2013年11月16日土曜日

中西玄禮(法主)         ・人生の錦秋、花のように心を開いて生きる

中西玄禮(法主)     人生の錦秋、花のように心を開いて生きる
京都、浄土宗禅林寺法主 中西玄禮72歳 京都東山の山の斜面にお堂が並ぶ禅林寺
創建されたのは、平安時代の初めの863年 「永観堂」いうの名で広く知られる古刹です
毎年秋になると境内を埋め尽くします
本尊の阿弥陀仏は首を左に傾げ、振り向く姿から「見返り阿弥陀」と呼ばれ、多くの人の信仰を集めています
第90代法主を務める中西さんは、幼稚園や学校、企業に出向いて法話を行う、出前説法を続けています
もともとは兵庫県姫路市のお寺の生まれで、幼いころから寺の暮らしを真近に見て、僧侶にはなりたくないと思っていました
そんな中西さんが仏の道に入ったのはなぜか、70歳を過ぎた今、社会の中でどんな存在であろうとしているのか、伺います

中学(昭和20年代)、高校1,2年までは坊主にはなりたくないと思っていた
人の死の不幸でもって、家の家計が成り立っているのなら、僧侶と言うのはなんと言ういじましい職業なんだと、ちょっと耐えられないと思った
高校2年の時に進路を決めなければならない  教師になりたいと思ったが、父親の本心は仏教系の大学に行って、仏教を学んで後を継いでもらいたいと思っていた
先生に相談した、人の不幸で生活してゆくような生活は嫌ですと言ったら、坊さんは大変尊いお仕事をしていただいていると私は思っていると、私の母親が亡くなった時に一緒に悲しんでくれて救われる様な気がする、尊い仕事をされていると思っている
どうしても坊さんが嫌だと云うのであれば、嫌でない坊さんになったらどうだと一喝された
その言葉に目が覚めた 

2年から3年の間の春休みに、永観堂でお坊さんになるための、資格を取る修行期間がある
2週間泊まり込んで、厳しい修行をするが、ここに入って修行したが、過酷だった
朝3時半起床 一日三回 朝4時、昼10時、夕方4時 水をかぶる
京都は結構冷え込むので、氷を割って水をかぶる 其れがお風呂代わりなんです
身体を清めて、衣に着替えて、本堂で2時間、言行を行う 正座がきつかった
出前説法 ただ仏様の教をつたえると云うことなんだけれども対象に依って伝え方が違う
(幼稚園児、小学生、青年、お年寄り)
テーマ 「二度と無い人生だから」(坂村真民)という詩があり、テキストにしながら二度と無い人生をどのように生きていけばいいのか、其れを仏教ではどう教えているのか、が一つのテーマになる

美しき人になりたく候」 女性を対象にした講演 会津 八一早稲田大学の教授の言葉
美しく生きると云う事はどういう事なのか
①深くこの生を愛すべし  自分の生命、人生を深く愛してゆく事が美しく生きてゆく生き方
②かへりみて己を知るべし 
③学芸を以て性を養ふべし
④日々新面目あるべし

ベースになるもの 「恩に報いる」  恩を知り、恩を感じ、恩に報いると云う事である
父親母親、周りを取り巻くいろんな人々の御恩を大切にしなくてはいけないんだと云っている
老人会 自分が子供のころの親や、周りの人はすでに亡くなっている場合が多いので、お墓参りするとか、法要にお参りすることしかできない 
恩返しができなくなったときに「恩送り」がある
直接返せないので、その人から受けた恩を違う人に恩を送る
親から受けた恩を子供に恩を送るとか、受けた恩を次の世代に、あるいは誰かに恩を送ってゆくことはできる 
 
残りの人生は、恩送りの生き方が大事だと思っている
生きると云うのは、確かに辛いことですが、残された家族の方々にどれぐらい寄り添えるかが、大きな仕事だと思っている
お坊さんの役割りは、今つらい思いをしている心の中に、なにがしかの希望の明かりをともしてあげる(人生の応援団)

どういうのが嫌でないお坊さんか   
一休さん、良寛さん 本質的には禅の修行を積んだ人 子供達からも「さん」付けで呼ばれる
だれからも親しみをおもってもらえるようになりたいと思っている
7代目の住職が「永観」 正しくは「ようかん」と呼ぶ
50歳の2月15日 お釈迦様 涅槃  前の夜からお堂にこもって念仏を唱える
6万遍の念仏を唱えながら、阿弥陀様の周りを回る
夜が明けるころになって、自分が唱える念仏のほかに、念仏が聞こえてくる
良く見ると、壇の上にいらっしゃるはずの阿弥陀様が、いつの間にか壇から降りて、自分を先導するように前を歩きながら念仏を唱えていた
余りの不思議さに吃驚してそこに立ちつくして、うずくまるように念仏を唱えていると、阿弥陀様がふっと左から後ろを振り向かれて「永観遅し」と声をかけられた
うずくまっていないで、一緒に唱えようと云われた
阿弥陀様が振り向いたままの姿で今もなお立ちつくしていらっしゃる という伝説がある

自らを省みる 今までの生き方を深く反省する  遅れてくるもの、今立ち上がって生きようとする気力さえ失っているもの そういう弱者 仏さまの前に回って拝むことができないそういう人々を、だからこそ見捨てないんだと、振り向きながら気にかけ、気にかけ見守り続けているよという姿
と同時に、振り向くと云う姿の中には、私たちが過去に忘れてきた日本人の美意識、倫理観、お互いが助け合ってゆく観念、美徳、価値観をもう一度取り戻そうよ 
失ったものに対して、其れが実は大事なんだよと示してくださる
更に、若い方々に言っているのは、阿弥陀仏が振り向いて待ち続けておられるのは、①飽きず、②焦らず、③諦めず という三つの心がこの振り向き待つという姿の中にあらわされていると思う
無量寿経 「志願無倦」(しがんむけん) 忌むことがない 飽きることは無い
願を果たして倦む(退屈する。嫌になる。飽きる)ことが無いこと
阿弥陀仏が全ての人を救おう 志願 誓願 そういう思いは飽きる事もなく諦める事もない
諦めない阿弥陀の志願、誓願が立ち止まって振り向き、待ち続ける姿として表現されているんですよと、お話をさせてもらっている

仏教では、共通の教えがあって  仏教の三本柱
①報恩感謝(「ありがとう」という気持ち)  
 さまざまな御恩を感じ、その恩に報いると同時に御恩 に対して感謝する
②懺悔滅罪(「ごめんなさい」という気持ち)  
 御恩をお頂いている自分でありながら其れに反する行為、恨んだり、ねたんだり、相手を傷つ  けたり、これまでどれほど繰り返してきたか、どれほど親不幸をしてきたか、気付かないところ  で、親だけでなく周りの人にどれだけ迷惑をかけてきたか、至らない自分であったという、そう  いう罪深さを反省すると云う事
③誓願立志(「お幸せに」と願う気持ち)  
 自分一人が幸せになると云う事を追い求めている時代はもう終わった
 縁のある親、子供、家族、のある周りの人々の御縁を大切にしながら、そういう方々の幸せの ために自分は何ができるか、其れを考えながら、一人でも多くの人を幸せに繋がるような生き  方をしようと願い、更に其れを実践してゆく
 その人の幸せのために何かできなくても、その人の幸せを祈ることはできる
 
「惜しみなく与える人になろう」と出前説法の最後にいつも言っている
無量寿経の中に在る言葉 
和顔(わげん) 愛語(あいご) 先意承聞(せんいじょうもん) 小欲知足(しょうよくちそく) 
お金や物ではなくて誰にでもできる尊いお布施がある 心が通い合う大きな力がある
①和顔 明るい笑顔   赤ちゃんの笑顔は周りがなごむ 心がなごむ 自分も笑顔になる
  心は開けるそうすると、心が通じる
②愛語  愛情のこもった言葉  おはよう、お休み いただきます ご馳走様 ありがとう
 はいと云う返事
③先意承問    相手の心を承る 相手の気持ちになってみる 相手を思いやる心
 尽くしあう、支えあう構造
④小欲知足  現代に求められているキーワード 欲を少なくして足りることを知る
 今が幸せだと感じられなければ永遠に幸せは来ない
 今生きているだけで十分に価値がある

もみじ もみじが散るように自分も土に帰ってゆく事があるのかもしれないと無意識に思う
「阿弥陀仏に  染むる心の  色に出でば  秋の梢の  たぐいならまし」
(あみだぶに そむるこころのいろにいでば あきのこずえの たぐいならまし) 法然上人
阿弥陀様のお慈悲の光に照らされると、秋の梢には真っ赤な葉もあれば、黄色い色もあれば、青い部分もあり、虫食いもあれば、大きな葉もあれば、小さな葉もあり、それぞれがそれぞれの色を発して、非常に錦の様な鮮やかな輝きを見せている
人として此の世に生きとし生けるものは阿弥陀仏のお慈悲の光に照らされると、年寄りは年寄りとしての光があり、若い人、赤ちゃん、男、女 それぞれに光があり、個性を輝かせつついずれは仏さまの浄土、大地に帰ってゆくのですよ と云っている