談に来ました。誰の父親かもわからない子供を身ごもってしまいました。悩み、最終的にはおろすことになりました。 病院や経済的なサポート、精神的なサポートを続けてきています。 清水さんは、歌舞伎町の若者支援は命と向き合う現場だといいます。

自分自身は特別養子縁組で育ちまして、中学1年生の時に血つながってないことを聞かされて、自己肯定感が一時期下がりました。でも感謝です。愛情込めて育ててくれたという事は自分にとってもありがたい縁を感じます。感謝しています。   グランドピアノはありますが、清水さんが中学1年生の時にの誕生日に送られたものです。 

清水さんは大学時代まで京都の実家で暮らせました。 ボランティア活動等をして、卒業後は東京で保育関連の企業に総合職として就職しましたが、現場に出て直接子供たちと関わりたいと思い、就職後2年目に会社を辞めました。 駆け込み寺で働くことに決めました。 父親は反対しましたけれども徐々に報告を聞くことによって応援していこうと気持ちになったといいます。 

駆け込み寺で今清水さんが新たに取り組んでいることがあります。 グローバル食堂です。 その日を生きることで精一杯の若者たちの関心を広げ、将来を切り開くきっかけになればと言う清水さんの思いです。 去年10月からスタートさせました。 今後は、茶道教室や着物の着付け教室など様々な体験の場をしていきたいと考えています。子を中絶した24歳の女性が駆け込み寺の活動を手伝ってくれるようになりました。 「少しでも誰かを明るくする手助けをしたい」のだといいます。 相談に来ていた女性の中で、春から美容師の専門学校に通うと言う事でした。(駆け込み寺で、なって欲しい像がまさにそういったことだと思っています。)





2026年7月25日土曜日

山崎エマ(ドキュメンタリー監督)      ・「当たり前の中にある価値を見直したい」後編

 山崎エマ(ドキュメンタリー監督)・「当たり前の中にある価値を見直したい」後編

絵本「おさるのジョージ」の原作者を取材したドキュメンタリー作品 「モンキービジネスおさるのジョージの著者の大冒険」と言うドキュメンタリー映画です。 ジョージはアメリカで大人気です。  私を卒業した後は、編集者として助手として仕事をしていますが、でも監督をやりたいと言う思いが出てきました。    原作者のレイ夫妻原作者既に亡くなっていますけれども、いろいろ調べて3年位かかって制作しました。2000万円かかりましたが、クラウドファンディングで一般の方からもお金を集めて製作、公開できました。 それが1個目の作品です。(2017年)  今年はおさるのジョージの85周年です。 レイ夫妻は戦争を逃れた大変な経験をされていますが、冒険のように語るというか、その精神が「おさるのジョージ」のいろいろな冒険のつながっている。

自分の場合はドキュメンタリーの道を行くと言うのは明確になりました。    編集助手としていろんな作品関りました。 自分では普通の振舞いをしていたと思いますが、周りのアメリカ人から凄く褒められました。  日本人であれば当然のことと思いました。 それが小学校の映画を作る事に繋がる流れになります。   自分が受けた小学校教育の6年間の価値観、頑張ったことなどは小学校にあったのではないかと思いました。 また親から受けた分も大きかったと思います。 

子供の頃から何か貢献したいと言うか、よりよい社会に貢献することこそが、自分自身の人生が幸せになるみたいな考え方が起きました。 少しでも共感とか、感情が動くもの、人間が人間らしく捉えるものみたいなことを今でも自信としています。

海外に住むと比べることが気付ける、何とも思っていなかった日本の良さが増えてきて、特別なんだと思ったりしました。 日本のことを中からと外から見れるようになった自分が何かできることがあるのではないかと思いました。 ずれている日本のことが気になったりもして、自分から日本に戻って世界に伝えたいことがあると思って東京に拠点を持ちました。

夏の甲子園を元にしたドキュメンタリー映画 『甲子園:フィールド・オブ・ドリームス』 その年は、夏の甲子園は99回大会でした。 日本の野球を100回大会と言う機会を使って撮影することにしました。 2018年の100回大会記念大会を撮影しました。 海外に向けても長編作品はなかなかありません。 海外ではまだあまり知られていない日本独特の高校野球の文化を世界に伝えたいという思いから始まった。 最初4校から2校にしぼってって、球児や、指導者の皆さんを追って、甲子園の大会自体を含めて、高校野球も春からの1年を捉えました。アメリカの人に見てもらいたいとする強い思いがありました。 メジャーリーガーとの絡み、師弟関係、親子関係、監督の世代間の違いでの時代の変換期についても意識して撮りました。 アメリカから帰ってきた私にとっては、高校野球はとても日本的に見えました。

佐々木監督はいろんな植物を育ててきて、人の成長と盆栽と成長をかけて考えている方です。 映画の中では、盆栽をきれいな形にするには、針金をまかないとなかなか美しくならないけれども、どっかのタイミングで針金を外さないと盆栽が苦しくなって美しい姿に行くことができない。 これを育ててきた子供たちにかけて針金をかけると言う事は、昭和の時代から含めてやってきますが、外すタイミングとか、外し方この両方が大事だと言うふうに言ってます。 どっかで外してあげないと苦しむ。  当時子供たちの自主性、実践に任せるとか、ちょっと流行っていた時代がある中で、針金をかけることが大事だと言う。 そういうバランスに共感しました。

ある程度導いたりとか、強制することで築いたことが自主性になっていく。   その段階が大事だと言っています。 映画の中では、盆栽に例えて映像的にも美しいシーンが撮れたのは自分の中でも特別なシーンだと思っています。 甲子園だけ見ているだけではわからない、高校野球の心みたいなものを人のつながりとか、教育の一環としていろいろな関係性がある。 極端な話、野球に興味をなくても面白いと思っている映画を目指して作りました。 

日本のことに関して、海外に住んだことによって生まれた視点を生かし、皆さんに気づきの提供をしたいと思って、そのきっかけを自分の作ったドキュメンタリーで提供したいと思ってます。 人間同士として一緒の社会で生きていく中で、少しでもプラスの貢献をするドキュメンタリーを作ると言う、それがやりたいことやってきたことだと思ってます。 ドキュメンタリーは人が人を撮るので、1AIができないんではないかと思っています。 結果として自分が経験したことを良かったので終わらせるのではなく伝えるプロとして、なるべく多くの人に伝える。 それをミッションとして作品となる。これが今自分がたどり着いた、ドキュメンタリーとの向き合い方です。

ドキュメンタリーの醍醐味は自分の人生ではない人生、人であったり、文化であったりいろいろあると思いますが、それを追体験できると言うことだと思います。 映像と音で捉えられるストーリーみたいなものを体験してほしいと思います。  そもそも、小学校を撮ったのは、私自身の小学校経験が自分を作ってくれたと思っているからこそ、撮りたいと言う趣旨があって、人間形成の部分、そこに焦点を当てて取り続ける。 ドキュメンタリーは客観的な記録ではないというか、たくさんの量を撮ってからストーリーを構成しているし、削ぎ落としてストーリーを構築しています。私の視点というものが入っているのは、ドキュメンタリーだと思っています。山崎エマと言う人が見た日本社会はこうだったねと言うみたいなところまで行けば、自分が目指しているところだと思います。

「小学校それは小さ社会」と言う作品が評価されるまですごく時間がかかりましたが、そもそも撮れるまで5年かかって、沢山の方々に協力していただいて、10年かかって公開まで行くことができました。 大変な苦労して作ったドキュメンタリーがなかなか評価されずにいたことに対しては色々と落ち込みました。 ドキュメンタリーはもう作るのはやめようかと思った事もありました。 世界の最高峰の所まで行ったと言う事は、自分を信じろと言うことを今回経験しました。 次回はより自分を信じる力と言うのも、そして評価と言うものがないとやっていけない世界でもあるので、違う物差しとして5年後10年後50年後100年後に評価されてもいいやと言うことを含めて思えるようになったと思います。

世に出て教育に対する議論が活発になったりとか、肩身の狭い先生が少しでも自信になったり勇気づけられたり、今後の教育の制度にも多少影響が与えられたような印象もありますが、そういうことを経験すると自分がやってきた事はとても意味があるものだと思います。 またより良いものを作ろうと言う気にはなります。

今興味のあるのは大人たちです。 新入社員と組織を仕切っている60代の人たちとは価値観が違うと思います。 わかりあえないところが出てきているかとは思いつつ、でも日本はまだまだ組織力とか力を合わせて何かを成し遂げると言うどこから向き合わないと、日本は世界では勝てないところもあると思います。 組織の中で何かに挑戦しながら時代の先を行こうとしている皆さんを撮りたいと思います。 今リサーチ中です。




2026年7月18日土曜日

五條良知(金峯山修験本宗管長)       山で祈る、里で祈る、ともに祈る

 五條良知(金峯山修験本宗管長)       山で祈る、里で祈る、ともに祈る

吉野山から大峰山にかけての一帯は金峯山と呼ばれ、古く飛鳥時代から聖なる地として崇められてきました。  世界遺産の本堂蔵王堂を中心に伽藍が広がる金山寺は、山岳修行を実践することで悟りを得る修験道の総本山です。 7世紀後半、遠役行者と呼ばれる役小角(えんのおづぬ)と言う人物が、金峯山で修業に励み、修験道を開きました。 自らも厳しい修行の数々を乗り越えてきた五さんは、今世界中の人が今同じ時刻に心を1つにして共に祈ることができれば、みんなの幸せへの大きな力になると考えています。さんに祈ることの意味を伺いました。

京都の綾部市で生まれました。昔は沢山の山伏がいました。 父親は若い頃から国鉄に職員として勤めていました。 近所に山伏の道場があり、お手伝いをしていたそうです。 その住職が亡くなって父親が後を継ぐことになりました。 私はそこで生まれ育ちました。 私は体の大変弱い子でした。 人生のことを考えるようになったのは、高校3年生の時に身近な人が亡くなったことでした。 電話が来たので、急いでその家に行きましたが、苦しいと言って私の腕の手の中で力が抜けてそこで亡くなってしまいました。父親と兄と3人でお葬式を営みました。 

兄の方から東京の仏教の大学へ行くように勧められました。 2年、生3年生のときにはお寺に入れていただいて、そこで勤めて大学に行っていました。  仏教に関する学問は教えてもらいましたが、私たちが手を合わせる仏さんと言うのは教えていただけないんです。 現場の人としての宗教、信仰とかそういうものはないなぁと強く感じました。 それがお坊さんになる原点となりました。 修験道と言うのは、私たちは世の中で修行することによって、自分の罪、汚れ、煩悩など払い落としていく、大いなる山、大自然を神様、仏様が住まうところ、聖地です。 自然の中で、神仏に包まれて、修行して山から出てくる、これが修験道の修行の仕方です。 仏教で言う悟りです。

役小角は1300年前に金剛蔵王大権現様を命がけで修業して祈りました。 三上ケ岳で一千日の修行したと言われています。 悪い悪い世の中で生きる人々までも救って欲しいということで祈られたそうです。 1000日目にお釈迦様、千手千眼観世菩薩様、弥勒菩薩様が約行者に現れます。 そのような優しい姿では、私のような悪い奴は言うことを聞かないので、もっと怖い方が欲しいと思われたようで、三上ケ岳1番高い所に岩倉があり、お釈迦様、千手千眼観世菩薩様、弥勒菩薩様が姿を変えて蔵王権現が現れた。蔵王権現とはお釈迦様、千手千眼観世菩薩様、弥勒菩薩様3体の仏が、悪を懲らしめる、怒りの表情で現れた姿と言われています。

私の蔵王堂には3体祀ってあって、中央にお釈迦様の仮の姿、右に千手千眼観世菩薩様の仮の姿になっていて、左が弥勒菩薩様の仮の姿になっている。 真ん中のお釈迦様が過去、右側の千手千眼観世菩薩様が現在、左側の弥勒様が未来。 過去、現在、未来を救ってやろうと言う請願のもとにお姿を示していただいています。 守ってあげる救ってあげると言うのも、現実に動いていくと言うのは私たちです。今をしっかり生きて、過去のこと、今のこと、未来のことを蔵王権現に預けつつ、自分のことをやらなければいけないことを頑張っていく。 

修験道の大事な修行の1つが大峰奥駈修行です。 山から山へおよそ170キロの道のりを 7日間かけて祈り歩く行で、毎年全国から修験者が集まります。 五條さんはこれまでに33回行いました。 当時60人ぐらいの人と一緒に歩くわけですけれども、自分のペースで歩けないし、人間関係などいろいろあり最初は嫌でした。 そのうち助けたり助けられたりして、皆さん揃ってお経もあげるし、厳しい中にも神仏に守られていると言う実感ができます。 

自分の命を生かされていると言うことも実感できるようになります。 達成感もありました。 一歩踏み外すと命を落とすようなところはいくつもありました。   ですので、自分と人のことを意識しないといけません。 自分だけの行であるけれども、自分だけの行ではない。 皆がいるから私も生かされている。そういったことが判ってきます。 山に入って肉離れをしたことがありました。 あるところで無理だと思って任せると言いましたら、大丈夫と言われました。 テーピングして歩いているうちに両方の足が紫色になってむくんだようになりました。 那智勝浦まで行って、お風呂に入って、吉野に帰るときにはその足は引いてきました。

自分だけの願いとか、願望とか、そういったものではなくて、自分が歩くことによって自分が良くなっていければ周りの方も良くなっていく位の大きな思いがあるんだろうと思います。 自分の生活とかをお山に入ることによって、生まれ変わるというか生きてることを気づかせていただいてくる、リセットしてくる。 それで1年頑張れる、自分の全てをさらけ出してねこそ、初めてできる修行が奥駈修行かもわかりません。 

大峯百日回峰行、金峯山寺蔵王堂から大峯山寺に至る険しい山道を1人で100日間往復する過酷な行です。 片道24キロあります。 これを100日間歩き続けると言う修行です。 奥駈修行は我を捨て一緒に修行しますが、回峰行の場合は1人ですから不思議と我も出てきます、雑念が出てきます。 昔のことを思い出しては笑ったり、嘆いたり、怒ったりします。 それにさいなまれます。 そのうち60日、70日すると気がつくと、知らぬ間に何も考えなくなります。 大自然、水の音、風の音聞いていたりするとすべてのことを受け入れ自分自身のことを受け入れて歩いてくやっぱり自分だけでは生きてないなぁと言うことがわかります。 下を見ると、昨日新しい木の芽、命があちこち目が行くようになります。 命を感じます。 命が生かされていると言う事は自分だけではない。だから、人のことをもっと祈っていきたいし、国のこと、外地のこと、自然のこと、人々のこと祈っていきたい。 

山で祈ると言う事は、神仏に包まれながら、自分は修行させてもらうとするならば、そこで1番神仏とつながるんです。ですからそれを大事に大事にしていかなくてはいけない。 参加してくれる人には山の行よりも里の行といいます。 普段のことが里の行です。 祈ることを忘れてしまった人は多いと思います。 日常の中でちょっと時間を作って祈る、お天道様に今日も1日よろしくお願いします、夕日を見ては先人たちは「南無阿弥陀仏」と祈ってきたと思います。 そういったことに感謝をしながら生きていける、それは祈りの根本だと思います。 山で神仏にまみえたその事は里で生活することで、自分だけではなしに、周りの人にも知らない人にまで、仏様に守られた功徳が届くほどに修行しなさいのというのが、山の修行の何よりも究極の姿だと思います。 里が日常とするならば、山が非日常となります。

様々な修行の先にたどり着いたのが、共に祈ると言う思いでした。 私が始めましたのは平成28年から3年間8000枚護摩焚きさせていただきました。24時間で8000枚の護摩木を炊き上げる行です。 その時には口に水も何も入れなく24時間行います。 フッとみんなで祈ろうと言うことを思いつきました。 場所はどこでもいいんですが、一緒に祈る時間を一緒にしてほしいというのが始まりです。 それをFacebookで中継しました。 すごい反響がありました。 宗教宗派を超えてそれぞれの方法で祈りましょうと言うことです。 祈りのつながりができていきます。 

自分だけの祈りと言うのは独善的です。 祈りは願望であって欲望でしかない。  もっと自分をさらけ出す中でみんな良くなれと言う風な心を持っていただきたい。人のことを祈る自分はずいぶん強くなれると思います。 そこにはよくもなければ何もない、仏様の慈悲の心が自分の心中にあるほど、こんな強い事はないです。  

1日のうちに1分でも2分でも人のことを良くなってほしいと祈れる自分がいたら、その時は良い自分になると思います。 そんなことが続けば自分の納得の祈りがあるので、祈りを思い出してほしいし続けられたらありがたいなと思います。   祈りを普通に持てる人の方がおおらかで幸せじゃないかと違いますか。 自分で幸せだと思う人が増えるほど良いように思います。  祈りを忘れたときには、自分勝手な方向にしか行かないと言うふうに私は思います。  命と言うものは自分だけのものではないので大事にしていく。 その真ん中には祈りがあってこそ、それに気づくし、祈りがあってこそその命が生きていくと言うふうに思います。


2026年7月17日金曜日

春日武彦(精神科医)            ・「自分と折り合いをつけて生きる」

 春日武彦(精神科医)        ・「自分と折り合いをつけて生きる」

春日さんは現在74歳、東京都立松沢病院、精神科部長を経て、東京足立区にある精神科の専門病院、成仁病院の名誉院長として、およそ40年にわたって人間の精神におき合ってます。 その一方で、精神医学や恐怖に関する心理など、人の心の根源的な謎に迫る著書を数多く執筆してます。 春日さんに伺いました。

今の時代の空気は、白黒、せっかちをつきすぎる時代、そのような気がします。 精神が健全である条件は3つあって、自分を客観的に眺めることができるかどうか 適切にSOSを発することができるかどうか。 一体どうなのか、不明瞭な事案と言うものに対して、じっくりと待つことができるかどうか。(白黒がつかない曖昧な状態。こういう風なものに耐えられるかどうか。)

自己肯定感があるかどうかですごく違ってきます。 あるいは成功体験の問題、まじないみたいなことで自分の子持ちを珠洲目る、宗教なども耐える装置として意味は結構大きいのではないかと思います。

「きれいごと抜きの対人援助術」と言う本を出版。 世の中どうにも解決のつけようのない困難なケースっていうのがあります。 そういうのをどういう風にすればいいかと言う風なテーマについて述べています。 白黒つけずに、じっくり立ち向かう、そういう風な方法論というのを書いたつもりです。 みんなで共有する、みんなで話し合って、責任を分散させると言うこともあるわけです。 周りの人間がある程度気持ちに余裕ができると、うまい具合にも物事は流れていきます。 

何かあると怒鳴ってしまうとか、やたらと無理な理屈を重ねていってねちねち進めるとか、SNSで悪口を広めるとかそういうやり方と言うのは繰り返すとどんどん自分で馴染んでいっちゃいますね。 慣れ親しんだパターンにはまりやすいです。  人間て、妙なところに自分らしさを見出しちゃうところがあります。  損ばっかりをする私とか、超不器用とか、誤解されがちとか、そのようなことも自分らしさとしてどうしても認識してしまう。

人間って変わりたいと思いつつも、実はあんまり変わりたくない、変わると言うのは相当に気合が入ります。  「見知らぬ仏よりも見知った鬼」と言う言葉があります。 鬼と言うのは悪いものだけれども、慣れ親しんだ鬼だとそっちの方が気が楽でいいやと言うことです。 精神科医と言うのは、病気を治すと言うよりは、むしろその人にとっての幸せは何かと言うことを考えることですね。 その人なりの幸せとはどういうものか、その辺のことに合わせて考えてった方が現実的ですと思います。

うつ病なども病院でいる間は周りも気を使いますが、うつ病が治ったらまた会社で頑張らないといけない。 良くなった後にすぐ第一線に戻れるかと言うと、微妙だったりすることがあります。  こっちとしてはまだ本気でちょっと戻りたくないんだなと言うふうに思ったりもします。 そういった微妙なところのやりとりが重要です。

最初産婦人科に行きましたが、外科系の方が派手だったので行きました。 私は患者さんの愚痴を聞く方でした。 ほとんど聞いてるような形でしたけれども、本当に感謝されまた。 6年間勤めた後、精神科のほうに移りました。 私の母親は美人で華のある人でした。 私は一人息子ですが、私もルックスとか雰囲気において母親にふさわしい存在感というのを持ちたいと思いましたが、それは努力では無理です。母親には認めて貰えていないのではないかと言う思い。(コンプレックス) 

 占い師のところに行ってぐちぐち言いましたが、意外とそれがすっきりすると言うふうになりました。 ある中年の女性の占い師のところで、ぐじゅぐじゅ言って、私は慢性の不安感っていうのが強くて、自分は物心ついてから、現在まで 1日たりとも不安でなかった日はないんですと言うふうに言ったら、その途端涙が出てきて嗚咽したと言うことがありました。 自分でもびっくりしました。 私は30年間泣いた事はありませんでした。 無防備で泣くと言うのは、結構気持ち良いものだと思いました。 

母親とのわだかまりについては、本2冊書いてみたけれども、わだかまりは溶けてはいませんが、自分で半分持て遊べると言う形にはなりました。(客観視できる。)精神科医が自分のことすら直せないのに、なんて、患者さんに手助けできるかと言うと、あえて言えば、他人事だからです。 患者さんの話で、俺の事はあんたなんかにわかってたまるかと言うことがありますが、その通りですと、でも2人一緒に揃って水に溺れたってだめでしょう、私は余裕のある立場にいられるからこそあなたに手助けできると言うことなんだと思いますといいます。 相手を理解すると言う事と一緒に遭難すると言うことを別です。 

折り合いをつけると言う事はどういうかことかと言うと、自分がある程度冷静に自分自身をモニターして、ただすべき事は正して、ときには苦笑を浮かべたり、泣き事を言いつ思考や感情の暴走は、不幸招き勝ちだとそういう風に心がける。  苦笑いとは苦々しくしく思いつつも、客観的に広い視野で今の状況を眺め渡して、さしあたっては笑を浮かべてやり過ごすということじゃないと思います。 苦笑いを浮かべると言う事は結構重要なことだと思います。

人の心と言うのは、アキレス腱というか弱点と言うのが3つに集約される。プライドこだわり、被害者意識

プライドでは、恥をかかされた、舐められた、軽く見られた。過敏になった劣等感がプライドの問題として吐出してくる。 こだわりは周り見えないとか切り替えができないとか、柔軟性に欠けてしまう。 被害者意識、 自分が悪いとは思いたくないが、人のせいにして、自分を守ると経験を人生に生かせないまま憎しみだけが蓄積していくと言うことになります。 自分の気持ちが穏やかでないと言うときにはこの3つのいずれかに引っかかっています。 それがわかれば客観性を担保することになります。秘訣は苦笑い。黒白つけずグラデーションあたりをさまよう。

今残酷さについて執筆しています。 自分は残酷ではないという風に振舞おうとしても、結果的には残酷さと言うものを呼び起こしてしまう。 そんなことはいくらでもあります。 残酷さと言うものもある程度いろいろ理解できなければ、世の中と折り合いがつかないわけです。


2026年7月5日日曜日

本間昭雄(社会福祉法人聖明福祉協会会長)  ・「失明がくれた幸せ」

本間昭雄(社会福祉法人聖明福祉協会会長)  ・「失明がくれた幸せ」 

本間家は代々医師の家系で、先祖は水戸藩の藩医をしていました。 本間さんは医師を目指して学業に励んでいた二十歳の時に不慮の事故により失明しました。  将来への不安で自暴自棄になっていた本間さんを救ったのは、祖父の遺言書に残されていた本間さんへの言葉だと言います。 1955年、26歳で聖明福祉協会を設立して以来、日本初の軽費盲老人ホームの設立、日本初の盲大学生奨学金制度の創設等、視覚障害者の福祉活動の向上に力を尽くしました。 70年余りの社会福祉の道のりと今思うことなどを伺いました。

山を切り開いて施設を順番に建てました。 1つは盲老人ホーム、養護老人ホーム、自分の事は自分でできる人たちが利用される施設で定員100名、目が見えなくて寝たきり状態になった介護の必要な方の施設が100名、目は見えるけれども、色々と障害ある方たちが利用される施設が 96名、この3つの施設を経営しています。  70年間この道一筋に歩んでくることができて、こんな幸せな人生はない。  私は失明したからこそ、この事業があるわけで、私自身があるわけだとそう思って感謝しています。

昭和4年生まれ、年齢は974ヶ月です。 スポーツの好きな活発な少年でした。  本間家は代々医者の家系で先祖は茨城県の水戸です。 徳川家の藩医をしていました。  400年ぐらい続いている医者の家系です。 医学部を受けて浪人中に風邪をひいて注射を右腕に打たれて、右腕橈骨神経麻痺を起こして、今でも右手は不自由です。 3ヶ月経っても動かないので、大きな整形外科で診てもらったら、すぐ手術をすると言うことになりました。 3回手術を行いました。 その結果両眼底に出血をして失明をすると言うことになりました。 20歳の春でどう生きたらいいか大変悩みました。心も沈んで、夢も希望も何も持てない自暴自棄になりました。 

祖父が私が2歳の時に遺言書を残してました。 書き出だしに「汝を最も生愛す。」と書いてありました。  医者として市民のために尽くしたこと、徳川家の多くの人命救ったということで「救」という名前が送られたこと、「汝の成るを待つ」と書いてありました。 最後には「人の一生は不平不満を去り、忍の一字を守るべし、孝は国の大事となり。」と書いてありました。  同じ失明の先輩に導かれて教会へも参りました。 GHQから日本には社会事業家の専門家を要請する学校を創設するようにと言うことで、できたのが社会事業学校(今の日本社会事業大学)です。(清瀬にある。)  

盲人として、初めて入学を認められました。 社会福祉の道に入っていきました。昭和30年に独立して在宅の資格障害者の家庭訪問とか、病院で失明を宣告された方々と一緒に点字を勉強したり、あんまマッサージなどを教える更生施設へ紹介したり、眼科検診を医師とともに回ったりしました。 福祉と言う言葉がなかった時代です。 聖明福祉協会と言う組織を作って、今日で言う在宅サービス、その先掛けを70年前に始めました。 良い家庭であるほど、座敷牢で外へ出したくない、そういった家族は私が行くことを最初を歓迎しなかった。 その後だんだんとわかってくれるようになりました。 

特に盲女子の場合には悲惨でした。 社会復帰して成功した女性もいます。 今の聖明園の歌の作詞をした内藤ふきえ?さん、満州から子供2人を連れて帰国、住むところもなく、福祉事務所から私のところに連絡がありました人です。 弱視でした。 その人に点字を教えて、あんまマッサージの資格を取得してもらって、台東区の病院で乳房マッサージということで成功しました。 家も1軒建て、子供2人を立派に育てあげました。 祖父が国会議員と言う家の女性が家に閉じ込められていて、学校にも通っていませんでした。 盲学校に入学させて飛び級で中学を終えて、鍼灸あんまマッサージの資格をとって、社会復帰をして立派に自立した人もいました。(4年生へ二十歳の時に入学)

いろいろな福祉の活動を始めて、聖明福祉協会を立ち上げたのは昭和30年です。(26歳)10年間は国の補助金もなく、学校などに鉛筆を売ったりして資金集めをしました。 封かん紙を作って買ってもらったりしました。 いろいろな人々に支えられて資金を作ることができました。 物事に当たるときに、いつも誠実に誠意を持って努力をすれば、必ず道は開けると思って、誠実に人に訴え、話をし続けてきました。 輪がどんどん広がっていきました。 人が支えてくださったから、今日があるわけです。 

青梅に土地を購入することになりましたが、道路を作るにあたって、地主の方が何人もいて説得することが大変でした。 ある大地主の方へ事情を説明したら寄付すると言っていただきました。 その方とはずっと今までものすごくご支援をいただくことになりました。 政界、財界でもすごい有力者だと言うことが後でわかりました。 誠実に誠意を持って努力すれば必ず道を開けると言う自信をこの時に持ちました。 社会事業家などと言うのは、物乞いと思われてたそんな時代でした。  それを切り開いて今日まで来ました。

17歳の時に親孝行できずに父親を亡くしてしまいました。 同じ老人ホームをやるのならば、自分と同じ失明の方々のために、父親に対する親不孝の穴埋めのためにもと思って、高齢者に対する施設を作ることを考えました。 お風呂に一緒に入って、その人たちの背中を流したりしていきました。 今ある施設は全室個室で、全室トイレ付き、全室に電話を入るようにしました。 自分が入りたいと思う施設でなければ、お客様にうちの施設へどうぞおはいり下さいと言う事は言える資格はないです。 昭和39年にできた我が国に最初に出来た施設です。

あっという間の70年間でした。 全部山だったのを1万坪をブルドーザーで整地して、3つの施設に300人のお年寄りが生活ができるような施設に成長して、よくこんな事業ができたなと思います 盲大学生のための奨学金制度は日本にありませんでしたが、盲大学生奨学金制度を創設して 200人以上の方がこの奨学金を活用して、大学教育を受けて、才能を持った方がたくさん排出されました。 「よくやりましたね」、と自分で自分に言い聞かせています。 

IT機器の科学技術の進歩によって目の見えない人にどれほど恩恵を受けているかわかりません。 まだまだ社会では失明者に対するあるいは障害者に対する理解はまだまだ充分ではないんじゃないかと思います。 60年間書いてきた日記を整理して伝記を作って生涯を終えたいと思います。(娘が書いてくれる。) 自分のためのPRではなくて、福祉を社会に知って欲しい、そういう悲愴な叫びとして伝記を期待して書いてもらおうと思っています。 いくつになっても夢と希望は失いたくない。そして目標を持つと言う事は大変大事ではないかと思います。

「志立てて歩みし七十年支えてくれし人ぞ尊し」  本間昭雄

2026年6月29日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)          ・絶望名言「マリリン・モンロー」

頭木弘樹(文学紹介者)          ・絶望名言「マリリン・モンロー」 

マリリン・モンローは192661日に生まれ、196285日に36歳で亡くなりました。 今年は生誕100年にあたります。

「一人ぼっち。 私は一人ぼっち。いつだって一人ぼっち。どうしようもなく。」  マリリン・モンロー (25歳頃の言葉、黒板手帳の1番最初のページに書いてあった。)

マリリン・モンローはアメリカの俳優で、映画の代表的な出演作には「ナイアガラ」「紳士は金髪が好き」「7年目の浮気」「お熱いのが好き」などがあります。

「私は今でも、自分が望まれて生まれた子ならいいのにと思うの。」 マリリン・モンロー

マリリン・モンローの母親は結婚していなかった。 モンローが生まれた後母親は働いていたので、知り合いの夫婦に赤ん坊を預ける。 祖母が赤ん坊のモンローの顔に枕をつけて殺そうとしてしまう。 結婚して生まれた子ではないと言うことが、宗教的に許せなかったらしい。 モンローは、自分の人生の中で、1番最初の記憶は「死にそうになって、昼寝から目を覚ましたことがあった。何かが顔に落ち付けられていたの。 枕かもしれない。必死でもがいわ。」

「誰も私のことを娘とは呼ばなかった。 誰も私を抱いてくれなかった。 キスをしてくれなかった。 誰1人クリスマスになると大きなツリーが飾られて、家中の子供がプレゼントをもらうのに、私にはなかった。 1人の子は私にオレンジをくれたわ。 あのクリスマスを覚えてる、1人きりでオレンジを食べたっけ。 元気を出すためによく空想空想したわ。でも他の子供が愛されてるように、愛される夢は見たことがなかった。 それは私にとってあまりにも大それた創造だったが。

その後、モンローは、児童養護施設に入れられる。その時のことを次のように語っている。 「どの子の親も死んでいった。 私には、少なくとも1人の親がいたわ。 でも私を欲していなかった。 他の子にそれを説明するのは、あまりにも恥ずかしかった。」

「楽しかったのは、映画に連れて行ってもらう時だけ映画が好きだった。 それだけが楽しみだったわ。 映画スターが私の友達だった。 その時だけ自由になれたの。」  それで、映画スターを目指した。

「私の肉体のあらゆる部分に押し寄せてくる恐怖、自分の体に触れる恐怖。」 マリリン・モンロー

マリリン・モンローは小さい時に40代位の男に性的虐待を受けた。(8 、9歳の頃)マリリンはこのことを母親に告げたが、母親は間借り人のその男の人柄を信じてたので、嘘だと思って、逆に娘を平手打ちしてしまう。 マリリンは被害者なのに、自分がいけないような罪悪感を抱いてしまう。 母親が体調不良で早引きして帰宅したときに、その男の部屋で裸の娘を見つけるわけです。 母親は激怒してナイフで襲いかかる。 その男は、救急車の中で母親は正気ではないと訴える。 母親も精神病院に入れられてしまう。

マリリン・モンローは、この性的虐待について、マイストーリーと言う自伝の中で公にしています。 大スターであるのに、大変な勇気。

ジョン・F・ケネディーの誕生祝賀会でマリリン・モンローが歌っている「ハッピーバースデーミスタープレジデント」と、いう曲

歌った2月半後にマリリン・モンローは36歳の若さで亡くなる。 自宅の寝室のベッドの上で、睡眠薬鎮痛剤の過剰摂取が原因と自殺の可能性が高いと言うのが、公式発表です。自殺説、他殺説あり。 ジョン・F・ケネディーも翌年、19631122日に暗殺される。

「私は今でも人に気に入られようとしたり、相手が聞きたいことを言おうとしたりしてしまう。それもまた恐怖心からなので。」 マリリン・モンロー

「人は、グループ内で、他と違うものを差別したがる。 私はグループの中でうまくやれた事は1度もない。 グループとは2人以上のこと。」

子供の頃の言葉として次のように書いてます。 「自分自身が冷たくされることに耐えながら、かつて私が持っていた感情は怒りではなく、拒否や気づけられることに無感覚になることで、そこで本当の愛の理想的なイメージを失ったの。 (無感覚になることで自分を守っていたんでしょうね。)

「私たちのほんの1部分が他の人たちの1部分に触れられるだけ、ある人の真実は、所詮はその人だけのもの。 私たちが分かち合えるのは他の人たちに受け入れてもらえるとわかっている部分だけ、だから多くの人は孤独。」

「どうして私はこんなに苦痛を感じるの。 それからどうして私は他の人たちよりも、つまらない人間だと感じるの。 いつだって、そう感じてきた人間未満のように。」 マリリン・モンロー

「人は私に会いたがるわ。 そんな今でも誰も見向きもしなかった頃を覚えている。 小さな下働き。ノーマ・ジーン 誰も母親でさえも見向きもしなかった。 あの日々を。」  ノーマ・ジーンと言うのは、マリリン・モンローの本名

「有名人であると言う事は幸せな気分になれるけども、それはほんの一時的なものね。 キャビアのようなもの。 キャビアはおいしいけど、毎日毎食となると。」

マリリンは人に優しく行いが立派だった。  エラ・フィッツジェラルドと言う黒人の歌手に出演できるように交渉し道が開けて行った。 人種隔離政策の時代に、白人のハリウッドスターが人種差別にはっきり反対を表明すると言う事、これはとっても珍しかったと言うことです。 彼女は自分のキャリアを危険にさらしてまで支援したと評価されている。

「私は時折、人間が本当にやり切れなくなる。 人は、私と同じように、誰しも皆問題を抱えることがわかっていても。」 マリリン・モンロー

「有名になると、人間の本性の生々しい部分にぶつかるの。 名声がある相手にはどんなことでも言っていいと、そんな特権が与えられた気になるみたい。」

「誰かと不幸せでいるより、1人で不幸せのほうがいいわ。 今までの経験から言えばね。」 マリリン・モンロー

マリリン・モンローは3回結婚して全て離婚しています。 最初は16歳の時、相手は21歳の青年。 2回目は27歳の時、相手は大リーグのスター選手ジョー・ディマジオ(モンローに仕事を辞めて家に入って欲しかったが、9ヶ月で離婚) 3回も30歳の時、相手は作家のアーサー・ミラーで5年後に離婚。 マリリン・モンローがなくなった時にも葬儀を取り切ったのはジョー・ディマジオでした。 その後彼はずっと独身を通をして、モンローの墓に週3回赤い薔薇を供え続けた。 84歳で亡くなったときには、やっとマリリンに会えると言った、とも伝えられてます。

「私も安定した関係を築けたらいいのに。 いつも帰る場所があって、いつも私がすることに関心を持ってくれて、辛い時も一緒に乗り越えてくれる。 お互いを支えるような関係、私は「死を2人をわかつまで。」という言葉が大好きだったの。 いつも最初はうまくいくように思えるけれど、その後で何かが起こる。 もしかしたらそれは私のせいなのかもしれない。」

マリリン・モンローの人生について調べていくと、当たり前とされていることがこの人の人生にはなかったんだなぁとすごく感じました。 (両親が揃ってる、子供の時に親から可愛がられるとか。)

多くの人が当たり前と思っていることほど、それが欠けている人にとっては辛いです。 当たり前が自分の手に入らない。

「私は幸せだったことがないから、幸せなのが当たり前だと思った事は1度もなかった。」  マリリン・モンロー





2026年6月27日土曜日

山崎エマ(ドキュメンタリー監督)     ・「当たり前の中にある価値を見直したい 前編」

山崎エマ(ドキュメンタリー監督)   ・「当たり前の中にある価値を見直したい 前編」

2025年第97回アカデミー賞、最優秀ドキュメンタリー短編映画賞にノミネートされた作品を製作された「小学校それは小さな社会」が国内外で反響を読んでいます。その作品を制作したドキュメンタリー監督山崎エマさんへのインタビューです。 山崎エマさんは、1989年イギリス人と日本人の母のもとに生まれ、大阪の公立小学校から中高は神戸のインターナショナルスクール、ニューヨークの大学卒業後、アメリカで映像の世界に入りました。 1回目の今夜は映画の内容や作品に込められた思い、ご自身の小学校から大学までの道のりをインタビューします。

「小学校それは小さな社会」と言うのは、ドキュメンタリー映画です。 都内の公立小学校を1年間、入ってくる1年生と出て行く6年生を中心に春夏秋冬を追ってく日常を撮ってるものです。 私の意向としてはこの6年間で日本の社会が作られるのではないかというか、ここで人間形成され、集団生活した人間たちが、いずれその後の社会出ていくので、社会に反映していくのではないかと思いながら、自分の小学校の経験もあるので、10年かけて作ったドキュメンタリー映画です。 2021年度1年間撮って約700時間ほどの映像を撮りました。(コロナ禍)

映画の主人公は人間ではなくて、学校の場所そのものと思ってました。 結果としてその中には生徒、教員12 、3名ほどの方々が出てきます。 中でも小学校1年生のシンバルの子と、6年生の縄跳びの男の子のストーリーなどがあります。 何かを作って、そこに向かっていく、できなかったことができると言う経験を積み重ねていく場所だと思います。 

世界に届く日本の姿はまだ限定的でアニメを通して文化発信されてると思いますが、自分が日本のことを考えたときに、もっといろいろあるなあと思いました。    6年間の小学校教育を通して日本の社会が見えてくるのではないかと思いました。日本では当たり前と思っていたことが結構すごいと言うようなことがあります。 掃除をする、給食の配膳をする、子供たちが自分たちで学校を作っていく、飼育委員、放送委員、行事を子供たちが主体となって、運動会や音楽会などをやってくこのこと自体が他の国から見ると驚きということです。 

自分たちの国と比べて考えるきっかけになったと言う部分が多かったと聞いています。日本の小学校の特徴としては、集団の中で役割があって、責任を持ってそれぞれやっていきましょうと言うことです。小さな社会で生きていく練習の場と言うのは私の見る日本の小学校やり方だと思います。 その結果は日本の社会に反映されていると思います。 小学校の6年生のなると日本人になってると言うふうに思います。 

フィンランドは教育大国ということで、今でも毎年のように日本から視察団が行きます。 特徴としては、個人の尊重、自由、子供たちの権利を多く渡すと言うことで有名になった国と言われています。 フィンランドの方としては個人主義に走りすぎたのではないかと言う意見が多くて、自分たちの事しか考えないと言う子供は増えてきている。 その中でこの映画を見ると、コミュニティーの一員としてどうあるべきかを考える教育だと、集団の中で自分の役割を貢献する、自分の役割を果たすと言うようなベースがあるシステムと捉えています。 

父がイギリス人で、母は日本人のハーフと言われていますが、中高はインターナショナルスクールで勉強しました。 その後は映画監督になりたいということで、大学はアメリカのニューヨークに留学して勉強しました。 その後10年位余ニューョークで過ごしました。 自分では普通の仕事をしてるつもりが凄くがんばりましたとか、責任感がある、時間にも遅れない、周りも配慮がある、自己中心的ではないと言うなことを言われました。 でも日本人だけですけどもと言うふうに気持ちが生まれました。 自分はどうしてこういう人間になったんだろうと言う振り返るきっかけにもなりました。 小学校の6年間で学んだ。ちょっとしていろんなことを学んだとが自分の強さとなって得をしたなと言うふうに思いました。 

日本のことを知りたいならば、小学校教育が大事だと思いました。 1人では生きていけない社会で、日本の中で日本のやり方は強さがたくさんある、これは海外の人にも気づいてもらえるのではないかと思いました。 公立小学校を丸々撮りたいと思いました。 5年ぐらいかけて参加してましたが見つかりませんでした。 結局世田谷区の小学校に了解を得ることができました。 

その小学校は基本的にはごく普通の小学校ですが、当時の校長先生が特別活動(勉強い以外の事)に力を入れている方でした。 基本的には私とカメラマンの方と音声の方と3人で1年間挑みました。 撮影時間は700時間ですが、撮影してない時間の方が多く、準備期間、編集期間を含めて約4000時間学校にいました。 学校では200日ぐらいは1年間ありますが、そのうちの150日間ぐらいは学校にはいきました。 なるべく自然な姿を撮ることにして、完成された作品は700時間から99分に編集しました。

先生方も大変で、社会からの求められすぎで、そういう姿を見つつ、先生方もまた人間だと言うことを感じました。 子供たちの成長を期待して導いて、成長をすれば喜んでくれたりしています。 悩んだり喜んだり苦しんだりする姿を入れたいと思ったのもそこで感じた部分が強かったからと思います。 

父も母も祖父母も全員生生でした。 やはり小さい頃から教育が人を作るし、教育が未来を作っていくと言う感覚がありました。 母は日本人父がイギリス人で、母とは日本語、父とは英語、両親の間では英語と言う形です。 中学高校はインターナチュラルスクールに行きましたが英語でした。 小学校の時は行事等いろいろやっていましたが、行事などには力を入れてませんで、周りからは個性がないと言われました。 私って何なんだろうと考え始めました。 映像との出会いは中学校2年生の時でした。 これにハマってしまいました。 小学校の頃にイチローさんの本の影響受けて、小さい頃から努力を重ねて大きな夢を持てば、夢は叶うみたいな人生のシンプルな考え方の本に感銘を受けました。 映像制作に対して、映画監督になりたいと言う夢を持ちました。

自分が感じたことを伝えたいと言う思いがあり、映像であるならば一生飽きないんではないかと思いました。 映像を学びたいと思って、大学はニューヨークに行きました。 20代の大半をニューヨークで過ごしました。 私は何者なんだと言うことを経験して自分は日本人なのか、イギリス人なのか、アメリカ人なのかどれかを選ばなきゃいけないと言うふうに思い始めて選びきれず悩みました。 至った結論は、何人とか選ばなくてもいいと、全部自分のものだし、環境によって変わるのはどんな人でもなると言うことで吹っ切れていきました。 

日本の小学校教育も日本社会も良い所と悪いところは隣り合わせ、表裏一体というかありますが、何事も度すぎるとダメだと思います。 この作品を見て思っている小学校教育全般の意見、自身の経験を反映して、掛け算にして感想を持つような作品だと思います。  小学校批判、教育批判はいろんな人たちが声を出して改善もされつつあると思いますが、足りてないのは当たり前すぎて、何もすごいと思わないところに気づくことだと思いました。 作品を見ていろいろ感じるように作ったと言う方が作品が広がる。 作品を後は、いろんな方法でこの作品を活用してほしいと思います。




2026年6月20日土曜日

「明日への言葉」投稿累計総数 5000回(秋田 宏)

 「明日への言葉」投稿累計総数 5000回(秋田 宏)

投稿累計総数 5000回を迎える事になりました。

年数で15年余りになります。

こうして続けられてきたのも、大きな病気、事故などもなく過ごしてこられたものが第一に挙げられます。 そのほかにもKさんからの校正やほかの方々からの応援もあり、感謝しています。

1年前ぐらいから長くパソコン画面を見るのが辛くなってきて、なんとか今日に至りましたが、最近はよりつらくなってきて不本意ではありますが、一旦5000回と言う切れ目のいい数字でほぼ毎日続けてきたものは終了させていただきます。  この先、きっぱりやめてしまうのか、それともたまにはより興味を引くような内容については投稿をしてみるかは、一休みして考えたいと思います。

「明日への言葉」のブログをご覧いただいた方々には申し訳ないとは思いますが、ご了解ください。

ありがとうございました。


中田達也(神戸大学大学院国際海事研究センター准教授)・神話の海に沈んだ村を探す

 中田達也(神戸大学大学院国際海事研究センター准教授)・神話の海に沈んだ村を探す(累計投稿数:5000)

兵庫県淡路島の南端、南淡路市灘地区の沖に沼島がありますが、このすぐ西側にかつて半島が延び、白石村と言う村があったと伝えられています。 この白石村は、室町時代による大地震の津波のため半島ごと水没をしたとされていますが、本格的な調査はこれまで行われた事はありません。 海底の鉱物を調査する中で、水中の文化遺産と出会ってきた中田さんが、水中ドローンなどを使って独自に調査を始めました。 調査の大きなポイントは神話。

天より使わされたイザナギ、イザナミが天の沼矛(ぬぼこ)で、大海原を掻き回すと、その矛から滴り落ちる雫が、おのずと凝り固まって島となり、日本最初の国土オノゴロ島(古事記』では淤能碁呂島(おのごろじま)、『日本書紀』では磤馭慮島(おのころじま))が生まれ、この島に降り立ったイザナギ、イザナミが次に淡路島を作り、さらに日本の大八島を作ったとされています。 いわゆる国生み神話です。 オノゴロ島は沼島であると言う説があり、中田さんは沼島のすぐ近くにあったとされる白石村は、神話の世界と実際の歴史をつなぐ存在になるのではないかと考えています。 白石村の存在を明らかにすることの意義、また水中文化遺産の調査と保全の実際についてお話を伺いました。

私は白石村はあったと思っています。 1498年に明応の南海地震がありました。  その地震によって生じた津波によって水没したと言う明確な記録が残っています。沈んだのは2年後と記録に残ってます。 古地図に破線と言う形で実際に描かれ、そして郷土史等にも書かれています。  考古学による物証が必要であるかと思います。

私はもともとは海底鉱物資源の国際的規制と言う研究をしていた研究者です。  海においても海底採掘をしていけば、沈没船や遺物も見つかるとなっていくだろうと言うことで、海底鉱物資源の採掘について研究を深めようと言うことで、沈没船やその積み荷にたどり着いたということです。

兵庫県チームの1人の高校生、滝口翔太郎君が「幻の白石村」と言う発表をしました。 それがきっかけとなりました。 地元では漁業者の言い伝え、あるいはもう廃校になってしまいましたが、義務教育の学校がありまして、学芸会等でオノゴロ島と言う台本が書かれて、それを毎年のように演じると言う伝え方をしていました。 

「白石村」を二つの言葉「白石」と「村」に分けたいと思います。 「白石」は弓弦羽神社に行って宮司に話を聞いたところ、今も弓弦羽神社には小さな壁でかこまれたところに白い石がいっぱい敷き詰められていて、ここは聖なる場所だと言われました。 この石は白石村があった場所から拾い上げられた非常に貴重で、かつ聖なる石だと言われました。 オノゴロ島ということで日本の生まれた場所だと言うことでした。 国生み神話の元になった島。 三重県にある生田神社にも、イザナミ、イザナギをご神体とするその神社の中にも、同じような白い石が飾られています。

白石は地層にあると言うわけではなくて、たくさんのものを持ってきて、そこに置いていたものをその残滓と言うように説明していました。 弓弦羽神社はかつては道なき道で、どれだけ運ぶのは大変だことだったかと思われます。 「村」であると言う事は共同体であるはずです。 津波によって沈んだとしても、生活痕や茶碗の1部でも見つかってくれれば、複数の家族がいたであろう1つの類推のきっかけにもなります。

水中ドローンでの調査を行いました。 石畳と言うようなものとか、明確な人工的な凹凸と思われる場所がありました。 それ以外は見つかりませんでした。    もし台所の茶碗とか生活痕のものが見つかれば色々と広がっていくものと思います。 調査は水中考古学と言う分野に属しますが、陸と違ってものすごく費用がかかります。 確実にそこにあるかがわからないと国からの費用は出ません。 元寇で4500隻の船が来たと言われていますが、最初に文化財保護の適用が法的に認められるまでに5,6年、船が一隻見つかるまでに30年かかっています。 35年かけてようやく国の史跡になりました。 白石村も相当するものがあると思います。    学術的調査の段階に来ているなと思います。

もし白石村が実際にあったと確認された場合には、他の遺跡と1番異なるところはオノゴロ島の近くであると言うことに他なりません。 神話の元祖となり、天変地異、災害との関わりもある。 オノゴロ島の近くという意味も含めて、白石村の調査は、日本の今後の水中遺跡の発展のためにも、不可避の事業だと思ってます。 

単に考古学にとどまらず、そこに残されたものから、防災への未来への新たな知見を得られる可能性があります。 それと同時に、オノゴロ島の1段階上に移行するための論拠作りと、我々のアイデンティティーを見つめ直す意味で、この白石村は着目するに値するということだと思います。 私は別途、国際協同研究と言う科学研究の代表もやってまして、イギリス、アメリカ、フィリピン、タイ、東チモール、ベトナムの6カ国の代表者をしています。 その人たちを案内するのにどこが1番喜ぶかと考えて、予備知識の勉強した後、オノゴロ島へ連れて行きました。     大変喜んでくれました。





2026年6月19日金曜日

ピーター・バラカン(ブロードキャスター)  ・「“伝える”を続ける理由」

 ピーター・バラカン(ブロードキャスター)  ・「“伝える”を続ける理由」

ピーター・バラカンさんは、1951年イギリスロンドン生まれ。 ロンドン大学の日本学科卒業した翌年、1974年に来日しました。 音楽出版社での勤務を経て、1980年代からラジオ番組などに出演、ヒットチャートにとらわれない独自の目線で選曲した世界各国の楽曲を紹介し続けています。 一方、日本の文化を海外に向けて英語で紹介する番組、「Japanology Plus」(ジャパノロジー・プラスの司会も長年担当しています。 日本と国際社会の架け橋となった功績によって、2021年度日本放送協会放送文化賞を受賞しました。 40年以上自分の言葉で伝え続けている理由は何なのか、ピーター・バラカンさんからお話をお聞きします。

74歳です。 日本での生活は半世紀以上になります。 NHK FMでやっている「ウィークエンドサンシャイン」は1999年からです。(28年目) 選曲についてはまず自分で聞きたいものを選んでいます。 純粋に音楽として紹介したいものかどうかと言うおぼろげな基準です。 インプットとしては、インターネットの時代なので、これが多いですが、イギリスの音楽の月刊雑誌の定期購読はずっと続けています。 そのほかいろいろな情報源があります。 紹介しきれない、いっぱいかけたいものが沢山あります。 

始めた頃は台本がありましたけれども、今は全くないです。 ですから、時間管理が難しいです。 久しぶりにテレビで音楽番組をやることになりました。(3ヶ月間) 映像とともに紹介できるのは3曲となります。 厳選して紹介します。 局の方で映像を見つけてくれます。

1951年生まれで、テレビを購入したのは1956年でした。(5歳) 1962年位からヒットチャートのカウントダウン番組はありそれを聞いていました。(ビートルズが出てくる直前)  中学から高校1年にかけて、それがラジオ体験として1番貴重な時期だったのかもしれません。 

日本に来るきっかけは求人広告です。 日本の音楽社が募集している広告があり、応募しました。 ロンドンで面接がありました。 1974年に日本に来ました。(23歳) 私は比較的順応性はありました。 音楽出版社の国際部で、海外の会社にビジネスレターを英語で書く仕事をしていました。 会社は120名位いました。  1980年にイエロー・マジック・オーケストラ(細野晴臣、高橋幸宏坂本龍一の3人で結成)YMOマネジメント会社に転職します。 彼らの楽曲の著作権を海外に紹介したいと思って、それまでやっていた海外の曲を紹介することと、逆のことをパターンの仕事をつもりで入りました。 日本語も英語もできると言うことで、発音のお手伝いとか歌詞を作るときのお手伝いを英語の知識が必要な仕事は僕のところに回ってきました。 

YMO1983年に解散(散開)しましたが、坂本龍一と矢野顕子の活動に関係した仕事を86年まで続けました。 ラジオ番組を途中化一人で担当するような形になりました。  音楽番組は当時収録が多かったです  当時、FM雑誌がいくつもあり2週間ごとに出ていました。 それで番組の内容が全部1ヵ月前に決まっていました。 私が初めてNHKFM番組を担当したのが、1986年だったと思います。 リスナーに対して古い情報を伝えたくないと言うことで、事後報告と言う形で新しい扱いをするようになりました。 FM電波の規制緩和がその頃からありました。 新しい曲ができたときに、生ワイド番組と言うのが多くなりました。 たちまちFM誌の存在の意味がなくなりました。 

ある人から「空想の力が大きい。」と言われました。 自分が目指したいもの、行きたい方向とかを頭の中ではっきりと想像して、頭の片隅にその空想を置いておくと、自分の潜在意識にそれが入って、おのずとその方向にチャンスがあれば向くものと言うそのようなことを言われました。 チャンスが巡ってきたときに、それを掴みやすいように空想しておくと言うことが大事かと思います。 

1960年代のロンドンは、凄まじい若者のエネルギーが集中していた時期でした。 そこにどっぷりつかりました。 それはラッキーなことでした。 「使わなければ失う。」と言う言葉がありますが、使わない筋肉が退化して、脳も同様です。    新聞、雑誌、本などを読むことも大事だと思っています。 新しい音楽も聴いているし、映画も好きです。 そういう好奇心が変わらないです。 ラジオが1番好きです。(ラジオは無限に音源がある。)


2026年6月18日木曜日

山中しのぶ(自身が認知症・介護施設運営者) ・「ありのままに生きる」

山中しのぶ(自身が認知症・介護施設運営者) ・「ありのままに生きる」 

山中さんは201942歳の時に、若年性アルツハイマー型認知症と診断されました。 子供3人を抱え一家の大黒柱として働いていた時で、家族の将来を思い途方に暮れたいいます。 そんな中、同じように認知症と診断されながら、生き生きと暮らす先輩たちに出会い、少しずつ自身の病を受けることができました。 今では高知県内2箇所で介護施設を運営する一方、講演会などで自身の体験や学びを伝え、認知症への理解を広く訴えています。

認知症ケア学会に参加するために上京しました。 当事者の視点から認知症の理解を考えると言うテーマのシンポジウムで発言しています。 令和4年から高知県の希望大使に委嘱されました。 ADIと言って世界アルツファイマー病協会があります。 そこの国際本人委員としても参加させていただいてます。 今年はリオに行ってきました。(もとは携帯電話の販売会社で営業担当をしていた。)

若年性認知症と認定されたのは2019年です。 3、4年前から時間の間隔のずれというのが結構ありました。 覚えにくなったと言う感覚もありました。 その前に近所の精神外科に行ったら、正式な診断名はわからなかったんですが、チラシをもらって「認知症と共に生きる」と言うもので、22点境界線と書かれていました。   なかなか理解できない状態が3,4年続きました。 若年性アルツハイマー病の主人公のドラマを見て、自分もこれだと確信しました。 そして、若年性アルスファイバー病と診断されました。 

仕事を続く上で、同じ部署だけには理由を説明して仕事を続けていきました。   1年半ぐらい家に引きこもった時期もありました。 ある本の影響で、いつかは自分もオープンにしたいと思って会社を退職することにしました。(20216月)   東京都の希望大使をしている佐藤美樹?さんが働いているDAYSBL Gと言うところに見学に行きました。 社会参加型デイサービスでした。 チラシをポストに投函する仕事をしていました。 そこで人と人との関係性に関銘を受けました。 こんな施設を作りたいと思いました。 

翌年の4月には法人を設立していました。  人の命を預かることになるので、制度、生活とかいろいろな申請とか一生懸命勉強しました。 20224月に「セカンドストーリー」と言う法人をつくりました。 感動した「ストーリー」と言う歌から名前を付けました。 デイサービス「はっぴー」も歌の中から取り入れました。 自動車販売の洗車をしたりする中で、仕事の枠も増えていきました。マンションの清掃もしてます。 働くと言うこともありますが、みんなと会えるとか、いろんな話ができるとか、そういうことが働くより先に大事なんじゃないかなと気づきました。 2024年の暮れぐらいからいろんな検査をして、レビー小体型認知症(レビー小体と呼ばれるたんぱく質が脳に蓄積されることで脳の神経細胞が減少し、認知症の症状を発症 幻視など、ないものが見える症状​・幻聴などもある。)と診断されました。

デイサービス「はっぴー」は2店舗になり、2店舗目拡大のために引っ越ししています。長男は不動産お仕事をしているので移転の為の手伝いをしてもらいました。 次男は次男は介護職員と一緒に働いています。 私の中の家族という言葉は、血縁関係だけの家族ではなくて、大きな意味での家族、エネルギーのことです。   

進行していくのではないかと言う不安はありますが、先の見えない不安で悩むよりも、今日楽しいことをやって、今日1日精一杯生きようと思っています。  認知症になってからもやりたい事は実現できるし、今までの生活も続けることができます。 それは1人では難しいかもしれませんが、仲間や家族、相談できる人などを今から作っていってもらいたいなと思います。  地域のご本人さんと一緒に居場所を作ったり、思いを聞いて、アクションを一緒に起こしていって欲しいなと思います。


2026年6月17日水曜日

屋鋪要(元プロ野球選手・少年少女野球指導者)・「人生、ノーサインで走り抜け~韋駄天・屋鋪要の生きる術」

 屋鋪要(元プロ野球選手・少年少女野球指導者)・「人生、ノーサインで走り抜け~韋駄天・屋鋪要の生きる術」

 屋鋪さんは、プロ野球横浜大洋ホエールズ時代に俊足の3人の名前を連ねたスーパーカートリオの一角として、ベンチからのサインをまたないノーサインの走塁で3年連続の盗塁王を獲得。 さらにゴールデングラブ賞5回に輝いた守備では、移籍先の長嶋ジャイアンツの優勝につながるファインプレーでも知られています。    子供の頃から大の鉄道フアンであった屋鋪さんは、プロ野球引退後は、子供たちへの野球教室を続けながら、鉄道文化人としても活躍しています。 さらやに知人から株を譲られたことがきっかけで始めた、ラベンダー栽培がカルチャー教室でも指導を行うようなになっています。 自らの観察眼と直感そして勇気で67歳の今なお走り続ける屋鋪さんにそのノーサイン人生を伺います。

子供たちへの野球教室を月、火、水と別の場所でやっていますが、50人ぐらい教えています。 鉄道の写真集は2冊出しました。 鉄道の車両の模型も作っています。レール幅が9ミリで150分の1位です。 野球ではスーパーカートリオと呼ばれていて、横浜時代、1番、2番、3番、1番が高木豊さん、2番が加藤博一さん3番が私です。 それまでは6番とか7番でしたが、近藤監督から言われて、いきなり3番を打つ立場になりました。昭和60年のシーズンから走りまくります。 失敗してもいいからとにかく走れと言われました。 盗塁って意外と難しくて、私の成功率は7割5分位です。 赤星君は8割以上でした。3人とも塁に出て3人とも失敗したことがありました。 盗塁の要点は①スタート②スピード③スライディングです。 私が1番大切だと思うのはスタートを切る勇気だと思います。 

少年時代から自由奔放に生きていました。 両親は細かいことを言いませんでした。 ただしつけが厳しかったです。 遊び呆けていても勉強をしなさいと言う事は1回も言いませんでした。  8歳から12歳までは、兵庫加川川西に住みました。    いろんな動物を飼いました。(蛇などを含めて) マムシも飼って指を噛まれたことがあり、血清がなく血を絞り出してもらいました。 

1985年スーパースーパーカートリオで前年が11個の盗塁だったのが一気に58個になりました。  翌年から3年連続盗塁王になりました。 ゴールデングラブ賞も5回取りました。 1994年巨人に移った後、巨人対西武の日本シリーズで9回にファインプレイがありました。  10で守り切りました。 長嶋監督からはあのプレイが日本シリーズの流れを変えたと言って下さいました。 貢献できたので、人生であの年は忘れられません。

*「大空の大地の中で」  歌:松山千春

大自然のある北海道は大好きです。 11歳の時に蒸気機関車が大好きになり、私の影響で父も蒸気機関車が好きになりました。 それで夏に北海道行くことになりました。 蒸気機関車の荒々しさに魅了されたと思います。  2006年から写真を撮り始めましたが、その頃600両以上ありました。 昔の模型はもう少し大きくて80分の1位の大きさで、それは高価でした。 Nゲージ(150分の1のタイプ)が普及し始めて60年位です。 引退後鉄道の趣味に戻ってしばらくしてから模型を作成するようになりました。 模型のセットが100個ぐらいあります。

野球は小学校4年生からやりましたし、野球が根幹です。 野球をやることで学ぶべきことがいっぱいあります。 野球がうまくなることに越した事は無いんですが、野球をやることで学ぶべき事がいっぱいあります。  例えば礼儀作法とか私の指導をしたことを考える。 我慢も人生にとっては大切なことだと思います。 野球の楽しみは打つことです。 打球が飛んでいくと気持ちいいです。 子供たちにはボールを真っ芯で捉えるような指導をしたいです。 2010年の後半位から山野草の植物を育て始めました。 2019年に友人からラベンダーの苗を譲ってもらいましたが、失敗しました。 翌年からコロナ禍の中、熱中しました。 今、2カ所で50株ぐらい育てています。  関東地区では、夏の暑さでほとんど枯れてしまって難しいです。


2026年6月16日火曜日

三輪主彦(大人のための科学塾主宰)     ・「東京にも富士がある」

三輪主彦(大人のための科学塾主宰)     ・「東京にも富士がある」 

71日の富士山の山開きの日が近づいてきました。 富士山に1度は登りたい、でも体力に自信がない、混雑が気になる入山料もかかるなどと諦めている方がいらっしゃるのではないでしょうか。 実は東京都内にも気軽に登れる富士山がいくつかあるといいます。 一体どんな富士山なのか若い頃はヒマラヤのカラコルム山脈の山などに挑戦し、高校の教諭を退職してからは、東京の富士山巡りを続けている三輪主彦さんに案内してもらいます。

都立高校30年ほどやっていました。 毎日走って学校に行ってました。  理科の先生でした。  研修で海外にも行きました。  大学では山岳部にいたので、1986年にヒマラヤのカラコルムに行きました。 6000メーター位のところで引き返さざるを得なくなり、カラチと言う乾燥地域に行きましたが、そこは意外と面白く乾燥地域回るようになりました。  1978年から79年にかけてトルコのアンカラ大学に留学して、火山の研究をしました。 戒厳令で大学には行けなくて、トルコをバスで回りました。 

宮本常一先生の主催している日本観光文化研究所に出入りさせてもらっていました。  旅の文化を研究するところでした。 地球環境問題に触発され、マングローブを植えることに参加して、湾岸、ミャンマー、ベトナム、エクアドルにも行きました。 1979年から地平線会議第1回目の報告があり、その報告会は現在まで続いてます。カナダに旅行に行った時に、走って旅をすることに出会い、その後続けています。東海自然歩道と言うのは1200キロあって、高尾山から箕面まで30数日間かけて行きました。 四国遍路も1200キロありますが、そこも走って行きました。

生徒と接していて科学離れと言うことを感じて、大人に理解してもらいたいと思って、定年前に辞めて大人のための科学塾を開こうと思いました。 最初は、宇宙の話とか、地球のマントルの話をしてましたが、実践が伴わないので化石川巡り(昔は流れていたけれども、現在は流れていない川)をしました。 次に山巡りを考えました。 品川神社のところに結構大きな山があって富士塚と言うとこでした。  東京には実は富士山がたくさんあります。 江戸時代に富士講と言うものがありました。 富士山は女人禁制でした。 ミニ富士を作ろうと言うことになり、高田馬場に初めての富士塚ができました。 

富士講の代表の人が富士山に行った帰りに溶岩を持ってきて、富士塚に貼り付けるわけです。 女子供もその富士塚に登れば富士山に登ったと、同じご利益が得られるということです。 昔からのものは3つしか残っていません。 上野の小野照崎神社にある富士山が重要文化財として残ってます。(下谷坂本富士)  西武線の江古田駅の前ある江古田富士、東長崎駅のそばに長崎富士、あるいは高松富士と言われる富士、 十条富士と言うのはあります。 東京の中では1番縁日のすごいところです。 山開きに合わせてやります。 

現在都内には77ぐらいあります。 明治の時に廃仏毀釈があり、仏教系のものは全部取り壊してしまいました。 富士講を仏教の1派でということで壊されてしまいました。 神道であると言うことで生き延びるために鳥居を立てるわけです。 明大前と言う駅のそばに松原富士と言う富士山があります。 江戸にはかつては800から1000があったと言われてます。 江戸川区には14の富士が残っています。 めぐると10キロメーターあります。

富士講はみんな仲良くしようと言うのが1つ登拝いろいろ考えながら、自分の体を鍛えながら登るというのがあります。 江戸の七富士は公式には残っていません。下谷坂本富士、品川富士、江古田富士、千駄ヶ谷富士、十条富士、音羽富士、長崎富士、重要文化財が3つ入ってます  現在は無いんですが、江戸の広重が描いた名所江戸百景と言う浮世絵のシリーズがあります。 その中に富士が二つ描いてあります、目黒元富士目黒新富士。 中目黒の駅から目黒川を渡って、代官山に出るちょっと前に大きなマンションがあって、その脇に目黒富士跡と書いてあります。そこにあったと思われます。

8月の末に山終いと言うのがあります。 富士吉田の火祭りがあります。 それに合わせて富士塚でも火祭りをするところがあります。 清瀬中里富士があって、火の花祭りというのをやっています。 大きな松明を燃やします。(91日に実施)  みんな仲良くしよう、男女平等、畏敬の念を持って山に登ろうとか、そういう精神は残していかなければいけないと思います。






2026年6月15日月曜日

高橋克実(俳優)              ・師匠を語る「演出家実栗山民也を語る」

 高橋克実(俳優)          ・師匠を語る「演出家・栗山民也を語る」

映画やテレビ、そして舞台で活躍する高橋克実さんが師と仰ぐのは、舞台、演出の第一人者栗山民也さんです。 演出家栗山民也さんと俳優高橋克実さんの師弟関係を伺いました。

映画、ドラマに憧れてこういう世界に入りましたけれども、舞台と言う魅力と言うものがわからないでやり始めていました。 栗山さんと仕事をするようになってそう思いました。

栗山民也さんは、1953年東京町田市で生まれます。 早稲田大学文学部演劇学科卒業後、小沢昭一さんが主宰する芸能座に所属。その後演出家の木村光一さんに師事して、1980年「ゴドーを待ちながら」で、演出家としてデビューしました。 文化庁派遣在外研修員として、イギリスのナショナルシアターでの研修を経て、1996年「ゲットー」の演出で紀伊国屋演劇賞、芸術選奨新人賞などを受賞、演出化としての評価を不動のものとします。 2000年には新国立劇場演劇部門芸術監督に就任、監督就任後、目玉となった作品を井上さんに依頼します。 これが「東京裁判三部作」です。  第1部「夢の裂け目」第二部「夢の涙」そして第三部「夢のかさぶた」これで完結する「東京裁判三部作」です。 また芸術監督を7年間勤める一方で、新国立劇場演劇研修所の初代所長として、高い水準の演劇教育体制を確立しました。 2013年の紫綬褒章に続いて2023年には旭日小綬章を受賞。さらに今年第82回日本芸術院賞恩賜賞を受賞、活躍観続いています。

私の初主演作は2008NHKテレビドラマ「フルスイング」大河ドラマでは、「龍馬伝」など数々のNHKのドラマに出演しています。 最近では連続テレビ小説「虎に翼」で演じた、新潟県三条市の杉田太郎役、新潟県三条市は私の出身地です。  最初は劇団に憧れて入りました。 劇団離風霊船に入団。 劇団主宰・大橋泰彦の作・演出作品の「ゴジラ」にモスラ役で出演、新進劇作家の登竜門と言われる岸田國士戯曲賞を受賞しました。

栗山さんを一言で言うと、初めて会ったプロの演出家です。  「メディスンの薬」?の稽古の時にサンダル履きで行った覚えがあります。 ジャージに裸足で行きましたが、靴の紐を結ぶというト書きに書いてあることが出来ずに、栗山さんから注意を受けました。 以後稽古への向き合い方が変わりました。 20代から30代に所属した 劇団離風霊船「ゴジラ」で岸田國士戯曲賞を受賞。(1998年 27歳) その時には、栗山さん自身のことも岸田國士戯曲賞がすごいっていうことについてもあまり知りませんでした

ミュージカル「阿国(おくに)」の初演が1990年で栗山さんの演出でした。    観客として初めて見に行きました。 木の実ナナさんが主演。 当時、日本のミュージカルが人気のあると言うものではありませんでしたが、力強さエネルギーを感じました。 「東京裁判三部作」の第一部の「夢の裂け目」が2001年、第二部「夢の涙」が2003年、2006年が第三部「夢のかさぶた」これに出演しました。     栗山さんとは1番距離が縮んだ時でした。 この三部作は自分にとってはターニングポイントとなりました。 井上さんの本と栗山さんは相性が良かったんだと思います。 

それほど面白くない所でも栗山さんがやると面白くなるんです。 女優さんの仕草とかを女優さんよりも上手に栗山さんはやります、やってみせる。  栗山さんは、稽古場のときの仕事の場とそうじゃない時では全然リラックス感が違っていました。  2023年に栗山さん演出の「海をゆく者」にしました。 翌年第31回読売演劇大賞優秀男優賞を受賞しました。 海をゆく者」は、僕は初演も再演も見ていて、ものすごく面白かったです。 

初演、再演は、吉田鋼太郎さんが演じた役を3回目の演出では、私のほうに栗山さんからオファーが来ました。 ものすごい大変な役なので、逃げたかったです。 どうなるかなと思いながらやることになりました。  苦労した甲斐があって、第31回読売演劇大賞優秀男優賞を受賞することになりました。 栗山さんとの出会いは、1992年の「メディスンの薬」?から、今回の「花よりタンゴ」で34年の師弟関係になります。 教えとしては、言葉と言うよりは、栗山さんの姿勢だと思います。 12ヶ月ずっとここ何十年と演出し続けていてすごい本数だと思います。     常に演出の事しか考えてないんです。 生きるという事は、演出そのものなのです。

栗山さんへの手紙

「・・・今日もどこかで大好きな演出をされていることでしょう。 誰よりも早く稽古場に来て、終わると颯爽と風のように去っていく。 112ヶ月休むことなく演出をやり続けて何十年、やや半世紀。・・・まさに日本演劇界のマグロ、栗山さんとの一番の思い出は、2001年の新国立劇場の 井上ひさしさんの「夢の裂け目」・・・なかなか台本が上がらずに稽古ができず、その分よく飲みに行っていろんな話を聞けたことです。・・・」





2026年6月14日日曜日

棚橋弘至(新日本プロレスリング社長)    ・「多様性」と「激変」を牽引するリーダー

棚橋弘至(新日本プロレスリング社長)・「多様性」と「激変」を牽引するリーダー 

近年、新しい時代の価値観や多様性に対応できる柔軟なリーダーシップの取り方に関心が集まってます。  元プロレスラーでプロレス興行団体社長の棚橋弘至さんは個性的なレスラーの皆さんをリード、育成しながら多様化する格闘技ビジネスの世界で強いリーダーシップを発揮されています。 様々な夢、能力、キャラクターを持った人たちを先読みの難しいこの時代どう牽引していけばいいのか、選手として感じできたこと、今会社のリーダーとして思うことをお話しいただきました。

1976年岐阜県大垣市生まれ。 小、中、高と野球をやっていました。  野球選手になれたらいいなぁと思っていました。  高校生の時にたまたま夜のプロレス中継を見てこんなすごい人たちがいるんだと言うことを見て、一気に好きになってしまいました。  立命館大学法学部に入学しました。 大学4年間で体重を25キロ増やしました。 大学ではプロレス同好会に入りました。アマチュアレスリングクラブにも入りました。 22歳で新日本プロレスに入門しました。 2023年の1223日新日本プロレス株式会社の第11代代表取締役社長に就任しました。 選手権社長2年やる。 2026年に選手を引退。

2000年代から格闘技、K1とかテレビで放送され、プロレス業界は方向性を見失う時代でした。 かつて経営は丼勘定だったんですが、数字の分もしっかり見なくてはいけなくなったので、ビジネスとしての成長を求められました。  選手時代は、プロレスのイメージを変えると言うことに力を注ぎました。 「愛してます。」と言う言葉が出てきっかけと言うのは、2006年の北海道の大会でしたが、チャンピオンシップに挑戦することが決まっていました。 チャンピオンがドタキャンでトーナメントで勝ち抜いてチャンピオンになりました。 チャンピオンを目当てにチケットを購入した方に申し訳なくて、その時に「ありがとう。」「愛してます。」という言葉が出ました。(感謝の最大級と言う意味合い) 試合の締めの言葉では「愛してます。」という言葉を使うようになりました。 メインイベンターには決めポーズ、決めゼリフ、きめ技、この3つがないとなかなかなれないと言う型を作りました。

新日本プロレスには現在50名前後います。 みんな個性を出していって、フアンの方にアピールしていかないと生き残れない社会です。 リング上は1つの形ができてるので言う事はありません。  選手が戦いに集中できる状況を常に作っていきたいって言うふうに思ってます。 現在3人ずつランチミーティングを行っていろいろ聞いたりしてます。 ピンチはチャンスだと思ってます。 リーダーがうろたえると、会社自体に動揺が広がると思いますので、常に笑顔でいようと思ってます。   プロスは楽しいとか、盛り上がりとか、そういった外側のところに僕はフォーカスを当てただけです。 

リングの中は以前からのスタイルのままです。 喜怒哀楽の感情が全部詰まっています。  プロレス会場に来たら怒ってもいいし、泣いてもいいし、そういった感情を振ることによって心がすかっとします。 プロレス会場はお客さんと選手のエネルギー交換だと思ってます。 ①疲れない②落ち込まない③諦めない。それを逸材3箇条と呼んでいます。 チャンピオンになってから6年間ぐらいチャンピオンらしくないと言うことでブーイングがありました。 その時に二つの軸が必要だと思いました。 ①会社側の評価、②自分の中で100%出したかと言う軸、それが進化の秘訣です。 

努力している人は、目つき、生き方、生きる姿勢そういったものに全部出てきます。 自分じゃない誰かが、きっと見てくれていると思います。 自分がやりたいことを仕事にできていると言うことが一番大きかったかなぁと思います。 人の喜びを自分の喜びにできる人間でありたいと思います。 仕事の中で自分の充実感を見つけてほしいと思います。 戦いを通じてエネルギーを売ってる会社だと思ってます。  100年続く長寿企業さんのイベントに行った時に、100年続く社訓があって、①会社の方針がしっかりしていること②製品がしっかりしてること③柔軟に時短に対応すること 僕は3つ目に特に注目してコスチュームを派手にしたり、プロモーションもいっぱいしてきました。


2026年6月13日土曜日

高島幸次(大阪天満宮文化研究所所長)    ・変革が伝統になる~千年つづく天神祭~

高島幸次(大阪天満宮文化研究所所長) ・変革が伝統になる~千年つづく天神祭~ 

担い手不足などで衰退の一途をたどる祭りが少なくない中、疫病退散などを祈願する大阪天満宮の天神祭は、ますます盛況で724日の宵宮と25日の本宮、合わせて約130万人の人出があります。  神様を乗せた神輿を中心に、総勢3000人余りが練り歩く陸渡御、神様の乗った船とそれをお迎えする100隻もの船が中心部の大川(旧淀川)を行き交う船渡御、そして奉納花火が有名で、そのほかにもたくさんの神事や行事が、夏の大阪で盛大に繰り広げられます。 高島さんは、天神祭は変革を繰り返すことで、伝統行事としての魅力をいっそう増してきた、その仕掛けのキーワードは、疑似的な伝統、疑似伝統だといいます。 1000年余り続く大阪の天神祭りはどのような変革を繰り返してきたのか、高島幸次さんに伺います。

お祭りの日に着る装束を宮司から重要な人に与える、それが装束賜式(しょうぞくたばりしきといいます。 そういう意味から言うと天神祭は既に始まっています。  江戸時代から始まった2メートル位の豪華なお迎え人形と言う人形がたくさんありますが、事情によって今はそれを船に乗せられないと言う事情があります。   最盛期は50体位ありました。 現在残っているのは16体です。 大阪有形文化財に指定されています。 8体位を設置してスタンプラリーとしてやっています。(71日)

大阪天満宮は、菅原道真公をお祭りしています。 讒言により菅原道真は太宰府に流され亡くなります。  亡くなった後、いろんな天変地異、流行病が流行ったりします。 道真の祟りではないかと言うことで、道真をお祭りするようになります。 大阪天満宮の場合には949年に天満宮ができます。 疫病を鎮めてくださいと祈願する神社としてできています。  太宰府は当時古代の外交の玄関口でしたので、中国大陸や朝鮮半島から人がたくさんやってきて、日本に無かったウィルスを持ち込んでいたようです。 それが道真と結びついてくるわけです。 平安京で起こった疫病、多分天然痘と思われますが、神事で日本中の疫病をお神輿に閉じ込めて川に流していくと、大阪天満宮の前あたりで、一気に海に流れ出す場所でした。 道真公が太宰府へ流される際に天満宮の場所あたりから船で向かったと言われています。 いくつかの条件が重なってそこに天満宮の場所が決まったようです。 

日本には夏祭りと秋祭りがあります。 お祭りは基本的には神様が年に1回だけ外に出てこられます。 村の神様は農業で収穫を気にされます。 刈り入れが終わった頃に出てこられて、今年1年よく働いたねと、そして村人たちも収穫していただきまして、ありがとうございますと感謝する、それが賑やかなお祭りになります。  天神祭は夏祭りですけれども、収穫とは関係なく街の人々は、疫病を退散する祈願をします。  大阪天満宮の場合には、船渡御陸渡御2つあります。  

天神祭の「大阪締め」は独特で、お祭りに特別に参加している人たちと、全く縁もゆかりもない見物に来られた人たちの間で交わされます。 去年、大阪天満宮と天神祭の本を書くときに、大阪天満宮の歴史だけを書くつもりでいました。 お祭りの存続の仕方を天神祭の中にヒントがあるのではないかと思って、疑似伝統と言うことを説明しました。 時代の変化に応じて変わってなかったら途絶えてしまいます。 今伝わっているのは必ず時代の変化に合わせて対応して変革を繰り返しながらやっています。 伝統を感じさせる変革を繰り返す、それは日本の文化の中にちゃんとあります。 例えば、天皇の即位の時に、江戸時代最後の孝明天皇までは中国の皇帝の装束を真似してましたが、明治天皇から初めて現在の装束のように変わりました。 

年に1回神様が神社から外に出てこられるときには、鳳神輿に天神様が乗って、玉神輿と言う乗り物に法性房尊意(天台宗の1番偉いお坊さん)が乗って出てきますが、の神輿と共に2つ出てきます。  明治に神仏分離と言うことで、神社とお寺を明確に分けれるようになりました。 お坊さんをまつわることができなくなり、道真公のご先祖にあたる神様と、天照大神が岩戸に隠れたときに、力づくでその岩戸を開けた人、2人の神様が今度はお祭りにお供する形になります。  天神祭は、静と動のお祭りと言われますが、疑似伝統として新しい形のお神輿の関係性です。(仏法で鎮めようとしたことを力で鎮める考え方)  

陰暦では6月の25日で行われていましたが、新に変わったときに、それに天神祭りが相当するの725日という事にしました。 725日にすることによっての時期からずれて、この30年間雨が降ってない状況でお祭りが行われます。  昔は天神様から大川から下流のほうに行ってましたが、地盤沈下で下流に行けなくなって上流に行くようになりました。 船の上で神事ををやるようになって、それを見物人が見ることができるようになりました。 おもてなしの心が天神様の祭りの中にたくさんあります。 御迎え人形は芝居の1番の決めのポーズをとっています。   町内会ごとにちょうちんの文字が変わっていきますその文字について、地元の人と見学に来た人との間で交流が生まれたりもします。 

天神祭りの1番中心には、神主による神事があり、周辺に氏子の神賑行事というのがあり、一般市民の観光行事の三重の行事があります。 この三重の行事のバランスが全国の中で最もうまくいってると思います。  それがどうしてうまくいっているかと言うと、疑似伝統の使い方とか、おもてなしの心、そういったものが可能にしているものと思います。  伝統を守ろうと思って、無理をして滅びさせてしまうよりも、どのように伝統を変革したが、存続できるんだろうと言う変革の仕方にコツがあると思います。


2026年6月11日木曜日

持田叙子(近代文学研究者)         ・「荷風は女性の味方です」

持田叙子(近代文学研究者)         ・「荷風は女性の味方です」 

持田さんは、1959年東京都生まれ。 1995年から発刊が始まった折口信夫全集の編集解説を担当、荷風研究では、2009年「荷風へようこそ」でサントリー学芸賞を受賞しました。 荷風の他折口信夫や泉鏡花についての著書もあります。最新の著書は去年出版された「ことばで愛し、ことばでたたかう日本文学の宝石箱」です。  また去年創設された永井荷風新人賞の選考委員をされています。 

6月は荷風の季節と言っていいと思います。 梅雨を取材にした「雨、少々」と言う小説も若い時に書いています。  男の方の荷風論と言うのは、非常に尊敬するし、調査も行き届いていますが、遊びの世界、荷風は粋だ、男としては憧れるというのが多いです。 評論家の川本三郎先生が荷風の評論の先人を切ってますが、川本先生自身がエッセイで早く女性の研究家が出て、こういう見方を変えてちょうだいと言うふうに呼びかけていましたので、違った口調で発掘してみたいと思いました。 

平和こそ一番尊いものなんだと言っています。 荷風は甘いものが好きで、「砂糖」と言うエッセイで、日々のおやつこそ平和の証だ。 そういうものはゆとりがないとおやつなどできないと言ってました。 日々のおやつを大事にして平和のシンボルにしましょうと、「砂糖」と言うエッセイで呼びかけていました。 全集も35巻あります。 20歳前から亡くなる直前まで書き続けました。

私の経歴は、大学、大学院では、民族学者、国文学者、歌人でもあった折口信夫の研究をしました。 荷風も折口信夫もずっと独身でした。 結婚するとかなり自由が束縛されるので独身を通しています。 荷風は若い頃2度結婚していますが、その後は独身、平和を愛したということで2人に共通点があります。 乙女、少女を平和のシンボルとして詩や小説で主題にしていると言うところがこれが大きく結構重なっていると思います。 

私は40代の時に体調を崩し折口信夫を研究することは厳しいと思っていた矢先に、荷風の作品との出会いがありました。 荷風は柔らかくて優しくて助けてもらったらという感じがしました。  来青花と言う花のエッセイに引き込まれれました。(38歳の時の作品) 荷風は庭が大好きでした。 荷風といえば、散歩の達人。     荷風は男子たるもの裁縫はできねばならぬ、料理もできねばならぬと言っていました。 真の人間の独立は家事ができなければ話にならいと言う主義でした。 

荷風は24歳でアメリカに留学して、その後銀行員になってフランスも行ってます。 荷風には「アメリカ物語」と言う短編小説集がありますが、アメリカの乙女の自由な姿に感激しています。 荷風は、アメリカやフランスに行く前から、ほとんど乙女が基本です。  結婚などに関する乙女たちの恨み、怒りを初期から荷風は小説にしています。  荷風は最初の結婚が父親の言うなりのお見合いでした。2人目の奥様が芸者さんです。 離婚した後付き合ったのは玄人の女性です。 日本でも自由な女性が出ればいいと思ってたんですが、絶望したんではないでしょうか。 自分は絶対に素人の女性を騙したり遊んだりはしない、それは自分の誇りだと書いています。 

荷風は、子供の頃から芸者さんと言うものに非常にピュアに馴染んでいました。 父親の家にしょっちゅう芸者さんが来てました。 家庭の宴会のお手伝いなどもしました。 乳母のような存在とエッセイで書いています。 荷風の時代には60歳になると隠居、荷風の視点からすると、社会とも競争しなくても良い。社会の外の世界に生きられると言う思いがありました。 組織から抜けた人の尊い眼差しと言うことを荷風は大切にしています。 素敵なおじいさんをたくさん小説に登場させています。  荷風は平和を徹底的に守った文学者と言う面を見ないというのは非常に私たちの損ではないかと思います。  荷風は戦争に迎合するようなことを一切書かなかった。 私が荷風から影響受けたのはすごくありますけれども、あんまり頑張らない、頑張って自分の野心を達成しようとすると、かえって人の迷惑になったり、人を傷つけたり、自分も傷つく。 文体も断言しないと言う風に、柔らかく、素直な文章を書いていきたいと言うふうに意識が変わりました。

私は本が好きで、少女漫画、児童文学、純文学の境目が私にはないんです。   日本画を描くのが好きでした。 手を悪くてしまったので描くことが出来なくなり、見るのも好きです。 荷風と日本の古い伝説は、まだ焦点が当てられていないと思いますので、古い日本の古い良き物に出会おうした柳田邦夫と永井荷風をテーマに書いてみたいなと思っています。  去年創設した永井荷風新人賞の選考委員になりました。 

永井荷風は79歳で亡くなりました。  荷風から学ぶシニアの生き方、生活は、その知恵は荷風のエッセイにいっぱい出て来ます。 孤高を保て、孤独を恐れるなとか、なかなか難しいところはあります。 荷風から教えてもらったものの、1つに毎日夜の空を見なさい、月とか星のことを見てメモすることによって、ちょっと心がロマンチックになります。