三上修(生物生態学者・岩手医大講師) すずめの謎を追い続けて
1974年生まれ 大学で生物学を学び、鳥の生態や行動について研究しています。
特に都市に住む鳥に興味を惹かれ、最近は雀の研究に取り組んでいます。
三上さんは、雀は身近な存在でありながら、意外にその正体が知られていない鳥で、その生態は多くの謎に包まれていると言います。
以前に比べて身の回りで見ることが少なくなったと言われる、雀ですが実際はどうなのか、雀の姿から私たちは何をくみ取れるのか、見過ごされてきた雀の謎を追い続けてきた三上さんに伺います。
雀は身近な鳥です。
日本には600種類の鳥が確認されているが、雀ほど普段見掛ける鳥はいない。
雀は人に対して人に近いところにいると言う意味で他の鳥と比べて圧倒的におかしな鳥と言える。
人のそばにいる割に、人に対して警戒心が強い。
他の鳥にくらべて圧倒的に高密度で、狭い場所にいる。
シジュウカラは縄張りを持つが、雀は直ぐ近くに巣があっても気にしない。
卵、普通の鳥の卵は全部同じ色の卵を産むが、雀は最後に産んだ卵だけ、ちょっと色が違う。
其れを止め卵と言うが。
桜の花を食べるのが最近判ってきた。 蜜の部分をちぎって、吸って花を捨てると言う事が判ってきた。(ここ20~30年)
どこかの段階で雀が蜜を吸う事をして之をまねて広がったのではないかと思う。
雀は鳥の仲間ですが、さかのぼってゆくと恐竜に辿り着く。(鳥の先祖は恐竜であると言う事が主流) 鳥の先祖が生まれたのは数千万年前と言われる。
小鳥が増えていったのは数百万年~一千万年と言われる。
雀は20~25種類いる。 日本には我々が見る雀と、山の中にしかいない入内雀、2種類。
入内雀はちょっと赤っぽいのと動きが機敏。
寿命は判っていない。 籠の中では長いもので10年という記録がある。
おおざっぱな推測 平均寿命で言うと半年。 小さいころにほとんど亡くなってしまう。
雀は雑食系、昆虫、米、植物の種等を食べる。
古事記に雀の文字が出てくる。
儀式として鳥の姿をして、葬式をするという事があった様です。 ある役割として雀が出てくる。
枕草子、俳句などにも出てくる。
万葉集には雀は出てこない。(雀を食べていたのではないか、雀に遠慮があったのでは)
研究のきっかけは?
誰もやっていなかったので、又都市の鳥に興味があった。
数千年の間に都市が出来て、環境が変わってそこに鳥がやってきて、どんな鳥だったらその環境に住めるのかと言う事で、雀に興味があった。
雀が日本に何羽いるのかと言う事から始めた。 まだ誰もやっていなかった。
或る面積で雀の数を調べておいて、そういう環境には何羽ということで、日本にそういう環境はどのぐらいあるかと言う事で、行った。
鳥の数は諦めて、巣の数を調べた。 商業地域、住宅地、農村地帯 をそれぞれ調べて面積でかけて調べた。
結果巣の数は900万巣と成る。 オス、メスで1800万羽
オーダーとしては数千万羽としていいのではと考えている。
感覚的にある場所で減っていると言う事は事実だと思うが、情報の偏りがあるのではないかと思った。
雀による農業被害を見ると、ドンドン減っている。
雀の狩猟データ 是もドンドン減っている。
20~30年前 1時間で200~300羽取れたが、最近は1日やっても100羽も取れない。
環境省 鳥の分布を見ても雀は減っている。
いろんなデータを持ってくると雀は減っていることは確かなようだ。
20年前と比較すると、半分になっていると思われる。
ヨーロッパでは家雀が身近にいるが、地域によっては凄く減っている事が知られている。
地域によっては1/10と言われる。
減少の原因は?
建物が変わって瓦屋根が無くなって、雀が巣を作れなくなったのではと言う事で住宅地を調べた。
巣の密度を調べた。 1970年頃の住宅地は100m×100mで4つ巣があるが、2000年ごろの住宅地では1/4ぐらいしかない。
住宅が新しくなると巣を造る場所が無くなってしまう。
昔は空き地が沢山あったが、今はそういったところが駐車場になってしまっている。
餌を取る場所が亡くなってしまった。(空き地)
総合的に働いて、巣の近くにいい餌場があることが重要だが、その組み合わせが日本中からドンドン減っているのではないかと思う。
雀がお互いの巣にちょっかいを出す様になった。
まだ卵を産んでいない雀が巣を奪うために卵を落としてしまう。
雀同士でマイナスの効果をする。
街中では小さい昆虫を与えているので、そこも巧く言っていない原因なのでは。
卵の数も少なくなっている傾向にあるし、うまく孵化しないとか、ある。
昔のデータがないので、因果関係は判らないところもある。
巣立ち雛の調査をしたが、街中だと1~2羽 農地だと2~3羽 街中だと餌不足とか、猫にやられるとか有ると思われる。
絶滅までは行かなくて、どこかで減少は落ちつくのではないかと思う。
他の多くの鳥も減っていると思う。
数の大きな種が半分になると、その影響も半分発生する事になり、影響は大きいと思う。
数が減ってゆくと我々にとって身近な鳥ではなくなってしまうかもしれない。
よくよく調べると変わった鳥だと言う事が見えてきた。
雀の研究をして、本を書くと、色々反応があり、凄く愛されているんだなと言う事が、判った。
巣箱を家の庭にかけてやると、巣を作りやすい。
雀が増える事によって迷惑する人もいるので、(農家)難しいところもある。
雀が子育てをする時期は控えた方がいい。
栄養バランスが崩れたりして返って阻害することになる。(ヨーロッパでは起こったりしている)
雀の声には意味があるのではないかと思うので、其れを突き止められれば、もっと雀の事が判るのではないかと思う。
2014年8月21日木曜日
2014年8月20日水曜日
中島浩一郎(建材会社・社長) ・私の人生を変えた里山の力
中島浩一郎(住宅建材会社・社長) 私の人生を変えた里山の力
岡山県真庭市 在住 森林面積が8割を占める典型的な山間地域です。
かつては出雲街道を行き来する人でにぎわいましたが、現在は人口およそ5万人、年年過疎化が進んでいます。
中島さんは昭和27年、この地で生まれて、横浜市立大学を卒業後、家業の製材業を引き継いで、中国地方で大手の建材メーカーに育て上げました。
中島さんの経営理念は木を使い切る事です。
修正材や、新たな建材開発に取り組んでる他、木の皮や木くずを燃やして、電気を作るバイオマス発電、製材の際にできる、カンナくずで燃料のペレットを造るなどこれまで廃棄物として処理していた物をエネルギーに変換するなど、木材の力を100%生かす事に取り組んでいます。
特にバイオマス発電は行政も出資し、地域の諸団体の力を結集して、発電会社を作り、来年の春には地域全体に電気を供給する計画が進んでいます。
身近にある森林資源、里山の力を見直して新たな地域作りが動き出しています。
木質バイオマス発電を始めたのは日本で初めて。
木屑をベースに、(皮、おがくず、カンナくず、切れ端等)行う。
16年前から施設が稼働、1時間当たり2000kw 1カ月140万kw/h
原子力発電が 100万kw/h なので約20日間かかってやっている事になる。
当時勝山町と言っていたが、人口が9000何百人だったので、全部まかなえる電力。
工場に利用、100%
1980年代にアメリカでこのようなことをやっていて驚いて、やってみたいと思っていた。
1984年 ボイラーの更新時に175kwの発電を始めた。 今は2000kw/h
設備投資は10億円 銀行にお願いに行ったが、年間3000万円の回収ができると言ったら、黙ってしまったが、なんとか説得して融資をしてもらった。
10年前、木屑を使ってペレットを作って、熱源への利用にする。
灯油の半値で継続的に提供できる。 カンナくずを固めるだけ。
ヨーロッパがペレットを一番使っていて、年間1000万トンぐらい使っている。 日本は6~7万トン。
木材を全部使い切る。
戦前 燃料は山から来ていた。(木と炭)
新しい用途 燃料、発電、 山地残材を持ちだすことができれば利用出来る。
来年 1万kwの発電所ができる。(地域全体が協力して会社を設立)
20年前、講師を呼んできて、勉強会をやって、16~17回開いた。
持続可能な地域にしようと、目の前に在るものを生かそうと、其れは組み合わせだろうと云う事で、地域の人の組み合わせ、ソフトネットワークの組み合わせ、物の組み合わせなどをやれば、新しい事業ができるのではないかと思った。
1997年オーストリアに合弁会社を造ることになり、オーストリアに行く機会があり、急峻な山があり、いろんな新しい仕組みができていて、町ごとバイオマスで熱供給ができている町があり、日本でもできないかと思った。
マーケット、人、技術があったりして、仕組みを作らない限り、資源は生きてこない。
昭和27年に製材市場を地域で立ち上げ、その経験がこの地域のDNAを引き継いでいる。
新しい発電所 民間出資、市が関わっている(バイオマス政策課がある、調整役)
来年4月から発電を始める予定。 1万kw/h
太陽発電、風力発電と違って、バイオマス発電は常に人間が関与しないと前にいけない。
山地残材を何とか利用できるような仕組みを作りたい。
熊本、高知県にも製材会社を作っている。 従来と違った製材方法。
修正材は平行に張り付ける。
CLT工法 Cross Laminated Timber 直行方向に張って行って大きな板面を構成できる。
厚さが3cmを張ってゆく、6m×2.7m×30cmの塊ができて、其れを建築に使う。
ドイツ人が考えて、最初にオーストリアが展開する。
木材革命と言われるような勢いで、木造建築が立っている。
8階建て、10階建て と言った建物が立っている。
木造だと軽いため、基礎工事も楽になり、断熱効果もあるため、省エネになる。
地震対して圧倒的に強い。 イタリアは地震が多く、一番多く利用している。
イタリアで振動試験ができる装置にCLT工法の7階建てのもので試験したところ全然壊れなかった。
日本でも筑波の研究所で5階建て相当の建物で実験したところ、何にも起こらなかった。
将来的にはアジアに向けて輸出、出来ると思っている。
その為には仕組み作りだと思う。
岡山県真庭市 在住 森林面積が8割を占める典型的な山間地域です。
かつては出雲街道を行き来する人でにぎわいましたが、現在は人口およそ5万人、年年過疎化が進んでいます。
中島さんは昭和27年、この地で生まれて、横浜市立大学を卒業後、家業の製材業を引き継いで、中国地方で大手の建材メーカーに育て上げました。
中島さんの経営理念は木を使い切る事です。
修正材や、新たな建材開発に取り組んでる他、木の皮や木くずを燃やして、電気を作るバイオマス発電、製材の際にできる、カンナくずで燃料のペレットを造るなどこれまで廃棄物として処理していた物をエネルギーに変換するなど、木材の力を100%生かす事に取り組んでいます。
特にバイオマス発電は行政も出資し、地域の諸団体の力を結集して、発電会社を作り、来年の春には地域全体に電気を供給する計画が進んでいます。
身近にある森林資源、里山の力を見直して新たな地域作りが動き出しています。
木質バイオマス発電を始めたのは日本で初めて。
木屑をベースに、(皮、おがくず、カンナくず、切れ端等)行う。
16年前から施設が稼働、1時間当たり2000kw 1カ月140万kw/h
原子力発電が 100万kw/h なので約20日間かかってやっている事になる。
当時勝山町と言っていたが、人口が9000何百人だったので、全部まかなえる電力。
工場に利用、100%
1980年代にアメリカでこのようなことをやっていて驚いて、やってみたいと思っていた。
1984年 ボイラーの更新時に175kwの発電を始めた。 今は2000kw/h
設備投資は10億円 銀行にお願いに行ったが、年間3000万円の回収ができると言ったら、黙ってしまったが、なんとか説得して融資をしてもらった。
10年前、木屑を使ってペレットを作って、熱源への利用にする。
灯油の半値で継続的に提供できる。 カンナくずを固めるだけ。
ヨーロッパがペレットを一番使っていて、年間1000万トンぐらい使っている。 日本は6~7万トン。
木材を全部使い切る。
戦前 燃料は山から来ていた。(木と炭)
新しい用途 燃料、発電、 山地残材を持ちだすことができれば利用出来る。
来年 1万kwの発電所ができる。(地域全体が協力して会社を設立)
20年前、講師を呼んできて、勉強会をやって、16~17回開いた。
持続可能な地域にしようと、目の前に在るものを生かそうと、其れは組み合わせだろうと云う事で、地域の人の組み合わせ、ソフトネットワークの組み合わせ、物の組み合わせなどをやれば、新しい事業ができるのではないかと思った。
1997年オーストリアに合弁会社を造ることになり、オーストリアに行く機会があり、急峻な山があり、いろんな新しい仕組みができていて、町ごとバイオマスで熱供給ができている町があり、日本でもできないかと思った。
マーケット、人、技術があったりして、仕組みを作らない限り、資源は生きてこない。
昭和27年に製材市場を地域で立ち上げ、その経験がこの地域のDNAを引き継いでいる。
新しい発電所 民間出資、市が関わっている(バイオマス政策課がある、調整役)
来年4月から発電を始める予定。 1万kw/h
太陽発電、風力発電と違って、バイオマス発電は常に人間が関与しないと前にいけない。
山地残材を何とか利用できるような仕組みを作りたい。
熊本、高知県にも製材会社を作っている。 従来と違った製材方法。
修正材は平行に張り付ける。
CLT工法 Cross Laminated Timber 直行方向に張って行って大きな板面を構成できる。
厚さが3cmを張ってゆく、6m×2.7m×30cmの塊ができて、其れを建築に使う。
ドイツ人が考えて、最初にオーストリアが展開する。
木材革命と言われるような勢いで、木造建築が立っている。
8階建て、10階建て と言った建物が立っている。
木造だと軽いため、基礎工事も楽になり、断熱効果もあるため、省エネになる。
地震対して圧倒的に強い。 イタリアは地震が多く、一番多く利用している。
イタリアで振動試験ができる装置にCLT工法の7階建てのもので試験したところ全然壊れなかった。
日本でも筑波の研究所で5階建て相当の建物で実験したところ、何にも起こらなかった。
将来的にはアジアに向けて輸出、出来ると思っている。
その為には仕組み作りだと思う。
2014年8月19日火曜日
柏秀樹(モータージャーナリスト) ・笑顔でいつも安全に 二輪の楽しさを伝えて35年
柏秀樹(モータージャーナリスト、ライディングスクール校長) 笑顔でいつも安全に 二輪の楽しさを伝えて35年
8月19日は819のごろ合わせで、バイクの日、日本各地でバイクにちなんだ催しが行われます。
今日本のバイク事情は比較的年齢の高い50代以上の人たちが大型のバイクに乗る様に成っています。
こうした年齢の高い人達は、若い人ほどはバイクの動きについていけずに、事故を起こしがちだと言う事も問題になっています。
年齢の高い人たちにも、安全にバイクを楽しんでもらおうと、バイクの運転技術を教えて30年になると言うのはバイクジャーナリストでもある、柏秀樹さんです。
あくまでも滑らかなな運転を心がけるのが指導の中心と言う柏さんに伺います。
柏さんは1954年 昭和29年生まれ 60歳。
最近はバイク乗りは高齢の人も多い。
1980年代前半バイクのピークで年間300万台以上販売されて、若い人たちが子育てなどで降りてしまった人達が、再び乗る様な動きが出ている。
飛ばして、カーブでスリルを味わいたいと言う事は本能的にある様ですが、飛ばさなくてもうまくなる、ゆっくり走っても楽しいと言う要件を満たすような、ライディングのレッスンをしています。
高速で走れるが、停まる能力は弱い、安全を積極的に掴み取ってゆく。
小さい時から父親に乗せてもらって、色々なところに行く事が好きだった。
当時ガソリンが制限された時代だったので、エコな運転をやらざるを得なかった。
ニュートラルで転がして、スーッと止まる様なこともレッスンではやっている。
車よりバイクにおもしろさを見つけた。
当時新聞配達をして、自転車で経験したことがバイクでもそのままできる。
大学、大学院 では結構勉強をした。
作家の片岡 義男さんのラジオ「気まぐれ飛行船」を聞いていたら、バイクの話が出てきて、ピンときて、手紙を出した。
私の家で会う事になり、話している時に、番組に出てほしいと言う事になった。
バイクの音のレコード、本の出版などを片岡さんと一緒にやったりした。
博士課程までいったが、バイクの方向に行った。
取材に行って原稿を纏めることとか、自分のバイクを通してのツ-リングのこととか、色々忙しかった。
新聞コラムで10本以上、そのほか色々やっていた。
レース パリダカール にも出た。
1984年にファラオラリー、エジプトのラリーに参加したのがきっかけで、そこ走った経験がベースになる。
1996年にパリダカールに参加する事になる。 1997年、1998年と 3回出る。
1997年では篠塚 建次郎が車の部門で優勝したが、私はバイク部門では35位だった。(200台参加)
一人ぼっちで一回地平線を見ると言う事は、恐さを知ると言う事で有り、自分がちっぽけな存在である事、勇気がないと生きていけないと言う事実もあったり、本当に砂にのまれてしまう。
非常に水自体が貴重で、現代社会の凄い消費社会と言うのは、厳しい現実を体験しておくことは必要だと思う。
40歳そこそこの時に初めて自分のなかで弱さ、強さが混在して自分がいることがよくわかりました。
他の人に教えるきっかけは?
西伊豆で有るメーカーでニューモデルの試乗する事があり、編集長が私が走る姿を見て、ライディングテクニックのページを作るから、やってよといわれた。
1980年代の前半から、雑誌にライディングテクニックの記事を書き始める。
其れがブレークして、DVDも出すことになる。
教えることが判ってきて、特にこの10年、エントリーユーザー、高齢者がバイクに乗る時のイロハを少しはお伝えできるようになったかなと思います。
マンツーマン、少人数の人達に最初教えていたが、段々クラブ単位で教えることになり、スクールをやりましょうよと、周りから言われて、スクールを始めることになり、10数年が経ちました。
速くなるより、巧くなってほしいと言うのが、私の趣旨です。
教えるためのアプローチが色々ある。(厳しく、優しく、理論的、車種ほか)
ゆっくりと正確にやる事。
北京オリンピックの時の開会式でのピアニスト(ラン・ラン)が物凄く早く弾くが、どうしてそんなに早く弾けるかとの質問に「ゆっくり、正確に弾く事です」と答えたが、全くその通りだと思う。バイクも同じ。
丁寧にまっすぐ走ることは意外と難しい。
スピードを出してしまうと、全部できるように思えちゃうからおかしい。(誤魔化せる)
ゆっくり出て、ゆっくり止まる。 其れを楽しんでほしい。
8月19日は819のごろ合わせで、バイクの日、日本各地でバイクにちなんだ催しが行われます。
今日本のバイク事情は比較的年齢の高い50代以上の人たちが大型のバイクに乗る様に成っています。
こうした年齢の高い人達は、若い人ほどはバイクの動きについていけずに、事故を起こしがちだと言う事も問題になっています。
年齢の高い人たちにも、安全にバイクを楽しんでもらおうと、バイクの運転技術を教えて30年になると言うのはバイクジャーナリストでもある、柏秀樹さんです。
あくまでも滑らかなな運転を心がけるのが指導の中心と言う柏さんに伺います。
柏さんは1954年 昭和29年生まれ 60歳。
最近はバイク乗りは高齢の人も多い。
1980年代前半バイクのピークで年間300万台以上販売されて、若い人たちが子育てなどで降りてしまった人達が、再び乗る様な動きが出ている。
飛ばして、カーブでスリルを味わいたいと言う事は本能的にある様ですが、飛ばさなくてもうまくなる、ゆっくり走っても楽しいと言う要件を満たすような、ライディングのレッスンをしています。
高速で走れるが、停まる能力は弱い、安全を積極的に掴み取ってゆく。
小さい時から父親に乗せてもらって、色々なところに行く事が好きだった。
当時ガソリンが制限された時代だったので、エコな運転をやらざるを得なかった。
ニュートラルで転がして、スーッと止まる様なこともレッスンではやっている。
車よりバイクにおもしろさを見つけた。
当時新聞配達をして、自転車で経験したことがバイクでもそのままできる。
大学、大学院 では結構勉強をした。
作家の片岡 義男さんのラジオ「気まぐれ飛行船」を聞いていたら、バイクの話が出てきて、ピンときて、手紙を出した。
私の家で会う事になり、話している時に、番組に出てほしいと言う事になった。
バイクの音のレコード、本の出版などを片岡さんと一緒にやったりした。
博士課程までいったが、バイクの方向に行った。
取材に行って原稿を纏めることとか、自分のバイクを通してのツ-リングのこととか、色々忙しかった。
新聞コラムで10本以上、そのほか色々やっていた。
レース パリダカール にも出た。
1984年にファラオラリー、エジプトのラリーに参加したのがきっかけで、そこ走った経験がベースになる。
1996年にパリダカールに参加する事になる。 1997年、1998年と 3回出る。
1997年では篠塚 建次郎が車の部門で優勝したが、私はバイク部門では35位だった。(200台参加)
一人ぼっちで一回地平線を見ると言う事は、恐さを知ると言う事で有り、自分がちっぽけな存在である事、勇気がないと生きていけないと言う事実もあったり、本当に砂にのまれてしまう。
非常に水自体が貴重で、現代社会の凄い消費社会と言うのは、厳しい現実を体験しておくことは必要だと思う。
40歳そこそこの時に初めて自分のなかで弱さ、強さが混在して自分がいることがよくわかりました。
他の人に教えるきっかけは?
西伊豆で有るメーカーでニューモデルの試乗する事があり、編集長が私が走る姿を見て、ライディングテクニックのページを作るから、やってよといわれた。
1980年代の前半から、雑誌にライディングテクニックの記事を書き始める。
其れがブレークして、DVDも出すことになる。
教えることが判ってきて、特にこの10年、エントリーユーザー、高齢者がバイクに乗る時のイロハを少しはお伝えできるようになったかなと思います。
マンツーマン、少人数の人達に最初教えていたが、段々クラブ単位で教えることになり、スクールをやりましょうよと、周りから言われて、スクールを始めることになり、10数年が経ちました。
速くなるより、巧くなってほしいと言うのが、私の趣旨です。
教えるためのアプローチが色々ある。(厳しく、優しく、理論的、車種ほか)
ゆっくりと正確にやる事。
北京オリンピックの時の開会式でのピアニスト(ラン・ラン)が物凄く早く弾くが、どうしてそんなに早く弾けるかとの質問に「ゆっくり、正確に弾く事です」と答えたが、全くその通りだと思う。バイクも同じ。
丁寧にまっすぐ走ることは意外と難しい。
スピードを出してしまうと、全部できるように思えちゃうからおかしい。(誤魔化せる)
ゆっくり出て、ゆっくり止まる。 其れを楽しんでほしい。
2014年8月18日月曜日
伊澤紘生(名誉教授) ・野生の猿に学んだこと
伊澤紘生(宮城教育大学名誉教授) 野生の猿に学んだこと
1939年生まれ 半世紀以上にわたって日本猿、南米アマゾンに住む野生の猿の調査、研究を行ってきました。
井澤さんは日本で初めて餌付けされていない野生の日本猿の生態研究を行い、日本猿の社会にボス猿がいないことを明らかにしました。
日本猿の社会と言うと、ボスを中心とする階級社会と言うイメージが強く残っていますが、猿学の世界ではボス猿が存在しないことが、現在は定説になっています。
猿研究へのきっかけは?
京都大学理学部に入ったが、生命の起源とか、人間の起源とかやりたかった。
オパーリンが生命の起源について有名な本を出したが、一斉を風靡した時代だった。
途中から実験室で、試験管を振っていることに、耐えられなくなって、又、終戦後、小学校に入る時に、ターザンの映画と、南洋一郎の冒険漫画に強く影響された。
疎開先伊豆の伊東で自然のなかで、食料を確保していたりした。
大学3年の終わりごろ理学部の動物学科に自然人類学、新しい講座ができる。
人類の起源を問う研究室、チンパンジー、ゴリラをアフリカに行って調べて、そこから人類の起源を発想する。 是しかないと思った。
大学4年の時に、来年から今西 錦司先生が赴任することになり、卒業研究をしたいとその先生に話した。
卒業研究しているうちに、アフリカのチンパンジーの調査を始めているが、餌付けができない事だった。
イギリス、ジェーン・グドール博士が餌付けに成功して、ドンドン新しい発見をする。
兎に角、餌付けをして来いと言われて、アフリカに9カ月半いて、帰ってきて、修士論文を書いて、又直ぐに2年半あまり出掛けた。 京都大学アフリカ類人猿学術調査隊。
修士課程の時の隊長が今西先生、退職されて、そのあと伊谷純一郎先生が隊長だった。
二人の先生に教わった事は非常に大きな経験になりました。
アフリカの5年間は誰一人逢えない、野生動物だけだった。 感動した。
命の危険と言う様な観念はなかった。
象の隊列は20頭余りで、音もなく過ぎ去ってゆく。
今でも鮮明に思い起こさせるほどの感動を与えてくれた。
人に接してきた事のないチンパンジーの居る場所を探せ、そこで餌付けをと言われたが、餌付けしてこいとの事だったので、餌付けに対しては人が住んでいて、集落があり、農業をやっていて、チンパンジーが荒らしに来ると言うところに拘った。(餌付けに対して)
そこに同僚が張り付いて、餌付けに成功した。
帰って来てからドクター論文を書いて、愛知県の日本モンキーセンターに就職する。
もう一回日本猿をやりたいと、あっちこち行って、白山に行った。
半年間は雪で、無人の山岳地帯と成る、まさにサバンナと同条件、惚れ込んだ。
群れの移動が見える。 どうやって群れが移動始めるのか、どう配列して餌を食べるのか、群れが一匹の生き物みたいに見える。
群間関係、 二つの群れが丸見えと成る。 そういう事が見えるのは白山しかない。
どういう事が判ったか?
従来からの研究で、日本猿はオスがいて、ボスが群れを統率して、集団は順位制、血縁制、リーダー制で統率されているとか、と言う様な社会構造が頭にある。
1週間見ても、それに見合う行動をしている猿は1匹もいない。
見方が悪いのではないかと、悩んだりした。
ボス猿は力が強い、仲裁、えさ場まで群れを連れてゆく、外敵に対して身をとして守る。
交尾ではメスを独占する、其れが役割だったが、群れの中でそういう猿を探すが、いない。
「いない」と言う眼で見たらどうなるかと、発想の転換をしたら、途端に猿が見えるようになった。
山のえさが豊作の時には、勝手に黙って強い猿も、弱い猿も黙々と食べる。
餌がない時、やはり黙々と木の皮を食べる。
食い物に対する、強い、弱いは何にも彼等の生きざまに関係してこない。
餌付けされたり、動物園の猿山、になると人がコントロールする。
一日2回とか、林檎、バナナなどいれるから、其れを食いたいと、力の主張が意味を持ってくる。
美味い物を求めての喧嘩が起り、強い、弱いがはっきりしてくる。
群れの1番から50番まで順位付けは、簡単、それぞれ二匹の間にピーナツを1個おいてやり食べたほうが強い、そうして順位付けが出来る。
自然界は強い弱いは全く意味を持たない。
自然は極端な物のあり方をしない。 独占するものがない。
徹底的に条件を一つに絞ってくる、そうすると競争が成立する。
ボスがどうのこうのとか、と云う話はできたのは、餌付けしたえさ場での猿の観察で、食い物を人間がコントロールして、食い物で競争が起こる場を作って観察したため。
社会は競争の世界、今の世の中は価値観が一つになっている、すなわちお金。
金を持っている人は偉い、価値が一つになると順番が判りやすい。
江戸時代は米という価値で、自然界を見ていたが(益鳥、害鳥、雑草とか)、明治以降は資本主義経済になり、金と言う基準になった。
競争があおられる。
高度成長経済下、競争の論理が通る。 日本猿学が受け入れられた。
ボスがいて、と言った様な事が、判りやすかった。
野生猿の真実を見ると言うのは大変だと思う、どっぷり漬かっているから、難しい。
最大の恩師は自然ですね。
自然と付き合わなかったら、人間の競争原理の中であくせくしていたと思います。
猿を調査するフィールドを多く開拓してきた。 白山、下北半島、金華山、南米アマゾン
是は面白そうだと思うと、そこに居つく。(地元の人に手伝ってもらう)
付き合いを通して、いろんなことを教えてもらう。
喉の渇きを、山椒の実で癒す。
一口二口かじって吐き出すと、延々と唾液が出てきて渇きをいやしてくれる。
野性が一番いい形で残っている、そしてそこに私がいる、私が問いかける、自然も又問いかける、相互コミュニケーションみたいな、其れが楽しい。
猿がいて、猿が何かを食おうとする、どれもがそれぞれの価値を持っている。
ブナの実はブナの実として価値を持っている、猿は猿一匹、それぞれ価値を持っている。
全てが同等の価値を持っている、甲乙つけがたい。
我々は甲乙を付けることによって、物事を理解しようとする。
ほえ猿 アマゾン一の大声を出す。
涼しいところで休んで葉っぱを食べる。 早寝、遅起き 8時でも寝ている、夜は4時頃には寝る。
普通の猿は5時頃起きて、6時半ごろ寝る。
その一番の怠け者がアマゾン一の大声を出す。 3,4kmは届く。 2時間、3時間は鳴いている。
けんかすると傷つくので、声では傷つかないので音声攻撃とされてきたが、違う、種の誇りで動いている、何の役にも立たない。
隣接群、隣り合った同士で鳴くが、12年間 一つの群れをずーとみてきて、隣接群が3つあるが、交わった後、誘導域が全く変わらない。
蜘蛛猿 縄張り 15~20分しかかからない。 早く動く必然性は何もないが、恐らく他の猿から蜘蛛猿が種分化して進化するときに、俺はアマゾンの熱帯雨林で誰よりも早く動きたいと言う誇りなんです。(損か得かと言う事とは無関係に)
去年12月、下北に、今年2月に白山に入って、両方とも群れの動きが全然違う。 判らなかった。
猿の目線でどれだけ見れるかが、重要で、見れると思っていた。
しかし私は水量の変化を読めなかった。 大人の猿を代表としてしか見ていなかった。
1歳、2歳の子供にとっては渡れない場合がある。
大人と子供での猿の目線が違う事が判った。
自然にいると1回ごとに本当に新しいことが判ってくる。
人間からみると、出来るだけこれからの子供達に、そういう場を確保しておきたいと思う。
1939年生まれ 半世紀以上にわたって日本猿、南米アマゾンに住む野生の猿の調査、研究を行ってきました。
井澤さんは日本で初めて餌付けされていない野生の日本猿の生態研究を行い、日本猿の社会にボス猿がいないことを明らかにしました。
日本猿の社会と言うと、ボスを中心とする階級社会と言うイメージが強く残っていますが、猿学の世界ではボス猿が存在しないことが、現在は定説になっています。
猿研究へのきっかけは?
京都大学理学部に入ったが、生命の起源とか、人間の起源とかやりたかった。
オパーリンが生命の起源について有名な本を出したが、一斉を風靡した時代だった。
途中から実験室で、試験管を振っていることに、耐えられなくなって、又、終戦後、小学校に入る時に、ターザンの映画と、南洋一郎の冒険漫画に強く影響された。
疎開先伊豆の伊東で自然のなかで、食料を確保していたりした。
大学3年の終わりごろ理学部の動物学科に自然人類学、新しい講座ができる。
人類の起源を問う研究室、チンパンジー、ゴリラをアフリカに行って調べて、そこから人類の起源を発想する。 是しかないと思った。
大学4年の時に、来年から今西 錦司先生が赴任することになり、卒業研究をしたいとその先生に話した。
卒業研究しているうちに、アフリカのチンパンジーの調査を始めているが、餌付けができない事だった。
イギリス、ジェーン・グドール博士が餌付けに成功して、ドンドン新しい発見をする。
兎に角、餌付けをして来いと言われて、アフリカに9カ月半いて、帰ってきて、修士論文を書いて、又直ぐに2年半あまり出掛けた。 京都大学アフリカ類人猿学術調査隊。
修士課程の時の隊長が今西先生、退職されて、そのあと伊谷純一郎先生が隊長だった。
二人の先生に教わった事は非常に大きな経験になりました。
アフリカの5年間は誰一人逢えない、野生動物だけだった。 感動した。
命の危険と言う様な観念はなかった。
象の隊列は20頭余りで、音もなく過ぎ去ってゆく。
今でも鮮明に思い起こさせるほどの感動を与えてくれた。
人に接してきた事のないチンパンジーの居る場所を探せ、そこで餌付けをと言われたが、餌付けしてこいとの事だったので、餌付けに対しては人が住んでいて、集落があり、農業をやっていて、チンパンジーが荒らしに来ると言うところに拘った。(餌付けに対して)
そこに同僚が張り付いて、餌付けに成功した。
帰って来てからドクター論文を書いて、愛知県の日本モンキーセンターに就職する。
もう一回日本猿をやりたいと、あっちこち行って、白山に行った。
半年間は雪で、無人の山岳地帯と成る、まさにサバンナと同条件、惚れ込んだ。
群れの移動が見える。 どうやって群れが移動始めるのか、どう配列して餌を食べるのか、群れが一匹の生き物みたいに見える。
群間関係、 二つの群れが丸見えと成る。 そういう事が見えるのは白山しかない。
どういう事が判ったか?
従来からの研究で、日本猿はオスがいて、ボスが群れを統率して、集団は順位制、血縁制、リーダー制で統率されているとか、と言う様な社会構造が頭にある。
1週間見ても、それに見合う行動をしている猿は1匹もいない。
見方が悪いのではないかと、悩んだりした。
ボス猿は力が強い、仲裁、えさ場まで群れを連れてゆく、外敵に対して身をとして守る。
交尾ではメスを独占する、其れが役割だったが、群れの中でそういう猿を探すが、いない。
「いない」と言う眼で見たらどうなるかと、発想の転換をしたら、途端に猿が見えるようになった。
山のえさが豊作の時には、勝手に黙って強い猿も、弱い猿も黙々と食べる。
餌がない時、やはり黙々と木の皮を食べる。
食い物に対する、強い、弱いは何にも彼等の生きざまに関係してこない。
餌付けされたり、動物園の猿山、になると人がコントロールする。
一日2回とか、林檎、バナナなどいれるから、其れを食いたいと、力の主張が意味を持ってくる。
美味い物を求めての喧嘩が起り、強い、弱いがはっきりしてくる。
群れの1番から50番まで順位付けは、簡単、それぞれ二匹の間にピーナツを1個おいてやり食べたほうが強い、そうして順位付けが出来る。
自然界は強い弱いは全く意味を持たない。
自然は極端な物のあり方をしない。 独占するものがない。
徹底的に条件を一つに絞ってくる、そうすると競争が成立する。
ボスがどうのこうのとか、と云う話はできたのは、餌付けしたえさ場での猿の観察で、食い物を人間がコントロールして、食い物で競争が起こる場を作って観察したため。
社会は競争の世界、今の世の中は価値観が一つになっている、すなわちお金。
金を持っている人は偉い、価値が一つになると順番が判りやすい。
江戸時代は米という価値で、自然界を見ていたが(益鳥、害鳥、雑草とか)、明治以降は資本主義経済になり、金と言う基準になった。
競争があおられる。
高度成長経済下、競争の論理が通る。 日本猿学が受け入れられた。
ボスがいて、と言った様な事が、判りやすかった。
野生猿の真実を見ると言うのは大変だと思う、どっぷり漬かっているから、難しい。
最大の恩師は自然ですね。
自然と付き合わなかったら、人間の競争原理の中であくせくしていたと思います。
猿を調査するフィールドを多く開拓してきた。 白山、下北半島、金華山、南米アマゾン
是は面白そうだと思うと、そこに居つく。(地元の人に手伝ってもらう)
付き合いを通して、いろんなことを教えてもらう。
喉の渇きを、山椒の実で癒す。
一口二口かじって吐き出すと、延々と唾液が出てきて渇きをいやしてくれる。
野性が一番いい形で残っている、そしてそこに私がいる、私が問いかける、自然も又問いかける、相互コミュニケーションみたいな、其れが楽しい。
猿がいて、猿が何かを食おうとする、どれもがそれぞれの価値を持っている。
ブナの実はブナの実として価値を持っている、猿は猿一匹、それぞれ価値を持っている。
全てが同等の価値を持っている、甲乙つけがたい。
我々は甲乙を付けることによって、物事を理解しようとする。
ほえ猿 アマゾン一の大声を出す。
涼しいところで休んで葉っぱを食べる。 早寝、遅起き 8時でも寝ている、夜は4時頃には寝る。
普通の猿は5時頃起きて、6時半ごろ寝る。
その一番の怠け者がアマゾン一の大声を出す。 3,4kmは届く。 2時間、3時間は鳴いている。
けんかすると傷つくので、声では傷つかないので音声攻撃とされてきたが、違う、種の誇りで動いている、何の役にも立たない。
隣接群、隣り合った同士で鳴くが、12年間 一つの群れをずーとみてきて、隣接群が3つあるが、交わった後、誘導域が全く変わらない。
蜘蛛猿 縄張り 15~20分しかかからない。 早く動く必然性は何もないが、恐らく他の猿から蜘蛛猿が種分化して進化するときに、俺はアマゾンの熱帯雨林で誰よりも早く動きたいと言う誇りなんです。(損か得かと言う事とは無関係に)
去年12月、下北に、今年2月に白山に入って、両方とも群れの動きが全然違う。 判らなかった。
猿の目線でどれだけ見れるかが、重要で、見れると思っていた。
しかし私は水量の変化を読めなかった。 大人の猿を代表としてしか見ていなかった。
1歳、2歳の子供にとっては渡れない場合がある。
大人と子供での猿の目線が違う事が判った。
自然にいると1回ごとに本当に新しいことが判ってくる。
人間からみると、出来るだけこれからの子供達に、そういう場を確保しておきたいと思う。
2014年8月17日日曜日
村山哲二(B・Cリーグ代表) ・独立リーグにかける私の夢
村山哲二(プロ野球独立リーグB・Cリーグ代表) 独立リーグにかける私の夢
新潟県出身49歳 小学校から大学まで野球に打ち込みました。
大学を卒業後、車のディーラーを経て広告代理店に入社、サッカーJIのアルビレックス新潟の仕事を手掛ける中で地域貢献に果た力に気付いたと言います。
2006年カ社を退職してプロ野球の設立に奔走、2007年に新潟、長野、石川、富山の4球団が参加する B,Cリーグを立ち上げました。
リーグにはその後群馬県福井県が参加、来年からは埼玉県、福島県のチームの加入が決まるなど広がりを見せています。
会社員の安定して生活を捨ててまで、立ち上げたプロ野球独立リーグ、何を目指すのか伺います。
プロ野球独立リーグ設立後、今年で8年目、あっという間の8年間だった。
辛かったことの方が凄く多かったと思います。
野球を通じて地域社会に貢献したいと思った。
日本のプロ野球 12球団があるが、そこには全く属していない新しいカテゴリーのプロ野球。
2005年 石毛さんが最初に作った四国アイランドリーグ 2つ目に出来たのが私たちのベースボールチャレンジリーグ、3つ目が関西でやっている、関西独立リーグ。
2007年に新潟、長野、石川、富山の4球団ではじまり、2008年 群馬県福井県が参加 来年から
埼玉県、福島県のチームが加入、8チームになる。
震災復興と言う事で福島県は物凄い気合いが入っているので楽しみにしています。
新潟の広告代理店に勤めていて、アルビレックス新潟の運営を手伝っていました。
町が元気になる事をサッカーから其れを教えてもらって、大きな衝撃を受けた。
其れを野球で実現できないかなあと思った。
1997年広告代理店に入ったが、そのころワールドカップが日本に来る、新潟で開催にエントリーする。
うねりの中にのっかってサポーターが増えていって、熱く応援する姿を見て、気付いたら、サポーターと一緒に跳びあがって応援していた。
町がアルビレックス新潟と言うもので物凄く元気になってゆく過程が自分自身で感じていて、その頃が一番凄かった。
アルビレックスの創始者の池田弘さんが私に突然呼び出しがあり、バスケットのB,Cリーグも池田さんが中心に作られて、日本を元気にしたが、其れに反して日本のプロ野球は一部の限られた首都圏の人しか楽しめない、地方でも楽しめるコンテンツとしてのプロ野球のビジネスモデルを作ってくれないかと、私に大きな課題を与えてくれた。
サッカーの仕事も、バスケットの仕事もやっていたので之に私がモデルを作って野球の仕事をさせてもらえれば広告代理店のサラリーマン人生も物凄く今後楽しいものになると思って引き受けた。モデルを3つ出したが、プロ野球独立リーグが一番いいということになり、あなたが社長になってやりなさいと言われて、本当に困った。
楽しかったので、広告代理店を辞める理由が何もなかったから。
辞めるという決断をするまで半年かかりました。
妻は取り合ってくれなかった。 最後は泣きながら説得して、ある意味騙したかもしれない。
家族の生活は絶対に守るからという事だったが、給料は半分になった。
最初、スポンサーを集めるのがうまくいかなかった。
私が出した事業モデルを他の人がやって成功するのと、私がやって失敗するのと、どっちが人生悔しいかと思った。
最後の最後に決断したのは、他の人がやって成功したらいやだと思った。
42歳の時だったから、そのように決断できたと思う。
2006年7月に4球団でスタートしなければいけないが、3球団しかなく、頓挫してしまう状況に追い込まれた時に、新潟県の水島正枝さんから手紙を頂いた。
自分の息子が糸魚川の球場で、急性心不全で倒れて亡くなってしまった。(プロ野球の選手になるのが夢だった)
新潟にはサッカー、バスケットのチームはあるが何故野球のチームはないのかとしていて、葬式の日に新聞を見たら、私の記事を見て、涙が止まりませんでしたと、みきと(9歳)のために是非実現させてくださいと、その手紙を読んで、其れが原動力になった。
AEDの普及活動をしている。
順調にはいかなかった。 特に資金集め 球団維持に1億5000万円 審判、記録員など年間1億円
諸々ふくめて7億円を必要としたが、物凄く厳しかった。
辛い事件が2008年7月にあって、デッドボール合戦、厳しいヤジが飛んで、ボールボーイを少年野球にやってもらって、終わった後野球教室をして帰ると言う事だったが、試合をみた指導者があなたがやっている野球なんかちっとも子供達の為にならない、野球を見るより練習をした方がましだと、もう二度と試合を見に来ない、と言われた。
子供達は泣き出してしまっていた、野球教室をキャンセルして帰ってしまった。
今まで何をしてきたんだろうと、後悔した。
表現する場所は野球場なので、地域の人から一生懸命やっているねと言われるはずだったのに、蓋を開けてみたら、あなたたちは地域の子供達の害だと言われた。
当時6球団の代表と、7人で何が悪い、どこに原因がある、何を改善をすればいいか、3,4か月ずーっと議論した。
明確な目的を作っていなかったから、全部私が悪いのだと思った。
B,Cリーグ憲章を作った。(2008年 暮れ)
①B,Cリーグは地域の子供達を地域と共に育てることが使命である。
②B,Cリーグは常に全力のプレーを行う事により、地域と地域の子供達に夢を与える。
③B,Cリーグは常にフェアプレーを行う事により、地域と地域の子供達に夢を与える。
④B,Cリーグは野球場の内外を問わず、地域と地域の子供達の規範と成る。
全ての試合目にB,Cリーグ憲章をアナウンスしてから、プレイボールをかける事に決めた。
私が一番変わったと思う。 B,Cリーグ憲章が全ての判断基準になった。
長髪、ひげ、茶髪、ユニホーム姿での喫煙、はない。
出場停止、そして重ねると解雇したりする。
私の家は4代続いた教師の家だったので、社会に貢献できるものは何だろうと思ったときに、社会の子供達をきちんと育てることによって、地域がもっと元気になる、子供達が住み易い環境を作ってやる事が、もっと社会が元気になる一番の源だと、おぼろげながら判っていたので、唯一野球が私の夢をかなえることなのかなあと、思います。
最近嬉しかったのは、ある高校野球の指導者がB,Cリーグの試合はとても高校野球児にとっても勉強になると言う事をおっしゃって頂いた。
私の手本はプロ野球ではなく、高校野球です。
眼を輝かせて、自分の夢の実現に向けて一生懸命やっている、これをプロ野球で実現したい。
B,Cリーグ憲章ができたから、選手の質が上がっている、と同時に、選手の就職口が一流企業からのオファーがたくさん来るようになった。
150人選手がいるが、プロ野球から来るのは多くて5人、残りは、企業から話がある。
この2,3年 選手の質が物凄く上がった。
今400人来て、入れるのは20人ぐらいになっている。
年俸も月15万円 6カ月契約 地元の企業から契約社員として働き、週に何回は合同トレーニングをしている。
ステップアップの場として来ていてくれる場所です。
ラミレス選手も入っている。 もう一度プロ野球に戻るチャンスの場でもある。
サッカーのJリーグ等も立ち上げ時からドンドン変わっていったが、日本のプロ野球は80年経って、12球団に成って55年経つが12球団のままで、Jリーグの様に野球で町を元気にしたいという、夢をかなえる場所でもあります。
野球は選手がやるが、主役は地域の方にしたい。
地元の合唱団が国歌斉唱したり、地元のブラスバンドが演奏したりドンドンやっています。
お祝い事を来場者皆で、お祝いしようと言う事もやっている。
震災後観客は厳しかったが、去年から観客が上向き始めて、観客動員が増えている。
24球団ぐらいになったら、日本のプロ野球も形を変えてくるのではないかと思う。
私が動けるのはあと10年だと思うので、そのくらいまでには何とか頑張りたいと思う。
新潟県出身49歳 小学校から大学まで野球に打ち込みました。
大学を卒業後、車のディーラーを経て広告代理店に入社、サッカーJIのアルビレックス新潟の仕事を手掛ける中で地域貢献に果た力に気付いたと言います。
2006年カ社を退職してプロ野球の設立に奔走、2007年に新潟、長野、石川、富山の4球団が参加する B,Cリーグを立ち上げました。
リーグにはその後群馬県福井県が参加、来年からは埼玉県、福島県のチームの加入が決まるなど広がりを見せています。
会社員の安定して生活を捨ててまで、立ち上げたプロ野球独立リーグ、何を目指すのか伺います。
プロ野球独立リーグ設立後、今年で8年目、あっという間の8年間だった。
辛かったことの方が凄く多かったと思います。
野球を通じて地域社会に貢献したいと思った。
日本のプロ野球 12球団があるが、そこには全く属していない新しいカテゴリーのプロ野球。
2005年 石毛さんが最初に作った四国アイランドリーグ 2つ目に出来たのが私たちのベースボールチャレンジリーグ、3つ目が関西でやっている、関西独立リーグ。
2007年に新潟、長野、石川、富山の4球団ではじまり、2008年 群馬県福井県が参加 来年から
埼玉県、福島県のチームが加入、8チームになる。
震災復興と言う事で福島県は物凄い気合いが入っているので楽しみにしています。
新潟の広告代理店に勤めていて、アルビレックス新潟の運営を手伝っていました。
町が元気になる事をサッカーから其れを教えてもらって、大きな衝撃を受けた。
其れを野球で実現できないかなあと思った。
1997年広告代理店に入ったが、そのころワールドカップが日本に来る、新潟で開催にエントリーする。
うねりの中にのっかってサポーターが増えていって、熱く応援する姿を見て、気付いたら、サポーターと一緒に跳びあがって応援していた。
町がアルビレックス新潟と言うもので物凄く元気になってゆく過程が自分自身で感じていて、その頃が一番凄かった。
アルビレックスの創始者の池田弘さんが私に突然呼び出しがあり、バスケットのB,Cリーグも池田さんが中心に作られて、日本を元気にしたが、其れに反して日本のプロ野球は一部の限られた首都圏の人しか楽しめない、地方でも楽しめるコンテンツとしてのプロ野球のビジネスモデルを作ってくれないかと、私に大きな課題を与えてくれた。
サッカーの仕事も、バスケットの仕事もやっていたので之に私がモデルを作って野球の仕事をさせてもらえれば広告代理店のサラリーマン人生も物凄く今後楽しいものになると思って引き受けた。モデルを3つ出したが、プロ野球独立リーグが一番いいということになり、あなたが社長になってやりなさいと言われて、本当に困った。
楽しかったので、広告代理店を辞める理由が何もなかったから。
辞めるという決断をするまで半年かかりました。
妻は取り合ってくれなかった。 最後は泣きながら説得して、ある意味騙したかもしれない。
家族の生活は絶対に守るからという事だったが、給料は半分になった。
最初、スポンサーを集めるのがうまくいかなかった。
私が出した事業モデルを他の人がやって成功するのと、私がやって失敗するのと、どっちが人生悔しいかと思った。
最後の最後に決断したのは、他の人がやって成功したらいやだと思った。
42歳の時だったから、そのように決断できたと思う。
2006年7月に4球団でスタートしなければいけないが、3球団しかなく、頓挫してしまう状況に追い込まれた時に、新潟県の水島正枝さんから手紙を頂いた。
自分の息子が糸魚川の球場で、急性心不全で倒れて亡くなってしまった。(プロ野球の選手になるのが夢だった)
新潟にはサッカー、バスケットのチームはあるが何故野球のチームはないのかとしていて、葬式の日に新聞を見たら、私の記事を見て、涙が止まりませんでしたと、みきと(9歳)のために是非実現させてくださいと、その手紙を読んで、其れが原動力になった。
AEDの普及活動をしている。
順調にはいかなかった。 特に資金集め 球団維持に1億5000万円 審判、記録員など年間1億円
諸々ふくめて7億円を必要としたが、物凄く厳しかった。
辛い事件が2008年7月にあって、デッドボール合戦、厳しいヤジが飛んで、ボールボーイを少年野球にやってもらって、終わった後野球教室をして帰ると言う事だったが、試合をみた指導者があなたがやっている野球なんかちっとも子供達の為にならない、野球を見るより練習をした方がましだと、もう二度と試合を見に来ない、と言われた。
子供達は泣き出してしまっていた、野球教室をキャンセルして帰ってしまった。
今まで何をしてきたんだろうと、後悔した。
表現する場所は野球場なので、地域の人から一生懸命やっているねと言われるはずだったのに、蓋を開けてみたら、あなたたちは地域の子供達の害だと言われた。
当時6球団の代表と、7人で何が悪い、どこに原因がある、何を改善をすればいいか、3,4か月ずーっと議論した。
明確な目的を作っていなかったから、全部私が悪いのだと思った。
B,Cリーグ憲章を作った。(2008年 暮れ)
①B,Cリーグは地域の子供達を地域と共に育てることが使命である。
②B,Cリーグは常に全力のプレーを行う事により、地域と地域の子供達に夢を与える。
③B,Cリーグは常にフェアプレーを行う事により、地域と地域の子供達に夢を与える。
④B,Cリーグは野球場の内外を問わず、地域と地域の子供達の規範と成る。
全ての試合目にB,Cリーグ憲章をアナウンスしてから、プレイボールをかける事に決めた。
私が一番変わったと思う。 B,Cリーグ憲章が全ての判断基準になった。
長髪、ひげ、茶髪、ユニホーム姿での喫煙、はない。
出場停止、そして重ねると解雇したりする。
私の家は4代続いた教師の家だったので、社会に貢献できるものは何だろうと思ったときに、社会の子供達をきちんと育てることによって、地域がもっと元気になる、子供達が住み易い環境を作ってやる事が、もっと社会が元気になる一番の源だと、おぼろげながら判っていたので、唯一野球が私の夢をかなえることなのかなあと、思います。
最近嬉しかったのは、ある高校野球の指導者がB,Cリーグの試合はとても高校野球児にとっても勉強になると言う事をおっしゃって頂いた。
私の手本はプロ野球ではなく、高校野球です。
眼を輝かせて、自分の夢の実現に向けて一生懸命やっている、これをプロ野球で実現したい。
B,Cリーグ憲章ができたから、選手の質が上がっている、と同時に、選手の就職口が一流企業からのオファーがたくさん来るようになった。
150人選手がいるが、プロ野球から来るのは多くて5人、残りは、企業から話がある。
この2,3年 選手の質が物凄く上がった。
今400人来て、入れるのは20人ぐらいになっている。
年俸も月15万円 6カ月契約 地元の企業から契約社員として働き、週に何回は合同トレーニングをしている。
ステップアップの場として来ていてくれる場所です。
ラミレス選手も入っている。 もう一度プロ野球に戻るチャンスの場でもある。
サッカーのJリーグ等も立ち上げ時からドンドン変わっていったが、日本のプロ野球は80年経って、12球団に成って55年経つが12球団のままで、Jリーグの様に野球で町を元気にしたいという、夢をかなえる場所でもあります。
野球は選手がやるが、主役は地域の方にしたい。
地元の合唱団が国歌斉唱したり、地元のブラスバンドが演奏したりドンドンやっています。
お祝い事を来場者皆で、お祝いしようと言う事もやっている。
震災後観客は厳しかったが、去年から観客が上向き始めて、観客動員が増えている。
24球団ぐらいになったら、日本のプロ野球も形を変えてくるのではないかと思う。
私が動けるのはあと10年だと思うので、そのくらいまでには何とか頑張りたいと思う。
2014年8月16日土曜日
大南信也(理事長) ・日本の田舎をステキに変える(再放送)
大南信也(NPOグリーンバレー理事長) 日本の田舎をステキに変える(再放送)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2014/06/blog-post_7.htmlをご覧ください。
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2014/06/blog-post_7.htmlをご覧ください。
2014年8月15日金曜日
相田一人(美術館・館長) ・あんちゃんの戦死とヒグラシの声
相田一人(相田みつお美術館・館長) あんちゃんの戦死とヒグラシの声
詩集「にんげんだもの」を出版された詩人で書家の相田みつおさんは平成3年に67歳の若さで、お亡くなりになりましたが、彼が残してくれた様々な心に響く言葉は時代を越えて多くの人たちに勇気と希望を与えてくれます。
独自の世界を切り開いた相田みつおさんを動かした原点は、戦争で亡くなった2人のお兄さんと深くかかわっているようです。
父がそういう体験を原点に持っていたことは、意外と知られていない。
その点をぬかしては父の作品世界は成立しないだろうと思っている。
1924年 大正13年栃木県足利市で生まれる。 平成3年に亡くなる。
兄が二人いる 父は6人兄弟の3男 兄とは歳の離れた兄弟だった。
父は集中して筆を取って書くわけですが、疲れてくると気分転換に渡良瀬川が流れていて、二人の子供の手を引いて、釣りをしていたが、その時に自分の子供時代の思い出を語り出していた。
兄と一緒によく釣りをしていた思い出を話してくれた。
兄たちに対して、尊敬、感謝していた。
祖父が、家紋の刺繍など 刺繍の職人だったらしい。
父の兄たちは家が貧しいために、学業は優秀だったが、進学をあきらめて刺繍の職人なる。
3人で働くようになって、多少豊かになって、父から言われ足利中学に進学するようになった。
戦争に兄 2人が行って、兄 ゆきおは僅かで中国語が堪能になって、憲兵に抜擢されて、北京大学の学生たちと仲良くなり、柔道を教えていたりしていた。
兄ゆきおの仕事は反日分子を密かに摘発する任務だったらしい。
兄ゆきおから父宛に手紙が来る。 読み終わったら処分するようにと記載されていた。
自分が今やっている仕事について書いてあって、調書を書くときに、学生が危険人物だと書いたとすると、翌朝裁判もなしに処刑されてしまう。
優秀な学生たちで有り、将来中国をしょって立つような人たちで、自分にも弟たちがいて、とてもじゃないが処刑できないと悩む、自分の所に連れてきた学生は、全部無罪釈放にした、と書いてあった。 軍規に違反しているわけです。
判れば処刑されるし、家族も非国民と言う事なってしまうので、内緒で弟のみつおにだけは知らせておきたいと手紙をよこした。
あの手紙は残しておきたかったとずーっと父は言っていた。
恐しくてその場で父は手紙を燃やした。
昭和16年8月30日 戦闘に巻き込まれて、銃撃戦のすえに、撃たれて亡くなる。
電文が家に届いて衝撃を受ける。
そのころから、生きること、死ぬことを真剣に考えるようになった、と父は言っている。
当時名誉の戦死 英霊になったと言う事で、祖母は毅然と弔問客に対して対応していたが、夜になると、勲章も名誉も何にも要らない、お前さえ生きていればよかったと、泣き叫んで、すさまじい嘆きだった。
長男 たけお も亡くなる。
詩 「3人分」
「3人分の力で頑張れば、どんな苦しみにも耐えられるはずだ。
3人分の力で踏ん張れば、どんなに険しい坂道でも越えられるはずだ。
3人分の力を合わせれば、どんなに激しい波風でも何とか乗り切れるはずだ。
そして3人分の力を合わせれば、少なくとも人並みぐらいの仕事は出来るはずだ。
例え私の力は弱くても。
苦しい事ににぶつかるたびに、私はいつも心の中で そう呟いてきました。
3人分とは 一人は勿論 この自分。 気の小さい、力の弱い だらしのない この私の事。
後の二人は戦争で死んだ二人の兄たちの事。
豊かな才能と体力に恵まれながら戦争のために若くして死んでいった二人のあんちゃんの事。
学問への志を果たすこともなく 人並みの恋の話すら咲かすこともなく、青春の硬いつぼみのままでしんでいった二人のあんちゃんの事です。
私の仕事はいつもこの二人のあんちゃんと一緒。
だから私の仕事は3人分で一つです。
二人のあんちゃんはいつも私の胸の中に生き続けてきました。
戦争が終わってすでに38年。 ずっと私の胸の中に生きてきました。
これからもそうです、私が生きている限りそうです。
そうでなければ、戦争のために自分の死とは全く関わりなく死んでいった、肉親の魂は浮かばれませんから」
父は何かと言うとおじさん達の話をする。 身直にいる様な感覚を持っていた。
父は人間の強い面、弱い面 両方含めて人間を肯定する立場だった。
弱い面を平気で晒し出す人だった。
30歳ぐらいから独特の書体で書き始めた。
10代から本格的に書を始めて、20代はいろんなコンクールに入選。
父は書家であると同時に詩人、で有るので、自作自演
「つまずいたって良いじゃないか にんげんだもの」 自分の想いを伝えるために、詩に合わせて独特な文字を作り上げていったのではないかと思う。
父が筆を取っている時は、周辺の空気がびりびりしていたので、子供心にそばに行ってはいけないんだと思いました。
文字の変遷はそばに居ながら判らない。
失敗の紙の山がたくさんあった。
(書の表現で、相手の心に食い込むようなそういう表現て、いったい何なんだろうな と思います)
どんなに詩なり短歌に感動しても、作った人の感動と、自分の感動とは一致しない。
言葉と書の間に隙間ができてしまう、嘘が交じってしまう、 自分で作ったもので有れば、書との間に隙間、嘘がない。
それが見る方に 強い印象を与えるのではないかと思う。
書の余白 大きな紙に書いて、トリミングをするが、mm単位で行っていた。
言葉の余白にも気を使って、全てを表現しないで、見る方に自由に解釈を委ねる。
そういったものが一体となって更に見る人にアピールしていくのだと思います。
「夢はでっかく 根は深く」 逆方向(上と下)のものが一つの作品に纏められている。
「幸せはいつも自分の心が決める」 この言葉に辿り着くには凄い時間がかかっている。
「道は自分で作る 道は自分で開く 人の作った道は自分の道にはならない」
「自分にとって一番大切なものは自分の命なんだよ だから全ての他人の命が皆大切なんだよ」
「どんな理屈をつけても戦争は嫌だな 肉親二人 私は戦争で失っているから」
肉親を失った眼から戦争を振り返ると、大変悲惨だった。
(人の痛みの判る人、其れを強く感じる こんな人がいっぱいいてくれたらと思ったりするが)
憂い 今の時代はあまり聞かれなくなったが、相手の悲しみ、苦しみが判る人が「憂い」を持っている人、其れが優しい人なんだと父は言っていました。
ゆきおあんちゃん(次兄) 優しい人だった。
たけおあんちゃん(長兄) 厳しい人だった。
次兄は心臓に銃弾を浴びて即死だったと思われて、其れが祖母にとっては苦しまずに済んでくれたのでせめてもの心のよりどころになっていたが、戦友から手紙が来て、心臓から少し外れて、苦しんで2時間後に亡くなったとの事だった。
2時間の間にいろんなことを話したようで、最後に言った言葉が「戦争と言うものは、人間の作る最大の罪悪だなあ」といって24歳で亡くなった。
相田みつおは命の詩人と言われるが、原点になったんだろうなと考えて良いのでは。
「ひぐらし」 詩 (挽歌)
「ヒグラシの声 あー今年もヒグラシが鳴きだした。
ヒグラシの声は若くして戦争で死んだ二人のあんちゃんの声だ。
そして二人のあんちゃんの名を死ぬで呼び続けていた悲しい母の声だ。
そしてまた ふたりのあんちゃんの事には一言も触れず、黙って死んでいった寂しい父の声だ。
あー今年もヒグラシが鳴きだした。」
祖父は二人の死に関しては、一言も話さなかったが余りにもショックだったために、言葉に出す事ができなかった、と思う。
戦争は二度と起こしてはいけないと思う。
繰り返し繰り返し語り継がないといけないと思う。
美術館に訪れる人が、人間の命の大切さ尊さを、ちょっとでも感じて頂ければ嬉しいと思います。
詩集「にんげんだもの」を出版された詩人で書家の相田みつおさんは平成3年に67歳の若さで、お亡くなりになりましたが、彼が残してくれた様々な心に響く言葉は時代を越えて多くの人たちに勇気と希望を与えてくれます。
独自の世界を切り開いた相田みつおさんを動かした原点は、戦争で亡くなった2人のお兄さんと深くかかわっているようです。
父がそういう体験を原点に持っていたことは、意外と知られていない。
その点をぬかしては父の作品世界は成立しないだろうと思っている。
1924年 大正13年栃木県足利市で生まれる。 平成3年に亡くなる。
兄が二人いる 父は6人兄弟の3男 兄とは歳の離れた兄弟だった。
父は集中して筆を取って書くわけですが、疲れてくると気分転換に渡良瀬川が流れていて、二人の子供の手を引いて、釣りをしていたが、その時に自分の子供時代の思い出を語り出していた。
兄と一緒によく釣りをしていた思い出を話してくれた。
兄たちに対して、尊敬、感謝していた。
祖父が、家紋の刺繍など 刺繍の職人だったらしい。
父の兄たちは家が貧しいために、学業は優秀だったが、進学をあきらめて刺繍の職人なる。
3人で働くようになって、多少豊かになって、父から言われ足利中学に進学するようになった。
戦争に兄 2人が行って、兄 ゆきおは僅かで中国語が堪能になって、憲兵に抜擢されて、北京大学の学生たちと仲良くなり、柔道を教えていたりしていた。
兄ゆきおの仕事は反日分子を密かに摘発する任務だったらしい。
兄ゆきおから父宛に手紙が来る。 読み終わったら処分するようにと記載されていた。
自分が今やっている仕事について書いてあって、調書を書くときに、学生が危険人物だと書いたとすると、翌朝裁判もなしに処刑されてしまう。
優秀な学生たちで有り、将来中国をしょって立つような人たちで、自分にも弟たちがいて、とてもじゃないが処刑できないと悩む、自分の所に連れてきた学生は、全部無罪釈放にした、と書いてあった。 軍規に違反しているわけです。
判れば処刑されるし、家族も非国民と言う事なってしまうので、内緒で弟のみつおにだけは知らせておきたいと手紙をよこした。
あの手紙は残しておきたかったとずーっと父は言っていた。
恐しくてその場で父は手紙を燃やした。
昭和16年8月30日 戦闘に巻き込まれて、銃撃戦のすえに、撃たれて亡くなる。
電文が家に届いて衝撃を受ける。
そのころから、生きること、死ぬことを真剣に考えるようになった、と父は言っている。
当時名誉の戦死 英霊になったと言う事で、祖母は毅然と弔問客に対して対応していたが、夜になると、勲章も名誉も何にも要らない、お前さえ生きていればよかったと、泣き叫んで、すさまじい嘆きだった。
長男 たけお も亡くなる。
詩 「3人分」
「3人分の力で頑張れば、どんな苦しみにも耐えられるはずだ。
3人分の力で踏ん張れば、どんなに険しい坂道でも越えられるはずだ。
3人分の力を合わせれば、どんなに激しい波風でも何とか乗り切れるはずだ。
そして3人分の力を合わせれば、少なくとも人並みぐらいの仕事は出来るはずだ。
例え私の力は弱くても。
苦しい事ににぶつかるたびに、私はいつも心の中で そう呟いてきました。
3人分とは 一人は勿論 この自分。 気の小さい、力の弱い だらしのない この私の事。
後の二人は戦争で死んだ二人の兄たちの事。
豊かな才能と体力に恵まれながら戦争のために若くして死んでいった二人のあんちゃんの事。
学問への志を果たすこともなく 人並みの恋の話すら咲かすこともなく、青春の硬いつぼみのままでしんでいった二人のあんちゃんの事です。
私の仕事はいつもこの二人のあんちゃんと一緒。
だから私の仕事は3人分で一つです。
二人のあんちゃんはいつも私の胸の中に生き続けてきました。
戦争が終わってすでに38年。 ずっと私の胸の中に生きてきました。
これからもそうです、私が生きている限りそうです。
そうでなければ、戦争のために自分の死とは全く関わりなく死んでいった、肉親の魂は浮かばれませんから」
父は何かと言うとおじさん達の話をする。 身直にいる様な感覚を持っていた。
父は人間の強い面、弱い面 両方含めて人間を肯定する立場だった。
弱い面を平気で晒し出す人だった。
30歳ぐらいから独特の書体で書き始めた。
10代から本格的に書を始めて、20代はいろんなコンクールに入選。
父は書家であると同時に詩人、で有るので、自作自演
「つまずいたって良いじゃないか にんげんだもの」 自分の想いを伝えるために、詩に合わせて独特な文字を作り上げていったのではないかと思う。
父が筆を取っている時は、周辺の空気がびりびりしていたので、子供心にそばに行ってはいけないんだと思いました。
文字の変遷はそばに居ながら判らない。
失敗の紙の山がたくさんあった。
(書の表現で、相手の心に食い込むようなそういう表現て、いったい何なんだろうな と思います)
どんなに詩なり短歌に感動しても、作った人の感動と、自分の感動とは一致しない。
言葉と書の間に隙間ができてしまう、嘘が交じってしまう、 自分で作ったもので有れば、書との間に隙間、嘘がない。
それが見る方に 強い印象を与えるのではないかと思う。
書の余白 大きな紙に書いて、トリミングをするが、mm単位で行っていた。
言葉の余白にも気を使って、全てを表現しないで、見る方に自由に解釈を委ねる。
そういったものが一体となって更に見る人にアピールしていくのだと思います。
「夢はでっかく 根は深く」 逆方向(上と下)のものが一つの作品に纏められている。
「幸せはいつも自分の心が決める」 この言葉に辿り着くには凄い時間がかかっている。
「道は自分で作る 道は自分で開く 人の作った道は自分の道にはならない」
「自分にとって一番大切なものは自分の命なんだよ だから全ての他人の命が皆大切なんだよ」
「どんな理屈をつけても戦争は嫌だな 肉親二人 私は戦争で失っているから」
肉親を失った眼から戦争を振り返ると、大変悲惨だった。
(人の痛みの判る人、其れを強く感じる こんな人がいっぱいいてくれたらと思ったりするが)
憂い 今の時代はあまり聞かれなくなったが、相手の悲しみ、苦しみが判る人が「憂い」を持っている人、其れが優しい人なんだと父は言っていました。
ゆきおあんちゃん(次兄) 優しい人だった。
たけおあんちゃん(長兄) 厳しい人だった。
次兄は心臓に銃弾を浴びて即死だったと思われて、其れが祖母にとっては苦しまずに済んでくれたのでせめてもの心のよりどころになっていたが、戦友から手紙が来て、心臓から少し外れて、苦しんで2時間後に亡くなったとの事だった。
2時間の間にいろんなことを話したようで、最後に言った言葉が「戦争と言うものは、人間の作る最大の罪悪だなあ」といって24歳で亡くなった。
相田みつおは命の詩人と言われるが、原点になったんだろうなと考えて良いのでは。
「ひぐらし」 詩 (挽歌)
「ヒグラシの声 あー今年もヒグラシが鳴きだした。
ヒグラシの声は若くして戦争で死んだ二人のあんちゃんの声だ。
そして二人のあんちゃんの名を死ぬで呼び続けていた悲しい母の声だ。
そしてまた ふたりのあんちゃんの事には一言も触れず、黙って死んでいった寂しい父の声だ。
あー今年もヒグラシが鳴きだした。」
祖父は二人の死に関しては、一言も話さなかったが余りにもショックだったために、言葉に出す事ができなかった、と思う。
戦争は二度と起こしてはいけないと思う。
繰り返し繰り返し語り継がないといけないと思う。
美術館に訪れる人が、人間の命の大切さ尊さを、ちょっとでも感じて頂ければ嬉しいと思います。
登録:
投稿 (Atom)