関根勤(タレント) ・「古希を超えても果敢に挑戦!」
関根勤さんは1953年東京都出身。 大学3年生の時、民放テレビ番組の素人コメディアン道場で5週連続勝ち抜き、初代チャンピオンになり芸能界デビューしました。 その後数々の舞台やバラエティー番組で活躍します。
72歳になりました。 芸能生活去年で50周年を迎えました。 後輩から挑戦するように言われて、落語がいいかなぁとちょっと思いました。 春風亭小朝師匠の弟子の蝶花楼 桃花さんと言う師匠に仮の弟子入りしました。 人情話をやろうかなぁと思いました。 「徂徠豆腐」と言うものでした。 江戸中期の荻生徂徠と言う学者の若き日の苦労話です。 去年の正月に稽古をつけてもらって、親子会をやると言うので、師匠とやることになりました。 新作落語も自分で作ると言うことを考えました。 頻尿での苦労話についてつくりました。 フィクションは1割位です。 親子会の親は桃花さんです。名前も「かんこん亭きん太」とつけてもらいました。
5週抜きの番組では、一生懸命がんばりました。 大体3分ですが、ネタを作ってがんばりました。 芸能界でやる気ないかと言う誘いがありました。 プロで通用する事はないと言いました。 消防署員になるつもりでいました。 コント55号を育てた浅井が君の才能を保証すると言われました。 大学3年生だったので、1年余裕があると思ってとりあえず入ってみました。 学生時代は目黒5人衆ということでやっていまして、そのうちの1人が柳家小ゑんさんです。
小学校の頃から明るい少年でした。 周りにも面白い人がいっぱいいました。 萩本欽一さんの事務所で6年ぐらい経った頃、小堺一樹君と組んで、まずはテレビとか出る前に小さい劇場で修行しなさいと萩本欽一さんから言われました。 下北沢にスーパーマーケットと言うライブハウスがあって、そこでは夜の10時から12時までただでと言うことで、毎週金曜日にビットナイトコンサートをやってました。 まずはテレビであんまり出てない小堺から使おうと言うことになって「欽ちゃんのどこまでやるの」に出ました。
欽ちゃんがアドリブ言った時に、上がってしまって小堺君が落ち込んでました。 その時に萩本さんが「俺はねー上がらないやつは信用しない。いいんだ。」と言いした。 でもまた上がったりしましたが「いつまで上がってるんだ。」って言うふうに言われました。 黒子の役があってそれが受けました。 僕は新わらべの時に入りました。 高校1年生の役、ラビット関根から関根勤に名前を変更して、小坂くんと黒子の役をやりました。 そこで以前はカマキリ男の役であまりイメージが良くありませんでしたが、ガラッと変わりました。 それで一般の方にも受け入れられるようになりました。
35歳の時に、カンコンキンシアター 、クレイジー・キャッツが好きでした。 シアターアップルでやっていましてシアターアップルが壊れるまでやっていました。 元気でずっとやってこられたのは好きだったからじゃないですかね。 ラジオも40年位やってます。 舞台もやってますけれど、舞台もやっぱり楽しいです。 健康法はゴルフは好きで毎週1回ぐらいやってます。タバコは吸いませんし、お酒は飲めません。体質です。
62歳の時に小坂くんのレギュラーの番組があって、医療関係のことをやっている番組でした。 2人が心臓に特化した検査機関があって、心臓だけを検査する病院がありました。 そこにリポートできました。 検査結果は本番で発表することになりました。 翌日私はゴルフ行きました。 そうしたら再検査をお願いしますと言う電話がかかってきました。 造影剤を入れてより詳しく検査することになりました。 62歳の男性を無作為に100人選んだ中で、上から4番目に悪いですと言われました。冠状大動脈が細くなっていると言われました。精密検査で7割は詰まってると言われました。
即手術をやることになりまして、ステントと言う金属の輪を入れることになりました。 1日入院で終了しました。 翌日はもう仕事をしてました。 そのまま手術もしないでいたら2年に以内に何かがありましたよと言われました。(最悪は死に至ると言う。) その後、食事などに気をつけるようになりました。 血糖値が高くて3ヶ月に病院に行くようにもなりました。カンコンキンも37回目でとりあえず40まではやろうと思っています。 そこで元気だったらまた80までやろうかと思ってます。