2012年12月6日木曜日

森下洋子(バレリーナ)       ・時代を作った女たち


森下洋子(バレリーナ)         時代を作った女たち
3歳でバレーと出会う  S46年松山バレー団に入団、1974年にはブルガリアで開かれたヴァルナ国際バレーコンクールで金賞を受賞  世界のプリマとして世界で注目される様になりました  
以来日本人としてただ一人ローレンスオリベエ賞を受賞するなど世界の舞台で活躍しています  

全身のいろんな筋肉を訓練している  
毎日毎日を新鮮に1年生のように稽古して行かないといけないかなあと思います
毎回違う 嫌いではないので絶対にない 又完璧と言う事もない  
絶対に今日はああしてみよう 明日はこうやってみようと とかいつも何時も新鮮でいることが 人間として凄く大切な心を磨く事が やっぱり大切かなと思うと同時に、人間として生まれてきて、死に至るまでに矢張り魂を磨く事が大切  
そのために生れてきているんだなあと思います  

皆魂を磨いて人に対してありがとうと言う言葉が素直にすぐ出るような人間でなくてはいけないと思うんですが、人間完璧ではないので神様とは違うので それでもいつも何時も思って生きることが そしてなんでもよい事をおもったり、一つの事をプラスに考える事が 、随分変わってくると思う その人の人生に  だから前向きに今日は旨く行かなかったかもしれないけれども 明日は旨く行くかもしれないと思う  
私は不器用で新しいものをやると出来ないのだけれど、家で繰り返しやっているうちに出来るようになる 親が拍手をしてくれて励ましてくれた
やっていけば出来るんだと思うようになった (何で出来ないのとは親は一切言わなかった)
今日一日 を大切にして、一日一日の積み重ねしかない そうしたらこうなっていた
とにかくバレーを続けたいし、毎日練習もしたいし、ああよかったと思う  
私が生きていること自体がバレーだと思っている
作品を作る時は皆がベクトルを合わせて共有していかないと出来ない  
一人のスターがいれば周りはどうでもいいと言う事ではなくて
暖かい空気を皆さんに差し上げたらいいと思い一緒にやっている
3か月ぐらいヨーロッパとアメリカを言って ヨーロッパの舞台を見たりして、素晴らしいが自分にずしんと胸に来ることが無くて、日本に帰ってきて、松山先生の舞台を、みた時(「白盲女」)に鳥肌が立つ感動を覚えて、松山先生に教えてらいたいと思った
 
中身が人間としての大きさとか温かさとか存在感に圧倒された 「白盲女」(中国) 松山先生が映画を見られて1955年にバレーを新たな演出で作った
人間としての本質 弱者、や苦しんでいる人達が一緒に立ちあがって 素晴らしい国を作る、素晴らしいものを作ると言う事は私達とのバレーでもおんなじなんですよね  
それは本質の本質であって、たまたまアジアの物語であったけれども、人間として、人として弱者や皆で力を合わせて 素晴らしい生きざまを皆に世界中に知らせる
皆が手を繋ぎ 世界平和いろんなことで祈りを込めて作った作品なので みなさんは感じてくれると思う
バレーは優雅なロマンチックなものと思うが、そこには人間がどう生きるかとか世の中どうあるべきか人と人のつながり、どれだけ思いやりを持ったりすることが、大切なんじゃないですか 
舞台から皆さんに一緒に祈りましょう、一緒に手を繋いでやって行きましょうと 本当の本質ですよねそれが そして美しさ もなくてはいけない 
そして夢みたいなものがあれば    夢もなくてはいけない そして夢みたいなものがあれば 心の洗濯機ですと言われる  
   
少女の頃から天才といわれていたが  世界で評価を高めたのが1974年のコンクール  
芸術とは点数を付けるものではないと思っていたが 初めて参加した
金賞を受賞して世界に羽ばたくきっかけになった   
ヴァルナ国際バレーコンクールでは金賞をそれまでロシアが取っていた
日本人でもバレーを出来るんだと言う事を日本の人を含めて判ってくれたのが嬉しかった  
日本の繊細で秘めた強さ を外国の人は感じたようだ
細やかさ 相手を思う気持ち ・・・日本人の心の部分が踊りの中に自然に出てくる 
海外のバレー団への所属は一回も考えなかった 純国産です  
バレー一筋の人生  でも本当に幸せです 子供のころは身体が弱かったので運動をするようにいわれて、幼稚園でバレーの教室が始まって、バレーを始める

身体も元気になって、小学校の頃東京のバレーだんが来ていてそれを見て東京に行きたいと思った
広島では先生から、本気でビシビシと叩かれながら怒られて、その事が、しっかり子供と向き合わなければいけない事を教えられた
バレーの技術を教えられたという記憶よりも、人間としての、強さ、暖かさ、思いやり、感謝等がいかに人として大切かを教えられた
東京へは休みになると一人で12時間電車に乗って、出掛けた (小学校2~5年生まで)  
5年の時に両親に東京に行きたいとお願いした(電報で着いた事を知らせる)
私達の知らない世界なので お金はだすけれども、口は出さないと言われた  
これは有り難かった (両親の勇気が有り難かった)
バレーが好きでそれしかなかった   祖母は被爆して半身がやられる 

祖母の明るさ プラスになんでも考える明るさと強さ 命の生きていられることに対する感謝
喜びをまざまざと見せてくれた祖母だった  
祖母と一緒にいて、祖母の強さを教えて貰った事が非常に影響が有ったと思う
後遺症が有ったと思うがそのことは一言も言わなかった  
自分の人生に凄く影響を与えてくれたと思う  
祖母がバレーを何回かみてくれて涙を流してくれた
平和への思いを込めて踊っている  バレー人生の中で大きなターニングポイントになったのは あなた何のために踊っているの?といわれた時に 一瞬好きだからと、思ったんだけれど、人々の幸せの為とか、勇気を与えられたらとか、世界皆が平和に成って、幸せに仲良く手を繋ぎあえるようなものを出すのが私達の仕事 そうなんだなと 清水哲太郎さんからぼそっと言われた事に対する思いでした   これが一番のターニングポイントでした

清水哲太郎さんと結婚する  所謂パートナーではなくまさに戦友だと思う   
作品、等を作っているので一日中考えている
普通の夫婦とは違っていると思う 私達はそれがベストだと思っている  
大震災 で 世界の皆さんが温かい援助や応援をして下さったので 芸術を通してもっともっと人々が幸せを願う事、 それを強く感じた
いまも苦しんでいる人が沢山いると思うが皆で助け合って やっていけたらいいなとおもうし、私達は舞台上から、もっともっと強く出して皆さんに勇気や希望を与えれればいいなと思います