2013年11月14日木曜日

挾土秀平(左官技能士)     ・世界に発信、左官の技

挾土秀平(左官技能士)    世界に発信、左官の技
挾土さんは1961年、岐阜県高山市に生まれ、父の後を継いで左官職人になりました。
30代半ばでセメントを塗る仕事から土壁を塗る仕事に、取り組み始め伝統的な技術を高度に駆使して、土壁塗りをする一方で、従来の左官仕事には見られないアートと呼ばれる造形作品も試み、左官の仕事に新風を吹き込んできました。
挾土さんのこれまでの仕事には、岐阜県の文化財である土蔵の修復、北海道洞爺湖サミットの土の円卓、首相官邸の桜色の壁、ホテルの金色の壁など、近代的でユニークな発想の物が多くあり、その仕事は日本から世界へと広がっています。
挾土さんは今年度、日本の文化を海外に伝える、国の文化交流師に選ばれ、ニューヨークで講演や左官仕事の個展を開くことになっています。
土壁を塗る仕事には生きる喜びがあるという挾土さんに伺います。

「歓待の西洋室」 大正5年に高山市内に建てられた洋館 長い年月放置されて壊れかかっていたものを挾土さんが譲り受けて移築して、究極の左官の技で修復中です。
20坪ぐらい 魅力、和洋折衷 混沌としている状況の時、本当に日本人が西洋の物を受け入れて、日本的に西洋を表現している、何とも言えない品格がある建物だと思う。
西洋でのモールディング 天井に在る装飾 ほとんど石で作られているが、日本人は土で作っているとか、木で掘って作っていてそれに漆をかけいるとか、なのに畳が敷いてあるとか、其れがミスマッチしていない。
日本人の感性がどれほど、優れていたとか、日本人の品の良さが表れている。
私は、それと、今の感覚と織り混ぜた、現在と和洋折衷の中間をやってみたいと思っている。

天井 創建当時は白い漆喰だったと思うが、見たときにはグレーだった。
多分落ちつくだろうと、グレーの砂で作ってみようと思った。
奥のある感じを目指している。(人の目は奥深さ、分厚さを感じる)
左官は絶滅危惧種であると思う。  
今家はいっぱい建っているが、全部パネルの組み立てで工業的に作られたタイル調とか、木目調で、其れをただビスで打って、パーっと出来ちゃう。
今の家に和室は無いので、大工は必要ないし、左官も必要ない。
職人は不必要な家になってきてしまっている。 
半分腐ってきているように、ひねくれてきているが、やっぱりさっき言った厚みのある物がしっかりとした腕で、しっかり塗られた空間をたまに作ると素晴らしい、其れは消しちゃ駄目だと思う。

アメリカで今度個展を開く 左官は水もの仕事 大工は図面があり、伝わりやすい。
左官はその時の土の粘り、どれだけ砂、水を入れるか、天気、四季、塗る厚み、広さ等に依ってその時々で全部違う。  口とか図面では伝えられない。 
日本の左官は世界一だと思う。 
アメリカに知らせれば、日本人も凄いんだと、気付いてもらえるのではないかとどんな反応があるか、試しに行ってみる。
父の時代に左官 私は2代目 どうも私の一族は古いタイプの家で、後を継ぐのは当たり前な感じだった。
最初セメントを塗る仕事をした。   
全国技能コンクールで優勝、2000年ぐらいの時に土に取り組む。
27歳ぐらいになった時に、飛騨にバブルが来た、建設ラッシュで儲かってゆく。
ただ、人が物の様な感じだった。 人の取り合い、人間関係が最悪だった。 
金の亡者と言うような状況、人間不信になる。
土壁を知る。 真反対でセメントはカチカチとなり、失敗したら、壊すが、土の場合は容易に直せるし、色、感触、見た目、セメントとは全く逆だと思った。

土壁は呼吸をするし、部屋の空気を柔らかくする。 
土壁は身体にいいんじゃなくて、精神に良いと思う。
家の外部を縫って、その近くに大きな木が立っていて、木漏れ日が壁に当たって、モミジなどの影の葉っぱが揺れているのを見ると、ぼーっと見ていて是が最高だと思う。
土の種類 使いにくい土は使いやすい土を混ぜればいい。
今は手に入る土でどうやるかを考えている。(その土地に在る土を使うのが良いと思う)
土に無い色が緑 日本中探してもなかった。 緑色を土(茶色、黄色とか)に加えると落ちつく色になる。
キプロスに緑色の土があった。  みつけたときは感動した。
土、水、光 凄い大事なものと思っている。
木は土が伸びるている。  花は土が咲いた。 石は硬い土 亡くなれば土になる。 
土で植物が繁栄する。  土は一番もとになる。
土は人を裏切らない。 自分の腕、やり方、練った土の分量、で壁ができる。 
土はちゃんと答えてくれる。 
日本人と左官は離れ過ぎている。 
講演するが、左官を知らない人が非常に多くなってきている。

壁作業 子供、感動する子と泥が汚いと云う子が半分半分。
古い建物の修復 高山に県の指定文化財の土蔵があったが、伝説の土蔵がある。
江戸の神田で人をあやめて、飛騨に逃げてきた左官職人 江戸屋萬蔵と云う名前。
偽名だと思うが、飛騨の職人町に住む 囲う土蔵を作りだしたのが、江戸屋萬蔵だと言われる。
国学者 田中大秀竹取翁物語解』など)の書物蔵を作った。  
駆け落ち人を江戸屋萬蔵が追いかけて行って、返り討ちにあって47歳で死んだと云われる。
その人は、腕がすごく良くて、絵心があって、才能がある事が判る。
その土蔵を34歳で修復した。 漆喰が白、飾り窓が黒 壁は黄色。  
中塗りの表面を出したところは 薄いピンク、黄色、グレー が試験塗りがしてあった。
これを観て色を決めたと思われる。(黄色だが、もし薄いピンクだったら本当に感動もの)

250年経っていた土蔵があった。上塗りのしていない土蔵だった、「結い」皆で総出で作った土蔵
土壁 4cmくらい 落ちている部分がある(剥がれた状態) 剥がれた姿をそのまま新しくした。
創建当時にしたくなかった(ただの箱になってしまうので、と思った)
復元論争になった。 
文化財保護審議委員会は「創建当初に」  
左官職人は「時の復元に」という新聞の題目だった。
昔の人は手間をかけてるなと言う事が良く判る。
昔は1cmを3回に分けて塗る。  
手間をかけて質の良いものを作った。
伝統 守られた約束がある。  アートと言われるが、あたらしい伝統だと思う。