2017年7月31日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)       ・【絶望名言】 ゲーテ

頭木弘樹(文学紹介者)       ・【絶望名言】 ゲーテ
「絶望することが出来ないものは生きるに値しない。」
「快適な暮らしの中で創造力を失った人達は無限の苦悩と云うものを認めようとしない、でもある、あるんだ。」
「どんな慰めも恥ずべき物でしかなく、絶望が義務であるような場合が。」(ゲーテ)

病気、事故災害あるいは裏切り、失恋、孤独、受け入れがたい現実に直面した時、人は絶望します。

絶望の言葉を紹介すると云うことでお叱りを受けるかと思ったが、以外にそういうことはなくて心に響いたとか、絶望の言葉なのに生きる糧になるとおっしゃって頂き嬉しかったです。
人間は昼と同じく夜も必要としないだろうか、とゲーテは言っています。

ドイツの世界的作家、25歳の時に書いた「若きウエルテルの悩み」で有名になる。
「ファウスト」を完成した直後に82歳で亡くなる。
第二次大戦中にユダヤ人の少女がナチスの収容所に入れられて、どうにも耐えられないと云う時に、倉庫の隅で半分破れた国語の本を見つけて、そこにゲーテのファウストの一節が書かれていて、凄く感動して救われたと云う話を書いています。
「陽気さと真っ直ぐな心があれば、最終的には上手くいく」、と云うようなことも言っています。
沢山の恋をして74歳の時に19歳の少女に結婚を申し込んだりしている。
ゲーテ自身が絶望を多く体験している。
最初6歳の時、(1755年11月1日)地震、津波で6万人の人が亡くなる。
この時に非常に強いショックを受けて、これが一生ゲーテの心に響き続ける。
神にたいして怒りを感ずる。
自然の中に神が存在すると云うような考え方になって、自然信仰みたいな境地に達する。
自然は豊かさももたらすが、恐ろしい災害をもたらす。
ただ祈るしかない境地と云うのは宮古島に行ってから理解出来るようになった。
(台風の恐ろしさ)

「私はいつも皆から幸運に恵まれた人間だと褒めそやされてきた。
私は愚痴などこぼしたくないし、自分のこれまでの人生にケチをつけるつもりもない。
しかし実際には苦労と仕事以外の何物でもなかった。
75年の生涯で本当に幸福だった時は1か月もなかったと言っていい。
石を上に押し上げようと、繰り返し永遠に転がしているようなものだった。」(ゲーテ)
ゲーテは幸福な人生を送った人だと思っているが、伝記絵?がない、人生が上手くいっているのでドラマチックにならない。
82歳でファウストを完成させて 数カ月後に亡くなる。
あらすじで見るとゲーテの人生は幸福だが、ひそかな悲しみを秘めている。
ヴァイマル公国という国で大臣になるが、ちいさくまずしくて、人口は6000人、面積は埼玉県の半分ぐらいで、ゲーテは財政、外交、農業、鉱山開発、軍備の縮小なんでもやらなければならなかった。
この時代は作品をなにも書けなかった。

作品が世の中に評価されないことを嘆いて、塵の中でうごめく虫の努力にすぎないと、言っている。
ゲーテの周りでは大切な人が次々に亡くなって行く。
4人の弟、妹を亡くしている。
親友シラー(10歳下)もゲーテよりもだいぶ前に亡くなってしまう。
母、妻も亡くなり、81歳の時に息子が一人いたが、亡くなってしまう。
多くの喜びの一方で、多くの悲しみもゲーテは経験している。(光の強いところでは影も濃い)
人生をあらすじで見てしまいがちだが、細やかに見て行くと幸福な人の人生も沢山の悲しみがあったり、不幸な人生の中にも沢山の喜びがあったりする。
あらすじで生きたかった時には、昼の味噌汁がうまかったかなどはどうでもいいと思っていたが、今は寒い時に飲んだ味噌汁が温かかったとか、そういうことが人生で大きく、細やかな部分に段々目が行くようになると人生に対する感じ方も大きく変わって来ると思います。
病気をしてみると、花の綺麗さ、自然などの一つ一つが身にしみて感ずることがあります。

曲「魔王」 息子に対する父親の愛があふれている。(ゲーテが実際に目撃したことで、父親病気の息子を抱えて馬で医者の所へ走って行った。それを書いている。)
祖父は蹄鉄を作る職人で苦労して巨万の富を得るが、父親は苦労知らずで育って、地位、名誉は無かったので、ゲーテに全てを託す。
ゲーテは作家になりたかったが父は法律を学ばせる。
大学に行くが、初めての一人暮らしで羽目を外して結核になり、ぼろぼろで家に戻って来る。
命が危ない時もあり、その時に父親とは決定的にこじれてしまう。
「父の家から出ることにあこがれた、父との間がうまくいかなかった。
私の病気が再発した時や、なかなか良くならなかった時に父は短気を起こした。
・・・・そのことをおもうとどうしても父の事をゆるす事が出来なかった。」
父親はゲーテの病気が治らないことにいらいらしてきて、息子への失望を隠しきれなくなる。
弱った時に冷たくされるともはや元の気持ちでは付き合い切れず、不仲であれば決定的な駄目押しになってしまう。
カフカとゲーテは似通った境遇にあるが、カフカの父親はカフカが病気になると非常に心配し借金して対応した。
内臓の病気は気の持ちようだと言われやすい。
対応してくれる人が「変わらない」と云うことは、一番感謝します。
当たり前に接してくれる事はとっても有難かったです。

「涙とともにパンを食べたことのないものには人生の本当の味は判らない。」
「ベッドの上で泣き明かしたことのないものには人生の本当の安らぎは判らない。」
「暑さ寒さにくるしんだものでなければ人間と云う物の値打ちは判らない。」
「人間は昼と同じく夜を必要としないだろうか。」
絶望を踏まえたうえでの希望ですね。
陽気なゲーテではあるが、人生には苦しみ悲しみ悩み暗さが必要だと何度も繰り返し言っている。
雨の日の魅力にも気付きたい。
絶望を踏まえたうえでなお陽気に生きてゆく、こういう人こそ本当の明るい人だと思います。










ゲーテは父親とは上手くいっていなくて、













2017年7月29日土曜日

松原仁(公立はこだて未来大学副理事長)・鉄腕アトムに憧れて

松原仁(公立はこだて未来大学副理事長)・鉄腕アトムに憧れて~AI(人工知能)と歩んだ道
最近AI(人工知能)いう言葉を良く聞くと思います。
学習をしたり、推し量ったり認識をしたり判断をしたりといった人間の様な知能をもたせたコンピューターシステムのことです。
データを蓄積して状況に応じた適切な対応を選択できると云うものです。
コンピューター将棋、車の自動運転等AIが大きな役割をはたしています。
そんな人工知能研究の日本における第一人者が函館にいます。
公立はこだて未来大学副理事長で人工知能学会の前の会長の松原さんです。
57歳、東京出身、東京大学大学院を卒業後、電子技術総合研究所に勤務、2000年から公立はこだて未来大学に赴任してAIの研究をリードしてきました。
AIに短編小説を書かせて、文学賞の選考を通過するなど、まるで映画のような未来を現実のものにしています。
鉄腕アトムにあこがれて研究の世界に入ったんですが、かつては人工知能研究に対するアレルギーが理系の中でさえ存在したといいます。
平坦ではなかった研究者人生を振り返って頂くとともに、AIが私達の暮らしにもたらすものについて語っていただきます。

1959年に東京で生まれました。
1963年に日本初のアニメ、鉄腕アトムが始まってそれを非常に喜んで見ていました。
天馬博士が自分の子供が亡くなって替わりに鉄腕アトムを作ったが、成長しないのでサーカスに売り飛ばすが、お茶の水博士が引き取って正義の味方として育てる。
何故か天馬博士が好きになりました。
小学校低学年の時には極々普通の目立たない子供でした。
母親が本好きで、本を買うと云うとこづかいを出してくれて、本好きで育ちました。
TVは30分しか見られなくて、鉄腕アトムは貴重でした。
将来はエンジニアになりたいと思っていました。(ロボットを作る博士)
星新一さんのファンになって、全作品を読みました。
中学に入って数学だけは勉強しました。
フロイトの本を読んだが、何か良く判らないが、意識とは何かというような内容でした。
アトムは心を持ったロボットで、心とはなんだろうと、そのあとの人工知能にも繋がったと思います。
中学の時に将棋も好きだったので将棋の研究もしました。

1977年東京大学に入って、コンピューターの勉強を始めて、最初から将棋のプログラミングをやりました。
人工知能は人間がどう考えているか、人間の心はどうなっているのかを学ぶもので、人工知能が自分のやりたい事ではなかったのかと思いました。
人工知能のブームが3回あり今が3回目です。(1、2回目は期待外れだった)
私が始めたころは1回目のブームの後で冬の時代でした。
井上博允先生、ロボットの第一人者で研究テーマの最後に人工知能と書いてあった。
井上先生の研究室に入ることになりました。
最初に言われたのが、君は人工知能をやりたいと言っているが、僕は判らないからと言われました。
アメリカは人工知能の研究が進んでいて、人工知能の研究室があって楽しそうだったので、もしやりたいと思う学生がいたらやらせてもいいかなと思ったら、君が引っ掛かったと云うようなことを言われました。
君は自習したまえと言われました。

他の研究室にも人工知能に関して興味のある学生がいて、そのメンバーで勉強会を2週間おきに勉強しました。
当時日本には人工知能に関する物は無かったので、英語の論文、英語の本を読む。
中島秀之さん(元学長)、片桐 恭弘さん(今の学長)、など10人ぐらいでした。
2回目のブームが来るが、そこが唯一の勉強会(あいうえおの会)で、85年頃には100人ぐらいに急に膨らみました。(その頃学会が出来ました)
井上先生からは将棋のことなどは表に出さず、ロボットのAIと云うことで研究しなさいと言われました。(夜に将棋のプログラムをこつこつやっていました)
86年に電子技術総合研究所(つくば市)日本で一番人工知能研究者が集まっているということでそこ行きました。
研究所に入っても3~4年ロボットのAIをやっていました。
30歳になった時にそろそろ将棋を公式に研究題材として始めました。

将棋の本の購入などには苦労しました。(研究のためのものなのかどうか)
2010年~2015年ぐらいにプロ棋士に勝つと書いていました。
当時は絶対にそんなことはないと周りでは言われていました。
日本初の世界標準を作ろうと思いました。
何にしようかということから始まって、野球、サッカーなどがありましたが、サッカーは
世界で最も人気のあるスポーツなので始めた。
1997年第一回世界大会を名古屋でロボサッカーをやりました。
目標を立てて、2050年までにワールドカップ優勝チームに勝つ人間型ロボットチームを作る、という無謀と思われるかもしれませんがそうして始めました。
ロボット同士を無線でつなぐが、サッカー場だといろんな無線が飛び交ってるので無線がとどかなくて、動かなかった。
毎年やっていて、今は40~50カ国でサッカーロボットの研究をやっています。

災害救助、ロボットがマネキンを探す。
二酸化炭素を出すようなマネキンがあり、それは生存していることになる。
ロボカップで、当初は日本のロボットが強かったが、最近は外国のロボットが強くなってきています。
観光、農業、漁業、共同での研究開発、沢山のデータから学習するのが得意なのでデータがほしい。
地方都市はデータから近い。
定置網は環境に優しいが、どの魚が入っているか、あげてみないと判らない。
メジマグロ(小さいマグロを取るとペネルティー)を取る前に知りたいと云う事があり、魚群探知機を取り付けて実際にどんな魚がどれくらい捕れたか、大量に毎日データを取って、コンピューター学習させることによって、或る程度網を上げる前に魚の種類が判るようになってきました。
もう一歩進めようとしていて、メジマグロがこれぐらいいるから今回は網を上げないとか、メジマグロが少ないから網を上げると云うように指示できるようになって来ると思います。

人工知能の研究は、考えることとは、心とは、感情とはどういうこととかを考えることなので、人間を考えると云うことなんです。
人工知能は道具なので、仲間として取り入れて、その技術によって仕事の内容が変わると思います。
実社会は範囲が区切れないので人工知能には解けないので、人間の出番だと思います。
人工知能を人間が上手く使いこなして、より良い社会が実現されることを祈っています。







































2017年7月28日金曜日

2017年7月27日木曜日

大場信義(全国ホタル研究会名誉会長)・ホタルのヒミツ(2)

大場信義(全国ホタル研究会名誉会長)・ホタルのヒミツ(2)
蛍の生態調査をやっていたりすると、次の年に行ったら無くなってしまったりして、群生地があっと驚くような光景で見えた場所がなくなっていると云う、そういう場面を何回か味わってすごくショックでした。
見れないと云うことでそれが一つのきっかけでした。
水質汚濁、河川改修が進んで行ってコンクリート化されて、住宅地が増えて蛍がどんどんいなくなってしまった。
ゲンジボタルを中心にしてこれをきっかけにして、岩戸川のところで蛍が消える寸前で大発生して、そのあと水質汚濁でいなくなってしまった。
地域の人たちが元の様に戻してほしいと市に陳情に行きました。
私も含めて論議を重ねて、河川形態を蛍が住めるような環境に入れ込んでいこうとしました。

行政が動いてくれて、一緒に論議を重ねて行き、改修が始まりました。
下水工事、コンクリート護岸に色々工夫して行って、10年、20年継続して、続けるうちに今は沢山の蛍が飛ぶようになりました。
そういう場所が横須賀で30か所ぐらいになりました。
地元の人が熱心になればなるほどこちらも動かされて支援したいと思いました。
そうすることが今までやってきた研究を市民のみなさんに還元する一つになって行くんじゃないかなあと思いました。
出来ることとできないことがあるので、現実的な対応は何かと云うことを話し合って、出来ることをやっていきます。
地域の人たちが主体になって行かない限りそこまではなかなかできない。
私のキーワードは継続です。
ドキドキワクワク、楽しさ、やる方がそう思っていないと継続できない。
市内だけでなく周辺に広がってきています。
自生する環境を作って行く、そのためには蛍のメッセージを聞くしかない。(辛抱強く)

蛍の光の揺らぎ、初めて見ても日本人のDNAに刻み込まれているというか、同じようなベースに立ってしまう。
蛍たちがこのままいったらどうなるの、私たちが消えたらあなた達は将来どうなると思っているのと、問いかけられているような気がします。
良い米が取れるところは水資源が豊かで、トンボがいたり蛍がいた。
経済は変化するが、日本人が培ってきた文化性の問題は営々と続いてきているので、これを失ったら日本人のステータスが無くなると思う。
わたしたちが心豊かに平和に生きるための、感性を子供たちにも伝えて行くそういう役割を担っている。
街興しにも必要だと思うが、観光資源として活用するのもいいと思うが、自生する様な中でやる分には良いが、度を越してはいけないと思います。
生物多様性ということもあるが、蛍の種の多様性ということもあり、同じ源氏蛍でも多様性を重要視しています。(なんでも蛍が増えればいいと云うことではない)

西は九州、東は青森県まで自分の目で見て蛍の記録を取って行きました。
西と東で光り方が違うことが判りました。
西日本はせっかち、約2秒に一回光る。(オスの光り方)
東日本では約4秒に一回光ります。
東日本に西日本から持ってきた蛍はそのまま変わらない。
東日本と西日本の文学性でも感性の違いがある。
蛍がいるところにはトンボ等いろいろいるので、それを包括して私たちは蛍の里作りを通して後ろを押してゆく、それが問われていると思っています。
西日本と東日本の違い、中部日本でフォッサマグナがあり、いろんな生き物の分布境界域になっていてバリアになっていて蛍でも同様だと思われる。
東日本と西日本の蛍の光り方の違いは、ある集団が東に広がって行き、フォッサマグナとか突然変異などで2秒発光が1回抑えられると4秒になる。
これは推論です。

増やそうと思ったときに西日本は集団が大きいので、手っ取り早くやるのには、西日本の蛍を持ってくればいいが、それは困ったことになる、一旦はいると元に戻すことはできなくなる。
元に戻そうと云う動きが多摩動物公園、世田谷区などで始まっています。
当時西日本の蛍を取り入れたが、昔のような蛍に戻したいと云う話が持ち上がって、東日本蛍の卵を取って増やしていって、西日本蛍を排除して行って、完全にというのは、今後の問題だと思います。
皇居外苑の蛍、皇居のお堀の水質が悪くてアオコが発生、大浄化作戦が始まり、そんななかで蛍が見つかり、極限定された場所に細々と残っていた。
環境省が遺伝子を調べてみたら、元々いた集団だということがわかった。
400年前の地図を見ると、東京湾が江戸城のすぐ近くまで広がっていて、バッファーとして湿地が沢山ありました。
湿地には水生生物、蛍など沢山いて、湿地を埋め立てて江戸城の築城に伴って新たなお堀に奇跡的な状況下で適応した、まさに奇跡としか思えない。(400年前)

その蛍の子孫が今も現存している、そういうことからプロジェクトは始まっている。
年間10匹ぐらいしか出てこない、絶滅的な危機。
来年か再来年 100匹でたら10匹とっても絶滅はしないと提言。
その年の5月に100匹近く出てくれた、奇跡に近い。(翌年はそんなに出ていない)
その中から採卵して、累代を続けて今は3000匹になりました。
2か所で生き飼い保全の実験をしているが、放したらでてくるがぬかよろこびできない。
来年引き継いでちゃんと出てくれるかどうか、モニタリングしないといけないと言っています。
千代田区での照明の問題など配慮して行く事は必要だと思います。
今後の蛍との付き合い方、蛍の言い分を聞いてゆくことが必要だと思います。
試行錯誤しながら蛍に聞いて付き合ってゆく事が必要です。

































2017年7月26日水曜日

大場信義(全国ホタル研究会名誉会長)・ホタルのヒミツ(1)

大場信義(全国ホタル研究会名誉会長)・ホタルのヒミツ(1)
72歳、神奈川県鎌倉市出身、東京理科大学を卒業後、企業の研究所に勤務してから横須賀市の自然人文博物館の学芸員として長年螢研究に取り組みました。
全国各地で蛍の調査を行って新種の発見や不思議な生態の解明をしたほか、海外に出向いて日本の蛍のルーツを探る調査もしてきました。
一方で蛍の生息環境を守る取り組みをしている人たちにさまざまなアドバイスを行っています。

蛍研究45年になりますが、昆虫が好きでした。
職業についたときに、命に触れ合うと云う事が最低限譲れないところでした。
バクテリア等の微生物とか、酵素とか分子生物学的な背景の方の企業の研究に入って、やっていました。
研究が一段落して、昆虫の研究をしたいと思っていた矢先に発光反応に上司が眼を付けて、横須賀市に博物館があるが、そこの館長さんが世界的な発光生物の研究者で羽根田弥太先生でした。
その先生にお会いしてから、昆虫と発光生物で蛍ということになりました。
学校の先生も一時経験しました。
企業の研究でも学校でも同質でそれぞれドキドキわくわくしました。
蛍研究は独自でやって来ました。
面白い、楽しい、不思議、何故だろうと云う思いに支えられてきました。
同じ源氏蛍でも環境が違うと、全然違う挙動を示すとか色いろありました。
蛍は物を言わない生き物で、環境の問題とか最終的なジャッジは蛍がすべきだと思っていて、私自身が蛍から教わりました。(蛍のメッセンジャーだと思っています)

蛍が光っているのは雄雌のコミュニケーションだと思っていて、他に身を防衛する、相手をびっくりさせるために光る。
蛍はにおいを出します、捕食者が食べた時に苦かったりすると、学習して光っているものは苦いと云うことで、止めようと云うような構図が出来ると思います。
食べられる頻度が下がって来る。
オスはメスを見つけなければいけないので、卵を産むためにはオスと交尾しないといけない。
自分がオス、メスであることを判らせるために光るが、オスとメスで光り方が違う。
源氏蛍がこれがオスだとかメスだとか、判別が非常に難しい。
平家蛍は明らかにオスとメスでの光り方が違う。
源氏蛍はオスはメスを探すときに一斉に飛び出して、集団で同時についたり消えたりします。
メスは下の方でぼーっと光ります。
そういう行動によってたがいに識別します。
種類によって固有なコミュニケーションのやり方をしています。
2000種類世界にいますがそれぞれ違います、中には光らないホタルもいます。

新種の蛍、30年前西表蛍が見つかりました。
冬に飛ぶ蛍がいたが、それを雨の中を調査していたが、或る時一日中降る中に雨がぱっと15分間止んだ時があり、見たことのない様な幼虫のようなお尻を上げて光る蛍がいたんです。
どう見ても幼虫に見えたが、足の形態、口の様子などを見ると成虫の形質をしていた。
それはメスでオスが違う処にいるのではないかと思って探し求めたが、メスしか見つからなかった。
その後も行ったがメスしか見つからなかった。
オスは光からないと云う事がその後に判った。
オスの活動する時間帯は冬に出てくる。(12月~1月)
メスがオスと会うために光っていた。
オスが飛んでいてまっしぐらに飛んで行って交尾をして、交尾が終わると直ぐにメスは無駄な光を放たなくなる。
パタパタと消えてしまって、あとは何も無くなってしまって、それがオスを探すのが困難だという背景が判りました。

メスは産卵するが、土に潜って卵を産む。(陸生の蛍)
日本には源氏蛍、平家蛍、久米島蛍の3種が水生の蛍で、世界では8種しかいない。
日本では陸生の蛍が約50種いるが、そのひとつが西表蛍です。
里地の石垣など、学校の校庭などにいます。
世界的にみても貴重な蛍で、石垣、西表、浜島の3島にいますが、世界に類をみないほど生息密度が高い。
メスの体長は1cmぐらいで卵を産む時に身体を丸めこみ、30個ぐらいを産卵して抱きかかえる。
卵を産んでリング上に成った時に光る位置をお尻から変えてしまう。
卵を守るために身体のふしぶしに3点づつ発光器があり、丸く光って見える。
身体が丸くなっているので、相手を脅かすために目玉のような模様となっている。
オスもメスも強烈なにおいを出すので、鳥などは食べたくないと思う。
光る為の2つの回答を私に与えてくれた(コミュニケーションと防衛)

幼虫型蛍はいったいどこからやってきたんだろうと思いました。
台湾を調査すると似たような蛍がみつかりました。
大陸を調査すると、マレー半島、シンガポールには似たようなほしむし?(星虫?)と云うのがいることが判り、タイなどにも西表蛍そっくりの蛍が見つかりました。
中国大陸雲南省2000mぐらいのところで共同研究者と10年間調査を続けましたが、中国大陸には色んな種類の蛍が見つかり、新種も見つかりました。
南米ブラジルなどに鉄道虫がいて頭から赤い光を出して、メス成虫は幼虫型で防衛シグナルも全く同じです。
蛍が大陸間を移動できるわけがなく、大陸が繋がっていた頃でないと説明がつかない、その頃に祖先が出てきて、大陸移動とともにそれぞれの大陸で固有の進化を遂げて、今現存している、歴史的背景が、気が遠くなる時間を掛けて成立していった。
それを西表島の西表蛍が示してくれた。

羽根田先生が戦前、パプアニューギニア、ニューブリテン、ラバウルなどで木に蛍の大群が光っているのを見ました。(一晩中光っているという話だった)
木の伐採が進んで木がきわめて少なくなってきた。
木で蛍がどうして大群で光っているのだろうという疑問があった。
密林の中のオスとメスの出会いの場所だった。
集まれる数が木のサイズによって違う。
幼虫は陸生の貝を食べるので、餌不足の問題もあり、それを回避するために、卵を産むときに分散する。
餌問題で木のサイズをどうやって判断しているのかも判らない、生命の不思議、命の営みの不思議です。

キリギリスの身体が手足は普通の緑色、身体は黒、頭は赤で蛍のようなキリギリスが蛍の木の周りにいます、擬態といいますが。
蛍に似た恰好をしてなんらかの仕組みで外敵から身を守ってると云うことだと思います。
そのような昆虫が1本の木に10数種類います。
甲虫、キリギリス、蛾がいたりしていて本当に吃驚で、それが現実に起こっている訳ですが、それは謎です。
森林伐採が進んでいて、どんどん消えてしまうので、このようなミステリーは全部消えてしまい、取り返しができないので、二度と省みることが出来ない状況で、余りに大きな喪失感がぼくにはあってならない、これは消してはいけない。
しかし大変難しい。
せめて多くの人に伝え、蛍は光っていることによって伝えているんだと云う風に感じています。












































2017年7月25日火曜日

天野安喜子(鍵屋15代目花火師)   ・夜空と畳に華咲かせ

天野安喜子(鍵屋15代目花火師、国際柔道連盟審判員)・夜空と畳に華咲かせ
花火が打ち上がる時にかかるおなじみの掛け声、玉屋、鍵屋は共に江戸時代に名をはせた花火店の名前ですが、今もなお商売を続けているのは鍵屋だけです。
天野さんはその鍵屋の15代目を2000年30歳の若さで襲名しました。
天野さんは花火師として多忙を極める一方で、女性審判員のさきがけとして、2008年の北京オリンピックや今年の全日本選手権など大舞台にも立ち、審判員としても活躍しています。

7月、8月は花火の打ち上げが忙しい時期で、6月は安全に対する対策を主催者と協議したり、花火がきちんと思うようなものが出来ているかどうかの確認作業だったりします。
火薬に火を付ける時には、集客するのでもっと対策があるのではないかと神経をすり減らしているところです。
江戸川区と、市川市で見られるので合計で139万人の集客を誇っています。
音楽を入れたり新しい要素を取り入れたりしていますが、私は一番「間の取り方」を意識しています。
鍵屋の場合100%、遠隔操作で打ち上げを行っていて(電気点火)、コンピューター制御と、手動制御があり、コンピューター制御は事前にプログラミングするので、穏やかな中で間を取ってしまうので、私が手を振りおろすと手動制御で瞬時にボタンを押す、間の取り方を自由自在に行うようにしています。(300回近く手を振ってやっています)
視線は花火の筒口の方を見ています。(花火そのものはあまり見られません)

春先に試験打ちをしたりして、花火の組み合わせ、薬品の付けくわえ方など、想像しながら試験打ちしています。
物語性を醸し出して舞台として打ち出しているのが鍵屋の特徴かも知れません。
同じ様なピンク色でも表現により主催者側と協議しながら決めていきます。
人の心を動かすには人が生み出さないといけないと思っているので、童心に帰ったような気持ちでやります。
花火の特質は、色、形、光、音(リズムを含め)あるが、私が一番魅力を感じているのが音で、音の演出をすると迫力が見ているお客さんに伝えることができる。
花火の置く位置で船の上と土の上では若干音が違っていて、船では鉄板をはじくような音に成り、土だとドスンというような低い音に成る。
①地面から出るときの音 ②上空にヒューというように上がって行く音、③花火がさく裂する音 ④花火自体が持っている音 4種類あるので工夫を凝らして音を楽しんでもらう。

小学校2年生ぐらいの時に「私パパみたいになる」、と云ったようです。(記憶にはありませんが)
花火師としてまた柔道も館長をやっていて父がカッコよかった。
母からも「父はかっこいい人だ」と言われ続けました。
仕事としては父親、女性としては母親という身近に目標がありました。
継いだあとから人柄まで見られるようになり、人間性を磨かなければいけないんだと云うことでプレシャーを感じ始めました。
職人さんとか信頼関係が結ばれていると自分のことはどうでもよくなってくる。
機縁との背中合わせの現場なので、トラブルが対処できるようになって、職人と意見を交わしたりして来てからは、自分の角がとれたと思います。
自分の目標として人より3倍は動くと云うことを決めていました。
子供を育てる事によって、自分も成長して大きな視野の中で相手を捉えるられようになりました。(35歳以後)
いい信頼関係を得られるようになりました。

初代が1659年に店を開いて、代ごとに何かを残しているので15代目も何かを世に残せよと父から受け継ぎました。
父は遠隔操作の手法を、13代は本を残すとか、その前は色々形、色を付けるとかやってきました。
花火を芸術の面で研究、大学院に行って博士号を取る。
今までは花火師がこの花火良いんですよと云う文献は多かったが、見ている側がどういう印象を持ったかの研究がなされてなかった。
このリンクによって花火の音から迫力を味わうとか、美的感覚とか、心理的部分と花火の特質を結び付けるような考察をする事が出来ました。

柔道の審判員としてオリンピックとか全日本選手権とかで畳に上がっています。
一階は柔道場になっていて父が柔道場を開きました。
私は第一期門下生になり、福岡国際女子柔道では銅メダルを貰うことが出来ました。
ハングリー精神が理解できなくて、練習を決まったメニューしかこなさなかった柔道の選手時代を過ごし、私がやっている以上に私が戦う選手はさらに練習しているんだという恐怖ということを知らずに過ごしていました。
それがあったからこそ今の自分があると思います。
妬みはかなりのエネルギーを使うのでその無駄なエネルギーを自分を生かすためのエネルギーに向けるべきだとか、恐怖だったら潔く真っ向勝負していれば後悔ではなくて違う新たな道を進んでいこうという勇気に代わってゆくので、柔道生活を送ってきてよかったと思います。

柔道を止めるころに女性の審判員も育てたいとの話があり、審判員へのきっかけになりました。
S,A,B,C級のランクがあり、Cから始まりその都度筆記試験、実地試験があります。
アジア圏から推薦されインターナショナルの試験があり、世界ジュニアの大会にエントリーしていただいて、世界ジュニアの大会、次に世界選手権、それからオリンピックになっても競技中ずーっと試験をさせられていて、一握りの審判員だけがファイナルブロックで決勝を裁けるようになります。
お陰さまで男子重量級の主審を仰せつかりました。

審判員は裁く仕事ではあるが演出をも一種担っている部分もあります。
瞬時の判断と勇気が必要で花火との共通性があると思います。
嬉しかったのは「天野先生にしごかれて負けるのなら悔いはない」、とおっしゃってくださる監督、コーチがいると云うことと、主審は天野審判員と言われたときに、「それだったら間違いない」とおしゃって頂く、信頼されていることが嬉しいし、公平に期待にこたえられるような審判員に訓練を重ねていかなければいけないと思います。
今出来きることイコール今やらなければいけないことでしょうと、押しているような感じがします。
辛い経験をしてきたからこそ今がある、雑草の様に生きるという言葉が人への感謝の気持ちを忘れてはいけないという言葉に自分のなかの美学が変わって、年を重ねるといいというのは本当なんだなあと思います。
そういった変わらぬ自分に対して一応は〇印をつけてあげたいと思います。
15代目としてはリズムを含めた音、魅力的だった、面白かったといわれる花火師になりたいと思います。









































2017年7月24日月曜日

松本隆(作詞家)          ・【謎解き うたことば】

松本隆(作詞家)   ・【謎解き うたことば】
日本語学者 金田一秀穂
言葉の魔術師といわれている松本さんの作った歌は2100を越えて400組近くのアーティストに歌詞を書いています。
松本隆さんに日本語学者 金田一秀穂が聞きます。

「木綿のハンカチーフ」
普遍 木綿は一番安いもの 木綿は死語に近い、死語は好きです。
スニーカーではなくて「ズック」が好きです。
「ビー玉」 京都の一流料亭で食事した時に、いとさん(女将さん)が最後に出てきて、あらかじめ用意する間がなかったと思うが、ポケットからビー玉出したんです、嬉しかった。(「硝子の少年」がヒットした半年後ぐらい)

「木綿のハンカチーフ」
恋人よ ぼくは旅立つ
東へと向かう 列車で
はなやいだ街で 君への贈りもの
探す 探すつもりだ
いいえ あなた 私は
欲しいものは ないのよ
ただ都会の絵の具に
染まらないで 帰って
染まらないで 帰って
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ハンカチーフも死語です。
恋人よ という呼びかけも死語に近いかもしれない。

「セクシャルバイオレットナンバー1 」・・・
外来語と日本語の組み合わせが多い、反対語を組み合わせるのも多い。
「しあわせ未満」、「ふられてBANZAI」・・・
ジャンルを超えています、派閥にも属してもいないし、作詞家協会にも入っていません。
詩を作ってから曲を作って行ったり、逆もあります。
順番的には詩が先にあるとは思いますが、抑揚がついて、メロディーになって、それに膨らませるとサウンドになって、日本の場合真逆になっていて、それが音楽が衰退している一つの原因になっていると思います。

漠然と何となくこんな形かなあと最初浮かびます。
自分の日常のなかで心は動いていて、詩を書くようなポジションの心の位置があって、そこに持っていくのが大変です。
もやもやとしたものが詩に成って行くと思います。
タイトルが思い付いて半年後ぐらいに詩が出来ると云うようなこともあります。
長い詩を2時間ぐらいで作って、吉田拓郎に渡してたら、3分ぐらいで作ってしまったものもあります。
「はいからはくち」
ノスタルジック つげ義春さんの絵の世界に似ている気がします。
「・・・です」「・・・ます」 は話し言葉と書き言葉の合間をねらいたいと思いました。
「・・・だぜ」石原裕次郎の言葉に良く出てくる、ちょっと不良っぽい湘南言葉。

今の日本の言葉は荒っぽい、いい加減さがあるが、言葉は大体いい加減で、地方によっても時代によっても違う。
曖昧模糊としたまんま流れて、行ってその時代の日本語になって行く、それはしょうがない。
最近僕の詩を朗読するのが流行っていて、「初恋」をすーちゃん(田中好子)が朗読してくれたが、物凄いインパクトだった。
朗読すると凄く新鮮で、音楽を取っ払っても歌詞は成立すると思いました。

中原中也にささげる詩 「砂時計」 松本隆作詞 つんく作曲

海鳴りのもっと深くで
人魚たち 泣いてるみたい
無理やりに鋏で切った
愛だから逆に縺れる


運命を遮りたくて
出した手がもう折れそうで
ほら雨が雪になりそう
泣き言は喉で封じた
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