島利栄子(女性の日記から学ぶ会代表) 女性の日記が伝える 昭和史
戦前戦後の一般庶民がつづった日記や手紙を収集保存して、貴重な遺産として後世に残していこうという活動を続けて居るグループが千葉県八千代市に有ります
17年前に誕生した、女性の日記から学ぶ会
スタート時は女性会員がほとんどでしたが、次第に男性も増えてきて、現在は会員230人のうち、100人近くが男性です
これまで提供を受けた日記や手紙類は、およそ4500点、会員たちが手分けして読み説いたものは、目録を作り整理保存、更に会報誌や、ホームページで公開しているほか、活動の成果を本にまとめるなどの活動を展開してきました
現存する普通の人の日記、手紙、家計簿などを集めて、保存して、活用して、次の世代に譲り渡していきたいという事を目標にしている団体です
私は子供の頃から、趣味と言えば、本を読むこと、日記を書くことぐらいでした
結婚してからも、育児日記、家計簿、献立日記、介護日記と 約60年間日記を書いてきている
聞き書きを始めるようになってから、段々と年を召された方が、捨てるに捨てられないという想いを抱いている
これを私が預かって、次の世代に渡すように出来ればいいと思って、仲間を募って活動を始めた
空襲のさなかに、逃げるときにバックに必需品、最低の物を持って逃げるわけですが、ノートを持って防空壕で書いていたと言う方もいる
書きたいと言う想いはどんなに環境が過酷であっても、書かねば居られない思いがあるのではないんでしょうか
伝えたい思いは大変になれば大変になるほど、強いのではないかと思います
17年間に4500点集める
会が創立した時点では日記はプライベートなものなので、中には愚痴、悪口等があるので、そんなに集まらないのではないかと思っていた
やってゆくと、珍しい活動だといろいろ紹介されて、祖父母、父母などの日記があると言う事で、いろいろ話を聞いたりして、信用をしていただいた後にあずかることが多い(時間がかかる)
傷んだものは修理して、個人、グループで読んだりして、原稿用紙に書いて、日記展をやったり、研究会をしたりしながら纏めてゆく
現在は私の家の書庫を改造して、分類して (名前別、時代順、分類の仕方をいろいろして)整理保存している
大事な宝物だと思うので、きちんと受け止めて、伝えてゆくことが大事だろうと思っている
原稿用紙に書き込んだり、パソコン入力したりしている
男性は定年退職した人が多い 八千代市で活動する月例会には25名程度集まる
機関誌 日記ロマン 56号になる(B5 8ページ)
個人の記録なので、時代背景が解るわけではない いろいろ人の名前、場所が出てくるので関係が解らないこともあり、初めは苦労するが、飛ばして読んでいるうちに、ぱっと解るようになったりする
何人かでやると、情報交換できる(地方の方言とか、得意分野が違うので)
展示を通して、訴えている 全国で日記展をやっている 30数回やっている
実物を取って見る機会はあまりないので、100年前の日記を手にとって見ることで目を輝かせる
書くことの大切さ、もある
入手は明治の終わりごろからになる 太平洋戦争当時の物が一番寄贈されるものが多い
戦地での遺書にも近いような手紙、親から戦地の子にたいする手紙、妻から戦地に行っている夫に送る手紙、等等 いろいろな手紙を出版物として、出さしてもらった
戦地から家族にあてた、92通をまとめたもの 夫は沖縄戦で戦死、妻が高齢になって明日へも解らない時に、妻から娘に私が死んだらお墓に入れてほしいと言う事で頼まれていた包みがあった
たまたま私の活動を聞いて、開けて観たら92通の戦地からの手紙があり、娘は寝食を忘れて、貪るように読んだそうです とうさんと言って泣きながら読んだようです
あーこの活動をしていて、良かったなあと思った
戦時下の日記にはいろいろなものが寄せられているので未だに全部読み切ることはできない
ひもじさよりも、皆で分け合って食べた、その喜びの方が印象が強いと言っている
空襲で全員が焼きだされて、千葉に疎開して、8人が4畳半で生活して、必死で生き抜いた内容
農村の少女が慰問文をせっせと書いた物もある
戦時中、終戦直後の声にならない、民意が日記とか手紙につづられていた 心の声(本音)
本音を拾い出してゆくことは大事な仕事だと言う気がする
子供に伝える出前授業をした 小学4年生 60人ぐらい
食事日記、妻が戦地に送った手紙、絵日記 3種類を紹介した
給食と戦時下の食事(大豆ご飯)の現品を比較をした
「聞かせて、あなたの戦中戦後」 81歳の会員の人が あと2年もすれば話せなくなってしまうので、今のうちに話させてよ と言う事になり、話を聞かせてもらう事になる
若い会員が相次いで入会された そしてこの会は語り部の宝庫だと言われた
今年に「聞かせて、あなたの戦中戦後」のプロジェクトを立ち上げた(若者が中心になって運営)
公開トーク おじいちゃんおばあちゃんから孫の世代への語り
2013年8月14日水曜日
2013年8月13日火曜日
伊勢真一(ドキュメンタリ映画監督) ・映像は戦争を忘れない
伊勢真一(ドキュメンタリ映画監督) 映像は戦争を忘れない
伊勢さんは自分と同じ映画監督だった父が、戦時中インドネシアで製作し、現地で上映されたという映画について長年取材しています
今は亡き父が製作した映画を見たり、インドネシアで聞き取り調査をした結果、映画は日本の国策として作られ、自分の父親は様々な思いや、メッセージを込めて製作したと考えています
そうした父親の生涯について描こうと伊勢さんはドキュメンタリー映画の製作にも当たっています
父の思いに迫る伊勢さんに伺います
ドキュメンタリー映画 30年かかって、もうすこしなんですが、実際に取材を始めたりしたのが30年前
父は60歳で亡くなる (40年前) 父はいったいどうしていたんだろうと言う事が元になっている
父親は報道班でジャワにいった ジャワの国内で、インドネシアの人たちを日本人の考えになってもらい、というか 一体化政策、プロパガンダの役割り、それを映画で伝えようと、映画で日本の言葉、文化、考え方が優れていることをインドネシアに伝えて、そのことでアジアで戦っている日本の戦争が、とってもインドネシアにとっても必要なんだと、納得するような役割の映画を主に作り続けた
3年ぐらいいた 昭和17年から20年まで 凄い数を作った
残されたフィルムがオランダに接収されてあるが、解っているだけでもかなりの数のフィルムがある
日本にもあるが、あんまりいい保管状態ではなく、数もない
インドネシアはオランダの植民地だったが、解放すると、日本軍は占領下に収めて、インドネシアを統治した
文化戦線 今でいうジャーナリスト、音楽家、絵描き、小説家、ペンで戦うんだと言うようなこと
父もこれの一翼を担った
インドネシアでは日本は解放軍だと言われたが、実際には軍隊が駐留して、日本の植民地になった
理不尽なことをされたかと言うとほかのアジアの国にくらべれば、そうではなかったが
作った映画の内容
宮城礼拝(皇居に向かって毎朝お辞儀をするという)映画とか、 隣り組を作ってちゃんと守りましょうとか、防衛義勇軍を皆で作ろうとか、貯金しましょうとか 映画を作って皆に教え込んでいた
一番強いのは日本語競技会 日本語を競わせて、日本語を学ばせる教育映画
労務者募集 いまでいうリクルート映画 国策のために戦争に駆り立てる役割を担った
オランダにいってフィルムを見たり、一部日本でも見る機会があり、段々父が何をやっていたかを段々知るようになった
研究者の方に聞いて、オランダにフィルムがあることを知った
父親のそういう事から、特に記録映画の映画人が、どんなふうにして、戦争中、戦後を生きたかをドキュメンタリーを作っている一人として、今残していく必要があると思った
直接聞ける映画人はもうすべて居なくなってしまった
もう手遅れかもしれないし、30年の歳月がやっぱり必要だったのかなあと、両方の気持ちがある
息子も私の父親の事、インドネシアのことを知りたいと言う風になって、手伝ってくれるようになった
戦争と言う時代を今の若い人はそのことを自分なりに、記憶をまさぐるようにして、知りたいと言う気持ちを強く持っていると思うんですよ
知りたいと言う、とっかかりが、たまたま息子の場合には、祖父であり、父親である私が知りたいと思って探っていると言う事につながる
忘れないと言う事のとっかかりになればいいと思っている
人間は忘れっぽくて忘れてしまうかもしれないが、映像は覚えているんだと言う事を、父親がインドネシアで作ったフィルムをオランダで見てそう思った
震災も作って見てもらっているが、映像は覚えていると言う事を、物凄く強くあると言う事は、上映の会場で見ている人達の反応で良く分かる
映像をしっかり残すと言う事は、すぐに力を発揮しないかもしれないが、きっと何かを語り始めることを信じている
自分で考えて間違っているかもしれないけれど、自分で考えて、そのことを事実として、こういう事があったという事を皆に知ってもらう事と、自分が父親の仕事をしっかり見直すことで、父親の存在も世の中に知られていると言う事が無かった職人の映画人であった存在も、思ってもらえればいいと思う
見る人が自分で考えて、自分で思いを巡らして、映っているものの中から、見る人の物語を紡いでいくと言うのが、映画の面白さだと思う
極東軍事裁判の特報(父親が作った) 昭和24年製作 20分ぐらいの短編(臨時ニュース的なもの) やっぱり平和でなければいやだと言う心情があふれている特報映画
父親の定点 どこにあるのかと言うとやっぱり平和でなければいやだというところにあるのではないかと思う
伊勢さんは自分と同じ映画監督だった父が、戦時中インドネシアで製作し、現地で上映されたという映画について長年取材しています
今は亡き父が製作した映画を見たり、インドネシアで聞き取り調査をした結果、映画は日本の国策として作られ、自分の父親は様々な思いや、メッセージを込めて製作したと考えています
そうした父親の生涯について描こうと伊勢さんはドキュメンタリー映画の製作にも当たっています
父の思いに迫る伊勢さんに伺います
ドキュメンタリー映画 30年かかって、もうすこしなんですが、実際に取材を始めたりしたのが30年前
父は60歳で亡くなる (40年前) 父はいったいどうしていたんだろうと言う事が元になっている
父親は報道班でジャワにいった ジャワの国内で、インドネシアの人たちを日本人の考えになってもらい、というか 一体化政策、プロパガンダの役割り、それを映画で伝えようと、映画で日本の言葉、文化、考え方が優れていることをインドネシアに伝えて、そのことでアジアで戦っている日本の戦争が、とってもインドネシアにとっても必要なんだと、納得するような役割の映画を主に作り続けた
3年ぐらいいた 昭和17年から20年まで 凄い数を作った
残されたフィルムがオランダに接収されてあるが、解っているだけでもかなりの数のフィルムがある
日本にもあるが、あんまりいい保管状態ではなく、数もない
インドネシアはオランダの植民地だったが、解放すると、日本軍は占領下に収めて、インドネシアを統治した
文化戦線 今でいうジャーナリスト、音楽家、絵描き、小説家、ペンで戦うんだと言うようなこと
父もこれの一翼を担った
インドネシアでは日本は解放軍だと言われたが、実際には軍隊が駐留して、日本の植民地になった
理不尽なことをされたかと言うとほかのアジアの国にくらべれば、そうではなかったが
作った映画の内容
宮城礼拝(皇居に向かって毎朝お辞儀をするという)映画とか、 隣り組を作ってちゃんと守りましょうとか、防衛義勇軍を皆で作ろうとか、貯金しましょうとか 映画を作って皆に教え込んでいた
一番強いのは日本語競技会 日本語を競わせて、日本語を学ばせる教育映画
労務者募集 いまでいうリクルート映画 国策のために戦争に駆り立てる役割を担った
オランダにいってフィルムを見たり、一部日本でも見る機会があり、段々父が何をやっていたかを段々知るようになった
研究者の方に聞いて、オランダにフィルムがあることを知った
父親のそういう事から、特に記録映画の映画人が、どんなふうにして、戦争中、戦後を生きたかをドキュメンタリーを作っている一人として、今残していく必要があると思った
直接聞ける映画人はもうすべて居なくなってしまった
もう手遅れかもしれないし、30年の歳月がやっぱり必要だったのかなあと、両方の気持ちがある
息子も私の父親の事、インドネシアのことを知りたいと言う風になって、手伝ってくれるようになった
戦争と言う時代を今の若い人はそのことを自分なりに、記憶をまさぐるようにして、知りたいと言う気持ちを強く持っていると思うんですよ
知りたいと言う、とっかかりが、たまたま息子の場合には、祖父であり、父親である私が知りたいと思って探っていると言う事につながる
忘れないと言う事のとっかかりになればいいと思っている
人間は忘れっぽくて忘れてしまうかもしれないが、映像は覚えているんだと言う事を、父親がインドネシアで作ったフィルムをオランダで見てそう思った
震災も作って見てもらっているが、映像は覚えていると言う事を、物凄く強くあると言う事は、上映の会場で見ている人達の反応で良く分かる
映像をしっかり残すと言う事は、すぐに力を発揮しないかもしれないが、きっと何かを語り始めることを信じている
自分で考えて間違っているかもしれないけれど、自分で考えて、そのことを事実として、こういう事があったという事を皆に知ってもらう事と、自分が父親の仕事をしっかり見直すことで、父親の存在も世の中に知られていると言う事が無かった職人の映画人であった存在も、思ってもらえればいいと思う
見る人が自分で考えて、自分で思いを巡らして、映っているものの中から、見る人の物語を紡いでいくと言うのが、映画の面白さだと思う
極東軍事裁判の特報(父親が作った) 昭和24年製作 20分ぐらいの短編(臨時ニュース的なもの) やっぱり平和でなければいやだと言う心情があふれている特報映画
父親の定点 どこにあるのかと言うとやっぱり平和でなければいやだというところにあるのではないかと思う
2013年8月12日月曜日
前村弘(元陸軍特別幹部候補生) ・二度の特攻命令から生還して
前村弘(元陸軍特別幹部候補生) 二度の特攻命令から生還して
大正14年長崎市生まれ 長崎商業高校を繰り上げ卒業して、17歳で志願して陸軍浜松第七航空隊飛行第62連隊の航法士となり、重爆撃機、飛龍に搭乗して、東海沖と沖縄戦の二度の特攻命令を受け出撃しましたが、奇跡的に生還しました
重爆撃機には操縦士、機関士、攻撃をする射手、通信士、航法士が搭乗して、前村さんは爆撃機の位置などを測るナビゲーター的な仕事、昭和20年の戦争末期は戦闘機や搭乗員の不足は甚だしく、重爆撃機も爆弾を機体に縛り付けて、敵艦に体当たりする特攻攻撃をするようになりました
前村さんが所属した飛行第62連隊も多くの特攻攻撃、出撃しましたが戦果はあげることができずに多くの命を落としました
戦後68年経ち、当時の状況を知る人も数えるばかりになりました
前村さんは生きて帰れたことに感謝し、二度と戦争をしてはいけないと、今も戦争体験を語り続けています
仲間が大勢亡くなって、戦友の顔を思い出される
戦後は亡くなられた人たちのお墓を10か所近くお参りしてきた
特攻隊として出撃されたのはうちの部隊の62連隊だけなんですね
飛龍 本来6~7人乗りこんで、敵の軍艦に爆弾を落とすこと
爆弾はワイヤーで縛りつけてあった
一番機に搭乗する 機関砲が一丁前にあった
初めての特攻命令 昭和20年3月19日 九州から帰ってぐっすりと眠っていたが、招集が掛った
飛行服に着替えて、駆け足で飛行場まで行った(15分ぐらいの距離)
幹部が大勢いた 15人ぐらい その前に整列する
戦隊長 から訓示 62連隊もいよいよ総力を挙げて、攻撃することになった、全員気を引き締めて、かかれと、順次出撃するものは、遺書と遺髪、遺礼を用意して、小包みにして自宅に送るように用意しておくようにとの、話があった
特攻攻撃徒の言葉は出なかった 黒板に攻撃は特攻とすると書いてあった
特攻攻撃に参加して死ぬと言う覚悟で皆集まってきているので、或る程度覚悟はしていたが
背筋がぞっとした
私の場合は、全部で4機の編隊の出撃 航法がしっかりしないと目的地まで行けないので、自分の腕で大丈夫だろうかと言う、責任を感じていた
航法 飛行機のナビゲーター
進路、方向、速度が正しく皆に伝わって、一機の脱落が無いように飛行を指示するのが仕事
筑波から一番機に乗り、浜松の南方180kmのところにアメリカの機動部隊が北上しているとの情報あり、出かけた
敵艦が見つからない、ちょうど低気圧が来ていて、雨が降っており、雲の中なので見つからない
高度150mぐらいまで低空飛行をしたが、見つけることは出来なかった
ガソリンが心配になり、兎に角一旦 浜松に帰ることにする
浜松の飛行場には3,4機別の部隊の飛行機が着陸に失敗してさかさまになっていた
3回目にようやく着陸に成功した
見つられなかったことに対して、残念に思った
1ヶ月後 4月17日 鹿児島の金谷から飛び立った
特攻機3機出撃 二番機に搭乗
前の晩、16日には出撃隊員12名が料亭で御馳走になるがあまり食べられなかった
17日は朝5時半に起こされて、朝食も食べずに飛行場に集結した
タラップを登る時に「これで地球ともお別れだ」と言う事を思った
飛龍に乗り込み、与論島の方に飛んで行った
一番機の飛行機がぱっと左から煙が出て、左に旋回した(敵にやられた)
あまりに近くに敵機があり双方が玉が打てなかった
鳥島を通って沖縄にいく予定で、飛んで行ったが、燃料が問題になり、敵機に体当たりするか、との話もあったが、敵機は軽量であり、こちらは重爆撃機で、爆弾は積んでいるし、それは難しいと言う事で、砂浜に着陸して、機体を壊さないほうがいいと私が意見具申した
結局島づたいに通って金谷に帰ってきた
乗っていた機体をみたら 2cmぐらいの穴が10cmおきに30発ぐらいの弾が当たっていた
危ないところだった
岐阜県の鏡が原に受領に行った飛行機さくら弾機 を受領に行っている
さくら弾機の試験飛行をやることになっていたが、直前に降りろと命令されて降りた、そこで命拾いをした
さくら弾機は3トンの爆弾を搭載して、命中すると1km四方を破壊できると言う触れ込みだった
救急車が行ったので何か有ったなと思ったら、飛行機のまえ、操縦席がぐしゃっと成っていて岡田曹長の命はこと切れていた
さくら弾機は一部ベニヤ板で覆われている、機関砲が積んであるのが飛龍であるが、機関砲はない(相手と応戦出来ない)、増加タンク (長距離跳べるようにガソリンタンクがある) この増加タンクを外して爆弾が置いてある(距離も飛べない)
軽々しい飛行機
3度命を落とす危険から逃れることができた
復員したのは8月末 長崎には帰らず母親の故郷の熊本に帰った
長崎、広島が特殊爆弾で全滅だと言う情報が有ったので、先ずは母親の実家にいくことにした
妹は被爆して亡くなる 父も被爆して8月11日に亡くなる
兄は軍隊に入ってフィリピンで亡くなる
母と長崎に行ったが、焼け野原になっており、家の脇に有った柿の木が青々としていたのが印象的だった
東京に戻ってきた時が20歳、元の会社に復職 その後セラミックの会社に行って働いた
戦友会の世話役をするが、数年前にあった戦友会の元の上官から 特攻隊は生きて帰ってはいけないんだ と言われた
なんで、この現代にそのようなことを言うのかとぎょっとした
浜松に帰って来た時には、その上官は 良く帰ってきた、急いで死ぬのが国のためではない、またこの次もあることだから御苦労と言ったのに 40年もたってからいうのか、解らない
日本全体を、社会の情報を見聞きするのにつけ、非常に情けない人間が多くなったとつくづく思います
しっかりしてない、ピシッとしていない、自分勝手と言うのが非常に目立つ
戦争のない、思いやりのある国になってほしいと思う
大正14年長崎市生まれ 長崎商業高校を繰り上げ卒業して、17歳で志願して陸軍浜松第七航空隊飛行第62連隊の航法士となり、重爆撃機、飛龍に搭乗して、東海沖と沖縄戦の二度の特攻命令を受け出撃しましたが、奇跡的に生還しました
重爆撃機には操縦士、機関士、攻撃をする射手、通信士、航法士が搭乗して、前村さんは爆撃機の位置などを測るナビゲーター的な仕事、昭和20年の戦争末期は戦闘機や搭乗員の不足は甚だしく、重爆撃機も爆弾を機体に縛り付けて、敵艦に体当たりする特攻攻撃をするようになりました
前村さんが所属した飛行第62連隊も多くの特攻攻撃、出撃しましたが戦果はあげることができずに多くの命を落としました
戦後68年経ち、当時の状況を知る人も数えるばかりになりました
前村さんは生きて帰れたことに感謝し、二度と戦争をしてはいけないと、今も戦争体験を語り続けています
仲間が大勢亡くなって、戦友の顔を思い出される
戦後は亡くなられた人たちのお墓を10か所近くお参りしてきた
特攻隊として出撃されたのはうちの部隊の62連隊だけなんですね
飛龍 本来6~7人乗りこんで、敵の軍艦に爆弾を落とすこと
爆弾はワイヤーで縛りつけてあった
一番機に搭乗する 機関砲が一丁前にあった
初めての特攻命令 昭和20年3月19日 九州から帰ってぐっすりと眠っていたが、招集が掛った
飛行服に着替えて、駆け足で飛行場まで行った(15分ぐらいの距離)
幹部が大勢いた 15人ぐらい その前に整列する
戦隊長 から訓示 62連隊もいよいよ総力を挙げて、攻撃することになった、全員気を引き締めて、かかれと、順次出撃するものは、遺書と遺髪、遺礼を用意して、小包みにして自宅に送るように用意しておくようにとの、話があった
特攻攻撃徒の言葉は出なかった 黒板に攻撃は特攻とすると書いてあった
特攻攻撃に参加して死ぬと言う覚悟で皆集まってきているので、或る程度覚悟はしていたが
背筋がぞっとした
私の場合は、全部で4機の編隊の出撃 航法がしっかりしないと目的地まで行けないので、自分の腕で大丈夫だろうかと言う、責任を感じていた
航法 飛行機のナビゲーター
進路、方向、速度が正しく皆に伝わって、一機の脱落が無いように飛行を指示するのが仕事
筑波から一番機に乗り、浜松の南方180kmのところにアメリカの機動部隊が北上しているとの情報あり、出かけた
敵艦が見つからない、ちょうど低気圧が来ていて、雨が降っており、雲の中なので見つからない
高度150mぐらいまで低空飛行をしたが、見つけることは出来なかった
ガソリンが心配になり、兎に角一旦 浜松に帰ることにする
浜松の飛行場には3,4機別の部隊の飛行機が着陸に失敗してさかさまになっていた
3回目にようやく着陸に成功した
見つられなかったことに対して、残念に思った
1ヶ月後 4月17日 鹿児島の金谷から飛び立った
特攻機3機出撃 二番機に搭乗
前の晩、16日には出撃隊員12名が料亭で御馳走になるがあまり食べられなかった
17日は朝5時半に起こされて、朝食も食べずに飛行場に集結した
タラップを登る時に「これで地球ともお別れだ」と言う事を思った
飛龍に乗り込み、与論島の方に飛んで行った
一番機の飛行機がぱっと左から煙が出て、左に旋回した(敵にやられた)
あまりに近くに敵機があり双方が玉が打てなかった
鳥島を通って沖縄にいく予定で、飛んで行ったが、燃料が問題になり、敵機に体当たりするか、との話もあったが、敵機は軽量であり、こちらは重爆撃機で、爆弾は積んでいるし、それは難しいと言う事で、砂浜に着陸して、機体を壊さないほうがいいと私が意見具申した
結局島づたいに通って金谷に帰ってきた
乗っていた機体をみたら 2cmぐらいの穴が10cmおきに30発ぐらいの弾が当たっていた
危ないところだった
岐阜県の鏡が原に受領に行った飛行機さくら弾機 を受領に行っている
さくら弾機の試験飛行をやることになっていたが、直前に降りろと命令されて降りた、そこで命拾いをした
さくら弾機は3トンの爆弾を搭載して、命中すると1km四方を破壊できると言う触れ込みだった
救急車が行ったので何か有ったなと思ったら、飛行機のまえ、操縦席がぐしゃっと成っていて岡田曹長の命はこと切れていた
さくら弾機は一部ベニヤ板で覆われている、機関砲が積んであるのが飛龍であるが、機関砲はない(相手と応戦出来ない)、増加タンク (長距離跳べるようにガソリンタンクがある) この増加タンクを外して爆弾が置いてある(距離も飛べない)
軽々しい飛行機
3度命を落とす危険から逃れることができた
復員したのは8月末 長崎には帰らず母親の故郷の熊本に帰った
長崎、広島が特殊爆弾で全滅だと言う情報が有ったので、先ずは母親の実家にいくことにした
妹は被爆して亡くなる 父も被爆して8月11日に亡くなる
兄は軍隊に入ってフィリピンで亡くなる
母と長崎に行ったが、焼け野原になっており、家の脇に有った柿の木が青々としていたのが印象的だった
東京に戻ってきた時が20歳、元の会社に復職 その後セラミックの会社に行って働いた
戦友会の世話役をするが、数年前にあった戦友会の元の上官から 特攻隊は生きて帰ってはいけないんだ と言われた
なんで、この現代にそのようなことを言うのかとぎょっとした
浜松に帰って来た時には、その上官は 良く帰ってきた、急いで死ぬのが国のためではない、またこの次もあることだから御苦労と言ったのに 40年もたってからいうのか、解らない
日本全体を、社会の情報を見聞きするのにつけ、非常に情けない人間が多くなったとつくづく思います
しっかりしてない、ピシッとしていない、自分勝手と言うのが非常に目立つ
戦争のない、思いやりのある国になってほしいと思う
2013年8月11日日曜日
小宮多美江(音楽評論家) ・戦没作曲家の足跡を掘り起こす
小宮多美江(音楽評論家) 戦没作曲家の足跡を掘り起こす
1931年 横浜市の生まれ 東京女子大学 英米文学科を卒業 1955年から音楽評論の活動を始めました
執筆活動のかたわら、音楽関連の出版社も経営し、清瀬保二、吉田隆子、井上頼豊など、戦前、戦中、戦後を通して活動した、作曲家や演奏家の紹介に務めてきました
小宮さんはまた戦死した作曲家たちの足跡をたどって、楽譜や資料の発掘と整理、残された作品の演奏会を開いてきました
彼らの出身地などで開かれるコンサートでは公演も行ってきました
今日はその中で1945年、中国で戦病死した静岡県出身の尾崎宗吉と山形県出身の紺野陽吉の二人を取り上げます
音楽の執筆活動は今年で58年になる
コンサート等で印象に残っているもの、昨年 「吉田隆子を知っていますか」 「吉田隆子の世界」
紺野陽吉の作品が故郷での演奏会が実現した
吉田隆子は私の母とほとんど同じ 清瀬保二は父と同じ年齢 作曲運動を昭和の初めに始めた
清瀬保二のことを本にまとめようとしたときに、清瀬保二の書類の中に、紺野陽吉遺稿と書かれた封筒があり、その中に3曲の楽譜があるのを見つけたのが、はじまりです
長野、無言館 窪島誠一郎が主催 戦没画学生の作品を展示しているが、音楽家の場合はなかなか散逸している楽譜を見つけ出して、今の演奏家たちに演奏してもらう事で、戦没作曲家の遺志を実現することになる
作曲家たちのことを本にしたのは5人
尾崎宗吉 1915年静岡県に生まれる 1934年4月に東洋音楽学校のピアノ科に入学
諸井三朗に師事、 1935年初女作小弦楽四重奏曲 作品1を発表 1937年卒業
1939年8月召集 3か月の訓練の後中国大陸に向かう 3年間各地を転戦 1942年12月満期招集解除で戻るが、再び招集を受けて1943年、旧満州に向かうが、1945年5月15日に戦病死している(虫垂炎が悪化して亡くなっている)
1977年の演奏会で初めて尾崎の曲を聴く 「夜の歌」 吉田隆子と同じ旋律だと思った
日本音楽舞踊会議の組織の中で、作曲家の仕事にも強く関心を持つようになった
清瀬保二とかその弟子たちとか(弟子は私と同世代)
日本の作曲家の歴史を若い人が解らなくなってきたので、今のうちに音楽を聞き、作曲家自身の御話を聞こうと、作曲ゼミナールと言うものをやっていた
もっと作曲と言う物に中心をおいたものに絞りたいと思った
若い2人と共に組織を作った クリティーク80
尾崎は木琴をヤマハの社長からいい楽器を借りて、木がささくれ立つほど叩いたそうです
1995年 浜松で没後50年記念演奏会が開かれる
柳澤康司さんがたまたま私たちの出版した本を見つけて、演奏会が実現した
紺野陽吉 1913年 山形県 医者の次男として生れる 1931年上京 1937年頃 演奏活動する
(セミプロのオーケストラ コンセール ポピュレールに所属)
ベートーベン 田園 カルメン組曲とかポピュラーなクラシック音楽を定期演奏会をやっていた
1945年 中国の旧満州で戦病死している
1995年8月 遺稿を見つける 3曲 親しみやすい旋律の曲だった
新聞「赤旗」のコラムに「紺野陽吉を知りませんか」という記事を投稿したが反応は無かった
無言館がTVで取り上げられたのが2005年ごろ それに関連して音楽でも戦死した人たちがいたのではないかと、製作会社から問い合わせがあり、尾崎宗吉の資料、紺野陽吉のことについてその方たちにお話ししたが、番組としては実現しなかった
日本近代音楽館 資料を集めている館がある そこで調べられる限りのことを報告してくれた
紺野陽吉 遺作演奏会 2012年9月 明治学院大学の校舎内で演奏会が実現している
弦楽三重奏 清瀬保二の弟子 安藤久義氏に未完の物には補作依頼した
今年の4月に故郷で演奏会が開かれた
紺野陽吉遺稿作(3曲)は出征する前に、清瀬保二に届けた
何となく民謡の旋律を感じる
木管三重奏曲が唯一完成していて日付けがある
木管三重奏曲は清瀬保二がすこし前に書いていて、それを聞いているのではないか
それで作品を清瀬保二のところに持って行ったのではないかと推測している
尾崎宗吉 作曲運動が1930年にはじまった 1935年に盛り上がり、評論家も作曲家の先輩も関心を持って、室内楽というジャンルを限定して、作曲募集して、支援して演奏会を開くと言う、そういうことが行われた
そういう中で尾崎宗吉の小弦楽四重奏曲が現れた
作曲運動が1935年に盛り上がったが、翌年は2.26事件なので、戦争にどんどん入って行っちゃう
自筆譜で最近は演奏する気力が若い人にはなくなって来たように思い、今のうちにちゃんとした楽譜にしてもおないといけないと思った
楽譜ができただけではだめで、繰り返し演奏してもらう事が大事です
楽譜を出しておけば、誰かが演奏してくれると思っている
音楽ジャーナリズムはとかく有名な人に目がむいてしまうが、そうではないところにも光を当てて全体像を見ていこうとしている
1931年 横浜市の生まれ 東京女子大学 英米文学科を卒業 1955年から音楽評論の活動を始めました
執筆活動のかたわら、音楽関連の出版社も経営し、清瀬保二、吉田隆子、井上頼豊など、戦前、戦中、戦後を通して活動した、作曲家や演奏家の紹介に務めてきました
小宮さんはまた戦死した作曲家たちの足跡をたどって、楽譜や資料の発掘と整理、残された作品の演奏会を開いてきました
彼らの出身地などで開かれるコンサートでは公演も行ってきました
今日はその中で1945年、中国で戦病死した静岡県出身の尾崎宗吉と山形県出身の紺野陽吉の二人を取り上げます
音楽の執筆活動は今年で58年になる
コンサート等で印象に残っているもの、昨年 「吉田隆子を知っていますか」 「吉田隆子の世界」
紺野陽吉の作品が故郷での演奏会が実現した
吉田隆子は私の母とほとんど同じ 清瀬保二は父と同じ年齢 作曲運動を昭和の初めに始めた
清瀬保二のことを本にまとめようとしたときに、清瀬保二の書類の中に、紺野陽吉遺稿と書かれた封筒があり、その中に3曲の楽譜があるのを見つけたのが、はじまりです
長野、無言館 窪島誠一郎が主催 戦没画学生の作品を展示しているが、音楽家の場合はなかなか散逸している楽譜を見つけ出して、今の演奏家たちに演奏してもらう事で、戦没作曲家の遺志を実現することになる
作曲家たちのことを本にしたのは5人
尾崎宗吉 1915年静岡県に生まれる 1934年4月に東洋音楽学校のピアノ科に入学
諸井三朗に師事、 1935年初女作小弦楽四重奏曲 作品1を発表 1937年卒業
1939年8月召集 3か月の訓練の後中国大陸に向かう 3年間各地を転戦 1942年12月満期招集解除で戻るが、再び招集を受けて1943年、旧満州に向かうが、1945年5月15日に戦病死している(虫垂炎が悪化して亡くなっている)
1977年の演奏会で初めて尾崎の曲を聴く 「夜の歌」 吉田隆子と同じ旋律だと思った
日本音楽舞踊会議の組織の中で、作曲家の仕事にも強く関心を持つようになった
清瀬保二とかその弟子たちとか(弟子は私と同世代)
日本の作曲家の歴史を若い人が解らなくなってきたので、今のうちに音楽を聞き、作曲家自身の御話を聞こうと、作曲ゼミナールと言うものをやっていた
もっと作曲と言う物に中心をおいたものに絞りたいと思った
若い2人と共に組織を作った クリティーク80
尾崎は木琴をヤマハの社長からいい楽器を借りて、木がささくれ立つほど叩いたそうです
1995年 浜松で没後50年記念演奏会が開かれる
柳澤康司さんがたまたま私たちの出版した本を見つけて、演奏会が実現した
紺野陽吉 1913年 山形県 医者の次男として生れる 1931年上京 1937年頃 演奏活動する
(セミプロのオーケストラ コンセール ポピュレールに所属)
ベートーベン 田園 カルメン組曲とかポピュラーなクラシック音楽を定期演奏会をやっていた
1945年 中国の旧満州で戦病死している
1995年8月 遺稿を見つける 3曲 親しみやすい旋律の曲だった
新聞「赤旗」のコラムに「紺野陽吉を知りませんか」という記事を投稿したが反応は無かった
無言館がTVで取り上げられたのが2005年ごろ それに関連して音楽でも戦死した人たちがいたのではないかと、製作会社から問い合わせがあり、尾崎宗吉の資料、紺野陽吉のことについてその方たちにお話ししたが、番組としては実現しなかった
日本近代音楽館 資料を集めている館がある そこで調べられる限りのことを報告してくれた
紺野陽吉 遺作演奏会 2012年9月 明治学院大学の校舎内で演奏会が実現している
弦楽三重奏 清瀬保二の弟子 安藤久義氏に未完の物には補作依頼した
今年の4月に故郷で演奏会が開かれた
紺野陽吉遺稿作(3曲)は出征する前に、清瀬保二に届けた
何となく民謡の旋律を感じる
木管三重奏曲が唯一完成していて日付けがある
木管三重奏曲は清瀬保二がすこし前に書いていて、それを聞いているのではないか
それで作品を清瀬保二のところに持って行ったのではないかと推測している
尾崎宗吉 作曲運動が1930年にはじまった 1935年に盛り上がり、評論家も作曲家の先輩も関心を持って、室内楽というジャンルを限定して、作曲募集して、支援して演奏会を開くと言う、そういうことが行われた
そういう中で尾崎宗吉の小弦楽四重奏曲が現れた
作曲運動が1935年に盛り上がったが、翌年は2.26事件なので、戦争にどんどん入って行っちゃう
自筆譜で最近は演奏する気力が若い人にはなくなって来たように思い、今のうちにちゃんとした楽譜にしてもおないといけないと思った
楽譜ができただけではだめで、繰り返し演奏してもらう事が大事です
楽譜を出しておけば、誰かが演奏してくれると思っている
音楽ジャーナリズムはとかく有名な人に目がむいてしまうが、そうではないところにも光を当てて全体像を見ていこうとしている
2013年8月10日土曜日
近藤紘子(68歳) ・B29パイロットとの出会いが変えた復讐心
近藤紘子(68歳) B29パイロットとの出会いが変えた復讐心
近藤紘子さんは生後8カ月の時に被爆しました
父、谷本清さんは、戦後の広島で平和のために尽力した、牧師として、アメリカの作家 ジョン・ハーシー が書き、世界でベストセラーになったルポルタージュ「広島」に登場する人物です
その本がきっかけになって、広島の原爆について取り上げたアメリカのTV番組に出演した際、幸子さんは、広島に原子爆弾を落とした、B29エノラゲイ号に乗っていたパイロットと対面します
その対面はその後の紘子さんの人生を大きく変えました
エノラゲイのパイロットとの対面で知ったこと、その後の人生に付きまとう、被爆による様々な苦労について伺います
子供心にも、あの時私はどうだったのと、聞けば、父も母もあの時を思い出さなければいけない
やはりとっても辛いことなので、ずーっと直接聞くことは無かった
はっきり母が私に話してくれたのは、私が40歳になった時だと思います
あの日、朝 となりに住んでいた女性が先ず訪ねてきてくださり、その方と話をし、終わって家に入ったところでまた、他の女性が母に話をしに来ました
家の中で私を抱いて話している時に、一瞬にして家がつぶれてしまった
朦朧とした中で、母が聞いたのは、赤ちゃんの泣き声だったとのこと、そしてぱたっと泣き声が止まってしまって、はっと気がついたら、腕の中にいた私が泣いていた
母が覆いかぶさった状態だったが、一生懸命体を動かして、私を外に出したら、外は全く違う光景、住んでいた家にも火が付き始めていた
爆心地から1.1kmのところ その後ずーっと血便と高熱が出て、もうこの子は無理でしょうと言われたらしい
自分たちの体のことよりも、私のことが気がかりだったようです
子供として、B29エノラゲイから爆弾が落ちた それによって広島は焼け野原になった
多くの子供たちが親を亡くしたりした、一瞬にしてなくした
B29に乗っていた人はなぜ落としたのかというのが私の頭の中では一杯だった
3~4歳の小さい私をかわいがってくれるお姉さん達は顔がケロイドになり、怖かったが悪いのは爆弾を落とした人と思い、私が大人になったら、かたきをうとうとずーっと思っていました
10歳になった時 広島の25人のお姉さんたちがニューヨークにあるマウントサイナイ病院が治療してくれることになり、父は付き添ってアメリカに行った
アメリカのTV番組で 「これはあなたの人生だ」という番組に出てもらう為に、アメリカに来るようにとの話があり、アメリカに出かける
舞台に知っている人が2人いた
父は神学校に学んだが、アメリカでの同級生、あと白人の女性は日本で宣教師をしていた人
もう一人いたが、解らず聞いたが躊躇したような感じだった
あそこに立ってる人は キャプテン ロバート・ルイスといって広島に原爆を落としたB29エノラゲイという飛行機に乗っていた副操縦士だと教えてくれた
聞いて吃驚した 長年 ずーっと いつか、いつか いつか あの飛行機に乗っていた人たちを見つけ出して、かたきをうとうと思っていた
私が即取った行動は、目を一杯に開いて、睨みつけた
心の中で「あなたは悪い人だ あなた達さえ、爆弾を落とさなければ、広島の多くの人たちは苦しまなくて済んだし、死ななくて済んだに」と、怒りが一杯で、その人の目を睨みつけていた
司会者が、ロバート・ルイスに爆弾を落とした後にどう思いましたか、と聞いた
「天えんを出発して、広島上空にいき、8時15分に爆弾を落として、そこを飛び去り、しかし落とした爆弾の威力を見てくるようにとの、指示があり、引き返して上空から広島を見た
広島が消えていた」 「神様 私たちはなんてことをしたんだと」と飛行日記に記載した
彼の眼を睨みつけていたら、彼の目から溢れていたのを、私はしっかりと見た
はっと気がついた その人は悪い人とずーっと思っていたが、自分のことを考えると悪いことがいっぱいあると、気がついた
7年間ずーっと憎み続けてきたが この人の涙を見たときに、この人も苦しみ、悲しみがあると言う事が心に伝わってきた
申し訳ないと言う涙に見えたので、もうそれ以上その人を敵としてということは、人間としていけないと思ったのではないか
その後憎しみは薄れていったように思う
一番つらいこと 広島、長崎にはアメリカの政府の機関 ABCCという機関を作った
原爆が人体にどのように影響するかを、研究する機関
私が対象になったのは、子供からデータを取る事
全部脱いで、木綿で出来たガウン とふんどし見たいなもの それを付けるのが嫌だった
中学生になった時に、検査室から検査室に回っていましたら、どこどこに行ってくださいと言われたが、そこは講堂だった
いろんな言語が耳に入ってきた 舞台に上がるようにと言われて、ガウンを脱ぐように言われて、ふんどし見たいなちいさな一枚しか付けていない
右、左と言われるままに、動かされて、涙があふれてきて、悔しくてしょうがなかった
何故私はここまでしなくてはいけないのか、中学生になれば、子供の体から大人の体になってゆくところ、悔し涙、屈辱感だった
同じ日本人ならば、何故助けてくれないのか、と先ず思った
解った、誰も助けてくれないのなら、もういい、もう私はこれで広島とさようならをしよう もうたくさんだと思った
私が生きてゆく限り、もう二度と広島にいたと言う事はひとさまの前では言うまいと
その時の出来事は私には大きな大きな出来事だった
広島から離れたかったので高校は東京に行った 大学はアメリカに留学する
奨学金が消えるので、日本に帰らなければいけなくなり、あのABCCの舞台のことを思い出す
アメリカの留学先の大学の人と婚約する 一旦日本に帰るが、彼から手紙が来る
彼の専門が、放射能が人体にどう影響を与えるか という事で幸子は良くない、まともな子供を産むことはできない人だから、駄目だと家族会議で決まったそうだ
原爆乙女とは、私はケロイドもないし、違うと思っていた
東京の外資系の会社に入って、同社の人と結婚した
妊娠したが、流産してしまったが、或る日母と先生のところに言ったら、母が実は幸子ちゃんは小さい時からお医者さんに子供を授かる事は無理だと言われていたんですよと言われて、ショックだった
弟が結婚して、弟のところに子供ができたと聞いたときに、とめどもなく涙が出た
子供がこんなに欲しかったのかと改めて心底思った
人間て、涙はいいですね またそこを飛び越えられたような気がして、また前に立って歩ける
父がずーっと理解できない人だった
小学校4年生のころ、父の書いた本を書斎の本棚から取りだした
「ノーモア広島 広島の十字架を抱いて」 を読み始めた
或るページで、父と母が広島の街で偶然に出会い、父が高木さんはどうしたかと聞く
高木さんはあの日 一緒に訪ねてゆく人だった
母が解りませんと言うと父は凄い怒る、この女は牧師の妻なのに、教会員としてのその人を見捨てて、自分だけ逃げたことに対して物凄い怒りを書いたページがある
自分の娘が助かっているのに、私のことなんてどうでもよくて、他人を大切にする
この場面で本を閉じてしまった
後に、教会で父の話を聞いて、父はあの日 大切なものをリヤカーに乗せて田舎に持ってゆくが、爆風で吹き飛ばされたが体は大丈夫だったので、街に入ってゆくと、そこから聞こえてくるのは、助けてくれ、助けてくれとの声、家で挟まった人を引っ張りだすことはできない、彼はやはり牧師で人の役に立ちたいと思ったあの日、私は、彼曰く 自分の子供、自分の妻、自分の教会の人たち自分の住んでいる町内の人たちのことしか考えなかった
それはえごです、物凄い悔いとなって残るわけ、だからこそ自分は広島のために役に立ちたいと思って生きてきた、と言う事を聞いて、それほどまでに私のことを想ってくれた
子供のころは、自分のことを想っていてくれなかったと、思っていたがそうではなかった、逆だった
父が歩んだ道を少しでも歩みたいと思っている
子供たちのこと、戦争、 子供たちを犠牲にしたことは、アメリカは謝らなければならないと、父は言っている
ずーっと子供たちのことを心にあった、だからまずは原爆乙女、彼にとっては子供のような、助けたかった
与えられた命をどんなことがあっても、奪ってはいけない
ましてや戦争の犠牲に子供たちがなってはいけない
核廃絶はどんなことをしても無くしてほしい、誰かが間違ってボタンを押したらあっちの国、こっちの国ではない
原点は 私は生き残っている 与えられた命を大事にしてほしい、ひとの命も大切にしなければいけない
本当に、ロバート・ルイス との出会いに感謝している
この私 10歳の私を変えてくれた ずーっとアメリカ、アメリカ人を憎んできたかもしれない
自分に非があれば、責められない
間違いがあってもいい、その間違いを踏み台にして歩めばいいと思っている
今の子供たちは捨てたものではない いろんな話を聞き、きっと、きっと 私は信じている
近藤紘子さんは生後8カ月の時に被爆しました
父、谷本清さんは、戦後の広島で平和のために尽力した、牧師として、アメリカの作家 ジョン・ハーシー が書き、世界でベストセラーになったルポルタージュ「広島」に登場する人物です
その本がきっかけになって、広島の原爆について取り上げたアメリカのTV番組に出演した際、幸子さんは、広島に原子爆弾を落とした、B29エノラゲイ号に乗っていたパイロットと対面します
その対面はその後の紘子さんの人生を大きく変えました
エノラゲイのパイロットとの対面で知ったこと、その後の人生に付きまとう、被爆による様々な苦労について伺います
子供心にも、あの時私はどうだったのと、聞けば、父も母もあの時を思い出さなければいけない
やはりとっても辛いことなので、ずーっと直接聞くことは無かった
はっきり母が私に話してくれたのは、私が40歳になった時だと思います
あの日、朝 となりに住んでいた女性が先ず訪ねてきてくださり、その方と話をし、終わって家に入ったところでまた、他の女性が母に話をしに来ました
家の中で私を抱いて話している時に、一瞬にして家がつぶれてしまった
朦朧とした中で、母が聞いたのは、赤ちゃんの泣き声だったとのこと、そしてぱたっと泣き声が止まってしまって、はっと気がついたら、腕の中にいた私が泣いていた
母が覆いかぶさった状態だったが、一生懸命体を動かして、私を外に出したら、外は全く違う光景、住んでいた家にも火が付き始めていた
爆心地から1.1kmのところ その後ずーっと血便と高熱が出て、もうこの子は無理でしょうと言われたらしい
自分たちの体のことよりも、私のことが気がかりだったようです
子供として、B29エノラゲイから爆弾が落ちた それによって広島は焼け野原になった
多くの子供たちが親を亡くしたりした、一瞬にしてなくした
B29に乗っていた人はなぜ落としたのかというのが私の頭の中では一杯だった
3~4歳の小さい私をかわいがってくれるお姉さん達は顔がケロイドになり、怖かったが悪いのは爆弾を落とした人と思い、私が大人になったら、かたきをうとうとずーっと思っていました
10歳になった時 広島の25人のお姉さんたちがニューヨークにあるマウントサイナイ病院が治療してくれることになり、父は付き添ってアメリカに行った
アメリカのTV番組で 「これはあなたの人生だ」という番組に出てもらう為に、アメリカに来るようにとの話があり、アメリカに出かける
舞台に知っている人が2人いた
父は神学校に学んだが、アメリカでの同級生、あと白人の女性は日本で宣教師をしていた人
もう一人いたが、解らず聞いたが躊躇したような感じだった
あそこに立ってる人は キャプテン ロバート・ルイスといって広島に原爆を落としたB29エノラゲイという飛行機に乗っていた副操縦士だと教えてくれた
聞いて吃驚した 長年 ずーっと いつか、いつか いつか あの飛行機に乗っていた人たちを見つけ出して、かたきをうとうと思っていた
私が即取った行動は、目を一杯に開いて、睨みつけた
心の中で「あなたは悪い人だ あなた達さえ、爆弾を落とさなければ、広島の多くの人たちは苦しまなくて済んだし、死ななくて済んだに」と、怒りが一杯で、その人の目を睨みつけていた
司会者が、ロバート・ルイスに爆弾を落とした後にどう思いましたか、と聞いた
「天えんを出発して、広島上空にいき、8時15分に爆弾を落として、そこを飛び去り、しかし落とした爆弾の威力を見てくるようにとの、指示があり、引き返して上空から広島を見た
広島が消えていた」 「神様 私たちはなんてことをしたんだと」と飛行日記に記載した
彼の眼を睨みつけていたら、彼の目から溢れていたのを、私はしっかりと見た
はっと気がついた その人は悪い人とずーっと思っていたが、自分のことを考えると悪いことがいっぱいあると、気がついた
7年間ずーっと憎み続けてきたが この人の涙を見たときに、この人も苦しみ、悲しみがあると言う事が心に伝わってきた
申し訳ないと言う涙に見えたので、もうそれ以上その人を敵としてということは、人間としていけないと思ったのではないか
その後憎しみは薄れていったように思う
一番つらいこと 広島、長崎にはアメリカの政府の機関 ABCCという機関を作った
原爆が人体にどのように影響するかを、研究する機関
私が対象になったのは、子供からデータを取る事
全部脱いで、木綿で出来たガウン とふんどし見たいなもの それを付けるのが嫌だった
中学生になった時に、検査室から検査室に回っていましたら、どこどこに行ってくださいと言われたが、そこは講堂だった
いろんな言語が耳に入ってきた 舞台に上がるようにと言われて、ガウンを脱ぐように言われて、ふんどし見たいなちいさな一枚しか付けていない
右、左と言われるままに、動かされて、涙があふれてきて、悔しくてしょうがなかった
何故私はここまでしなくてはいけないのか、中学生になれば、子供の体から大人の体になってゆくところ、悔し涙、屈辱感だった
同じ日本人ならば、何故助けてくれないのか、と先ず思った
解った、誰も助けてくれないのなら、もういい、もう私はこれで広島とさようならをしよう もうたくさんだと思った
私が生きてゆく限り、もう二度と広島にいたと言う事はひとさまの前では言うまいと
その時の出来事は私には大きな大きな出来事だった
広島から離れたかったので高校は東京に行った 大学はアメリカに留学する
奨学金が消えるので、日本に帰らなければいけなくなり、あのABCCの舞台のことを思い出す
アメリカの留学先の大学の人と婚約する 一旦日本に帰るが、彼から手紙が来る
彼の専門が、放射能が人体にどう影響を与えるか という事で幸子は良くない、まともな子供を産むことはできない人だから、駄目だと家族会議で決まったそうだ
原爆乙女とは、私はケロイドもないし、違うと思っていた
東京の外資系の会社に入って、同社の人と結婚した
妊娠したが、流産してしまったが、或る日母と先生のところに言ったら、母が実は幸子ちゃんは小さい時からお医者さんに子供を授かる事は無理だと言われていたんですよと言われて、ショックだった
弟が結婚して、弟のところに子供ができたと聞いたときに、とめどもなく涙が出た
子供がこんなに欲しかったのかと改めて心底思った
人間て、涙はいいですね またそこを飛び越えられたような気がして、また前に立って歩ける
父がずーっと理解できない人だった
小学校4年生のころ、父の書いた本を書斎の本棚から取りだした
「ノーモア広島 広島の十字架を抱いて」 を読み始めた
或るページで、父と母が広島の街で偶然に出会い、父が高木さんはどうしたかと聞く
高木さんはあの日 一緒に訪ねてゆく人だった
母が解りませんと言うと父は凄い怒る、この女は牧師の妻なのに、教会員としてのその人を見捨てて、自分だけ逃げたことに対して物凄い怒りを書いたページがある
自分の娘が助かっているのに、私のことなんてどうでもよくて、他人を大切にする
この場面で本を閉じてしまった
後に、教会で父の話を聞いて、父はあの日 大切なものをリヤカーに乗せて田舎に持ってゆくが、爆風で吹き飛ばされたが体は大丈夫だったので、街に入ってゆくと、そこから聞こえてくるのは、助けてくれ、助けてくれとの声、家で挟まった人を引っ張りだすことはできない、彼はやはり牧師で人の役に立ちたいと思ったあの日、私は、彼曰く 自分の子供、自分の妻、自分の教会の人たち自分の住んでいる町内の人たちのことしか考えなかった
それはえごです、物凄い悔いとなって残るわけ、だからこそ自分は広島のために役に立ちたいと思って生きてきた、と言う事を聞いて、それほどまでに私のことを想ってくれた
子供のころは、自分のことを想っていてくれなかったと、思っていたがそうではなかった、逆だった
父が歩んだ道を少しでも歩みたいと思っている
子供たちのこと、戦争、 子供たちを犠牲にしたことは、アメリカは謝らなければならないと、父は言っている
ずーっと子供たちのことを心にあった、だからまずは原爆乙女、彼にとっては子供のような、助けたかった
与えられた命をどんなことがあっても、奪ってはいけない
ましてや戦争の犠牲に子供たちがなってはいけない
核廃絶はどんなことをしても無くしてほしい、誰かが間違ってボタンを押したらあっちの国、こっちの国ではない
原点は 私は生き残っている 与えられた命を大事にしてほしい、ひとの命も大切にしなければいけない
本当に、ロバート・ルイス との出会いに感謝している
この私 10歳の私を変えてくれた ずーっとアメリカ、アメリカ人を憎んできたかもしれない
自分に非があれば、責められない
間違いがあってもいい、その間違いを踏み台にして歩めばいいと思っている
今の子供たちは捨てたものではない いろんな話を聞き、きっと、きっと 私は信じている
2013年8月9日金曜日
平野信人(平和活動支援センター所長) ・長崎から平和を呼び掛ける
平野信人(平和活動支援センター所長) 長崎から平和を呼び掛ける
被爆二世の平野さんは小学校の教員を退職後、自費で平和活動支援センターを立ち上げるなど、常に弱者のために平和活動の先頭に立って活動を続けています
国内外で後遺症で苦しんでいる人たちの援助だけでなく、これからの平和活動を若い人に託すなど 平和の大切さを訴え続けている平野さんです
平和活動の過去、現在、未来などを話していただきます
被爆二世であることを知ったのは? 私は昭和21年生まれ
小学校、中学校の時代は周りがみんな被爆者の子供だったので、あまり意識していなかったが、 高校の時に同級生が白血病になって亡くなったという事件があって、その子とは随分親しかったものなので、その時に同じ境遇にあると言う事を知って大変なショックを受けた 次に被爆二世と意識したのは、妻との結婚でした
被爆二世同士の結婚と言う事で、次世代に影響があるのではないかと心配したが、元気に今は生活をしているが長崎で、教員になって戻ってくる
平和教育に取り組んだ 被爆40年1985年 被爆者の高齢化が問題になってきた 後を継ぐのは被爆二世ではないかと、大きな課題になった
被爆二世の教職員を集めた会を作った それが実際の始まり、500人ぐらいのメンバーがいた リーダーに選ばれた 最初被爆二世として、原点を知らなければいけないと思って、母親から詳しい被爆体験を聞くことから始めました
最初なかなか口を閉ざして、話してくれなかったが、ようやく口を開くようになった 私が生まれたときは食べ物が無くて、母乳が出なくて、私は母の乳首に、強くすったため痛い思いをさせた
原爆のすさまじい体験をした後、新しい命を育んできて、苦労しながら育てたが、被爆者に対する差別、偏見があるし、そういう苦しい時代を生きてきて、原爆、核兵器を使ってはいけないという結論に至るまで、苦しい戦後を送ってきたことを赤裸々に、聞いて、改めて二つのことを考えた
広島、長崎のこういったことを二度とく繰り返さないためには、被爆者の体験を私たちが引き継いでいかなければならない
私たちを産んで、育ててくれた、被爆者の親の感謝の気持ち 交差した気持ちが皆に生まれて、 我々は被爆二世として、どういう風に生きていくか、感じた時代だった
小学生にどう伝えるか、しっかり伝わるように、平和教育の運動は進められてきた
被爆者には被爆50年は無いと言われていて、そう私たちも感じていたので、更に次の時代に伝えようをいろんな活動をしてきた
子供たちは原爆を資料館で見たときに、悲惨な写真に対しても、怖いと言うんですね
平和教育があまり好きではないと言う、子供たちが増えた時代でした
悲惨な体験をただこんなことがあったんだと、伝え方の工夫を随分悩みながら考えた
平和教育や平和運動はとても暗いんだと、いいイメージではなかった
そうであっても必要なことなので、紙芝居を作ったり、絵画の制作をしたりしながら、子供たちにどうやって伝えるか(永遠の課題だが)、学校を離れて行動としてして、うつすと言うようなことをした
高校生になると受験勉強などをするので、平和に関する関心が少なくなる傾向になってしまう
若い人たちの姿が見えないという現実があって、多くの被爆者も嘆いていた
1970年代 教師の会が調査をしたら、長崎に原爆を落とされたことが、知らないと言う子がいたとのこと、非常にショッキングなことだった
知識でも知らない、感覚的にも知らない、家族にもそういった話を聞かないと言う事で、日本全体を考えれば、知らない子供たちが増えてくる、深刻だった
現在ではそういう子供達がいないと思う
高校生、大学生に対しても運動を広げようと思いました
小学校、中学校は長崎県下ではぼ100%、8/9の登校日が設定されているが、当時、高校では登校日にして平和教育をすることは、20%切っていたと思う
現在では、ほぼ100%になっている
高校生平和大使を考えた 1998年にインドとパキスタンが核実験を行って、核兵器の拡散が心配されて、核実験をやめさせようと、市民ぐるみで取り組んできたが、被爆者の高齢化が進み上手くいかなかった
国連に訴えに行こうと言う事でも、被爆者は大変なので、高校生に国連に行って核兵器の廃絶を訴えてもらおうと、1998年に最初の高校生の平和大使を送り出した
当時は若者には意識が低くて、どうかなあと思ったが、若い人が訴えることは、国連に非常に大きなインパクトを与えて、その後続くことになる
3回目からジュネーブに行く(軍縮会議がある場所)
核兵器廃絶の署名をすることを若い人たちが、独自に考えて、活動のきっかけになった
2001年から始める 高校生1万人署名活動
今年で100万筆を越える署名になる
被爆経験もない、戦争経験もない若者ではあるが 誰かが引き継いでくれなければならない
署名をもっていっても平和な世界が築けるわけではないが、子供たちで話し合いをして、「微力ではあるが、無力ではない」と、何もしないより、なにかきっかけがあるのではないかと、合言葉に頑張っている(継続は力)
ユース非核特使 今年、外務省で 制度ができた
第一号が高校生で日本の代表としても役割も担うようになった
未来は? やがて被爆者がいなくなったときに、どうやって長崎、広島の声を伝えてゆくか、
それを未来に託すと言うのが、我々の願い
更に若い世代、被爆三世、被爆四世になってゆく 私の孫は被爆四世
本気になって運動を引っ張ってゆく人たちが、長崎の市民、日本の国民として、定着してゆくという事を未来に描いている
平和を考えるときには、二つの考え方があって、大きな国の平和、戦争、国際社会の問題
とちいさな平和は、平和運動をやっている子供たちがどのように、育ってゆくのか、皆が皆、大きな平和、政治を求めるのではなくて、足元のちいさな平和、弱い人の立場になって物を考えることができるとか、障害を持たされた人たちにどう対応してゆくとか、そういう社会はどうあるべきかと言う事、そういう自分の生き方にどう反映させるか、と言う事がちいさな平和の作り方と思っている
人を思いやる心が育っていって、それが平和のベースになるのではないかと思う
在外被爆者の援護対策にも力を入れている
見捨てられ人たち、弱者の人たちを支援するのが原点にあるので、1987年に被爆教職員の会を作って、最初の仕事が被爆者の話を聞く、2番目の仕事が、韓国に被爆二世の訪韓団として一緒に行ったのが最初で、その時に韓国の被爆者がいた
戦争時に日本に来ていて、原爆に遭遇した
捕虜の外国人も被爆していることに気付かされて、同じ援護を受けていないと言う事で支援した
(おもに韓国、台湾、とか 他にオランダ、ブラジル、アメリカなど被曝されてその後移民した日本人)
裁判でも支援をしている
1995年に韓国で原爆展を開いたが、韓国国内で反発があった
日本の戦争によって、原爆がもたらされたが、原爆の前に反省することがあるのではないかと言う事で、困難だった
現在の原爆展は高校生が主催して韓国の高校生と一緒にやっている
歴史認識の乗り越え方も、若者にはできる、若者には未来があると思っている
未来の平和を求めるために、現実問題をかたづけて行かなくてはいけない
若者はこれをやっても無駄だと、マイナス面ばっかり考える傾向があるが、大きな理想は簡単には実現するわけではないので、こういった運動はきりが無いような、継続をしていかなければいけないという側面があるが、大きな目標の1/10000のちからでも、自分には何ができるのか、これを克服するためにはどうしたらいいのかと言う発想を持って未来を見ていかないと、悲観的な言葉ばっかりいい続けることになりかねない
自分に何ができるか、自分で考えて欲しい
自分に何ができるかを、生きる前向きなエネルギーとして、困難を解決出来てゆくのではないか
被爆二世の平野さんは小学校の教員を退職後、自費で平和活動支援センターを立ち上げるなど、常に弱者のために平和活動の先頭に立って活動を続けています
国内外で後遺症で苦しんでいる人たちの援助だけでなく、これからの平和活動を若い人に託すなど 平和の大切さを訴え続けている平野さんです
平和活動の過去、現在、未来などを話していただきます
被爆二世であることを知ったのは? 私は昭和21年生まれ
小学校、中学校の時代は周りがみんな被爆者の子供だったので、あまり意識していなかったが、 高校の時に同級生が白血病になって亡くなったという事件があって、その子とは随分親しかったものなので、その時に同じ境遇にあると言う事を知って大変なショックを受けた 次に被爆二世と意識したのは、妻との結婚でした
被爆二世同士の結婚と言う事で、次世代に影響があるのではないかと心配したが、元気に今は生活をしているが長崎で、教員になって戻ってくる
平和教育に取り組んだ 被爆40年1985年 被爆者の高齢化が問題になってきた 後を継ぐのは被爆二世ではないかと、大きな課題になった
被爆二世の教職員を集めた会を作った それが実際の始まり、500人ぐらいのメンバーがいた リーダーに選ばれた 最初被爆二世として、原点を知らなければいけないと思って、母親から詳しい被爆体験を聞くことから始めました
最初なかなか口を閉ざして、話してくれなかったが、ようやく口を開くようになった 私が生まれたときは食べ物が無くて、母乳が出なくて、私は母の乳首に、強くすったため痛い思いをさせた
原爆のすさまじい体験をした後、新しい命を育んできて、苦労しながら育てたが、被爆者に対する差別、偏見があるし、そういう苦しい時代を生きてきて、原爆、核兵器を使ってはいけないという結論に至るまで、苦しい戦後を送ってきたことを赤裸々に、聞いて、改めて二つのことを考えた
広島、長崎のこういったことを二度とく繰り返さないためには、被爆者の体験を私たちが引き継いでいかなければならない
私たちを産んで、育ててくれた、被爆者の親の感謝の気持ち 交差した気持ちが皆に生まれて、 我々は被爆二世として、どういう風に生きていくか、感じた時代だった
小学生にどう伝えるか、しっかり伝わるように、平和教育の運動は進められてきた
被爆者には被爆50年は無いと言われていて、そう私たちも感じていたので、更に次の時代に伝えようをいろんな活動をしてきた
子供たちは原爆を資料館で見たときに、悲惨な写真に対しても、怖いと言うんですね
平和教育があまり好きではないと言う、子供たちが増えた時代でした
悲惨な体験をただこんなことがあったんだと、伝え方の工夫を随分悩みながら考えた
平和教育や平和運動はとても暗いんだと、いいイメージではなかった
そうであっても必要なことなので、紙芝居を作ったり、絵画の制作をしたりしながら、子供たちにどうやって伝えるか(永遠の課題だが)、学校を離れて行動としてして、うつすと言うようなことをした
高校生になると受験勉強などをするので、平和に関する関心が少なくなる傾向になってしまう
若い人たちの姿が見えないという現実があって、多くの被爆者も嘆いていた
1970年代 教師の会が調査をしたら、長崎に原爆を落とされたことが、知らないと言う子がいたとのこと、非常にショッキングなことだった
知識でも知らない、感覚的にも知らない、家族にもそういった話を聞かないと言う事で、日本全体を考えれば、知らない子供たちが増えてくる、深刻だった
現在ではそういう子供達がいないと思う
高校生、大学生に対しても運動を広げようと思いました
小学校、中学校は長崎県下ではぼ100%、8/9の登校日が設定されているが、当時、高校では登校日にして平和教育をすることは、20%切っていたと思う
現在では、ほぼ100%になっている
高校生平和大使を考えた 1998年にインドとパキスタンが核実験を行って、核兵器の拡散が心配されて、核実験をやめさせようと、市民ぐるみで取り組んできたが、被爆者の高齢化が進み上手くいかなかった
国連に訴えに行こうと言う事でも、被爆者は大変なので、高校生に国連に行って核兵器の廃絶を訴えてもらおうと、1998年に最初の高校生の平和大使を送り出した
当時は若者には意識が低くて、どうかなあと思ったが、若い人が訴えることは、国連に非常に大きなインパクトを与えて、その後続くことになる
3回目からジュネーブに行く(軍縮会議がある場所)
核兵器廃絶の署名をすることを若い人たちが、独自に考えて、活動のきっかけになった
2001年から始める 高校生1万人署名活動
今年で100万筆を越える署名になる
被爆経験もない、戦争経験もない若者ではあるが 誰かが引き継いでくれなければならない
署名をもっていっても平和な世界が築けるわけではないが、子供たちで話し合いをして、「微力ではあるが、無力ではない」と、何もしないより、なにかきっかけがあるのではないかと、合言葉に頑張っている(継続は力)
ユース非核特使 今年、外務省で 制度ができた
第一号が高校生で日本の代表としても役割も担うようになった
未来は? やがて被爆者がいなくなったときに、どうやって長崎、広島の声を伝えてゆくか、
それを未来に託すと言うのが、我々の願い
更に若い世代、被爆三世、被爆四世になってゆく 私の孫は被爆四世
本気になって運動を引っ張ってゆく人たちが、長崎の市民、日本の国民として、定着してゆくという事を未来に描いている
平和を考えるときには、二つの考え方があって、大きな国の平和、戦争、国際社会の問題
とちいさな平和は、平和運動をやっている子供たちがどのように、育ってゆくのか、皆が皆、大きな平和、政治を求めるのではなくて、足元のちいさな平和、弱い人の立場になって物を考えることができるとか、障害を持たされた人たちにどう対応してゆくとか、そういう社会はどうあるべきかと言う事、そういう自分の生き方にどう反映させるか、と言う事がちいさな平和の作り方と思っている
人を思いやる心が育っていって、それが平和のベースになるのではないかと思う
在外被爆者の援護対策にも力を入れている
見捨てられ人たち、弱者の人たちを支援するのが原点にあるので、1987年に被爆教職員の会を作って、最初の仕事が被爆者の話を聞く、2番目の仕事が、韓国に被爆二世の訪韓団として一緒に行ったのが最初で、その時に韓国の被爆者がいた
戦争時に日本に来ていて、原爆に遭遇した
捕虜の外国人も被爆していることに気付かされて、同じ援護を受けていないと言う事で支援した
(おもに韓国、台湾、とか 他にオランダ、ブラジル、アメリカなど被曝されてその後移民した日本人)
裁判でも支援をしている
1995年に韓国で原爆展を開いたが、韓国国内で反発があった
日本の戦争によって、原爆がもたらされたが、原爆の前に反省することがあるのではないかと言う事で、困難だった
現在の原爆展は高校生が主催して韓国の高校生と一緒にやっている
歴史認識の乗り越え方も、若者にはできる、若者には未来があると思っている
未来の平和を求めるために、現実問題をかたづけて行かなくてはいけない
若者はこれをやっても無駄だと、マイナス面ばっかり考える傾向があるが、大きな理想は簡単には実現するわけではないので、こういった運動はきりが無いような、継続をしていかなければいけないという側面があるが、大きな目標の1/10000のちからでも、自分には何ができるのか、これを克服するためにはどうしたらいいのかと言う発想を持って未来を見ていかないと、悲観的な言葉ばっかりいい続けることになりかねない
自分に何ができるか、自分で考えて欲しい
自分に何ができるかを、生きる前向きなエネルギーとして、困難を解決出来てゆくのではないか
2013年8月8日木曜日
米倉 斉加年(舞台役者ほか) ・戦争、演劇ともに熾烈な戦いだった 2
米倉 斉加年(まさかね、舞台役者、演出家、俳優、画家) 戦争、演劇ともに熾烈な戦いだった2
町内では二階建の大きな家だった (炭屋) 祖父が大工の棟梁で、福岡城第一期解体時期と家が建った時期が一緒だった
解体した木材を壕に落として、引き上げて、材料にしたので建てた柱は立派だった
祖母が髪結いで、おなごも働いて金をためておけば、男の言うなりにならないと、妻に対して、おんなの自立を説いた
祖母は、千両芝居(大歌舞伎)はめったに見られないと、私に対して、学校は毎日あるので学校に行くことは止めて、千両芝居を見にいこうと、諭された
軍人でないものを、母は望んだ
大学を中退して、役者の道を選ぶ 妻とは学生結婚をしたが、妻からきちんと役者の勉強した方がいいといわれた(妻は教員免許を持っていたので私が働くと言ってくれた)
最初上京した時に、松村 達雄さんの「50人劇場」に行った
高円寺に50人しか入れない劇場に行ったが、やくざのために劇場を潰されてしまった
その後、民芸の試験を受けて、合格した(3000人ぐらい受けて、50人ぐらいが受かった)
試験は1週間ぐらいかかった(昭和32年)
若手で主役をやったりするようになってきて、ある人が宇野先生に私のことを聞いて、宇野先生は、才能、そんなもん有るわけないし、あってもわからんていって、あいつにあるものはど根性だけ、と言われた 怖いもの知らずであった
NHK大河ドラマ、中村半次郎役 強い人は強がらない そのような雰囲気でやった
民芸座 宇野(劇団を動かし指揮していた) 滝沢さん
研究生として3年目に劇団を作って、宇野先生と交流が始まり、活動したが5年目に解散して、辞めて、民芸に戻って、それから実際に宇野演出で、主役をやったりして始まりました
宇野先生は伝説の人です 宇野先生から言われた駄目だしは3つある
①普通に言え ②思えば、出る ③離見(世阿弥の花伝書にある言葉)
いまでもこの3つは、できない
①普通に言え ・・・最初に言われたのは舞台で主役をやる前に、NHKで主役をやった
木下順二先生の「口笛が冬の空に」というTVドラマ これに主役で出ている
私の父親役をやったのは宇野重吉、母親役が北林 全く運命的な出会いであった
最初の本読みを終わった後に、宇野重吉が「普通に言え」と、一言だけ言った
普通にいう事は難しい 普通に生きてなければできない
宇野重吉曰く、「偉人、奇人、変人は出来る、普通の人は難しい」
そこらにいる視線、普通の人が一番難しい、演じるのに
普通に言えと言う事は、普通に生きている、普通の世界観を持ってないと言えない
これは棺桶に入るまでの、大きな宿題です
普通に言えは心がそうなればでる
②思えば、出ると普通に言えは 通じている
心の中味を言葉で言えない 言っているつもりても、そう感じ取ってもらわないと駄目なわけ
普通に言うと言う事は難しい、言えないものをどうやって出すか、言葉で説明できないから、違うことを話してる この落差で本当の意味を発見する
この落差を見せると、お客に解るんです
親が死んだのに、悲しくない 悲しいか、悲しくないか この落差を見極める
そういう自分の心を持っていれば人も落差で表現するんでじゃないかと、嘘を言う事で、心と違う事を言うから、心が解る、落差でわかる
新しいものと古いものがどちらがいいか、それは別問題
古いで大いに結構、迎合する必要がない
なるべく長く生きて、古くなりたい 古いは貴重 その中に文化が込められている
「父帰る」は面白い 子供の時は小姓組だった 友人は校長になっている
ちゃぶ台が出てくる 江戸時代にちゃぶ台は無い 年功序列で御膳で一人一人くっていたが
家族が初めて生れた 家の崩壊そういうものがあの古い「父帰る」に日本の中の一つが入っている
これでもかこれでもかと そういう風にやっている
北海道で去年は2カ月近くやった お金がな方ので、車で回って、学校の廃校に泊ったりした
今回金に替え難いものをもらった
大きな体育館で芝居をやるような環境ではないところに100人足らずの観客がいたが
芝居を始めると、食い入るように初めての芝居を見る目がある、この目にこたえるわけにはいかない、初めて見る目には、初めて見せる芝居をしなければいけない
ただ舞台で勝手に芝居をしていたのでは、中味が無けりゃ出るものが無い、その時に己をするわけです
あの目に答えるだけの自分がいるかと、だかあらそういう目に接した時に、始めて自分の発見ですよ
それを続けるうちに、おい、これから満員の劇場では、もうできないかもしれない、ガラガラの客席じゃないとやる気が、それぐらいの気持ちで
「父帰る」は涙なくては見れないのに、漁師のかみさんたちは笑い飛ばすんですよ
これはショックだった、劇中で私が帰ってきて、笑い飛ばすんですよ
詰まり、男が女を作って、出て行って、落ちぶれて帰ってきて、ざまをみろと言う事なんですよ
漁師のかみさんたちは強い、漁師は稼ぐと男はみんな飲みに行ったりするが、沖へ出て行くのをじーっとかみさんたちは黙ってかみさんたちは見守っている、船の一枚底は地獄だ、帰ってこない夫、息子を代々そうやってみている
帰ってきさえすれば、そんなことでへこたれない
愕然とした笑うので、最後の最後、一番いいところでも笑う
でも気付いた、おかしくて笑っているのでは無いと言う事に、男の愚かさを笑っている
あのおかみさんたちは、帰って言った時の温かく家に入れてくれるかみさんたちだねえと、絶対追い出さないと
これはやっぱり、価値観が金、物になっている現代の都会の生活と違う、金、物、権力に支配されない、何の経済効果のない中で、本来の人間の持っている、まだ北海道には自然の中で生きる人間がいる
空を見るのに、都会では目を上に向ける(空の切り取りしか見れない)北海道は水平に目を回す
360度 そこからが全て空 そこでは芝居が生き返ってくる 人間の
今は忘れているものが沢山あるなあと、思った
悲劇なんて笑い飛ばす、かみさんたちに出会ったときに、人間本来たくましいなあと思った
得たものは大きかった
新しいものは古いものの中からしか出てこない 年寄りはやることがある、皆がだまっている言いにくいことを言わなくてはいけない
町内では二階建の大きな家だった (炭屋) 祖父が大工の棟梁で、福岡城第一期解体時期と家が建った時期が一緒だった
解体した木材を壕に落として、引き上げて、材料にしたので建てた柱は立派だった
祖母が髪結いで、おなごも働いて金をためておけば、男の言うなりにならないと、妻に対して、おんなの自立を説いた
祖母は、千両芝居(大歌舞伎)はめったに見られないと、私に対して、学校は毎日あるので学校に行くことは止めて、千両芝居を見にいこうと、諭された
軍人でないものを、母は望んだ
大学を中退して、役者の道を選ぶ 妻とは学生結婚をしたが、妻からきちんと役者の勉強した方がいいといわれた(妻は教員免許を持っていたので私が働くと言ってくれた)
最初上京した時に、松村 達雄さんの「50人劇場」に行った
高円寺に50人しか入れない劇場に行ったが、やくざのために劇場を潰されてしまった
その後、民芸の試験を受けて、合格した(3000人ぐらい受けて、50人ぐらいが受かった)
試験は1週間ぐらいかかった(昭和32年)
若手で主役をやったりするようになってきて、ある人が宇野先生に私のことを聞いて、宇野先生は、才能、そんなもん有るわけないし、あってもわからんていって、あいつにあるものはど根性だけ、と言われた 怖いもの知らずであった
NHK大河ドラマ、中村半次郎役 強い人は強がらない そのような雰囲気でやった
民芸座 宇野(劇団を動かし指揮していた) 滝沢さん
研究生として3年目に劇団を作って、宇野先生と交流が始まり、活動したが5年目に解散して、辞めて、民芸に戻って、それから実際に宇野演出で、主役をやったりして始まりました
宇野先生は伝説の人です 宇野先生から言われた駄目だしは3つある
①普通に言え ②思えば、出る ③離見(世阿弥の花伝書にある言葉)
いまでもこの3つは、できない
①普通に言え ・・・最初に言われたのは舞台で主役をやる前に、NHKで主役をやった
木下順二先生の「口笛が冬の空に」というTVドラマ これに主役で出ている
私の父親役をやったのは宇野重吉、母親役が北林 全く運命的な出会いであった
最初の本読みを終わった後に、宇野重吉が「普通に言え」と、一言だけ言った
普通にいう事は難しい 普通に生きてなければできない
宇野重吉曰く、「偉人、奇人、変人は出来る、普通の人は難しい」
そこらにいる視線、普通の人が一番難しい、演じるのに
普通に言えと言う事は、普通に生きている、普通の世界観を持ってないと言えない
これは棺桶に入るまでの、大きな宿題です
普通に言えは心がそうなればでる
②思えば、出ると普通に言えは 通じている
心の中味を言葉で言えない 言っているつもりても、そう感じ取ってもらわないと駄目なわけ
普通に言うと言う事は難しい、言えないものをどうやって出すか、言葉で説明できないから、違うことを話してる この落差で本当の意味を発見する
この落差を見せると、お客に解るんです
親が死んだのに、悲しくない 悲しいか、悲しくないか この落差を見極める
そういう自分の心を持っていれば人も落差で表現するんでじゃないかと、嘘を言う事で、心と違う事を言うから、心が解る、落差でわかる
新しいものと古いものがどちらがいいか、それは別問題
古いで大いに結構、迎合する必要がない
なるべく長く生きて、古くなりたい 古いは貴重 その中に文化が込められている
「父帰る」は面白い 子供の時は小姓組だった 友人は校長になっている
ちゃぶ台が出てくる 江戸時代にちゃぶ台は無い 年功序列で御膳で一人一人くっていたが
家族が初めて生れた 家の崩壊そういうものがあの古い「父帰る」に日本の中の一つが入っている
これでもかこれでもかと そういう風にやっている
北海道で去年は2カ月近くやった お金がな方ので、車で回って、学校の廃校に泊ったりした
今回金に替え難いものをもらった
大きな体育館で芝居をやるような環境ではないところに100人足らずの観客がいたが
芝居を始めると、食い入るように初めての芝居を見る目がある、この目にこたえるわけにはいかない、初めて見る目には、初めて見せる芝居をしなければいけない
ただ舞台で勝手に芝居をしていたのでは、中味が無けりゃ出るものが無い、その時に己をするわけです
あの目に答えるだけの自分がいるかと、だかあらそういう目に接した時に、始めて自分の発見ですよ
それを続けるうちに、おい、これから満員の劇場では、もうできないかもしれない、ガラガラの客席じゃないとやる気が、それぐらいの気持ちで
「父帰る」は涙なくては見れないのに、漁師のかみさんたちは笑い飛ばすんですよ
これはショックだった、劇中で私が帰ってきて、笑い飛ばすんですよ
詰まり、男が女を作って、出て行って、落ちぶれて帰ってきて、ざまをみろと言う事なんですよ
漁師のかみさんたちは強い、漁師は稼ぐと男はみんな飲みに行ったりするが、沖へ出て行くのをじーっとかみさんたちは黙ってかみさんたちは見守っている、船の一枚底は地獄だ、帰ってこない夫、息子を代々そうやってみている
帰ってきさえすれば、そんなことでへこたれない
愕然とした笑うので、最後の最後、一番いいところでも笑う
でも気付いた、おかしくて笑っているのでは無いと言う事に、男の愚かさを笑っている
あのおかみさんたちは、帰って言った時の温かく家に入れてくれるかみさんたちだねえと、絶対追い出さないと
これはやっぱり、価値観が金、物になっている現代の都会の生活と違う、金、物、権力に支配されない、何の経済効果のない中で、本来の人間の持っている、まだ北海道には自然の中で生きる人間がいる
空を見るのに、都会では目を上に向ける(空の切り取りしか見れない)北海道は水平に目を回す
360度 そこからが全て空 そこでは芝居が生き返ってくる 人間の
今は忘れているものが沢山あるなあと、思った
悲劇なんて笑い飛ばす、かみさんたちに出会ったときに、人間本来たくましいなあと思った
得たものは大きかった
新しいものは古いものの中からしか出てこない 年寄りはやることがある、皆がだまっている言いにくいことを言わなくてはいけない
登録:
投稿 (Atom)