2025年7月19日土曜日

小椋聡(デザイナー)           ・福知山線脱線事故 記憶を語り、記録を残した20年

 小椋聡(デザイナー)       ・福知山線脱線事故 記憶を語り、記録を残した20年

107人が亡くなり562人がけがをしたJR福知山線の脱線事故から今年で20年、この日は遺族や負傷者、JR西日本社員などが現場を訪れ犠牲者を追悼しました。  この2005年の脱線事故で最も多くの犠牲者が出た2両目、この車両に乗っていて大けがをしたデザイナーの小椋聡さん(55歳)が、このほど事故の体験や多くの人との交流を一冊の本にまとめました。  小椋さんに記憶を語り、記録を残した20年と言うテーマでお話を伺います。

物凄い力で投げ飛ばされたとうような感じでした。  車体がメリメリ潰れて行きました。   空間をすっと潜り抜けたと言う所までは覚えているんですが、気が付いた時には右足が人の積み重なった山の下に挟まれていていました。 青い空が見えていたというのが印象的でした。  人の山の上の方に生きている方から動かないと下の人は動けませんでした。  「痛い、痛い」と言う声はずっと記憶の中に残り続けました。  自分の足が抜けたのは多分10~15分後だったと思います。  隣にいた女の人から「子供がいるので探してください。」と言われて、僕の上に乗っていた人がどきはじめて、子供を抱えている手が見えて、それを僕が受け取りましたが、たまたまそのお母さんの子供(4歳)だったんです。  泣いていましたが無傷でした。  

仰向けの状態で顔だけが見えた若い女性がいました。 「助けて下さい。」と声を掛けられました。  その上には沢山の人が乗っていました。  たどり着ける様な状態ではなかった。   「頑張って下さい。」としか言いようがなかった。  この人は助からないと思いました。   107人が亡くなりましたと言う風な数字ではなく、電車のなかで人が亡くなるという事は一体どういうことなのかと言うのを、きちんと伝える必要があるのではないかと思いました。  

1時間半ほど救助したりして、その後ワンボックスカーで近くの病院に運ばれました。   野戦病院の様な状態でした。  「歩いてください。」と言われて、歩けたので消毒して、ガーゼを貼って、もういいですと言われました。  タクシーを捜して帰ることになりました。  後日精密な検査を受けると、右の足首の部分の骨が折れている事が判りました。  数日後無くなっていたカバンが見つかったという連絡を受け、受け取りに行きました。  メディアスクラムと言うのに初めて会いました。  いろいろ話をして、それがきっかけとなり20年に渡りメディアの人と付き合うようになりました。

激突して遠心力で人が外にばらまかれた状態で、線路の上での沢山の人が亡くなりました。  事故から2か月ほど経って、遺族、怪我をした人たちが中心になり、「4.25ネットワーク」と言う会が出来ました。  (小椋さんは妻と共に参加するようになります。)  2回目の会合に参加しました。   生き残った自分たちの記憶が、本当に必要としている人たちにとって物凄く大事な情報なんじゃないかという事に気付きました。 

「4.25ネットワーク」の分科会として乗車客?を見つける活動をやりましょうと言う事で始まりました。  提供された写真から、自分の夫がそこに寝かされていたという写真を見つけました。  新聞記事から情報を拾い、メディア、JRに協力してもらって、負傷者からの情報と遺族とを繋ぐ「情報交換会」を開くことになりました。  捜していた10組の遺族の人は全員乗車車両が判りました。 2人に関してはどこに座っていたかまで判りました。   4回目の時に車椅子で来た女性の話と僕の記憶が同じで、下敷きになって「助けて」と言っていた女性だと判りました。 あの人は生きていたんだと思いました。 

事故から6年になろうとしていた2011年3月東日本大震災が起きました。  事故にとらわれていた自分がこれでいいのかと思いました。  示談と言う問題がありますが、JRとの対峙は6年目で終わらせることになりました。  事故から8年、2013年西宮市から兵庫県中部の多可町?に転居します。  多くの関係者が来て交流は続きました。  そのなかにJR西日本社員の小椋さん担当の高本克也?さんがいました。  引っ越しの手伝いをさせて欲しいと言う事で4人来てくださいました。  食器を一緒に片付けている姿を見て、この人たちは本当に加害者なのかなとふっと思いました。  

2015年4月に東京のギャラリーで絵の展覧会を行いました。  木村奈央?さんからいきなりメールが来ました。  事故の絵とかいろいろと東京の方にも見て貰いたいという事でした。  大変反響がありました。  

2024年東日本大震災で被災した只野哲也?さんとのつながりが出来ました。  震災時は小学校5年生でした。  多くの児童が命を落とした大川小学校で生き残った児童のひとりでした。  私も55歳にもなり、自分の口で事故のことを語り続けることがいつまでできるんだろうと考えるようになりました。   只野哲也?さんの記事に共感を覚えました。 

2024年秋に、東京日比谷ホールで講演会と対談を開きました。  只野?さん、脱線事故で1両目に乗っていた福田優子さん?、木村奈央?さんテーマは「私たちはどう生きるか。」でした。  語りつくせないとは思っていました。  補う意味で書籍を作るという考えがありました。  「行ってらっしゃい」と言って送り出した人を、「お帰り」と言って出迎えてあげられることは、実はとても幸せな事、「ただいま」と言って帰ってくれる人に、「私はあなたのことを大切に思っている。」と是非知らせてほしいと記しています。 

風化と言う言葉は使った事は無いです。  脱線事故でしか学び得なかったこと、教訓などは必ず残ってゆくと思います。  新たな人との出会いの中から、自分が語る大川小学校は意味があると思っています。  彼が語る脱線事故も意味があると思います。  語り継がれる中には風化はないと思っています。