橋本淳(作詞家) ・亡き筒美さんの曲を後世に残すために
橋本淳さんは現在85歳、「ブルーシャトー」「亜麻色の髪の乙女」「ブルー・ライト・ヨコハマ」など1960年代、70年代の昭和歌謡を彩る多数のヒット曲を作詞しました。 作曲家の筒美京平さんとは学生時代から付き合いがあって、バンド仲間でした。 二人で多くのヒット曲を飛ばす盟友でもありました。 2020年に亡くなった筒美さんが生前残してある曲を宜しくと譜面を渡されました。 橋本さんは3年前から筒美さんが残した曲の為に良い詩を書きたいと歌詞作りに向き合っています。
私は1939年生まれで、85歳です。 作詞家としておよそ2000曲作る。 杉山先生からブルーコメットのものを作れと言われて、それがヒットしてやり始めることになりました。 京平さんらがバンドを組んでジャズをやっていました。 京平さんは1940年生まれで、2020年10月4日に亡くなりました。(80歳) 京平さんは精神的なことからうつ病ぽくなって、その後誤嚥性肺炎で亡くなってしまいました。 京平さんが僕のところに作品を送ってくれていたものがあって、一曲ぐらいやってみようかなと思ったんですが、40年近くやっていないなかで、一曲CDにしました。 世の中の状況が全然違ってきていました。 配信という事が判らなくて、興味を持って始めました。 手元には12,3曲はあります。
橋本淳さん作詞のグループサウンズの曲
*「ブルーシャトー」ほか。
京平さんは「スワンの涙」が好きでした。
橋本淳さん作詞の歌謡曲
*「ブルー・ライト・ヨコハマ」ほか。
横浜のことを作ろうと思ったが、なかなかできませんでした。 夜になってブルーのライトが海に映っていたので、「ブルー・ライト・ヨコハマ」を作りました。 後半部分がなかなかできなくて、歩いて歩いてやっていて、それを取り入れました。 その前に作った曲は全然売れませんでしたが、1週間ぐらい番組で流れだしたら、突然10万枚のバックオーダーが来るようになりました。 京平さんは忙しい時には一晩10曲ぐらい作っていました。(ほとんど寝ていない。) 詩を先に書いて渡していましたが、間に合わなくなってしまって、曲だけ先に作っていました。
詩人・児童文学者の与田凖一(1905年 - 1997年)は実父です。 高校、大学時代は父親の友人が(檀一雄、梅崎春生、川端康成ほか)僕を呼んで、一緒に過ごすことがありました。意識はしていませんでしたが、そこで自然と学んでいった様な気がします。 作曲家の人とも数人付き合っていました。 京平さんは音楽の大学ではなくて経済学部の卒業でした。 学校の教会で讃美歌を毎日弾いていました。 小学生の時からモーツアルトのピアノコンチェルト弾けると先生が言っていました。 高等部の頃はジャズが好きでした。 物凄く曲を聞いていてそれが身体の中に沁み込んでいると思います。 それを日本人の日常生活にどうやって取り込むかというところですが、京平さんはそこが非常に秀でていたと思います。 曲先で作ると難しい曲ですが、完成すると凄く易しく聞こえる。(筒美マジック) コード進行を一番先に考えるんです。 それが日本人の暮らしに、生活の響きに溶けてくるようなものを考えています。 毎月40~50枚のLPを買っていました。 どう日本化するかという事をいつも考えていました。 日本人の暮らしに合うテンポと響きを京平さんは考えていました。 詩をつけるのも大変でした。
技術は進歩してゆくが、人間の情感、喜怒哀楽の世界は残してゆきたいと思っています。