大川栄作さんは昭和を代表する作曲家古賀政男さんの最後の内弟子でした。 今も古賀メロディーとして歌い継がれる名曲の数々を残した師匠古賀政男さんについて伺いました。
古賀政男さんは明治37年福岡県大川市で、8人兄弟の6番目として生まれました。 5歳で父を亡くし、母と姉、弟と一緒に一番上の兄のいた朝鮮半島に渡ります。 4番目の兄からマンドリンが届いたのは13歳の時、このころから音楽家への道を志す様になりました。 大正12年日本に帰国し、明治大学予科に入学した古賀さんは仲間と共にマンドリンクラブを創設、卒業後はプロの作曲家として歩み始め、20代の若さで「酒は涙かため息か」「丘を越えて」「影を慕いて」などヒット曲を世に送り出しました。
その後も「東京ラプソディー」「人生の並木道」「誰か故郷を思わざる」「目ン無い千鳥」「湯の街エレジー」「無法松の一生」「東京五輪音頭」など戦中戦後の歌謡史に残る名曲の数々を生み出しました。 1959年には日本作曲家協会の初代会長として日本レコード大賞を創設、6年後「柔」で自身のレコード大賞を受賞します。 又作曲活動の傍ら、音楽親善大使として世界各地を回り、1974年には広島平和音楽祭を開催、音楽で平和を訴えた古賀政男さん最後のレコードは第4回の広島平和音楽祭に当たって、島倉千代子さんのために作曲した「広島の母」でした。 古賀政男さんは古賀メロディーとして、今も歌い継がれる数々の名曲を残し、1978年(昭和53年)73年の生涯を閉じました。 国民栄誉賞が贈られました。
村田英雄さんがデビューしたのが昭和33年で、小学校3年生でしたがその歌を聴いて感動しました。 「無法松に一生」をしょっちゅう歌っていました。 古賀先生とは同郷で、昭和39年に父に連れだって古賀先生とお会いすることが出来、歌いました。 上京するように言われました。(高校1年生 卒業後に上京。) 古賀・・歌謡学院という音楽学校の初等科に入りました。 「古賀音会」と言うところには20人ぐらいがいましたが、その中に入れていただきました。 1年半ぐらいしてから内弟子生活に入りました。 「歌は声のお芝居だから、ストーリーと言うものがあるので、それにふさわしい表現の仕方をしてゆくんだよ。」と言われました。
庭木の手入れ、車を洗ったりとかもしていました。 レッスンはたまにありました。 弟子入り2年後にデビューしました。 1969年「目ン無い千鳥」でレコードデビュー。 一時期放送禁止になりました。 (目の不自由な方に関する歌) 30年ぐらい歌わせてもらえなかったです。 大ヒットしました。 「筑後川エレジー」はその次でした。 デビュー当時は古賀先生から衣装を譲ってもらいました。 1978年に先生は旅立ちました。 晩年は病気がちですた。 訃報は僕が肝臓で退院したら電話がかかってきて、それが知らせでした。(7月25日) 亡くなる1週間前に、僕の入院先の枕もとに先生からの花が届きました。 4年後「さざんかの宿」で大ヒットする。 (180万枚) 歌手生活30年という事で、1998年「筑紫竜平」のペンネームで作曲しています。 作曲の難しさを身にしみて感じています。
先生は「歌は水ものだ。」とおしゃいます。 「みずみずしさが一番大事で、詩に対しても声に対しても、日本人の感性、感じる気持ちをいつも大事にしろ。」とおっしゃいます。 「感動する気持ちをいつも再現できるのがプロだ。」という事が一番大事かと思います。
古賀先生への手紙
「・・・16歳の末、九州から上京し、・・・歌いたい,教わりたい。心の底から湧き出る気持ちを判って呉れる人にやっと出会えたという興奮を今でも昨日ことのように覚えています。 先生の存命中の20歳から10年間、歌手としての表現、技術を学びました。 なにより感銘を受けたのは音楽と向き合う師の姿こそが、古賀メロディーの創作の神髄であり、歌唱表現の手法なのではないでしょうか。 ・・・明日の英気を、活力を或るエネルギーに変えて、人々の心を慰め続けた古賀メロディー、華やかな音楽様式に裏打ちされ、人々の心に沁みわたるメロディーを、その時代の空気感に添えて、そのしなやかな感性でヒット曲を生み出し、大衆歌謡の父と言われた称号に弟子の一人として心から誇りに思います。 一方私人としての生活は一言でいえば、孤独との闘いの日々だったと思います。 「影を慕いて」のヒット曲の始まり、最晩年のヒット曲「悲しい酒」で幕を降ろしますが、二曲共に魂の叫びともいえる叶わぬ思いをスローワルツの甘美なリズムに乗せて、満たされぬ寂寥感とわが身の不幸を嘆く一人の人間像、その姿こそ人間古賀政男の日常に重なります。・・・物心つかぬ頃に父と死別し、8人の子供を抱えて苦労した母を偲んでの涙だったのではないかと思います。 ・・・母への愛をこめて紡ぎ出すメロディーが古賀メロディーの本質と思います。・・・戦前戦中戦後の多くの人々の心を慰め、寄り添い生きる勇気を与えた功績は計り知れません。・・・」