2020年2月20日木曜日

尾藤川柳(川柳家元)           ・「川柳の魅力を語る」

尾藤川柳(川柳家元)           ・「川柳の魅力を語る」
2016年に16代目川柳を襲名。
誰でも楽しめる川柳は江戸時代に起源を持ち、脈々と受け継がれてきた文化文芸です。
川柳についての歴史や魅力、16代目の思いについてお聞きしました。

264年前から始まった川柳という文化がありその元祖が川柳と雅号を持っていました。
2016年に16代を襲名しました。
江戸時代から代々引き継がれるたびに襲名披露で句会を開いてひろめるというのが伝統です。
初代川柳の画軸がありますが、裃を着て文台があり宗匠として許可を得たしるしです。
初代川柳は川柳は選者です。
句は作らないです。
僕も選者として呼ばれたときには句は作らないです,宗匠として選ぶだけです。
立行司さんの様に帯刀もしていて、選で刺し違えたら責任を取って腹を切るという覚悟らしいです。
川柳は7,7の題を出してそれを前句といいますが、5,7,5の付け句を出します。
付け句の良し悪しを競っていたのが川柳という文化の始まりです。
俳句と川柳は兄弟で俳句は長男です。
連歌、連句とかがありましたが、発句は季節を決めなければいけないし、何もないところに独立させえるためには切れ字をいれます、「けり」、「かな」とか。
そうすると句が独立したようになります。
発句は季語があり切れ字がある5,7,5という形になる訳です。
それに続けて7,7で「わき」というものを詠みます。
これも季語が同じ季語でやった、3番目が5,7,5で同じ季語で作ります。
ここまでは決まりごとがあります。

次の5,7,5は平句といいますが、比較的ルールがなくなってきて、月を詠みなさいとか花を詠みなさいとか場所があるが、裏の方に行って進んでくるとなると、なにもやってもいいというところが出てくるんです。
連句の繋がって行った後ろの方の5,7,5が川柳の出発点なんです。
連句のうちの発句を詠むというのはは500年前ぐらいからあります。
川柳の方は初代の柄井川柳という人が出てきて宝暦7年8月25日と誕生日まで決まっていて、264年と俳句の半分ぐらいの歴史しかないです。
「ひんぬいただいこで道を教えられ」 江戸時代の川柳の句
抜いた大根であっちの方だと方向を指し示す。
「だいこ引きだいこで道を教えけり」  小林一茶の俳句
「ひんぬいただいこで道を教えられ」の方は作者自身が句の中に入っている。
「だいこ引きだいこで道を教えけり」は田舎の風景の情感が出ている。
風景を詠むのが俳句、人間を直接詠むのが川柳という感じです。

初代川柳から5,60年経って文化文政の頃4代目が出てきて、八丁堀の同心で顔が広く江戸じゅうの名士をみんな自分の傘下に入れてしまう。
その中の代表的なのが柳亭種彦とか九州・平戸6万3千石の大名・松浦静山という大名まで自分お傘下に入れてしまいます。
16文を出さないと一句投句出来ないんです。
16文はかけそば一杯(500~600円)という時代でした。
武士が中心で店の旦那さんたちが川柳の作者でした。
『誹風柳多留』の初版がここにあります。
「にぎやかなにぎやかな」という7,7句の題の後に
「五番目はおなじ作でも江戸生まれ」
江戸には阿弥陀様が祀られている。
1,2番は北区、3番は足立区、4番は北区、5番が上野の尾広小路、6番が亀戸、
5番目だけは江戸の中心、誇りで、「にぎやかなにぎやかな」事にたいして「五番目はおなじ作でも江戸生まれ」となるわけです。
『誹風柳多留』は7,7をとってしまって面白い5,7,5の句を選んだ。
「孝行のしたい時分に親は無し」 川柳の句 
「孝行をしたい時分に親は無し」だったが、伝わるうちにそうなってしまった。
課題は「浮世なりけり浮世なりけり」でした。
今は「孝行をされる白寿にする喜の字」です。 老々介護です。

私は川柳家の家柄でしたが、代々の川柳の家系ではありませんでした。
父親が新聞記者で、川柳の句会の写真を撮ってもらうために一眼レフを小学生の私にくれたんです。
そのうちに句を作ってみないかと紙をくれて、段々句を作るようになり虜になりました。
父、尾藤 三柳は川柳の大家であり、越えられないと思って、美術をやろうと思いました。
サラリーマンとして絵の具の研究室に行きました。
こうしたらいいだろうと社長に提案をしても、ほとんど見ないで捨てられました。
頭を冷やそうと屋上へ行き屋上から社長室のあたりを踏んでやって、その時にできた句が
「屋上へ出て踏んづける社長室」でした。
気持ちが癒されました。
心を吐き出すというのが川柳です。

脇屋先生のところに25歳で弟子になりました。
20年前ぐらいに或るとき尾藤一泉さん(私)に継いでもらわないと困ると言われてしまいました。(40歳を過ぎたころ)
断りましたが、父にも言われて、脇屋先生が三種の神器を持ってきました。
一番大事なものが初代川柳の印です。
二番目が初代川柳を描いた掛け軸です。
三番目が初代川柳の家紋のついた脇差です。
覚悟を決めました。
行事ごとにいろんな出費があります。
昭和の川柳の六大家と言われた村田周魚先生の句碑が倒されていたのを立て直したり、いろいろあります。
十五代までの供養もするので大変です。
川柳をひろめるという事もやっています。
北斎が川柳家であったし、娘のお栄(葛飾応為)さんも川柳家でした。
北斎は卍(百姓)という雅号で14歳から88歳まで句を作っています。
浮世絵が20歳から90歳までなので川柳の方が長いです。
判るだけで400句ぐらい残っています。
「掛物は褒めたが絵師の名は読めず」 北斎 (30歳の頃)
川柳漫画は北斎が最初に始めました。

引き継いだことを映像に残していかなければいけないと思っています。
祖父も川柳家なので古い資料が残っていますから、資料館みたいな形にしてみんなが利用できるような形にしたいというのが夢です。
父も川柳の大家でしたが、高齢化が進み、弟子も高齢化して、限界文芸という事を感じました。
是非若い人が川柳に興味を持ってもらって、でてきてほしいと思っています。
川柳は話し言葉なので誰でもできます。
老人ホームなどで川柳を自分の言葉で詠んでいいんですと言って作ってもらいます。
「取れかけたボタン私とよく似てる」
みんなが共感したそうです。
今年還暦を迎えて、夏には窓辺に咲いていた朝顔が11月ごろになると黄色い葉っぱとしぼんだつぼみだけになり逆光に萎れてゆくものが綺麗に見えたんです。
「少し疲れて暖かい色になる」 自分と一緒だなあと思いました。
川柳は人間姿すべてなんです。
嬉しいときに川柳を詠むと嬉しさが2倍になり、悲しい時に川柳を詠むと半分になります。