佐藤朝代(けやの森保育園・園長) 園児が富士山頂に立てるまで
埼玉県狭山市のけやの森保育園では、自然の中で幼児教育を行っています。
この教育方針は去年の埼玉環境省県民部門を受賞しています。
園の始まりは、37年前佐藤朝代さんが夫と共に始めた、生きる力を育む自然の教育を理念とする幼児教育でした。
19年前、佐藤園長は其れまで自然体験活動の一環としてやってきた、2泊3日の独り立ちキャンプを今年行いますと呼びかけ、猛反対を受けながらも万全のスタッフ体制を取ることと、予測されるあらゆる場面を想定したシュミレーションで、父母を説得して保育園の富士登山は始まりました。
その後富士山の環境汚染が激しくなり、やむなく5年間休止しましたが、今度は保護者から復活要望が起こり、2006年から再開、3400m地点をゴールとするグループと、山頂を目指すグル―プに分けられ、園児たちの富士登山は毎年続けられています。
これまで起きた想定外の出来事、その経験を積み重ねた結果でき上ったスタッフ構成、そして保育園の3年間を通じて行われる園児の自然体験教育について伺います。
下見に保護者と共に先日富士山に出かけたが、天候の急変を体験してもらって大変良かったです。
言語、造形、リズムの時間とかに区切られて勉強すると言うのが一般的でしたので、野山へ行ったり、畑をしたりと言う事はその時代は少なかった。
自分でも小さな子供がいたときなので、子供を育てながら、主人とどういう理念にしようとか活動をどうしようかとか、よく話し合ったものですが、当時の固められた教育で良いんだろうか、と疑問があって、子供らしさを発揮して生活するところがあった方がいいのではないかと感じた。
山に登らせたりスキーをやらせたり、色々実験をしました。
責任がかかってくるのでやらないほうがいいのではないかと、言う助言は頂きました。
手間、お金がかかるが、若かったので、主人が進めと言った様な感じで始めました。
一緒にやっているうちに、子供の方がちゃんとやっていることに気付きだしました。
疲れると歩かなくなって立ちん棒になってしまう。 判りやすくてよかった。
自然の生活の中で、注意してあげないといけない子とか、判りやすくなる。
守らなくてはいけない事、頑張らなくてはいけない事が、そういう場に置かれると子供自身が物凄く能力を発揮する。
天候が変化する時になると、濡れても何でも子供に対して夢中になってやると、先生を信頼をする。
富士登山を復活してほしいとの要望があり、歳を取ってきたし、無理だと言ったが、あのいいプログラムをやらない手はないだろうと言われて、渋々やることになった。
7合目までゆくが、その先は3400m、9合目まで、山頂までいくもの、自分で予測して決断する。
多くの子供は頂上まで行きたがるが、もう精一杯とか、行ける所まで行くとか、色々あるので、その希望を踏まえて、判断して班を編成する。
富士登山再開を要望した子は8合目で足が痛いと言う事で、(成長して半年後に靴が足に対して小さくなってしまっていた)、靴ずれ、説得したがじっと私の目を見て、嫌だと言う。
根負けして、行くんだったら最後まで頑張るんですよと言ったら、とうとう最後まで登った。
1995年が富士登山の最初、其れまでは秩父の山に行っていた。
当時12名しかいなくて、子供達は難なくこなした。
或るとき、天候が悪くて、むしむししていて、どこが頂上か、聞いてきて、苦しみをあたえるんだったら、頂上にいって登ってよかったとさせてやりたいと思っていたが、その年はいい景色は見られず、ぐちゃぐちゃした道を歩くだけだった。
子供達に申し訳ないようなことをしてしまったと思い、場所を変えようとしていた。
卒園生達のコースも一緒に行っていたが、色々な山に行ったので、最後富士山をやろうという事になり、富士山をやろうと言う事になり、幼稚園も一緒にやろうと言う事になり、父兄に言ったら全員が反対する事になる。
大学の先生にも手伝っていただいて、説明会を開いた。
いろんな場面を想定した説明を行ったが、納得してくれなくて、再度細かく説明した。
もういいです、預けますと言う事になり、なんとか了解をしてもらった。
高山病は頭の中では判っていたが、寒いと言うので、休憩地で一枚着せようと思って、手を取って登ったが、其れは高山病だった。
症状が悪くなり、気を失った。 ゆっくり組みと山頂組みと班を分けることになる。
職員が連絡して、山小屋の兄さんがその子をしょってくれて走る様に下がって行った。
私は山頂組と一緒について行ったが、色々心配はした。
回復して5合目で待っていてくれた。
体力、能力もあるが、ほとんどが精神力 やる気ですね。
其れがあると結構頑張れる。
担任がそばにいて、刻々と変わる症状を見ながら、いろんな言葉を投げかけながら、一緒に登る。
山小屋の案内人、東洋館には何度も足を運んで、いろんなことを学び、励まされた。
毎回お付き合いしてもらっている。
山小屋のスタッフ4~5名、幼稚園のスタッフは5名、自然塾のスタッフは12名付く。
ボランティアで若い看護師さんも2人付いてきてくださる。
そのうちの一人は山小屋の案内人になってしまう。
園児は17名参加する。 山頂へは1/3ぐらい行く予想。
9合目を過ぎると10歩、歩いては休み、30歩、歩いてはリュックをおろして腰を下ろすと言う様な状況で、苦しい。 精一杯の状況。
帰ってきて暫くすると、二度と登りたくない思い、又しばらくするとまた登ってみたいと思う様になり、まだ頑張れると言う事が判ってきたりする。
自然の危険な思いを共にするという事で、信頼感が凄く生まれる。(先生、親子の関係)
3年がかりで 年小、年中、年長 最後に年長が富士登山を実施する。
年少 1万坪の平地林があり、そこを借りて、週2回そこに行く。
そこで色々なことを自由に遊ぶ事ができる。(冒険心、用心の両方を養う)
年中 日和田山で訓練をする。 年長とペアになって年長が指導役をする。
2014年8月14日木曜日
2014年8月13日水曜日
水澤心吾(俳優) ・一人芝居で伝えたい、外交官・杉原千畝の心
水澤心吾(俳優) 一人芝居で伝えたい、外交官・杉原千畝の心
昭和25年滋賀県生まれ 高校卒業後上京し、劇団俳小に入団しました。
1977年[天守物語]
の坂東玉三郎の相手役にオーディションで選ばれ、本格的に俳優の道を歩み始めました。
その後NHKの連続TV小説「わたしは海」のヒロインの相手役を演じるなど広くTV、映画、舞台で活躍しましたが、30代後半でスランプに陥り、41歳で俳優の仕事を辞め、心理学を学びました。
13年後に舞台に復帰し、2007年10月からは一人芝居、「決断 命のビザ」を演じ続けています。
第二次世界大戦中、リトアニアで亡命を求めるユダヤ避難民に日本通過を許可するビザ発給し、ユダヤ人6000人の命を救った外交官・杉浦千畝の生き方を描いたものです。
水澤さんは杉原千畝の決断と行動に強く惹かれ、俳優としての使命感のあるものを演じたいとしています。
杉原千畝の生き方を一人でも多くの人に伝えたいと、1000回の公演を目指している水澤さんに伺います。
公演は190回を越えた。 目標は1000回。
最初は強い思いだけだった。 成長させてもらっていると思っている。(水澤さんの一人舞台)
お客様に想像して頂いて、芝居に参加して下されば、と言うのがシンプルになったひとつですね。
(ドイツが残虐行為をユダヤ人に対しておこなったこと、そしてユダヤ人が逃げてきて、杉原千畝に助けを求める5人の代表と話を行う事になる、冒頭の舞台の状況が流れる。)
28年後に5人のうちの一人と杉原千畝は再会する。
高校卒業後歌手の道に行こうと思っていた。
歌はうまくないし、注目されたいと言う想いが強かった。
一生続けられる仕事は無いかなあと思っていたときに、浮かんだのが俳優で、俳優の道に進もうと思った。 滑り出しは順調だった。
天守物語の坂東玉三郎の相手役のオーディションに応募して、相手役をやり俳優の道に本格的に進む。
20代の半ばから、TVに出させていただいて、大きな舞台に出させていただいて、
30歳で主演映画に出させてもらったが、31歳を過ぎて仕事も無くなってきて、お金もなくなり、人間関係も壊れてゆくと言う様な体験の30代なかばだった。
40歳の時「ふぞろいの林檎たち」パート3 でTVドラマに参加、しかし其れを見て愕然とした。
弟に生き方、意見をしてゆく長いシーンがあって、其れを見ていて、何故か役者辞めた、と思った。
俺に愛があるんだろうか、演技に情熱があるんだろうかと、思いが来て、辞めたと決めた。
自分の心を映し出していると思った。(今見ると元気にやっていると思うが)
尊敬する先生がいたので、ハワイに渡って、心理学を学ぶ事にしました。(41歳)
一遍、自分と言うものを見直そうと思うのが、目的だった。
心理学の深さを演技に用いていったら、すごい役者になるのではないかと勝手に思った。
54歳で舞台に復帰する。
大きな舞台に出演させてもらって生活も安定したが、何か物足りなさを感じた。
60歳を前にしていた時に、この方向性が自分の生き方だろうかと思い始めた。
使命感を感じるもの、もっと芝居を通して人にどんな貢献をしているのだろうか、と考えた時期だった。
オーストラリアに4カ月ほどいた時に、散歩していて、中国の映画が世界的にヒットしていた時だった。
日本の作品で、世界に見て頂ける様な作品は無いかと、思いながら、散歩していた。
杉原千畝に関するNHKの番組、その他の局の番組で杉原千畝を演じてみたいと思う様になった。
杉原千畝は寡黙な方、でも心の葛藤と言うのはすさまじいものがあったと思うので、杉原千畝の心の声、心の叫びを表現したいと言うのが始まりだった。
その為には一人芝居、どう表現したらいいか判らず、最初は朗読をした。(渡辺勝正さんの作品)
それからアクションが加わった。 しゃべることは朗読とほとんど変わっていない。
脚本家は杉本美鈴さん。
私は一人芝居をいろんな役になるよりも、一人称でずーと表現できたらと思っている。
2007年10月に一人芝居をやるが、最初20数人だったと思う。
恐かった、セリフを一行言うたびに、今から朗読にしたいんですがと言う思いが頭半部かすめながら、一行一行なんとか言っているうちに最後まで来た。
190回になると、セリフと表現自体は変わっていないが、自分の中が変わってきた。
杉原千畝のやったことに対しては自分にはできないと言う事があったが、何故この人にはできたんだろうと、それを知りたいというのが大きな動機でした。
常に、私にはできないと言うのが、今でもあります。
1000回やり続ければ何故杉原氏はビザを出したのか、水澤心吾もやっと出せた、その辺まで到達できたらなと、そういう目標は有りますね。
杉原千畝は外務省を解雇される。
名誉回復まで半世紀かかっている。
1968年 28年経って元避難民 、新生イスラエルの参事官となっていたニシュリさんと再会する。
ぼろぼろのビザを持ってきた。
イスラエルからは、杉原千畝はその後「ヤド・バシェム賞」 表彰される。
(水澤氏自身も2008年12月にエレノア・ルーズベルト賞を受賞。)
一人芝居を開始してから、1年後だった。
ロサンゼルスで一人芝居を行って、海外の方が杉原千畝を重く受け取っていますね。
「決断 命のビザ」を演じ、無条件の愛はどこから来るんだろう、と言う事にぶち当たって、無条件の愛とは何なんだろうと、また追求したくなり、無条件の愛とは何なんだろうと言う事を追求させていただく事が私自身を非常に成長させて頂いていると感じる。
どう生きたらいいのかとか、生きる力はどこから来るのか、回数を重ねているうちにテーマになって、それを少しでも感じたり、少しでも見つけることが出来たら、お客様に対して少しでもお役にたてる存在になるのではないかと思いがあり、知りたいし、掴みたいし、もし具体的につかめたら、それが私の希望です。
結局希望がほしかった。
今この作品を通して、人様に希望を持ってもらったら、と言う事がテーマになってきた。
現在64歳、杉原千畝は86歳まで生きたので、そこまでは生きて、できれば1000回を達成したい。
私は希望をこの作品から頂いたので、今度は見てくださる方に受け取ってもらえたらと思います。
昭和25年滋賀県生まれ 高校卒業後上京し、劇団俳小に入団しました。
1977年[天守物語]
の坂東玉三郎の相手役にオーディションで選ばれ、本格的に俳優の道を歩み始めました。
その後NHKの連続TV小説「わたしは海」のヒロインの相手役を演じるなど広くTV、映画、舞台で活躍しましたが、30代後半でスランプに陥り、41歳で俳優の仕事を辞め、心理学を学びました。
13年後に舞台に復帰し、2007年10月からは一人芝居、「決断 命のビザ」を演じ続けています。
第二次世界大戦中、リトアニアで亡命を求めるユダヤ避難民に日本通過を許可するビザ発給し、ユダヤ人6000人の命を救った外交官・杉浦千畝の生き方を描いたものです。
水澤さんは杉原千畝の決断と行動に強く惹かれ、俳優としての使命感のあるものを演じたいとしています。
杉原千畝の生き方を一人でも多くの人に伝えたいと、1000回の公演を目指している水澤さんに伺います。
公演は190回を越えた。 目標は1000回。
最初は強い思いだけだった。 成長させてもらっていると思っている。(水澤さんの一人舞台)
お客様に想像して頂いて、芝居に参加して下されば、と言うのがシンプルになったひとつですね。
(ドイツが残虐行為をユダヤ人に対しておこなったこと、そしてユダヤ人が逃げてきて、杉原千畝に助けを求める5人の代表と話を行う事になる、冒頭の舞台の状況が流れる。)
28年後に5人のうちの一人と杉原千畝は再会する。
高校卒業後歌手の道に行こうと思っていた。
歌はうまくないし、注目されたいと言う想いが強かった。
一生続けられる仕事は無いかなあと思っていたときに、浮かんだのが俳優で、俳優の道に進もうと思った。 滑り出しは順調だった。
天守物語の坂東玉三郎の相手役のオーディションに応募して、相手役をやり俳優の道に本格的に進む。
20代の半ばから、TVに出させていただいて、大きな舞台に出させていただいて、
30歳で主演映画に出させてもらったが、31歳を過ぎて仕事も無くなってきて、お金もなくなり、人間関係も壊れてゆくと言う様な体験の30代なかばだった。
40歳の時「ふぞろいの林檎たち」パート3 でTVドラマに参加、しかし其れを見て愕然とした。
弟に生き方、意見をしてゆく長いシーンがあって、其れを見ていて、何故か役者辞めた、と思った。
俺に愛があるんだろうか、演技に情熱があるんだろうかと、思いが来て、辞めたと決めた。
自分の心を映し出していると思った。(今見ると元気にやっていると思うが)
尊敬する先生がいたので、ハワイに渡って、心理学を学ぶ事にしました。(41歳)
一遍、自分と言うものを見直そうと思うのが、目的だった。
心理学の深さを演技に用いていったら、すごい役者になるのではないかと勝手に思った。
54歳で舞台に復帰する。
大きな舞台に出演させてもらって生活も安定したが、何か物足りなさを感じた。
60歳を前にしていた時に、この方向性が自分の生き方だろうかと思い始めた。
使命感を感じるもの、もっと芝居を通して人にどんな貢献をしているのだろうか、と考えた時期だった。
オーストラリアに4カ月ほどいた時に、散歩していて、中国の映画が世界的にヒットしていた時だった。
日本の作品で、世界に見て頂ける様な作品は無いかと、思いながら、散歩していた。
杉原千畝に関するNHKの番組、その他の局の番組で杉原千畝を演じてみたいと思う様になった。
杉原千畝は寡黙な方、でも心の葛藤と言うのはすさまじいものがあったと思うので、杉原千畝の心の声、心の叫びを表現したいと言うのが始まりだった。
その為には一人芝居、どう表現したらいいか判らず、最初は朗読をした。(渡辺勝正さんの作品)
それからアクションが加わった。 しゃべることは朗読とほとんど変わっていない。
脚本家は杉本美鈴さん。
私は一人芝居をいろんな役になるよりも、一人称でずーと表現できたらと思っている。
2007年10月に一人芝居をやるが、最初20数人だったと思う。
恐かった、セリフを一行言うたびに、今から朗読にしたいんですがと言う思いが頭半部かすめながら、一行一行なんとか言っているうちに最後まで来た。
190回になると、セリフと表現自体は変わっていないが、自分の中が変わってきた。
杉原千畝のやったことに対しては自分にはできないと言う事があったが、何故この人にはできたんだろうと、それを知りたいというのが大きな動機でした。
常に、私にはできないと言うのが、今でもあります。
1000回やり続ければ何故杉原氏はビザを出したのか、水澤心吾もやっと出せた、その辺まで到達できたらなと、そういう目標は有りますね。
杉原千畝は外務省を解雇される。
名誉回復まで半世紀かかっている。
1968年 28年経って元避難民 、新生イスラエルの参事官となっていたニシュリさんと再会する。
ぼろぼろのビザを持ってきた。
イスラエルからは、杉原千畝はその後「ヤド・バシェム賞」 表彰される。
(水澤氏自身も2008年12月にエレノア・ルーズベルト賞を受賞。)
一人芝居を開始してから、1年後だった。
ロサンゼルスで一人芝居を行って、海外の方が杉原千畝を重く受け取っていますね。
「決断 命のビザ」を演じ、無条件の愛はどこから来るんだろう、と言う事にぶち当たって、無条件の愛とは何なんだろうと、また追求したくなり、無条件の愛とは何なんだろうと言う事を追求させていただく事が私自身を非常に成長させて頂いていると感じる。
どう生きたらいいのかとか、生きる力はどこから来るのか、回数を重ねているうちにテーマになって、それを少しでも感じたり、少しでも見つけることが出来たら、お客様に対して少しでもお役にたてる存在になるのではないかと思いがあり、知りたいし、掴みたいし、もし具体的につかめたら、それが私の希望です。
結局希望がほしかった。
今この作品を通して、人様に希望を持ってもらったら、と言う事がテーマになってきた。
現在64歳、杉原千畝は86歳まで生きたので、そこまでは生きて、できれば1000回を達成したい。
私は希望をこの作品から頂いたので、今度は見てくださる方に受け取ってもらえたらと思います。
2014年8月12日火曜日
雨宮剛(名誉教授) ・我が体験、平和と和解を語り継ぐ(2)
雨宮剛(青山学院大学名誉教授) 我が体験、平和と和解を語り継ぐ(2)
英連邦戦没捕虜追悼礼拝
フィリピンのバンダさんから教えても貰ったことは、私たち日本人は被害者であったと同時に、加害者でもあったと言う大変大きな歴史認識だったと思う。
日本人はとかく被害者で有ったことを大きく言いますが、加害者で有ったと言うもう半面はほとんど忘れてしまっている。
バンダさんは私の本当の恩人でした、その後の私の人生の諸活動、社会的国際的な活動はそこから出発していると思います。
戦争に勝った国々の人々に対して、私どもが加害者で有ったことは全く知りませんでした。
永瀬さんの仕事に大変興味を持って、イギリスで勉強した時に、愛想のいいご婦人だったのですが、私が日本人だと判ると、全く違った態度を示して、全く判らなかった。
後で親しい人に聞いてみると、戦時中に日本が英連邦の捕虜に対しての虐待をいまだに恨んでいる人が多くいる、多くの人は殺されて帰れなかった事を知ったことが、私の英連邦捕虜追悼礼拝に関心を持って、実行するに至った動機になりました。
追悼礼拝は1995年の戦後50年を機に 横浜市保土ヶ谷に在る、英連邦墓地で行われている。
今年20回になる。 1873人の方が眠っているという場所。
一見、美しい公園墓地だが、むごい日本人残虐行為が原因でなくなった方々が眠っている墓地。
ジュネーブ条約 武器を捨てた捕虜は普通に市民だから、人間らしく扱えと言う条約を守っていさえすれば、無事に祖国に帰り愛する家族に会えることができた人々です。
戦争は絶対にいけない。 正義の戦争は無い。
いかなる理由があっても避けなければいけない。
平和的手段、外交的手段で避けなければいけない。
永瀬さん タイへの恵まれない子供達の支援、和解活動、平和活動をしてきた方、
英連邦捕虜追悼礼拝の呼びかけ人の一人。
きっかけになったのはオーストラリアのカウラ事件の教訓があると言われる。
カウラ事件で、オーストラリアで亡くなった日本兵を町ぐるみで、追悼していらっしゃる。
それに対する国際的答礼としてやらなければいけないという事で1995年 戦後50年を機に始めようとした。
カウラ事件→1944年 オーストラリアのカウラの捕虜収容所で日本兵捕虜1000人余りのうち、900人ぐらいが収容所で突撃して231人が亡くなり、オーストラリアの兵隊も4人亡くなった事件。
埋葬地をオーストラリア戦死者墓地の隣りの土地に整備して、桜並木でつないで、カウラ市民が毎年慰霊祭を行っている。
それに対する日本側の市民の活動として英連邦戦没捕虜追悼礼拝を始めた。
無我夢中で始めたが、20年続くとは思っていなかった。
若い世代で引き継いでくれる人が出てきて、ほとんど彼等に引き継いでもらっている。
被害者の国の家族、大使館の人に参加してもらっている。
国際社会へのメッセージが伝わりつつある。
日本のした負の歴史が広く理解されつつある。
私は子供のころ、将来は陸軍大将を夢見ていた。
1941年 昭和16年国民学校1年生の時 12月に戦争が始まった。
私は軍国少年の時代の産物でした。
戦争の認識が変わったのが、フィリピンのバンダさんの体験談、癒しと和解のメッセージのキャンプだった。 バンダさんに会えなかったら、今の私は無い。
日本軍の歴史の事を知っていたのでフィリピンには恐くて行く事がなかったが、1985年 私の教え子がフィリピンに海外青年協力隊として、行く事になる。
声を掛けてくれたので1985年 3月に出かけた。
私の希望通りの人に会えて、体験できたが、フィリピンの現実を知って、衝撃をうけた。
貧困が酷い、こんなに戦争の傷跡が深いと云う事を教えられた、その後2年間ぐらい思い悩んでしまう。
80%が貧困 70%ぐらいの子供が栄養失調 40%ぐらいの子供達しか初等教育が受けられない。
フィリピン大学 卒業生の就職がほとんどできない。(10%どうか)
帰って来てから、大学の教授の意味がない、教育なども意味がない、なんかフィリピンに役立つ技術があったら、何か助けられればいいかなあと、大学の教授をやめようと思った時期があった。
自分ができなくてもいい、この事実を次の時代の人に伝え、彼等に考えてもらおう、自分だけでは行き詰まってしまう。
次の世代に語り継ぐために、何かすべきだと、フィリピンに有志希望者の学生たちを連れてゆく、体験ツアーを計画するに至った。
一番大事な戦争の傷跡を訪ねる、体験者の生の声を聞く。
日本人に対する怒りをぶちまける様な人が一杯いた。
生き証人から生の声を聞く事を第一の目的にした。
そして私たちの世代は何ができるかと言う事を考えてもらう。 こうしろとは言わない。
戦争責任を背負って、どういうふうに国際協力をしてゆくか。
許されて和解と言う最終ゴールに達するかという、計画を立てました。
1988年 2人だけでした。 フィリピンに対する関心が全くない。 マイナスイメージばかりだった。
二人もいるじゃない、とも云われた。(自費で出かけるツアー)
全部の体験を二人で、真正面から受けて、彼らのショックは大変でした。 なかば病気でした。
あまりにも衝撃が大きすぎて、精神的なアフターケアーが大変でした。想定外だった。
焦らないで小さいことからしなさいと、諭した。
バタン半島での「死の行進」 体験者がまだいて説明してくれた。
学生が深い体験をするためには、3~6人まで。
深い体験をして自分の心に刻んで人生を変える、どんな生き方をして行くかと言う所に深く影響する様な体験学習にしたいと考えた通りになりました。
フィリピン以外にもという声があり、タイが思いついた。
フィリピンとは対照的なところ。(独立国で植民地になった事はない、王国、大陸の一部になっている)
共通のこともある。 フィリピン、タイ両方体験した人もかなりいます。
タイでの体験 永瀬さんのゆかりの地を中心に、墓地の見学、少数民族が差別されているところ、孤児の教育している人がいて、知ったら拠点にして、お願いして宿泊費を無料にしてもらって、面倒を見てもらった。
タイは11回 フィリピンは16回 実体験する。
帰ってから、大量の知識、現実を見るので、レポートを書いて報告書を作った。
一つ一つの言葉が重い、言葉が磨かれてゆく、光ってゆく、宝石の様になってゆく。
私が一番衝撃を受けたし、一番学んだと思う。
其れがいろんな活動になってくる。
フィリピンの方たちとのかかわりも、アメリカの恩人に対して報告をして行った。
私の両親もクリスチャンで、信仰の深い両親でした、これが私の生まれながらにして与えられた遺産でした。
父は山梨県出身で、大変な理想家だった、信仰が深くて信仰をそのまま実行したい。
もてるものは全員で分かち合う、という事をモットーとした、新しい村を築こうとした。
武者小路 実篤さんはトルストイの人道主義、ヒューマニズムで、新しい村を宮崎県に作りましたが、家との関係も少々ありましたけれど、父はヒューマニズムは駄目だと、最後は一線を画していた。
父も理想を実現できないで終わりましたが、離村して父は最後には一人になってしまったが、理想を持ったことは無駄にはならなかった、私が受け継いだ。
戦時中、激しいキリスト教に対する差別、偏見があった。
戦争がはじまると我が家は特高の監視下に置かれた。
聖書を焼け、神棚を置けと言われたが、両親は絶対に屈しませんでした。 是が私の遺産です。
権力に屈しない、信仰を曲げない。
追悼の言葉(雨宮道治 てる 両親)
「神様に言いつけられて、天使が海の底から一握りの砂を取ってくる事になった。
天使は波をくぐって砂を掴んできたが、浮かび上がってくるまでには砂は大方掌から流れてしまった。 天使はこれではと、また海にくぐった、やっぱり同じであった。
砂は掌から漏れてしまう。 彼は泣きべそをかいて神様に手を開いて見せた。
神様はそれでいいのだと神様はおっしゃった。」
行為そのものが大事、駄目でも努力する。 努力の過程が大事、意志力。
虚しい事はいっぱいあるが、でも続けてゆく、信念を貫いてゆく事が大事です。
そうすれば必ず、いずれは実る。 50年、100年経って理解されるかもしれない、そういった人がいたと言う事を伝えられるだけでもいいと思う。
「どんな時も人生には意味がある。 自分を必要とする誰かが必ずいて、自分に発見されるのを待っている。」・・・フランクル 「夜と霧」の著者
視点、目線を変える事によって、自分を必要としている人は一杯いる。
そういったことを発見する事は、教育ではないでしょうか。
その人に対して何がしかのことをして行くときに、人生は意味を持つんじゃないでしょうか。
お仕着せの人生ではなく、自分で発見して人間らしい自分しかできない人生を、歩むように絶えず言っていました。 その通りになりました。
永瀬さんが言っていました、雨宮さんの学生は皆厳しい難しい道を選ぶ、お仕着せの人生ではないからです。
名誉ある仕事を選ばないで、あえて人知れず良き技を、修行する人が沢山出てきたことは、彼等はクリスチャンには成らなかったが、クリスチャン以上に、クリスチャンです。 それを誇りにしています。
「信念を持って一生懸命取り組めば、必ず道は開ける」 経験からそう思う。
今私が取り組んでいるのは難民の支援です。
英連邦戦没捕虜追悼礼拝
フィリピンのバンダさんから教えても貰ったことは、私たち日本人は被害者であったと同時に、加害者でもあったと言う大変大きな歴史認識だったと思う。
日本人はとかく被害者で有ったことを大きく言いますが、加害者で有ったと言うもう半面はほとんど忘れてしまっている。
バンダさんは私の本当の恩人でした、その後の私の人生の諸活動、社会的国際的な活動はそこから出発していると思います。
戦争に勝った国々の人々に対して、私どもが加害者で有ったことは全く知りませんでした。
永瀬さんの仕事に大変興味を持って、イギリスで勉強した時に、愛想のいいご婦人だったのですが、私が日本人だと判ると、全く違った態度を示して、全く判らなかった。
後で親しい人に聞いてみると、戦時中に日本が英連邦の捕虜に対しての虐待をいまだに恨んでいる人が多くいる、多くの人は殺されて帰れなかった事を知ったことが、私の英連邦捕虜追悼礼拝に関心を持って、実行するに至った動機になりました。
追悼礼拝は1995年の戦後50年を機に 横浜市保土ヶ谷に在る、英連邦墓地で行われている。
今年20回になる。 1873人の方が眠っているという場所。
一見、美しい公園墓地だが、むごい日本人残虐行為が原因でなくなった方々が眠っている墓地。
ジュネーブ条約 武器を捨てた捕虜は普通に市民だから、人間らしく扱えと言う条約を守っていさえすれば、無事に祖国に帰り愛する家族に会えることができた人々です。
戦争は絶対にいけない。 正義の戦争は無い。
いかなる理由があっても避けなければいけない。
平和的手段、外交的手段で避けなければいけない。
永瀬さん タイへの恵まれない子供達の支援、和解活動、平和活動をしてきた方、
英連邦捕虜追悼礼拝の呼びかけ人の一人。
きっかけになったのはオーストラリアのカウラ事件の教訓があると言われる。
カウラ事件で、オーストラリアで亡くなった日本兵を町ぐるみで、追悼していらっしゃる。
それに対する国際的答礼としてやらなければいけないという事で1995年 戦後50年を機に始めようとした。
カウラ事件→1944年 オーストラリアのカウラの捕虜収容所で日本兵捕虜1000人余りのうち、900人ぐらいが収容所で突撃して231人が亡くなり、オーストラリアの兵隊も4人亡くなった事件。
埋葬地をオーストラリア戦死者墓地の隣りの土地に整備して、桜並木でつないで、カウラ市民が毎年慰霊祭を行っている。
それに対する日本側の市民の活動として英連邦戦没捕虜追悼礼拝を始めた。
無我夢中で始めたが、20年続くとは思っていなかった。
若い世代で引き継いでくれる人が出てきて、ほとんど彼等に引き継いでもらっている。
被害者の国の家族、大使館の人に参加してもらっている。
国際社会へのメッセージが伝わりつつある。
日本のした負の歴史が広く理解されつつある。
私は子供のころ、将来は陸軍大将を夢見ていた。
1941年 昭和16年国民学校1年生の時 12月に戦争が始まった。
私は軍国少年の時代の産物でした。
戦争の認識が変わったのが、フィリピンのバンダさんの体験談、癒しと和解のメッセージのキャンプだった。 バンダさんに会えなかったら、今の私は無い。
日本軍の歴史の事を知っていたのでフィリピンには恐くて行く事がなかったが、1985年 私の教え子がフィリピンに海外青年協力隊として、行く事になる。
声を掛けてくれたので1985年 3月に出かけた。
私の希望通りの人に会えて、体験できたが、フィリピンの現実を知って、衝撃をうけた。
貧困が酷い、こんなに戦争の傷跡が深いと云う事を教えられた、その後2年間ぐらい思い悩んでしまう。
80%が貧困 70%ぐらいの子供が栄養失調 40%ぐらいの子供達しか初等教育が受けられない。
フィリピン大学 卒業生の就職がほとんどできない。(10%どうか)
帰って来てから、大学の教授の意味がない、教育なども意味がない、なんかフィリピンに役立つ技術があったら、何か助けられればいいかなあと、大学の教授をやめようと思った時期があった。
自分ができなくてもいい、この事実を次の時代の人に伝え、彼等に考えてもらおう、自分だけでは行き詰まってしまう。
次の世代に語り継ぐために、何かすべきだと、フィリピンに有志希望者の学生たちを連れてゆく、体験ツアーを計画するに至った。
一番大事な戦争の傷跡を訪ねる、体験者の生の声を聞く。
日本人に対する怒りをぶちまける様な人が一杯いた。
生き証人から生の声を聞く事を第一の目的にした。
そして私たちの世代は何ができるかと言う事を考えてもらう。 こうしろとは言わない。
戦争責任を背負って、どういうふうに国際協力をしてゆくか。
許されて和解と言う最終ゴールに達するかという、計画を立てました。
1988年 2人だけでした。 フィリピンに対する関心が全くない。 マイナスイメージばかりだった。
二人もいるじゃない、とも云われた。(自費で出かけるツアー)
全部の体験を二人で、真正面から受けて、彼らのショックは大変でした。 なかば病気でした。
あまりにも衝撃が大きすぎて、精神的なアフターケアーが大変でした。想定外だった。
焦らないで小さいことからしなさいと、諭した。
バタン半島での「死の行進」 体験者がまだいて説明してくれた。
学生が深い体験をするためには、3~6人まで。
深い体験をして自分の心に刻んで人生を変える、どんな生き方をして行くかと言う所に深く影響する様な体験学習にしたいと考えた通りになりました。
フィリピン以外にもという声があり、タイが思いついた。
フィリピンとは対照的なところ。(独立国で植民地になった事はない、王国、大陸の一部になっている)
共通のこともある。 フィリピン、タイ両方体験した人もかなりいます。
タイでの体験 永瀬さんのゆかりの地を中心に、墓地の見学、少数民族が差別されているところ、孤児の教育している人がいて、知ったら拠点にして、お願いして宿泊費を無料にしてもらって、面倒を見てもらった。
タイは11回 フィリピンは16回 実体験する。
帰ってから、大量の知識、現実を見るので、レポートを書いて報告書を作った。
一つ一つの言葉が重い、言葉が磨かれてゆく、光ってゆく、宝石の様になってゆく。
私が一番衝撃を受けたし、一番学んだと思う。
其れがいろんな活動になってくる。
フィリピンの方たちとのかかわりも、アメリカの恩人に対して報告をして行った。
私の両親もクリスチャンで、信仰の深い両親でした、これが私の生まれながらにして与えられた遺産でした。
父は山梨県出身で、大変な理想家だった、信仰が深くて信仰をそのまま実行したい。
もてるものは全員で分かち合う、という事をモットーとした、新しい村を築こうとした。
武者小路 実篤さんはトルストイの人道主義、ヒューマニズムで、新しい村を宮崎県に作りましたが、家との関係も少々ありましたけれど、父はヒューマニズムは駄目だと、最後は一線を画していた。
父も理想を実現できないで終わりましたが、離村して父は最後には一人になってしまったが、理想を持ったことは無駄にはならなかった、私が受け継いだ。
戦時中、激しいキリスト教に対する差別、偏見があった。
戦争がはじまると我が家は特高の監視下に置かれた。
聖書を焼け、神棚を置けと言われたが、両親は絶対に屈しませんでした。 是が私の遺産です。
権力に屈しない、信仰を曲げない。
追悼の言葉(雨宮道治 てる 両親)
「神様に言いつけられて、天使が海の底から一握りの砂を取ってくる事になった。
天使は波をくぐって砂を掴んできたが、浮かび上がってくるまでには砂は大方掌から流れてしまった。 天使はこれではと、また海にくぐった、やっぱり同じであった。
砂は掌から漏れてしまう。 彼は泣きべそをかいて神様に手を開いて見せた。
神様はそれでいいのだと神様はおっしゃった。」
行為そのものが大事、駄目でも努力する。 努力の過程が大事、意志力。
虚しい事はいっぱいあるが、でも続けてゆく、信念を貫いてゆく事が大事です。
そうすれば必ず、いずれは実る。 50年、100年経って理解されるかもしれない、そういった人がいたと言う事を伝えられるだけでもいいと思う。
「どんな時も人生には意味がある。 自分を必要とする誰かが必ずいて、自分に発見されるのを待っている。」・・・フランクル 「夜と霧」の著者
視点、目線を変える事によって、自分を必要としている人は一杯いる。
そういったことを発見する事は、教育ではないでしょうか。
その人に対して何がしかのことをして行くときに、人生は意味を持つんじゃないでしょうか。
お仕着せの人生ではなく、自分で発見して人間らしい自分しかできない人生を、歩むように絶えず言っていました。 その通りになりました。
永瀬さんが言っていました、雨宮さんの学生は皆厳しい難しい道を選ぶ、お仕着せの人生ではないからです。
名誉ある仕事を選ばないで、あえて人知れず良き技を、修行する人が沢山出てきたことは、彼等はクリスチャンには成らなかったが、クリスチャン以上に、クリスチャンです。 それを誇りにしています。
「信念を持って一生懸命取り組めば、必ず道は開ける」 経験からそう思う。
今私が取り組んでいるのは難民の支援です。
2014年8月11日月曜日
雨宮剛(名誉教授) ・我が体験、平和と和解を語り継ぐ(1)
雨宮剛(青山学院大学名誉教授) 我が体験、平和と和解を語り継ぐ(1)
昭和9年愛知県 豊田市の農家の7男として生まれる。
昭和32年青山学院大学文学部を卒業、その後アメリカにわたってコロンビア大学大学院修士課程を卒業されました。
雨宮さんは永年戦争を語り継ぐ、草の根平和講演会を主催したり、今年20年目を迎えた英連邦戦没捕虜追悼礼拝の呼びかけ人をしたりして、平和学習活動に取り組んできました。
雨宮さんを平和と和解の活動へと突き動かしたのは、高校生の時に出会ったフィリピンの戦争体験の話でした。
その後英語教授法を身につけるためアメリカに留学して、留学先で経済的な援助を申し出てくれたアメリカ人と出会います。
雨宮さんの人生は人との出会いと支えがあり、信念を持って一生懸命に取り組めば、必ずや道は開けると言う想いを強くしたと言います。
英連邦戦没捕虜追悼礼拝 20回やってきた。
連合国、英連邦の武器をすててしまった捕虜の方々に、あんな残虐な行為をしてしまったことに何としても、形に表して謝罪をし、許しを請い、和解をしたいと言う想いがすべてでした。
1995年、戦後50年を機に追悼礼拝をすることになった。 どうしてゆくか計画はなかった。
永瀬先生、斎藤先生と発起人と成って始めた。
何人集まるか判らなかったが、100人以上集まった。
反応も凄く良くて、結局毎年することになって、20年 信じられません、本当に嬉しいです。
永瀬隆さん タイへの戦争についての謝罪、お世話になった方のお礼とか支援活動をした。
斎藤和明さん 国際キリスト教大学の副学長になった方。 捕虜文学 捕虜の手記などを研究していた。 (二人とも亡くなってしまった)
「絶対戦争を起こさないでほしい」と言う長瀬先生の思いがあり、戦争の謝罪と償いのために生まれてきた様な人で、政府がやるべきことを全部自分でなさった。
相当の反対があったが、本当に意志の強い権力に抵抗される精神は極めて旺盛だった。
信念を持って一生懸命取り組めば、必ず道は開ける、との想い。 数々の出会いがある。
昭和9年愛知県 豊田市の農家の7男として生まれる。 9人兄弟
4人の兄が亡くなっている。 (未熟児、病気などで)
開戦の時、終戦の日の事はよく覚えている。
日本が負けた事を聞いて一日中泣いていた。
日本は絶対に負ける事のない国であると、神州不滅。 そういう信念を叩きこまれていた洗脳された国民学校の生徒だった。 100%軍国少年だった。
アメリカ人は野蛮だから殺されると思い、毒を用意して山に逃げようと考えていた。
国民幼年学校 憧れていてどうしても行きたかったが、これで幼年学校にも行けなくなってしまったと言う寂しさがあった。
社会が大きく変わって、戦時中教えられた事、叩きこまれたことが全部ウソだったと言う事を知った。 絶望です。
戦争は嘘の塊である、為政者は嘘で国民を戦争に駆り立てた、どうしても戦争に関心を持たざるを得なかった。 私の戦後の人生の原点になりました。
高等学校2年生の時に三河で開かれた国際キリスト教ワークキャンプに参加した。
フィリピンの教会代表アモール・T・バンダ氏に出会って、(牧師さんの息子24,5歳)日本軍がフィリピンで行った残虐行為の事実を皆さんにお知らせし、それを我々は恨んではいない、許すと言う平和と和解のメセージを持って、自分は来た、と言う。
その事に私は驚いた。 肉親が被害を被っている犠牲者。
日本軍の残虐行為を初めて知らされて、それが私の戦争観をすっかり変えた。
私は自分を戦争の被害者だと思っていたが、ところが加害者でもあったと、そういった方々が無数にいらしゃると云う事、私の戦争認識を変えたのは、バンダさんの話を通しての事です。
私たちは抱き合って泣き崩れました。
それが私の反戦、平和、和解などの運動の最も深い原点となりました。
私は謝罪文を書こうと、残虐行為を許していただきたいと、和解をしたいと、文にしてバンダさんに渡した。
それが向こうの若者の新聞にでかでかと出たらしい。 手紙が100通近く来た。
誠実に答えてくれて、君と友だちになりたい、という事に吃驚した。(憎しみの言葉は一つもなかった)
軍国少年に洗脳されたことに対して恥じた。
英語を勉強すれば、何か今後どう生きていくか、あの戦争は何だったのか、戦争に関する謎が解かるのではないかと思った。
留学の夢がかなえられた。
50通、60通の手紙をアメリカの大学に出した。
戦争体験、生い立ち、等を書いて是非アメリカの大学で勉強したい、と書いてだした。
同情して丁寧な断りが大部分から誠実な手紙が来た。
2校は受け入れる手紙が来た。
アメリカで一番小さな戦後にできた大学のマールボロ・カレッジ
生徒が65名 先生が16名 専任教授 非常勤を入れて25名。
学長が28歳 私の書いた手紙を見て感動して、いつでも受け入れると言う事になった。
全額奨学金を出す、但し図書館の仕事を20時間することだった。
行く段になって渡航費がない。 500ドル 貨物船でも275ドル それもなかった。
学長あてに率直に手紙を出したら、1カ月後に手紙が来て、275ドル用意したから来るようにとの事だった。
50ドルだけを持って、出掛けて、クリスマスまでは何とか節約して持ったが、全く無くなって学長に相談して、田舎なので働くところがほとんどなく、何とか高級レストランを紹介されたが、そこは厳しいとの評判のところで、どんなに苦しくてもやるしかないと思っていた。
面接を受けたが、だめだろうと思っていたら、いいよ働きなさいと云われた。
ニューヨーク、ボストンからお金持ちのスキー客がくるが、或る家族を一週間給仕しました。
一家の主が私に対して興味を持って、ここの大学に1年終わったら大学院に行って、英語を学んでもっとましな教師になりたいと言ったら、2月頃帰る時にニューヨークの私を尋ねなさいと云われた。
ニューヨークに行って、会ったら 大きな会社の副社長だった。
大学院は駄目だったといったら、どこへ行きたいのかと言われて、コロンビア大学に行きたいと言ったが、あまりにも生活費も授業料も高いので完全に諦めていたら、「いけよ、会社が全部面倒見るよ」、と言われた。
願書も責任を持つと言ってくれた。 即実行した。 信じられないことだった。
大学からも直ぐ合格通知を貰いました。
生活費は自分で働く様に云われて、その会社の資料室、図書館で20時間働く事になる。
絶対一生忘れない、その後の活動、行動は全部感謝の念から湧き出ている。
学位を取って6月に帰ろうと思っていた。
5月ごろ副社長を訪ねた。
お礼の言葉がないと申し上げたら、お礼は必要ない、自分と神に感謝しなさいと言われる。
君みたいな人間が日本に帰ったら、何をやるか興味があるから、1年に一回近況を報告してほしいと云われた。
事あるごとに、年に10通、15通も書きました。(論文、出版物、出来事など有った時)
ウォルターさんは2004年9月に亡くなる。
ブリジッド婦人から手紙が来る。
「夫 ウォルターの人生に対する大きなプライドは、人々が努力するのを励ますことでした。
夫はあなたがフィルピンの人々と理解を深め和解しようとなさっている全てのお仕事を非常に誇りに思っていました。
あなたの遺産は、ある意味でウォルターの遺産でもあります。
夫は第二次世界大戦でアメリカ政府が、日系アメリカ市民や日本人にしたことは間違っていたと考えていました。
それで夫はあなたの勉学を奨励する事によって、その過ちの償いをしようと努めたのでした。
あなたが夫の励ましの贈り物を受け取ってくださり、他の人々を励ますためにご自分の時間と才能を用いて、下さることに心からお礼申し上げます。 2004年9月23日」
受け取った時は衝撃でした。
最も深いところに、日本に対する戦争責任の、謝罪、償いと言う事があったと言う事を知って吃驚して、1時間ぐらい何も言えなかった。
アメリカ人でこんな考えを持っている人がいる、初めて会いました。
私の恩人がそんなに戦争を深く考えて、アメリカのやったことを深く反省してらっしゃるなんて、夢にも思わなくて、言葉を失ってしまった。
「信念を持って一生懸命に取り組めば、必ずや道は開ける」
いろんなことをやってきたが、何にも初めから判ってるわけではない、これをやろうと思って苦労していると、必ず助けてくれる人が出てくる、本当に不思議です。
いつの間にかその仕事が成し終えることができる、道が開ける。
昭和9年愛知県 豊田市の農家の7男として生まれる。
昭和32年青山学院大学文学部を卒業、その後アメリカにわたってコロンビア大学大学院修士課程を卒業されました。
雨宮さんは永年戦争を語り継ぐ、草の根平和講演会を主催したり、今年20年目を迎えた英連邦戦没捕虜追悼礼拝の呼びかけ人をしたりして、平和学習活動に取り組んできました。
雨宮さんを平和と和解の活動へと突き動かしたのは、高校生の時に出会ったフィリピンの戦争体験の話でした。
その後英語教授法を身につけるためアメリカに留学して、留学先で経済的な援助を申し出てくれたアメリカ人と出会います。
雨宮さんの人生は人との出会いと支えがあり、信念を持って一生懸命に取り組めば、必ずや道は開けると言う想いを強くしたと言います。
英連邦戦没捕虜追悼礼拝 20回やってきた。
連合国、英連邦の武器をすててしまった捕虜の方々に、あんな残虐な行為をしてしまったことに何としても、形に表して謝罪をし、許しを請い、和解をしたいと言う想いがすべてでした。
1995年、戦後50年を機に追悼礼拝をすることになった。 どうしてゆくか計画はなかった。
永瀬先生、斎藤先生と発起人と成って始めた。
何人集まるか判らなかったが、100人以上集まった。
反応も凄く良くて、結局毎年することになって、20年 信じられません、本当に嬉しいです。
永瀬隆さん タイへの戦争についての謝罪、お世話になった方のお礼とか支援活動をした。
斎藤和明さん 国際キリスト教大学の副学長になった方。 捕虜文学 捕虜の手記などを研究していた。 (二人とも亡くなってしまった)
「絶対戦争を起こさないでほしい」と言う長瀬先生の思いがあり、戦争の謝罪と償いのために生まれてきた様な人で、政府がやるべきことを全部自分でなさった。
相当の反対があったが、本当に意志の強い権力に抵抗される精神は極めて旺盛だった。
信念を持って一生懸命取り組めば、必ず道は開ける、との想い。 数々の出会いがある。
昭和9年愛知県 豊田市の農家の7男として生まれる。 9人兄弟
4人の兄が亡くなっている。 (未熟児、病気などで)
開戦の時、終戦の日の事はよく覚えている。
日本が負けた事を聞いて一日中泣いていた。
日本は絶対に負ける事のない国であると、神州不滅。 そういう信念を叩きこまれていた洗脳された国民学校の生徒だった。 100%軍国少年だった。
アメリカ人は野蛮だから殺されると思い、毒を用意して山に逃げようと考えていた。
国民幼年学校 憧れていてどうしても行きたかったが、これで幼年学校にも行けなくなってしまったと言う寂しさがあった。
社会が大きく変わって、戦時中教えられた事、叩きこまれたことが全部ウソだったと言う事を知った。 絶望です。
戦争は嘘の塊である、為政者は嘘で国民を戦争に駆り立てた、どうしても戦争に関心を持たざるを得なかった。 私の戦後の人生の原点になりました。
高等学校2年生の時に三河で開かれた国際キリスト教ワークキャンプに参加した。
フィリピンの教会代表アモール・T・バンダ氏に出会って、(牧師さんの息子24,5歳)日本軍がフィリピンで行った残虐行為の事実を皆さんにお知らせし、それを我々は恨んではいない、許すと言う平和と和解のメセージを持って、自分は来た、と言う。
その事に私は驚いた。 肉親が被害を被っている犠牲者。
日本軍の残虐行為を初めて知らされて、それが私の戦争観をすっかり変えた。
私は自分を戦争の被害者だと思っていたが、ところが加害者でもあったと、そういった方々が無数にいらしゃると云う事、私の戦争認識を変えたのは、バンダさんの話を通しての事です。
私たちは抱き合って泣き崩れました。
それが私の反戦、平和、和解などの運動の最も深い原点となりました。
私は謝罪文を書こうと、残虐行為を許していただきたいと、和解をしたいと、文にしてバンダさんに渡した。
それが向こうの若者の新聞にでかでかと出たらしい。 手紙が100通近く来た。
誠実に答えてくれて、君と友だちになりたい、という事に吃驚した。(憎しみの言葉は一つもなかった)
軍国少年に洗脳されたことに対して恥じた。
英語を勉強すれば、何か今後どう生きていくか、あの戦争は何だったのか、戦争に関する謎が解かるのではないかと思った。
留学の夢がかなえられた。
50通、60通の手紙をアメリカの大学に出した。
戦争体験、生い立ち、等を書いて是非アメリカの大学で勉強したい、と書いてだした。
同情して丁寧な断りが大部分から誠実な手紙が来た。
2校は受け入れる手紙が来た。
アメリカで一番小さな戦後にできた大学のマールボロ・カレッジ
生徒が65名 先生が16名 専任教授 非常勤を入れて25名。
学長が28歳 私の書いた手紙を見て感動して、いつでも受け入れると言う事になった。
全額奨学金を出す、但し図書館の仕事を20時間することだった。
行く段になって渡航費がない。 500ドル 貨物船でも275ドル それもなかった。
学長あてに率直に手紙を出したら、1カ月後に手紙が来て、275ドル用意したから来るようにとの事だった。
50ドルだけを持って、出掛けて、クリスマスまでは何とか節約して持ったが、全く無くなって学長に相談して、田舎なので働くところがほとんどなく、何とか高級レストランを紹介されたが、そこは厳しいとの評判のところで、どんなに苦しくてもやるしかないと思っていた。
面接を受けたが、だめだろうと思っていたら、いいよ働きなさいと云われた。
ニューヨーク、ボストンからお金持ちのスキー客がくるが、或る家族を一週間給仕しました。
一家の主が私に対して興味を持って、ここの大学に1年終わったら大学院に行って、英語を学んでもっとましな教師になりたいと言ったら、2月頃帰る時にニューヨークの私を尋ねなさいと云われた。
ニューヨークに行って、会ったら 大きな会社の副社長だった。
大学院は駄目だったといったら、どこへ行きたいのかと言われて、コロンビア大学に行きたいと言ったが、あまりにも生活費も授業料も高いので完全に諦めていたら、「いけよ、会社が全部面倒見るよ」、と言われた。
願書も責任を持つと言ってくれた。 即実行した。 信じられないことだった。
大学からも直ぐ合格通知を貰いました。
生活費は自分で働く様に云われて、その会社の資料室、図書館で20時間働く事になる。
絶対一生忘れない、その後の活動、行動は全部感謝の念から湧き出ている。
学位を取って6月に帰ろうと思っていた。
5月ごろ副社長を訪ねた。
お礼の言葉がないと申し上げたら、お礼は必要ない、自分と神に感謝しなさいと言われる。
君みたいな人間が日本に帰ったら、何をやるか興味があるから、1年に一回近況を報告してほしいと云われた。
事あるごとに、年に10通、15通も書きました。(論文、出版物、出来事など有った時)
ウォルターさんは2004年9月に亡くなる。
ブリジッド婦人から手紙が来る。
「夫 ウォルターの人生に対する大きなプライドは、人々が努力するのを励ますことでした。
夫はあなたがフィルピンの人々と理解を深め和解しようとなさっている全てのお仕事を非常に誇りに思っていました。
あなたの遺産は、ある意味でウォルターの遺産でもあります。
夫は第二次世界大戦でアメリカ政府が、日系アメリカ市民や日本人にしたことは間違っていたと考えていました。
それで夫はあなたの勉学を奨励する事によって、その過ちの償いをしようと努めたのでした。
あなたが夫の励ましの贈り物を受け取ってくださり、他の人々を励ますためにご自分の時間と才能を用いて、下さることに心からお礼申し上げます。 2004年9月23日」
受け取った時は衝撃でした。
最も深いところに、日本に対する戦争責任の、謝罪、償いと言う事があったと言う事を知って吃驚して、1時間ぐらい何も言えなかった。
アメリカ人でこんな考えを持っている人がいる、初めて会いました。
私の恩人がそんなに戦争を深く考えて、アメリカのやったことを深く反省してらっしゃるなんて、夢にも思わなくて、言葉を失ってしまった。
「信念を持って一生懸命に取り組めば、必ずや道は開ける」
いろんなことをやってきたが、何にも初めから判ってるわけではない、これをやろうと思って苦労していると、必ず助けてくれる人が出てくる、本当に不思議です。
いつの間にかその仕事が成し終えることができる、道が開ける。
2014年8月10日日曜日
平田 周(個人学習塾経営) ・長崎原爆、受け継ぐ命のバトン
平田 周(個人学習塾経営) 長崎原爆、受け継ぐ命のバトン
*台風情報のため中途から放送。
24万人のうち7万4000人が亡くなり、7万5000人が負傷しました。
爆心地に近い城山に住んでいた、平山さんの祖父、松尾あつゆきさんは妻と子供3人を失いました。
原爆で重症を負いながら生き残った娘、みち子さんとの二人だけの厳しい暮らしが始まりました。
その様子について、松尾さんが書き残した日記には、戦争によって引き裂かれる家族の苦しみが描かれています。
松尾さんの孫でみち子さんの長男にあたる平田周さんに伺います。
原爆が落ちた場所は長崎駅から北に2~3km離れたところ。
「幸福のみことのり 妻を焼く火 いまぞさかりつ」 祖父が書いた句です。
祖父は奥さんと私の母と 母の妹1人 母の弟が2人 6人家族だった。
祖父は勤務中、母は魚雷を造る兵器工場で仕事をしていた。
4人は自宅にいたが、被爆して4人は亡くなった。
母は瀕死の重傷を負った。
それからは祖父と母はどん底の生活だった。
祖父の日記を5年前に私の手元で管理するようになって 30数冊あるが、今まで全く知らなかったことが書いてあった。
娘の看病で仕事も解雇され、その日その日を生きることに大変だった生活が続いている。
母は左に熱線を浴びて、皮膚がただれて指先まで垂れ下がっていた様で、逃げるのに邪魔でそれを引きちぎって逃げたそうです。
外傷としてはその傷が凄かった。
後に皮膚の移植手術で、お尻の肉を腕に持ってきたりして、結果的にはケロイドが残ったが。
私は祖父には家に行って英語などを教えてもらっていた。
日記を見て母が祖父の懸命の看護があって、母が生き延びたことが判った。
それを読んだときには祖父には感謝、感謝だった。
祖父の看病がなければ、今の私はないのですから。
母からはすこしは聞いていたが、そんなにひどいとは思わなかった。
祖父はいっぱい句を残している。
「何もかも 無くした手に 4枚の爆死証明」 と言う句がある。
祖父は幼いころ養子に出されていて、養父母に育てられた。
自分は実の親には捨てられたと思って生きてきた、と日記に書いている。
結婚して、昭和20年に城山に強制疎開された。 6人で楽しい生活を始める。
せっかく築いた家庭を8月9日を境に壊されてしまって、4人を失ってしまった。
「何もかも 無くした手に 4枚の爆死証明」
この句は皆さんにお伝えしなければいけないと思う句です。
祖父は、荻原井泉水主宰する同人に入って先輩には山頭火さんがいますが、日記に書いてあるが、山頭火さんたちは自分から寂しさを捨てた、捨てた寂しさと奪われた寂しさは違うと書いてある。
山頭火さんは長崎にも来たが、その時に祖父が案内している。
「身をよせにゆく 二人なら 皿も二枚」
残された二人が親類縁者を二人がお皿2枚持って訪ねてゆく不憫さ、いままで本当に幸せな暮らしをしていた人たちが突然変わってしまう、この落差を この俳句は見事に表現しているのかなと思います。
原爆で亡くなられた方も大事ですが、残された人達の苦しみ、悲惨だったという事を伝えてゆく事も
必要じゃないかと思っています。
祖父からも、母からも詳しくは聞いていない。
母は頑張り屋さんだった。
当時姉は看護婦になるために東京に出たが、私と弟を育てるためにきつい身体を酷使して働いた。
今私がこういう年齢になって、大変だっただろうなあと思います。(56歳)
母が亡くなったのは55歳 診断は心臓死 永い間酷使した心臓が動かなくなったんでしょうね。
亡くなった日には弟は結婚していて、私が一番苦労をかけたんだろうと思います。
私は学校を卒業して、社会人になって長崎を出ました。
母を残して外に行くべきではなかったという気がする。
福島県の郡山に勤務していて、福岡への転勤が決まって、引き継ぎが終わった時に母の死の連絡があった。(結婚もきまっていた時期)
被爆二世は親から被爆体験を受け継いでない人が多い。
私も具体的な話は聞いていないが、日々の言動、戦争は絶対だめだと、母の意思はひしひしと伝わってきているので、原爆などはもってのほかだと、私の心の中にも刻まれている。
娘が2人います。 長女が結婚して孫がいます。
孫がこんなに可愛いいのかと、実際自分で手にするまでは思わなかった。
娘には祖父、母のことを話はしたが。
娘が全国中学生人権作文コンテストに応募、長崎県大会で優勝した作品。
「あの日以来生活も性格も変わりました。 ビデオの中で祖母がこう語っています。
祖母は今から55年前 15歳の時 学徒動員されていた工場で被爆しました。
城山に在った家は壊され、中学1年と4歳の弟、生後7か月の妹、母親も亡くしました。
自分の皮膚の移植手術を受けるほどのやけどを首と両腕に負ってしまったけれど、強く生き続けた祖母はその後、10数年間語り部として修学旅行の生徒に原爆の恐ろしさを語り続けました。
そして15年前55歳で亡くなりました。
今まで私は何度どなく戦争の映画や体験談を見たり聞いたりしてきましたが、いつも恐いと言う想いだけで耳をふさいだり眼をつむったり、してきました。
しかし、去年父が恐がっているばかりではだめだ、しっかり聞いて今から戦争をしないように伝えてゆく事が大切だと言って、一本のビデオを見せてくれました。
それが祖母の被爆体験ビデオでした。
その時初めて話をしている祖母を見、祖母の声を聞きました。
ほっぺのところがゆいに似ているねと母に云われて、そうかなあと嬉しくなりました。
それから祖母や祖母のお父さんが書いた体験談を沢山読みました。
そこにはやけどではがれた自分の皮膚を引きちぎったと言う事、やけどの跡が腐り何年も生死の世界をさまよってやっと生き延びたこと、それでも首から腕にケロイドが残り、赤血球の数が普通の人の半分しかなくずーっと病院に行っていた祖母の事、自分の妻や自分の子供達を自分の手で焼いて弔った曾祖父のことなど、本当は怖い地獄絵の様な事実が書かれていました。
しかし私はおばあちゃん ひいおじいちゃんに出会えたという気持ちが強く、おばあちゃんは私と同じ年ごろに必死で生きていたんだなあと、考えながら一生懸命に読みました。
かわいそうと言われるのが嫌で、何くそという気持ちでにらみ返していた、祖母はこういことも語っています。
又誰かが綺麗な手を取り換えてあげると言っても、私はそんなものはいらない、一緒に生きてきた手だからとも、 今の私が祖母と同じ状況だったら、多分自分のことだけ考えて、どうして私がこんな目にあうんだろう、今までの生活、今迄の私を返して、こう思うだろう。
でも祖母はだれを恨むのでもなく、自分が置かれた現実を見つめ、過去を振り返らず、之からどうしなければいけないのか、未来を見て生き続けたのだと思いました。
私は祖母をかわいそうと思ったり、同情する事は止めようと思いまいた。
前向きに生きた祖母を誇らしく思います。
今回祖母のことを書こうと思ったのは、本やビデオから55年前の真実を伝えてほしいと言う祖母からのメッセージを感じたからです。
唯ちゃん あなたと同じ年ごろの子供たちが、いえもっと小さい子供たちが、なにが起きたのか、どうして自分達が死ななければならないのか理由が判らず、命を落としてしまったのよと、私は祖母が頑張って生きてくれたから、ここにいられるのです。
これから私に、私たち若ものにできる事は生きたくても生きられなかった人達の分まで頑張って生きる事です。
最近、自分勝手な考えで、人を殺したり、自殺したり、むやみに人をいじめたりすると言う事を耳にします。
今の世の中は平和で有るはずだと私は思います。
けれども絶え間なく報道される事件の数々、私たちはこの平和な状態に甘え過ぎているのではないでしょうか。
平和を願い、生き続けた祖母たちのことを考えると戦争があったことや、苦しんだ人たちがいることを忘れそうになっている今の世の中に無性に腹が立ってきます。
今私たちがやらなければならないことは、2度と悲劇を起こさないよう、ずーとずっと祖母たちの願いを語り継いでゆく事、其れが苦しい状況の中で生き抜き、父へ そして私へと命を繋いでくれた祖母に対する唯一の恩返しだと思います。」
ゆいは今27歳で結婚して昨年子供が生まれました。
外国人と結婚してオーストラリアに住んでいます。
願わくば、孫に祖父の体験した事、母の体験したことを英語に書いてもらって世界に発信してもらっていけるのかなあと思います。 世界中に広げてほしいと願ってます。
被爆者が段々少なくなって、被爆二世、被爆三世とか家族の体験の継承を推進してゆくと言う事業が始まった。
被爆の継承にいろんな形があり、朗読、紙芝居、本にしたりしている。
*台風情報のため中途から放送。
24万人のうち7万4000人が亡くなり、7万5000人が負傷しました。
爆心地に近い城山に住んでいた、平山さんの祖父、松尾あつゆきさんは妻と子供3人を失いました。
原爆で重症を負いながら生き残った娘、みち子さんとの二人だけの厳しい暮らしが始まりました。
その様子について、松尾さんが書き残した日記には、戦争によって引き裂かれる家族の苦しみが描かれています。
松尾さんの孫でみち子さんの長男にあたる平田周さんに伺います。
原爆が落ちた場所は長崎駅から北に2~3km離れたところ。
「幸福のみことのり 妻を焼く火 いまぞさかりつ」 祖父が書いた句です。
祖父は奥さんと私の母と 母の妹1人 母の弟が2人 6人家族だった。
祖父は勤務中、母は魚雷を造る兵器工場で仕事をしていた。
4人は自宅にいたが、被爆して4人は亡くなった。
母は瀕死の重傷を負った。
それからは祖父と母はどん底の生活だった。
祖父の日記を5年前に私の手元で管理するようになって 30数冊あるが、今まで全く知らなかったことが書いてあった。
娘の看病で仕事も解雇され、その日その日を生きることに大変だった生活が続いている。
母は左に熱線を浴びて、皮膚がただれて指先まで垂れ下がっていた様で、逃げるのに邪魔でそれを引きちぎって逃げたそうです。
外傷としてはその傷が凄かった。
後に皮膚の移植手術で、お尻の肉を腕に持ってきたりして、結果的にはケロイドが残ったが。
私は祖父には家に行って英語などを教えてもらっていた。
日記を見て母が祖父の懸命の看護があって、母が生き延びたことが判った。
それを読んだときには祖父には感謝、感謝だった。
祖父の看病がなければ、今の私はないのですから。
母からはすこしは聞いていたが、そんなにひどいとは思わなかった。
祖父はいっぱい句を残している。
「何もかも 無くした手に 4枚の爆死証明」 と言う句がある。
祖父は幼いころ養子に出されていて、養父母に育てられた。
自分は実の親には捨てられたと思って生きてきた、と日記に書いている。
結婚して、昭和20年に城山に強制疎開された。 6人で楽しい生活を始める。
せっかく築いた家庭を8月9日を境に壊されてしまって、4人を失ってしまった。
「何もかも 無くした手に 4枚の爆死証明」
この句は皆さんにお伝えしなければいけないと思う句です。
祖父は、荻原井泉水主宰する同人に入って先輩には山頭火さんがいますが、日記に書いてあるが、山頭火さんたちは自分から寂しさを捨てた、捨てた寂しさと奪われた寂しさは違うと書いてある。
山頭火さんは長崎にも来たが、その時に祖父が案内している。
「身をよせにゆく 二人なら 皿も二枚」
残された二人が親類縁者を二人がお皿2枚持って訪ねてゆく不憫さ、いままで本当に幸せな暮らしをしていた人たちが突然変わってしまう、この落差を この俳句は見事に表現しているのかなと思います。
原爆で亡くなられた方も大事ですが、残された人達の苦しみ、悲惨だったという事を伝えてゆく事も
必要じゃないかと思っています。
祖父からも、母からも詳しくは聞いていない。
母は頑張り屋さんだった。
当時姉は看護婦になるために東京に出たが、私と弟を育てるためにきつい身体を酷使して働いた。
今私がこういう年齢になって、大変だっただろうなあと思います。(56歳)
母が亡くなったのは55歳 診断は心臓死 永い間酷使した心臓が動かなくなったんでしょうね。
亡くなった日には弟は結婚していて、私が一番苦労をかけたんだろうと思います。
私は学校を卒業して、社会人になって長崎を出ました。
母を残して外に行くべきではなかったという気がする。
福島県の郡山に勤務していて、福岡への転勤が決まって、引き継ぎが終わった時に母の死の連絡があった。(結婚もきまっていた時期)
被爆二世は親から被爆体験を受け継いでない人が多い。
私も具体的な話は聞いていないが、日々の言動、戦争は絶対だめだと、母の意思はひしひしと伝わってきているので、原爆などはもってのほかだと、私の心の中にも刻まれている。
娘が2人います。 長女が結婚して孫がいます。
孫がこんなに可愛いいのかと、実際自分で手にするまでは思わなかった。
娘には祖父、母のことを話はしたが。
娘が全国中学生人権作文コンテストに応募、長崎県大会で優勝した作品。
「あの日以来生活も性格も変わりました。 ビデオの中で祖母がこう語っています。
祖母は今から55年前 15歳の時 学徒動員されていた工場で被爆しました。
城山に在った家は壊され、中学1年と4歳の弟、生後7か月の妹、母親も亡くしました。
自分の皮膚の移植手術を受けるほどのやけどを首と両腕に負ってしまったけれど、強く生き続けた祖母はその後、10数年間語り部として修学旅行の生徒に原爆の恐ろしさを語り続けました。
そして15年前55歳で亡くなりました。
今まで私は何度どなく戦争の映画や体験談を見たり聞いたりしてきましたが、いつも恐いと言う想いだけで耳をふさいだり眼をつむったり、してきました。
しかし、去年父が恐がっているばかりではだめだ、しっかり聞いて今から戦争をしないように伝えてゆく事が大切だと言って、一本のビデオを見せてくれました。
それが祖母の被爆体験ビデオでした。
その時初めて話をしている祖母を見、祖母の声を聞きました。
ほっぺのところがゆいに似ているねと母に云われて、そうかなあと嬉しくなりました。
それから祖母や祖母のお父さんが書いた体験談を沢山読みました。
そこにはやけどではがれた自分の皮膚を引きちぎったと言う事、やけどの跡が腐り何年も生死の世界をさまよってやっと生き延びたこと、それでも首から腕にケロイドが残り、赤血球の数が普通の人の半分しかなくずーっと病院に行っていた祖母の事、自分の妻や自分の子供達を自分の手で焼いて弔った曾祖父のことなど、本当は怖い地獄絵の様な事実が書かれていました。
しかし私はおばあちゃん ひいおじいちゃんに出会えたという気持ちが強く、おばあちゃんは私と同じ年ごろに必死で生きていたんだなあと、考えながら一生懸命に読みました。
かわいそうと言われるのが嫌で、何くそという気持ちでにらみ返していた、祖母はこういことも語っています。
又誰かが綺麗な手を取り換えてあげると言っても、私はそんなものはいらない、一緒に生きてきた手だからとも、 今の私が祖母と同じ状況だったら、多分自分のことだけ考えて、どうして私がこんな目にあうんだろう、今までの生活、今迄の私を返して、こう思うだろう。
でも祖母はだれを恨むのでもなく、自分が置かれた現実を見つめ、過去を振り返らず、之からどうしなければいけないのか、未来を見て生き続けたのだと思いました。
私は祖母をかわいそうと思ったり、同情する事は止めようと思いまいた。
前向きに生きた祖母を誇らしく思います。
今回祖母のことを書こうと思ったのは、本やビデオから55年前の真実を伝えてほしいと言う祖母からのメッセージを感じたからです。
唯ちゃん あなたと同じ年ごろの子供たちが、いえもっと小さい子供たちが、なにが起きたのか、どうして自分達が死ななければならないのか理由が判らず、命を落としてしまったのよと、私は祖母が頑張って生きてくれたから、ここにいられるのです。
これから私に、私たち若ものにできる事は生きたくても生きられなかった人達の分まで頑張って生きる事です。
最近、自分勝手な考えで、人を殺したり、自殺したり、むやみに人をいじめたりすると言う事を耳にします。
今の世の中は平和で有るはずだと私は思います。
けれども絶え間なく報道される事件の数々、私たちはこの平和な状態に甘え過ぎているのではないでしょうか。
平和を願い、生き続けた祖母たちのことを考えると戦争があったことや、苦しんだ人たちがいることを忘れそうになっている今の世の中に無性に腹が立ってきます。
今私たちがやらなければならないことは、2度と悲劇を起こさないよう、ずーとずっと祖母たちの願いを語り継いでゆく事、其れが苦しい状況の中で生き抜き、父へ そして私へと命を繋いでくれた祖母に対する唯一の恩返しだと思います。」
ゆいは今27歳で結婚して昨年子供が生まれました。
外国人と結婚してオーストラリアに住んでいます。
願わくば、孫に祖父の体験した事、母の体験したことを英語に書いてもらって世界に発信してもらっていけるのかなあと思います。 世界中に広げてほしいと願ってます。
被爆者が段々少なくなって、被爆二世、被爆三世とか家族の体験の継承を推進してゆくと言う事業が始まった。
被爆の継承にいろんな形があり、朗読、紙芝居、本にしたりしている。
2014年8月9日土曜日
山口岩夫(元NHKアナウンサー) ・戦時下で放送を続けた日々
山口岩夫(元NHKアナウンサー) 戦時下で放送を続けた日々
太平洋戦争末期、日本各地の都市はアメリカ軍の空襲にさらされました。
ラジオからは連日のように空襲警報や警戒警報が伝えられました。
当時大阪放送のアナウンサーだった、山口さんは、中部軍司令部に詰めて、空襲警報、警戒警報をつたえていました。
昭和15年日本放送協会に入局した山口さんは、昭和16年には南太平洋パラオのパラオ放送局の初代のアナウンサーとして赴任します。
昭和19年から20年にかけては大阪放送局でマイクに向かい続けました。
戦時中のアナウンサーは何を見て、何を伝えていたのか、伺いました。
昭和15年 年に3回募集があり37人採用 もう生きている人はいません。
藤倉修一さんと同期。
戦時中は、構えて朗々と話すような感じだった。
ラジオ年鑑 どのように活動したかの記録が残っているが、15年度の記録がとんでいる。
16年度の採用は3回に渡って採用している記録がある。
アナウンサーとは言わず、放送員と呼んでいた。
生まれは和歌山県、 友人がこんな試験があると言う事で、云われて、受けてみようと思って20数人応募して、2人採用だった。
大阪局は6~7人だった。 最初は簡単な天気予報だった。
招集が増えて人が減ってきた。
昭和16年4月には南太平洋パラオのパラオ放送局に転勤。(自ら手を挙げた)
横浜-神戸-パラオに13時間かかって着いた。
開局2元放送 パラオの近況などを話した。
年間平均温度 28℃ 過ごしやすい。
パラオ放送局の使命はアメリカ向けの対外放送するためにやった。
南洋群島の人々に日本と同じ番組を送ると言うのが大義名分だった。
国策の拠点だった。
昭和18年、19年 船がやられるので米が届かず、食糧難だった。
パラオに来ていた人達も段々内地に引き揚げてきた。
昭和19年1月内地転勤の辞令がくる。 3月19日空路転勤。(軍の飛行機に乗ることができた)
サイパン経由で横浜に帰る。 直後アメリカの空襲があり、7月には大規模な空襲で放送局は機能を喪失し、8月1日には活動を停止する。(開局から3年に満たない)
結婚して、徳島放送局、大阪放送局勤務になる。
陸軍中部軍司令部に詰めて、空襲警報等の放送に交代で当たる事になる。
地下2,3階に作戦室があり、壁に地図があり、監視所から入ってくる情報で、オレンジのランプを点灯、航跡が判る様になっている。
原稿が放送室に差し込まれて、それを元に放送する。
最初にブザーが鳴り、其れが合図となり放送するように成っていた。
岡山大空襲は知らない間に、行われていた。(通信線が切られていた。)
後に岡山に転勤したときに、随分岡山の人に恨まれました。
神戸、大阪などが 次々にやられてゆく。
どこで空襲に遭ってもいい様に、ふんどしだけは毎日取り替えてゆくと言う様な生活だった。
玉音放送 放送局で聞いた。
前日に、重大な放送があることは知ることはできたが、多分戦争終了であろうことは判った。
ショックはなかった、むしろほっとした思いだった。
我々のところに原稿を運ぶ軍曹などは泣いていた。
戦争に入ってしまうと、人間は正統性を自分で持つようになる、其れが怖いと思う。
戦争ってつまんないですよ。
戦争の大義名分を作る様ですが、戦争で解決すると言う事は愚かですね。
私の兄弟、長男も次男も戦争で亡くなっている。
太平洋戦争末期、日本各地の都市はアメリカ軍の空襲にさらされました。
ラジオからは連日のように空襲警報や警戒警報が伝えられました。
当時大阪放送のアナウンサーだった、山口さんは、中部軍司令部に詰めて、空襲警報、警戒警報をつたえていました。
昭和15年日本放送協会に入局した山口さんは、昭和16年には南太平洋パラオのパラオ放送局の初代のアナウンサーとして赴任します。
昭和19年から20年にかけては大阪放送局でマイクに向かい続けました。
戦時中のアナウンサーは何を見て、何を伝えていたのか、伺いました。
昭和15年 年に3回募集があり37人採用 もう生きている人はいません。
藤倉修一さんと同期。
戦時中は、構えて朗々と話すような感じだった。
ラジオ年鑑 どのように活動したかの記録が残っているが、15年度の記録がとんでいる。
16年度の採用は3回に渡って採用している記録がある。
アナウンサーとは言わず、放送員と呼んでいた。
生まれは和歌山県、 友人がこんな試験があると言う事で、云われて、受けてみようと思って20数人応募して、2人採用だった。
大阪局は6~7人だった。 最初は簡単な天気予報だった。
招集が増えて人が減ってきた。
昭和16年4月には南太平洋パラオのパラオ放送局に転勤。(自ら手を挙げた)
横浜-神戸-パラオに13時間かかって着いた。
開局2元放送 パラオの近況などを話した。
年間平均温度 28℃ 過ごしやすい。
パラオ放送局の使命はアメリカ向けの対外放送するためにやった。
南洋群島の人々に日本と同じ番組を送ると言うのが大義名分だった。
国策の拠点だった。
昭和18年、19年 船がやられるので米が届かず、食糧難だった。
パラオに来ていた人達も段々内地に引き揚げてきた。
昭和19年1月内地転勤の辞令がくる。 3月19日空路転勤。(軍の飛行機に乗ることができた)
サイパン経由で横浜に帰る。 直後アメリカの空襲があり、7月には大規模な空襲で放送局は機能を喪失し、8月1日には活動を停止する。(開局から3年に満たない)
結婚して、徳島放送局、大阪放送局勤務になる。
陸軍中部軍司令部に詰めて、空襲警報等の放送に交代で当たる事になる。
地下2,3階に作戦室があり、壁に地図があり、監視所から入ってくる情報で、オレンジのランプを点灯、航跡が判る様になっている。
原稿が放送室に差し込まれて、それを元に放送する。
最初にブザーが鳴り、其れが合図となり放送するように成っていた。
岡山大空襲は知らない間に、行われていた。(通信線が切られていた。)
後に岡山に転勤したときに、随分岡山の人に恨まれました。
神戸、大阪などが 次々にやられてゆく。
どこで空襲に遭ってもいい様に、ふんどしだけは毎日取り替えてゆくと言う様な生活だった。
玉音放送 放送局で聞いた。
前日に、重大な放送があることは知ることはできたが、多分戦争終了であろうことは判った。
ショックはなかった、むしろほっとした思いだった。
我々のところに原稿を運ぶ軍曹などは泣いていた。
戦争に入ってしまうと、人間は正統性を自分で持つようになる、其れが怖いと思う。
戦争ってつまんないですよ。
戦争の大義名分を作る様ですが、戦争で解決すると言う事は愚かですね。
私の兄弟、長男も次男も戦争で亡くなっている。
2014年8月8日金曜日
朝長万佐男(診療所長) ・医師親子2代、被爆者に寄り添う(2)
朝長万佐男(診療所長) 医師親子2代、被爆者に寄り添う(2)
永い間被爆者と接していて、研究者は被爆の影響を世界に発信し、核兵器の廃絶の原動力になる役割りを負っている時を感じてきました。
アメリカと当時のソ連の医師が、核戦争防止国際医師会議を設立した時は、初めから参加して、国際理事も務め、会議の場で今も苦しむ被爆者の姿を医師として、被爆者として127カ国の代表に訴えてきました。
朝長さんは白血病の研究をしながら、恵の丘 長崎原爆ホームで40年間 週1回の診察を続けてきました。
今年からはホームの診療所長を務めています。
日本の社会は高齢化になっているが、被爆者も同様です。
69年前の影響を身体の方も心の方も引きずっているという問題がある。
400人入居者がいる。 身寄りのない人が多い。 一族郎党被爆して自分しかいないとか。
50周年の時に、精神科の先生と一緒に、長崎の被爆者の7000人の人の精神分析を行った。
近距離被爆者ほど、半世紀たった後も精神状態が良くないと言う事が判った。
PTSD 精神反応が出たり、はっきり統計に出て、英語の論文にして報告している。
心の傷はかなり根深いものがあって、どうやったら取ってあげるかという研究がされてなかった。
被爆者の心の病は、半世紀たってからの治療は不可能に近いという印象を持っている。
非人道性を科学的に証明しようとすると、心の問題よりも癌、白血病がいまだに出ると、云う風な医学的、科学的証拠を積み上げた方が、外国の人に判りやすいと言う事はある。
核兵器廃絶にかかわる人々に広めている段階です。
日本もすでに、占領時代には言論統制が行われて、原爆の人体影響がどうなのか、判らなかったが、研究は行われていた。
冷戦時代に入っていって、核の残虐性、非人道性をうんぬんする以前の問題として、米ソのデスマッチが始まってしまった。
最大の武器が核兵器だった。 核廃絶は夢の又夢になってしまった。
原子力の平和利用という事で、原子力発電所が増えていった。
非核兵器国は商業用原子力発電を持ってもいいという。 NPT条約1960年代に登場した。
核兵器は一時6万発になったが、このままでは人類はとんでもない絶滅の危機になるという考え方が、医者の間(米ソの医者)で高まってきた。 1980年代前半
IPPNW共同体が60万人の医者の組合ができた。
IPPNW共同体がゴルバチョフ、レーガン両国の首脳に訴えた。
ゴルバチョフが今後核実験はしないと、声明を出した。
それによって核実験ができなくなった。
1983年ぐらいから私もIPPNW共同体に参加した。
核戦争防止国際医師会議 (IPPNW) 核廃絶運動のリーダーシップを取っている。
日本は広島の県医師会に本部があり 私は長崎県の会長 国際本部はボストンに在り、そこの副会長も私が務めている。 冷戦時を過ぎて、今は厳しい状況にある。
核戦争になると、都市が破壊され、放射能を帯びた塵が成層圏までまきあがって、太陽光線が遮断され、地球の温度が急速に落ちてきて、核の冬に突入して、食料生産が滞る。
人類は飢餓で倒れてゆく、人類の滅亡につながる。
最初は白血病とかの研究発表に行っていたが、段々核廃絶の運動にのめり込んでいった。
6万発から1万7000発までしぶしぶではあるが、減らしてきた。
ゼロにして行く段取りはまだまったく見えない。
アメリカ、ロシア、フランス、イギリス 中国 それインド、パキスタン、イスラエル、北朝鮮 9カ国が核保有国。
核廃絶の理論武装 核の非人道性を世界中で公認して、核兵器禁止の条約を作れるかどうか、と言うところまで来ている。
核の非人道性に関する国際会議 オスローで第一回があった。 今年はメキシコで有る。
国連とかいろんな場で、被爆体験を語ってきて原爆の悲惨さを訴えて、世界中に広まってきた。
それと私たちが癌、白血病のこととか、心の病の研究を発表して、正確に理解されるようになった。
オバマさんはプラハで、核兵器を唯一使った国で、道義的責任を感じていると、おっしゃった。
将来核兵器廃絶を実現させたいと、おっしゃているが、実際はアメリカの行動はそれに追いついていない。
国際会議には現在、核保有国は参加していない。
核保有国を参加させようと言う方向、非核保有国が170カ国が集まって保有国も従えようと言う方向 その二つがいませめぎ合っている。
核抑止力 信仰している国が多い。
データを出してきた研究者自身が核廃絶運動をやることは、重要だと感じています。
非人道性国際会議に被爆者も7人呼ばれて、発表して感動をあたえて、そのあと私が研究発表して、という2本立てでやってきて、非常に効果はある。
「核廃絶ができますか? Yes I can。」 の「I can」運動がNGO団体などを取りまとめて行っている。
民間レベルで一致してノルウェー、スイス、オーストリア、メキシコとか核廃絶に積極的な国と共同歩調を取って、非人道性の世論を確立させようとしている。
核の傘 日本は核の傘に頼らなければいけない、というジレンマがある。
広島、長崎の合同国際フォーラムを10月に行う。
被爆者、原子力発電所事故の被害者(日本、ロシア)なども招いて行う予定。
平和国家の役目としては、北東アジアから核を無くしていきましょう、アメリカに対して非核の新しい安全保障体制、方法を考えましょうと、訴えていきたい。
アインシュタインは 日本では湯川博士、朝永博士等と相談してパグウォッシュ会議(IPPNWと似たような会議)物理学者の核廃絶会議 を作った。
いまも続いていて来年長崎で行われる予定。
核兵器廃絶しかない。
原爆70周年記念の節目 オバマさんが一人のキーパーソン、日本政府がどうリーダーシップを取るか。
永い間被爆者と接していて、研究者は被爆の影響を世界に発信し、核兵器の廃絶の原動力になる役割りを負っている時を感じてきました。
アメリカと当時のソ連の医師が、核戦争防止国際医師会議を設立した時は、初めから参加して、国際理事も務め、会議の場で今も苦しむ被爆者の姿を医師として、被爆者として127カ国の代表に訴えてきました。
朝長さんは白血病の研究をしながら、恵の丘 長崎原爆ホームで40年間 週1回の診察を続けてきました。
今年からはホームの診療所長を務めています。
日本の社会は高齢化になっているが、被爆者も同様です。
69年前の影響を身体の方も心の方も引きずっているという問題がある。
400人入居者がいる。 身寄りのない人が多い。 一族郎党被爆して自分しかいないとか。
50周年の時に、精神科の先生と一緒に、長崎の被爆者の7000人の人の精神分析を行った。
近距離被爆者ほど、半世紀たった後も精神状態が良くないと言う事が判った。
PTSD 精神反応が出たり、はっきり統計に出て、英語の論文にして報告している。
心の傷はかなり根深いものがあって、どうやったら取ってあげるかという研究がされてなかった。
被爆者の心の病は、半世紀たってからの治療は不可能に近いという印象を持っている。
非人道性を科学的に証明しようとすると、心の問題よりも癌、白血病がいまだに出ると、云う風な医学的、科学的証拠を積み上げた方が、外国の人に判りやすいと言う事はある。
核兵器廃絶にかかわる人々に広めている段階です。
日本もすでに、占領時代には言論統制が行われて、原爆の人体影響がどうなのか、判らなかったが、研究は行われていた。
冷戦時代に入っていって、核の残虐性、非人道性をうんぬんする以前の問題として、米ソのデスマッチが始まってしまった。
最大の武器が核兵器だった。 核廃絶は夢の又夢になってしまった。
原子力の平和利用という事で、原子力発電所が増えていった。
非核兵器国は商業用原子力発電を持ってもいいという。 NPT条約1960年代に登場した。
核兵器は一時6万発になったが、このままでは人類はとんでもない絶滅の危機になるという考え方が、医者の間(米ソの医者)で高まってきた。 1980年代前半
IPPNW共同体が60万人の医者の組合ができた。
IPPNW共同体がゴルバチョフ、レーガン両国の首脳に訴えた。
ゴルバチョフが今後核実験はしないと、声明を出した。
それによって核実験ができなくなった。
1983年ぐらいから私もIPPNW共同体に参加した。
核戦争防止国際医師会議 (IPPNW) 核廃絶運動のリーダーシップを取っている。
日本は広島の県医師会に本部があり 私は長崎県の会長 国際本部はボストンに在り、そこの副会長も私が務めている。 冷戦時を過ぎて、今は厳しい状況にある。
核戦争になると、都市が破壊され、放射能を帯びた塵が成層圏までまきあがって、太陽光線が遮断され、地球の温度が急速に落ちてきて、核の冬に突入して、食料生産が滞る。
人類は飢餓で倒れてゆく、人類の滅亡につながる。
最初は白血病とかの研究発表に行っていたが、段々核廃絶の運動にのめり込んでいった。
6万発から1万7000発までしぶしぶではあるが、減らしてきた。
ゼロにして行く段取りはまだまったく見えない。
アメリカ、ロシア、フランス、イギリス 中国 それインド、パキスタン、イスラエル、北朝鮮 9カ国が核保有国。
核廃絶の理論武装 核の非人道性を世界中で公認して、核兵器禁止の条約を作れるかどうか、と言うところまで来ている。
核の非人道性に関する国際会議 オスローで第一回があった。 今年はメキシコで有る。
国連とかいろんな場で、被爆体験を語ってきて原爆の悲惨さを訴えて、世界中に広まってきた。
それと私たちが癌、白血病のこととか、心の病の研究を発表して、正確に理解されるようになった。
オバマさんはプラハで、核兵器を唯一使った国で、道義的責任を感じていると、おっしゃった。
将来核兵器廃絶を実現させたいと、おっしゃているが、実際はアメリカの行動はそれに追いついていない。
国際会議には現在、核保有国は参加していない。
核保有国を参加させようと言う方向、非核保有国が170カ国が集まって保有国も従えようと言う方向 その二つがいませめぎ合っている。
核抑止力 信仰している国が多い。
データを出してきた研究者自身が核廃絶運動をやることは、重要だと感じています。
非人道性国際会議に被爆者も7人呼ばれて、発表して感動をあたえて、そのあと私が研究発表して、という2本立てでやってきて、非常に効果はある。
「核廃絶ができますか? Yes I can。」 の「I can」運動がNGO団体などを取りまとめて行っている。
民間レベルで一致してノルウェー、スイス、オーストリア、メキシコとか核廃絶に積極的な国と共同歩調を取って、非人道性の世論を確立させようとしている。
核の傘 日本は核の傘に頼らなければいけない、というジレンマがある。
広島、長崎の合同国際フォーラムを10月に行う。
被爆者、原子力発電所事故の被害者(日本、ロシア)なども招いて行う予定。
平和国家の役目としては、北東アジアから核を無くしていきましょう、アメリカに対して非核の新しい安全保障体制、方法を考えましょうと、訴えていきたい。
アインシュタインは 日本では湯川博士、朝永博士等と相談してパグウォッシュ会議(IPPNWと似たような会議)物理学者の核廃絶会議 を作った。
いまも続いていて来年長崎で行われる予定。
核兵器廃絶しかない。
原爆70周年記念の節目 オバマさんが一人のキーパーソン、日本政府がどうリーダーシップを取るか。
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