2014年8月17日日曜日

村山哲二(B・Cリーグ代表)   ・独立リーグにかける私の夢

村山哲二(プロ野球独立リーグB・Cリーグ代表)  独立リーグにかける私の夢
新潟県出身49歳 小学校から大学まで野球に打ち込みました。
大学を卒業後、車のディーラーを経て広告代理店に入社、サッカーJIのアルビレックス新潟の仕事を手掛ける中で地域貢献に果た力に気付いたと言います。
2006年カ社を退職してプロ野球の設立に奔走、2007年に新潟、長野、石川、富山の4球団が参加する B,Cリーグを立ち上げました。
リーグにはその後群馬県福井県が参加、来年からは埼玉県、福島県のチームの加入が決まるなど広がりを見せています。
会社員の安定して生活を捨ててまで、立ち上げたプロ野球独立リーグ、何を目指すのか伺います。

プロ野球独立リーグ設立後、今年で8年目、あっという間の8年間だった。
辛かったことの方が凄く多かったと思います。
野球を通じて地域社会に貢献したいと思った。
日本のプロ野球 12球団があるが、そこには全く属していない新しいカテゴリーのプロ野球。
2005年 石毛さんが最初に作った四国アイランドリーグ 2つ目に出来たのが私たちのベースボールチャレンジリーグ、3つ目が関西でやっている、関西独立リーグ。
2007年に新潟、長野、石川、富山の4球団ではじまり、2008年 群馬県福井県が参加 来年から
埼玉県、福島県のチームが加入、8チームになる。
震災復興と言う事で福島県は物凄い気合いが入っているので楽しみにしています。

新潟の広告代理店に勤めていて、アルビレックス新潟の運営を手伝っていました。
町が元気になる事をサッカーから其れを教えてもらって、大きな衝撃を受けた。
其れを野球で実現できないかなあと思った。
1997年広告代理店に入ったが、そのころワールドカップが日本に来る、新潟で開催にエントリーする。
うねりの中にのっかってサポーターが増えていって、熱く応援する姿を見て、気付いたら、サポーターと一緒に跳びあがって応援していた。
町がアルビレックス新潟と言うもので物凄く元気になってゆく過程が自分自身で感じていて、その頃が一番凄かった。
アルビレックスの創始者の池田弘さんが私に突然呼び出しがあり、バスケットのB,Cリーグも池田さんが中心に作られて、日本を元気にしたが、其れに反して日本のプロ野球は一部の限られた首都圏の人しか楽しめない、地方でも楽しめるコンテンツとしてのプロ野球のビジネスモデルを作ってくれないかと、私に大きな課題を与えてくれた。

サッカーの仕事も、バスケットの仕事もやっていたので之に私がモデルを作って野球の仕事をさせてもらえれば広告代理店のサラリーマン人生も物凄く今後楽しいものになると思って引き受けた。モデルを3つ出したが、プロ野球独立リーグが一番いいということになり、あなたが社長になってやりなさいと言われて、本当に困った。
楽しかったので、広告代理店を辞める理由が何もなかったから。
辞めるという決断をするまで半年かかりました。
妻は取り合ってくれなかった。 最後は泣きながら説得して、ある意味騙したかもしれない。
家族の生活は絶対に守るからという事だったが、給料は半分になった。
最初、スポンサーを集めるのがうまくいかなかった。

私が出した事業モデルを他の人がやって成功するのと、私がやって失敗するのと、どっちが人生悔しいかと思った。
最後の最後に決断したのは、他の人がやって成功したらいやだと思った。
42歳の時だったから、そのように決断できたと思う。
2006年7月に4球団でスタートしなければいけないが、3球団しかなく、頓挫してしまう状況に追い込まれた時に、新潟県の水島正枝さんから手紙を頂いた。
自分の息子が糸魚川の球場で、急性心不全で倒れて亡くなってしまった。(プロ野球の選手になるのが夢だった)
新潟にはサッカー、バスケットのチームはあるが何故野球のチームはないのかとしていて、葬式の日に新聞を見たら、私の記事を見て、涙が止まりませんでしたと、みきと(9歳)のために是非実現させてくださいと、その手紙を読んで、其れが原動力になった。
AEDの普及活動をしている。

順調にはいかなかった。 特に資金集め 球団維持に1億5000万円 審判、記録員など年間1億円
諸々ふくめて7億円を必要としたが、物凄く厳しかった。
辛い事件が2008年7月にあって、デッドボール合戦、厳しいヤジが飛んで、ボールボーイを少年野球にやってもらって、終わった後野球教室をして帰ると言う事だったが、試合をみた指導者があなたがやっている野球なんかちっとも子供達の為にならない、野球を見るより練習をした方がましだと、もう二度と試合を見に来ない、と言われた。
子供達は泣き出してしまっていた、野球教室をキャンセルして帰ってしまった。
今まで何をしてきたんだろうと、後悔した。
表現する場所は野球場なので、地域の人から一生懸命やっているねと言われるはずだったのに、蓋を開けてみたら、あなたたちは地域の子供達の害だと言われた。

当時6球団の代表と、7人で何が悪い、どこに原因がある、何を改善をすればいいか、3,4か月ずーっと議論した。
明確な目的を作っていなかったから、全部私が悪いのだと思った。
B,Cリーグ憲章を作った。(2008年 暮れ)
①B,Cリーグは地域の子供達を地域と共に育てることが使命である。
②B,Cリーグは常に全力のプレーを行う事により、地域と地域の子供達に夢を与える。
③B,Cリーグは常にフェアプレーを行う事により、地域と地域の子供達に夢を与える。
④B,Cリーグは野球場の内外を問わず、地域と地域の子供達の規範と成る。
全ての試合目にB,Cリーグ憲章をアナウンスしてから、プレイボールをかける事に決めた。
私が一番変わったと思う。  B,Cリーグ憲章が全ての判断基準になった。

長髪、ひげ、茶髪、ユニホーム姿での喫煙、はない。
出場停止、そして重ねると解雇したりする。
私の家は4代続いた教師の家だったので、社会に貢献できるものは何だろうと思ったときに、社会の子供達をきちんと育てることによって、地域がもっと元気になる、子供達が住み易い環境を作ってやる事が、もっと社会が元気になる一番の源だと、おぼろげながら判っていたので、唯一野球が私の夢をかなえることなのかなあと、思います。
最近嬉しかったのは、ある高校野球の指導者がB,Cリーグの試合はとても高校野球児にとっても勉強になると言う事をおっしゃって頂いた。
私の手本はプロ野球ではなく、高校野球です。
眼を輝かせて、自分の夢の実現に向けて一生懸命やっている、これをプロ野球で実現したい。

B,Cリーグ憲章ができたから、選手の質が上がっている、と同時に、選手の就職口が一流企業からのオファーがたくさん来るようになった。
150人選手がいるが、プロ野球から来るのは多くて5人、残りは、企業から話がある。
この2,3年 選手の質が物凄く上がった。
今400人来て、入れるのは20人ぐらいになっている。
年俸も月15万円 6カ月契約 地元の企業から契約社員として働き、週に何回は合同トレーニングをしている。
ステップアップの場として来ていてくれる場所です。
ラミレス選手も入っている。  もう一度プロ野球に戻るチャンスの場でもある。
サッカーのJリーグ等も立ち上げ時からドンドン変わっていったが、日本のプロ野球は80年経って、12球団に成って55年経つが12球団のままで、Jリーグの様に野球で町を元気にしたいという、夢をかなえる場所でもあります。

野球は選手がやるが、主役は地域の方にしたい。 
地元の合唱団が国歌斉唱したり、地元のブラスバンドが演奏したりドンドンやっています。
お祝い事を来場者皆で、お祝いしようと言う事もやっている。
震災後観客は厳しかったが、去年から観客が上向き始めて、観客動員が増えている。
24球団ぐらいになったら、日本のプロ野球も形を変えてくるのではないかと思う。
私が動けるのはあと10年だと思うので、そのくらいまでには何とか頑張りたいと思う。