2013年8月1日木曜日

中村格子(スポーツドクター)      ・ラジオ体操の効用

中村格子(スポーツドクター)   ラジオ体操の効用
ラジオ体操ですが、じつはスポーツ医学的に見て、綿密に、ち密に計算されつくした、究極の全身運動で、正しく実行すれば、健康上絶大な効果があると、力説されているスポーツドクターがいらっしゃいます
ラジオ体操の効用と、正しい運動の仕方、付随する波及効果など、国立スポーツ科学センターメディカルセンタークリニック研究員の中村格子さんに伺います

スポーツドクター スポーツをする方の健康管理や、運動指導を行うという医師の資格
日本体育協会、公認スポーツドクターという仕事があり、医師免許を取ってから、5年以上の経験 そのあと2年間の講習、審査を受けて認定されます
スポーツの怪我は多岐にわたるものなので、或る程度常識的な医師の仕事ができて、それ+アルファと言う事で5年の経験と言うのがある     アスリートを支えるるドクター

最初のきっかけは高校生の時に、同級生がバスケットボールで怪我をして、入院して手術を受けたが、お見舞いに行ったときに、そこが国体レベル以上のスポーツ選手がいっぱい入院していて、こんなところがあるんだ(スポーツ整形外科)と思って、そこの先生も又素敵な先生でああいう先生になりたいと思った
横浜市立大学医学部に進む  当時は1学年60人の学生だった
整形外科に入った時は女子は私一人であり、先輩にかわいがっていただいた
徒弟制度のような科で、足持ち3年 引き8年 筋肉、皮膚を引っ張って術野をあけておくという助手の仕事、そういう事がうまく出来ないと術者もやらせてもらえないというような修行のかかるところであった

先輩が全日本スケート連盟のトップの理事をされていて、その先生にスピードスケートチームを見てみないかと言う事で声をかけていただいた
海外遠征に一緒に行くようになった  報酬は1/10ぐらい
国立スポーツ科学センターメディカルセンター  10年ほど前に出来たところ 科学、医学、情報の3部門があり、メダルを取る事を目的にアスリートの支援に取り汲みながら、研究を行っている機関で
先進国では多い

この選手はいい選手になるなあと言うのは、解るのか?
体はほとんどの方は整っているので、あとは心、トップになる方は、そういったところが違う
人の言ったことをちょっとでいいから吸収しようとか、物事の考え方がしっかりしている人はおおい
怪我をしても、しっかりと前を見つめて、克服して進んでいる力を持っている
ラジオ体操の効用
整形外科医で22年になるが、最前線で外来、手術を一般の病院でやっていたが、たった5分しか見られない様な状況が沢山あった
運動習慣をしっかり付けてあげれば、こうは成らなかっただろうというような状況が多かったので、運動習慣、運動指導を取り入れたいと思っていたが、そういうチャンスは無かった
20人ぐらいのチームを作って、「中村先生の腰痛予防教室」とかやってみたが、それでも20人ぐらいしか教えられないので、多くの人に正しい運動を教えてあげられないかと思っていた

3年ほど前に、最初に本を出したが、できれば運動をして、身体を整えて、整形外科にかからないようにしていただきたいと、願いを込めた
自分でコントロールできる知恵や運動習慣をつけていただきたいと思った
ラジオ体操は究極の全身運動だと思う  ラジオ体操第一は短い時間で全身運動ができる
有酸素運動、無酸素運動を同時にできる  
時間当たりのカロリー消費量が多いし、運動に基本的な動きが全て組み込まれている、しかもそういった素晴らしい運動でもあるのに怪我をしない(運動で怪我をしないのが基本)
老若男女誰でも出来るし、広い場所も場所も必要としない

健康になるための運動にはどんな要素が必要かというと、老化してしまうのは、関節の動きが悪くなる(関節可動域) 肩であれば180度曲がるが、口のところまでしか上がらないとか
関節可動域を毎日2~3回でいいので最大限に動かしてあげると、いつまでも保てるもの、それが運動の基本なんですが、凡てこのラジオ体操には入っている
1背伸びの運動  深呼吸と間違える人が多いが伸びの運動です
 これから行う運動姿勢を作る これだけで姿勢が良くなる
2腕を振って曲げ伸ばす運動 膝を伸ばす曲げる 手を伸ばす曲げる
3腕を回す運動 肩甲骨がよく動くようになる 手を遠くに回すように大きく
4胸をそらす運動 しっかりと大胸筋をのばす
5腰を横に曲げる運動 腹斜筋、腹横筋を伸ばす 手に耳の横に曲げる手に引っ張られるように
6腰を前後に曲げる運動 身体を前後に動かす 3回 最初は小さく 中 強と段々深くする
7腰を捩じる運動 軸をしっかりする 

8腕を上下に伸ばす運動 一回姿勢を整える
9身体を斜め下に向けて、正面で胸をそらす運動 斜めで腿の裏の筋肉をしっかり伸ばす
10体を回す運動 両手の間に頭があるようにして回す
11両足飛び運動 ジャンプがなくなるので、足のまえを使って、音がしないように
12腕を振って曲げ伸ばす運動
13深呼吸  活性化された身体を徐々に呼吸を整える

ラジオ体操の運動量 ウオーキングよりある ジョッギングよりはすくない
いろんな筋肉(全身400以上の筋肉)を使う体操です
どこを動かそうと意識した方が、運動効果は高くなってくる
無理せず自分の体調に合わせて、続けて行くといい

コミュニケーション作り メンタル面 
仮設住宅での地域 最初は笑顔がなかったが、終わった時には会話が弾んでいたのが、とっても印象的だった
「おらほうのラジオ体操」 石巻市 方言で言うラジオ体操
国民保険体操として、昭和の初めにスタート  国民的財産だと思う
日本体育大学の創設者(日高藤吉郎) 浜田先生? 遠藤喜一郎先生? (東京女子体育大学)とかが作られた
音楽が服部正先生  25人の方たちが作られた
国民の健康を願って、無料で聞けるラジオで流す、文科省、NHK、 国 日本と言う国は素晴らしいと思いました
ラジオ体操が始まった当時は寿命は60歳ぐらい 今は80歳以上になっている
手軽に健康が手に入る 

皆が健康で、皆が長生きすることが幸せなんだろうなと、思います
長寿、長命とは違って、今は長寿が段々と肩身の狭い日本になりつつあって、悲しいことだと思うので、長寿が悲劇でない、幸せな国になる、日本になってもらいたいと思っています







































2013年7月31日水曜日

惣万佳代子(デーサービス代表)     ・富山から福祉を変え続けて20年 2

惣万佳代子(デーサービスこの指とまれ代表)     富山から福祉を変え続けて20年 2
この指とまれは赤ちゃんからお年寄りまで,一緒に支えたいと、全く知らない福祉の世界に飛び込みました
当時、同僚たちは夢のようなことをしていると3人の行動を危ぶんでみていたといいます
公的支援もなく、経営は苦しかったのですが、熱い思いを持ち続け、8年後にやっとNPO法人になることができ、富山県からの補助を受けられるよう成りました
10年後には惣万さんたちが始めた日本初のデーケア方式は、国が認めるところとなり、富山型デーケアサービスとして、今では全国に1060か所あまりに、広がっています
次なる夢をどのようにしてどのようにして、実現させていったのか伺います

自立支援法で障害者も受け入れていいという事になったので、優秀なスタッフも増えたし、経営的に安定した
2003年 富山型デーケアサービス 特区地として認められた
縦割り行政を無視して、赤ちゃんからお年寄りまでを世話することをやったことが、時代がついてきた(国が認めた)
私たちの活動を続けてきたことが、変えることの原動力になったと思う
西村さん(後輩)と2人3脚でやってきた(一人は事情で辞めた)
障害者、知的障害者を含めてショートステイ 特区で提出したが、不合格だったが、特区申請を再提出したら、今度は特区を通りこして、指定になった
身近に精神、知的な方が泊れるようになった

必要な時に必要なサービスをする  一昨年統計では全国では 1006事業所ある
今年はかなり多くなっているのではないかと想像している
東日本被災地でも、共生型施設 誰もが身近なところで赤ちゃんからお年寄りまで集まって、そこにショートステイができればいいのではないかと、あんまり大きな施設はいらないのではないかと、国は一件につき、5000万円の補助を出せばいいのではないかと、被災地に対して行えばいいのではないかと言っている
私たちの施設ではお年寄りは骨折の事故はない (下が床か畳で柔らかい  他のデーサービスではセメントで硬い)
狭いので目も届く

家族みたいな環境である 
ぱっと見たときに誰が利用者か、誰が職員か、ボランティアかわからない
1993年に開始、10年後に全国区になり、一つの目標がおわって、次に取り組みは B型就労
A型は2年後に一般就労を目指す B型は長い目で見たら、一般就労を目指すが、通ってそこで働く
この指とまれに 19年 15年と努めている人がいるが、作業所は作業所で作業するのが、作業場なので、介護の預かっているところで作業しているのは、作業所でない
作業所に派遣している事となるので、認められなかった
10年経って、県が困ってる事は無いかと、と問われたときに、この件は10年前には駄目だったといわれたが、このような形で知的障害の方が5人就労していた
この人たちにちいさな作業所として認められないのかと、県が国に言ったら、、5,6人は駄目だと
20人を目指せと言われたが、それは無理だといった

小規模 60数か所に障害者が働いているので、そこで働いている人を合わせて、20人を目標に出来ないかと言う考えになって、それならばできると、施設内就労と言う事になった
管理は「この指とまれ」  協力金を出してもらえる B型就労一人につき、5800円出る
施設内就労は+1000円  一人につき国から6800円もらえることになる
今までは大きな土地、建物を用意して、パン、ケーキ作ったりするのに、維持費が必要だが、初期投資をしなくてもいい(デーケアサービスで働くので)

一番素晴らしいなと思うのは、いろんな人たちとしゃべることができる、役に立つ仕事内容なので他に移っても、対応ができる
大塚さんは中学から高校まで、この施設の利用者だったが、この施設に働きたいとの願いで働くようになった
中村さんは会社に務めたが、会社から来なくてもいいと言われてしまい、明日からこの指とまれに働かしてほしいと、首にしないでくれと言われた
中村さんを絶賛する人もいる B型就労

県も進めているが、養護学校を卒業するとケーキ屋、ラーメン屋で働きたいとかいろいろあり、選択肢が多いほうがいいと思うが、今は介護の仲間でやっているが、やがてそういう働く人、花屋、ケーキ屋さんで働く仲間と手を組んで、仲間になって 20人ほどの仲間を作っていこうと思っている
若年性認知症の方 63歳元市役所 59歳の方は学校の先生が認知症になった人の発表
私たちは老人デーサービスに行っても合わない 塗り絵をさせられたりして、能力が少し残ってるので働きたいと言っている
B型就労の一人として、派遣しているような形態をとれないかと、介護保険では無理かもしれないけど 、何かできないかと言っていた

根底にあるのは、困っている人がいる、そして何とかできないのかなと、頭を働かしたり、実践したりして、どうしたらいいのか、制度の活用、うちからお金を出して動いて、そのうちに国が認めてくれるのではないかと、制度は後から付いてくるんじゃないのかなと、先ずは実践、活動だと思います
現場にはいろんなヒントがある(現場が良い)
初め、行政は敵だと思っていたが、今は違う 行政も民間の力が必要なんですよ
行政マンと20年付き合ってきたが、頭はいいが、頭が硬い、発想が無い、柔軟性が無い
発想と柔軟性、行動力があるのは民間のよさだと思う
それを法律、条例を変えたりして、継続して、力をつけて、後ろから押してくれるのが行政の仕事だと今は思う

富山県 住みやすい 幸せ度は福井県から2番目
死にがいのある街作り  富山で死んでもいいという、だから皆で支えあって、生きていこうという思い 現在富山県は90数か所あるが、200か所作ろうと目標をしてしている
ちいさな施設が良いと思っている
寺は1000人、2000人に一か所ある 拠点としていた  寺の数だけ有ればいいなあと思う
寺が共生のデーサービスとか、誰もが集まる拠点、原点に返って、皆が集まれる場所になって行ったら、支えたり支えられたりする、お互いさまの社会が生まれてくるのではないかと思う
死に甲斐のある は 生き甲斐のあるに通じる

一つの区切りは65歳だと思っている(あと3年) そこでまた考えようと思っている
その人らしい生き方、その人らしい死に方を支えることが「この指とまれ」の使命だと思っている
結局人間はいつかは死ぬので、よりよく生きてほしいし、その人らしい死に方で死んでいってほしいと思っている
ブータンが幸せ度 96% でも生活は貧しい 日本みたいに、医療保険、年金、介護保険もないところが幸せだと言っている
日本は3つも持っているのに、幸せとは言わない
何が足りないかと言うと、根本的な温かさ、気持ち、ぬくもり、お互いさま、支えあいが無くなってきたのではないかと、思う
どうしたらいいのか解らないが、私たちは小さな事の積み重ねしかできないが、「この指とまれ」がずーっと続いて、引退しても若い人たちにこの精神と活動を引き継いでいってほしいと思います














 




  















2013年7月30日火曜日

惣万佳代子(デーサービス代表)     ・富山から福祉を変え続けて20年

惣万佳代子(デーサービスこの指とまれ代表)     富山から福祉を変え続けて20年
惣万佳代子さんは20年前に看護師仲間と3人で、デーケアハウスこの指とまれを、富山市に開きました
この指とまれは赤ちゃんからお年寄りまで、障害があってもなくでもだれでもが利用できる、福祉制度の垣根を越えた、日本で初めてのケアハウスです
そのために8年間は、行政からの補助を受けられず、いつも経営はひのくるま、苦労の連続でした、ところが10年後、国は惣万佳代子さんたちが始めたこの方式を富山型デーサービスとして、認めるに至りました
またこの4月からは、惣万佳代子さんたちが実践してきた、障害を持つ人たちへの仕事の斡旋や、雇用が国から承認され、障害者の就労に風穴があくと期待されます
型破りの発想で、福祉の世界を変えてきた、惣万佳代子さんに20年間の話を伺います

いつつぶれるかわからないと、言われているのでよく持ったねと言われる
1日が長く、48時間にも72時間にも感じた日があった
10年過ぎからは、10年は早かったように感じる 
30時間を一日取れたら、充実していると思う 丁度いいかなあと思う
この指とまれの施設に一角に住んでいる
最初の理念 根本的には変わっていない 今は安定したこの指とまれになったと思う
富山赤十字病院に20年間看護師として働いて、最後の4年間で経験したこと、お年寄りは家に帰って暮らしたい、死にたいというんです 

障害を持った人、介護が必要な人なのでお嫁さんは働きたいために、うちでは見られないという事になる
老人病院に行くことになる  しばらくして観に行ったら、手足をひもで縛られていた
ほとんどの人が、天上向いてしゃべらないで、しゃべられたかと思ったら、はよう迎えにきてくだされと言って、手を差し出す
家の人に迎えに来てくれと思ったが、仏さんか神様に迎えに来てくださいという事が解った
看護師として、命を助けても最後のところで、泣いているじゃないかと、何かお年寄りに力になれないかと思って、友達3人と病院辞めて、家で死にたいとか、家でずーっと過ごしたいという人を
支えたいと思って辞めた

なんで赤ちゃんからお年寄りまで、そして障害者まで入れたが、お年寄りだけの対象者にしても良かったのではないかと、見学者に言われたりするが、確かにお年寄りがきっかけだったんですが、街に住んでる人たちで困っているのは、お年寄りだけでなく、赤ちゃん、障害者も一緒にささえようとした
看護の原点の対象が全ての人だから、自然にできたのかなあと思った
もし福祉大学に行ったりしていたらこのような発想は無かったと思う
小学校の卒業文集に看護師になりたいと書いた
私の母は中学2年の時にあと半年の命だと宣告された 
入退院の姿を見て、高校を卒業するときに看護師になろうと思ったのかなあと思う

母はよかったのは、居間で生活していた 皆と一緒TV見たり、して過ごした そのあと15年生きて、介護をした
人間はいろんな方たちに支えてもらいなが生きるのが、人間なんでしょうね
その代わり母も私たちをちゃんと育ててくれたし、順番なんですよね
最初、内科病棟、小児病棟、あの頃未熟児施設があったので、人生無駄が無いと思う(その経験が役に立っている)
辞めるのに凄い決断だねと言われるが、自分ではそうは思わなかった やりたいことをやるだけだから、ただよく言われたたのは生活が苦しくなるし、こんな安定を捨てて行くのは何事かと言われた(間抜けの3人と言われたが)

初めは土地、お金、の用意から始めなければならなかった
銀行もお金を貸してくれなかった  商工会議所の人が 3人が退職金を投げだして、やると これからの福祉はこういう人たちにやっていってもらわなくてはいけない、そしてそれを応援するのが国民金融公庫なのではないかと、600万円貸してくれた(有難かった)
建物で3400万円かかった(私たち3人で退職金が合計3000万円)  全国から寄付金が集まった
行政とぶつかる 赤ちゃんからお年寄り、障害者までを含むと、補助金は出せないとのこと
でもやってみたらと言われた

「この指とまれ」私がネーミングした  赤ちゃんからお年寄りまで皆がコミュニケーション出来る場所と言う事でこの名前がぴったりだと思った
最初、利用者が集まらなかった  当時認知症預かったら(9時~3時頃まで) 処置費1万円出ていたので、そこの利用料は 一人600円程度でよかったが、うちは一日居た場合に2500円 利用料を頂こうとした(指定ではなかったので補助金はもらえなかった) 食費500円プラス
600円対3000円では高いので、やっぱりそっちの方に行ってしまう
午後6時まで預かります、時によっては午後8時までみますとパンフレットを出した
土、日も見て当たると、仕事があったら、獣医の人たちが先ず来られるようになって、段々増えてきた  時間の柔軟性があよかった

平成9年、在宅障害者、障害児のデーケア事業委託された
障害者のお母さんたちが署名運動をして、10日間で120枚集めてくれて、それで市が動いて初めて委託事業をうけたが、だけどその時には社会的理由でないといけないとのことで、でも理由はいいんじゃないかと、委託された時に土、日もやっているところが利用しやすかった事と、電話一本で引き受けてくれたと、時間が遅れてきても、文句一つ言わなかった、取っても使い勝手が良かったので、来てくれるようになる
社会福祉法人等が段々、委託事業の手を引いて行った(大きいところでは土、日はやっていなかったし)
スタッフは3人+ボランティア(登録だけで32人) 人には恵まれた
平成5年に利用者は1.8人/日  8年後に介護保険が始まったので、7年間よくできたと思う
3年目、4年目には人を雇うようにした
いろんな人たちが動いてくれて、マスコミも応援してくれた
潰れるのではないかとの噂があったりし、自分の心の中ではつぶれるのではないかと思った 
介護保険と言う展望が見えてきたときに私たちが、指定になれるとは夢にも思わなかった

指定業者になれたことはNPO法人のお陰だし、県がNPO法人を進めてくれたことが、よかったのではないかと思う
平成9年度に5人規模で年間180万円頂いた 10人規模だと360万円頂ける
平成12年度からは制度で補助金を出せなくなると言われた
法人株を持ちなさいと言われて、県もNPO法人を進める事で、平成11年に認証式こぎつける
ナイチンゲールが生れた日に認証をもらえた
 
富山は共生のデーサービス93か所ある  
認知症研究している学者はそこに障害者を一緒に入れることには、反対していた
地域福祉を考えている学者さんだけが、今までずーっと応援してくださっている
忘れられない人、認知症のおばあさん とか7年、8年利用した方々は特に忘れられない
現在 職員52人(常勤+パート) 常勤は65%占める
事業拡大は出来るが、なるべく拡大したくは無い  丁寧に支えてゆくのが目的なので
一番最初に銀行からお金を貸してもらえなかったが、平成1年にマンションを買ったが、銀行から借金したが、ハンコ一つで購入した 

保証人も立てずに2100万円のマンションに1700万円の借金だったが、貸してくれた
でも800万円借りようとしたら、初め断られて、商工会議所の後押しで、600万円貸してくれるのに裸にされるように一杯調べられた
今まで信用あったのは、私ではなく赤十字にあったのかと、世の中の厳しさが初めて分かった
自分のしていることは間違いないと思った 喜ばれる仕事だったから支えられた
私は相談しに来た人には、やめられとは言わないです 
その人はその人の考えで、夢を持ってきているので、一度の人生なんだから、賭けてもいい時期があるのではないかと思うんです
人の人生の中に辞めた方がいいとは私の考えでは言えない(私も続けているからですよ)

現在 11カ月の赤ちゃんから97歳のお年寄りまで68人が利用しています




































































2013年7月29日月曜日

天野祐吉            ・隠居大学(伊東四朗)

天野祐吉       隠居大学(伊東四朗)
小林信彦が、最後の喜劇人と言った(舞台出身の喜劇者)
石井均、森川信、由利徹 が浅草あたりで面白いことをしていた
あの頃の喜劇人は、この世界は水商売と言う事で、運がつくと言うという事で、自分の名前の中に水に関係する字を入れて、運がつく字を入れた 井(井戸の井) 川 とかゲンを担いだ
笑いをやる人はいるが、喜劇はちょっと違うんだろうなと思います
馬鹿なことを一生懸命やると、皆が本当に笑ってくれるが、馬鹿な事をふざけてしまうと面白くない、馬鹿なことをやって照れても駄目でお客さんが引いてしまう

渥美清と寅さんはイコールになっちゃっている ライフワークになっているが、渥美さんにしてみれば違う役をやってみたかったと思ってたんじゃないかと思う
渥美さんは勉強熱心だった
どんな分野の人も、功なり名を遂げたひとが一定の年になると、皆さん、かっこいいことを言い出すが、伊東さんは何も言わないから、本当にすごい、根っからの喜劇人ではないでしょうか
「いまどきの若い者は」とは言いたくない 若い人から学ぶことはいっぱいありますよ
私もTVで拝見していると、喜劇人としての伊東さんは、発見できませんよね
喜劇は伏線を張って、後々生きてくるというのはあるんで、TVから離れたりして、その場面を見ていないと、なにをかいわんや、になってしまうので、今、TVで喜劇は作りにくくなってきている
劇場でやっていれば、お客さんは最後まで見てくれるので、

昔はお金を払っているので、厳しかった  面白くなければ下を向いていたりする
「帰れ」とは言われた
もっとTVなりの面白さを追及してほしいと思う反面、TVとはこういうものと思って、やっぱり本当の面白さは舞台でないと駄目かもしれない
お笑いは客席で見ているのと、DVDで見るのとでは約3割面白さが無くなる
何故かというと、DVDの場合はカメラがカット割りして取っているが、違うカット割りで見ている
全体を見てたり、しゃべっている人を見てたり、リアクションを見ていたりする
「間」が舞台では生きるが、TVでは「間」を削ってしまう

「間」は自分が作っている間ではなくて、お客さんの 「間」なんですよ 
何かを言った場合、その言葉を理解するのに、0.5秒ぐらいかかる場合は、0.5秒かかる前に次のセリフをしゃべると、不親切なんですよね  
お客さんが納得するまでの間なんだろうと思っている
客層によって間の取り方が違う(お年寄りが多いか、と若い人が多いとかかで)
パロディー ほとんど消えてしまっている  やっても解らない  笑いにならない

笑いを生みだすベースみたいなものが、少し弱くなったように思う
TVがない時代には、芝居を見たり、講談本を読んでいてものをよく知っていた
結局、下ネタだとか、転んだり、ちびだとか、デブだとか、と言う事で笑わしているのではちょっと低いなと思いますが
「いい加減」 熱くもなく、冷たくもなく  ちょうど いい加減  と いい加減(どうでも)
へんに親切にしてしまうと、つまらなくしてしまう
台本は尊重したい  アドリブは止めましょうと

今はあまりないがNG特集 私は苦手で絶対嫌だった  一種の恥だと思うが
NG特集で、でたドラマは見たくないと思う(なんだあんな事をやっているのかと思ってしまう)
「タフマン」コマーシャル 駅まえでお客さんを巻き込んで行う 市川準
台本もない時もあった なんかやってください、のそれだけ
私を追い詰める 台本なしで3パターンをやったことがある
ドラマも自分で吃驚するような役が来る
「笑うセールスマン」 いまさらと思ったが、原作者からあんたしかいないので、駄目だやってほしいと言われてやったことがある

「ひらり」で お相撲の親方の役とか、いろいろあった
「おしん」の父親役  別の私を見つけてくれる
電線音頭をやっていたころ 真面目なドラマの話が舞い込んできた  それがどうかしましたか、で、話を進めますけど、と言われ、世の中にこんな人がいるのかなと思った
喜劇人は演劇人ですから、典型的人間像を持っていて、ぴたっとくるものがあるのではないか
電線音頭 シュール(意味不明)、 サルバドール・ダリの世界だと言われた(小林信彦 言)
ただナンセンス 100% ナンセンス  ナンセンスを突き抜けてゆくと、人間と言う存在がナンセンスなのではないかと、電線マンはいくら考えても解らないのは、奥が深いと思う

あんまり喜劇に意味は欲しくない 一番のほめ言葉は、わー面白かったね が一番いい
人間を見ているようで、見ていない 
















































2013年7月28日日曜日

五木寛之            ・歌の旅人(島根県)

五木寛之          歌の旅人(島根県)
古代から人が多く住んで、たたら製鉄 文化を作ってきた
源日本といった感じのするところ
以前お寺を訪ねる旅をしたことがあり、三徳山三佛寺、大山寺、一畑薬師、清水寺とかを訪ねた
隠岐を訪ねる旅が印象に残っている
出雲、口が重く、物静か、思慮深い
いわみ、はっきりものを言って行動的
隠岐、独立心が多生、ひとに頼らず頑張りぬく

音楽関係 中里 綴(作詞家) 「人恋しくて」 作曲、田山雅充
山陰という名称がいやだと言う事で 「北陽」と言う名称が上がったが、結局山陰となる
小泉八雲 心の中の暗部、松江、山陰とかの自然と人情というものが重なり合ったんではないかと思う  コンプレックスのある人だったと思う
松江などは行儀のいいところがあって、かけごとが嫌いな地域 謹厳実直
森鴎外(津和野)  西周(思想家)  岩谷直治(プロパンガスの父)  徳川夢声 
島村抱月(松井須磨子  「復活」 トルストイの芝居を松井須磨子で上演して、主題歌がその当時としては、超大ヒットした 日本のレコード界の第一号)
トルストイは第一回ノーベル賞文学賞は間違いなしと言われていたが、諸事情により逸する
「カチューシャ」の歌 作曲中山 晋平 

河井 寛次郎(陶芸家) 安来節(浅草ロック座などで、上京してきて、安来節の一座があって興行した)
渡哲也(安来市) 「くちなしの花」
俳優 芦田伸介、江角まき子  園山俊二(漫画家)

隠岐の島 道前、道後に分かれている
乃木大将がステッセルと会談をするが、白い軍馬を贈られるが、学習院の院長時代は、愛用していたが、晩年になって馬は隠岐に送られて、隠岐で晩年を過ごした その馬の墓がある
学問の盛んなところ 或る程度の歳になると、京都に行って学問を学んで帰ってくる
明治維新のころは、新しいコミューンというか、隠岐の国の独立運動があったが、制圧された、隠岐騒動があった
尊王の気風の強いところ

「都万の秋」 吉田拓郎  隠岐の都万(つま)という村
吉岡 隆徳(出雲) 「暁の超特急」 100mで一時期世界記録を出した
竹内まりや  「駅」  錦織 健(テノール) 世良譲 森英恵  安野 光雅(画家)
石見銀山 世界遺産 宍道湖のしじみ 「だんだん」と言う方言→「有難うございました」













 








2013年7月27日土曜日

大乃国(第62代横綱)      ・故郷が支えてくれた相撲人生

大乃国(第62代横綱)    故郷が支えてくれた相撲人生
本名、青木 康 1962年昭和37年 根室町の出身 中学3年生の時にスカウトされて相撲部屋に入門しました
1991年平成3年に引退するまで、土俵人生をさせてくれたのは、故郷十勝だったそうです

現役の時は、最高210kgぐらいあったが、現在160kg 地元を出てゆく時は現在の半分でした
1978年昭和53年に初土俵 1985年昭和60年に大関 1987年昭和62年に第62代横綱
1991年平成3年に引退  それまでに426勝228敗 優勝2回 現在は芝田山親方
本業とサイドが間違われる スイーツで有名になってしまった
生れたときは健康優良児 地区の大会で優勝して、札幌まで行った
小学校1年生の時に3年生ぐらいの体格があった、小学校4年生のときには背の低い先生を上から見下ろしていました
言葉は少なく、気は優しく、力持ちと言うタイプだった

子供のころは、冬場は豆をより分けたり、春先になると種イモをきって準備したりとかの単純な作業は手伝いをした
小学校4年のときには牛の世話をしていた 餌をやったり、牛のふんを掻きだしたり、水をやったりした(手押しポンプなのでお湯で溶かしながら、みずを汲んできて、容器を運び、与えた)
20頭なので、水汲みが大変だった 
中学生になってからは、鍬で掘ってジャガイモを芋駕籠に手で集めて入れた その後鍬からトラクターになったが、30kg以上あるコンテナを積み上げる作業を一日中やっていた
親に怒られたというような経験は無かった
子供は褒められると嬉しいものだ

中学校は統合された中学にいったが、同級生240名いたが目立つ存在だった
柔道を始めたが、小学校から柔道を始めた子もいたので、技がなかなかうまくかみ合っていかなかった
中学1年、2年とやってきて、中学3年の時には、結構名前が知れるようになる
進学しようと思ったが、5~7校から来て欲しいといわれたが、昭和52年8月大相撲巡業が来た
自分では相撲は嫌だったが、巡業を見に行った
まわしを締めさせられて、土俵にもあげさせられて、たまたまご縁があって、出会ったのが、私の師匠である放れ駒親方 当時の大関、魁傑  内弟子を探していた
サイン色紙をもらったり、お弁当を食べさしてもらったりした
話が来て、相撲部屋を見ないかと、東京に行った  花籠部屋
ちゃんこ食べ、東京見物して、相撲取りになるかと言われたが、相撲取りにはなんか成りたくなかった
年が明けて、教師が進路をどうするか問われ、伯父からやってみないかと言われて、父も行かせたかったし、後ろ盾がいなくなって、行くしかないと思って決断した

自分の力を試すのだという想いでこの道に入った
新弟子検査までは、お客さん扱い 170cm、70kg検査基準 185cm、83kgで検査を合格
合格後はすぐに対応が違ってくる      面倒はよく見てもらった
いろいろあって、逃げて帰る人がいたが、帰ってきちゃったら肩身の狭い思いを親にさせてはいけないと思った
3年経って105kgになるが、なかなか増えなかった 今 一番欲しいものは何と言われて、体重がほしいといった
稽古の量だけは人に負けないぐらいやりました

横綱になって、精神的にも辛いし、勝って当たり前、 大関と横綱の違い
大関は二場所続けて負けたら関脇に落ちるが、横綱は落ちるところが無い
最初の場所ようやく勝ち越して、次の場所は休場、3場所目は出だしは1勝2敗 体重は210kg有
4日目の朝の新聞には、横綱大乃国は3場所目にして引退か?と言う見出しがでる
トイレで、(一人でいられるところなのでいろいろ考えられる)逃げ出したいなあとか、辞めたらどんなに楽なのかなあといろんなことを考えた
世間の目が向いていると言う事で、人間不信になる
いい人も悪い人も見境なく、みんな悪い人に見えてくる、皆敵に見えてくる

精神状態が揺れてくる、自分は何しなければいけないのかなあと、自分の親、兄弟、親戚の人たちの事を考える、と思ったときに、みんな心配してくれているだろうなあと、そこで自分は気持ちを切り替えて、よし、今日負けてもいいやと、1勝3敗になってもいいや、でもその代わり今日持っている力は今日全部使い果たそうと、明日の事は取り組みが終わった後に考えようと、1日1日積み重ねていったら、14日までに、12勝2敗 北勝海と対戦して本割で勝って優勝決定戦になって、勝って、逆転優勝した
一番大きな病気は睡眠時の無呼吸症 気道が狭くなり、眠っているときに呼吸が止まっている間隔があるので、起きている時と同じように呼吸する出来るようにセットする機械がありそれで楽になった
夜、睡眠が30分、40分おきに目が覚める トイレが近くなる 妄想を見る事がしょっちゅうある
昼間で話しているのが、寝ているのだなと見られたりする
血中に酸素を取り入れる酸素濃度が極端に低下して、脳が起きっぱなしの状態になる

こんな状態で、よく稽古をしていましたねと(心臓にも負担が大きいし)、言われて 治療することで余分な脂肪が(酸素と結び付いて余分な脂肪は燃やされる)取れて行った
太っていったというのは、空気中の酸素が体に取り入れる量が少なかったので、それで肥って行った、そういう部分があるので横綱時代活躍できなかった部分があるのかもしれない
当時、無呼吸症などはマスコミなどでは解らなかった時代

スイーツ 人生のタイミングとご縁があった 作る楽しいみ 
初めてスポンジケーキを作ったのが大関のころ
十勝の小豆は有名 小豆の豆まきから始まって、刈り取り、脱穀をやって小豆を作り、炊いてあんこ、ぼた餅、羊羹を作ってくれた
乳製品もお菓子には欠かせない 牛乳、チーズ、バター、生クリーム  十勝は乳製品もある
牛は食べる餌によって、出すミルクも違う
人間も親が食べてるものは子供に影響を与える

体力的な事、根気、努力とか、生まれ育った環境が今の私を作ってくれたので十勝の方に足を向けて眠れない
北海道、十勝は、四季がはっきりしている 四季折々が素晴らしい















  


























2013年7月26日金曜日

芳賀 綏(東京工業大学名誉教授)  ・唱歌100年 心の歌を残したい 2

芳賀 綏(やすし 東京工業大学名誉教授) 唱歌100年 心の歌を残したい 2
出身は福岡県北九州市 物心ついてからは、九州の他の地域に住んで、小学校の初年に北海道に住んだりしたが、中学校では又、北九州市に戻ったので、そのときには思い出はある
戦争の激しいまっ最中だった
北海道もあちこちに住んだ 
学校教育は6 5 3 3制だった 北海道大学予科の最後の卒業生です
北海道は緑がみずみずしく、感性が育った時期に 故郷などの唱歌を教わったので、実感とぴったりだった
国定教科書だったので作詞、作曲者の名前は一切誰であるかは、解らなかった
(先生も知らない  戦後、個人の著作権を認められて、文部相が著作権を一手に持っているのではなくなる) 

「春の小川」  このような光景はどこでもみられた
「故郷」   特定のどこかを歌っているという事は表には出ていない どこにもある風景
河骨川(こうほねがわ) 渋谷の小さな川がモデルにはなっているが、実況描写しているわけではないので、それだから良いわけです  
地名を特定してしまうと、小学唱歌の意図とは意味が違ってきてしまうので、地名は入っていない
昭和17年の教科書から口語体になってしまった(改悪)
「さらさら流る」→「さらさら行くよ」  「ささやく如く」→「ささやきながら」
雰囲気、意味合いが違ってきてしまう
ごく最近 昔の俳句、和歌だとかを文語体でも教えるようになった(改善)

戦争は中学に入った時は、始まっていた
重苦しい気分ではあったが、「愛染かつら」、「誰か故郷を想わざる」とかがはやった
物理学者、寺田寅彦(夏目漱石の弟子だった)
「天災と国防」の書き出し
「何かしら、日本全国土の安寧を脅かす、黒雲のようなものが遠い水平線の向こう側から、こっそりのぞいているらしい という言わば取りとめのない悪夢のような不安の陰影が国民全体の意識の底に揺曳している」  昭和9年の秋に書いている
段々戦争の色が濃くなってゆく(戦争に一直線と言うわけでもなかった)

日本語学 中学3年ぐらいから、学者の生活を知るようになった 東洋史の有田かいおう先生に中学2年の時に会えて、風格を感じた
国語辞典を作るという事が、軍艦や飛行機を作ることと比べて、どれだけ学者の心血を注ぐ作業であるかと、書いてあった 実に尊いものだと、言う事を教わった(戦争が一番激しい昭和18年)
日本語学から見た唱歌 言葉の格調の高さのある立派な文芸だと思う

「虫の声」 最近は虫の声をきけなくなってきたが、日本の自然を取り戻そうという運動が高まってきた
そこに小学唱歌が復活して来ている
宮城県石巻市 と専修大学 昨年の12月唱歌斉唱、シンポジュームの催しがあった(専修大学の校歌が高野辰之が作詞している関係でイベントを石巻と一緒に行う)
昭和2年 日米間 戦争に向かう雰囲気はまだなかったころ、アメリカのギューリック博士が人形を送ってくれる 「青い目の人形」を 1万2千個を全国の小学校に贈った
人形を迎える歌を高野辰之が作っている
「海のあちらの友達の誠の心のこもっている、かわいいかわいい人形さん あなたをみんなで迎えます」 アメリカにいる時と同じ気持ちで日本で過ごしてくださいという内容がその後ずーっと続いている   博士のお孫さんが又新しい人形をプレゼントされた

高野辰之の催し物で再認識しようという動きが高まっている
人間愛  国を隔てていても、ひとしく愛する、又日の当らない人たちが生み出した芸能にスポットを当てた
歌の力の強さがある(特に大震災後の歌のなした事)  
唱歌 年代を越えて老いも若きもみんな教わったので、ともに一緒に歌う事に違和感がない
東村山市小学校に講演に行ったときに、小学6年生が平家物語の冒頭をずーっと群読してくれた(暗誦している)  これには感動した
幼いうちに難しいことを教えてはいけないというのは、間違った教育の思想であって、幼い時ほど感性が鋭いから、吸収する
その子たちは平家物語の冒頭部分を忘れない
日本語の響きが耳に残り、頭に残り、体内に残る、そうすると意味が段々解ってくる
人生経験を重ねると、アーこういう事を言ってたんだと、中年ぐらいになって解っても遅くは無い
言葉は人の心を横につなげると同時に、昔の人と縦につなげる