蒲島郁夫(前熊本県知事・東京大学先端科学技術研究センターフェロー) ・「逆境の中にこそ夢がある」
蒲島さんは1947年熊本県稲田村に生まれました。 高校を卒業した後、地元の農協に就職、21歳の時に農業練習生としてアメリカに渡りました。 その後奨学金やアルバイトで学費や生活費をまかないながら、ネブラスカ科大学で農業を、そしてハーバード大学大学院で政治経済を学びました。 東京大学で教鞭をとっていた2008年、熊本県知事選に立候補して当選、4期16年勤めました。 現在は東京大学先端科学技術研究センターで半導体の研究を重ねています。 災害対応の指揮を取った 2016年の熊本地震から10年、今思うことなどを伺いました。
熊本地震から10年になりました。 熊本地震は2期目から3期目に移る時でした。(就任の日4月16日) 学問に戻る様にとの誘いもあり迷っていた時期で、熊本は良いハードができて、これから花を咲かせる時期だと五百籏頭 眞さん(元防衛大学校長 50年来の友人)から言われました。 地震対応に1番力を注ぎました。 急いで県庁の本部に行きました。 2日後に地震からの復興三原則を決めました。 ①被災された方々の痛みの最小を図る。 ②創造的復興、前よりも良い形で復興しよう。 ③創造的復興のさらに発展につなげる。 逆境の時にこそ夢があるという人生を送ってきたので、三原則に沿ってやりたいと思いました。 二日後に県民に約束しました。
私がハーバード大学の政治理論で学んだ中で、サミュエル・ハンティントン先生が「Gap仮説」と言うことを唱えられました。 分子と分母があって、分子、皆さんの期待が変わっていきます、最初は助かって良かったと思っても1週間ぐらいするとおいしいものを食べたくなる、1ヵ月もすると立派な家に住みたくなる、そういった期待値はどんどん上がってきます。 分母の実際値のほうはなかなか上がりません。 その差がギャップになるんですが、期待値と実態値のギャップが広がらないように急いでやらなければいけないと言うのがその理論です。 広がってゆくと暴動が起こったり、社会不安が起こってゆく。
1947年熊本県稲田村で生まれました。 両親は戦前満州にいって仕事をしていましたが、無一文で子供を6人連れて熊本の稲田村に戻ってきました。(その後3人生まれ7番目が私でした。) 私は新聞配達をしながら、家計を助けたりしました。 熊本県立鹿本高等学校に行きましたが、成績はほとんどビリでした。 ただ本を読むのが好きでした。 小説家か政治家、牧場主と言う夢を持っていました。 大学と言う選択肢はなくて、地元の稲田村の農協に勤めました。 農業研修生としてアメリカに行くことになりました。(21歳)
最初ワシントン州、次にオレゴン州、アイダホ州などいろいろなところに行きました。 私にとって良かったのはネブラスカ大学で学科研修を3ヶ月一生懸命勉強しました。 2年間の研修がありました。(6か月間学科研修残りは農業実習) 一度日本に帰って、半年間旅費捻出してアメリカに再度渡りました。 そして農業研修生の通訳をやりながら試験を受けました。英語と数学ですが両方ともダメで、不合格でした。 先生からの後押しもありチャンスを貰えて、他の学生と1学期間だけ375人の学生と一緒に勉強しました。 375人の10人だけがすべての科目で90点以上、その中に私も入りました。
特待生となる授業料免除、奨学金が来る、1年生の時から指導教授が来て研究ができる。 その時には本当に一生懸命勉強しました。 恋人をアメリカに呼んで結婚しました。 指導教授とともに豚の精子の保存方法の研究をしました。 豚の精子だけは保存が長くできませんでした。 その時点で悩みました。 研究をずっとやっていくべきかそれとも政治をやりたいかと言うことでした。 政治学としてはハーバード大学に行きたいと先生に言ったら推薦状を書いてもらえました。 ハーバード大学では、授業料免除、奨学金も来ました。 ハーバード大学でドクターをとって日本に戻ってきました。
筑波大学で17年、東大法学部で11年やりました。 50歳の時に、東大法学部に呼んでもらえました。 人にはいろんなチャンスを与えてくれる社会だなと思いました。 逆境だからといって何もしないのではなくて、逆境の中だからこそ夢が大きいものがある、それをやってよかったなと思います。 2008年に現職の東大教授から政治家、熊本県知事へと言う道になっていきますが、難しい決断でした。家族はみんな反対しました。 1番反対したのは私が教えていた学生たちでした。 私の専攻は政治過程論や計量政治学であり、投票行動の実証的研究などでした。 蒲島理論を使って圧勝すると宣言しました。
5人の立派な経歴を持つ人が立候補しました。 しかし圧勝しました。 5人のうの46%私が取れました。 チーム熊本ができて、4期まで支えてもらいました。 大学教授のときには1番関心があったのは、自分の理論がどのぐらい世界で受けられる受け入れられるかと言うことに喜びを感じていました。 知事になって、熊本県民を幸せにするために政治学を勉強したわけなので、皆さんの幸せのために作りたい、それに喜びを感じます。
財政再建を1番求められていました。 給料が124万円でしたが100万円カットしました。 税金を差し引くと14万円しか残りませんでした。 2期8年やったときに借金はものすごく減りました。相互信頼ができた事は大きかったと思います。 くまモンができて関連商品の売り上げが15年で1兆5000億円、経済効果も大きかったけども、くまモンが誇りです。 新幹線の全線開業でマスコットを使って大阪からお客さんを来て欲しいと思いました。 小山薫堂さんと水野学さんにお願いしてスケッチを頂きました。 職員が一生懸命やりましたが、痩せていて反応が良くありませんでした。 みんな失敗したくなくやっていますが、県民を幸せにするのが目標だから、リスクを恐れずにしてほしいと言いました。
私自身は、もともとモットーが逆境の中にこそ夢がある、そして不可能を可能にする、不可能と思った瞬間にダメですね。 ちゃんと支えてくれる人が出てきます。 妻にも県庁の職員にも、学生にも一度も怒った事はありません。 でも妻には毎日怒られます。 両親は何をやろうとしても一切口を出せませんでした。 不可能を可能にして生きていうと言う生き方をすることによって、自分の夢が叶えてゆく。
故郷の地に故郷三賢人の碑が建ちました。 企業家の長野濬平さん、熊本市長を務められた星子 敏雄さん、そして樺島郁夫さん。 長野濬平さんは早い時期に熊本に近代養蚕業を広めました。 星子 敏雄さんと言う人は満州で30代で警察長官になってソ連で10年以上抑留され、帰ってきてから熊本市長になりました。
私が知事時代にやった事は、半導体の研究と生産、半導体の会社がたくさん熊本県にはありました。 東大の先端研究所の方でフェローとして呼びたいということで、半導体をみんなで支えようと言う、半導体の文明研究会って言うところを作ってそこの会長もしました。 半導体を平和利用のために使うそのための研究とそのための半導体の生産をやっていきたいと思ってます。
健康維持のためにできるだけ歩くようにしてまして、目標を9000歩位にしてます。日本中の子供たちに「やればできるんだと、逆境だからと言ってあきらめないで、逆境でも夢があって、それにチャレンジすればできるんだ。」とサゼッションできると思います。 自分を信じること、あきらめないこと、そうしたら必ず救いの手が出てきます。