2013年5月3日金曜日

篠田桃紅(女流水墨画家100歳)   ・水墨抽象画一筋に一世紀

篠田桃紅(女流水墨画家100歳)・水墨抽象画一筋に一世紀
女学校でプロの書家から個人指導を受け、22歳の時から、書を教え始め、翌年初めての個展を開きました
戦後は書以外に水墨による抽象表現に取り組み墨象というジャンルを確立しました
昭和30年代以降、日本だけでなくニューヨークやパリなどで積極的に個展をひらき、欧米の愛好家の間でも高い評価を受けました

李白 に憧れていた  父が李白の詩の中にある「桃紅」という言葉があり、これを父から付けてもらった
自分が100年生きてきたことで、いくつになったとか、覚悟を決めるとか、考えたことは一度もない
昨日と今日 明日と 毎日同じこと 年に依って考えることは、やはり自主的ではないという事
自分で作りたいというものが先にある  見えるものにする 道程がアートです
できたものは証拠物件みたいなもの  篠田正浩氏(映画監督)はいとこに当たる
絵と人との結びつきかたはは1000人いれば1000人違う (毎日見たい もう飽きたとかいろいろ)  
「東京文化会館」のロゴの文字を要望されて書いた
最初 父から教わった 正月に書を書くのが、家の風習であった  自然に親しんでいた
学校ではまねの上手いほうが点数がいい、独創的な事をやっている子は点が悪い 
あれはよくない 創造力のある子を駄目にしてしまう 
才能のある子は出られなくしてしまうという弊害がある
学校ではお手本の通りに書く様にせざるを得なかった(人真似が良ければいいという考え)
一種の問題児ではあった(勝手なことをついしてしまう事があった)理解してくれる先生もいたが

父は生意気な娘だとは言っていた 
母は大好きだったが、父が封建的であったので、結婚には疑問を持っていた
一人で生きていかれたら生きていきたいと思っていた (いつかは家をでなくてはいけないと思っていたが) やっぱり何かやって一人で生きていかなければと思って書道をやった
とにかく家をでて、習字の先生になって独立しようと思った 書は生き方の助けになった
アレンジが面白かった 書から抽象画に発展した
たとえば「川」 三本を書くが、私だったらいくらでも表現する方法がある。 
1本でもよし、千本書くかも知れない  好きな線、好きな形、好きな墨色 絵具を入れてもいいし、自分の形を作りたいと思って来た 
当時はわがままと言われた 抵抗が多かった わがままな娘と言われた

当初は認めてくれる人はいなかった 
戦後になってアメリカの人が認めてくれた、だから真っ先にアメリカに行った  (一部の日本人も認めてくれたが)
1956年に最初にアメリカに行く 
当時は行くのに大変な時代 費用、滞在費は向こう持ちでないといけない(作品を認めてくれた)
ニューヨークで展覧会を開く ニューヨークタイムスにも載る ギャラリーが400ある 
一流と思われるのが10に満たない  一流ギャラリーでないと新聞には載らない 
2年先までスケジュールが決まっている
いろいろ思いめぐらして、なんとか一流のギャラリーで展示したいとは思っていた
(日本ではギャラリーが銀座に5つか6つの時代だった そこは400あった 層の厚さを感じる)
一流ギャラリーのうちに6つまでは女性のオーナーだった  これには本当に吃驚した
アメリカという国に惚れた

アートは女性の大きな領域だと思う (日本では抑えられてきた)
展示会でまあまあ認められた 自分の好きなことをやって認められた事がうれしかった
2か月のビザで、2年滞在した
帰国後 自分の思うような事を描けばいいと思って、自信がついた
こうするべきだというのが日本では先に立ってしまっていた 
日本は自由の本質を知らないで来た  
自由というのは自分に責任を持つ事ですから日本では当時、自分の意見を持つことが少なかった

社会との戦い(大げさな言い方かもしれないが)に当初、エネルギーを使ったが、段々それが少なくなってきた(日本でも理解されるようになってきた)
この世に無いものを作り出したいと思っている  生み出すという事  
心の中にあるぼーっとしたものを目に見えるものにしたい(想いを形にしたい  抽象の世界)