2016年6月14日火曜日

松島啓昇(ナザレ園協力会代表) ・韓国の同胞に寄り添って

松島啓昇(慶州ナザレ園協力会代表) ・韓国の同胞に寄り添って
慶州ナザレ園は韓国のソウルから300km離れた韓国の南部の街にある福祉施設です。
この施設では太平洋戦争の前後に、朝鮮半島出身の男性と結婚して韓国に渡り、その後夫と離婚や死別して行き場をうしなった日本人女性を40年以上に渡って受け入れてきました。
秋田市日本舞踊家松島さんは74歳です。
松島さんは30年間慶州ナザレ園の女性たちの支援活動を国内外で続けてきました。
慶州ナザレ園で暮らす日本人女性たちは日韓の歴史のはざまでどのように翻弄されてきたのか、松島さんが繰り広げてきた草の根交流の持つ意味合いとは何か、伺いました。

慶州ナザレ園には今19名います、94歳が平均年齢です。
寝たきり、車椅子がほとんどで、受け答えができて話ができる方は数名です。
私は静岡出身で、短大卒業後日本舞踊を習いました。
友達がやっていて誘われていったのがきっかけです。
歌舞伎座他、舞台でも公演しましたが、古典なので大変勉強させてもらいました。
慶州ナザレ園のことは新聞記事で知りました。(1985年)
慶州ナザレ園では常備薬もない状況で、何とか常備薬を持って行ってやりたいと思いました。
下田と秋田でチャリティーを行って、錠剤を募ることにしたらたくさんの薬が集まり、それを携えていきました。(1986年2月)
日本人に父を殺されている、その人が日本人を助けてくれているキム・ヨンソンさん(私財を投じて施設を作った人)にお会いしました。
会った時に「私に力が足りないから助けてくださってありがとう」と言われました。
全身の血が入れ替わる様な感覚がありました。(浄化されるような不思議な体験)

日本に帰ったら一人でも多くの人によその国で頑張っている事を日本に知らせますと言ったら皆が飛んできて、皆が泣きながら生きていてよかったと言ってくれて、それを見たキムヨンソンさんがその人たちは今日泣きましたね、この人達は今迄泣いた事が無いんです、と言いました。
日本に帰ってから慶州ナザレ園協力会をつくることになる。
チャリティーをしたり新聞にも報道されて、それを見た方が振り込みをしたりして協力してくれたりしました。
最初は1972年帰国者寮として始まった施設です。
キム・ヨンソンさんが、どん底で苦労してきている日本人を知って、日本に帰れるように救済しようと思って、始まったわけです。
日本人を救済するには大変恐ろしい時代でした。
日本が35年間韓国を支配しましたが、韓国は言葉や名前を変えさせられた時代でした。
国賊ですよと、止めてくださいと言われてたが、この人達に罪があるとすれば韓国青年を愛したという事だけです、この人達が植民地になっていたところの男性と一緒になると言うことは親からも縁を切られ、それでもあの海峡を渡って本当に強い勇気と愛を持って渡って来てくれた、自分達の同胞を愛して渡って来てくれたこの人たちを見棄てることはできますか、見棄てることはできませんね、とキム・ヨンソンさんが言ってくださいました。

慶州ナザレ園はキム・ヨンソンさんが私財を投げ入れました。
父親を日本人に4歳で殺されて孤児だったが、自分の友達の父親がクリスチャンで学校へ入れてもらったそうです。
その後白樺の木から油を取るパテントが取れて、戦争が勃発してお金が入るようになった。
そのお金を元に慶州ナザレ園を設立したそうです。
慶州ナザレ園には日本人は当時34名いました。
私が皆さんの名前を呼んだら、今まで尋ねた日本人から名前を呼ばれたことが無く、呼んだら涙を流しました。
山崎さんと言う人は、両親と一緒に韓国に渡って、結婚して子供がいましたが、子供の時から目が悪くて、韓国が独立した後に又南北の動乱が有り、夫や子供を失って、彼女は洞窟で暮らしていて、食べるものが無くて草を食べたりして、風呂も入れないでボロボロな着物をきて、ナザレ園で保護されたときは人間かと思われるような状況でしたが、慶州ナザレ園で過ごしているうちに大変美しい笑顔で、色の白い綺麗なお婆ちゃんで、ハーモニカを吹いて日本の音楽を奏でています。
入ってきたときには皆韓国語で話していました。(日本人とは判らない様にするため)
今の園長のソン・ミホさんが日本語を独学で勉強して、あの方々に教えて、段々蘇って話せるようになりました。(標準語なので方言が無い)

慶州ナザレ園で亡くなる人も出てきています。
生きて帰れなくても死んで魂になったら日本に帰れます、と言っています。
歴史の中で日本は韓国とは兄弟の様に付き合ってきた時期もありました、鎖国の時代ですら朝鮮通信使が日本に来て、たくさんの文化芸術生活様式まで伝わって、日本は受け入れて発展して現在に至っています。
大事な国だったが大事なもの、絆を失ってしまいました。
武力でもって行ったことの間違いは絶対にしてはいけないと思います、まだ痛みを持っている方がいます。
歴史は繰り返してはいけないと思います。
きっと理解しあえると思います。

彼女らが韓国に残ったのは夫や子供がいたからです。
家族の中に日本人がいたら仕事は奪われ、子供も敵国の女性と判ると離れてゆきます。
ソン・ミホ園長は貴方がたは身寄りがないからここにいるわけではないですよ、貴方がたは祖国を愛しなさい、日本という国を愛してアジアの先頭の国になって、世界の平和のために尽しますように、日本と韓国がもっと仲良くいつまでも続きます様にお祈りしましょうと、貴方がたがこうしていることが日本と韓国の大きな懸け橋になっています、それをお祈りするのが貴方がたの使命ですよとおっしゃっています。
入る時は身も心もズタズタになって来た人ですが、ナザレ園で安らぎを得て日本の安寧をお祈りする中で、笑顔が輝いています。
ソン・ミホさん 2代目園長 博士号をもっていて、日本人女性の為に身をささげてくれる人。
クリアしなければいけないのは、人間の心ではないでしょうか、もっと相手の立場に立って理解しようと思えば、わだかまりも無くなると思います。