2016年6月3日金曜日

ハービー山口(写真家)     ・”日常にある奇跡”を撮る

ハービー山口(写真家)     ・”日常にある奇跡”を撮る
昭和25年東京生まれ 66歳 中学生のころから写真をはじめたハービーさんは大学生の時、人の心が優しくなり、希望をつたえる写真をモノクロで撮るというスタイルを決めます。
しかし就職活動に失敗し、違う人生を考えようと、ロンドンに渡り、劇団の役者になりました。
それでもハービーさんは街の人々、ミュージシャンの自然の表情を写真に撮り、その作品が徐々に評価され、写真家としてのキャリア築きます。
昭和58年に帰国した後も一貫して自分のスタイルで活動を続けているハービーさんは日常にこそ輝く奇跡の様な瞬間があると言います。

*ロンドンで女性の先生が子供達の手をひいて歩いてる写真
1974年 24歳の時に撮った写真。(ロンドンに行って1年目)
近くの学校に行って、交渉して写真を撮らしてもらった。
金髪の先生に子供達がまとわりついて、歩きだして、光が一瞬射して金髪がキラッと光ったのをシャッターを押しました。
*お婆さんと娘さんと孫が並んでいる写真 バックは東日本大震災の仮設住宅。
南相馬市の仮設住宅に住んでいるお婆さんを娘さんとお孫さんが訪ねて、手を握り合っている写真で翌年お婆さんは亡くなられた。(ストレスから) 一瞬のドラマが目の前で起こった。
*パレスチナでの若い男性女性7人が野外で明るく談笑している写真。バックは壁がある。
2013年に国境なき子供達という組織の要請によってパレスチナに行ったが、全長800km 高さ9mのコンクリートの分離壁があった。(ベルリンの壁の倍以上の高さ)
閉じ込められた様なところで希望を求めて努力している人たちがいて、精一杯生きる希望を絶やさず夢を求めて努力している人達、こういった光景を撮らせてもらった。

モノクロというのは色のない分、光と影、構図、被写体の表情が強調される。
色が無くても水墨画が描くものには情感が伝わってくるので、あえてモノクロを使っています。
広角、望遠は使わず、テーマが常にポジティブな心を歓喜する様な写真を撮りたいと願っているので、同意が得られたら、その人の幸せをそっと祈って、何気無く撮ります。
その一瞬こそ大切なんだと肝に銘じて相手を尊敬して撮ります。
スナップ的なところが凄くあるので、彼らの一瞬の表情を見逃さない様に、心をリラックスさせて、素の彼等がでる様に展開してゆくかが決め手になってゆきます。
構図、横位置で撮ると周りの環境が写る、縦位置で撮るとその人の本質が写ると思っています。
頭上を広く開けると、希望が写ると思っています。
靴まで写すとリアリティーが写ると思っています。
逆光、斜光とかを入れると、光の存在をより感じて、一つの希望の光を意味しています。

父は結核にかかっていて私が小さい頃私に感染して、結核性の病原菌をもらってしまってカリエス(骨が腐る)にかかって、腰椎が患って、子供のころは立ち上がれなくて、コルセットをして学校に通ってランドセルが背負えなかった。
体育ができなくて、仲間外れにされて、孤独と絶望感しかなった少年時代、なるべく人の目につかないように人の影に隠れて生きていこうと思っていました。
小学校6年 修学旅行で班に分かれるが僕をどこにもいれてくれなかった。
仲のいい友達が一人、二人いたが、頼って行くとお前なんか嫌だから来るなと大声で言われてしまいせつなかった。
先生も冷たかった。
十何年孤独と絶望で、自分はいない方がいいんじゃないかと思った。
写真家となって考えたのが、僕に向けられた優しい笑顔が一日一回、1秒でも見られたらどんなに良かったのかなと思います。
中学で写真部に入って、写真という表現方法が手に入って、生きる希望を写真から感じられたらというおぼろげなテーマが授かった様な気がしました。

写真を撮ると、仲間にちょっと入れるような気持がして、大学に入って人にカメラを向ける勇気、覚悟が段々出来たかなと思います。
人が人を好きになるような写真、そういう写真を撮れれば人がもっと優しくなって、弱者に優しい社会ができるかもしれない、という希望を持って人の心を優しくする写真を撮りたいと願ってきました。
写真関係に就職できればいいなあと思って、4~5社受けたが、駄目でした。
半年のつもりでイギリスに友達と2人で行きました。
魅力は自由です、私の過去を誰も知らない。
日本人の劇団がありオーディションが受かって、役者になったが、すごいスパルタでした。
劇団を辞めて1か月後にギャラリーに行って、ある写真家と出会い、暗室を貸してもらって100枚ぐらいプリントしたら、みんながいい写真だとほめてくれて仲間に入らないか、一緒に住んでもいいと言われ3年間暮らして、大きな写真展をやらせて頂いた。
1973年に撮ったクエートでの写真、ストリートスナップの写真とか展示しました。
彼らの一員となって、初めて孤独感から救われた3年間で、素晴らしい出会いがありました。

その後ただで部屋を貸してくれる人がいて、隣にジョージという18歳ぐらいの青年が来て、半年ぐらいいたが彼が或る日バンドをやるので出ていったが、それが後のボーイ・ジョージです。
或る日地下鉄に乗っていたら、向かいの席に人気バンドのザ・クラッシュのボーカルギターリストのジュー・ストラマーさんが乗っていて、千載一遇のチャンスなので、写真を撮っていいかどうか聞いたらいいという事でした、降りようとした瞬間振りかえって、「君撮りたいもの皆撮れよ、それがパンクだぞ」、と言って降りて行ったが、その瞬間に僕の人生は変わった。
写真家になるんだったらもっともっと積極的に撮れという事だった。
ある日本人の写真家が日本に帰るので、空きが出来て僕が入り込んで、いい写真家だという事が日本でひろまって仕事が入る様になった、
ゲイリー・ムーアさんのオフィシャルカメラマンを2年やっていました。
天才ギターリストのゲイリー・ムーアさんがオリジナリティーをつくるのに20年掛かったという。
凡才の自分の写真のオリジナリティーをつくるのには、どの位掛かるんだろうと思いました。
イギリスでの10年間は私を作り換えてくれました。

1983年日本に帰国、いろんな人の写真を撮る様になる。
2011年日本写真家協会から作家賞を受賞。
これまで表彰されることが無かったので、公的に認められたことが嬉しかった。
3年前写真展をやって250~260点展示して、感想文ノートに10代の女の子からのものがあって、私は何度も自殺未遂をして、今回も退院の後写真展のポジティブな写真を見て、自殺はもうしない、これからは強く生きていきたい、と書いてあり写真をやっていてよかったと思います。
人の命を救えたのかなと思い、写真をやっていて良かったなあと思いました。
劣等感は自分の味方であるかもしれない、劣等感を長所に転じさせるかもしれない。
自分をいつも新鮮にしておかなければいけない、新鮮にして行くには今の空気、知らないものを知ることの刺激とか、別の世界からの影響を受けないと自分が錆びてしまうので人の作品を見る、他の分野との交流、いろんな世代との交流、とか色んな交流をする。

技術以前に、習得する部分が有り、自分の心の中から湧いて来る物をそれぞれの分野で形にしているが、心が大切で、自分を知ること、世の中で生きていくので礼儀、が必要。
全ての出来事は再現できないので、一瞬一瞬を無駄にしないで大切にして真心こめて生きていかなければいけない、と思います。
自分に与えられたペースを素直に取り入れて継続することで、思いもよらぬ場所に自分がいける。
60歳過ぎて写真家でこうしてラジオに呼ばれて、人さまにお話しすることが、孤独と絶望感しかなかった少年時代に、想像できたでしょうか。
写真を続けて一枚一枚積み重ねる事で、考えられ無かった所にいける、誰でもがその可能性を持っているという事を強調したい。
写真家になる人はカメラを買った日では無くて、本当に撮りたいものに出会った日であるという持論があります。
やりたいことを思いたったが吉日、遅すぎることはない、命ある限り遅くはないと思います、自分しかできないこと、今しかできないこと、これをやりたいという事が有れば、そこから汗をかいて、そうすると思わぬ人生が待っています。