2017年7月7日金曜日

高橋武市(観光庭園園主)      ・大地に描く夢の花園(2)

高橋武市(観光庭園園主)      ・大地に描く夢の花園(2)
この土地で心底好きな花作りで生きていこうと決めたのは、中学生の時でした。
それから62年、自分が理想とする花園をたった一人で大地に絵を描くように黙々と作り続けて来ました。
高橋さんは毎週日曜日の午前中、自ら庭を案内するガイドツアーをやっています。

8月はフロックスが一番賑やかになり、9月になるとハギがどんどん咲いてきます。
9月の最後には庭園はクローズになります。
私のおじいさん、おばあさんがが岩手県出身です、最終的に滝上に昭和5年に入ったそうです。
開拓して畑にして、山仕事もして、父は冬はマタギをやって収入を得ていました。
開拓としては遅かったので不便な場所の痩せた土地にしか入れなかった。
父は私が生まれてすぐに戦争に行って、4つのころに帰って来ました。(昭和20年)
帰ってきて嬉しかった記憶はあります。(軍隊服装を覚えています)
親が喧嘩をしている姿を見たことはなかったです。
当時は周りも含めて貧乏でした。
馬の背のような土地だったので、雨が降るたびに畑は痩せて行きました。
母は私が小学校の4年生の時に妹を産んだので、小学校の4年生の時からてんびんで水汲みをしました。

小学校6年生の時には一斗缶二つをほぼ満杯にして運べるようになりました。
貧乏でしたがあるものを親と兄弟5人の家族みんなで分け合うようにしていました。
一番最初に生きるために野菜売りして、中学2年の時に蓮華つつじが軽くて高く売れたので、半年水に浸けなくてもサボテンは生きるとの情報を得て、愛知県でサボテンを栽培していることを突き止めて、手紙を出して分けてもらう事が出来て、サボテンは珍しくて、売りに出すと瞬く間に売れてしまった。
サボテンは水が要らないことは魅力的で、それを拡大していきましたが、卒業後本格的にやろうとしたが、温室も作らなければならなくて、資金も必要で資金がなくて、ひと冬木工所にも通って、花をやっていこうと決意しました。
親は反対しましたが叶わなければ家を出ると言いましたら、しぶしぶ納得してくれました。
雨が降ったりすると売れない時もあり、売れ残りを担いで登ってこなければいけなくて、ぽろぽろと涙を流したことも何回かありましたが、空元気で続けてきました。

或る時台風で山に倒木がたくさんできて、木工所では規格外を自分の身体だけで持てるものは自由に持ち帰ることが出来て、1回50~60kgのものを持ち帰り、毎日やってそれをつかって温室を作りました。(昭和32年の頃 面積は小さいが花園もやっていました)
やりたいことが山ほどあり、2.5時間~3時間寝て暮らすことを35歳ぐらいまでやっていました。
昭和42~3年の頃サボテンはかなり順調に行って、室蘭まで売りに行ったりしていました。
10月上旬に大雪が降って、列車が不通になり帰れなくなって、ようやく帰ってきてみたらサボテンは全滅でした。(厳しい状況に追い込まれた)
3月に新たにサボテンを購入して、売り歩きながら増やしていきました。
支えになったのは花が好きだと云うことでした。
昭和49年には来年からはお客さんを呼べるなと思い、替わり替わり山に花が咲きだしてお客さんを呼べるようになりました。
これで外だけで人を呼べると思い、昭和50年9月に温室を整理しました。

どんなに苦しくても、昨日は昨日、今日出来ることは今日から明日に向かって進んでいこうと、そういう生き方でずーっと来たので、辛いことはずーっと封印してきました。
苦しい事を思い出してもプラスにはならない。
今日どうやったら明日以後の夢を広げていけるか、常に心掛けながらやってきた、自分の力でしか生きていけないと云う事が子供のころからの境遇だったので、自分の人生は自分で切り開くしかない。
お陰さまで全国各地から色んな人が来てくれて、今までやってきたことが報われかかってきたと思います。
子供のころは真っ暗だったが、今は幸せな人間の方なのかなと自分では思っています。
今日と云う日を起点にして考えてきたので、その時何が出来るかと云うことをずーっと続けてきたので、これからますます自分で望んだ方向に来たので、生きてる限り夢が広がっていく方向に若い時から仕込んできたことが、今になって幸せ感となっているのではないかと思います。
来た人が自分で見て自分で感じて貰うしかないね。
ここは生きた芸術作品だと思っている。
生態系の全部が見れるし、春から秋までずーっと花が見られる。

































2017年7月6日木曜日

高橋武市(観光庭園園主)      ・大地に描く夢の花園(1)

高橋武市(観光庭園園主)   ・大地に描く夢の花園(1)
昭和16年北海道滝上町で開拓農家の長男として生まれました、現在76歳。
この土地で好きな花作りで生きていこうと決めたのは中学生の時でした。
それから60年余り、自分が理想とする花園をたった一人で大地に絵を描くように黙々と作り続けて来ました。

冬は氷点下30度まで下がり、雪も1mを越えるところで、「夢の花園」と云う陽殖園があります。
5月には温度が上がるが、6月は下がってに霜が来ることがあります。(現在5度)
今の時期の花は低温だからこそ色彩が締まると云う事があります。
農薬、化学肥料は一切使わないと云うやり方をやっています。
通路は5kmあるが、草刈り機など使って草を刈っています。
植物にはまず太陽が必要。「陽」
殖は繁殖の殖を使おうと思いました。「殖」
中学を卒業して、屋号を付けようとして「陽殖園」と云う名前を付けました。
昔からこういう風景が有ったんだと、錯覚してもらえれば俺の勝ち、景色が自然に見えるためにはいろんな種類が入り混じって居ないとそう見えない。

今はちょうど新緑の時期なので緑が鮮やかです。
空気がおいしいのは寒さだけではなく、農薬と化学肥料を昭和40年から一切使っていないからです。
虫も色々な種類がたくさんいて、生態系を作り上げて居ます。
この花は紫色で、原種は海老茶色のくすんだ色だったが、長年掛けて自分で品種改良して白からブルー、紫まで色合いを色々作りだしました。
つつじは蓮華つつじの仲間で本来はだいだい色で、色彩の綺麗なものを選別して、色彩の一番いいものをまとめて植えてあります。(だいだい系の赤)
観光にするためには風景が大事です。
前を向いて進んでいき、振り返るとなだらかな下り坂になっていて、風景がまた違って見えます。
地形、植物の植え込みを色々変えるとこうなります。
山あり谷あり池が5つあり迷路のように道が5km続いています。
自然を凝縮したようなもの、自然だと錯覚したら勝ったと云う感じです、自分でデザインしています。
地形を変えることは大変でした、花をやっているのか土木作業をやっているのか判らないような感じでした。

自分が命尽きるまでこの花をやろうと思っていましたので、自分の信じたことをやることがいずれ差別化になると思いました。
花の作り方も、売り方、商売の仕方も全部独学です。
だから自由に物事を考えられる、それがよかったなあと思います。
木が多いが寒さよけにもなります。(周りはマイナス1度ぐらいでも木のところはプラスになっています)
ストローブ松の木にカラスが止まっていますが、そのうちの一匹は私に馴れて居て、近くに来てむこうから何か話しかけます、そうするとこちらも日本語で色々話をします。(特に夏場)
毎日のように逢えます。

黄色い花、オホーツクの海岸地帯で野生の植物でセンダイハギと云います。
ピンクもあります。(タニウツギ)
白い花、エビネチドリ(野生の植物)と云う花です。
花が終わってもその姿でいて、取り除きません、枯れたままにしておき、そうしないと自然にはなりません。(そこがガーデニングと違うところです)
新鮮な花と対照的になり、枯れたものがあることによって、今咲いている花が更にみずみずしくなります。
ここは馬の背中みたいな場所でそこを畑にしたので、雨が降るたびに良い土が流されて痩せこけてきてしまいます。
家は貧乏で私は5人兄弟の長男でしたが、小学校の4年生の時から家まで天びんで水汲みしていました。
小学校の4年生は成長してゆく時期なので、その時期に身体を鍛えることになりました。
花売りをするときに天びんで売り歩いたが、これが原点になりました。

小学校5年生から中学を卒業するまで野菜を町に売りに行きました。
中学2年に野菜と一緒に蓮華つつじを3本だけ売りに行きました。
先祖が岩手で岩手は蓮華つつじが原産地でした、そこに従兄がいて、父が苗を貰った。
両親とも花は好きで蓮華つつじを植えて居ました。
売れないかなあ思っていたが、或る人からいくらだといわれたが、いくらで買ってくれるのと言ったら、結局野菜一カゴ分よりも高く買ってくれました。
花は軽くて高く売れると言うことで、それからこれをやろうと、決めました。
中学2年の時に将来を決めなければいけなくて、花の商売をやろうと決めました。
よそにないものを作ろうと思いました。
行き詰まって困窮して餓死してしまうのでは無いかなあと思ったことは何回かありました。
しかし、それを支えたのは花が好きだったからだと思います。
この6月に62年になりますが、続けられたのは水汲みで足腰を鍛えたこと、根性を鍛えたことだと思います。

吹雪の日でも水汲みをして、続けてきて、どんなことをやっても生きているうちはやり続けるという信念、根性が育ったと思う。
だからこの場所も大事にしています。(昔を思いだして嗚咽が漏れる)
ブルーの忘れな草、こういうかわいい花は心を引きよせられます。
母親の背中におぶさって病院に連れて行かれる時に、ピンクの植物が咲いていて、片言で花、花と言ったそうです。
コサケシモツケを持たせてくれて、病院で注射をしても泣きながらそれを離さなかった。
家に帰って来ても寝るまでそれを離さないでいたと、時々母親から言われました。
ここが一番最初に観光公園として作りだした場所です。
蓮華つつじが一面に咲いているが、秋までずーっと花が咲き続けます。
蓮華つつじだけで6500本有ります。







2017年7月5日水曜日

竹村公太郎(日本水フォーラム 代表理事) ・水力ダムに夢のせて

竹村公太郎(NPO法人 日本水フォーラム 代表理事) ・水力ダムに夢のせて
1945年昭和20年生まれ、神奈川県出身。
1970年東北大学工学部修士課程を修了後、建設省に入り巨大ダムの建設に携わりました。
竹村さんは巨大な水力ダム3ヵ所の建設に手がけたダムの専門家です。
現地調査から用地交渉、設計、建設と、ダム建設の着手から完成までかかわって来ました。
水に恵まれ降水量の豊かな日本は山が多く地形が急なために、川の上流に降った雨があっという間に海に流れ出てしまうと言います。
長年ダムの建設や河川の管理にかかわってきた竹村さんはダムは太陽エネルギーの貯蔵庫だと、今あるダムを見直して日本の水資源を上手く活用することを呼びかけて居ます。
水資源の活用は電力エネルギーに換算するだけでも、その効果は年間2兆円もの電力の増加が見込まれるという試算もされています。

日本水フォーラムは、世界で水で苦しんでいる方々を日本の技術と経験で、どう救っていけるかというような、水に関しての社会貢献をしようと言うことで、世界の情報を集めてきて日本の人たちに知ってもらおうと云うようなことを行っています。
寒村、過疎化の集落について、自分達で水を探し当てて自らで管理する、それには昭和30年代にやったような技術が今一番求められています。
水に関する漢字が一番多い。
食糧も大事だが、それを生み出す水が大事です。
エネルギーは色々なエネルギーが採用できるが水は代替えはない。
水が汚染されたり、人口増加で水が無くなってきたりしている。
21世紀は水の世紀だとも言われている。

太陽が海を照らし、水蒸気になって、雲になって冷やされて雨が落ちてくる。
雨が山岳地帯で降ると、沢となって流れてくるがそれはエネルギーで、日本の山は急峻で
多摩川では降った雨がその日のうちに海に行ってしまいます。
日本は雨が多いがあっという間に海に流れてしまうので、ダムで溜めて水を有効に使っていこうと云うことです。
ダムは太陽エネルギーを溜めていると云うことです。
グラハム・ベルは日本は豊かなエネルギーを保有していると、100年以上前に日本に来て言っている。(地形学者でもあった)
日本列島は水が循環している。
日本列島の70%の山々が水を集めてくれる装置なんです。
太平洋側も日本海側も均等に雨が流れるので、日本列島全体が恵みを受ける。

中学高校時代花形がダム建設でした。
さまざまなおおきなダムが建設された。
飲み水の問題、又洪水のため多くの方が亡くなってのでダムが建設され、「黒部の太陽」の映画があり、土木屋になりダムを作っていきたいと思っていました。
映画の冒頭でダムを作ることが環境破壊にもなると、主人公に言わせていることには吃驚しました。(環境問題などが叫ばれるような時代ではなかったが)
建設省に入って、川治ダム、大川ダム、宮が瀬ダムの3つのダム建設に関係しました。
当時ダムを建設するためには時には何百人と云う方に移動してもらわざるを得なかった。
保証も終わって険悪ではなかったが、当時幹部の人たちは水没者との会合から帰ってくると悪酔いして帰って来ました。
物、家は保証はできるがあの人たちの思い出は保証できないと言っていました。
公共事業の先端の難しい現場だったのがダムだったと思います。

川治ダムはアーチ式、大川ダムはロックフィル複合式、宮が瀬ダムは300戸が水没したが重力式コンクリートダムでした。
地域の要望によってダムの形式が違います。
飲み水、エネルギー、農業用水、洪水防止などにより違ってくる。
地形、地質に依ってもどれが適しているのかで、ダムの形式を選んでゆく。
人生の半分がダム造りで後半の半分が行政をやりました。
出来たダムをどう有効に使うかが、これから進めることだと思っています。
多目的ダムは目的は二つあり①治水と②利水、治水は台風などへの対応なのでダムを空にしておきたい、、利水は渇水対策で水を溜めておきたいので矛盾する内容となる。
昭和30年代は台風のことが判らないない前提で作られていたので、安全を最優先してダムの治水容量を十分に安全に取ったダムにしていた。
今は台風の1週間前から判るので、もう少し水を溜めて水力発電に使っていければ良いのではないかと思っています。

100mのダムを10mあげると面積も大きくて、新しいダムの100m分と同じ価値がある。
次の世代に対してはかさ上げして、水を溜めて日本のエネルギーを作っていってほしいと、私の遺言みたいな思いです。
100年前に作った布引ダム(日本最初の重力式コンクリートダム)は阪神淡路大震災の時にもびくともしなかった。
ダムを作るときに柔らかい土砂は全部はいでしまい、岩盤を出してそこにダムを作るので、地震があっても揺れが少ない。
ダムの中には鉄筋がない、鉄は錆びて膨らんでひび割れしたりするが、ひび割れしない。
岩と砂と石灰岩(セメント)で自然のもので作っているので、時間が経てば経つほど固まって来る。
これからのダムのエンジニアは溜まった砂をどう下流に流すか、と云うことが一番のテーマです。
ダムの底部に穴を開け必要な時に開ける方法(砂が水と一緒に流れて行く)
ダムの下の方の下流面から掘って行き、上流面にはお椀みたいなものを作っておくと水圧でピタッとする方法で現実にこの工法で行っています。

アメリカのフーバーダムを観にいたことがあり、ダムの中に観光客を入れて居たのには吃驚し、日本でもやらなければと思った。(戦前からやっていた)
宮が瀬ダムの所長になった時に、首都圏の楽しみの場所にしようと思って、将来宮が瀬ダムが出来たときに観光できるように仕掛けをしようと思ってひそかに仕掛けをしました。
一般のお客さんがダムの中に入れる様に下からエレベーターで登れたり、ダムの近くから遊覧船に乗って湖面から上流までいけるようにとか、35年前にやりました。
今はたくさんの見学者が来ています。
日本で初めての試みでした。
島 陶也と云うペンネームで本を出版しています。
私は地形と気象には強いので、その観点から日本社会を見ると、ちょっと違うなと云うことに気が付いて、見直してみようと云う思いで文章を書いてきました。

ビルとか建築と土木とは違って、ダムはみんなが作ったもので、社会を支える構造物はなかなか人の眼には見えにくいと云うことは宿命で、人々に見えないインフラを大事なものなんだと思ってもらう為の翻訳者、通訳者になるミッションがあると思っています。
友人が大学で講義をしたときに、川を汚してはいけない、大事にしようと講義をしたときに、生徒が「先生の云っている意味が判りません、川は必要ないと思います、水道があるから」と云うことでした。
社会を支えているインフラが無くなったら大変だと云うことをわかってもらうことは至難の技ですが、誰かが云っていないと大事なことを忘れてしまう。
世界の人々は本当に水で苦しんでいます。
どうにかして水の分野で彼らを支えていきたいと思って、現地の人でも開発できメンテナンス出来る昭和30年代のダム建設技術を教えてあげたいと云うのが私の考え方です。














2017年7月4日火曜日

前田耕作(アフガニスタン文化研究所所長) ・憎む心を捨て、祈る心の再生を

前田耕作(アフガニスタン文化研究所所長)・憎む心を捨て、祈る心の再生を
1964年名古屋大学のアフガニスタン学術調査団の一員として初めてバーミアンを訪れました。
そのあとこれまでにアフガニスタンのほかに、西アジア、中央アジア、南アジアの古代遺跡の実地調査を行ってきました。
現在は主にアフガニスタンに関する文化研究を進めるとともに、バーミアン遺跡の保存、修復の事業に参加してきました。
失われた文化財の復元や返還運動など文化外交に取り組んできたお話を伺います。

21世紀はきっと平和な世紀になるだろうと大きな期待をしていただけに、爆破、テロが絶えないと云うことは非常に痛ましい現状を嘆いています。
断食月にはよい行いをすれば天国にいけるということでしたが、そういう時期に爆破、テロが行われたりして、かつてはありえなかったことが事件として起きており、イスラムの人ですら意外感を抱いています。
世界の人の心の荒廃がかなり進んでいるなあと実感する事件です。
寛容さのない世界に進んでいるような気がします。
20世紀は大きな大戦を二つやって、ようやく人類は戦争を克服できる機会も得たが21世紀は全く異なった方向に進んでいる。
和解、許しが必ずしも人類共通の課題として認識され、深める方向に行っていなかったということを裏付けるものであると思います。

2001年バーミヤン大仏の爆破事件、ショッキングでした。
タリバン政府によって二つの大仏を爆破した映像が送られて強烈な衝撃をうけました。
爆破の後にユネスコの召集を受けて現場に行きましたが、他の大仏も破壊されていました。
壁画の7割がはぎとられて破壊されたりしていました。
日本の税金で拠出されているユネスコの日本信託基金があり、平山郁夫先生がこれを使ってアフガニスタンの戦後復興に役立ててほしいと云う強い提言があり、2003年から進めました。
民族紛争は止んだわけではなくて、公式的には現場には立ち入れられなくなって、ここ3年ほどは情報だけは得て居ると云う状況です。
再生はほとんど難しいと直感しました。
戻しうる技術は持っていると思って、戻すことを決意しました。
2003年にパリでバーミヤンの復旧作業について国際的な合意を取り付ける会議があり、ユネスコの事務局長が松浦晃一郎さんで松浦さんが主導して、平山先生がユネスコの親善大使でしたので、イニシアティブをとって、復興に取り組むことに決めました。

文化財が海外に流出してしまいました。
カーブル博物館が破壊されて多くの物が国外に流出しました。
アメリカの考古学者ナンシー・デュプリー(Nancy Hatch Dupree)がパキスタンで流出を止めるという運動をして、日本に流れ着いたものは日本で止めて、平和になった時に返還して、文化復興の活力のもとにしたいと言う思いがあり、日本でもおこなわれました。
102点、東京芸大に保管されて、昨年アフガニスタンの黄金展で、東京芸大の天井画の再生と、保管品の日本での姿を見ていただきました。
平山郁夫先生のように深く文化財を愛する情熱がないと、できないことだと共に働いてきて感じました。
2016年に東京芸大で開かれて展覧会で、破壊された天井画、太陽神が復元された。
バーミヤンで破壊された東大仏、西大仏の天井画は世界的に傑作だと言われた大壁画が、これは法隆寺の壁画と或る意味文化の流れで繋がっていた壁画が存在していたが、完全に消えてしまった。

日本ではその間にたくさんの写真、スケッチをしてきたので、そのデータを持っていたのは日本だけだった。
東京芸大の宮迫先生と話し合って、復元が出来ると決断されて、印刷技術、デジタル化するデータ、写しの技法などを組み合わせれば、かなり実物に近づいた壁画の再生は可能だとやりながら結論を出しました。
それを展示したところ大変な反響がありました。(新し生命を吹きこんだ再生だった)
日本だからこそできた貢献だった。
平山先生はシルクロードに大きな思いを載せられたのは、小学生時代の広島の被爆体験の外の傷と同時に内面に傷があって、それをどういうふうに生涯を掛けて越えていくのかというのが先生にとって大きな課題だったと思う。
晩年になって初めて生き地獄の火炎に包まれた広島の絵を描きましたが、題は「広島生変」新しく生き返すという想いがあった。

日本文化を育てたものは何かというものに眼差しを投ぜられて、それが先生のシルクロードに向かわせて、スケッチの山を築いた。
シルクロードの文化が日本の文化の分母にあたり、日本文化はさまざまなものを学んだ一つの分子として素晴らしい達成をしたという考えで、いつか恩返しをしないといけないと云うのが平山先生の考えだった。
2002年西安のユネスコの会議でシルクロードを世界遺産に登録しようと云うことになる。
国境を越えて文化遺産を包括的登録する、このことこそ平和を根付かせてゆく第一歩ではないかというのが平山先生の考え方だった。
中国、キリギス、カザフスタンが遺産を同時に登録すると云うことになった。
シルクロードへの関心が薄らぐなか、平和構築という点においても重要な事柄ではないかと思うようになり、その対策として検定、それを通して世界と日本の関わり、古代における特別の意義を再びよみがえらせることが出来るのではないかと思いました。

検定は9月に実施しようと思っていて、中学生から高年齢の人までを対象にしています。
平山先生が亡くなって8年になりますが、作品が残っていてそれが生き続けて居ています。(平山郁夫シルクロード美術館は山梨に有ります。)
文化に対する情熱、温かい広い心が先生が残された遺産だと思っているのでそれをつないでいくことが、先生の理想であった世界に平和を根付かせることに繋がるんだろうと思います。
心の養生がとても大事だと思っていて、長く内戦が続いて、荒れたものが癒されてゆくきっかけがない。
経済支援に依る生活の向上だけでは達せられない。
文化を通して心の養生を行い、寛容な心に転換させてゆく重要な心の糧、それが文化で、文化でしか果たせないと思っていて私たちは実行したい。

壁画を元の位置に戻したい、できない物を保存して、博物館のようなものがあると見に来る機会があり、文化に深く接することが出来るので、平山先生は博物館の建立を望んでいました。
経済支援、文化支援がよりあわされた支援として提出されてこないと、特に戦火の止まないところでは有効性は発揮できないと思います。
アフガニスタン文化研究所は一つの文化を中心として、アフガニスタン支援をどのようにして実現して行くのかをテーマとして作った研究所なので、その人たちが支えてきています。
バーミヤンも見学者が増えてきて、入場券の製作にアフガニスタン文化研究所が関わって渡しました。
一歩一歩無くしては再生行為はないです。
平和は心の養生によってこそ実現できると云うことに関して決してぶれない。(平山先生の心の願い)
教育、人材育成は大事で、日本に連れてきてと言うことではなく現場で共に働く事、それを大切に守りたい。





























2017年7月3日月曜日

本郷和人(東京大学史料編纂所教授) ・川上貞奴【近代日本150年 明治の群像】

本郷和人(東京大学史料編纂所教授) ・川上貞奴【近代日本150年 明治の群像】
神田 蘭(講談師)
日本の女優第一号の川上貞奴。
明治時代の芸者上りの美人女優、フランスの文化人にも称賛された国際女優との評価もあり。
本郷:調べるまでは浮ついた人かと思っていたら凄い人ですね。 女傑です。
神田:私の好きな女性の顔です。 凄い星のしたに生まれた人って、こういうことかなあと思います。
明治4年生まれ、昭和21年に亡くなる。

神田による講談による川上貞奴の紹介
「1900年開催、パリ万国博覧会で一躍脚光を浴びた川上貞奴。
本名小山貞 明治4年、日本橋の両替商の家に生まれる。
新政府による銀行が出来て、両替商が没落して行く。
7歳のときに、浜田屋という芸者置き屋に預けられるが、女将亀吉が自分の養女として芸者として育てて行く。
気の強さ頭の良さ、才能でもって日舞、歌、三味線などさまざまな芸を身につけて、評判の芸者に成って行く。
芳町で一番の芸者が継ぐやっこを襲名する。
初代内閣総理大臣伊藤博文がやっこを水揚げをする。
馬術、水泳、ビリヤードなども行う。
或る時野犬に襲われ、乗っていた馬が暴れだすが、野犬を追い払い馬をなだめた一人の男がいた。
それが岩崎桃介(後の福沢桃介)で恋に落ちる。(当時慶応大学の貧乏学生)
岩崎桃介は福沢諭吉の娘との縁談ができて、アメリカ留学することになる。
その為やっこは荒れていろいろ浮名を流したが、周りが心配して壮士芝居にやっこを誘った。」

「壮士芝居、浅草の中村座へゆく。 そこでは川上音二郎がオッペケペー節を歌う。
川上音二郎は1864年(文久元年) 九州博多の商家の二男として生まれる。
14歳で増上寺の小僧として働くが福沢諭吉に見出されて慶応大学の学僕となり、後の京都に行って巡査になるが、自由民権運動にのめり込む。
逮捕180回以上、投獄20回、その間講釈師などいろいろな職業につく。
川上音二郎がオッペケペー節を創案する。
やっこは川上音二郎(28歳)に心を奪われ、楽屋に挨拶に行くことになる。
やがて結婚することになる。(明治27年 貞奴23歳)
川上座と言う劇場を建てるが、多額の借金を抱え込む。
小さな船で海外に行こうとするが、3ヶ月半漂流して神戸に着くが、これが評判となりアメリカ行きの話が舞い込む。」

川上音二郎がやっこを女優にする。
川上音二郎はペテン師的な要素があるが、生命力を感じたんではないのでしょうか。
川上音二郎の芸は素人芸みたいな様な気がする。(現代に伝わっていない)
オッペケペー節だけは残っている。
明治28年の川上貞奴の生の歌が残っていた。 
*「槍と錆」(日清戦争の士気を高めるための歌だったようである)

「1899年4月神戸港をあとにアメリカに行くことになる。
アメリカでは芸者の存在が注目されていた。
やっこを女優としてデビューすることになり川上貞奴が誕生することに成る。
シカゴ公演でアメリカ人を魅了してイギリスへ行くことになり成功を収め、パリ万国博覧会に出演して貞奴の美しさ華麗な演技はヨーロッパ中を虜にする。
彫刻家ロダンがモデルに申し込んだり、、ピカソが貞奴のポスターを描いたり、アンドレジッド、プッチーニなども注目する。
帰国するが、貞奴は外国と日本の芸風の違いに芸に自信が持てなかった。
アメリカの舞台は生きた女性として自分を見せるのですと言う思いを持った。
音二郎は大阪に帝国座を建てるが、このころは音二郎は病に倒れてしまう。
音二郎は47歳で亡くなる。
46歳で女優を引退し、初恋の人、福沢桃介と暮らすようになり、福沢桃介を助けて色々な事業を手掛けて行く。
川上貞奴は昭和21年に亡くなる。(75歳)」

音二郎は公演で他にも切腹シーンを入れたが、それが受けたようだ。(異質な感じだが)
貞奴は何か持っている人だった。
明治33年パリ万博での川上音二郎一座の音声が残っている。(オッペケペー節を歌う)
後に「電力王」の異名をとった福沢桃介(福沢諭吉の娘婿)は水力ダムを作る、現在も残っている。
貞奴は何でもできた人なので、今生きていたら、実業家、学者、政治家何になったんだろうかと色々想像してしまいます。




















2017年7月2日日曜日

山寺宏一(声優)          ・【時代を創った声】

山寺宏一(声優)          ・【時代を創った声】
56歳、声優だけにとどまらず、俳優、ナレーション、司会、物まね番組にも出演するなど本当に幅広く活躍さています。

携帯のバイブレーション、トランペットの音などを自分の声で出す。
小さい頃から物まねが大好きでした。
携帯のバイブレーションは低い裏声を出したときに偶然出てきました。
動物のものまねは子供のころから好きでした。
自分の声をカセットには中学高校時代にとりそれを重ねたりました。 
歌はなるべくその人に近づけるようにしました。
TVで物まねしているのを物まねするのをよくやっていました。
「ウィ・アー・ザ・ワールド。」 
チャレンジ精神でどこまでできるのか頑張りました。

ブラジル楽器で、サンバなどのブラジル音楽に多く使われる、クイーカ 
太鼓の小さい物の裏に竹ひごみたいなものが付いていて、それを濡れた布でこすって音を出すもの。
これをサンバのリズムで音を出す。(物まねで出す)
声を震わすのに唇、舌、のどちんこを震わす(出来る人とできない人がいる)、3つあります。
のどに負担がかかるものとかからないものがあります。
怪物の声などは大変です。
負担がかかり過ぎた時には薬を飲んだり、のどを休ませたりしています。
バナナフリッターズ(声優の日高のり子・山寺宏一・関俊彦で結成した声優ユニット。) 25年ぶりの復活ライブ。
ニール・サイモンの舞台をもう一回やりたいと云うことで、3人でやろうと云うことになり、舞台をやりました。
演出は中尾隆聖さんにお願いしました。
CD出したり、ライブなどをやりました。

3曲新しい曲を作って、振付DVDも入っていてバナナの着ぐるみをして、パパイヤ鈴木さんに振付をお願いしました。
話もつくろうと言うことで3人で作って、自分達でかきおろしました。
家族のきずな、大好きな人との絆を表した曲
作詞作曲 安部純 編曲 武藤星児 バナナフリッターズ 「あのね」
この歌にパパイヤ鈴木さんの振付が入っています。
色んな活動をするのは相乗効果があっていいと思います。
朝の子供番組をやらせてもらってから、色んな話を頂くことになり、とりあえずいろんなことをやってそのうち絞れるだろうと思っていましたが、絞れてないです。

民放の子供向け情報番組、18年半で終わりました。
生放送で初めてのことづくしでしたが、楽しかったです。
収録だったらこれだけ続かなかったと思います。
こだわったのは「お友達」と言う言葉は使わなかったです。
「お友達」と言う言葉は大人が無理やり目線を下げて、上から見て居る感じがしましたので、それだけはこだわりました。
子供が朝起きを自分からするような番組にしたかった。
子供はすぐ飽きるので、飽きさせないための工夫を意識していないといけないと思いました。
事前の準備は必要ですが、計算しすぎてこうやってやろうと云うことも駄目なので、その時を一生懸命やると云うこと、真心を込める、遊びごころを持つ、自分が楽しむ、しかしこのなかにも矛盾はありますが。
モットーとしては求められたものをちょっとでも越えようとするふうには、思っています。