2014年8月30日土曜日

岡本信人(俳優)         ・私の原点、萩の歴史と自然に育まれて

岡本信人(俳優)    私の原点、萩の歴史と自然に育まれて
昭和23年山口県岩国市生まれ 少年時代萩の自然の中で育つ。 俳優として「肝っ玉かあさん」や
「渡る世間は鬼ばかり」など多数のドラマに出演、最近では趣味の野草の知識の豊富さでも知られています。
萩の歴史や自然が原点という岡本さんの岡本流俳優人生をお聞きください。

「花燃ゆ」 来年の大河ドラマ。 萩が舞台となる。
萩城下町、萩反射炉等が世界文化遺産の登録を目指している。
昨年萩故郷大使に任命されました。
2年前、番組で萩を紹介した。  
明治維新で活躍した長州の志士のゆかりの地を辿ると言う番組。
関ヶ原の戦いで敗れた毛利家はこの恨みを忘れてはいけないと、江戸時代を通して、幕府のある江戸の方に足を向けて寝たという、いい伝えがあると聞きましたが、明治維新はその延長線上に有ったと思いました。
松陰神社は家が近かったのでよく遊びました。

2歳の時に父が肺結核で山口市に入院したので、山口市に暮らして、萩で手術をすることになり、萩に引っ越した。 小学3年~6年までだが最も思い出深いところです。
小学校時代に自然に興味を持ってそれ以来続いています。
松陰先生、松陰読本は小学校で習ったがよく覚えている。
昭和34年に当時の明倫小学校の先生方が編集された初版本で、習いました。
松陰先生が多くの門下生に影響を与えて、国のためを思って行動したのがおぼろげに判りました。
この小さな長州から近代日本の礎となる人物と成る多く輩出したことに誇りを感じますね。
20代の時にドラマでご一緒して、児玉清さんとずーと親しくしていただいて、クイズ番組で松下村塾を開いたのはだれか、言う問題、回答者は間違えた。
信人なら何と答えると言ったら、玉木 文之進 と答えたら、そうだとの事。松陰読本で習った。
NHK大河ドラマ「花神」の金子 重之輔を演じる。

明倫小学校は当時3000人いて、大運動会があり、明倫小学校ならではと思った。
町のお祭りも思い出深い。 時代祭りは壮観でした。
父は再発して、2度、3度手術をして闘病生活を余儀なくされて、生活が苦しくて、母は働きながら父の付き添いをするようになった。
家の近くに、春になると用水路の両脇に野草が群生して、料理されて家の食卓に並びました。
つくし、ヨモギなどを私も野原に出て、取ってきて渡しました。
擦り傷にはよもぎを揉んでつければいいと、教わっていた。

毒草なども教わっていた。
釣りもやったり、昆虫を取ったり、秋になると木の実を取ったりしていた。
生き物に触れて命を知りましたし、遊びながら人に対する思いやり、人の痛みを感じる気持ちが芽生えたと思います。
近所には子供をしかる大人たちがいました。 地域に守られていたと思います。
最近子供達は外で遊ばなくなってしまったが、外で遊んでほしいと思う。
人と触れ合いながら人間関係を築いてってほしいと思います。

野草を食べたり、さやで笛にしたりして遊んだりしました。
野草が暮らしの中に在り、今も野草と付き合います。
父の体がよくなって、横浜に行く事になる。
遊ぶところもなく、学校でも、家の近くでもいつも一人でポツンとしていた。
その1年半後東京に行く事になる。(借りてきた猫の様だった)
父が心配して、新聞に出ていた児童劇団に応募して、入団テストを受けるようにと言われた。
今の自分を何とかしたいとの思いもあり、テストを受ける事にする。
合格通知が来て入団する。(昭和36年 13歳の終わりころ)
一生懸命やっているうちに楽しくなって、気がついたらそこが自分の居場所になっていた。
その他大勢の役をやるようになる。

劇団からオーディションに行くように言われて、NHKのリハーサルにいくが20名ぐらい集まる。
台本を渡されて、最初が私で半分を読まないうちに、次の方と言われてしまう。(棒読みだった)
又機会があり、今度は感情を込めて読んだら、見事合格した。
NHKの「あすをつげる鐘」 少年福沢諭吉 昭和38年 福沢諭吉の友だちとしてデビュー。
TV、映画に出演するようになるが、高校2年の終わりころ、父が劇団をやめて大学へいって建築家になれと言う事だった。
一生の仕事にするなら芝居をやるよりも建築家になる方がいいのかなと、劇団をやめて、勉強に専念していたら、かつてのドラマの作家の先生から電話があり、事務所を立ち上げるので来ないかと言われて即断してOKした。
宮田達夫先生がいなかったら、今の私はこうして俳優としては存在してはいない。

石井ふく子プロデューサー 「肝っ玉かあさん」 石井先生との出会いがあり私の人生を決定したと思う。
その後、TBSの色々なホームドラマ45年に渡って出演してきた。
昭和45年に大学を卒業して、同時に俳優になることを決心する。
市川昆監督から「吾輩は猫である」の寒月をやってほしいと言われて、感激した。
前田洋一監督から「坊っちゃん」をやるのでうらなりをやってほしいとの要請があり、出演する。
その後、色々な映画にも参加させてもらった。
多摩川の土手につくしがはえていて、夢中になって取って、料理したがまずかった。
はかまを取ってなくて、あくも抜かなかったためと、母から言われた。
それがきっかけで図鑑を調べて、レパートリーを広げていった。
東京で目にする野草、200種、そのうち70種をたべて、旨かったのは30種ぐらいだった。
50歳の時に「道草を食う」を出版する。

最近は野草を通じて、珍しい光景をリポートする番組に出演して、地方へ行った時に野草をてんぷらにして子供達に食べてもらうが、美味しい美味しいと言って、自分の子供の時と変わらないなと思った。
野草の種が風に吹かれて、地に根付く様に私も何とか置かれたところで、何とかなじむように悪戦苦闘しましたが、そんな中でいろいろ出会いがあり、助けられ、導かれてきました。
くじけそうになった時は萩の野生人の自分を思いだして、自分らしく生きようと思った。
萩があって今の自分があると思います。