2017年10月8日日曜日

戸田恵子(女優・声優)         ・【時代を創った声】

戸田恵子(女優・声優)      ・【時代を創った声】
それいけ!アンパンマンの、アンパンマン きかんしゃトーマスのトーマス、ゲゲゲの鬼太郎の鬼太郎など数多くのキャラクターを演じているとともに、TVでも大活躍されています。
アンパンマンの放送開始が1988年、回数でおよそ1350話。
収録も30年目に入りまして、年に一度映画も作ってきて、来年の映画が30本目なります。
最初のうちは普通の仕事と変わらずスタートしましたが、やなせたかし先生の思いが物凄く詰まった作品だと言うことを、やってゆくうちに皆も感じつつあっという間の30年に成りました。
60歳になりましたので、人生の半分をアンパンマンに費やしてきました。
アンパンマン=柳瀬先生と思っていますので、私にとってアンパンマンは師匠ですね。
他に色々仕事もありますが、休みなくやって来ました。
キャラクターの数ではギネスに乗るぐらい凄い数があるので、どうしても印象の薄い物も当然ありますし、なかなか全部覚えているのかと言うと自信がないですが、或る番組であの時は答えられました。

アンパンマンの世界観を届けようと、週に一回集まってぶれずに頑張っていこうとしています。
初代の監督さんが推薦して下さり、柳瀬さんに聞いていただいて、戸田さんで良いのではないかと言うことになりました。
私にできるのかどうかと思いましたが。(他の人は全員オーディションを受けた方々)
自分たちも楽しみながらやっている番組です。

母親の勧めで小学校5年生からNHK名古屋放送児童劇団に入りました。
『中学生群像』で子役出演、人と会うのが楽しかったです。
お稽古ごと(詩吟、剣舞、お茶、お花、ピアノ、バレエ、書道・・・)も色々やり、とにかく忙しかったです。
劇団に入ってからは忙しくてお稽古ごとは行かなくなりました。
1974年に上京し、スカウトされて16歳の時にあゆ朱美の芸名でアイドル演歌歌手としてデビューしました。
歌手になりたいと言う強い思いは無かったです。
なかなか売れなくて、4年間歌手の仕事をしながらほかの仕事もしていました。
ある番組で一緒になった野沢那智さんから声を掛けられました。
劇団薔薇座」へ研究生として入団しました。
想像以上に地味な感じな劇団で小さくて、地味な感じ。
舞台と言う世界観が、お客さんに全身をさらして、編集とか、カットとかない世界観をお客さんがジャッジするところは、それなりに評価されるのではないかと期待はありました。

野沢さんは外で見た感じとは違って厳しかったです。
朝から夜中までずーっと稽古しなければいけませんでした。
野沢さんに縦に首を振ってもらうために10年間過ごしてきました。
途中で何度もやめたいと思いましたが。
後半は外に出て行くこともありましたが、余りに自由で最初はよそに出るのが怖かったです。
1978年 ロボットアニメ『無敵鋼人ダイターン3』
その前に吹き替えとして行って来いと言われて、『眠れる森の美女』のオーロラ姫役で声優デビューしたが、セリフがあまりなかったが、とてもスムーズにできました。
その時は原音を聞けて色々参考になりましたが、アニメでは何にも音がなくて、なにをどうしたらいいのかわからなかった。
大変苦労しました。

先輩方の声優さん達と毎週会って話をさせていただくことが、大きな力になりました。
仕事自体はそう簡単にうまくいかなかった。
キャラクターに私の血が入っていかなかった。
やって行く間に多少慣れて来ました。
『機動戦士ガンダム』、『ゲゲゲの鬼太郎(3作目)』、『きかんしゃトーマス』に繋がって行く。
声の仕事と言うふうに狭く考えるのではなくて、全部おおきな俳優の仕事の中に一部だと捉えられるようになりました。
経験したことがないこと、特にアニメなど、イマジネーションの世界に入ると、自分で作っていかなくてはいけない発想力というか、そういったものを普段なるべく色んなものを見れたらいいと思うようになりました。
経験だけでなくて、知恵とか知識とかをいろいろ吸収して積んでいこうと思いました。

昔の作品が又若い人がやると言う事に対して、そういう作品に早くから関わっていたことに対しては凄くうれしいです。
若い声優さんに対しては俳優に成りなさいと言うことでしょうか。
自分が演じると言うことが大一番に、体感の中から声優と言う仕事が生まれてくると思います。
厳しい時代があってコツコツやってきたことを誰かが見ていたことが、先々又違うことで芽が出たりすることがありましたと伝えたい。
ボランティアの仕事を50代から始めて、講演会とかで人生観などを話しますが、子供たち向けのアニメーションとか、海外から集めて観てもらいたいと言うような事、広げて全国に持っていけたらいいなあと思います。
国によって切り口が違うので、親などから教え切れないこともあるので映画を観てもらいたい。





























2017年10月7日土曜日

2017年10月6日金曜日

荘村清志(ギタリスト)          ・70歳は通過点(2)

荘村清志(ギタリスト)       ・70歳は通過点(2)
スペシャルプロジェクトと言うのを始めて、3年間で4回特別なコンサートをする計画。
普段できない様な形の演奏会をやろうと言うことで、第一回目が今年の3月、さだまさしさんをお呼びしてジョイントコンサートをしました。
さだまさしさんは子供の頃からクラシックのバイオリンを一生懸命プロを目指してやっていました。
小学校5年の時に全日本コンクールの西日本大会で2位になったりしました。
歌だけでは無くて、バイオリンもやっていただくことになりました。
ピアソラの「デュエルタンゴ」、「オブリビオン」 、「カヴァティーナ」の3曲をやっていただこうと言うことになりました。
素晴らしい演奏をしていただきました。
さだまさしさんから歌を歌うように言われて、初めて人前で歌を歌いました。
さだまさしさんはお客さんを楽しませる話をされるので楽しいです。

第二回目は来年6月6日にやることが決定していまして、バイオリンの古澤 巌さん、彼とは前からジョイントコンサートをやっています。(アコーディオンのcoba (コバ  小林 靖宏 )さん、テノール歌手の錦織 健さんも呼びます 3人のゲスト)
武満徹さんには、1974年のリサイタルの時にギターのオリジナル曲がなかなか無かったので、武満徹さんにいきなり電話をして曲のお願いをしました。
断わられるかと思ったが、ギターを持って来なさいと言われました。
武満徹さんは柔らかく、優しく、ユーモアもあるし全然イメージとは違っていました。
5回目にお会いした時に曲がかけそうな気がすると言われました。(1973年9月頃)
野球の話になって、巨人がファンだと言ったら、曲を作るのはやめたと真顔で言われてしまって、これからタイガースファンに成りますと思わず言ってしまいました。
武満徹さんは純粋で子供の様なところがあります。
「フォリオス」という3部作が出来上がって、楽譜を頂いたと同時に巨人ファンに戻りました。
その後家族ぐるみのお付き合いをさせていただいています。

25年周年リサイタルがあり曲をお願いしたのですが、物凄く忙しくなっていて、無理だと断られたが、30分後に電話があり広告に予告を載せなければ書いてもいい(間に合わないかもしれない)と言われて、その後3カ月に「エキノクス」と言う楽譜と手紙をいただいて感動しました。
武満徹さんはギターと言う楽器が好きなようです。
武満徹さんは95年に体調を崩されて、入院されて、2週間に一回見舞いに行っていましたが、はがきが舞い込んで吃驚しました。
「・・・明るい顔を見ると希望がわいてきます。
まだもう少しの辛抱ですが、頑張る覚悟です。
出たらギター曲、良い物を一曲 きよちゃんのために書くつもりで寝ながら構想を練っています。
楽しみにしていてください。」

武満徹さんにある御代田の家に来ないかと言われて、出来上がっていて吃驚しました。(1995年11月)
「森の中で」と言うタイトル 3曲あって大自然をテーマにした作品。
その2曲目を頂きました。
武満徹さんは1996年2月20に亡くなりました。
武満徹さんはあらゆるジャンルの音楽にアンテナを張って聞いていて、色んなものを吸収しようとしていたようです。
「オーバーザレインボー」をアレンジしてくれました。
他にビートルズとかを含めて「12の歌」と言うタイトルでレコーディングしました。
僕がクラシックの硬い演奏をしていたので、音楽に酔いしれてギターを楽しんで弾いてくれればいいなあという思いで、12曲をアレンジしたと言うことを武満徹さんの奥さんから、武満徹さんが亡くなられたあとに聞きました。
*ビートルズ「ミッシェル」のアレンジ曲  荘村清志演奏

スペインにいたときに武満徹さんと一緒に旅行をしたこともあり、楽しい思い出がたくさんあります。
ナルシソ・イエペス先生からは「間の取り方」を勉強しました、間の取り方を自分で見つけて、その間の取り方を取る事に依ってその曲が生きてくる。
武満徹さんからはいろんなものから学ばなければいけないと言うことを学びました。
岸田今日子さんからも詩を朗読する迫真に迫る気持ちの集中する姿、芸の力に感動しました。
2015年イ・ムジチ合奏団(イタリアの室内楽団)と演奏旅行をしました。
スペシャルプロジェクトの3回目はバッハの演奏会をやりたい。(2019年春)
4回目はオーケストラとの協奏曲の夕べ、みたいなものを考えています。
常に吸収すると言う事をやっていれば表現力が増してゆくと思います。
人間は進歩することが快感につながってゆくと思います。
歳を取ったから衰えて行くのではつまらない、歳を取ったからこそ素晴らしいもの、味が出てくると言う事でないと生きていてもつまらないので、そういう路線でこれからもやって行きたい。









2017年10月5日木曜日

荘村清志(ギタリスト)          ・70歳は通過点(1)

荘村清志(ギタリスト)       ・70歳は通過点(1)
昭和22年岐阜市出身 70歳 9歳からギターを始めて、10代半ばで巨匠ナルシソ・イエペスに認められて4年間スペインで教えを受けました。
昭和44年に日本でデビュー、以来日本を代表するギタリストとして活躍しています。
昭和49年にはNHKの番組、「ギターを弾こう」の講師としてギターの普及にも貢献しました。
2007年放送の「趣味悠々」でも講師を務めています。
現在東京音楽大学客員教授として若手の教育にも取り組んでいます。

30代の頃、ギターばっかりやっていたのを、スポーツをやろうと思って35歳からテニスをやり始めました。
普段も歩くようにしています。
精神的には20代のつもりでいるので、70歳と言う自覚はないです。
歳を取るにしたがって、深まって来ると言う感じはしています。
若いころはとにかく正確に弾くと言うことでしたが、音楽に酔いしれると言う事はなかったが、50歳を過ぎてから自分でギターを弾いていて内側からよろこび、悲しみがこみ上げてくるふうに段々なって来ました。
若いころはギターと格闘していたと言う感じで弾いていたイメージがあります。
50歳を過ぎたころからギターの音は小さい音が魅力的だと自分で思えるようになって、それからギターを弾くのが楽になりました。
弱い音の間に強く弾くと、強さがより大きく聞こえると言うことで、幅が広がりました。

左手は弦を押さえるので爪はきっちり切ってあり、右手は弦を弾くので爪を長くしてあります。(クラシックギターの奏法)
紙やすりを使って爪の手入れをしています。
10月13日(70歳の誕生日)、記念リサイタルを行います。
詩の朗読も行います。
スペインのフアン・ラモン・ヒメネス(ノーベル賞を受賞)という詩人が書いた散文詩「プラテロと私」(100編以上ある)の中からイタリアのマーリオ・カステルヌオーヴォ=テデスコが28曲選び出して、それにギターのオリジナル曲を付けています。
詩の朗読をしているときに常にギターがバックで流れています。
朗読を中嶋 朋子さんが行います。
藤木 大地さんに武満徹さんの曲の中から歌っていただきます。

出身が岐阜で小学校卒業するまで居ました。
ギターを始めたきっかけは父がギターが好きで、ギタリストに成りたかったそうですが、ギターで生活するという事ができなかった時代でサラリーマンになりました。
9歳のときに父から教えてもらって始めました。(毎日1時間のレッスン)
言われるままに弾いていました。
中学に入るときに父の仕事の関係で東京に引っ越しました。
小原安正先生に習い始めました。(怖い先生でした)
15歳のときにスペインの巨匠ナルシソ・イエペスさんが日本に演奏旅行で来まして、歓迎パーティーで10人ぐらいでギターを弾いたら、スペインに来たら教えてあげると言う確約を頂いて、16歳のときにスペインに留学と言うことになります。
自ら行くと言うよりも、父親が修行して来いと言うふうな感じでした。
4年間スペインで修行しました。(1964年~)
羽田から飛び立ったんですが 1ドル360円の時代で往復60万円、100人ぐらいが見送りに来てくれました。

父親も小原安正先生も怖かったが、ナルシソ・イエペス先生は優しく、にこにこしながら教えて下さいまして、楽しい4年間でした。
スペイン語は中学1年の時から基礎を習い始めましたが、ホームステー先で会話の多くを学びました。
夏休みに先生の家でテラスで海の音を聞きながら、週に2回レッスンを受けたことも想い出にあります。
1968年に帰国、翌年日本でデビューをします。
上手く弾けたとは思ったが、終ったあとになんか空虚感があり、ギター浸けだったので、ちょっとギターから離れて(本、映画、芝居、友人と酒を飲むとか)、生活の幅を意図的に広げていくようにしました。
再びギターを弾くと言うことに戻った時に、ギターの音に酔いしれることが少しづつ出来るようになりました。

デビュー25周年の時も自分を追い込み過ぎて、完璧にと言う思いが強くて結局うまくいかなかったが、その1週間後に演奏があったが、その間練習は一切やらなかったが、自分なりに凄くうまく行きました。
練習の仕方を出来るだけ通して、楽しんで演奏すると言う方向に変えてゆき、練習時間も少なくて済み、プレッシャーも無くなりました。
余った時間を映画などにつぎ込み、そうすることによって自分の表現力がどんどん増えて行くことに気づいて、自分の生活パターンも変えていきました。
そうして演奏が楽しくなりました。
*映画禁じられた遊びから「愛のロマンス」 荘村清志さん演奏

自分一人の力なんて知れているので、色んな人のエネルギーをどんどん自分の中に蓄えて行くことによって、表現力が増えて行くことだと思います。
色んな人が演奏するが弾く人の音色が音としてあらわれてくる、そこがまた面白いと思います。
1974年4月から「ギターを弾こう」の講師を務める。(1年間)
25歳の時でした。
TVに慣れていないので、喋ること、時間の管理への対応が大変でした。
2007年、「趣味悠々」で皆で名曲を弾きましょうということで講師をする。
東京音楽大学でプロを目指す学生たちにレッスンを厳しくしています。






























2017年10月3日火曜日

柴内裕子(動物病院総院長)        ・ペットを見守り60年

柴内裕子(動物病院総院長)     ・ペットを見守り60年
82歳、現役の獣医師、獣医師を志したのは戦時中のつらい体験がきっかけでした。
これまでペットの飼い方やしつけ方の相談のほか、病院や高齢者施設へペットを連れて訪問するボランティア活動などにも取り組んできました。
柴内さんは犬や猫たちは人に安らぎと信頼感を与えてくれる大切なパートナー、伴侶動物だと言います。
ペット動物と人の豊かな共存社会のために活動を続ける柴内さんに伺いました。

動物の医療は専門化していて、腫瘍、血液とか様々な分野がありますが、当病院にはそれぞれ専門家がいます。
しつけ、食事、散歩先での問題とか日常の問題を診療の間に相談にのるのが一番大事だと思っています。
開業当時よりも倍ぐらい寿命が伸びたと思います。
フィラリア、心臓に寄生する蚊が媒介する病気も完全に防ぐ事が出来ましたし、感染症もワクチンができたので、ワクチンと予防薬が使えただけでも命が倍になっています
食事、生活環境もよくなってきたし、犬が平均で14歳、猫が15歳を越してきました。
長寿に対応した医療相談が増えて来ました。
猫は泌尿器疾患、じん臓疾患、犬の場合は心臓疾患、腫瘍疾患が多いです。
薬品、医療機器、化粧品とか、人間が使うものは実験動物が昔は使われたが、人間と同じ医療と言うことが注目を受けています。

今は犬も室内で飼うのがとても多くなっています。
犬は群れの動物なので、昔は庭につないで1~2回散歩に連れて行ってもらっていただけだった。
部屋で一緒に暮らすと、犬はなんでも理解してよい子に育ち、犬も幸せ、人もハッピーです。
猫は単独動物なので、人とピッタリしていなくてはならないわけではない。
猫も人のぬくもり、会話になじんできて、幸せに室内で暮らせます。
外に出すと交通事故に遭ったり感染症になったり、行方不明になったりしますので、猫も部屋の中で暮らす方が、環境を整えてやれば良いと思います。
自由に遊ばせる場所もなくなってきたので、閉じ込めた責任は人間にあると思います。

30年前に日本動物病院協会と言う獣医師の団体を作って、獣医学を介して社会に貢献しようというボランティア活動を始めました。(私が責任者だった)
高齢者施施設、ホスピス、小学校など色々なところへ行って、動物を介在した人の治療などを行っています。
発語の言語療法とか、身体の障害にある方が手足のトレーニングのための作業療法、理学療法の現場で望まれた行動の出来る犬に育てた犬を連れて行って、一緒に行動することによってトレーニング、治療などの活動をしています。
子どもたちにとって、思うようにならないと言うことが大事な存在だと思います。
動物と一緒に接していると緊張感がほぐれて副交感神経が働いてストレスが少ない。

昭和34年に大学を卒業しましたが、小学校の4年生の時に終戦を迎えた年に、獣医師は男性ばかりでしたが戦争に皆行ってしまって、小動物の医者はいなかった。
捨てられた犬を兄弟で拾ってきて育てたり、犬、猫、孔雀、鶏、アヒルなど家にはいろんな動物がいました。
父は鶏が好きで出張先からいい鶏と言って鶏を送ってきたりしました。
戦争が激しくなったときに、軍隊にシェパードなどの大型犬を連れていかれてしまって、本当につらい思いをしました。
戦火で焼けたので鳥小屋に残っていたチャボが雛を抱いて、自分の体が真っ黒になっているのに雛を抱えて死んでいました。
親子の愛情、保護する意識に動物の世界には素晴らしい思いがあるとつくづく思いました。
女の獣医になれば、男性の様に戦争に行かなくて動物の面倒を見てあげられると思って獣医師になりました。
10歳ぐらいで、動物を介して温もり、命の大切さを学ぶことで人生が大きく変わることがわかっている。
子供達は悩み事があると犬や猫に悩み事を話すそうで、安堵感を得る大事な相手だと言われます。
高齢者の施設に行くと、無表情の人が多いが、犬たちが入って行くと皆笑顔になり、手を差し伸べて、赤ちゃん言葉で話掛けたりして、人間の内在している優しさを引き出してくれる名手です。

静岡に学童疎開を1年間いて、その後高等学校に行き来ましたが、他人のご飯を食べないと人の事が判らないと言う話を母がしょっちゅう話していて、3日通って休学して職業安定所にいって女中奉公したいと言って、何とかある店にいって住み込みで1年間いて、他人のご飯がよくわかりました。
翌年又試験を受けて合格して高校に行きました。
日大の獣医学部に行きました。(三軒茶屋の近く)
女子トイレもなくて(職員用のみ)、クラスは男性ばかりでした。
ペットではなくて農業用の動物(牛、馬など)が主でした。
素手で動物の手術をしていた時代でした。
大学を出て3~4年して赤坂の地の獣医病院にお手伝いに行って、その後開業医になりました。(27歳)
「名犬ラッシー」とかディズニーとかで、コリー、スパニエル、スピッツなどを飼う人が多くなったが流されて、飼い主は個性的ではなかった。

ペットブームで歩道にならんで下さったり、大変でした。
若い時は2日間ぐらい夜あまり寝なくても対応できたりしました。
動物たちは私の生涯の先生だとつくづくそう思います。
日本ではあまり動物と暮らすことを、もっと自然なものにしていかないといけないと思います。
正しいしつけをしてよそ様に世話をかけない子に育てることが飼い主にとっては一番大事だと思います。
社会の中で動物の良さをもっと活用していただければいいと思います。





















2017年10月2日月曜日

本郷和人(東京大学史料編纂所教授)    ・正岡子規【近代日本150年 明治の群像】

本郷和人(東京大学史料編纂所教授) ・正岡子規【近代日本150年 明治の群像】
講談師 神田蘭
正岡子規 生誕150年 1867年生まれ。 俳句の改革者、野球の愛好者、闘病と言うイメージが強い。

講談で紹介
「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」
1867年、松山藩の下級役人の長男として生まれる。
幼いころから漢詩、小説に親しみ、自由民権運動の影響を受け政治家を目指して、16歳で上京、東大予備門に入学。
出会ったのが夏目漱石、2人は意気投合、寄席によくいっていた。
野球ではキャッチャーとして活躍。
22歳の時喀血、結核を発症、この時ほととぎすを題材にした句を40~50句つくり、子規と号した。
子規とはホトトギスの事で、ホトトギスは喉から血が出るまで鳴き続けると言われて、血を吐きながら歌を詠み続け自分になぞらえたものと思われる。
14年の間闘病しながら創作活動、最後の6~7年はほとんど寝たきり、20万句程残している。
明治30年俳句雑誌「ほととぎす」を創刊、翌年、「歌よみに与ふる書」を、新聞に連載。
古今集を否定、万葉集を再評価、写実主義をといで、俳句や短歌の世界に革新を起こす。
「あららぎ」
「鶏頭の十四五本もありぬべし」についての論争が起きる。
へちま、咳をきる効果があったそうで庭に植えてあった。
「糸瓜咲いて 痰のつまりし 仏かな」
「痰一斗糸瓜の水も間に合わず」
「おとといのへちまの水も取らざりき」
見たまま、あるがままを句にする子規の俳句魂がここに集結していると思う。

今年8月に未発表の5句が発見される。
「寝後れて新年の鐘を聞きにけり」
「暗きより元朝を騒く子供哉」
「うらうらと初日の影や枯木立」
「初夢や巨燵ふとんの暖まり」
「留守の戸に名刺投込む御慶かな」

慶応3年(1867年)10月に松山市で生まれる。
旧松山中学から東大予備門に入学。
夏目漱石、南方熊楠らと同級。
秋山真之とも親友だった。
野球が大好きでキャッチャーをやっていた。
英語の言葉を日本語に置き換えて、野球殿堂に入っている。(2002年)
バッター=打者、ランナー=走者、フォアボール=四球、ストレート=直球 等。
「今やかの 3つのベースにひとみちて そぞろに胸の うちさわぐかな」

しき=ほととぎす
長生きはできないと思っていたと思われる。
明治の文化人は雅号を持っている。
大学は中退してしまう。(社会と関わる)
新聞記者として日清戦争の従軍記者として自ら進んで遼東半島に行く。
喀血して日本の松山に帰ってくるが、そこで松山中学に先生として赴任していた夏目漱石と出会い、下宿に転がり込む。
漱石は結核の子規をよく迎えたと思う。
文学論をたたかわせる。
上京して、子規庵に住む事になる。
色々人を呼んで句会をやったようです。(リーダー的存在)
結核菌が脊椎を犯して脊椎カリエスになってしまうが、表面的には明るい、強い意志を持った人だった。
母と妹の律さんが看病して明治の女性は凄かった。
秋の句
「赤とんぼ筑波に雲もなかりけり」
「行く我にとどまる汝に秋二つ」
「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」
「鶏頭の十四五本もありぬべし」

子規は与謝蕪村を再評価した。(枯れている感じを評価)
お金とか、名誉とかを捨て去った様なところにある文学のありよう、この2人は似ている。
「歌よみに与ふる書」では、古今集を否定、万葉集を評価しているが、その文章が過激です。
古今集(貴族)は生活実感に根ざしていないことに対して評価が低かったようです。
俳句の世界、歌の世界を人々に開いたという功績があると思います。
ありのまま、写実を高く評価するようにした。
「あららぎ」派
病状が悪化して寝たきりになる。
エッセーも出している。
痛みがある中でよくここまで仕事をしたと感心します。

明治34年11月6日に子規からロンドンの漱石へ出した手紙がある。
「僕はもうダメになってしまった。毎日訳もなく号泣しているような次第だ。
だから新聞雑誌などにも少しも書かない。手紙は一切廃止。
それだからご無沙汰して済まぬ。
今夜はふと思いついて特別に手紙を書く。
いつかよこしてくれた君の手紙が非常に面白かった。
近来僕をよろこばせたものの随一だ。
僕が昔から西洋を見たがっていたのは君も知っているだろう。
それが病人になってしまったのだから残念でたまらないのだが、君の手紙を見て西洋へいったような気になって愉快でたまらぬ。
もし書けるのなら僕の眼の開いているうちに今一便よこしてくれぬか。
無理な注文だが。
絵葉書も確かに受け取った。
ロンドンの焼き芋の味はどんなか聞きたい。
不折(中村不折)は今パリにいってコーランの所に通っているそうじゃ。
君におうたら鰹節一本送るなどと言っていたが、もうそんなものは食うてしまってあるまい。
虚子は男子をあげた、僕が「年尾」と付けてやった。
高桑闌更(たかくわらんこう)死に、非風(新海非風)死に、みな僕より先に死んでしまった。
僕はとても君に再会することは出来ぬと思う。
万一出来たとしてもその時は話も出来なくなっているであろう。
実は僕は生きているのが苦しいのだ、僕の日記には古白曰来(こはくいわくきたれ)の4字が特書してあるところがある。
書きたいことが多いが苦しいから許してくれたまえ。
明治34年11月6日」 

この時の漱石はまだ小説家ではなかった。(大学教員)
その後小説家になったが子規の影響があったのでは。
翌年明治35年9月19日に亡くなる。(34歳)