2017年8月7日月曜日

本郷和人(東京大学史料編纂所教授)・福澤諭吉【近代日本150年 明治の群像】

本郷和人(東京大学史料編纂所教授)・福澤諭吉【近代日本150年 明治の群像】
講談師 神田蘭
文明開化の時代の啓蒙思想家、慶応義塾大学を作った教育者。

福澤諭吉の紹介(講談)
「天は人の上に作らず、人の下に人を作らず。・・・」 「学門のすゝめ」
明治5年刊行 340万部が売れる。(当時の日本の人口 3300万人)
1835年1月10日 大阪の下級武士の息子として生まれる。
当時の識字率は男子50~60%、女子がおよそ30%。
多くの人に読まれました。
人間みな平等と云うが世の中を見ると、賢い人、愚かな人、貧しい人、富める人がいる。
そのような違いが生まれるのは、ただその人が学問をするか、しないかにある。
難しい字を知り和歌をたのしむ様な実なき文学ではなく、実践に役立つ、実学である。
いろは47文字、手紙の書き方、そろばんの稽古等簡単なことから始まり、地理、物理、歴史、経済などである。
西郷隆盛なども激賞、広く読まれる。
文章がとても判りやすかった。(お手伝いに読ませて、判らないと書きなおした)

現代と比べる識字率は低いが、当時の世界で比べると、日本の識字率は世界一だった。
福澤諭吉は机上の学問を嫌った。
福澤先生が人権、人間は平等であると云ったことが、日本の社会に根付いた結果として現在の我々があると云うことです。
当時の社会にとってみれば吃驚するような内容だった。(身分制度があった)
中津藩(福澤諭吉の藩)は門閥制度が厳しいので有名だった。
諭吉の父親は才能があったが出世できなかった。
福澤諭吉は1回目1860年(27歳)咸臨丸に乗ってアメリカに行った。
福澤諭吉は懇願して乗せてもらった。
勝海舟は福沢諭吉とはそりが合わなかった。
西海岸を見て帰って来た。
1862年 29歳 ヨーロッパに1年間行って来た。
銀行制度、保険制度など色んなものを見てきて、後に日本にしっかり紹介するのが凄いところ。(他にも一杯行ったが実際に動いたのは彼だけだった)
フランス、イギリス、オランダ、プロシャ、ロシア、ポルトガルに行って、各地で写真なども撮っている。
ほかに病院を見たり郵便局を見たり、選挙制度、議会制度を勉強したりしている。

1867年 34歳の時にアメリカに行く、ニューヨーク、ワシントン等。
福沢諭吉はアメリカへの1回目の時の質問でジョージ・ワシントンの子孫は今何しているのと聞いたら「さあ」と云うことで吃驚するが、世襲がないことに感銘を受けた。
「独立自尊」(気高く生きよ、日本人たる誇りを忘れるな)慶応義塾では一番有名な言葉。
人に迷惑をかけるなと良く言っている。
「一身独立、一国独立」 
当時の日本は列強が植民地にしようとして虎視眈々と狙っている。
一人一人の国民が独立すれば一国がきちんと自分の足で立つ、日本が一つの国として植民地ではなく立派な国として世界に伍してゆくことができると云う思想。
一人ひとりの国民の責任がある、と云う気がします。

今泉みね(蘭学者桂川甫周(7代目))の娘『名ごりの夢』に福沢諭吉のことが書いてある。
「・・・始終懐は本で膨らんでいました。
何時も本のことばかり心にかけて桂川から洋書を借りていましたが、他の人がそれを写すのにひと月、ふた月かかるのにあの人は大抵4~7日で写して返しました。
福沢さんのおなりは一番質素でした。・・・
父の前できちんと足を重ねて話を聞いている時に、私は足袋の穴に気づいて、松葉を10本ぐらい束にして突っつきましたが、話に聞き入っていて、動くには動かれず大分お困りのようでした。
福沢さんはめったにお遊びになりませんでしたが、時には私の相手をして下さることがありました。・・・
なにをしてもお上手で面白く、物知りで色々お話していただきました。
私が6つのころ、福沢さんにおぶさって行ったことがあります。
その背中が広かったことを思い出します。・・・
外国から戻って頂いたものは二品、一品は羊羹のようなもので食べるものではなくいい匂いがして水にぬらせば泡が出てくるものでした。
今から思えばシャボンでした。
もうひとつはリボンぐらいの幅の綺麗な布を頂ききました。
今も手元にあるので時々出してみてはその昔を思いだしております。・・・」

明治新政府とは付かず離れずの関係だった。
やろうと思えば明治政府の中で出世できたが、あえて距離を取った、これはできることではない、武士を辞めて平民になる。
本当にやりたいのは日本国民を教育したいという志、その実現のために生きている、そういうところが偉い人だと思う。
大隈重信との関係は仲良かったようで、家族ぐるみの付き合いだったようです。
大学院教育は日本では日本語でできるが、アジアのほかの国は自分の国の言葉では大学院教育はできないため積極的に留学しないといけない。
福澤諭吉はヨーロッパの言語、アメリカの言語を日本の言葉に置き換えてくれたので、大学院の教育まで日本語で出来ると云う事なんです。(経済 動物園 授業料とか・・・)
明治34年に亡くなる。

小泉信三氏 
小さいころ福澤諭吉の屋敷の中に一緒に住んでいた。慶応義塾の塾長、天皇陛下の先生。
美智子さんとの出会いを演出した方。






















2017年8月6日日曜日

山寺宏一(声優)          ・【時代を創った声】

山寺宏一(声優)          ・【時代を創った声】
山寺宏一(第二回目)
子供のころは内弁慶で、家庭内ではふざけたりしていました。
小学校のころ、3,4年生は物まねとか始めていました。
5,6年生で思春期を迎えて、そこから高3まで女子と話が出来ない、そういった時期でした。
高校3年生の時に仲のいい女の子が出来て、それをきっかけにそこから他の子とも話せるようになりました。
でも女子の前では物まねはできませんでした。
宮城県で生まれ、大学まで仙台でした。
物まねタレントを目指そうとは思ったが、TVを見てとても駄目だと思って、大学で落研にはいってた友人がいて、誘われて入りました。
直ぐに落語が好きになって落語にどっぷりはまりました。
最初小話からはいって毎日稽古をして、発声練習したりしました。

訛っていたので訛らないようにするのが大変でした。
大学で勉強することはほとんどなかったが、毎日部室にはいっていました。
CMのオファーが落語研究会に来て、でないかといわれてそれに出て、就職が決まったのか聞かれたときにまだと言ったら、うちに来ればいいじゃないと言われた。(広告代理店)
「声優になるためには」という本を読んだら、養成所があると云うことが分かった。
広告代理店への誘いは辞めて、演技の基礎から学ぶことになりました。(週5日)
舞台の面白さが判りました。
大学まで親に面倒見てもらっていたので、養成所に入る前は不安はありましたが。
養成所に入ってからは何の不安もなく楽しかったです。
2年間通ってオーディションを受けて、合格して事務所所属になりました。

1985年メガゾーン23のロボットアニメの主人公の友人役がデビューでした。
そこから徐々に仕事が増えていきました。
「別撮り」と云う意味もわからず、やってしまってひどく怒られた時もあります。
他の人がやっているのを聞くのも凄く勉強になります。
観察力が演技力に繋がって来る。
印象に残ったものは一杯あります。
「どんどんドメルとロン」のポリス役でセリフは無くて、ホイッスルで表現する。
(変わった役)
難しかったのは一杯あり、大変だったのはセリフの量が大変なのはデンゼル・ワシントンが主役をやった映画『マルコムX』という作品は演説がすごく多くて、演説にオーバーラップして芝居する様なことがあって、大長編もののふきかえで、リハーサルの時間(徹夜になてしまう)と喉がやられず声が持つ時間を考えてやったのを覚えています。
名優がやるのを違う言語で吹き替えすると云うのは難しいと思ったのは一杯あります。
どれもこれも難しいです。

先輩の引き継ぎはやりたくないが、他の人がやるんだったらやってみたいと思います。
「銭形警部」「ヤマト」など大好きでした。
富山敬さんの後を色々継がせてもらいました。
声優はやる幅が広いので、色んなものに興味を持って引き出しを多くしておくことは大事だと思います。
いろんな俳優さんの吹き替えをするときに、余り自分のクセが強すぎると全部同じになってしまうと云うことがあるので、己を知る、自分の癖は難しい、人のは直ぐ判る、それを何とかしようとすることは大事なのかなあと思います。
個性は必要だが、クセとはだれもがもっていると思う。
KUSE へこんだUを伸ばしてOにしてKOSE そのあとにIを付けるとKOSEI
個性になる。
ときめくような役に出会いたいし、準備を怠ってはいけないと思います。
舞台の方も充実させていきたいと思います。

2017年8月5日土曜日

岸博実(日本盲教育史研究会事務局長) ・視覚障害者と戦争

岸博実(日本盲教育史研究会事務局長) ・視覚障害者と戦争
戦争中視覚障害者はどういう状況に置かれていたのでしょうか?
資料が乏しい中 30年以上資料を集め体験者の聞き取りを行うなど、ライフワークとして調査研究しているのが、日本盲教育史研究会事務局長で京都府立盲学校非常勤講師の岸博実さん68歳です。
戦後72年、戦争中に視覚障害者が直面した悲惨な状況と戦争のむごさを後世に残していこうと活動している岸さんに伺いました。

日本盲教育史研究会は全国の盲学校の現職、あるいはOBの教員、大学の先生だった人、若い学生さんを含めて有志が集まっている研究会です。
盲教育に関する資料が散逸して行く状況を心配して保存のことなどを考えたい、歴史そのものをしっかり調べて論文などにまとめて学びあって行きたい、今後に生かせるものはなにかということを探って行きたいと云う団体で、5年経とうとしていて全国で会員が190人います。
京都府立盲学校に勤めはじめて間もなく創立100周年記念の300ページを超える本を作られて、戦時中のことが10数ページしかなくて、これでいいのかなあと考えたのが最初のきっかけです。
調べて、①障害のある子たちが差別を受けた側面、
②盲学校、見えない子供たちが空襲で被害を受けた側面でした。
その後③見えない子供達なども戦争の体制に組み込まれて、参加した事も判ってきて驚きでした。

明治時代に富国強兵政策が設けられ、徴兵制度が敷かれ、体に障害のある人たちが合格できない、国の役に立たない存在と見られがちになって行った、心ない言葉を浴びせられる。
空襲をうけると、どちらに逃げると安全なのか、そういう情報が入って来にくいことになるので逃げまどうと云う風になりやすかったと聞いています。
逃げるときに悲惨な状況にあったと云うことが書かれていました。
障害のある子たちは戦力にならないので後回しにされた。(学童疎開等)
疎開先も行った先が危ないところだったりしました。
盲学校そのものが空襲に会い、学び場が失われたと云うことも沢山報告があります。
沖縄の場合は本当に激しい空襲があり、その中で見えない人たちも逃げ回らなければならなかった。

盲教育、ろう教育の義務化は明治39年から国に要望していたが、国家余算の使い方が軍備の方に偏っていったので、義務教育の実施が遅れた。
見えなくても戦争への参加の仕方があると云うヒント、呼び掛けを色んな形で与えられると、取り組んでみたいというきもちに駆られていったということは判るような気がする。
昭和15年奈良の橿原で全国盲人大会が行われて、決議として全国の盲人の募金を集めることによって海軍にゼロ戦をプレゼントしようと云う取り組みがあり、それには日本盲人号と云う名前が付いている。
お披露目の式には大阪の歌舞伎座で行ったことを示す絵葉書、案内の文書が残っています。
盲人防空監視哨員、見えない人が耳で敵機が近づくのをいち早く察知する、そのことを求められる役割だった。(主に夜だったそうです。)
石川県で盲人を集めて実験して、多少早く聞きわけたと云うことで募集をして10人選び出して配置したそうです。(どれだけ役に立ったのかは微妙とのこと。)

盲学校で良く行われたのは鍼灸で、工場で疲れた人の回復、戦場で失明した軍人たちの治療などにも、間接的に国の役に立とうと云うことが多くありました。
海軍技療手、健常のマッサージ師、弱視の人を全国から募集して、選抜をして技療手として養成して、国内の基地に配置、南方の基地などへ配置して疲れた兵士の疲労回復、けがをした人の治療などに従事させようとしたようです。
軍に属して南方に行き、戦艦に乗り組んで魚雷により沈没して戦死した人もいるそうです。
盲学校の生徒たちへの教育、昭和18、19年に満州建国大学の教授を招いて京都府立盲学校で講演、その3回目に「見えないあなた方は敵に体当たりして散って行く若い人たちに比べて役にたたない存在だと言って、そんな諸君でもできることがある、自分の事は自分ですることにより親への負担を掛けるのをへらす、そうすることで国の役に立っていける、
国のためになると云うことを考えて取り組まなくてはいけない」、そういう講演がありました。

「盲人でさえもこの様に頑張っている・・・」と云うような記事がよく掲載されていた。
国民の士気を高める材料として、盲人の頑張りが扱われていた。
厭戦の言葉を発した盲学校の生徒がいたことも文献から知り始めているところです。
全盲の小野兼次郎がエスペラントを学ぶ中で、日本の軍備増強、対外的な争いを求めて行くような動きは反対だと云うことで、ビラまきに参加して治安維持法に引っ掛かって逮捕されたという例もあります。
失明軍人へのリハリビは新職業の開拓という側面を持って展開されました。
それも戦争初期ことで戦争末期には扱いは段々ぞんざいになって行った。
戦争と云うものは最も大量に障害者を作る、命を奪うので、戦争は起こすべきではない、起こしてはならないものと思います。
戦争と障害と云うことについて過去の例から学ぶ必要があると強く思っています。
若い世代に伝えていきたいがそこがカギだと思います。
文字、映像、資料にして次の世代に見聞きして頂ける条件を作っていきたいと思います。






































2017年8月3日木曜日

村田浩一(よこはま動物園ズーラシア園長)・動物たちが開く扉

村田浩一(よこはま動物園ズーラシア園長)・動物たちが開く扉
神戸出身 65歳、宮崎大学で獣医学を学んだ獣医師で、地元神戸の王子動物園で20年間勤務した後、日大で動物園学を教えるかたわら、2011年から横浜動物園ズーラシアの園長に就任しました。
動物園は単に動物を見せるだけではなく、動物と人が同じレベルで接し、自然界の仕組みを知り、人の生き方、地球環境の大切さを知ってほしいと言っています。

ズーラシアは愛称で、よこはま動物園です。
ズー=動物園 ライア(ユーラシア) 広い地球の動物たちを一日で見て回れる 、と云うようなイメージです。
人の暮らしと動物と、生息環境の3つを体感してもらうというコンセプトです。
楽しみながら学んでもらいたいと云う思いはあります。
明治時代に初めて動物園が出来たときに、明治天皇に大久保利通が博物館建設の義という意見書をあげるが、動物園は博物館付属でした。(植物園も同様です)
歩きながら、楽しみながら過ごしている間に知識が付く、そういうところなんだと、明治天皇に説明しているが、今世界中の動物園の目指しているところです。
動物から学ばなくてはいけないし、動物を通して自然、地球環境を守って行く、動物を保全してゆく、そう言うことを学ぶ場として動物園が存在している。
1999年4月にズーラシアが出来て、2011年にここに来ました。
理想の動物園が出来たとのうわさがあり、見に来た時は木もすくなかったりして一部砂漠のような状態で、大丈夫かと思ったが、今は当初建設した人たちの予想通り素晴らしい場所になっています。

ズーラシアは動物病院の規模も日本一です。(規模、人員、施設等)
繁殖センターがあり、希少種繁殖に関する研究をしています。
バク、カンムリシロムクを増やして、カンムリシロムクをバリ島の西部に140羽以上送っています。(野生に戻す協力)
希少種を増やすのは難易度が高い。
人間に依る開発、密猟などで減ってきています。
100年ぐらいかけて元に戻せるようにしようとしています、100年ぐらいたてばもう少し人間も賢くなり、自然を守るような方向に人は変わってきているだろうと、それまで希少な動物を何とか動物園で維持し続けようと云う考えに元づいています。
100年を設定したのは30年前です。
一番顕著なのが地球温暖化です、北極熊、ペンギン、クジラなどが影響を受けています。
そのうちに人間にも影響が及ぶと考えられています。

ホモサピエンスと云う動物の一種である人間が、他の動物の危機と同じような状態に陥ると云うのは生物多様性の危機の象徴のようなものです。
人間が変わらなければ地球の危機は救えないと思います。
人間が変わらないと環境も変わらないし、最終的に人間の生活自体が崩壊してゆくと云うことでしょうね。
地球温暖化で、海表面上昇し島が水没、気候変動等に対して人間はなかなか動かない。
重要なことは体で感じることだと思います。
動物園は絶えず進化ています。
ゴリラは従来オスメス1匹で飼っていましたが、社会性を持っているので集団で飼うようにしています。(自然の状態を動物園でも再現する)
心の健康まで補償する様にします。(ストレスから守ることが世界的な潮流になっている)
餌の与え方、餌を探して歩けるような仕組みなどを考えています。

雨、雷で繁殖行動がうながされると云うこともあります。(或る種のワニとか)
1年間同じ食事内容を全く同じ量を与えると云うことはやっていません、なるべく野生に近いものを手に入る範囲(出来るだけ四季に応じて)で与える様にしています。
動物園の4つの役割
①環境教育、保全教育 ②調査研究 ③保全(絶滅危機種の保全) ④レクレーション(人々の楽しみ、慰安)
人間の医者になりたいと思った時もあったが、北杜夫の本を読んで船医にあこがれ、そのうちに獣医の道に進みました。(40年以上前)
動物園にしばらく勤務するようになって、動物の医者になってよかったなあと思います。
動物の死因を突き止めるために解剖するが、臭いが染み付いてしまっていくら風呂に入っても消えなくて、通勤電車で誰だと大声をあげられたこともあります。
動物園で自然に触れて動物の生きざまを見て、自分のライフスタイルを見つめ直す、これが人間の生き方なんだろうかという再認識を抱くことが、地球環境への保全につながって行くと思います。








































2017年8月2日水曜日

祖父江真一(JAXAミッションマネージャー)・すごいぞ地球観測衛星

祖父江真一(JAXAミッションマネージャー)・すごいぞ地球観測衛星
今年は日本初の地球観測衛星が打ち上げられてから30年になります。
地球観測衛星はオゾン層の破壊、地球温暖化などの気候変動や、台風、地震、火山などの災害に対応するために、宇宙から地球を見つめて必要なデータを集める人工衛星です。
東日本大震災や熊本地震の時などに衛星から送られてきた画像をご覧なった方も多分おいでになると思います。
祖父江真一さんは52歳、平成元年に現在のJAXAに入社しました。
以来地球観測衛星の開発、運用などに携わり日本の観測衛星を熟知されている方です。
祖父江さんにご自身の社会人人生と重なる日本の地球観測衛星の開発を振り返りながら開発に挑む熱い思いを聞きました。

役割は上がった後の人工衛星を、どういうふうに色んな形で使っていくかを調整して行くかという様なことをやっています。
2011年東日本大震災の時に、沢山の衛星写真を送って、被害状況の把握、災害対応計画の立案に役立ちました。
その時の衛星は「大地」と云う衛星でした。
衛星としては定年(5年)を迎えましたが、働くことが出来ました。(その2カ月後に終了)
1987年初めての衛星を打ち上げ、海洋観測衛星1号「もも1号」
陸と海を観測する衛星両方を検討していたが、先に海洋衛星をと云うことになり、海洋衛星を打ち上げました。
JAXAは技術の進歩に合わせて高性能化する、高機能化すると云うこともやりますが、地球の環境を見ると云うことは、30年は少なくとも観測しないといけないと言われている。
30年間同じような観測装置で同じように観測した方が、変化が判りやすいと云うこともある。

私が関わるようになったのは「もも2号」からです。(1990年2月打ち上げ)
種子島で打ち上げを見た後に、埼玉県の鳩山町に地球観測センターがあり、もも2号の衛星のデータを受け取ってどういうふうにやるかと云うところから参加しました。
日本が打ち上げた観測衛星は10個で、運用中は4つです。
①「だいち」後継機の「だいち2号」 陸上の状況を見ている。 災害など。
②二酸化炭素を測る衛星「いぶき
③雨を測る衛星「しずく」 気候変動が一番出てくるのが雨の降り方、台風。
④アメリカと一緒にやっているGPM 衛星は米国、日本の観測装置を搭載。3次元で雨が判る、台風の構造がより判る。
いかに海の上の情報を多くするかで予測精度が高まる。

最も残念なのは、「みどり」(ADEOS)、「みどり2号」(ADEOS2号)です。
衛星が大きくなると大きな観測装置を載せることができるので、1つの衛星に8個の観測装置を載せて、同規模の衛星をアメリカも先にあげるはずだったが遅れて、日本は世界トップの衛星を上げることになり、最初打ちあげて動き出した時には凄い成果を出して期待されたが、10カ月の運用で止まってしまった。(太陽電池が壊れてしまった)
「みどり」の失敗の轍を踏むまいと、「みどり2号」を打ち上げたが、太陽電池パネルのところの問題が起こって約10カ月で止まってしまった。
この二つの失敗でその後冬の時代でした。
もし失敗していなかったら、完全に日本のデータがスタンダードになって、国際的な環境、気候変動の変化では日本のデータを使わないとしょうがなくなっていて、日本に対する依存度が違ったような気がします。

やっと失敗を繰り返さないとうことで、みどり、みどり2号は太陽電池が一つだったが、しずく、だいち2号は両側になり、片方が壊れても衛星は死なないという形になり安定して動けるようになりました。
ようやく気候変動の観測衛星が今年度中に打ちあげるのを予定しています。
しずく(GCONW)と今度打ち上げる衛星(GCOMC)で二つ合わせてみどり2号と同様な機能をはたしています。
みどり2号のさらに進化したものが「いぶき」になっていて、GCOMCが上がればみどり2号のあとのものが全部そろう形です。
こういった仕事を判り易く説明できるように心がけています。
2011年東日本大震災があり、タイで大規模な水害があった年で、自分たちの生活には影響がないように思われるが、日本の工場も被害に会って車の部品が入らないと云うことになりました。
アジアで被害があった時には、もろに日本の生活、経済に影響があるので、一つの国だけで何かという話ではないと云うことです。

名古屋市生まれ。
宇宙もののアニメがあり一生懸命読んだりして、小学校の頃に天体望遠鏡を買ってもらって木星、土星を見ていました。
大学の研究生の時に、コンピューターシュミレションをやる研究室に行って、宇宙に近くなってきた感じがしました。
1989年NASUDAに入社。
2003年に「みどり2号」が運用停止して、「しずく」が打ち上げられたのが2009年になります。
「いぶき」をあげようとするまでに、組織的な管理の問題があるのではないかとか、組織の改善、地球観測をこれからもやるのかとか、議論があり、先が見えなくてそのころが一番つらかったです。
環境省が一緒にやりましょうと云うことになり、京都議定書の問題もあり「いぶき」が動き出しました。

地球の問題は日本人がよければいいと云う話ではなくて、世界に利益があれば必ず日本にも戻ってくることを信じていること、仏教でいう自捨他利、自分を捨てていかに他人に利するか、と云う処の話が原点にないと、地球観測をなんでやるの、日本の為だけなら衛星をあげなくてもいいんじゃないのという話になりがちだが、将来のことを考えたら地球全
体のために貢献しないと意味がない。
或る程度部下を使う立場になった時には、一度こうだと決めたらよほどのことがない限り
変えないと云うことは信条にしています。(頑固だとは言われますが)
仕事だけが人生のすべてではないと云うのもあるので、いかに効率的に仕事をして行って、自分の時間を大切にすると云うこともあると思います。
判断をする時に、自分の狭い立場で正しいと云う風に考えるのではなくて、広い立場、人として他の人のことも考えて判断して何が正しいかを判断してもらいたい。
さらに観測することによって、地球はどう変わりつつあるのか、これから20年の観測が重要で北極の氷の融け方の傾向を見ていると、ここ何十年で北極の氷はゼロになるかも知れなと云うペースで氷が減ってきている。
今の現実がどうなっているのか、正しく把握して明日に備えることが大切だと思っています。
「いぶき」「だいち2号」の次が動き出しているが、そのあとは明確ではなくて、継続的に人工衛星を使って地球を見ていくことを日本としてやっていこうと、できるところまではやっていければと思っています。
































2017年8月1日火曜日

リチャード・フレイビン(和紙アーティスト)・漉き舟がわたしのカンバス

リチャード・フレイビン(和紙アーティスト)・漉き舟がわたしのカンバス
1943年アメリカ、ボストン生まれ 73歳。
美術大学を卒業し、広告代理店で仕事をしながらボストン美術館に通い、浮世絵、水墨画、日本画など日本美術に魅かれ、25歳で来日しました。
以来48年日本に在住し、和紙をすいてアート作品を製作しています。
作品はふすまや屏風、和紙のインテリア、壁紙、かみこなど多彩です。
こうぞの素材の魅力を巧みに生かしています。
来日して2年間、東京芸術大学で学び、その後日本各地にある和紙の産地を訪ね歩き、埼玉県小川町で手すき和紙の技術を身に付け、小川町を拠点にアート活動を続けています。
日本に長年伝えられてきた手すき和紙の技をこれからもしっかりひき継いで行きたいということです。

紙を薄い藍色に染めるが、染め方がいろいろある。
刷毛染め、スプレイに入れて染める、その後乾燥させる。
これは千切って張って、壁紙にします。
漉き舟は畳1畳ぐらいあります。
けたにすだれを敷いて、濡らして紙すきが始まります。
からまりがいい、こうぞの繊維が長い、薄くてもできあがった紙はとても丈夫です。
紙すきは重労働です。
特に展示会などがある前には漉き舟の前に立ちます。
もみじの葉を漉き込むときは位置など色々考えます。
紙を作る技術を覚えれば自分の作る作品の発想が変わる。

現在は二つ目のアトリエ、最初は慈恩寺があり、そこに蔵がありお布施によりそこで暮らして、工房がほしかったが、それは簡単に建物は立てられなくて、京都の本山と話し合い、座禅堂という名目でアトリエを作ってもいいと云うことになり(紙を作ることも禅の一つと云うことで)そこで紙すきが出来ましたが、2005年に大火事に会って消失してしまいました。
縁がありこちらの生越の方に来ました。
入ってきた正面に4枚のふすまの作品があります。
上の方はごつごつした岩があり、下は青い水が流れている図になっています。
作品はほかに写真に撮ってありまして、和紙の中にかえで、花などを配置したりしています。
書を書いて漉き込んだり、古い紙を生かして入れる。
漉き込むことと染めることで色々な和紙の作品を作り上げます。
普通の紙を触ってみると味がないが、和紙の魅力は、和紙を触ってみると、音を感じたり、丈夫でもある。
これは杉の皮、こうぞの黒い皮をアクセントのために入れています。
繊維が長いからにじみが多い、綺麗に滲みます。
かみこ、着物の羽織、帯を作りました。

ボストン美術学校にいたときに、ボストン美術館があり東洋のコレクションが沢山あって、浮世絵、水墨画などがあり日本文化が好きでした。
浮世絵はできないが、ぼかしたやりかた、抽象的な作品に浮世絵を取り入れたいと思いました。
25歳の時に、日本に行きたいと思い両親に話ました。
東京芸術大学に入って、木版教室に入りました。(2年間勉強)
和紙に魅力を感じて全国を回りました。(金沢、美濃、高知など)
紙すきは家族、地元の人だったら入りやすいが、地元の人は入りたがらない。
体験センターがあり、いろんな先生がいて、1年間紙すきのやり方を覚えました。
小川町でスタートしました。

小川町は和紙の産地として有名で昔はこうぞなど原料もたくさん作っていたが、最近は無くなってしまって、対策としてこうぞの苗を栃木県から買ってきて、こうぞの畑が増えました。(その声かけ運動をしました)
25年前は100本植えて、いまは600本になりました。
小川町にこうぞをよみがえらせる事が出来ました。
里山クラブのメンバーで畑を管理しています。
会長は学校の先生で若い人も入っていて自然保護したいと、さまざまな活動していて、そのひとつがこうぞの栽培ということになります。
和紙の保存、和紙の展示会も増えて和紙を理解してくれる人は多くなったと感じています。

現在東京の西荻窪に住んでいてギャラリーがあり、ワークショップもやっています。
和紙の魅力が段々理解する人が多くなってきました。
来日して50年を越えていて、ダイニング以外は坐る生活をしています。
夕食はご飯を食べます。(毎日和食です。)
楽しめればいい、アートの場合は、発想を色々変えて自分の作品に満足すれば金よりも宝物だと思います。
2週間前に宇都宮で二人展を妻と一緒にやりました。
和紙を沢山使って家の壁を和紙で飾る事を考えています。
和紙の作りは1300年の歴史があり、この時代で無くなったら日本人の大きな責任になると思うので、あと1000年続ければ和紙の良さは世界中で判るので、和紙を大事に守りたい。
(リチャード・フレイビンさんは2020年5月に亡くなられました。)