2017年7月23日日曜日

河西昌枝(東京五輪女子バレーボール主将)・【特選 スポーツ名場面の裏側で】

河西昌枝(東京五輪女子バレーボール主将)・【特選 スポーツ名場面の裏側で】
東洋の魔女の金メダル
山梨県の出身、昭和39年東京オリンピック女子バレーで日本が金メダルを取った時のセッターでキャプテンでした。
大松監督のもと大阪の実業団チーム日紡貝塚のメンバーで全日本チームを構成し、当時日本国内では6年間、175連勝無敗で海外からは「東洋の魔女」と呼ばれました。
東京オリンピックのチームは世界バレーボール連盟から2001年20世紀の最優秀チームに選ばれ河西さんは個人として2008年世界バレーボールの殿堂入りも果たしました。
日本バレーボール協会女子強化委員長を務め、2004年のアテネオリンピックでは女子バレーの団長でした。
亡くなる3年前、喜寿77歳の年の平成22年10月15日の再放送。

現役時代174cm、今は171cmです、いまは中村昌枝です。
動ける間はなるべく出てみなさんに会いたいと思います。
昭和39年10月10日 東京オリンピック開会式
女子は金メダル、男子は銅メダルを獲得。
決勝は日本対ソビエト。(共に全勝で決勝を迎える)
10月23日 駒沢体育館で始まる。
日本が2セット連取、第3セット14-9 あと1ポイントで日本が優勝。
鈴木文弥アナウンサーは金メダルポイントと連呼するが、ここから4連続ポイント14-13
まで追い上げてくる。
普段ないようなミスがあり、焦りが出て追いつかれるが、自分では「大丈夫だから」とみんなに言っていたが(冷静さをよそおっていたが一番ドキドキしていたのは自分だったかもしれないが)、6回のローテーションがあって宮本さんのサーブを相手がレシーブしたが、放っておけば日本に入ってきたところをバックプレイヤーが手をだしてネット上で日本の方に手が出たと云うことで、オーバーネットで15-13日本優勝と決まった時は「終わった」と思いました。
もしジュースに成って取られたらと思うと必死でした。
視聴率は80%を超えた。

審判はオーバーネットを良く見ていたと思います。
大きな期待で日本の女子バレーは金メダルといわれながらやってきたので、期待にこたえることが出来て良かったと云う嬉しさと、これを最後にみんな辞めるつもりだったので、こういうところで試合をするのは、これが最後だったと云う思いもありました。
プレッシャーと感じるのか、応援と感じるのか、個人と団体だと違うと思います。
応援しているのだから勝つしかないと思っていました。
前の晩は普通に寝て、プレッシャー(当時はこういう言葉はなかったが)はなかったです。
当時は一段高い所にキャプテンだけが上がる訳ですから、キャプテンの役目としてそこまでは泣かなかったです。

バレーボールはオリンピック種目ではなかった。
日本が世界のヒノキ舞台に立ったのは1960年ブラジルの世界選手権でした。
あれよあれよと勝っていって決勝でソ連に負けて2位だった。
ソ連に勝てば世界一になれるんだと思いました。
そこから世界一を目指して死に物狂いの練習を4年間しました。
1962年モスクワで世界選手権があり、日本が初めてソ連を破って優勝する。
(モスクワへ行く前に東京オリンピックでバレーボールが正式種目になることが決まる)
オリンピックまでやりますかと質問されて、私はオリンピックまではやりませんと云いました。
世界選手権で優勝したら世界一周旅行をさせてくださいと約束しました。
優勝してイギリス、ニューヨーク、シカゴ、ロサンゼルス、ハワイと回って来ました。
大阪に帰って来て凄い人盛りで、あらゆるところからこのメンバーでという話もありましたが、29歳で辞める覚悟でいました。
4歳下の宮本さんにキャプテンをと思っていました。

それぞれ家族との相談をしてとの事で、正月明けメンバーが集まって「やりますからお願いします」と云うことになりました。
それからの2年間は内容的にも時間的にも全然違う2年間でした。
応援にこたえるには勝つしかないと思いました。
昭和34年から6年連続の無敗の175連勝。
オリンピック前年、日紡貝塚単独チームがヨーロッパに遠征してソビエト、東ドイツに圧勝してこの時の余りの強さに対して「東洋の魔女」といわれた。(遠征戦22戦全勝)
回転レシーブなど当時はやらないことをやって、人間業ではないと云うことでそういう表現に成ったものと思います。

受けたらすぐ立って次のボールの行方を追ってという一連の動作をする、ということを大松監督が考えて、なんでっもいいから転がってみろといわれて、小さい人の転がり方がいいと云うことで、毎日やってるうちに先生の思うような見本が出来てきて、左右前後どこに投げられても飛び込んであげられる様になって行くが、それまでに1年ぐらいかかる。
とにかく打撲がひどかった、頭、首、肩、肘、一番ひどいのが腰の骨、背骨、膝、体中打撲だらけでした。
回転レシーブの時は恰好が悪くてシャットアウトとしていました。(マスコミからは秘密練習しているといわれましたが)
練習でできるようになると、かするぐらいで何処も打たなくなる。
「やればできる」と云うことは一つ一つの練習から身につけていきました。
できたと云うことは結果であって、できるまでの過程で何を身に付けるかと云う事が物凄く人間を強くして来ました。

大松監督は一口でいえば格好よかった。
当時は練習の時などは男性は常に先生一人でした。
男女の遠征でのバスのなかで喋ったり笑ったりするのが先生は厭で、それから男女は別々でした。
大松監督の本の中に、
ソ連に勝つためにはソ連の一倍半は練習した。
精神鍛錬こそがアマチュアスポーツ本来の目的であり世界制覇はその副産物である。
バレーボールにヒロインはいらない。
精神力でしっかり支えられて6つの歯車がかみ合ってさえいればそれで十分。
勝たねばならぬと考える前に、やらねばならぬ根性、人間の限界を超えた苦しい練習で鍛えることによってそれが培われる。