塚本勝巳(日本大学生物資源科学部教授) ウナギの卵を探し求めて40年(1)(再放送)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2014/07/40.htmlをご覧ください。
2014年8月28日木曜日
2014年8月27日水曜日
2014年8月26日火曜日
福辺節子(理学療法士) ・義足の理学療法士として30年
福辺節子(理学療法士) 義足の理学療法士として30年
60歳 30歳で始めた理学療法士の仕事を今も続け、各地で介助者向けのセミナーや在宅介護の講座を開いたり、NHKのEテレの番組「楽々ワンポイント介護」にも出演しています。
理学療法士と言うのは国家資格の専門職で、病気やけがで身体に障害を持つ人に、座る、立つ、歩くなどの基本動作を指導するリハビリテーションの専門家です。
福辺さんはこれまでに身体障害者センターや在宅で経験を積み、他方でスポーツ専門学校で若手の養成にも尽力してきました。
福辺さんは永年の実践から、介助をする人が腰痛など、身体を痛めることを目の当たりにして、そうしたっことが起きないような、独自の介助法、力のいらない介助法を広めようと全国的に活動しています。
福辺さんに、福辺流介助法の真髄を伺います。
NHKのEテレの番組「楽々ワンポイント介護」に出演して、リハリビの普及を主張されている。
介助の基礎の基礎だと思っているが、当たり前のことが今の介助の教育の中はでされていないと思う。
相手の人がどんなことができるのか見たりとか、声かけ、相手の人の眼を見て、相手の人の動きを待って初めて触るとか、当たり前のことが教育でなされていない。
職業を選んだ理由?
30年前は男女の職業の差がかなりあった。 コピーライターに成りたいとは思っていた。
男女の職業の差がない職業、スーツの着ない職業と言う事で最終的に選んだ。
自分が事故で障害を負って、リハビリを受けて、こんな仕事があると思ったが、でもその時点ではこの道にとは思わなかった。
21歳の時に、冬山で、車が90m落下して、外に放り出されて、奇跡的に命は助かったが、左足首の骨折をして、感染して、高野山病院に入院して、段々悪くなって、和歌山県立医大に入って、膝の上から切断しないと命にかかわると言われて、父が膝から下にしてほしいと懇願して、膝から下からの切断になった。
膝があるとないのとでは、全然違うので、膝から上の切断だったら、理学療法士には成れなかったと思う。
私の場合は感染があって、嫌気性のガス壊疽という、空気があると広がらないと言うので
暫くの間、切った足を閉じないで、傷を開いたままにしたようなやり方だった。
直視しない時期があって、いろんな時期を経ながら自分の障害を見ていかなければいけないと、繰り返してきていると思う。
障害を持ったと言う事に関しては、それほど重い障害ではないので、仕方がないなあと、受け入れることになるまで10年ぐらいは掛かった。
最初は頑張ってリハビリするが、そのうちに仮義足とか、現実を目の当たりにしてゆくと、自分の足にあわなかったり、ハイヒールを履けないとか、色々あり、リハビリに行かなくなった。
自分の身体で生きてゆくしかないと思った時に、先生が来て横でじーっと座っていてくれて、感じて、そういう時期がなければ次のステップに上がっていけない。(空元気では駄目)
何回も繰り返しながら、障害を受容していった。 10年はかかったが。
3年間専門学校で勉強して、兵庫県尼崎身体障害者センターに就職する。(30歳)
そこに行ってなかったら今の道はなかったかもしれない。
深くは見れないので、在宅でその人たちがどんな生活をしているかを見ないといけない。
センターで色々訓練を受けるが、家に帰ると自分でしなくなって、家族がやってしまう。
退院時は出来ても、理学療法士は家の事までは想定していない。(家族、環境など)
ほとんどの場合はその人に能力があっても、直ぐにやらなくなって寝たきりになるという現状を見たので、家に行きたいなあと思った。
私たちは今まで何をやってきているんだろうと思った。
訪問のリハビリを始めた。 其れまで寝てきた人が立てるようになったりする。
又日が経って、家に行くと、又寝たきりになってしまっている。
当時障害を持った人、お年寄りが車椅子で、同じ食卓に並ぶと言う事は一番ハードルが高かった。
家の方、看護師が家に入ったりしているので、そういった方に介助を覚えてもらったら良いと思った。
そして今から20数年前に、介助のセミナーを始めた。
段々介護保険ができたりして、ヘルパーさん、セラピストの人に来ていただいた。
やり方を伝えたら出来ると思っていたが、私の介助と参加者の介助が違う事がわかった。
私の介助は、介助される人に動いてもらう介助、皆は形はまねてくれるが、介助者が勝手に動かしてしまっている。
相手の力を引き出す、相手の人に動いてもらう介助に変わってきた。
相手の人が先ずどこまでできるかを、見ないといけない。
8割はやり過ぎている。 残りの1割はやりなさすぎ。 適切な介助は1割ぐらいしかない。
そのギャップは出来ること、出来ないことの見方がおおざっぱ過ぎる。
痛い人と、筋力低下の介助は同じではいけない。
筋力だけでなく、認知能力、言語能力も見極めることが必要。
声かけをして、直ぐに介助してしまう。
介護拒否されたとか、介護された時に痛いとか、恐いとか言われた時は、介護をしている医療者、介護者は自分の問題として捉えてほしい。
声かけ、触り方、皆さんのさわり方はあまりにも無遠慮、痛い、強い、もっと優しく、もっと的確に触らないといけない。 意識としては1/100ぐらいの思い。
支え、手すり、杖等 支えの役割り しっかりしていて動かないもの、介助される人の力を感じながら最低限、机や、手すりにならないといけない。
介助者の手よりも手すりの方が安全と思っている。
触れているんだけれども、相手に影響を与えてははいけない。
介助は相手を動かすことではなくて、全ての五感を相手に伝えて、そこからの動きを引き出してゆく事。
自分の中に弱点があるからこそ、相手の中のそういうところが判ると言う意味では、足を失ったという障害ではなくて、自分自身の持っている物があるからこそ、出来てきたのかなあと思います。
やってきた原動力?
大変ではなく楽しい。 介助をやった時にちゃんとできると相手の方は変わってくれる。
ライブで伝わる。
その時の嬉しさ、其れを相手の人と共感できる。
福辺流ではなく、世界中にスタンダードとして広まったらいいなあと思います。
人がその人らしく尊厳を持って生きると言うのはリハリビテーションの原点、そういう想いを持ちながら一所懸命生きていきたい。
人として成長していきたい、介助する側、介助受ける側にもあるんだと、其れを信じられるような仕事ができたらいいなあと思います。
60歳 30歳で始めた理学療法士の仕事を今も続け、各地で介助者向けのセミナーや在宅介護の講座を開いたり、NHKのEテレの番組「楽々ワンポイント介護」にも出演しています。
理学療法士と言うのは国家資格の専門職で、病気やけがで身体に障害を持つ人に、座る、立つ、歩くなどの基本動作を指導するリハビリテーションの専門家です。
福辺さんはこれまでに身体障害者センターや在宅で経験を積み、他方でスポーツ専門学校で若手の養成にも尽力してきました。
福辺さんは永年の実践から、介助をする人が腰痛など、身体を痛めることを目の当たりにして、そうしたっことが起きないような、独自の介助法、力のいらない介助法を広めようと全国的に活動しています。
福辺さんに、福辺流介助法の真髄を伺います。
NHKのEテレの番組「楽々ワンポイント介護」に出演して、リハリビの普及を主張されている。
介助の基礎の基礎だと思っているが、当たり前のことが今の介助の教育の中はでされていないと思う。
相手の人がどんなことができるのか見たりとか、声かけ、相手の人の眼を見て、相手の人の動きを待って初めて触るとか、当たり前のことが教育でなされていない。
職業を選んだ理由?
30年前は男女の職業の差がかなりあった。 コピーライターに成りたいとは思っていた。
男女の職業の差がない職業、スーツの着ない職業と言う事で最終的に選んだ。
自分が事故で障害を負って、リハビリを受けて、こんな仕事があると思ったが、でもその時点ではこの道にとは思わなかった。
21歳の時に、冬山で、車が90m落下して、外に放り出されて、奇跡的に命は助かったが、左足首の骨折をして、感染して、高野山病院に入院して、段々悪くなって、和歌山県立医大に入って、膝の上から切断しないと命にかかわると言われて、父が膝から下にしてほしいと懇願して、膝から下からの切断になった。
膝があるとないのとでは、全然違うので、膝から上の切断だったら、理学療法士には成れなかったと思う。
私の場合は感染があって、嫌気性のガス壊疽という、空気があると広がらないと言うので
暫くの間、切った足を閉じないで、傷を開いたままにしたようなやり方だった。
直視しない時期があって、いろんな時期を経ながら自分の障害を見ていかなければいけないと、繰り返してきていると思う。
障害を持ったと言う事に関しては、それほど重い障害ではないので、仕方がないなあと、受け入れることになるまで10年ぐらいは掛かった。
最初は頑張ってリハビリするが、そのうちに仮義足とか、現実を目の当たりにしてゆくと、自分の足にあわなかったり、ハイヒールを履けないとか、色々あり、リハビリに行かなくなった。
自分の身体で生きてゆくしかないと思った時に、先生が来て横でじーっと座っていてくれて、感じて、そういう時期がなければ次のステップに上がっていけない。(空元気では駄目)
何回も繰り返しながら、障害を受容していった。 10年はかかったが。
3年間専門学校で勉強して、兵庫県尼崎身体障害者センターに就職する。(30歳)
そこに行ってなかったら今の道はなかったかもしれない。
深くは見れないので、在宅でその人たちがどんな生活をしているかを見ないといけない。
センターで色々訓練を受けるが、家に帰ると自分でしなくなって、家族がやってしまう。
退院時は出来ても、理学療法士は家の事までは想定していない。(家族、環境など)
ほとんどの場合はその人に能力があっても、直ぐにやらなくなって寝たきりになるという現状を見たので、家に行きたいなあと思った。
私たちは今まで何をやってきているんだろうと思った。
訪問のリハビリを始めた。 其れまで寝てきた人が立てるようになったりする。
又日が経って、家に行くと、又寝たきりになってしまっている。
当時障害を持った人、お年寄りが車椅子で、同じ食卓に並ぶと言う事は一番ハードルが高かった。
家の方、看護師が家に入ったりしているので、そういった方に介助を覚えてもらったら良いと思った。
そして今から20数年前に、介助のセミナーを始めた。
段々介護保険ができたりして、ヘルパーさん、セラピストの人に来ていただいた。
やり方を伝えたら出来ると思っていたが、私の介助と参加者の介助が違う事がわかった。
私の介助は、介助される人に動いてもらう介助、皆は形はまねてくれるが、介助者が勝手に動かしてしまっている。
相手の力を引き出す、相手の人に動いてもらう介助に変わってきた。
相手の人が先ずどこまでできるかを、見ないといけない。
8割はやり過ぎている。 残りの1割はやりなさすぎ。 適切な介助は1割ぐらいしかない。
そのギャップは出来ること、出来ないことの見方がおおざっぱ過ぎる。
痛い人と、筋力低下の介助は同じではいけない。
筋力だけでなく、認知能力、言語能力も見極めることが必要。
声かけをして、直ぐに介助してしまう。
介護拒否されたとか、介護された時に痛いとか、恐いとか言われた時は、介護をしている医療者、介護者は自分の問題として捉えてほしい。
声かけ、触り方、皆さんのさわり方はあまりにも無遠慮、痛い、強い、もっと優しく、もっと的確に触らないといけない。 意識としては1/100ぐらいの思い。
支え、手すり、杖等 支えの役割り しっかりしていて動かないもの、介助される人の力を感じながら最低限、机や、手すりにならないといけない。
介助者の手よりも手すりの方が安全と思っている。
触れているんだけれども、相手に影響を与えてははいけない。
介助は相手を動かすことではなくて、全ての五感を相手に伝えて、そこからの動きを引き出してゆく事。
自分の中に弱点があるからこそ、相手の中のそういうところが判ると言う意味では、足を失ったという障害ではなくて、自分自身の持っている物があるからこそ、出来てきたのかなあと思います。
やってきた原動力?
大変ではなく楽しい。 介助をやった時にちゃんとできると相手の方は変わってくれる。
ライブで伝わる。
その時の嬉しさ、其れを相手の人と共感できる。
福辺流ではなく、世界中にスタンダードとして広まったらいいなあと思います。
人がその人らしく尊厳を持って生きると言うのはリハリビテーションの原点、そういう想いを持ちながら一所懸命生きていきたい。
人として成長していきたい、介助する側、介助受ける側にもあるんだと、其れを信じられるような仕事ができたらいいなあと思います。
2014年8月25日月曜日
金田一秀穂(言語学者) ・萩本欽一の人間塾
金田一秀穂(言語学者) 萩本欽一の人間塾(5)
日本語を学ぶ生徒の感想。 日本語が楽しい。 日本語は易しい。
日本語を勉強したいという人が、来れば日本語を勉強しようと皆さん思っているので、それに教えるのは簡単です。
皆さん口を開けて待っているので、日本語を上げれば皆食べるんです。
金田一 京助(祖父)、金田一 春彦(父) その二人が辞書を作った。
優しい言葉の方が説明が難しい。
右→南を向いたときの西の方向。(北を向いた時に東の方向という記述もある)
この辞書を開いた時に偶数ページが右、奇数ページが左 との表記もあるが
右が判らない人が偶数、奇数がわかるのか、との指摘もある。
「なんでそうなるの」 なぜそうなるのでしょうかでは跳びあがれない。
言葉は言葉、身体は身体は別々になっているが、欽ちゃんの場合は一緒になっている。
大きい声を出すと身体がついていく。
今は、言葉だけが動いちゃっている、大切になっているが、身体がついて行っていない感じがする。
最近驚いた事
コンサートに行ったが、コンサートの切符を手に入れたと言ったら笑われた。
切符と言わないでチケットと言うそうです。 切符 10%
飛行機の切符 チケット 切符 50%
新幹線の切符 チケット 切符 ほとんど
言葉は変わってくる。
電気釜と言ってやはり笑われた。 炊飯器
歯磨き粉 今は粉ではないが、若い人も歯磨き粉と言っている。
下駄箱、筆箱 下駄や筆が入っているわけではないが、そう呼ぶ。
娘が和菓子職人。
自分の道を見つけてとっても良かったなあと思います。
「ドアをバタンと閉めて出て行った。」 どうしてなのかと言ったら、娘はそんなの判るわけない、風でそうなったのかもしれないし、建てつけが悪かったのかもしれないし、色々考えられるからと言われた。
全く娘の言う通りだと思った。 国語は向いていないと思った。
試験の時にカンニングしていないことを、判ってもらうために、一度何にも書かないで答案用紙を出したら、先生がカンニングやらないと褒めてくれると思ってだしたら、職員室に呼ばれて、(褒めてもらえるのかなと思った)、駄目じゃないかもっと勉強しなければ、と言われてショック受けた。(萩本)
中学の時に何故か担任が国語の先生だった。(金田一)
兄は中間試験で平均点を取った(彼としてはそこそこ良かった)、後で先生から金田一君あなたは試験の時に身体の具合が悪かったのと言われて、兄は国語が大嫌いになった。
一言で大好きになったり、大嫌いになったりする。
国語ってどこまで人の気持ちが読めるかと言った事だと思います。
小さいころから喧嘩が弱かったから、ガキ大将の眼を見ながら、対応していて喧嘩はしなかった。
(萩本)
弟子は育てていると言うより、育てていない。(萩本)
小堺なんて、最初声が震えて声が出なかった。
お前最高だなあ、俺と一緒だ、と言ってやった。
将棋の米長 邦雄さん 弟子を怒ることはあるのですかと聞いたが、俺腹が立ったから3日後に来いといって、3日後は余計な事は言わないで一言で済むと言っていました。(萩本)
お前いつも100点でやる、たまには70点でいいんだよと、関根には言ってあげた。(萩本)
「間(あいだ)」の定義が難しい。 どう説明するか。
日本語を学ぶ生徒の感想。 日本語が楽しい。 日本語は易しい。
日本語を勉強したいという人が、来れば日本語を勉強しようと皆さん思っているので、それに教えるのは簡単です。
皆さん口を開けて待っているので、日本語を上げれば皆食べるんです。
金田一 京助(祖父)、金田一 春彦(父) その二人が辞書を作った。
優しい言葉の方が説明が難しい。
右→南を向いたときの西の方向。(北を向いた時に東の方向という記述もある)
この辞書を開いた時に偶数ページが右、奇数ページが左 との表記もあるが
右が判らない人が偶数、奇数がわかるのか、との指摘もある。
「なんでそうなるの」 なぜそうなるのでしょうかでは跳びあがれない。
言葉は言葉、身体は身体は別々になっているが、欽ちゃんの場合は一緒になっている。
大きい声を出すと身体がついていく。
今は、言葉だけが動いちゃっている、大切になっているが、身体がついて行っていない感じがする。
最近驚いた事
コンサートに行ったが、コンサートの切符を手に入れたと言ったら笑われた。
切符と言わないでチケットと言うそうです。 切符 10%
飛行機の切符 チケット 切符 50%
新幹線の切符 チケット 切符 ほとんど
言葉は変わってくる。
電気釜と言ってやはり笑われた。 炊飯器
歯磨き粉 今は粉ではないが、若い人も歯磨き粉と言っている。
下駄箱、筆箱 下駄や筆が入っているわけではないが、そう呼ぶ。
娘が和菓子職人。
自分の道を見つけてとっても良かったなあと思います。
「ドアをバタンと閉めて出て行った。」 どうしてなのかと言ったら、娘はそんなの判るわけない、風でそうなったのかもしれないし、建てつけが悪かったのかもしれないし、色々考えられるからと言われた。
全く娘の言う通りだと思った。 国語は向いていないと思った。
試験の時にカンニングしていないことを、判ってもらうために、一度何にも書かないで答案用紙を出したら、先生がカンニングやらないと褒めてくれると思ってだしたら、職員室に呼ばれて、(褒めてもらえるのかなと思った)、駄目じゃないかもっと勉強しなければ、と言われてショック受けた。(萩本)
中学の時に何故か担任が国語の先生だった。(金田一)
兄は中間試験で平均点を取った(彼としてはそこそこ良かった)、後で先生から金田一君あなたは試験の時に身体の具合が悪かったのと言われて、兄は国語が大嫌いになった。
一言で大好きになったり、大嫌いになったりする。
国語ってどこまで人の気持ちが読めるかと言った事だと思います。
小さいころから喧嘩が弱かったから、ガキ大将の眼を見ながら、対応していて喧嘩はしなかった。
(萩本)
弟子は育てていると言うより、育てていない。(萩本)
小堺なんて、最初声が震えて声が出なかった。
お前最高だなあ、俺と一緒だ、と言ってやった。
将棋の米長 邦雄さん 弟子を怒ることはあるのですかと聞いたが、俺腹が立ったから3日後に来いといって、3日後は余計な事は言わないで一言で済むと言っていました。(萩本)
お前いつも100点でやる、たまには70点でいいんだよと、関根には言ってあげた。(萩本)
「間(あいだ)」の定義が難しい。 どう説明するか。
2014年8月24日日曜日
本岡典子(ノンフィクション作家) ・ノンフィクションと向き合うパワー
本岡典子(ノンフィクション作家) ノンフィクションと向き合うパワー
兵庫県 1956年生まれ 58歳 先日婦人誌で90歳を越える健康なご夫婦をインタビューした企画が話題になりました。
子供の頃戦争特派員になりたかった本岡さんは関西学院大学を卒業後、放送局でアナウンサーとして働きます、
その後、現場で取材して、ノンフィクッションを書きたいと、放送局をやめて多くのものを取材し、ノンフィクションライターとして活躍しました。
2011年には「流転の子 最後の皇女・愛新覚羅嫮生(あいしんかくらこせい)」を出版し、評判になりました。
現在は現代ルポルタージュや歴史ドキュメンタリー等様々な現場を取材しています。
ノンフィクション作家として多くのものを取材する本岡さんのパワーの秘密などを伺います。
高齢者 100歳近い元気な夫婦のインタビュー 戦争取材をする中で90歳を越えてかくしゃくとした人に出会って、必ず元気な人のそばに素敵な奥さんがいらしゃるという事が多かった。
愛情表現は自然で仲むつまじい夫婦が多かった。
取材する中で、二人いることでお互いがいい意味で影響し合って、其れが長寿に結びつくのではないかとヒントを得て、其れをきっかけに今取材を進めて、来年には本に纏めたいと思っている。
それぞれに現役でなにか社会的な仕事をしていたり、社会貢献している、生き甲斐を持っていらっしゃる。
NHKの「今日の料理」を47年間担当した堀江泰子先生と堀江正夫さん 食生活が大変バランスがいい、充実している。
若い時に戦争を経験している、職業軍人だったと言う方もいて、若い時に心身を徹底的に鍛えていらっしゃる。
60代から新たに足腰の筋力を鍛えている。
そういったところが共通している。
取材で注目したのは、夫婦と言う関係性の中で、お互いがいい影響をしあう事で寿命が延びるのではないかと、元気に長生きしたければ夫婦の関係を巧くやってゆけば、大変大きなメリットがあるのではないかと、取材している。
長寿の夫婦はマイペース、干渉しあわない、対等で自由度が高い、其れがストレスレスな関係が長寿に結びついていると思いました。
夫婦が仲良く元気で100歳を越えるにはどうすればいいか、ヒントになる物を出版したいと思っている。
どうしてノンフィクション作家を選んだのか?
古いうちに育った事、子供の頃はベトナム戦争の時代だった。
そのころのTV、新聞記事を読んで真実を伝える仕事をしたかったのが小さなころからの夢だった。
小学校3年生の時に1枚の写真に大変感動した記憶がある。
5歳ぐらいの男の子がうどんを食べている写真、その子がきりっとした澄んだ目で見つめている。
男の子の誇りみたいなものを感じて、懸命に生きている子供や、その人たちの姿を伝える仕事に就きたいと、その写真をみて、思いました。
戦争特派員になりたいと言うのが小学校の夢でした。
その思いは変わらず、ジャーナリストになりたいと、大学で新聞を学んで大学を卒業しました。
500年続いた家で、江戸時代、元禄時代に建て替えをして、築300年を越える重要文化財の家に中学まで住んでいた。
奥座敷に一人、目をつぶって、自分自身でいろんな物語を造る様な子供でした。
家も大きくて、敷地も広かったので幼稚園に入るまでは外に出た事がなかった。
3人兄弟の真ん中だったので母が下の子にかかりっきりだったので、父のそばにいることが多く、父が時事問題に興味を持っており、父の影響が凄く強かった。(農林水産省に務めていた)
大学は出たが女性の就職先のない時代だった。
ジャーナリストになりたかったが、TV局のアナウンサーに卒業後1年半で入ることになった。
アナウンサーの仕事を続けているうちに、自分の心になじむ物をやってみたいと思う様になった。
全国紙にエッセーを連載して、其れがきっかけになり、自分のお金で東南アジアに旅行して、アヘンの取材をして、地元の新聞社に売り込んだりしていた。
一番新しい作品は「流転の子」中国のラストエンペラーの一族の弟一族の物語で、清朝の最後の血を引く最後の皇女、女性の半生を描く。
書くきっかけになったのは阪神大震災時、愛新覚羅嫮生さん(福永こせいさん)が100m近くに住んでいて、お互いに糸を引きよせ会うと言う様な形になり、この物語を書くと言うきっかけになった。
「ラストエンペラー」を見て、めいに当たる方が阪神界に住んでいることを知って、いつかは必ず書いて見たいと思う様になた。
取材を始めたのが映画を見てから20年後の事です。
夫は新聞記者で、9.11があったころ特派員で南アフリカ、ヨハネスブルグに住んでいて、映像を見たときに、ヨーロッパ、アメリカ、日本の視点ではなく、アラブ、アフリカの視点で物をとらえるることができる様な子供に育てたいと言う想いがあって、直ぐに二人の子を連れてヨハネスブルグに行きました。
世界が大きく急展開しているのに、変化をアラブ、アフリカの場所にいて其れを知りたい、子供たちにも感じてほしいと強く思いました。
ヨハネスブルグに住んでいたが、そこを拠点にさまざまな国に行って、何かに抱かれているとか、何かから生かされているというか、そういう視点をいつも持つ事が出来る。
アフリカに行ってからは子供達は絶対に食べものを残さなくなった。
感謝をする、生きているだけで幸せになれる子供達、幸福度が高い子供達になりました。
アフリカでの経験(2年3カ月)、阪神大震災の経験で愛新覚羅嫮生さんと連絡を取る事になった。
日本人であることは、勿論ベースですが、それよりも地球に生きる同じ人間であると言う目線をもつことができたと思います。
アフリカにいると自分が豊かなものをたべていると、それは誰かの犠牲の上に成り立っている豊かさではないかと考え、おろそかにはできないという想いがある。
愛新覚羅嫮生さんとはどんな人物か?
清廉なたたずまいの人で、品格の或る美しい言葉でゆっくり話される方です。
語り口が静かで、壮絶な流転の話をされるが、あまりにも静かな語り口が、むしろ一族がどれほどの悲劇を中国、日本で受けたかと言う事を感じる話し方でした。
愛新覚羅嫮生さんは74歳 福永こせいさん 日本人と結婚して5人の子供を育てた。
満州国の愛新覚羅溥儀のめいに当たられる方。
父は「ラストエンペラー」 溥儀の実弟愛新覚羅溥傑(ふけつ) 母は天皇家の縁戚 公家の名門嵯峨侯爵家の令嬢嵯峨浩さん(流転の王妃と呼ばれる)
子供は二人 一人は19歳で亡くなる。 嫮生(こせい)さんは2番目の娘、清朝の直系を継ぐ最後の女性。
何百時間インタビューする。 断片的な記憶しかなく其れをベースにしながら物語を展開するので証言者、歴史的資料探して、裏付けをしながら進めてゆくという気の遠くなるような作業でした。
気が付くと150年の物語ができ上ったという感じです。
取材をする中で、日本の戦争は終戦で終わったが、満州は日本の敗戦から地獄が始まった。
亡くなられた方、生きて証言してくださった方の魂に導かれて、不思議な力によって、書かされているというそういう物です。
亡くなられた方々が私の周りに寄り添っていると言う様な感じで、涙があふれてくる4年間で、精神的には血を吐く思いで書いた作品です。
夜なかに書く事が多く、睡眠を削って書きました。
取材の中で一番心を動かされたのは、5歳の女の子が生きて日本に戻ってきたと言う事、其れは人を生かしたのは人の力で有ったという事。
一番伝えたいのは、国と国は争うが、人と人は助け合う事も出来るし、命をつなぐことができると言う事を伝えたかった。
凄惨な旅を支えたのは共産党軍の名もなき兵士だったり、やせ衰えた日本人の捕虜だった。
赤痢でがりがりやせ細ったこせいさんの為に中国の兵隊が生卵を買ってきて食べさせたり、持っていては軍規違反になるふとんを運んでくれたりした。
マイナス40度の満州の冬をこのふとんを失わなかったことで生きることができた。
日本人も捕虜として食べるものも着る物もなったが、自分の服を脱いでこの震える少女に着せてあげて命を守ってあげた。
生きるギリギリの場所で敵とか味方とか中国人、日本人、何人ではなくて、ひとの情、命のリレーで小さな命が繋がっていったという事実を、書いていきたいと思った。
流転の朗読講演会をやっていて、人間、そこにいるのは何人であるとかではなくて、人間は国境を越えて真心で通じあうことが出来るんだと言う事が判ったという風にいってくださって、私はそういう事を大切に、人間の愛と言うものを書いていきたいと思っています。
伯父の亡くなるまでの200通の書簡が見つかって、青年士官の姿と家族の深い愛情と言うものを感じて、伯父につながる人たちから大切な言葉を託されたと思っていまして、取材を進めているところです。
次のテーマは太平洋戦争、真珠湾攻撃、潜水艦、海軍兵学校68期をキーワードにして取材を進めているところです。
兵庫県 1956年生まれ 58歳 先日婦人誌で90歳を越える健康なご夫婦をインタビューした企画が話題になりました。
子供の頃戦争特派員になりたかった本岡さんは関西学院大学を卒業後、放送局でアナウンサーとして働きます、
その後、現場で取材して、ノンフィクッションを書きたいと、放送局をやめて多くのものを取材し、ノンフィクションライターとして活躍しました。
2011年には「流転の子 最後の皇女・愛新覚羅嫮生(あいしんかくらこせい)」を出版し、評判になりました。
現在は現代ルポルタージュや歴史ドキュメンタリー等様々な現場を取材しています。
ノンフィクション作家として多くのものを取材する本岡さんのパワーの秘密などを伺います。
高齢者 100歳近い元気な夫婦のインタビュー 戦争取材をする中で90歳を越えてかくしゃくとした人に出会って、必ず元気な人のそばに素敵な奥さんがいらしゃるという事が多かった。
愛情表現は自然で仲むつまじい夫婦が多かった。
取材する中で、二人いることでお互いがいい意味で影響し合って、其れが長寿に結びつくのではないかとヒントを得て、其れをきっかけに今取材を進めて、来年には本に纏めたいと思っている。
それぞれに現役でなにか社会的な仕事をしていたり、社会貢献している、生き甲斐を持っていらっしゃる。
NHKの「今日の料理」を47年間担当した堀江泰子先生と堀江正夫さん 食生活が大変バランスがいい、充実している。
若い時に戦争を経験している、職業軍人だったと言う方もいて、若い時に心身を徹底的に鍛えていらっしゃる。
60代から新たに足腰の筋力を鍛えている。
そういったところが共通している。
取材で注目したのは、夫婦と言う関係性の中で、お互いがいい影響をしあう事で寿命が延びるのではないかと、元気に長生きしたければ夫婦の関係を巧くやってゆけば、大変大きなメリットがあるのではないかと、取材している。
長寿の夫婦はマイペース、干渉しあわない、対等で自由度が高い、其れがストレスレスな関係が長寿に結びついていると思いました。
夫婦が仲良く元気で100歳を越えるにはどうすればいいか、ヒントになる物を出版したいと思っている。
どうしてノンフィクション作家を選んだのか?
古いうちに育った事、子供の頃はベトナム戦争の時代だった。
そのころのTV、新聞記事を読んで真実を伝える仕事をしたかったのが小さなころからの夢だった。
小学校3年生の時に1枚の写真に大変感動した記憶がある。
5歳ぐらいの男の子がうどんを食べている写真、その子がきりっとした澄んだ目で見つめている。
男の子の誇りみたいなものを感じて、懸命に生きている子供や、その人たちの姿を伝える仕事に就きたいと、その写真をみて、思いました。
戦争特派員になりたいと言うのが小学校の夢でした。
その思いは変わらず、ジャーナリストになりたいと、大学で新聞を学んで大学を卒業しました。
500年続いた家で、江戸時代、元禄時代に建て替えをして、築300年を越える重要文化財の家に中学まで住んでいた。
奥座敷に一人、目をつぶって、自分自身でいろんな物語を造る様な子供でした。
家も大きくて、敷地も広かったので幼稚園に入るまでは外に出た事がなかった。
3人兄弟の真ん中だったので母が下の子にかかりっきりだったので、父のそばにいることが多く、父が時事問題に興味を持っており、父の影響が凄く強かった。(農林水産省に務めていた)
大学は出たが女性の就職先のない時代だった。
ジャーナリストになりたかったが、TV局のアナウンサーに卒業後1年半で入ることになった。
アナウンサーの仕事を続けているうちに、自分の心になじむ物をやってみたいと思う様になった。
全国紙にエッセーを連載して、其れがきっかけになり、自分のお金で東南アジアに旅行して、アヘンの取材をして、地元の新聞社に売り込んだりしていた。
一番新しい作品は「流転の子」中国のラストエンペラーの一族の弟一族の物語で、清朝の最後の血を引く最後の皇女、女性の半生を描く。
書くきっかけになったのは阪神大震災時、愛新覚羅嫮生さん(福永こせいさん)が100m近くに住んでいて、お互いに糸を引きよせ会うと言う様な形になり、この物語を書くと言うきっかけになった。
「ラストエンペラー」を見て、めいに当たる方が阪神界に住んでいることを知って、いつかは必ず書いて見たいと思う様になた。
取材を始めたのが映画を見てから20年後の事です。
夫は新聞記者で、9.11があったころ特派員で南アフリカ、ヨハネスブルグに住んでいて、映像を見たときに、ヨーロッパ、アメリカ、日本の視点ではなく、アラブ、アフリカの視点で物をとらえるることができる様な子供に育てたいと言う想いがあって、直ぐに二人の子を連れてヨハネスブルグに行きました。
世界が大きく急展開しているのに、変化をアラブ、アフリカの場所にいて其れを知りたい、子供たちにも感じてほしいと強く思いました。
ヨハネスブルグに住んでいたが、そこを拠点にさまざまな国に行って、何かに抱かれているとか、何かから生かされているというか、そういう視点をいつも持つ事が出来る。
アフリカに行ってからは子供達は絶対に食べものを残さなくなった。
感謝をする、生きているだけで幸せになれる子供達、幸福度が高い子供達になりました。
アフリカでの経験(2年3カ月)、阪神大震災の経験で愛新覚羅嫮生さんと連絡を取る事になった。
日本人であることは、勿論ベースですが、それよりも地球に生きる同じ人間であると言う目線をもつことができたと思います。
アフリカにいると自分が豊かなものをたべていると、それは誰かの犠牲の上に成り立っている豊かさではないかと考え、おろそかにはできないという想いがある。
愛新覚羅嫮生さんとはどんな人物か?
清廉なたたずまいの人で、品格の或る美しい言葉でゆっくり話される方です。
語り口が静かで、壮絶な流転の話をされるが、あまりにも静かな語り口が、むしろ一族がどれほどの悲劇を中国、日本で受けたかと言う事を感じる話し方でした。
愛新覚羅嫮生さんは74歳 福永こせいさん 日本人と結婚して5人の子供を育てた。
満州国の愛新覚羅溥儀のめいに当たられる方。
父は「ラストエンペラー」 溥儀の実弟愛新覚羅溥傑(ふけつ) 母は天皇家の縁戚 公家の名門嵯峨侯爵家の令嬢嵯峨浩さん(流転の王妃と呼ばれる)
子供は二人 一人は19歳で亡くなる。 嫮生(こせい)さんは2番目の娘、清朝の直系を継ぐ最後の女性。
何百時間インタビューする。 断片的な記憶しかなく其れをベースにしながら物語を展開するので証言者、歴史的資料探して、裏付けをしながら進めてゆくという気の遠くなるような作業でした。
気が付くと150年の物語ができ上ったという感じです。
取材をする中で、日本の戦争は終戦で終わったが、満州は日本の敗戦から地獄が始まった。
亡くなられた方、生きて証言してくださった方の魂に導かれて、不思議な力によって、書かされているというそういう物です。
亡くなられた方々が私の周りに寄り添っていると言う様な感じで、涙があふれてくる4年間で、精神的には血を吐く思いで書いた作品です。
夜なかに書く事が多く、睡眠を削って書きました。
取材の中で一番心を動かされたのは、5歳の女の子が生きて日本に戻ってきたと言う事、其れは人を生かしたのは人の力で有ったという事。
一番伝えたいのは、国と国は争うが、人と人は助け合う事も出来るし、命をつなぐことができると言う事を伝えたかった。
凄惨な旅を支えたのは共産党軍の名もなき兵士だったり、やせ衰えた日本人の捕虜だった。
赤痢でがりがりやせ細ったこせいさんの為に中国の兵隊が生卵を買ってきて食べさせたり、持っていては軍規違反になるふとんを運んでくれたりした。
マイナス40度の満州の冬をこのふとんを失わなかったことで生きることができた。
日本人も捕虜として食べるものも着る物もなったが、自分の服を脱いでこの震える少女に着せてあげて命を守ってあげた。
生きるギリギリの場所で敵とか味方とか中国人、日本人、何人ではなくて、ひとの情、命のリレーで小さな命が繋がっていったという事実を、書いていきたいと思った。
流転の朗読講演会をやっていて、人間、そこにいるのは何人であるとかではなくて、人間は国境を越えて真心で通じあうことが出来るんだと言う事が判ったという風にいってくださって、私はそういう事を大切に、人間の愛と言うものを書いていきたいと思っています。
伯父の亡くなるまでの200通の書簡が見つかって、青年士官の姿と家族の深い愛情と言うものを感じて、伯父につながる人たちから大切な言葉を託されたと思っていまして、取材を進めているところです。
次のテーマは太平洋戦争、真珠湾攻撃、潜水艦、海軍兵学校68期をキーワードにして取材を進めているところです。
2014年8月23日土曜日
金昴先(キムミョウソン 住職) ・お大師様に導かれ、住職へ(再放送)
金昴先(キムミョウソン 住職) お大師様に導かれ韓国伝統舞踊家から四国徳島の住職へ(再放送)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2013/09/blog-post_21.htmlをご覧ください。
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2013/09/blog-post_21.htmlをご覧ください。
2014年8月22日金曜日
鈴木信太郎(画家) ・7日間の遭難から得たこと
鈴木信太郎(画家) 7日間の遭難から得たこと
昭和24年東京生まれ 30年ほど前から東久留米市にお住まいで、地元の川などを中心に風景画を描いています。
鈴木さんは大型連休中 5月3日 スケッチのために東京、埼玉、山梨にまたがる雲取山に向かいました。
しかし遭難してしまい7日間さまよいましたが無事生還しました。
夜中はラジオ深夜便に励まされ、特に遠藤ふき子アンカーの夜明け前の締めくくりの挨拶「いま苦しい状況でお聞きの方もあると思いますが、どうぞ一日で有ります様に」その言葉にじーんとなった、と言う事です。
体重は5kg減ってしまったが、2kgぐらいは戻った。
雲取山にスケッチに行ったのは5回ぐらい。 ここ3年間は雲取山周辺に行っている。
登山は20年間行っている 奥多摩、奥武蔵等に多く行っている
奥多摩駅からバスで行って、三条の湯(山小屋)にいって一泊した。
圏外と言う事で、携帯電話はつながらなくなっていた。
登り始めて直ぐに川に雪があるのに吃驚した。
5月4日 飛龍山(2000m以上)に向かう。
尾根道に出るのに雪が溜まっているところがあった。
尾根道に出て、山頂に向かう道があるが、雪が残っていて道が見えなかった。
山頂まで行ったが、景色は見えなくて、昼を食べて直ぐに降りた。
雪がまだら状態で、道が見えにくかった。 段々コースから違うなと思った。
途中からクマザサの原っぱになり、自分の背丈より高いので、かき分けながらドンドン降りてしまった。
尾根道ははっきりしているので、そこには必ず出るはずだとの思い込みがあって、降りてゆけば間違いないんじゃないかと思ってしまった。
戻れなくて、クマザサの中で一泊しなければいけないと思って、そこで一泊した。
食料はパンが3個、レーズン半袋、チーズ等は有った。
熊の入る様な穴があり、熊の爪痕と思われる傷もあり、そこから離れて、寝る場所を探して寝た。
まっすぐ降りないで、横に行こうと思った。
大きな谷になっていて、谷が雪で真白に覆われているので横にも行けないと思って、谷沿いに降りていった。
河原にでて、その晩はそこで寝ることにしたが、食料は底をついていた。
寒さは、しのぎ切れないと言うほどでもなかった。(Tシャツ数枚あり、薄手のセーター、ジャンパー着て、その上に薄いレインコートを着用) かなりの寒さではあったが。
小さいラジオを持って行って、最初よく聞こえなかったが、2日、3日目当たりから受信がよくなる。
5月6日 河原から川沿いに下を目指す。
途中、頭から落ちる事があり、唇などを切ったりした。
不安感、あせりはあった。 水は川、沢があったので飲めたが、食べ物はなかった。
クマザサの芽の部分を食べてみたら、食べられるので、何本かは口にした。
リュックサックは邪魔になるので、5日目当たりで全部捨ててきた。
4時には明るくなるので、ラジオはよく聞いていた。
其れが励ましになった。
食べものが無くなって、口に食べ物が入らなくなると、其れなりの体のシステムが自動的に変わってくることが感じられた。
空腹でどうしようもないと言う事はなくて、何とか動けたことが不思議だった。
体温は低く保たれていた。 歩いていても汗をかくと言う事はなかった。
食べられないならば、食べられないなりの動き方に、モードチェンジする、そういう風になっていると感じた。
明日あたりには里に出られるのではないかと言う思いはあった。
夜なかに「カンカン」という音が聞こえた。 里が近いのではないかと思った。
8日目 5月12日になって、クマザサをかいて歩いていたら、山道に出ることができた。
圏外ではあったが、状況について家にメールを入れておいた。
これで生きて帰れると思って涙が出てきた。
電波塔が見えたので、携帯をみたら、圏内になっていて、直ぐ110番して、どちらですかと言われたところで電池切れになってしまった。 メールも送信された。
降りたところは最初に宿泊したところから7kmのところだった。(後での確認では)
最初に迷った段階で何故元に戻らなかったのかと、自分でも判らない。
経験した事のない、河原の夕暮れとか、山の感じとか、こういう風なことを描いてみたいと、山の中で考えた。
昭和24年東京生まれ 30年ほど前から東久留米市にお住まいで、地元の川などを中心に風景画を描いています。
鈴木さんは大型連休中 5月3日 スケッチのために東京、埼玉、山梨にまたがる雲取山に向かいました。
しかし遭難してしまい7日間さまよいましたが無事生還しました。
夜中はラジオ深夜便に励まされ、特に遠藤ふき子アンカーの夜明け前の締めくくりの挨拶「いま苦しい状況でお聞きの方もあると思いますが、どうぞ一日で有ります様に」その言葉にじーんとなった、と言う事です。
体重は5kg減ってしまったが、2kgぐらいは戻った。
雲取山にスケッチに行ったのは5回ぐらい。 ここ3年間は雲取山周辺に行っている。
登山は20年間行っている 奥多摩、奥武蔵等に多く行っている
奥多摩駅からバスで行って、三条の湯(山小屋)にいって一泊した。
圏外と言う事で、携帯電話はつながらなくなっていた。
登り始めて直ぐに川に雪があるのに吃驚した。
5月4日 飛龍山(2000m以上)に向かう。
尾根道に出るのに雪が溜まっているところがあった。
尾根道に出て、山頂に向かう道があるが、雪が残っていて道が見えなかった。
山頂まで行ったが、景色は見えなくて、昼を食べて直ぐに降りた。
雪がまだら状態で、道が見えにくかった。 段々コースから違うなと思った。
途中からクマザサの原っぱになり、自分の背丈より高いので、かき分けながらドンドン降りてしまった。
尾根道ははっきりしているので、そこには必ず出るはずだとの思い込みがあって、降りてゆけば間違いないんじゃないかと思ってしまった。
戻れなくて、クマザサの中で一泊しなければいけないと思って、そこで一泊した。
食料はパンが3個、レーズン半袋、チーズ等は有った。
熊の入る様な穴があり、熊の爪痕と思われる傷もあり、そこから離れて、寝る場所を探して寝た。
まっすぐ降りないで、横に行こうと思った。
大きな谷になっていて、谷が雪で真白に覆われているので横にも行けないと思って、谷沿いに降りていった。
河原にでて、その晩はそこで寝ることにしたが、食料は底をついていた。
寒さは、しのぎ切れないと言うほどでもなかった。(Tシャツ数枚あり、薄手のセーター、ジャンパー着て、その上に薄いレインコートを着用) かなりの寒さではあったが。
小さいラジオを持って行って、最初よく聞こえなかったが、2日、3日目当たりから受信がよくなる。
5月6日 河原から川沿いに下を目指す。
途中、頭から落ちる事があり、唇などを切ったりした。
不安感、あせりはあった。 水は川、沢があったので飲めたが、食べ物はなかった。
クマザサの芽の部分を食べてみたら、食べられるので、何本かは口にした。
リュックサックは邪魔になるので、5日目当たりで全部捨ててきた。
4時には明るくなるので、ラジオはよく聞いていた。
其れが励ましになった。
食べものが無くなって、口に食べ物が入らなくなると、其れなりの体のシステムが自動的に変わってくることが感じられた。
空腹でどうしようもないと言う事はなくて、何とか動けたことが不思議だった。
体温は低く保たれていた。 歩いていても汗をかくと言う事はなかった。
食べられないならば、食べられないなりの動き方に、モードチェンジする、そういう風になっていると感じた。
明日あたりには里に出られるのではないかと言う思いはあった。
夜なかに「カンカン」という音が聞こえた。 里が近いのではないかと思った。
8日目 5月12日になって、クマザサをかいて歩いていたら、山道に出ることができた。
圏外ではあったが、状況について家にメールを入れておいた。
これで生きて帰れると思って涙が出てきた。
電波塔が見えたので、携帯をみたら、圏内になっていて、直ぐ110番して、どちらですかと言われたところで電池切れになってしまった。 メールも送信された。
降りたところは最初に宿泊したところから7kmのところだった。(後での確認では)
里に下りた時に人家があったが、叩いたが人はいなくて、歩き始めたらすぐに警察が来てくれて、多摩の警察署に行き、直ぐに救急車で奥多摩の病院に入った。
所見では飢餓状態、脱水症状、内臓疾患との事だった。最初に迷った段階で何故元に戻らなかったのかと、自分でも判らない。
経験した事のない、河原の夕暮れとか、山の感じとか、こういう風なことを描いてみたいと、山の中で考えた。
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