2026年4月5日日曜日

林康夫(陶芸家)              ・「98歳 陶芸家が作品で伝える戦争と311」

 林康夫(陶芸家)       ・「98歳 陶芸家が作品で伝える戦争と311」

林さんは、戦後京都で結成された前衛陶芸集団「四耕会」の創立メンバーの1人で日本の前衛陶芸の第一人者です。 この前衛陶芸と言うのは皿や器、花瓶といった実用的な陶器ではなく、オブジェを作ると言う新しい表現です。  林さんの作品は海外の展覧会で、数々のグランプリを受賞するなど高い評価を得ました。   イギリス大英博物館にも所蔵され、現在開催中の展覧会にも出展されています。 林さんは太平洋戦争で海軍航空隊に入隊、特攻隊に志願しましたが、出撃前に終戦を迎えました。 作品には戦争や思考体験が反映されいるといいます。 そして2011年の東日本大震災が創作活動に大きな影響を与えました。 その記憶を後世に伝えるべく、新たな作品を生み出した林さん、作品で伝えたいものは何か、人生と合わせてその思いを聞きました。

自分で生きてきたと言う感じはなくて、生かされてるいるんだなぁという感じがしてきます。  同級生はもうほとんどいません。 友達に電話をかける場所がありません。  パソコンでメールのやりとりをやってます。 昭和3年に陶器を作っている家に生まれました。 父は林沐雨と言って、京焼職人で伝統技術保持者、焼き物で成功していた人です。  焼き物は概念から嫌いでした。 絵描きになりたいと思ってました。 小学5年生の時に担任の先生が入院しました。 お見舞いに行こうと言うことになって、父に言ったら枝に小鳥が止まっている置物を持ってきました。これを持ってくように言われました。初めてうちは陶器屋なのかと思いました。

美術工芸学校で日本画を学びました。 目標は横山大観とかそういう方向でした。小学校3年生の始まりの時に、父が陸軍幼年学校の入学試験の願書持ってきました。 陸軍の訓練の状況を見ているので嫌でした。 ミッドウェイ海戦で海軍が半分なくなってしまいました。 美術学校にグライダー部を作ると言うことになりました。加山又蔵もグライダー部に入りました。 グライダーの面白さを体感しました。軍国主義の時代でした。 海軍航空隊の余暇練に入って、操縦を学んで特攻の志願兵として応募して受かることができました。毎日編隊飛行始まりました。 250キロの爆弾を機体に溶接します。 特攻隊としての準備をしていたら、終戦を迎えることになりました。 絵描きになるしか生きる道はないと思いました。

父は焼き物で手榴弾を作る会社に行っていましたが、失業してしまいました。 私は絵の学校に行きましたけれども、お金が続かないので、辞めざるを得ませんでした。父は焼き物もやるから手伝えと言うことになりました。 積極的に焼き物もやるようになりました。  どんなしんどい仕事でも海軍よりはマシだと思いました。  1年ぐらいしたら展覧会が始まりました。 2年先輩の人から「四耕会」に入らないかと誘われました。 1匹狼の集まりみたいなところでした。 自分のやりたいことをやろうという感じです。 

前衛絵画をやっている人がオブジェの概念を教えてくれたのが面白かったです。 当時は実用的なものは作るけれども、訴えるものはありませんでした。  1948年雲を作りました。 正面から見ると黒い入道雲に見えるけれども、横から見ると女性の人体でした。 1950年に日本の陶芸展がパリへ行きます。 70数点の作品がパリに行きました。 フランスでの評価は、日本の焼き物は技術は確かだけれども、しかし固い、固いという意味はアート性にかけると言うことです。 その雑誌が翌年日本に届きますけれども、保守的な人は激高しますが、その雑誌に4人の名前が挙げられて、その4人の中の1人が私でした。(22歳) 

伝統的なことをやっていた人たちが私らを潰しにかかるわけです。 それから日本の陶芸家のリストには私の名前は入りませんでした。 2011年の東日本大震災がありました。 作品をどんなものにするかいろいろ悩んでいました。 津波の状況をテレビで見て、何も手がつかずになってしまいました。 その止まったままの作品を展覧会に出しました。 6年後に会津若松に行って作品を寄贈しました。 廃屋を見て小さな廃屋を作ろうと考えました。 2年とちょっとで売り上げが200万円位になりました。 このお金を浪江町に寄贈しました。 今生きていることをどう表現するかと言う事は、形式ではなくて精神ですから、精神をどういう形にして今風に、今風のやり方で表現するか、と言うことが作家の仕事ではないかと思います