小川 和佑(国文学者、文芸評論家) ・泰平の世を桜花に願う
三好達治や、堀辰雄など近代日本文学の研究をされ、文学と思想について発表されてきました
また小説家や詩人とて知られる中村真一郎に師事して詩の世界でも活躍する一方で、教員時代には剣道部の(ニュースで中断)
暖流のそばに桜はさいた 沖縄の寒緋桜は暖流にのって、九州から黒潮沿岸に花を咲かせた(縄文時代の前だと思われる) 沖縄の前は台湾からきた(苗木を沖縄に持ち込んだ)
その前は福建省・揚子江の河口近く、 その前は揚子江をさかのぼって、
チベットまで上がってゆく
ヒマラヤ山中に桜があって、その桜の種が流れついてきたものが日本近辺に来ている
ネパールの国王から送られた桜が熱海にある 秋になると咲いている
もともとは桜は秋に咲く
太平洋側の宮城県、青森県弘前、北海道の松前に流れ着く 北日本のほうが江戸彼岸、南のほうが、山桜 山の上に咲いているが、これは沿岸部の桜の種を小鳥が持っていった
山の桜は淡くて、花びらが小さくてかわいい
好きな桜は「かすみ桜」 山桜の高地性の桜 (標高900m以上1000mまで)
特徴は葉っぱの後ろが白い 花の大きさはソメイヨシノと 同じぐらい
木がまっすぐに空に向かって直立する姿が魅力
6歳から剣道をやらされた 周りの友達とうまく合わず本ばかり読んでいた
雑誌の連載で桜をテーマにしたことがあった そのときに桜を読んだら100冊の中で桜に対する嫌悪みたいなものが2編しかなかった
大きな影響を与えたのは? 最後は古事記までさかのぼった
辿り着いた作品「允恭記」(允恭天皇) そこに桜の歌が出てくるのが最初(5世紀半ば)
秋の酒宴をしたときに、小春日和のときに、咲いた花があったのが盃に残った
桜は宴会の酒と機縁が切れなくなった
貴族たちは秋の桜を愛でた 履中天皇は自分の宮殿に若桜の宮と名前をつけた
万葉集のほうには桜の歌が40数 梅の130 梅のほうがまだそのころの貴族たちが・・・
生憎誤解が通説になっているが 遣唐使が梅の実をもってくるんです
中国では梅の花を楽しむことがあるが、ほとんどは果実として、食材の一つ
ところが日本に持ってくると、花はきれいに咲くし、きれいに咲くし、花見をした
花見の伝統がなければ、万葉集にそんなに梅の歌が詠まれるはずがない
桃もそのときに持ってきている
何故桃や梅が珍重されるかというと、先進文化 大陸の新しい文化の象徴であった
それに対するあこがれであった
万葉集 「春さらば かざしにせむと 我が思ひ し桜の花は 散りにけるかも]
「妹が名に 懸けたる桜 花咲かば 常にや恋ひむ いや年のはに」
古代の物語の形式の中にあるわけです 一人の少女を二人の男が愛していて
両方のせめぎあいで、少女は自殺してしまう あずま歌の中に残っている 物語りの典型です
源氏物語の浮き船がこの形をとっている(代々文学の中にそういう形がある)
現代の小説の中で一番わかりやすいのが宇野千代 薄墨の桜 継母と娘との間に葛藤を広げていくという話 瀬戸内晴美も同様なものがある
庶民が花見を楽しんだ時代は 秀吉の時代 吉野山へ花見にいった
秀吉には貴族趣味はなくて飲めや歌えの大騒ぎになって足軽まで一緒になって騒いだ
秀吉が醍醐寺に家康と出かけて行ってここで花見をしようと秀吉が言って翌年に大がかりに桜を植えて徳川家康と花見会をやった
花見という神事が、庶民の楽しみの俗なるものに変わっていった 聖から俗へと言っている
家康の政治家としてのすごさがその後出てくる
江戸時代 江戸城に組がえする 関が原で勝ってからの江戸城改築するが喧嘩ばかりする
(戦国時代の名残があるから) 一策考えたのが、花見をしようというんで、三河、伊勢の商人たちに、浅草寺の裏に花園を作って宴会をさせる(ガス抜きをさせる) 千本桜
吉宗が再現する 紀州から入ってきたので基盤が弱い 基盤を強化するためには庶民の支持が必要、武家達を操縦するため 飛鳥山に鷹狩りに行く ここに桜を植えようとしてこれを行う
庶民が来られるようにして、庶民が来るようになる(庶民、武家が一緒に楽しめるようになる)
向島の土手に桜を植えた (土木工事のため)
そのころ植えた桜は彼岸桜 小金井の桜は山桜を植えた
ソメイヨシノは安政の大獄(1850年)が終わったころだと思われる
染井の庭師が大島桜と彼岸桜の交配した桜を育ててみたら、すごい桜ができて流行する
最初は寛永寺に植えた 次は吉原 夜ぼんぼりをつけて花見をさせる
挿し木で増やせるので、簡単 だから工業用品だって言っている
何故全国に広がったか
靖国神社を作る 京都の怨霊信仰 御陵信仰 東京に持ってくる
木を植えるのに一般的には常緑樹が普通だが、桜を植えることになり ソメイヨシノの挿し木を一杯もってきて、植えつけた
花は桜に人は武士 忠臣蔵の芝居の中のセリフ 潔く咲いて潔く散る
軍部に利用される 春、秋に大祭をする 見世物をする サーカスがくる
お参りに来ては桜だということで これが軍国の花なんだなあという風にして 日清、日露戦争のときに、忠魂碑を立てたときに桜を植えて、これが全国に広がった
ソメイヨシノは工業製品 大量生産大量販売の原型
生命美 平和、豊か 日本が安定した発展のためには、桜であったほうがいい
安定の発展を考えてゆきたい そうすると散身の桜とは反対になるのではないか
安定の発展を考えてゆくには、守り方ができてくる
桜の国ということは非常に大切なことだとおもう
2013年4月7日日曜日
2013年4月6日土曜日
白幡洋三郎(国際日本文化研究センター) ・花見と日本人
白幡洋三郎(国際日本文化研究センター) ・花見と日本人
白幡さんは日本と海外の都市文化の比較研究の権威です。
そのライフワークの一つが花見の研究です。
桜の木の下に大勢の人が集い、酒を酌み交わし歌も出る。
そんな花見は日本独特の文化であるといいます。 日本人の花見から何が見えてくるのか伺いました。
春の季節は必ず数か所行くことにしています、京都では八坂神社、東京では上野公園には見にゆくことにしています。
これまで行ったことのないところも一か所花見をしている。
都市文化はもともと都市計画史を勉強したいとヨーロッパに行った。
日本に帰って花見を体験しているうちに、はっと どうも向こうの国では花を見に行く人はいるけれども、日本のように大勢いが集まってワイワイと、花を見ているという様子は少なかったと思った。
花見のルーツ、過去の歴史はどうなっているのかと探究したくなった。
鑑賞するということはある。(世界に普遍的にある) 日本の花の観賞、特に桜の花にたいする鑑賞で済むのか もっと幅広い桜の花に対する、思い、考え方が集まって日本の花見は出来上がっていると思った。
花見の要素の考え。
①群桜 桜(花)がないと駄目 (群れ咲く 沢山咲く 一斉に咲く)
②群衆 人がたくさんいる。(大勢で花を見に出かける)
③飲食 飲み物、食べ物が必ず伴う。
白幡さんは日本と海外の都市文化の比較研究の権威です。
そのライフワークの一つが花見の研究です。
桜の木の下に大勢の人が集い、酒を酌み交わし歌も出る。
そんな花見は日本独特の文化であるといいます。 日本人の花見から何が見えてくるのか伺いました。
春の季節は必ず数か所行くことにしています、京都では八坂神社、東京では上野公園には見にゆくことにしています。
これまで行ったことのないところも一か所花見をしている。
都市文化はもともと都市計画史を勉強したいとヨーロッパに行った。
日本に帰って花見を体験しているうちに、はっと どうも向こうの国では花を見に行く人はいるけれども、日本のように大勢いが集まってワイワイと、花を見ているという様子は少なかったと思った。
花見のルーツ、過去の歴史はどうなっているのかと探究したくなった。
鑑賞するということはある。(世界に普遍的にある) 日本の花の観賞、特に桜の花にたいする鑑賞で済むのか もっと幅広い桜の花に対する、思い、考え方が集まって日本の花見は出来上がっていると思った。
花見の要素の考え。
①群桜 桜(花)がないと駄目 (群れ咲く 沢山咲く 一斉に咲く)
②群衆 人がたくさんいる。(大勢で花を見に出かける)
③飲食 飲み物、食べ物が必ず伴う。
この三つが集まって花見が定義できる。
これをやっているのは日本人しかいないことに気がついた。
桜の木は温帯域にはたくさんあるが、季節に食べ物、飲み物をもって出かけることはない。
日本の場合は桜という風に花を中心に命名をしている。(・・桜)
英語はチェリー これは実のほうを指す。
チェリーブロッサム 世界では実を中心に考えている。(世界中の桜に対する見方)
アメリカには八重桜を送った。(日米友好のために送った桜)
アメリカの公園は基本的に飲食禁止になっている。(桜は贈れたが、花見はプレゼントできなかった)
奈良時代に花見はあった。 貴族たちが中国の宮廷文化を習って梅花の宴を行っていた。
梅は中国から導入されたものです。
愛でて、歌を詠む 貴族文化としての花見の第一のルーツ。(梅が中心)
万葉集 「春去れば まず咲く宿の梅の花 独り見つつや 春日くらさん」 大友家持の屋敷で歌われた。
「梅の花咲きて 散りなば 桜花 つぎて咲くべくなりにてあらずや」 桜も楽しみにしている様子が見られる歌もあるが、基本的には梅の花を高く評価して好んで愛でる様になって 梅花の宴というのが、貴族の中心的な宴になりました。
桜が登場するのは、平安時代の9世紀の初めのころ、左近の桜、右近の橘という神殿の前に2本の木が植えられている。
めでたさの表現で左近の桜は、実は最初左近の梅だった
ある時期から植え替えられた。 植え替えるときに桜に変わっている。
日本の外来文化からの脱却、日本独特の日本文化の形成の一つの要素といわれる。
それまでの梅に対する評価から、桜の花に対する評価に変わっていった。
その一つの証拠になる。 そのことを真っ先に指摘したのが本居宣長です。
平安の半ばまで、花と言って桜ということはなかった。 梅見の宴はあったが、花見といって桜見というようになったのは、平安中期までなかった。
日本人と桜の関係を文献上、学問上、科学的に説明した。
伊勢物語に桜のことが出てくる、在原 業平が詠んだ歌。
「世の中に 絶えて桜のなかりせば 春の心はのどけ からまし」
(桜がずっと咲いてほしい なのに散ってしまう。 残念 さびしい 世の中に桜がなかったら。こんなに心を煩わすことがないのに。)
惟喬親王の離宮に花見に行った時に詠んだといわれる。
「散ればこそ いとど 桜はめでたけれ 浮世に何か ひさしかるべき」
(散るからこそ一層桜は素晴らしいと思われる。 いったいこの浮世に久くながらえるものなんてあるのでしょうか)
この二つの歌は、日本人の桜に対する多様な思いが浮かんでくる。
複雑な感情が、桜によって日本人の心を刺激する。
客観的に分析したのが、江戸時代の本居宣長だったということになります。
花見にはもう一つルールがあるといわれている。
農民の文化から生まれたというルーツで桜は春に咲く。 ちょうど稲作の行事を開始する時期に当たる。
桜が咲く下で村中総出で飲食を楽しみ、桜の花を愛でて、「春山入り」という行事があった。
桜が咲くと神が降りてくるという考え方がある。
神様を里にお招きして、その年よい稲が実るように、秋になれば豊作になるようにという、お願いをする。(田の神様に対する祈願)
稲作文化への定着とほぼ同時にそういう行為が始まっていたのではないかと想像される。
普通の人々へ広がって、日本の花見が完成してゆくという構図になると思われる。
この二つが庶民に広まっていって江戸時代になってからと思われる。
京都は山沿いに市民が花見に出かけるという様子を描いた、洛中洛外図屏風だとか、花見図屏風というものが室町時代からある。
農耕に携わらない人が花見に行ったのが江戸時代で、さらに加速させたのが8代将軍吉宗。
吉宗は江戸の町の郊外に桜を植えて、花見の場所を作った。
これが日本の花見を大衆化させる要因となった。
5代将軍綱吉の時代に生類憐みの令を出している。 それで鷹狩りが中止になる。
吉宗の時代に鷹狩りが復活する。 鷹狩りは野山を駆け巡る軍事訓練でもある。
田畑を荒らすので春先は鷹狩りはやめるという暗黙の了解があった。 吉宗が頻繁にゆく鷹狩りのところに桜を植えた。
軍事訓練に対する農民に対する慰撫策として行う。 農村にもにぎわいの場所を作る。(一種の経済政策)
質素、倹約の生活は幕府を運営してゆく上で(武士)、農民にも少しの収入があるように、という発想があったと思う。(余暇政策をも)
花見に着飾ってゆく、御馳走を作る、女の人は花見小袖(新しく着物を新調する)
料理も発展する、器も漆塗り、絵画も発展する、花見をテーマにした歌舞伎、能も生まれてくる、小説、俳句、川柳も。
文学、美術、工芸、音楽(三味線等)、日本文化が花見によっていっぱい刺激された。
集いの文化が桜を介して連綿と続いてくる。 平安時代から身分の上中下を問わずみんなが歌を詠んで酒を飲んで楽しんだ。
花見の文献を読んできて翌朝的な言葉を見つけて「貴賎群衆」(きせんくんじゅ)がよく出てくる。 田の神様をみんなで里に導いてきてみんなの幸せに繋がる豊作を願う。(村人全員)
神様に捧げたものを全員でお下がりを一緒にいただく。(大勢で飲み食いをする)
今後も老人だけの楽しみでもなく、若者も自然にやっている。
花見は自然体の絆、文化だと思う。 一番大事なのは春が来て桜が咲いて、心が浮き立つ、それを友達と隣人と横のつながりを広めるような、根本的な集いの気持ちを大事にすることが必要だと思います。(共感の場)
これをやっているのは日本人しかいないことに気がついた。
桜の木は温帯域にはたくさんあるが、季節に食べ物、飲み物をもって出かけることはない。
日本の場合は桜という風に花を中心に命名をしている。(・・桜)
英語はチェリー これは実のほうを指す。
チェリーブロッサム 世界では実を中心に考えている。(世界中の桜に対する見方)
アメリカには八重桜を送った。(日米友好のために送った桜)
アメリカの公園は基本的に飲食禁止になっている。(桜は贈れたが、花見はプレゼントできなかった)
奈良時代に花見はあった。 貴族たちが中国の宮廷文化を習って梅花の宴を行っていた。
梅は中国から導入されたものです。
愛でて、歌を詠む 貴族文化としての花見の第一のルーツ。(梅が中心)
万葉集 「春去れば まず咲く宿の梅の花 独り見つつや 春日くらさん」 大友家持の屋敷で歌われた。
「梅の花咲きて 散りなば 桜花 つぎて咲くべくなりにてあらずや」 桜も楽しみにしている様子が見られる歌もあるが、基本的には梅の花を高く評価して好んで愛でる様になって 梅花の宴というのが、貴族の中心的な宴になりました。
桜が登場するのは、平安時代の9世紀の初めのころ、左近の桜、右近の橘という神殿の前に2本の木が植えられている。
めでたさの表現で左近の桜は、実は最初左近の梅だった
ある時期から植え替えられた。 植え替えるときに桜に変わっている。
日本の外来文化からの脱却、日本独特の日本文化の形成の一つの要素といわれる。
それまでの梅に対する評価から、桜の花に対する評価に変わっていった。
その一つの証拠になる。 そのことを真っ先に指摘したのが本居宣長です。
平安の半ばまで、花と言って桜ということはなかった。 梅見の宴はあったが、花見といって桜見というようになったのは、平安中期までなかった。
日本人と桜の関係を文献上、学問上、科学的に説明した。
伊勢物語に桜のことが出てくる、在原 業平が詠んだ歌。
「世の中に 絶えて桜のなかりせば 春の心はのどけ からまし」
(桜がずっと咲いてほしい なのに散ってしまう。 残念 さびしい 世の中に桜がなかったら。こんなに心を煩わすことがないのに。)
惟喬親王の離宮に花見に行った時に詠んだといわれる。
「散ればこそ いとど 桜はめでたけれ 浮世に何か ひさしかるべき」
(散るからこそ一層桜は素晴らしいと思われる。 いったいこの浮世に久くながらえるものなんてあるのでしょうか)
この二つの歌は、日本人の桜に対する多様な思いが浮かんでくる。
複雑な感情が、桜によって日本人の心を刺激する。
客観的に分析したのが、江戸時代の本居宣長だったということになります。
花見にはもう一つルールがあるといわれている。
農民の文化から生まれたというルーツで桜は春に咲く。 ちょうど稲作の行事を開始する時期に当たる。
桜が咲く下で村中総出で飲食を楽しみ、桜の花を愛でて、「春山入り」という行事があった。
桜が咲くと神が降りてくるという考え方がある。
神様を里にお招きして、その年よい稲が実るように、秋になれば豊作になるようにという、お願いをする。(田の神様に対する祈願)
稲作文化への定着とほぼ同時にそういう行為が始まっていたのではないかと想像される。
普通の人々へ広がって、日本の花見が完成してゆくという構図になると思われる。
この二つが庶民に広まっていって江戸時代になってからと思われる。
京都は山沿いに市民が花見に出かけるという様子を描いた、洛中洛外図屏風だとか、花見図屏風というものが室町時代からある。
農耕に携わらない人が花見に行ったのが江戸時代で、さらに加速させたのが8代将軍吉宗。
吉宗は江戸の町の郊外に桜を植えて、花見の場所を作った。
これが日本の花見を大衆化させる要因となった。
5代将軍綱吉の時代に生類憐みの令を出している。 それで鷹狩りが中止になる。
吉宗の時代に鷹狩りが復活する。 鷹狩りは野山を駆け巡る軍事訓練でもある。
田畑を荒らすので春先は鷹狩りはやめるという暗黙の了解があった。 吉宗が頻繁にゆく鷹狩りのところに桜を植えた。
軍事訓練に対する農民に対する慰撫策として行う。 農村にもにぎわいの場所を作る。(一種の経済政策)
質素、倹約の生活は幕府を運営してゆく上で(武士)、農民にも少しの収入があるように、という発想があったと思う。(余暇政策をも)
花見に着飾ってゆく、御馳走を作る、女の人は花見小袖(新しく着物を新調する)
料理も発展する、器も漆塗り、絵画も発展する、花見をテーマにした歌舞伎、能も生まれてくる、小説、俳句、川柳も。
文学、美術、工芸、音楽(三味線等)、日本文化が花見によっていっぱい刺激された。
集いの文化が桜を介して連綿と続いてくる。 平安時代から身分の上中下を問わずみんなが歌を詠んで酒を飲んで楽しんだ。
花見の文献を読んできて翌朝的な言葉を見つけて「貴賎群衆」(きせんくんじゅ)がよく出てくる。 田の神様をみんなで里に導いてきてみんなの幸せに繋がる豊作を願う。(村人全員)
神様に捧げたものを全員でお下がりを一緒にいただく。(大勢で飲み食いをする)
今後も老人だけの楽しみでもなく、若者も自然にやっている。
花見は自然体の絆、文化だと思う。 一番大事なのは春が来て桜が咲いて、心が浮き立つ、それを友達と隣人と横のつながりを広めるような、根本的な集いの気持ちを大事にすることが必要だと思います。(共感の場)
2013年4月5日金曜日
大野順二 ・リニューアルホールで心機一転
大野順二(東京交響楽団 樂団長) ・リニューアルホールで心機一転
2011年3月11日の東日本大震災の当日、神奈川県川崎市にあるミューザ川崎シンフォニーホールのつり天井が崩落して、けが人はいなかったものの、フランチャイズオーケストラである東京交響楽団は演奏会場と練習場を失うという苦しい体験をしました 修復工事がようやく終わって2年ぶりに演奏ができるようになりました
4月から再オープンとなった つりさげ天井の反響板にも相当する部分が、大部分が崩落、客席ステージ上に崩落して、客席も7割程度が壊れた
響きが素晴らしい 元通りの戻った 生のオーケストラを聴く場合に2000席が限度
このホールの特徴は1階席とステージと同じ大きさ すり鉢状になっている
響きが後ろに座った場合に、後ろの音しか聞こえないということのないように音響設計になっている 偏った響きはない
市長が音楽の街として推奨してくれており、ここを使用さしていただいている
フランチャイズ 拠点として使用している リハーサルと本番まで一貫して音作りができる
100日程度ここでリハーザルしている 本番としては20回~25回
欧米ですと、リハーサルと本番が当然であるが、日本ではなかなかできない状況にある
3月11日に地震があり、まさかホールがこういう状況にあるとは思わなかった
別のところでの演奏会があり、演奏会をどうするか考えていたが、情報があり、ホールに駆けつけたが、もやっている状況であり、天井が崩落しているのを目にした(まさかと思った)
交通機関が動いていなかったので演奏会は中止にした
これからどうするかを、演奏会は約2年前から決まっているので、いつまで中止にするんだろうかとかいろいろ解らない状況であった
とにかくやれることからやってゆくしかないと漠然と思った
6から7公演はとにかく中止、自粛ムードがあったので開催していいものかどうかも考えた
海外からの指揮者も来られず、演目を替えて、指揮者も変えて演奏会を行った
(演奏のキャンセルが多かった どう対応するか不安だった)
お客さんに聞いていただいて演奏家なので 今後どうなっていくかが不安だった
余震があったらどうしようかと思いながら演奏会を行った
演奏続けなければいけないと、お客さんの反応に感動した(一生忘れないと思った)
小林研一朗さんに指揮を依頼した 被害にあわれた方、亡くなられた方、行方不明の方に
追悼の意味を込めて、レクイエムを演奏させていただいた
ベートーベンの三番エロイカも演奏した(皆さんを勇気つけるためにもこの曲にした)
樂団長として 事務局が一番大変だったと思う
キャンセルの処理 ほか一からやり直さなくてはいけなかったので チケット担当は大変だった
オーケストラの入る場所をとにかく探すのも大変
500~600人ぐらいのところで演奏するしかなかった(本来は2000人ぐらいの場所)
その来てくださったお客さんに対しては感謝したい(待ち望んでいるお客さん)
釜石に演奏会を開催して大きな感動を得た
ホールの修復に対しては原因究明をしなければならず、1年間はそのままだった
2年目から工事が始まる 音響の部分がどうなるか不安だった
音響品質委員会があって、皆さんで会議をして 東京交響楽団が最後にOKを出して承認とするということになったので責任を感じた
とにかく同じ材質(椅子とかも含めて)で工事してほしいと依頼した
12月に演奏(ベートーベン第九)して音響効果の確認を行った 元の音響に戻ったので感動した
この2年間ひとりひとりがいろんなことを思ったと思う
東京交響楽団の熱い演奏を是非聞いていただきたい
2011年3月11日の東日本大震災の当日、神奈川県川崎市にあるミューザ川崎シンフォニーホールのつり天井が崩落して、けが人はいなかったものの、フランチャイズオーケストラである東京交響楽団は演奏会場と練習場を失うという苦しい体験をしました 修復工事がようやく終わって2年ぶりに演奏ができるようになりました
4月から再オープンとなった つりさげ天井の反響板にも相当する部分が、大部分が崩落、客席ステージ上に崩落して、客席も7割程度が壊れた
響きが素晴らしい 元通りの戻った 生のオーケストラを聴く場合に2000席が限度
このホールの特徴は1階席とステージと同じ大きさ すり鉢状になっている
響きが後ろに座った場合に、後ろの音しか聞こえないということのないように音響設計になっている 偏った響きはない
市長が音楽の街として推奨してくれており、ここを使用さしていただいている
フランチャイズ 拠点として使用している リハーサルと本番まで一貫して音作りができる
100日程度ここでリハーザルしている 本番としては20回~25回
欧米ですと、リハーサルと本番が当然であるが、日本ではなかなかできない状況にある
3月11日に地震があり、まさかホールがこういう状況にあるとは思わなかった
別のところでの演奏会があり、演奏会をどうするか考えていたが、情報があり、ホールに駆けつけたが、もやっている状況であり、天井が崩落しているのを目にした(まさかと思った)
交通機関が動いていなかったので演奏会は中止にした
これからどうするかを、演奏会は約2年前から決まっているので、いつまで中止にするんだろうかとかいろいろ解らない状況であった
とにかくやれることからやってゆくしかないと漠然と思った
6から7公演はとにかく中止、自粛ムードがあったので開催していいものかどうかも考えた
海外からの指揮者も来られず、演目を替えて、指揮者も変えて演奏会を行った
(演奏のキャンセルが多かった どう対応するか不安だった)
お客さんに聞いていただいて演奏家なので 今後どうなっていくかが不安だった
余震があったらどうしようかと思いながら演奏会を行った
演奏続けなければいけないと、お客さんの反応に感動した(一生忘れないと思った)
小林研一朗さんに指揮を依頼した 被害にあわれた方、亡くなられた方、行方不明の方に
追悼の意味を込めて、レクイエムを演奏させていただいた
ベートーベンの三番エロイカも演奏した(皆さんを勇気つけるためにもこの曲にした)
樂団長として 事務局が一番大変だったと思う
キャンセルの処理 ほか一からやり直さなくてはいけなかったので チケット担当は大変だった
オーケストラの入る場所をとにかく探すのも大変
500~600人ぐらいのところで演奏するしかなかった(本来は2000人ぐらいの場所)
その来てくださったお客さんに対しては感謝したい(待ち望んでいるお客さん)
釜石に演奏会を開催して大きな感動を得た
ホールの修復に対しては原因究明をしなければならず、1年間はそのままだった
2年目から工事が始まる 音響の部分がどうなるか不安だった
音響品質委員会があって、皆さんで会議をして 東京交響楽団が最後にOKを出して承認とするということになったので責任を感じた
とにかく同じ材質(椅子とかも含めて)で工事してほしいと依頼した
12月に演奏(ベートーベン第九)して音響効果の確認を行った 元の音響に戻ったので感動した
この2年間ひとりひとりがいろんなことを思ったと思う
東京交響楽団の熱い演奏を是非聞いていただきたい
2013年4月4日木曜日
藤嶋昭(71歳) ・感動が科学技術を育む 2
藤嶋昭・感動が科学技術を育む 2
理科離れがあることを心配している 小さいときから理科が好きになってほしいと思って、科学系の童話に親しんでもらいたいと、子供図書館(「坊ちゃんとマドンナの絵本館」)を作った
夏目漱石の主人公の坊っちゃんが物理学校を卒業して、四国の中学校の先生になる
その物理学校と言うのが、東京理科大学の前身 坊っちゃんは架空の人物ではあるが
日本は科学技術立国でしか生きていけないので、研究者を養成したいと思っているが、まずは絵本から興味を持ってもらう
小学校5年生は7割が理科が好き 中学校2年で5割、高校2年生では3割になってしまう
7,5,3問題といわれている これをを8,6,4にしたいと思っている
10年前から神奈川科学技術アカデミー理事長をしていた、なんとか7.53.問題を解決できればと思い、出前講義をやろうと思いついた(学校に行って)
科学の面白さを理解してもらう 全国の学校に行って出前授業をしている(今もやっている)
授業 例えば 空が何故青いか?ようやく判るのが150年前
空気中に酸素と窒素がある そこに太陽の中の光が来て、特に青い光が散乱するという現象で空が青くなる、と言う事で説明できる
酸化チタンの粉を水の中に溶かして、ペットボトルに入れて懐中電灯を当てると、当てたところが青くなり、もう一方のほうが、黄色から赤になる 空の青さを実験で説明する
雷 ピカと光り、しばらくしてからゴロゴロと鳴る
ピカッと光るのは雲が摩擦して、静電気がプラス、マイナスに分かれてそれが放電する
なぜそのあとゴロゴロというのか
鳴る原理は 光が流れて、空気中を凄い電流が流れるので、その部分が熱くなる
そうするとその近くの空気が熱のために揺らぐ(振動する) そうするとゴロゴロと音がする
雷が多いときは米がとれやすい 雷のことを稲妻と言うが何でか?
稲と妻(妻は生れる、取れるという意味)なのか
お宮さんにお参りに行ったときに、しめ縄に白いびらびらがあるが、あれは雷だよ
豊作になってほしい 雷が来てほしいと祈る
雷が多い時にどうして米がたくさんとれるかいうと、
実際は空気中の酸素と窒素があって、雷が落ちた時に、一部窒素肥料ができちゃう
そうすると稲の出来が良くなる(空気中から自然に肥料ができてしまう)
そういう話をするとみんな感動する
学生時代にも出前授業はしたことがある
大学の2年、3年の夏休みで、有意義な旅行をしようと、友人と夏休みの特別授業をしようということになる
いろいろのところに行って地元の中学生に講義をして、学校に泊めてもらおうとした
教えてあげる代わりに学校の宿直室に泊めてもらって、4人で出かけた
(あらかじめ手紙で連絡しておいて、実施する) 福井と島根(2年の時) 青森(3年の時)
理科の授業 赤く光る星と青く光る星の違いはわかるか?
赤い星は地球から遠ざかっている(ドップラー効果) 波長が長くなる
理科大の卒業生が校長先生をやっていたりして、現在はいろいろのところから要望がある
子供たちの反応は、素晴らしい質問をしてくる それが楽しみですね
愛知県に疎開していた(父の実家) 小学校をそこで過ごす 小さな村だった クラスメートは14名
全校で100名にならない 小学校の5年のころに、尺貫法がメートル法に変る時期だった
1リットルはこんな量だよとビーカーに水を入れて見せてくれた 理科は実験で示すことが大事
(今でも鮮明に覚えている) 中学は東京に戻ってきた
牧野富太郎先生(生物学)などに接して、教えてもらった
本を読むのも好きだった
子供たちの感動する心を育てていくことが大切だと強調する(執筆している本のなかで)
朝顔はいつ開くのか? 朝開くのではなくて、何を基準にして開くかと言うと、暗くなったことを知って、9時間後に開く
つるもルールがあって巻く ねじばなだけは右巻と左巻きの両方があり、これは例外
感動を持つためには、身の回りのことに関心を持ちなさい ということ
注目すると、不思議なことがどんどん広がる
タンポポは明るくなって開いて、暗くなると閉じる 温度が13度において基準になっている
13度より高いときに、それに従う 以下だったら13度になるのを待って開く
蝉は7年間地中にいて出てくる 幼虫のときに、木の幹に卵を産んで、大きくなったらポロっと落ちて、地面に潜っていって、木の根を伝わっていって、根の先に行ってそこで樹液を吸って、それを食料にして、7年間過ごす 7年後に上に上がってくる (穴の位置との関係の不思議)
自然界には不思議なことが一杯ある
較べるシリーズ 金、鉄 金はさびない 鉄が多く使われる
人類が始まって以来 金は14万トン 使ってきている 50mプールにたった3杯
鉄は1億トン(日本の1年間の使用量) 世界では1年間で10億トン 50mプールに3万杯(1年間で)
イメージが判るような比べ方が必要
あめんぼうがなぜ、すすすっと動けるのか?(教え子で中国の江雷先生が研究)
足が水をはじくようなうまい構造をしているから、水の上をススーッといく
蜘蛛の糸のねばねばは 横糸はネバネバが付いている 縦糸はついていない
真夏 ねばねばが乾燥してしまう どうするかというと ネバネバが朝露によって再生できる構造になっている 朝露を上手く集める糸の構造になっている
サボテンの先のとげに水を集める作用があるのではないか(まだわからないが)
空気中から水を取り出せる作用があるのではないか
それをうまく機械化すれば、空気中の水を集めて飲み水を取れるのではないか
そういう風に広がってくる
何を目的に研究するか 「天寿を全うするための科学技術」本を書いた
「健康で快適な環境の下で、与えられた天寿を全うすること」 それに少しでも寄与できないと本来の科学技術の役割ではないのではないか
その一つが光触媒ではないかと思う
アインシュタイン 100年ちょっと前に相対性理論を構築した
強い力の前では光は曲がる 実験で確かめられた(皆既日食の時に)
人工衛星の中の時計を補正している(相対性理論によって) それで時間が修正されている
そのお陰でGPSの精度が向上している(アインシュタインのおかげで)
すぐ役立つ研究も大事だが、基本的な研究をして将来の人類の役に立つ様にする研究も大事
いい雰囲気の中で研究して学問は進歩してきた
良い雰囲気を作ることは大事だという事はわかりますね
いい意味での競争をする事で学問は進歩してゆく
良い本を読んだり、身の回りの事に感動、あるいは関心を持ってもらって、不思議だなあと思って、自分でやってみようかと、言う事で自分で挑戦してもらう事が大事です
理科離れがあることを心配している 小さいときから理科が好きになってほしいと思って、科学系の童話に親しんでもらいたいと、子供図書館(「坊ちゃんとマドンナの絵本館」)を作った
夏目漱石の主人公の坊っちゃんが物理学校を卒業して、四国の中学校の先生になる
その物理学校と言うのが、東京理科大学の前身 坊っちゃんは架空の人物ではあるが
日本は科学技術立国でしか生きていけないので、研究者を養成したいと思っているが、まずは絵本から興味を持ってもらう
小学校5年生は7割が理科が好き 中学校2年で5割、高校2年生では3割になってしまう
7,5,3問題といわれている これをを8,6,4にしたいと思っている
10年前から神奈川科学技術アカデミー理事長をしていた、なんとか7.53.問題を解決できればと思い、出前講義をやろうと思いついた(学校に行って)
科学の面白さを理解してもらう 全国の学校に行って出前授業をしている(今もやっている)
授業 例えば 空が何故青いか?ようやく判るのが150年前
空気中に酸素と窒素がある そこに太陽の中の光が来て、特に青い光が散乱するという現象で空が青くなる、と言う事で説明できる
酸化チタンの粉を水の中に溶かして、ペットボトルに入れて懐中電灯を当てると、当てたところが青くなり、もう一方のほうが、黄色から赤になる 空の青さを実験で説明する
雷 ピカと光り、しばらくしてからゴロゴロと鳴る
ピカッと光るのは雲が摩擦して、静電気がプラス、マイナスに分かれてそれが放電する
なぜそのあとゴロゴロというのか
鳴る原理は 光が流れて、空気中を凄い電流が流れるので、その部分が熱くなる
そうするとその近くの空気が熱のために揺らぐ(振動する) そうするとゴロゴロと音がする
雷が多いときは米がとれやすい 雷のことを稲妻と言うが何でか?
稲と妻(妻は生れる、取れるという意味)なのか
お宮さんにお参りに行ったときに、しめ縄に白いびらびらがあるが、あれは雷だよ
豊作になってほしい 雷が来てほしいと祈る
雷が多い時にどうして米がたくさんとれるかいうと、
実際は空気中の酸素と窒素があって、雷が落ちた時に、一部窒素肥料ができちゃう
そうすると稲の出来が良くなる(空気中から自然に肥料ができてしまう)
そういう話をするとみんな感動する
学生時代にも出前授業はしたことがある
大学の2年、3年の夏休みで、有意義な旅行をしようと、友人と夏休みの特別授業をしようということになる
いろいろのところに行って地元の中学生に講義をして、学校に泊めてもらおうとした
教えてあげる代わりに学校の宿直室に泊めてもらって、4人で出かけた
(あらかじめ手紙で連絡しておいて、実施する) 福井と島根(2年の時) 青森(3年の時)
理科の授業 赤く光る星と青く光る星の違いはわかるか?
赤い星は地球から遠ざかっている(ドップラー効果) 波長が長くなる
理科大の卒業生が校長先生をやっていたりして、現在はいろいろのところから要望がある
子供たちの反応は、素晴らしい質問をしてくる それが楽しみですね
愛知県に疎開していた(父の実家) 小学校をそこで過ごす 小さな村だった クラスメートは14名
全校で100名にならない 小学校の5年のころに、尺貫法がメートル法に変る時期だった
1リットルはこんな量だよとビーカーに水を入れて見せてくれた 理科は実験で示すことが大事
(今でも鮮明に覚えている) 中学は東京に戻ってきた
牧野富太郎先生(生物学)などに接して、教えてもらった
本を読むのも好きだった
子供たちの感動する心を育てていくことが大切だと強調する(執筆している本のなかで)
朝顔はいつ開くのか? 朝開くのではなくて、何を基準にして開くかと言うと、暗くなったことを知って、9時間後に開く
つるもルールがあって巻く ねじばなだけは右巻と左巻きの両方があり、これは例外
感動を持つためには、身の回りのことに関心を持ちなさい ということ
注目すると、不思議なことがどんどん広がる
タンポポは明るくなって開いて、暗くなると閉じる 温度が13度において基準になっている
13度より高いときに、それに従う 以下だったら13度になるのを待って開く
蝉は7年間地中にいて出てくる 幼虫のときに、木の幹に卵を産んで、大きくなったらポロっと落ちて、地面に潜っていって、木の根を伝わっていって、根の先に行ってそこで樹液を吸って、それを食料にして、7年間過ごす 7年後に上に上がってくる (穴の位置との関係の不思議)
自然界には不思議なことが一杯ある
較べるシリーズ 金、鉄 金はさびない 鉄が多く使われる
人類が始まって以来 金は14万トン 使ってきている 50mプールにたった3杯
鉄は1億トン(日本の1年間の使用量) 世界では1年間で10億トン 50mプールに3万杯(1年間で)
イメージが判るような比べ方が必要
あめんぼうがなぜ、すすすっと動けるのか?(教え子で中国の江雷先生が研究)
足が水をはじくようなうまい構造をしているから、水の上をススーッといく
蜘蛛の糸のねばねばは 横糸はネバネバが付いている 縦糸はついていない
真夏 ねばねばが乾燥してしまう どうするかというと ネバネバが朝露によって再生できる構造になっている 朝露を上手く集める糸の構造になっている
サボテンの先のとげに水を集める作用があるのではないか(まだわからないが)
空気中から水を取り出せる作用があるのではないか
それをうまく機械化すれば、空気中の水を集めて飲み水を取れるのではないか
そういう風に広がってくる
何を目的に研究するか 「天寿を全うするための科学技術」本を書いた
「健康で快適な環境の下で、与えられた天寿を全うすること」 それに少しでも寄与できないと本来の科学技術の役割ではないのではないか
その一つが光触媒ではないかと思う
アインシュタイン 100年ちょっと前に相対性理論を構築した
強い力の前では光は曲がる 実験で確かめられた(皆既日食の時に)
人工衛星の中の時計を補正している(相対性理論によって) それで時間が修正されている
そのお陰でGPSの精度が向上している(アインシュタインのおかげで)
すぐ役立つ研究も大事だが、基本的な研究をして将来の人類の役に立つ様にする研究も大事
いい雰囲気の中で研究して学問は進歩してきた
良い雰囲気を作ることは大事だという事はわかりますね
いい意味での競争をする事で学問は進歩してゆく
良い本を読んだり、身の回りの事に感動、あるいは関心を持ってもらって、不思議だなあと思って、自分でやってみようかと、言う事で自分で挑戦してもらう事が大事です
2013年4月3日水曜日
藤嶋昭(71歳) ・感動が科学技術を育む
藤嶋昭(東京理科大学長71歳)・感動が科学技術を育む
光によって化学反応を起こす、光触媒の研究で大きな成果を上げられ、世界的にも知られる科学者です
光触媒の研究は空気や水の浄化、殺菌、建築材の汚れ防止、ミラーの曇り留めなど、現在生活のさまざまな分野に応用されて、太陽光による究極のエネルギーの確保の可能性を秘めている
その光触媒の研究がライフワークになったのが、東京大学の大学院に在学中だった20代の中頃
実験室で光触媒にかかわる驚くべき現象が起きているのを発見して、大きな感動を受けたのが、きっかけだったそうです 藤島さんの研究業績は日本国際賞、日本学士院賞、旭賞などにも表れており、文化功労者にも選ばれています
朝は4時には起きて、新聞(地元紙、全国紙、と小学校新聞(これはい良い))をいろいろ読み、
6時半から近くの公園に妻と一緒にラジオ体操に出かける(元旦と雨の日以外は出かける)
大学入学は50年以上前 横浜国立大学 工学部に入る 理科系がブーム、高度成長の時
卒業後、東京大学の大学院に入る 光触媒のもとになるのを発見した
電気分解現象があるが、 光を当てたらどうなるかということをテーマにして実験した(電気を使用せず)
酸化チタンの単結晶をちょうど日本で作っていて、酸化チタンの単結晶を電気分解の材料として使っていなかったので、ぜひ使いたいと思って、手紙を差し上げて、何とか材料を手に入れることが出来た
水の中に入れた酸化チタンの表面に光を当てる(電圧を入れずに)と、ガスが出てきた
(もう一方の電極には白金を使って) 白金のほうからも、ガスが出てくる
ガスを調べると酸化チタンの表面から出たものは 酸素 白金のほうから出たガスが水素がでた
電圧をかけなくて、光だけで酸素と、水素ができた(水を分解するのに普通難しい反応)
この反応は葉っぱの表面に太陽が当たる
根から吸った水が葉っぱの表面で分解して酸素がでる
光合成と同じ反応 葉緑素の代わりに酸化チタンが同じ働きをしていることがわかった
一番大事な反応を人工的に葉緑素の代わりに酸化チタンを使って水を分解して酸素を作った
本当にうれしかった 感動した 本当に感動した 学会で発表した みんな喜んでくれると思った
発表してだれも驚かない みんな信用しない 理解してもらえなかった
正しいと思っていたので、イギリスで発行されている論文誌「ネイチャー」に出そうと思って、応募してみたら(通常なかなか審査することもしてもらえない 今でもそうだが)ポッと出ちゃった
1972年 本田先生と連名でネイチャーに論文を出すことができた
翌年 第一次オイルショック 石油がなくなってもいいかもしれないとヨーロッパの人が注目する
酸素と水素 特に水素のほうに注目した 太陽光を使って水素を出せる(究極のクリンエネルギー)
その後、日本でトップ記事になって、ようやく認められるようになった
外国で注目されるとようやく日本でも注目される
春の学会で、その続きの研究を発表すると、学会の会場は満員になる(それまではガラガラ)
最初酸化チタン単結晶(高価)を使用したが、次に同じような性質をもつチタンの金属を使って10cm角 薄い板(0.1mm、0.2mm)をバーナーで炙って表面を酸化して行ったが同様の結果を得た
次に1m四方で実験をして、1日7Lの水素を取ることができた 実験を続けて安い材料で水素を取ることができた
効率を計算すると0.3%程度 効率よく無いと一つの区切りをつけた
酸化チタンは半導体の一種 ところが酸化チタンは水にも溶けない ほかの材料は溶けてしまう(シリコン等)
酸化チタンは紫にしか反応しない (効率が悪いという欠点でもあるし特徴でもある)
エネルギー変換としてはなかなか難しい
光触媒:触媒は化学反応をさせるのにその速度を早める
光を当たった時のその作用をする それが光触媒 反応がおこりやすくなる
応用の一つ いろいろな物の表面に透明な酸化チタンを塗るそうすると、光が当たるとバイ菌が消えてしまう(殺菌作用) 微量(バイ菌、煙草のけむり、油汚れ)で困っているものが一杯ある、それに対して有効なので応用できる
トイレの臭い(尿酸菌によってアンモニアになる) 便器の表面に酸化チタンを塗っておいて光を当てると(蛍光灯でもいいので)尿酸菌が殺菌されて、臭いがなくなる
応用できそうだと思って、製品化を求めるがなかなか企業が対応してくれない
直接、社長にあって、話をして製品化をしてもらう(トップの理解が得られないと製品化が難しい)
下からの理解とトップの理解があると一番いい(サンドイッチみたいなもの)
もうひとつの大発見、鏡が曇らなくなる 透明酸化チタンを塗っておいて光を当てると曇らなくなる
タイルの表面に酸化チタンを塗っておくと、油汚れなどが有ると、太陽光と雨によって常にきれいになる(セルフクリーニング) 自分で自分をきれいにしてしまう
道路のミラーとか自動車のバックミラーとかに利用されている 建材としてよく使ってもらっている
ウイルス(インフルエンザウイルスなども)も殺すことができる 空気清浄機のフィルターの中に利用
エネルギーを得る事 太陽光を利用して水素を得ることは、盛んになってきている
(効率の問題の克服がある) 現在は紫にのみ反応 突破口をみんなで研究する
チタンは豊富にある(酸化チタン)地球上にある元素で10番目に多い
安全でもある(白いペンキ、歯磨き粉の中にも入っている)
実験して、酸素、水素が出たときの光合成、その時の感動は、今の力になっている
当時量子力学で日本の有名な方々がいた 朝永振一郎先生が本を書かれた
「不思議だと思うこと これが科学の根です よく観察して確かめ、そして考えること これが科学の茎です 最後に謎が解ける これが科学の花です」・・・朝永先生の言葉
108人の世界の科学者の履歴 やってきたこと 名言、の本を作った
その本のなかにも朝永先生の事、言葉を入れさせていただいた 新入生(4000名)へ送る本
2013年4月2日火曜日
井上麻矢 ・父の志を舞台へ
井上麻矢・父の志を舞台へ
3年前2010年 4月に亡くなった劇作家の井上ひさしさんが最後まで構想を練り続けていた
「木の上の軍隊」が完成し、このたび上演する運びとなりました
この演劇は沖縄戦が行われた沖縄の小さな島で、2年もの間 ガジュマルの木の上で生活した兵士の物語をつづったものです
井上さんは構想を残しただけで、台本を作らなかったために 若手劇作家の蓬莱竜太さん
に台本の執筆を依頼して舞台上演が実現したものです
昨年は、井上ひさし生誕77年 77フェスティバルを開催 いろいろ上演された
8本連続上演 忙しかった
「木の上の軍隊」 4月5日が初日を迎える
静かだけど熱い雰囲気が漂っているけいこ場だった
藤原達也、山西惇さん、片平なぎささんの3人が出演する 栗山 民也さんが演出
肺がんになって書こうとしていたものが7本あったが、書きたいものから書こうとしていた
が、これは書かなければ いけないと、いう言い方をした
沖縄と長崎を書いていないので、まず沖縄のことを書くことにしましょうということになりました
広島に関しては「父と暮らせば」 長崎は「母と暮らせば」と題名だけ決まっていた
日常のことを突然奪われた人たちのことを、書こうとしていたみたいです(未完)
「木の上の軍隊」 20年前から書こうとしていた 書かなければ死ねないと思ったようです
雑誌にこういう方が載ったとどこかでみたらしい(専門書のような雑誌)
調べ始めて、自分が思っていたことと合致したようです
構想は早くから温めていた
ちらしがあるが、井上ひさし 原案とある 蓬莱竜太さんが作(父は直接話したことはない)
まず蓬莱さんが受けてくれるか、解らなかったが、とにかくやろうということになった
アンケートで「木の上の軍隊」を要望する声があまりにも大きかったので何とかしようと思った
メモしかなかった A4縦書きに一枚程度しかなかった
この仕事をやりたいとの思いだけがあったと、後から蓬莱さんからお聞きした
心の中ではほかの人には絶対に渡したくないと思ったようです
作家を鼓舞させるエッセンスがあるようです
戦時中、ガジュマルの木の上に兵隊が2人(新兵と上官)逃げ込み援軍の来るのを
まっているが、なかなか来ない
終戦を迎えても、終戦だということにも信じたくてなくて、降りることも生き恥をさらす
ということで木の上で2年間暮らす
淡々と心理描写で描いていっている
生きてゆくこととは、どういうことなのか 戦いとはどういうことなのか、を真摯に見つめた作品
片平なぎささんは語り部で登場する 二人芝居
現代に通ずるものをここに投げかけなければいけないので 自分の今すぐ近くにいる人を
信じられるのか というそういう 大きなメインテーマをもって書いてくださいました
舞台には大きなガジュマルの木があって、その上で二人が演技する
二人の日常の会話から戦争のこと、生き方等を浮き彫りにする
(夜だけ降りてきて食料を調達したりする 現実に起きたこと)
夜の闇が安全を保証するのみ
沖縄 戦後の負の部分を背負ってきた (戦後ではない)
本土の人間の沖縄に対する罪悪感
戦争に巻き込まれた普通の人たちの暮らしをどこできちっと誰かが残して行かなければ
いけないとライフワークにした人なので、
沖縄は井上ひさしにとってライフワークの完成していない一部であると思う
木の上に昇っていた人の息子さんとも会って話すことができた
(沖縄の人は父よりもっともっと悲惨なことに、あった人がたくさんいるとのこと)
2009年より父から小松座を引き継ぐ 想定はしてなかったのでこの3年間は父の言葉によって
支えられた (仕事は仕事として解決して やだなあと悩みにすり替えない
やると決めたら絶対にやる と 後を振り返らず前に進む)
いっかいでも多く上演しようと 今では聞けなくなった父の声をみんなに届けることだから
やっぱりこれは何かきちっと伝えて行く機会を一本でも多く増やそうとそういう気持ちになりまた
父からは、あえて険しい道を歩めと言われたので、そのように突き進みたい
3年前2010年 4月に亡くなった劇作家の井上ひさしさんが最後まで構想を練り続けていた
「木の上の軍隊」が完成し、このたび上演する運びとなりました
この演劇は沖縄戦が行われた沖縄の小さな島で、2年もの間 ガジュマルの木の上で生活した兵士の物語をつづったものです
井上さんは構想を残しただけで、台本を作らなかったために 若手劇作家の蓬莱竜太さん
に台本の執筆を依頼して舞台上演が実現したものです
昨年は、井上ひさし生誕77年 77フェスティバルを開催 いろいろ上演された
8本連続上演 忙しかった
「木の上の軍隊」 4月5日が初日を迎える
静かだけど熱い雰囲気が漂っているけいこ場だった
藤原達也、山西惇さん、片平なぎささんの3人が出演する 栗山 民也さんが演出
肺がんになって書こうとしていたものが7本あったが、書きたいものから書こうとしていた
が、これは書かなければ いけないと、いう言い方をした
沖縄と長崎を書いていないので、まず沖縄のことを書くことにしましょうということになりました
広島に関しては「父と暮らせば」 長崎は「母と暮らせば」と題名だけ決まっていた
日常のことを突然奪われた人たちのことを、書こうとしていたみたいです(未完)
「木の上の軍隊」 20年前から書こうとしていた 書かなければ死ねないと思ったようです
雑誌にこういう方が載ったとどこかでみたらしい(専門書のような雑誌)
調べ始めて、自分が思っていたことと合致したようです
構想は早くから温めていた
ちらしがあるが、井上ひさし 原案とある 蓬莱竜太さんが作(父は直接話したことはない)
まず蓬莱さんが受けてくれるか、解らなかったが、とにかくやろうということになった
アンケートで「木の上の軍隊」を要望する声があまりにも大きかったので何とかしようと思った
メモしかなかった A4縦書きに一枚程度しかなかった
この仕事をやりたいとの思いだけがあったと、後から蓬莱さんからお聞きした
心の中ではほかの人には絶対に渡したくないと思ったようです
作家を鼓舞させるエッセンスがあるようです
戦時中、ガジュマルの木の上に兵隊が2人(新兵と上官)逃げ込み援軍の来るのを
まっているが、なかなか来ない
終戦を迎えても、終戦だということにも信じたくてなくて、降りることも生き恥をさらす
ということで木の上で2年間暮らす
淡々と心理描写で描いていっている
生きてゆくこととは、どういうことなのか 戦いとはどういうことなのか、を真摯に見つめた作品
片平なぎささんは語り部で登場する 二人芝居
現代に通ずるものをここに投げかけなければいけないので 自分の今すぐ近くにいる人を
信じられるのか というそういう 大きなメインテーマをもって書いてくださいました
舞台には大きなガジュマルの木があって、その上で二人が演技する
二人の日常の会話から戦争のこと、生き方等を浮き彫りにする
(夜だけ降りてきて食料を調達したりする 現実に起きたこと)
夜の闇が安全を保証するのみ
沖縄 戦後の負の部分を背負ってきた (戦後ではない)
本土の人間の沖縄に対する罪悪感
戦争に巻き込まれた普通の人たちの暮らしをどこできちっと誰かが残して行かなければ
いけないとライフワークにした人なので、
沖縄は井上ひさしにとってライフワークの完成していない一部であると思う
木の上に昇っていた人の息子さんとも会って話すことができた
(沖縄の人は父よりもっともっと悲惨なことに、あった人がたくさんいるとのこと)
2009年より父から小松座を引き継ぐ 想定はしてなかったのでこの3年間は父の言葉によって
支えられた (仕事は仕事として解決して やだなあと悩みにすり替えない
やると決めたら絶対にやる と 後を振り返らず前に進む)
いっかいでも多く上演しようと 今では聞けなくなった父の声をみんなに届けることだから
やっぱりこれは何かきちっと伝えて行く機会を一本でも多く増やそうとそういう気持ちになりまた
父からは、あえて険しい道を歩めと言われたので、そのように突き進みたい
2013年4月1日月曜日
風間深志(冒険家62歳) ・障害者、キリマンジャロの登頂へ
風間深志 障害者、キリマンシジャロの登頂へ
標高5895mのキリマンジェロの登頂に成功しました出版社に勤務した後に、1980年 キリマンジェロにバイクで挑戦、4500mまで昇りました
その後パリダカールラリーに日本人ライダーとして、初めて出場したのをはじめに、1987年にはバイクで北極点に、92年には南極点にも到達に成功しました
ところが2004年に22年ぶりにパリダカールラリーに出場したところ、事故にあい、左足に怪我をして、
して、1年に以上の入院生活を送りました
このことがきっかけで、風間さんは障害者とともに参加する冒険活動を始め、障害者による
オーストラリア大陸の横断や日本縦断駅伝などに挑戦してきました
僕は障害をもっているので障害をもっている方たちは、意外と自ら自分の行動範囲を狭め
てしまったり、夢をもっていながら蓋をしてしまうとかが多いので、もっと人生前向きに行こうよと
平たく言えば言いたい キリマンジャロに焦点を求めた
車椅子の人が2人、左足義足が一人、左側半身麻痺、私が下肢機能不全です その5人です
ほかに健常者含め 合計14人で参加した
ブログ等で集める(新聞広告もやる)
企業からの寄付等の援助を得て資金を調達した 理解は得られた
日本の文化に遊びの精神が浸透してきたという感じはする
自己負担は約60万円だった 今回は71名のポーターを頼んだ 合計86名の大部隊となった
車いすは頑丈でないといけないので、いろいろ工夫した(4通りの運動機能をもつような
物を作った)
新しいことをやるにはそれなりのハードは必要
段取り8分、仕事2分と職人さんの言葉があるが、準備はそれなりにすそ野が広くある
遠征は総合力が必要 決断力、頑張り方、柔軟性とか、いろいろな要素が必要
成功の確率は8割、9割はあった 気候上の問題はどうなるかわからないので
最悪の場合は撤退の視野を持ちながら、やった(ゆるやかに締めあげながら)
ゆく前には 低い山から富士山まで出かけて準備をすすめた
日本を出発したのが2月6日 2月8日から登山開始 タンザニア
ラングーというゲートがあり、そこから出発 時間的にはきつかった
いきなり急斜面に入るのではなくハイキングのような緩斜面からのスタートだったので
よかった 気温も30度で結構暑かった
周りは鳥は鳴いているし、猿はキャキャと鳴いているしアフリカだなと思った
緊張をなくしてやるように、口笛を吹いたりして緊張感を和らげるように行動した
車椅子の歩調に合わせる様に、進める(段差の部分はポーターが担ぎあげる)
私は左足がほとんどだめなので、一番弱いと思っていた(特に下りは駄目)
自分の力で登りたいとのクレームがある人からあったが、全体での一つの遠征隊なので
助けてもらわないといけないので、話し合って了解してもらった(心底納得はなかったと思う
天候を含めて全方位で戦っていくしかないので
高度があがってゆくと、思いっきり顔がはれたり、吹き出物が出たりひどくなってくる
毎日の健康管理、規則正しい食事、排便をしっかりやる
高山病は厄介 だるくなって、気力がなくなってくる 今回はその様な酷さはなかったが
高所順化を行う 最後のステイ場所は4700m 血中酸素を下げさせないようにする
寝ると血中酸素を下げるので、寝ないでアタックに備える人が多かった
気温は-8度だった まだ真っ暗やみの中進んだ
朝6時になって太陽があがって、体を照らした時には、ぬくみを感じ気分も上がってくる
大変な斜面だった 我々は11時間かかって山頂に到達した(通常の約倍の時間)
我々は泣いたが、経験のあるポーターたちも一緒に泣いた
2004年パリダカールラリーに参加して事故にあう
僕は22年ぶりにでたが、モロッコの最初のステージでトラックと激突してしまって、
左足がぐじゃぐじゃになってしまって、長い闘病生活になってしまった
怪我をしてしまったということが初めて障害とか、健康でない自分を垣間見た
そこで生活観が変わった
元気、健康を深く考えるようになった
先生は退院するとそれではい さようなら で終わってしまうが、患者はそこからリハビリして
元気になろうと社会復帰を目指すが、先生はそこの部分を知らない
もっと先生はそこの部分を知ってもらいたい、医療の分野に入れてもらいたい
欧米の病院のシステムはリハリビとお医者さんの部分が全く同一であるんですね
日本は違う 病院から社会復帰へのハードルが高すぎる
障害者と健常者が共存してゆければいいと思う
次はゴビ砂漠でラクダに乗って星空を眺めてみようじゃないかという計画を立てている
楽しく生きようよ という感じですね 夢が引っ張ってくれる
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