2025年4月30日水曜日

長田昭二(医療ジャーナリスト)      ・末期がんをどう生きる

長田昭二(医療ジャーナリスト)      ・末期がんをどう生きる

 ステージ4の前立腺がんを患っているという長田さん、抗癌剤の効果が薄れてきた2024年10月に余命半年の宣告を受けました。  医療ジャーナリストとして医療の現場近くにいた長田さんに何故がんの治療をしっかり受けなかったのか、がんにかかった時どのような選択が必要なのか、伺いました。

前立腺がんは骨に転移します。  背骨、肩甲骨とかに今転移が進んでいます。  肩甲骨は今痛みが出てきています。  左手が上にあがらない。  2024年10月に余命半年の宣告を受けましたが、半年たちました。  2020年に血尿がありました。  それより10年前にマラソンをしていて脱水状態でおしっこをしたら真っ赤な血が出ました。  病院に行ったらそれは血尿ではなかったんです。  血液検査ではPSA値が高かった。  段々PSA値が高くなっていってがんが見つかりました。  ステージ1でした。  医師は手術を進めましたが、前立腺を取ってしまうと性機能を失う可能性があるので、超音波治療をやりました。  がんが生き残っていて急速に勢いを増して行きました。  2021年7月に手術でとることになりました。  手術の前の検査で転移が見つかってしまいました。  

尿道口検査は凄く痛いと聞いていたので、敬遠していたが、技術が進んで痛くなくなって来ていた。 (受けるべきだった。)   現在抗癌剤治療をしていてその副作用が出ます。  骨髄にダメージが行くので貧血になります。  だるくなる。  一か月に一回抗癌剤をしていますが、月の半分はだるさとの戦いになります。  髪の毛は抜けるんですが、また生えてきてその繰り返しになります。   最初経口抗がん剤を飲みましたが、身体に合わなくて、食欲が全く止まってしまいます。  いまは点滴のみです。  いずれ抗癌剤は効かなくなるという事はわかっていたので、何時まで効くのかは使ってみないと判らない。  

東京生まれの59歳。  日本大学農獣医学部を卒業して、新聞社、出版社に勤務して2000年にフリーになりました。  草野球、マラソン、スキーなどをやっていましたが、辞めてしまいました。  合唱はやっていますたが、貧血になると歌えないので、一昨年の演奏会で引退しました。  大学では落語研究会にいたのでしゃべるのも、聞くのも好きでした。   これも一昨年でしゃべるのは辞めました。 今は聞くだけです。  

29歳で結婚して39歳の時に2回目の結婚をしました。  こうして余命宣告を受けるとなると一人でよかったなと思います。 (気が楽です。)  『末期がん「おひとりさま」でも大丈夫』と言う本を出しました。 (昨年10月)   或る程度の知識をもっていれば、そんなにうろたえることなく前向きになるのではないかと思いました。  

余命宣告はPSA値が上がってきて、医師との間ではそろそろ来たかと言うような感じでした。  自暴自棄にはならなかったです。  変に医療に高望みをすることもなかった。   かかりつけの先生と仲良くしてゆく事、自分をさらけ出す事が重要だと思っています。   患者さんに合う先生を捜してくれたりします。   仕事は続けたいと思っています。      終活を進めています。  友達が多くて助かっています。  検査は重要だと思います。   お医者さんの言うとおりに必要な治療は受けた方がいいと思います。  自分にしか気が付かない変化とかは、なんでも先生に言った方がいいと思います。  がんはこういう風に進んでいくんだなという事を知ってゆく一つの手がかりにしてもらえれば、医療ジャーナリストとしてこんなにありがたい事は無いです。  ウェブサイトに載っています。

 




























2025年4月29日火曜日

山﨑努(俳優)              ・演じることに向き合う

 山﨑努(俳優)              ・演じることに向き合う

山﨑努さんは1936年千葉県生まれ。  高校卒業後俳優座養成所を経て、文学座に入団しました。  1963年黒澤明監督の映画「天国と地獄」で注目を集め、以来、映画や舞台、テレビで存在感のある役を演じ続けています。 

88歳になりました。  『「俳優」の肩ごしに』、と言うタイトルで文庫本にまとめました。   与えられた枠で一生やらなければならないわけです。  それは役と似ていると思います。   役も誰かが決めてくれた人物と枠の中で何を表現するかと言う事を、枠から外に出られないわけですね。  今まで生きて来た山崎努と言う役は、どういう風に産まされたのか、産まされてされていないのか、何があったのか、自分と離れて自分を見つめる。  これは役つくりと一緒で、役の人物の中に入っちゃったらおしまいなんで、出たり入ったりしなければいけない。 山崎努と言う男を半歩離れたところから見て、思いつくことが有ったら書いてみようと思っただけです。  人生も少ない訳だから、自分の嫌なところを何とか少しでも克服したいという気持ちがあって、自伝も出しました。 

読むのも好きですが、書いているうちに考えることも出来るし、スピードを落とさずに考え込まずの書くようにして、考えるようにして同時進行で、演じる事と書くことは僕の中では連動しています。   言葉を選ぶことは大変です。  日記は2001年からつけています。(24年になる。)   俳優は稽古中にメモを付けます。  それを集めたのが「俳優ノート」という本です。   役を作るうえでも参考になります。  

子供時代は太平洋戦争のさなかでした。  疎開の記憶は完全に抜け落ちています。  いい事は無かったと思います。  父は戦地から無事に帰ってきました。  裸足で迎えに行きました。  父親が帰ってきたことを長男の僕が喜ばないといけないのではないかと、演技していました。  父親と目が合って、その後の僕の演技プランは僕にはないんです。  いやらしい少年です。  自意識はそういう年頃に芽生えてくるんだと思います。  その裸足の疾走は、本当に親父にばれているのか、はっきりしないんです。  1年半後に親父は亡くなっているので、聞くチャンスもありませんでした。  その後ずいぶん気になりました。  本を書いた時点でリピートしてみると、僕と目を合わせたのが2秒ぐらいで、無表情の目だった。  という事はばれていなかったのではないかと言う気がします。  僕はずーっとばれていると思っていた。 8歳の時でした。    

芝居の好きな同級生がいて、誘われて芝居を見ているうちに好きになって行きました。  高校卒業後俳優座養成所にはいって、 その後文学座に入団しました。  憧れていた芥川比呂志さんとの出会いがありました。  日常の中に面白いことを見つけて楽しむ人でした。  話もうまい人でした。  1963年黒澤明監督の映画「天国と地獄」で注目を集めることになりました。  オーディションを受けました。(その時だけです。)  黒澤さんは、「映画つくりは半端じゃ出来ない、毎日毎日目の前にある仕事を一つ一つ片付けて行けば、いつかは終わっているんだ。」と教えてくれました。  その後の僕の人生の参考になりました。

演技をしている最中に、もやもやしたものがあるんですが、危ないんです、衝動なんですから、脳のチェックを受けていないんです。  衝動を演技に出来た時にはすごく快感があるんですね。  役を離れるわけですから、役に戻れなかったら自分が死んじゃうんです、物語のなかで自分の居場所がなくなっちゃうんです。  どうやって戻るのかがコツなんです。 

「俳優ノート」 リア王をやった時の、2年半に渡ってリア王と向き合った記録。  その時には、それで芝居を辞めようと思っていたので細かくメモを付けていました。  僕は役を引きずっちゃうほうです。   舞台に出てゆく時には怖いです。 一番怖かったのは「ダミアン神父」という一人芝居で1時間半ぐらい独りでしゃべり通さないといけない。  初日怖かった。 最初のセリフが出てこないんです。  そのうちにお腹が痛くなってきて、今日は中止かと思いました。  5秒ぐらい前に、神父の顔写真が浮かびました。  これから喋ったりするのはあいつなんだと、お前は勝手にやれと、俺は身体を貸すだけだと、思いました。  そうしたら気が楽になってパニックが解けて、出てゆく事が出来ました。

役の人物を生きてみせるのが、俳優の仕事だと思います。  うまいなあと思わせる俳優は芸を披露しているだけで、役の人物を見えてこない、そういう言い方で判りますかね。 だからどっちがいいというわけではなくて、芝居にはいろいろあっていいと思います。 

本は数を読まなければ駄目です。  好きな作家を持つと本が好きになります。  好きな作家は全部読みます。  昨年入院しました。  お腹が痛くなったのと食事が飲み込みにくく成りました。  がんでステージ4で生存率もあまり高くないという事でした。 3か月半入院して退院して今があり、命拾いをしたという事です。  科学療法で副作用も結構ありました。 手術が出来ない部位でした。  体重が20kg少なくなりましたが、10kg取り戻しました。   頭に中でいろいろ考えることがあって、頭が忙しいです。  自分からこの役をやりたいと言った事は一度もありません。  舞台はリア王でおしまいと決めていたので、舞台には立たないです。  テレビ、映画、本か、死ぬまで興味のあることをやって行きたいと思います。  









2025年4月28日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)          ・〔絶望名言〕 物理学者 アルベルト・アインシュタイン

頭木弘樹(文学紹介者)     ・〔絶望名言〕 物理学者 アルベルト・アインシュタイン

アインシュタインは1955年4月18日に76歳で亡くなりました。  今年が没後70年になります。  

「誰もが自分を知っているのに、本当に知っている人はごくわずかしかいない。」 アインシュタイン

20世紀最高の物理学者と評されノーベル物理学賞も受賞しています。  ドイツ生まれのユダヤ人でスイスの大学を卒業後、特許局の技師として働きながら研究を続け、画期的な論文を発表、ナチスから逃れてアメリカに渡りプリンストン高等研究所の教授に就任しました。  生まれたのは1879年(明治12年)  

チャーリー・チャップリンの「街の灯」という映画のプレミア賞にアインシュタインが招待されて、その時にチャップリンが以下のようなことを言った言葉が有ります。

「みんな私のことは理解しているからはやし立てる、そしてあなたのことは誰も理解していないからはやし立てる。」 チャップリン

誰も自分と言う人間のことを本当には理解されていない。  

「私が一番不思議なのは宇宙が理解できることです。」  アインシュタイン

「言葉をしゃべり始めるのが遅かったので、両親が心配したのは確かです。  それで両親は医者に相談することまでしたのです。  その時わたしは幾つだったかは判りません。  ただ3つになっていたのは間違いありません。」   アインシュタイン

アインシュタインは生涯に渡って言葉でものを考えなかった。  

「言葉で考えることはめったにありません。  考えが浮かんできてそれからそれを言葉で表現するのです。」    アインシュタイン 

アインシュタインは記憶力もあまりよくなかった。  身体もあまり丈夫ではなく、22歳の時の健康診断で兵役義務を免除されている。  胃も丈夫ではなくて酒も飲まずに菜食主義です。  

「大事なのは疑問を持つのを辞めない事です。  永遠なるものの生命の実在の驚くべき構造の神秘を観察するとき、恐れ敬わずにはいられません。  毎日この神秘を少しでも理解するだけで十分です。  決して神聖な好奇心を失ってはいけません。」  アインシュタイン

「こうも確信しています。  精神的なものからもっとも純粋な喜びが得られるのは、そういうものが生計と結びついていない時だけだ。 」    アインシュタイン

「嘘に欺かれたことのないものには幸せの意味が判らない。 」 アインシュタイン

「涙と共にパンを食べたことがないものには人生の本当の味は判らない。」  ゲーテ

アインシュタインは大学卒業後、大学に残りたかったが残れなかった。(教授に嫌われていた。)   他の大学にも行けずに、友達の紹介で特許局に行くことになる。   特許局に務めている間に重要な論文を5つ発表する。  その中に特殊相対性理論も含まれている。(1905年 26歳)  

「この理論がこの分野の同業者の間でこれほど早く注目されるようになったのは主にプランクが決然と熱心にこの理論を支持してくれたおかげです。」  アインシュタイン

家庭の方が上手くいかなくなる。 

「結婚とは偶発的小事件から何か永続するものを作り出そうとする成功しない試みだ。」アインシュタイン

アインシュタイン自身が上手くいかなく離婚することになる。(16年間)

「夫の無作法は天才だとみなされますが、私の無作法は無教養だとみなされます。」  エルザ(再婚相手) 

アインシュタインは音楽が好きだった。  自分でヴァイオリン、ピアノを弾いている。 特にモーツアルトが好きだった。  文学も好きでドフトエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」など絶賛している。 カフカの作品には理解を示さなかった。 

「何故少数の人たちがおびただしい数の国民を動かし、彼らを自分たちの欲望の道具にすることが出来るのか。  戦争が起きれば一般の国民は苦しむだけなのに。  何故彼らは少数の人間の欲望に手を貸すような真似をするのか。  国民の多くが学校やマスコミの手で煽り立てられ自分の身を犠牲にしてゆく。  このようなことがどうして起こりうるのだろうか。  答えは一つしか考えられません。  人間には本能的な欲求が潜んでいて、憎悪にかられ相手を絶滅させようとする欲求が、憎悪と破壊と言う心の病に侵されないようにすることが出来るのか。」 アインシュタイン

アインシュタインが精神分析医のフロイトに出した手紙です。 ( 1932年 53歳) 翌年にドイツでナチスが政権を握る。 

「私は人生の中で一つ大きな間違いを犯しました。  原子爆弾を作るようにルーズベルト大統領に進める手紙に署名したことです。 」  アインシュタイン

ナチスドイツが原子爆弾の製造に取り組んでいて、成功する見込みが高いと言われる。  ナチスが原子爆弾を手に入れると世界中がナチスに・・・。(よく聞こえず) それを恐れていた。

「ドイツが原子爆弾の製造に成功しないと知っていたら、私は指一本動かさなかったろう。」 アインシュタイン  (原子爆弾が日本に落とされ深く後悔する。)

「私の平和主義は本能的な感情です。  この感情が私を捉えるのは、人々を殺すことがむかむかするほど厭だからです。  戦争の理由が何であれ、私は戦争への奉仕は直接的なものも間接的なものも絶対に拒否するし、同じことをするよう友人たちを説得する。」 アインシュタイン(1929年 フロイトへの手紙に前)

「私の考えでは戦争で殺すのは、普通の殺人を犯すに比べてすこしもましではない。  良心に逆らう事を決してするな。  例え国家が命じても。  第三次世界大戦がどのように行われるのか私にはわからないが、第四次世界大戦で何が使われるのかお答えできる。  石だ。」 アインシュタイン

「前途には、もし私たちが選べば更なる幸福、知識、英知の増進がある。  それとも私たちは争いを忘れることが出来ないために、反対に死を選ぶのだろうか。  私たちは人間として人間に訴え、自らの人間性を忘れるな。  そしてほかのことは忘れよと。」       (ラッセル、アインシュタイン宣言  アインシュタインの遺言のようなもの)

「成功した人間になろうとするな。  むしろ価値のある人間になろうとせよ。」 アインシュタイン  

「どれほど仕事に打ち込んで富を築いていたところで、人類を前進させるのには役立ちません。  モーゼやキリストやガンジーがお金をいっぱい持っていろんなものを買いあさっている姿を想像できますか。 」 アインシュタイン 

「本当に価値のあるものは野心や義務感からではなく、人間に対する愛情や献身から生まれます。  私のゆくてを照らし前向きに人生に立ち向かう勇気を与えてくれたのは、親切心と美と真理でした。」 アインシュタイン  

「他の人の喜びを喜び、他の人と共に苦しむ事、これが人間にとって一番の指針です。  人間の最も重要な努力は道徳的に行動しようと努める事です。  私たちの行動が道徳的であることだけが、人生に美と尊厳をもたらすことが出来るのです。 」 アインシュタイン

「自主的に考え判断する事の出来る独創的人格なくして、社会の上向きの発展が考えられないのは養分を与えてくれる社会と言う土壌無しに、個人の人格の成長が考えられないとの同じである。」  アインシュタイン

「後世の皆さん あなた方が今の私たちより公正に平和的になっておらず、もっと分別を持っていないのなら、悪魔にさらわれてしまいますように。  敬意をもってこの心底からの願いを表明している或いはいたのは、アルベルト・アインシュタインです。」 アインシュタイン


























2025年4月20日日曜日

岡﨑育之介(映画監督 脚本家)     ・忘れてしまうその前に(岡﨑育之介)    

岡﨑育之介(映画監督 脚本家)     ・忘れてしまうその前に(岡﨑育之介) 

 岡﨑さんは東京都出身の31歳。  祖父である放送作家の永六輔さんの背中を追うように、芸能の道に進みました。  18歳で俳優としてデビュー、その後バックパッカーによる世界一周や脚本学校での学びを経て、26歳から作品制作をはじめました。  来月2日からは監督、脚本を務めた最新作「うおっしゅ」が公開される予定です。  風俗店で働く女性が認知症の祖母を一週間限定で介護することになり、とまどいつつも新たな関係を紡いでゆく物語。  岡崎さん自身の祖母とのかかわりが、ヒントになったと言います。 

一見かけ離れている様な認知症と風俗との二つを結びつけて描こうと思ったのは、脚本を書く時に二つのことを共通項として見出そうと思って、共通点として洗うという事、二つ目が忘れられるという事。  祖母が老人ホームにいます。  たまに見舞いに行くが全く僕のことを覚えていない。  行く意味があるのかなあと思う様になりました。  本作を作ろうと思った時に取材をしようと思って面会を求めました。  寝坊して時間に行けませんでした。   これを描くべきだと思いました。  

僕は認知症の原因は孤独なんじゃないかと思っています。会う意味がないのは祖母が僕を忘れているからだと思っていましたが、 逆でぼくが祖母をないがしろにしているから、祖母が後天的な認知症になったんじゃないかと思いました。 人と関わる機会が減る、人から覚えられている機会が減ることによって、認知症は後からなるんじゃないかと言う解釈をしたんです。  忘れられているから忘れてしまう。  それがソープ嬢、風俗嬢がお客さんと一時的な愛情関係で接するが、店から出るとすぐ忘れてしまう。  そういったことと近いと思いました。  その二つを結びつけたのがこの作品の起点です。

「うおっしゅ」は柔らかいイメージという思いがあり平仮名にしました。 中尾優香さんと研ナオコさんのダブル主演になっています。  研ナオコさんはファニーなキャラクターとしてイメージが合うと思ってお願いしました。  「妥協するなら出ません。」と言われました。  徹底してやりました。  決められた介護は決していいものではないと思うんです。  見終わって、おじいちゃんおばあちゃんに会いに行こうと思って電話してもらえることが起きたら、作った意味があると思います。 行動の端緒になってくれればうれしいと思います。   デビュー作が「安楽死の勧め」  コメディーに描いています。  死は僕にとっては切っても切り離せない人生の重要な事柄です。  

高校生で芝居の面白さを知りました。  18歳で俳優としてデビューしました。  いまは 監督、脚本家です。  22歳の時に祖父が他界したことは大きかったです。  演者側として祖父と並ぶことは出来ないから、作り手側に回ろうと思いました。  祖父永六輔は怖かったです。  祖父は照れ屋で愛情表現はしなかったけれど、ちゃんと僕たちのことを見守ってくれていたんだと、エッセーを読んで衝撃でした。   18歳の時に俳優になるという事を母と共に祖父のところへ行っってどういわれるのかなと思ったら、「楽しめ」と言われて、やっぱり相手にされていないんだなあと思いました。  今になってみると「楽しむという事」はどれだけつらい、どれだけ大変な仕事でも「楽しむ」という事がどれだけ重要な事かというのが、10年以上たって身に染みています。  祖父は晩年パーキンソン病にかかってしまいました。  祖父は10秒間無言の放送をして、その10日後に他界しました。















2025年4月19日土曜日

岡山容子(訪問診療医)          ・ゆれる心にとことんつきあって

岡山容子(訪問診療医)          ・ゆれる心にとことんつきあって 

岡山さんは4人姉妹の2番目として生まれ、子供の頃から人の死に関心を抱き、医師の道を選びます。  17年間麻酔科で経験を積んだ後、終末期医療の最前線、在宅医療の現場へと進みます。  10年前に自身のクリニックを開業、その翌年母親のがんが見つかります。  現在は訪問診療医として、患者とその家族に向き合う岡山さん、人生の最後を迎えるにあたって直面する人々の心の揺れについて伺います。

子供の頃はよく変わった子と言われていました。  身体も小さく運動も苦手で、勉強だけが得意でもあり好きでもありました。  本を読むのが楽しかったです。   中学の時の塾が「学力3分人間7分とういうスローガンを掲げていた塾がありました。  学力よりも物事を実践する子供を育てたいと言う様な先生の考えでした。  そこでの実践力がフットワーク軽く飛び出してゆける原動力を培ってきたのかなあと思います。

予備校に通っている処で、医学部を目指す学生を同じクラスになったのが、医学部に進学するきっかけとなります。  当時注目され始めた終末期医療と出会い、心を惹かれます。  私は小さいころから死と言うものをよく考える子供でした。   最初は幼稚園の頃だったと思います。  当時は見捨てられるような、あまり手厚いとは言えないようなケアを受けているように学生の時に思いました。   治らないと判っても大切にされる医療をしたいなあと思いました。  麻酔科では、麻酔をする時には生命の危険が伴いますから、生命の危険を解決するような仕事を沢山します。  救急医療にもつながるし、在宅医療をする中で急な変化にも対応できるような基礎力になるのではないかと思って麻酔科を選びました。  

集中治療室の橋本先生が、困っている人がいたらすぐ動くという事をする先生でした。  これは橋本先生から強く学んだことです。  17年間麻酔科を務めて、2013年に在宅医療部のある病院に勤務します。  医師で有っても女性であるが故の軽視される面と、逆に話をしてくれる面とがありました。   そういったことが診療スタイルを形づける原点となって行きました。  拒否されたりする場合はどうやって行けばいいんだろうというう事を常に考えながら仕事をせざるを得ない状況でした。  「弱り」が出てくると、自分が自分でなくなるという事があり、心が揺れます。  私は死ぬのかなあとか、死にたくない、早く死にたいとかいう方もいます。   心の揺れに付き合っていくようにしています。 

在宅医療に入って2年後にクリニックを開業します。  その人の生きている日常生活がベースになります。  病院は安全管理、健康管理とか管理が必要ですが、在宅での管理は難しい。  支援と言う意味が大きくなります。   押し付けない医療を大切に思っています。  私自身も納得医療を受けたいと思っています。   開業翌年母親に末期がんが判明しました。   抗がん剤治療をしていましたが、自分の判断で治療を中断してしまいます。  言って聞く人だったら一生懸命言うんですが。   高齢者向けの施設に入って、私が訪問して診療ができる様な形です。   母の意識がなくなり、呼吸も亡くなる前の呼吸になり、顔色も真っ青になり、もうなくなるなと思っていました。   父が大きな声で「よし子(?)死ぬなよ」といって、私も「お母さん 生きよう」と言った直ぐ後、呼吸が落ち着いてきました。  意識も戻って叔父とは凄く仲が悪かったが、抱き合って再会を喜んでいました。 

その後数日間は穏やかな日を過ごすが、残された時間が後僅かと言う時間がやって来ます。  父は最高のはなむけの言葉で見送って、私自身感動しました。  最新の医療で亡くなったこと(患者の気持ちを一番に考えて、辛いことを最小にしながら、自分の思いに沿った医療をうけれた。)を兄弟たちから言われました。  

クリニックには現在120名程度います。  終末期の人も多いが、そうでない方もいます。  患者さんと家族の間では抗癌剤の治療などで考え方が違う事が良くあります。  ①積極的治療を続ける、②積極的治療を辞める。  第3の選択肢として、③決められない。  ③を選ぶと結果はなし崩し的になります。  患者さんと共に私も揺れてゆく。  患者さんのご遺族に持ってゆく手土産としてお経を書いています。  クリスチャン、違う宗教の場合はお花を持っていきます。   

患者本人、家族、訪問診療医など医療従事者に対して、「心を消耗しないための講座」を定期的に開催しています。   講座の内容はこれからどんなことが起こるのか、それに対する心持、など看取りの安心勉強会をやっています。  拒否に対するコミュニケーション講座も行っています。  子供の頃から興味のあった仏教を本格的に学ぼうと僧侶の資格を取得しました。  自分の人生の中の大きなよりどころになっています。   信仰心の中の神様は絶対変わることなく私のことを必ず守って下さるので、身体の中から温めれ呉れるような力強さがあります。 

人生の最後を迎える人の心、普段通り、いつも通り、普通と言うのが私の答えになります。 本人は家の中で生活しているなかの生、生活のなかでそのときがやってくるという中で、 本人は変わることなく人生の最終段階だという事が判っている方でも、普段通りなんだなと言う事を感じています。  「一番大きなケアは、ただそこにいるという事ですよ。」と言って、「いつも通り。」と言ってお伝えするのが私の役目かなと思っています。





























2025年4月16日水曜日

山下佐知子(エグゼクティブアドバイザー) ・〔スポーツ明日への伝言〕 志あるところに道ありき 前編

 山下佐知子(エグゼクティブアドバイザー) ・〔スポーツ明日への伝言〕 志あるところに道ありき 前編

今年東京で34年振りに陸上の世界選手権が開かれますが、前回東京で開かれた1991年の大会では男子マラソンで谷口浩美さんが金メダル、女子マラソンで山下佐知子さんが銀メダルを獲得するなど日本マラソン勢の大活躍がありました。 山下さんの銀メダルは日本の女子マラソンにおける最初のオリンピック世界選手権でのメダルであり、陸上競技の女子としては1928年アムステルダムオリンピック800mでの人見絹江さんの銀メダル以来63年振りのオリンピック世界選手権でのメダルでした。  その後山下さんは第一生命グループ女子陸上競技部監督を28年に渡って務められ多くのトップランナーを育ててこられました。 

昨年監督を退任してコーチをしています。 私はコーチングが大好きでした。  生まれたのは大阪で両親の出身が鳥取です。  大阪の小学校に入学しました。  校内マラソンでは小学校2年生で学年で一番でした。  球技は駄目でした。  本格的に始めたのは中学に入って陸上部に入ってからです。  大学も鳥取大学に進みます。  鳥取大学教育学部を卒業。   4年生の1987年の時に、第5回全国都道府県の女子駅伝で一区区間賞(20分44秒)。  一旦教育職に就くが、陸上競技への思いを断ちがたく教員退職後、1987年京セラに入る。 父は中学2年の時に43歳で亡くなりました。  母は教員になることに誇りに思っていたので陸上の道に進む事にたいしては反対で、口をきいてもらえなかった。    

京セラの浜田監督は理論立てられているし、練習量も多くはなくすんなり入れました。   当時、佐々木七恵さん、増田明美さんが有名でした。  テレビでのマラソンを見て触発されました。  初マラソンは1989年3月の名古屋国際女子マラソンでした。  当時の初マラソン日本女子最高タイ記録をマーク。(2時間34分59秒)  北海道マラソンでは日本人トップ2位でした。  1991年3月の名古屋国際女子マラソンでは、自身念願のマラソン初優勝を果たす。  同年8月の世界陸上選手権女子マラソンでは、日本人トップの2位入賞を果たして銀メダルを獲得、日本女子マラソンのメダリストの嚆矢となった。  ゴールした時にはオリンピックにも出られるので嬉しかったです。(2時間29分57秒)  

「志あるところに道ありき」は本を読んでいてこの言葉はいいなと思いました。(大学時代)   







2025年4月15日火曜日

野田忠(産直市場運営会社名誉会長)     ・“四方良し”で日本農業の再生を

 野田忠(産直市場運営会社名誉会長)     ・“四方良し”で日本農業の再生を

野田忠さんは89歳和歌山県田辺市にお住まいです。  農家が直接消費者に適正な価格で農産物を販売できる直売所の良さと多店舗で量を稼ぐス-パーマーケットの良さを組み合わせた新たな農産物の流通システムを和歌山県を中心に展開中です。  野田モデルとも呼ばれるこの事業はどのようなものなのか、野田さんの人生の歩みと日本農業再生にかける野田さんの思いを伺います。 

野田さんの会社の32番目の直売所が3月にオープンしました。  今回のは2万坪の大きさがあります。  イベントホール、レストラン、カフェ、フルーツ公園などがあります。  販売だけではなく、地域の人にくつろいでいただくために併設しています。  高台にあるので大災害の時の避難場所としても利用いただけるようになっています。  直売所は多店舗展開をしています。  農産物を中心に地域の加工食品も扱っています。  地域で作られたものを中心に全て品ぞろいをしています。  生産者と消費者が直結するようになっています。   例えば蜜柑の生産者の名前が判るようになっています。   旬を感じるのが大きな特徴になっています。  23年前立ち上げ以来、約1万名の人に登録して頂いています。  売価は当人たちが決めるシステムになっています。  棚など店舗すべてが地元の木材を使っています。  

醤油、味噌などにしても全て地元の加工品です。  肉、魚も地元の物です。 魚は漁師さんがその日にとってきたものその日に出していただいています。  販売品はすべて朝早くから持ち込んで売価を決めていただいています。  売れ筋がいいと2回、3回と臨機応変に補充に来ていただいています。  今では1000万円以上を売っている生産者の方が300名以上になってきています。  1億円以上の人が10名以上います。  登録者は1万名ぐらいで毎月出荷いsている方が5000名ぐらいいます。  100円で売れた時の農家さんの手取りは75円から80円入るようになっています。  普通は35円から40円のレベルです。  収入は倍増していると思います。  私たちはローコストの運営を目指していて、商品ロスも出なくて、ローコストの運営が出来ています。  特別な時にはチラシも出しますが、普段は一切チラシは出しません。  

“四方良し”と言うのは、生産者に喜ばれ、消費者にも喜ばれ、地域循環型なので地域の方にも喜んでもらって、 社員にも喜んでいただいています。  農産物は鮮度が大事で支配?センターから1時間30分ぐらいの距離のところに店舗展開をしています。  近畿地方を中心にやってゆく計画です。  

出社は毎日のようにしています。  睡眠は8時間程度とっています。  ゴルフが好きで80歳ぐらいまでは週に一回ラウンドしていました。  昭和11年生まれで、物心ついた時には太平洋戦争のさなかでした。   農家の3男に生まれました。  高校卒業後、おじさんのところに就職しました。  卸業、小売り業の仕事につきました。  営業、集金などもしました。  昭和33年ごろまでやっていました。  新聞でスーパーの存在を知りやることにしました。  セルフサービスで毎日現金がもらえることに魅力を感じました。   昭和34年に出店しました。  ダイエーはその2年前にオープンいていました。  開店当時は色々と苦労が多かったです。(「特売合戦など)   接客サービスなどでやって来ました。  たまたま直接農家から仕入れることが出来て、品ぞろえが出来ました。  3,4軒の競合店舗がありましたが、徐々に店が潰れて行きました。  うちの店は残ることができました。  

スーパーマーケットの理論を勉強しました。  私よりも10歳以上、上の方々が中心でした。 (ダイエー、ジャスコ、イトーヨーカ堂、ニチイなどいずれも凄い経営者の方々でした。) 海外視察も行い驚きました。  駐車場を広くところでないとなかなお客さんは来てもらえないと思いました。  経営は順調に進んでいきました。  その後地産地消でえスーパーとは違った商品の品ぞろえをすれば、お客さんにも喜ん貰えるのかなと思って、直接農家さんから仕入れるビジネスが成立するのではないかと思って、1号店をオープンしました。(2001年 66歳の時)   半年は苦労しましたが、直ぐに2号店、3号店と出店させて行きました。   日本の農家さんが減少しているという危機感があり、 支援をする機関を設立しました。    55歳以下で新しく農業を始める方に、書類選考、面談をして、年間支給額を60万円として、今年で8年目を迎えます。  毎年20名近くの方を支援しています。  

令和4年のデータ、日本の農業従事者の平均年齢が68,4歳、後継者がいないという事が大きな問題になっている。  20年前は全国で200万戸ぐらいの農家数でしたが、現在は100万戸を切っているのではないかと言われています。  気象変動も激しくなってきています。  国際紛争もあり、輸入にも頼っていきにくい時代が近づいてきているのではないかと思います。   国も国内の農家さんへの支援等、もっと予算をとって頂く様にして頂かないと、食糧事情が大変なことになると思います。