2014年8月13日水曜日

水澤心吾(俳優)         ・一人芝居で伝えたい、外交官・杉原千畝の心

水澤心吾(俳優)    一人芝居で伝えたい、外交官・杉原千畝の心
昭和25年滋賀県生まれ 高校卒業後上京し、劇団俳小に入団しました。
1977年[天守物語]
の坂東玉三郎の相手役にオーディションで選ばれ、本格的に俳優の道を歩み始めました。
その後NHKの連続TV小説「わたしは海」のヒロインの相手役を演じるなど広くTV、映画、舞台で活躍しましたが、30代後半でスランプに陥り、41歳で俳優の仕事を辞め、心理学を学びました。
13年後に舞台に復帰し、2007年10月からは一人芝居、「決断 命のビザ」を演じ続けています。
第二次世界大戦中、リトアニアで亡命を求めるユダヤ避難民に日本通過を許可するビザ発給し、ユダヤ人6000人の命を救った外交官・杉浦千畝の生き方を描いたものです。
水澤さんは杉原千畝の決断と行動に強く惹かれ、俳優としての使命感のあるものを演じたいとしています。
杉原千畝の生き方を一人でも多くの人に伝えたいと、1000回の公演を目指している水澤さんに伺います。

公演は190回を越えた。  目標は1000回。
最初は強い思いだけだった。  成長させてもらっていると思っている。(水澤さんの一人舞台)
お客様に想像して頂いて、芝居に参加して下されば、と言うのがシンプルになったひとつですね。
(ドイツが残虐行為をユダヤ人に対しておこなったこと、そしてユダヤ人が逃げてきて、杉原千畝に助けを求める5人の代表と話を行う事になる、冒頭の舞台の状況が流れる。)
28年後に5人のうちの一人と杉原千畝は再会する。

高校卒業後歌手の道に行こうと思っていた。
歌はうまくないし、注目されたいと言う想いが強かった。
一生続けられる仕事は無いかなあと思っていたときに、浮かんだのが俳優で、俳優の道に進もうと思った。  滑り出しは順調だった。
天守物語の坂東玉三郎の相手役のオーディションに応募して、相手役をやり俳優の道に本格的に進む。
20代の半ばから、TVに出させていただいて、大きな舞台に出させていただいて、
30歳で主演映画に出させてもらったが、31歳を過ぎて仕事も無くなってきて、お金もなくなり、人間関係も壊れてゆくと言う様な体験の30代なかばだった。
40歳の時「ふぞろいの林檎たち」パート3 でTVドラマに参加、しかし其れを見て愕然とした。
弟に生き方、意見をしてゆく長いシーンがあって、其れを見ていて、何故か役者辞めた、と思った。
俺に愛があるんだろうか、演技に情熱があるんだろうかと、思いが来て、辞めたと決めた。
自分の心を映し出していると思った。(今見ると元気にやっていると思うが)

尊敬する先生がいたので、ハワイに渡って、心理学を学ぶ事にしました。(41歳)
一遍、自分と言うものを見直そうと思うのが、目的だった。
心理学の深さを演技に用いていったら、すごい役者になるのではないかと勝手に思った。
54歳で舞台に復帰する。
大きな舞台に出演させてもらって生活も安定したが、何か物足りなさを感じた。
60歳を前にしていた時に、この方向性が自分の生き方だろうかと思い始めた。
使命感を感じるもの、もっと芝居を通して人にどんな貢献をしているのだろうか、と考えた時期だった。
オーストラリアに4カ月ほどいた時に、散歩していて、中国の映画が世界的にヒットしていた時だった。
日本の作品で、世界に見て頂ける様な作品は無いかと、思いながら、散歩していた。
杉原千畝に関するNHKの番組、その他の局の番組で杉原千畝を演じてみたいと思う様になった。
杉原千畝は寡黙な方、でも心の葛藤と言うのはすさまじいものがあったと思うので、杉原千畝の心の声、心の叫びを表現したいと言うのが始まりだった。
その為には一人芝居、どう表現したらいいか判らず、最初は朗読をした。(渡辺勝正さんの作品)
それからアクションが加わった。 しゃべることは朗読とほとんど変わっていない。
脚本家は杉本美鈴さん。
私は一人芝居をいろんな役になるよりも、一人称でずーと表現できたらと思っている。
2007年10月に一人芝居をやるが、最初20数人だったと思う。

恐かった、セリフを一行言うたびに、今から朗読にしたいんですがと言う思いが頭半部かすめながら、一行一行なんとか言っているうちに最後まで来た。
190回になると、セリフと表現自体は変わっていないが、自分の中が変わってきた。
杉原千畝のやったことに対しては自分にはできないと言う事があったが、何故この人にはできたんだろうと、それを知りたいというのが大きな動機でした。
常に、私にはできないと言うのが、今でもあります。
1000回やり続ければ何故杉原氏はビザを出したのか、水澤心吾もやっと出せた、その辺まで到達できたらなと、そういう目標は有りますね。

杉原千畝は外務省を解雇される。
名誉回復まで半世紀かかっている。
1968年 28年経って元避難民 、新生イスラエルの参事官となっていたニシュリさんと再会する。 
ぼろぼろのビザを持ってきた。
イスラエルからは、杉原千畝はその後ヤド・バシェム賞」 表彰される。
(水澤氏自身も2008年12月にエレノア・ルーズベルト賞を受賞。)
一人芝居を開始してから、1年後だった。
ロサンゼルスで一人芝居を行って、海外の方が杉原千畝を重く受け取っていますね。
「決断 命のビザ」を演じ、無条件の愛はどこから来るんだろう、と言う事にぶち当たって、無条件の愛とは何なんだろうと、また追求したくなり、無条件の愛とは何なんだろうと言う事を追求させていただく事が私自身を非常に成長させて頂いていると感じる。

どう生きたらいいのかとか、生きる力はどこから来るのか、回数を重ねているうちにテーマになって、それを少しでも感じたり、少しでも見つけることが出来たら、お客様に対して少しでもお役にたてる存在になるのではないかと思いがあり、知りたいし、掴みたいし、もし具体的につかめたら、それが私の希望です。
結局希望がほしかった。
今この作品を通して、人様に希望を持ってもらったら、と言う事がテーマになってきた。
現在64歳、杉原千畝は86歳まで生きたので、そこまでは生きて、できれば1000回を達成したい。
私は希望をこの作品から頂いたので、今度は見てくださる方に受け取ってもらえたらと思います。