2025年12月31日水曜日

別所哲也(俳優)              ・俳優とは行動する人

別所哲也(俳優)              ・俳優とは行動する人 

別所さんは1965年静岡県の生まれ。 1987年慶応大学法学部に在学中にミュージカル『ファンタスティックス』で俳優デビュー。  1990年 - 日米合作映画『クライシス2050』でハリウッドデビュー。 一躍注目を集めました。 その後はテレビドラマや映画で活躍、1999年 - 日本発の国際短編映画祭『アメリカン・ショートショートフィルムフェスティバルを主宰し、2004年にはアメリカアカデミー賞公認の映画祭に認定され、現在も毎年主催、開催されています。  又舞台、特にミュージカルで活躍し、「レ・ミゼラブル」、「ミス・サイゴン」をはじめ多くのミュージカルに出演しています。 今年還暦を迎えて、益々円熟味を増した別所さんに伺いました。

朝の生のラジオ放送を19年やっています。  ラジオはテレビとは違った繋がり方があると思っています。  大学に入ってから英語劇に接して、これが面白くて(大先輩に中村雅俊さん)俳優の道を目指すことになりました。  中高はバレーをやっていました。(186cm)  ミュージカル『ファンタスティックス』で俳優デビューしました。 僕は紀伊国屋で「少年マット」の募集があり、大学4年の時のオーディションを受けました。 「レ・ミゼラブル」などのミュージカルを見にいって感動しました。 30代になってキャストが変る時に、ジャンバルジャンの主人公をやらせていただくことになります。  日米合作映画『クライシス2050』でNHKのオーディションを受けてデビューしました。(2年間アメリカにいていい勉強になりました。)  契約書も自分でサインしました。 米国映画俳優組合(SAG)の会員にもなりました。  今はハリウッドはAIですね。でも映画などの感情に揺らぎみたいなものは、スクリーンで生身で観たいという事はありますね。  感情があふれてしまって、セリフが止まったり、うまく言葉がつないで出てこれないという様な、人間描写がどこまでAIが出来るのか、と言う様な事はあると思います。

アメリカに行ったりする時に、ショートフィルムのスクリーニングに誘われて、ある時に短くても感動したり、ホロっと来たりして興味を持つようになりました。 ロバード・レッドフォードのユタ州の映画祭ではショートフィルムのカテゴリーもあって、観に行きました。(1998年)  そこで凄く感動しました。  日本に戻って、自分でやってしまおうと思ってやっちゃいました。  「アクターとは行動する人」という事をアメリカで教えてもらいました。               日本発の国際短編映画祭『アメリカン・ショートショートフィルムフェスティバル』をやることで、世界中から新しい俳優さん、監督さん、プロデューサーの方とのであいが刺激になり勉強になりました。  27年やっていますが、全然飽きないです。 

ミュージカルの面白さは、感情の起伏の中に音楽があって、その音楽がその人の心を表現して居たり、3重奏、4重奏、5重奏でキャラクターたちがいっぺんに歌っても、すべての歌詞、意味みたいなものが一緒に同時に理解できるってなかなかない構成ではないかと思います。  ミュージカルは構成がしっかりしていて、ナチュラルに見えても立ち位置とか4小節でセリフを言いきって気持ちも乗せてゆくとか、決められた中できちんと演技構成をしなければいけない。 2月に韓国ミュージカル「ラパチーニの園」(19世紀アメリカの作家ナサニエル・ホーソーンの短編小説「ラパチーニの娘」を原作とした、韓国発のオリジナルミュージカル)   出演者が5人で、僕はラパチーニ役をやります。 チラシには「その愛は毒と共に育つ。」となっています。  僕はその愛を阻む父親ですが。 























2025年12月30日火曜日

北村節子(ジャーナリスト         ・〔わが心の人〕 「田部井淳子」

 北村節子(ジャーナリスト         ・〔わが心の人〕 「田部井淳子

田部井さんは1939年福島県田村郡三春町出身。 1975年世界ではじめて女性としてエベレストの登頂に成功しました。  92年には世界7大陸最高峰の登頂者となり、多くの人に登山の魅力を伝え続けました。 2016年10月亡くなりました。 (77歳)

北村さんはエベレスト登山をきっかけに、田部井さんと親しくなり親交を深めてきました。

田部井さんの人生を描いた映画もこの秋出来て、田部井さんの役は吉永小百合さんが演じています。  北村さんの役は天海祐希さんが演じています。

田部井さんは声が通って明るく語尾がしっかりしている。 初めて会ってから53,4年になります。 田部井さんに直談判してエベレストのメンバーに加えていただきました。 メンバーは15人で一人はドクターで14人が実際に山に登りました。(山岳同人の組織)  メンバーはあちこちから参加する形でした。  田部井さんがエベレスト日本女子登山隊 副隊長兼登攀隊長として、女性で世界初の世界最高峰エベレスト8848m(ネパール名:サガルマータ、チベット名:チョモランマ)登頂することになります。 田部井さんは相手の神経に触らずきちんと話すのが上手だと思っています。 

田部井さんはいろんなことに挑戦する人でした。 小学校の時から習字には熱中、お琴、ピアノにも手を染めました。  目標設定してまい進することが好きな方でとことんやっちゃう方だと思います。  家事なども頭のなかで整理できているんですね。 段取りが上手で無駄がないんです。 これは登山でも重要な事です。  エベレスト登山には家を半年留守にしています。  ゆっくり体を高度順化するために、普通軽飛行機で飛ぶルートをずっと歩き通しました。  ご主人もクライマーですが、いろいろなサポートに対して当時の日本の男には出来ない事だったと思います。  

田部井さんは54歳でマラソンの経験がないのにマラソンに挑戦。  小学校か中学校か、男子だけのマラソンに参加させてほしいという事で彼女だけ一緒に走ったそうです。  エベレストに参加することで悩んでいた時に、絵本のたとえ話をしてくれて、心配ばっかりしていると人生終わると言われました。 後々まで私が何かを決断するときには、印象深いエピソードとして残っています。  何故みんな難しいと言うのかと、じゃあどうすれば出来るか何故考えないんだろうと、本にも書いています。  やってみないと判らないという風でした。   登山では特にそうですが、誰に照準を合わせるかと言うと、一番体調に困っている人に照準を合わせるが、一番体調に困っている人に負担のないように上手にカバーしていました。(心遣いが出来る。)   田部井さんとは10歳違いますが、気安く付き合ってもらったと思います。 

田部井さんは世界7大陸最高峰の登頂者となりましたが、そのうちの4つに一緒に登りました。  60歳で大学院に通い始める。  山の環境をきちっと勉強しようとする姿勢の表れだと思います。  音楽も好きで60歳半ばからシャンソンのステージに立った。     2012年深刻ながんであると宣告される。  まず抗癌剤治療を行う事になる。 副作用が厳しくなって、太ももが上がらなくなり階段も壁に寄りかかってずり上がるようにしないと上がれない様な状況の時もあったが、無理もない範囲で山歩きも再開。  「病気にはなるけど病人にはならない。」、というポジティブシンキングで乗り切ろうという気持ちはありありでした。  好奇心のある方でした。

東日本大震災で被災した高校生と一緒に富士山に登ろうという事を、2012年から始めています。  そのために募金活動もしました。  亡くなる3か月前、高校生たちと富士山に300mぐらいまで一緒に登る。  息子さんが後をついで現在も続けています。























2025年12月29日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)           ・〔絶望名言〕 アンデルセン

頭木弘樹(文学紹介者)           ・〔絶望名言〕 アンデルセン

今年はアンデルセン生誕220年、没後150年に当たります。 アンデルセンはデンマークのオーデンセで貧しい靴屋の息子として産まれました。 幼いころに父親からアラビアンナイトなどの物語を聞いて育ち、14歳で俳優を目指しましたが、夢はかなわずその後戯曲や詩で評価され、小説「即興詩人」で作家としての地位を確立しました。 

「人魚には涙というものが無いのです。 それだけに一層苦しい思いをするのでした。」    アンデルセン

代表作には「人魚姫」、「みにくいアヒルの子」、「マッチ売りの少女」、「雪の女王」などがあります。   アンデルセンが生まれたのは1805年、亡くなったのは1875年。

アンデルセンは貧しい家庭に生まれ、旅に出て色々な経験をして、有名な童話作家になって国王や王子様と親しくなり、亡くなった時には国葬がおこなわれた。 アンデルセンの童話はアンデルセン自身を反映している童話が多いです。 アンデルセンにも悲しいことが沢山あったという事です。 

人魚は海のなかにいるから涙はいらないが、悲しい時に泣くことが出来ないと余計に辛いですね。 アンデルセンは悲しみを知っていた人ですね。 

「人間と言うものは一遍の優しい心さえあれば、物事を別の見方で観ることができるような場合にも、とかく他人に対して軽々しく厳しい判断を下しがちである。」 アンデルセン

「マッチ売りの少女」は自分のお母さんをモデルに書いたと言われる。  貧しい家庭に生まれて、靴直しの職人と結婚するが、貧しい暮らしが続いた。 夫は33歳で亡くなってしまう。その後再婚するがその人も4年後に亡くなってしまう。  その後お母さんは洗濯押し?になる。 川の流れに立って(寒さのなか)洗濯をする。 

アンデルセンの母親は川の冷たさに耐えるために、酒を飲むようになる。 そのせいでアルコール中毒になって、二番目の夫を亡くした10年後に亡くなる。

「沈んだ私の心を奮い立たせてくれる人も、優しく慰めてくれる人も誰一人いなかった。         私は全く見放されてしまった。 真剣に私は自殺のことを考えた。」 アンデルセン 

母親がまだ生きているころにアンデルセンはデンマークの首都のコペンハーゲンに行きます。 コペンハーゲンまでは160kmもあります。 (14歳)  当てもなくお金もあまりない。  母親は止めようよしたが止めきれなかった理由があった。 アンデルセンの父親は優秀な子であって、 お金持ちが学校に行く金を出してあげようと言ったが、その両親は貧しかったので早く息子に稼いでほしかったので断って、靴直しの職人にした。  父親は自分の望む人生を生きられなかった。  自分の気の進まない道を無理に選んではいけないよ、本当に自分がなりたいと思うものになるんだよと言い聞かしていた。アンデルセンの父親は妻には「この子がしたいことが有ったら、それがどんなにばかげたことに見えようとも、望みを叶えてやってくれ。」と言ってあるわけです。 それで母親は止めきれなかった。

アンデルセンは芝居が好きで、王立劇場の舞台に立ちたいと思っていた。  願いはかなわず途方に暮れてしまう。 「沈んだ私の心を奮い立たせてくれる人も、優しく慰めてくれる人も誰一人いなかった。 私は全く見放されてしまった。 真剣に私は自殺のことを考えた。」 とアンデルセン絶望してしまう。  しかし諦めずにいろいろな人のところに訪ねて行って、支援してくれる人に出会う。 

「各方面の友人までが、私には童話を書く才能がないといって、断固として看視する始末だった。」 アンデルセン

支援してもらったアンデルセンは学校にも行って、外国旅行にも行かせてもらった。  イタリアで自分の人生と重ね合わせた「即興詩人」(森鴎外 翻訳)を書いた。 これが評価されて作家として認められるようになる。  「即興詩人」を書いている途中から童話も書き始めている。  最初の「童話集」は評価されなかった。  一人だけ物理学者が評価して『「即興詩人」は君を有名にしたが、童話は君の名を不滅にするだろう。』と言ったんです。

*メンデルスゾーン ヴァイオリン協奏曲

「でも王様 裸だよ。 突然小さな子供が王様に向かって言いました。  人伝いに子供が言った言葉がどんどんひそひそと伝わって行きました。 王様は裸だぞ。 ついに一人残らずこう叫ぶようになってしまいました。  王様は大弱りでした。 王様だってみんなの言うことが正しいと思ったからだ。 でも今さら行進パレードを辞めるわけにはいかないと思ったので、そのまま今迄以上にもったいぶって歩きました。 召使いは仕方なくありもしない裾を持ち続けて王様の後を歩いていきましたとさ。」    アンデルセン

「裸の王様」の最後の部分。  馬鹿な人には見えない布で作ったという服を高く売りつけられた王様は、それを着てパレードをすることですが、みんな馬鹿と思われたくないので、服が見えるふりをする。 その時子供だけが、「王様は裸だよ。」と言うんです。 それで終わりかと思ったら続きがあって、裸だと判った後も王様は行進パレードを辞めるわけにはいかなくて、いっそうもったいぶって歩く。 家来たちもありもしない裾を持ち続けて歩いてゆく。 これは怖いですよね。 間違いに気付いたけれどそれを正すことが出来ず、押し通そうとする。

「親指姫は綺麗だったのです。  親指姫を連れて来たコガネムシもそう思ったんですが、他のものがみんなみっともない、みっともないというものですから、そうこう自分も思うようになって、手元に置きたくなくなりました。 どこへでも好きなところへ行くがいい。」   アンデルセン

親指姫はチューリプから生まれた親指ほどの女の子です。 親指姫を連れて来たコガネムシは親指姫を綺麗だと思った。  周りがみっともないと言うと自分もそんな気がしてきてしまう。自分の最初の気持ちを大事にした方がいい。  

「アントンさんは掛け布団をぐっと上まで引き上げ、ナイトキャップをを目の上まで降ろしました。  すると昼間の商売や苦労が頭を去りましたが、それで気持ちがのんびりしたわけではありません。  今度は古い記憶がやって来て幕ををあけるのです。  記憶の中には・・針が入っていて、指を刺されることがあります。 痛いと言った時にはその針は血の通っている肉を刺してちくちく痛み涙が目に出てくる。 年寄りのアントンさんもたびたびそんな目に遭って熱い涙がキラキラ光る真珠のようにこぼれます。」   アンデルセン

独身のおじいさんが失恋を思い出す。 アンデルセン自身も失恋連続きで生涯独身で過ごす。 ヨーロッパを中心に旅に出て、長い旅だけでも30回以上あります。  旅をすることは生きる事と詩にも書いています。(当時としては旅は危険だった。)  勇気もあるが、しかし極度の心配症でもあった。  

アンデルセンの童話が毎年クリスマスに一冊づつ出て行った時がありました。  クリスマスについてアンデルセンの自伝に書いている言葉があります。

「その晩私は急に孤独の重苦しい気配を感じた。  それはクリスマスの前夜であった。 他の晩はともかく、この晩だけはお祝いの様子を見たり、クリスマスツリーのそばに立ったり、子供たちと喜びを共にしたり、両親が子供の気持ちにかえるのを見たりしたいと、常々願っていたのである。 しかし私はただ一人此度一室に座って遥かに故郷の事を思い浮かべていたのだ。 私は窓を開いて、そこから星をちりばめた空を仰いでいた。  それが私のために点火されたクリスマスツリーだった。」 アンデルセン



























2025年12月27日土曜日

斎藤まゆ(ワイン醸造家)          ・ブドウ畑の空に乾杯

斎藤まゆ(ワイン醸造家)          ・ブドウ畑の空に乾杯

斎藤まゆさんは1980年生まれ。 早稲田大学2年生の夏休みにブドウの収穫の研修旅行で訪れたフランスボルドーやコルシカ島のワインに感動し、日本から世界に通用するワインを作りたいという思いを抱き、大学を中退します。  ワイン作りを学ぶため単身アメリカカルフォルニア州の大学に渡り、その後もフランス、ブルゴーニュ地方の名門ワイナリーで修業します。    帰国後10年余り前に山梨県甲州市塩山に設立されたワイン工房で、醸造責任者としてワイン作りの中核を担っています。  また最近では耕作放棄地をワイン用ブドウ畑へと変えて行こうと、地元農業の活性化にも情熱を注いでいます。 

2025年のワインの出来は素晴らしい年でした。  今年は空梅雨と言われていて、雨の少ない年で病気にならずに健全なまま素晴らしいクオリティーのものが出来ました。 私たちが作ったワインが出て行くのは来年の春ぐらいです。  ブドウの種類は40種類ぐらい作っています。  社長はブドウ農家の3代目で、以前は60種類ぐらいのブドウを育てていたそうです。 ワイン用には5種類育てています。  ピノ・ノワールは愛好家の大好きな品種です。 ピノ・ノワールは育て方の難しい品種ではあります。  最初は緑色をした硬いブドウが段々と赤、黄色、ピンク、黒っぽい、とび玉(一房の中に飛ぶように色が付く)と言って黒く色付いてくる時は独特の美しさがあります。  

ピノ・ノワールの収穫は8月中旬ぐらいから始まります。  10月半ばから終わりぐらいで私たちのワイナリーは終わります。  ワイン用のブドウは甘さと酸っぱさがないといけない。 糖度が23度ぐらいあると12,5%ぐらいのアルコールが出来ます。 発酵中のワインはぷくぷくしゅわしゅわしています。  熱も出るので温度管理をしないといけない。  ワインの鑑定によって価格が付いてくるものもありますが、自分たちの作ってきた農産物の価値を上手に国を挙げて、上げて行ったと言いうその結果だと思っています。 そこにマーケットが反応してそれが売れるか売れないという世界になって来ると思います。

私たちは国際線のファーストクラスに乗せることが夢でした。  選考に何回も挑戦して落とされてきました。  2017年にイギリスの世界一ソムリエ、ワインの神様のジェラール・バッセが来日して、社長と共に私も食事の席に同席して、私たちのワインを飲んでいただいて気に入ってもらえました。  ツイッターに紹介してくれました。   スタッフ11名で5ヘクタールの畑で栽培しています。  2013年にワイナリーを立ち上げた時には子供を身ごもってて、ワインを飲むことが出来ないので、味の部分はブレインに頼んで意見を聞きました。 かおり、色あい、輝きその他数値で現れる品質などから判断していきました。  子供が出来たことで自分の持っているものをどんどん人に伝えて行こうと思いました。 

山間地の斜面なので毎日登ったり降りたり、そしてそこでの作業なので強靭な体力が必要です。 (ストレッチ、しこを踏んだりして鍛えています。)  専門的な知識はもちろん必要ですが、感性も大事です。  子供のころには母親から味噌汁の味について味見役的なことをしていて、意見を言っていました。 習い事もいろいろやらせてもらって好きなことを自身で探していきました。 そういったことで感性が磨かれたのかもしれません。  

ブルゴーニュ地方には「ワインの歌」と言うのがあるんです。  「ラララ」しか言わないが小さい子から老人まで一緒になって歌います。  生きている歓び、健康で美味しくワインが飲めるんだと、子供たちを豊かに生活をさせることができるんだと、そういう喜びをたたえるような歌だと感じました。  日本にはワインをたたえる歌が無いとずっと思っていました。   私が歌詞を作ってしまって、作曲は戸倉俊一さんに書いていただきました。

斎藤まゆさんが歌を披露する。






















2025年12月25日木曜日

岡本美津子(映像プロデューサー)      ・〔私のアート交遊録〕 映像づくりは人づくり

 岡本美津子(映像プロデューサー)      ・〔私のアート交遊録〕 映像づくりは人づくり

岡本さんは京都大学卒業後NHKに入り、番組開発やBSでデジタル放送の立ち上げなどに携わります。 特に若いクリエーターを発掘する「デジタルスタジアム」を立ち上げ、さらにその番組の入選者の作品を紹介するデジタルアートフェスティバル東京では総合プロデューサ―を務めました。 NHK退職後は東京芸術大学大学院映像研究科教授へ転身、2017年からは副学長も務めました。 芸大教員となってからもEテレ0655&2355』のプロデューサーを初めとして、番組の開発と後進の育成に努めています。 小学校時代の放送部の活動でメディアの世界に興味を持ち、映像による物作りへの魅力を感じてテレビの世界に入ったという岡本さんに、映像による物作り、人作りへの思いを伺いました。

6年生の時に転校して、人がいないので放送部をやれと言われて、指導者がいない中で試行錯誤の毎日でした。  アナウンサー、ディレクターをやり段々慣れてくるとしゃべるのに歓びに目覚めていきました。  NHKに入りたいと思っていました。  シルクロード、漫画アニメなどを毎日見るのが日課でした。  中学の時にスターウォーズを見て、自分は作りたいんだと初めて思いました。 NHKに入ってディレクターとしても いろいろ勉強させていただきました。 NHKではプロデューサーとしての作品の方が多いです。 私が作った番組でデジタル・スタジアム』と言う番組が、私の人生を大きく変えた番組です。  2000年ごろでパソコンが普及し始めた頃でした。  若い人たちがそれを使って、自分の作品を作るようになりました。  その作品が面白くて、若いクリエーターたちの作品を如何に世の中に紹介できるか、という事が私の目標になりました。 テレビが一番紹介する場所ではないかと思いました。 そこから若いクリエーターたちが育っていきました。  番組は10年近く続きました。  

2008年にNHKを退職して東京藝術大学大学院映像研究科教授へ転身することになりました。 私はアニメーション専攻と言うところにいますが、最近は半分ぐらいが留学生です。    韓国、中国、アジア圏が多いです。  2012年から放送されているテクネ 映像の教室のプロデューサーを務めてます。  独学で勉強する人が多いので、テキスト替わりになるような番組が出来ないかなと思いました。  発注型の映画製作も番組のなかでやって見ました。   2020年からは「日本アニメーション教育ネットワーク」の代表理事もやっています。  アニメーション関係の教育機関、教育者もまだまだ少ないです。  日本映画産業全体から言うとこれまではトップ100に入るのが稀でした。 今後ビジネスとしても産業としても成り立つような形にしていかなければいけないと思っていて、今年はその元年だと私は捉えています。

「鬼滅の刃」の劇場編が、全世界の収入が1000億円と言われています。(日本では初めて1000億円稼ぐ作品。)  この作品は世界のトップ5に入っています。  世界を対象にしたビジネスが成り立つんだという事が改めて知ることができた作品です。 コロナを機に世界的にリビングルームで観られるようになり、爆発的にアニメファンが増えます。 日本のアニメ産業を活性化して海外に売ればいいじゃないかと考えますが、本数を増やしてもどうしても頭打ちになってしまう。 一番大きいのはアニメのスタジオの人員不足です。  少人数でやってるスタジオが多い。(少数精鋭)   増やしたくても増やせない。  日本のアニメ産業に必要なのは人材です。  

国の援助が望まれますが、海外と比べると少ない状況です。 アニメーターの見習い期間の給料だけでも補助してあげれば、日本のアニメーションスタジオはどんなに助かるかしれません。 基礎研修を公けの機関がやってあげるという事も大事です。 人材育成の補助は公共機関の役割かなと思います。 海外から学びに来る学生は凄く優秀です。 そういった人たちが日本で仕事ができるようになるのは負担も大きので、そういったところにも補助があると、人材確保になると思います。  

私は人材育成の方で貢献をしようと考えています。  卒業生が活躍して評価されるのは10年ぐらいは掛かりますので、せめて10年、20年の単位で人材育成を考えて行ったらいいのではないかと考えています。  日本の基幹産業の一つとして行くためには母数を増やしていかないといけないと思います。  プロデューサーの人材も枯渇しているので、これが最大の課題で、研究中です。  お薦めの一点は片渕 須直監督のアニメーション「マイマイ新子と千年の魔法」です。 

















































2025年12月24日水曜日

小泉不二男(日本ツバキ協会 副会長)     ・〔心に花を咲かせて〕 ツバキブームを調べてみると

小泉不二男(日本ツバキ協会 副会長)  ・〔心に花を咲かせて〕 ツバキブームを調べてみると

椿はもともと日本に自生していた花で、縄文時代からあっただろうということです。 文字上で現れてくるのは奈良時代からだそうで、以来日本人に愛されていきたと思っていましたが、小泉さんにお聞きすると、椿にももてはやされた時代も受難の時代があって、それにはいろいろな理由があったようです。  「椿ブームを調べてみると」、日本ツバキ協会 副会長小泉不二男さんにお聞きしました。

日本の山に自然に生えているもので、ヤブツバキとか山椿と呼ばれる一重の花ですが、北海道にはないが日本の中にあって多少の個体差はあります。  記録的に見ると奈良時代以降という事になってきます。  和歌などにも出て来ます。  花として見る以外に、油が貴重なものだったので、税として集められていた。 (椿油)  万葉集には椿を歌った歌が9首あります。  

「巨勢山のつらつら椿、つらつらに見つつ白妙(しろたえ)によしこの山の春の野」

「椿」と言うのは日本人が作った漢字なんですね。 ヤブツバキは日本と朝鮮半島の南の方だけです。  日本書紀にも記述があります。 白椿が突然変異で生まれたものを、目出度いものとして天皇家に献上したという記録が日本書紀に載っています。  お正月に茶道で白い椿を飾るという事は今でも続いている事です。 平安時代、鎌倉時代にはあまり登場しません。  推測ですが、当時他の物に関心が行っていた。 例えば梅(中国から入っている。)など外来の物に気を取られていたのではなかろうかと言われている。  室山時代の最後に安土桃山時代がありますが、茶の湯が熱狂的に流行する。   そこに茶花が必要になって来る。 椿が再び注目を浴びたと考えられれます。

戦乱が続いた後、江戸時代になるとようやく落ち着いて、お花を見ることができるようになった。  園芸をするゆとりが出来た。 その先駆けが椿であったと言われる。 徳川二代将軍の秀忠が当時の文献で花癖であった、花が好きで特に椿が好きだったといわれる。  それを知った大名が献上合戦のように行われた。 家光時代に作られた江戸城の屏風があるが、そこにお花畑が描かれていて、椿が植えられていることが判ります。  色々な変化のある椿を支えたのは北陸と言われます。  北陸にはヤブツバキとは違う別種のユキツバキがあります。 山の上の方のユキツバキとふもとの方のヤブツバキと自然交配すると99.999%以上が素朴な花になります。  中には一本変ったものが出来ます。 例えば八重よりももっと数が多いものとか、おしべの棒のところに花びらがあるように見えるものが出来たりバリエーションがでます。   それを見つけて農家の庭に植えられていた。 それが江戸、京都に運ばれて広がって行った。  元和寛永の椿ブームで図鑑、巻物が作られた。  そのころの多くの物は現在はなくなってしまっている。  

今でもいかに椿を残していくかと言う事は大きな問題です。  人が守ろうとしないと木でもなくなってしまう。  江戸の園芸ブームで新しく「わびすけ」(茶花で有名、ひそやかに開く)が生まれましたが、はっきりしたことは判っていない。  金閣寺に「胡蝶わびすけ」というものがあります。 後水尾天皇(家光時代)がお手植えしたというのが、現在も残っています。  京都のお寺には古いものが残っていて非常に貴重です。 「肥後椿」は肥後藩の武士たちが品種改良して、一本の木であっても赤いはずなのにピンクの花、白い花が咲いたり、してそれぞれを育てるといろいろな品種が出来てくる。 太い芯を選抜して、芯を見るというものもあります。  今はイタリアなどで人気になっています。

尾張藩ではお茶席で初釜(1月)、野開き(秋)のために合わせた花の咲く時期のものを求めた。 (つぼみがふっくらとしている。)  現在も「御殿椿」として伝わっています。 江戸時代には400,500と言われていましたが、江戸の最後に資料があって、江戸の最後に出たものは今に伝わっています。  染井村の植木屋さんが明治になってカタログを作って、今我々が目にするものと一致しています。  花形の変化、花色(椿は複色になりやすい性質を持っている。)、赤に白いものが入っている、その大きさによってもいろいろな品種が生まれてくる。 絞りといってピンクであればより濃い線状が入り線の太さもいろいろのものがある。

倹約令が出て、園芸植物の人気が下がってしまう。  飢饉の時代も関心がなくなる。  明治になるともっと大きな逆風が来て、ヨーロッパ、アメリカから新しい園芸植物が入って来る。 椿は明治以降忘れられてゆく。   染井村の植木屋さんもいなくなってゆく。 埼玉のさいたま、川口、上尾に新しい植木屋の里が出来る。 染井村から苗を貰ったり挿し木にして保護、育てた人がいます。(皆川さん) 戦争で食糧難になって園芸から農産物への指導があったが皆川さんは椿畑を残したそうで、それが無かったらかなりの数の椿を失ったと考えられます。化

日本の椿が中国経由でヨーロッパに広がり、日本の文化も紹介されて、19世紀に「東洋のバラ」として、ヨーロッパで大ブームになる。 (貴重なもので貴族の花)  ヨーロッパからアメリカに移って大ブームとなる。 (カルフォルニアなど気候が合う。 19世紀終わりから20世紀に広がる。)  コンテストもあり品種改良が進み、大輪華麗な椿に変身する。  戦後になってアメリカで大評判になっている人気の花という事で日本に伝えてくるが、それが日本の椿だった。  戦後に里帰りが起こった。(洋種椿)   日本ツバキ協会が昭和28年に出来る。 神代植物公園に皆川さんから譲ってもらって、椿園にしています。

30代なかばに銀座の椿展があり、そこで観た白い椿の花に凄く感動しました。 椿を調べれば調べる程興味が湧きました。 今でも毎年のように新しい発見があります。 これからは本当の椿の時代になる可能性があるかなと思っています。








 




2025年12月22日月曜日

山﨑徹(歌舞伎附け打ち)         ・〔にっぽんの音〕 能楽師狂言方 大藏基誠

山﨑徹(歌舞伎附け打ち)         ・〔にっぽんの音〕 能楽師狂言方 大藏基誠

附け打ちは多くは歌舞伎で使われるものですが、登場人物の動きや 演技に音を付けます。      舞台で打っている姿も見ていますが、気は付いていない方が多いかもしれません。      附け板と言う板があり、けやきの一枚板で出来ています。  厚さは七分ぐらい。  打ちながら削ってゆくので消耗品です。   附け木は樫木で出来ています。   2本あり真直ぐになっています。 手前がちょっと丸味がある。 軽く握る。  左が先で打って右で終わる。 丸味のところを先に打って次に真っすぐなところで打つ。  力強い人、子供、女形が出てきたりするので、それによって緩急をつけてゆく。  立ち回りもいろいろと間合いを取る。  センスにゆだねられるところがあります。狂言では使われていないが、狂言に附け打ちをやってみる。

山崎さんは1969年2月生まれ。 岡山県倉敷市出身。 高校卒業後テレビや舞台を制作する会社に入り、舞台に関わる仕事をスタート。 20歳で上京して歌舞伎の大道具に携わるようになる。 附け打ちの世界に入る。1992年23歳の時に、新春浅草歌舞伎で初舞台、以来国内外の歌舞伎公演に出演するほか、附け打ちのワークショップも積極的に行っています。 今月は劇団新感線の井上歌舞伎爆烈忠臣蔵に参加中。普通の現代劇にも嵌めたもの。 普通の歌舞伎公演の10倍20倍の稽古をしました。   時間も長くて3時間半ありました。  

附け打ちに入るきっかけは舞台の裏方の仕事をしていて、こういったお芝居の世界がるんだという事を知って、東京に出て行きました。  歌舞伎の世界にも入って行って、附け打ちを知ることになりました。  現在附け打ちの専門職として12人います。 

歌舞伎では見せ場が出て来ますが、舞台から花道を入ってゆく事なんですが、附けを派手に入れて打ち込んでゆく。  勧進帳で弁慶が花道を引っ込むときに、役者と附け打ちが一対一でお客さんから見えているのは二人だけで、その時には緊迫感がります。

日本の音とは、附け木など命を頂いているもの、そこから生まれた音と言う事だと思います。(先輩から教わりました。)  命を吹き込むように我々が打ってゆく。 日本の伝統芸能で使われているものはすべてそうじゃないかと思います。 「芯」」の有る音を出しなさいと言われます。  芝居に合わせた音、役者の心情を組んで打って行かなけらばいけない。 役者の気を感じて打ってゆくという事が大事です。 体験をしてもらうようにワークショップをやっていて今年で10年目になりす。 













2025年12月21日日曜日

藤井礼子(手描きジャワ更紗工房主宰)    ・着物の魅力を伝えたい ②

藤井礼子(手描きジャワ更紗工房主宰)    ・着物の魅力を伝えたい ② 

藤井礼子さんは1958年長崎県生まれ。  短大卒業後石油会社に勤務、社内結婚した夫の赴任に同行して20年余り海外生活を送りました。  4か国目のインドネシアで特産品であるジャワ更紗(バティック)に魅せられ、産地を訪れるようになりましたが、インドネシアでも経済発展の陰で伝統産業を担う人が減っている事態を目の当たりにします。 どうしたら職人たちの暮らしを支えられるのかを考える中で、日本向けにデザインしたジャワ更紗の帯の販売を始めることにしました。  現在は年間70本を目標に製作しています。

実際の工房はインドネシアにあります。 福井県の仕事場ではデザインを考えたり、インターネットでインドネシアのスタッフとデザイン、色の説明したりしています。 ジャワ更紗は1800年代から作られていたという伝統の布です。 ろうけつ染めです。  私がやっているのは手書きです。 ろうが付いているところには染料が付かないので、染めたくないところにろうを付けます。 腕のいい職人さんでないと出来ない、髪の毛ぐらいの細さのチャンティン(蝋噴出ペン使用の手書きと、cap(チャプ)と呼ばれる銅製のスタンプ押し)でろう付けする事は出来ます。 細いチャンティンを使うのでろう付けには時間が掛かって、帯を作るのに早くて6か月ぐらい、長いものでは1年以上かかるものもあります。日本の日の光とか風土に合うものを、日本の人が素敵だと思てもらえるような色と柄を使ったものを作ってみたいと思いました。 

母は洋裁和裁が得意な人でした。  小さいころから結婚するまで母が作ったものをずっと身に付けていました。  成人式の振袖も母が縫ってくれました。布好きでした。  結婚して海外で暮らす様になりました。 現地の言葉で話すという事が仲良くなるためには大切な事と思います。  最初はアラブ首長国連邦のアブダビに来ました。(イスラム圏)  インドネシアは4番目の駐在国でした。  行った時にはインドネシア語は全然話せなくて、家にいる時にはテレビでインドネシア語を流して聞いて、近所で話せる機会のある人たちと出来るだけ話すように心がけました。  

インドネシアは布の宝庫と言われる国です。(行ってから知った。)  ある店に行った時に美しい布で作った服を着ていて、バティックはいいなあと魅せられました。 「花更紗の神様」という工房で作られたもので、オーダーしてから3年後にようやく手にいることが出来るという事でした。  治安も悪くジャカルタから11時間ぐらいかかるところなので、行くことに最初な反対されましたが、なんとか説得しているうちに行けることになりました。 最初はその距離の半分ぐらいのところの工房にいくことにしました。 段々いろんな村に行きました。  腕のいい職人さんが段々辞めていきました。  腕のいい職人さんのものは高くてなかなか売れないために、腕のいい職人さんほど仕事がないということが起こっていました。  危機感を感じました。  

自分の洋服用に依頼はしていました。  一時期日本に戻った時に着ていたら、洋裁店の方の目に留まって、うちに置いてみないかと言われました。  それがきっかけになって仕事を始めました。  私は最初からシルクで作っていました。  或るお客様からシルクだから帯にも出来ますねと言われて、帯を作ってみようと思いました。 ただ帯にするのには強度とか問題があるのではないかと思いました。 作ることになりましたが、布、ろうけつ染めの職人さんは頑固なところがあり、新しいことに対して、抵抗がありました。 何とか説得して、作ってもらえるよぅになりました。 下絵師さんにもいろいろ説明して納得してもらえるようにしていきました。 (実際に帯を締めて柄の位置とか形とか説明)  

口コミで段々広がっていきました。  工房の職人は34人います。  二つの村に分けて分担しています。 下絵の職人が男性でそれ以外は女性です。  下絵師の人は気難しい人ですが、彼の技術が素晴らしくて、違うものも作れるという思いがあります。  ここ5,6年行っていませんが、インターネットの普及で情報のやり取りができるようになって、行かなくても対応できるようになりました。  私が思っていたよりもいい感じで染まっていることが多いです。  私は日本向けに合う色で染めたいと思っています。 2009年、世界遺産にバティックが選ばれました。  インドネシアではバティックを見直す機運が高まっていると思います。 帯を作るようになって着物も着るようになって、着付けも習ってお茶もやる様になりました。 























2025年12月20日土曜日

丹羽薫(プロトレイルランナー)        ・私を変えたトレイルランニング

丹羽薫(プロトレイルランナー)        ・私を変えたトレイルランニング 

トレイルとは未舗装の道のことです。  山や平原、森林など自然の中のおもに未舗装の小道が設定されて、走り抜けるものです。 時に酸素の薄い山岳地帯そして木の根や石が転がるような悪路も走ります。 距離は大会によって幅がありますが、初心者も参加できる10km、20kmの短い距離から100kmを越え、中には400kmを越えるとてつもなく長い距離を競うレースもあり、これがトレイルランニングです。 こういった長い距離の場合は数日に渡って走り続けることもあるという過酷な競技です。 丹羽さんはおよそ160kmを越えるような超長距離と言われるレースを得意としています。 身長152cmと小柄で細身、ショートカットの髪をなびかせ大きなリュックサックを背負って山を駆け抜けます。 これまで世界の多くの大会に出場、幾度も表彰台に立っている日本のトレイルランニング界女性ランナーの第一人者です。 トレイルランニングのキャリアーはおよそ15年、現在50歳と言う丹羽さんです。 ことしは5月にインドネシアで開かれたおよそ160kmのレース、9月にイタリアで開かれたおよそ450kmの距離の大会、11月に南アフリカで開催されたおよそ160kmのレースに挑戦しました。 今年の春左足のじん帯を痛めた丹羽さん、一つ目と、二つ目のレースは途中でリタイアです。 しっかり治療して臨んだ南アフリカの大会では完走して上位の十位でレースを終えています。 丹羽さんにトレイルランイングの魅力、50代を迎えてのレースの向き合い方を伺いました。

南アフリカの大会では33時間28分4秒、世界中から実力のあるランナーが集って、男女合計150人が参加。  女性ランナーが25人で6位に入りました。 レベルが上がていて30時間を切らないとトップ5に入れなかった。  自分としてはいいレースが出来たと思います。 いいレースをした後は回復も早いです。(3日後には走れるようになった。)  

高校時代は柔道部、大学はヨット部、就職してからは馬に乗ったりスキーをしたりしていました。  35歳の時にトレイルランニングと出会い、20km程度の短いレースに参加しました。  トレイルランニングはずっと走り続けなくてもいいので、登山の延長の様な感じで自然の中を走るので五感を刺激して、自分にあってると思いました。 マラソンは出た事は無いです。  練習は基本的にはロードとか山道を3,40kmをほぼ毎日走っています。 筋トレもしています。  レースの前になると一日7,8時間走っています。 一人で走るのは辛いので犬と一緒に走っています。  完走するというのは強い心を持って諦めなければ、多くの人ができることだと思います。  海外のレースなどは可能な限り早く現地に入ってコースを辿ってチェックしておきます。  試走して、食べるもの、水分の量などを決めます。

毎年クラウドファンディングをして海外遠征費を皆さんに支援してもらっています。    走っている時には戦略的な事とか補給のタイミングなどを考えながら走っています。    360kmのスイスのレースに出た時に、男性が財布を落としたと思ってみたら唯の石で、そういった幻覚を見ました。  他にも幻覚を見ています。 睡眠不足で認知機能が低下しているようです。  そのペースで走ると遅くなるので、5分ぐらい寝るというのも一つの戦略です。 2023年 イギリスのウエールズで開催された時には、最後の頃も身体が動いていて、順位を上げて行って、ラストの4kmぐらいで一人抜いて4位に入賞したことがあります。 興奮状態でそれまで感じていた足の痛み身体の痛みが全部吹っ飛びました。

超長距離になると経験がものを言うレースかと思います。  身体にいろいろなトラブルが起きるので、経験が多いとトラブルシューティングの引き出しが増えて行きます。  後半になってペースを上げることは怖いです。  そのテクニックも経験の多い方が対応が出来ます。 これから後何年続けられるか判らないですが、、毎日コンスタントに練習が続けられる限りは、頑張りたいと思っています。  目が衰えて来て、夜走る時には苦労します。又デジタルの時計では最近色々な情報が入って来るタイプだと見にくくなってきましたが、最新式のものは明るくて便利です。 

関西には100マイルレースが少なくて、周回レースも面白くなくて、関西でも作りたいと思って、始めました。(5年前から)  人気のレースになってきています。  女性も30%ぐらいいます。(普通10%程度)  3県にまたがるコースなのでいろいろなところに許可を貰ったりするのに、一回目はほとんど自分でやったので大変でした。 今は実行委員会があって運営を分担してやっています。  世界でも女子が3人ぐらいしか完走していないレースがインドネシアであり、完走して表彰台に乗りたいです。 あと今年棄権した450kmレースで表彰台に立ちたいと思ってます。























2025年12月19日金曜日

向谷地生良(ソーシャルワーカー)      ・生きづらさが希望に

向谷地生良(ソーシャルワーカー)      ・生きづらさが希望に 

向谷地さんは1984年北海道浦河町に精神障害者の活動拠点「べてるの家」を設立して、現在は理事長を務めています。 2001年「べてるの家」のメンバーと一緒に当事者研究をはじめました。 不登校や精神障害など様々な生きずらさを抱える人たちが集まって対話をする当事者研究は近年注目されています。 当事者研究と言うのは仲間との対話を通して自分自身のことをよりよく知ろうとする実践です。 当事者研究が始まって今年で25年、向谷地さんは大腸がんと闘いながら当事者研究の普及を目指して全国を回っています。 当事者研究はどのようにして生まれたのか、又当事者研究を通して向谷地さんはどのように感じているのか、伺いました。

今年始めに大腸がんが見つかり闘病中です。 3月に手術をしてまだいろいろな段階があり8割までは来ました。  あと一回二回手術をして来年3月に仕上げという事になります。    当事者研究は25年を迎えて、準備期間でこれからさらに盛り上がってゆくのかなあと思います。   こちらに来る患者さんの背景にはいろんな人との対立やトラブルがあるんです。  そういう人たちに私が一番学んできたというか、そういう人たちに一番教えられたという意味では、私が一番当事者であると言う実感が常に出発点になっているという感じです。     

当事者研究は2001年に始まりました。 ソーシャルワーカーとして48年が経ちます。   親子関係、教育現場、職場とか社会全体がこの人たちに学ぶという、この循環をどう起こしていけばいいのか、例えば嘘を言っただけで・・・?がえる人たちがいる、隠し事をしただけでも不安で、気持ちが不安定になる人がいる。  あの人が嫌いだと気持ちの中にわだかまりを抱えただけで、バランスを崩して早くその人たちと仲直りしたりして、人に打ち明けないとままならない、そういいう弱さ、脆弱性を持った人たちがいます。 私たちは嘘を言っても人を憎んでもそれはそれとして普段仕事をしたり生活したりして別に影響を与える事は無い。逆にどっちが病気なんだろうと、現場のなかにいて反転して私たちは学ばなければならないことはいっぱい出てくるんです。 

憎たらしいと思った人と早く仲直りしてお互いがいい気持ちになれるようにしなければ生きて行けないという人たちがいるならば、むしろそのひとたちの側から社会を見た時に、和解できなくて対立したままさらに大きくなってゆくような、こじれるケースと言うのはいっぱいあるわけです。 仲直りしなければ生きていけない人達から、私たちはむしろ学ばなければならない。 正直になる事、人の目を気にするのではなくて、自分らしさを軸に生きてゆくとそういう人たちも生きる気になるという。  私たちは本来大切にしなければならないことを誤魔化しても生きていけるような体質を持った私たち、誤魔化しのきかない生きずらさを持った人たちを考えた時に、メンタルヘルスとしては、そういった人たちを病気を持った人たち、障害者としてくくってしまうわけです。  そうじゃないんじゃなっかと思うんです。

眠れなくなったり、一体何が起きているんだろうという事を一緒に対応化?しながら一緒に解き明かしていくと、子供の時の家族の中でのいろんな辛かった経験を封じ込めていたりとか、正直になれなかったりとか、仲直りをすることに凄く躊躇したりすることが、一緒に研究していると判ってきて、仲直りするにはどうしたらいいかという事をみんなの経験を生かしながら一緒に考えてゆく。  そして実践してゆく。 

今迄は貴方の思い込みだとか、専門家が答えを持っていてその正しさを伝えて導いてゆくという発想ではなくて、一緒に考えてゆくプロセスのなかで、自分の大切なものは何かを一緒に見出してゆく事が、これは皆にも使ってもらえるかもしれない、自分の経験が皆さんの役に立つかもしれない、自分にとっては大変だけれども大きなものであるという、そういう前向きさ、自信が湧いてくるわけです。  患者の清さん?と一緒に研究している私も、私を研究しているんです。

最初、清さんに対して凄く腹が立ちました。  約束を守らない、予定通りにものが進まない、素直ではない、トラブルばかり起こす。  彼だけには物凄く腹が立つわけです。 これは自分にいったい何が起きているんだろうと思いました。  こちらも厳しいことを言ったり辛くあたていたために、お互いが居ずらくなる、そしてこういったことが社会の中のあちこちで起きているという発見です。  お互いを研究者として眺めることによって、繋がり、連帯できるという関係が成り立つわけです。  二人だけではなく、似たような経験の人が来たりして、みんなが集まってきてワイワイしたりします。  その人たちからいろいろ経験を学ぶことによって、自分の抱えている大変さの意味が判ったり、むしろこのままでいいのかもい知れないという様な気付きが生まれたりします。

私たちは自分だからこそ見えない自分の領域が必ずあるなあと、私たちの実感です。 人から見える自分と自分から見える自分の差は凄く大きいと思います。 人は一人では生きていけないし、ひとは関係の中で人間として生きられる。  自分の判らない領域を積極的に発信して、多くの人、家族に支えられたと言う経験を通して、積極的に自分の足りなさ、助けて欲しいことを開いて行って周りの情報、経験を受け取りながら、今の自分の生活を開いてゆく。  「弱さの情報公開」と呼んでいます。  自分のなかだけでこっそり解決したり、蓋をするのではなく、無理のない範囲で相談、打ち明けてみることによって、周りも打ち明けてくれて参考になります。 上手くいかない経験の方が大事だと思っています。  自分の中で一番うまくいかない経験に自分が寄り添う。 自分に伴走する感覚を私は大事にしてきました。

浦河で最初にあった人は、30代の漁師でアルコール依存症で奥さん、4人の子供がいる人でした。 お酒を巡るトラブルの絶えない人でした。  説得して医療につなげ、アルコールを3か月間絶って、心理教育を受けて退院した後、断酒会に所属してミーティングを重ねながら立ち上がって行く、そのモデルがあるわけです。  それに乗るように日夜働きかけをする。 私たちのなかには生命的歯車がすでにそなえられていて、 それを意識して使ってゆく事が私たちのイメージする対話であり、その一部として当事者研究と言う活動を今しているという感じです。  対話については当たり前すぎて気付かないでいる。  対話的に備わった一つの営みを一つの社会的な仕組みとして積み上げてきたのが民主主義社会であります。 

当事者研究をはじめる前から「べてる」には、自分ではどうしようもないことを笑い飛ばす文化がありました。  子供の世界はそのまま遊びの世界です。  子供たちが学校に行こうと思ったら、どういうわけか行きにくいという現実を語って発信してゆく、これは問題ではなくて社会で起きている何か大切な一つのシグナルであると思います。  繋がり合う事で今の学校というシステムが本当に私たちに合っているのか、という事です。

去年1年間に自殺した子供は527人に上ります。(これまでで最も多い。)  心の病気で来る外来患者はここ20年で2倍以上に増えています。  生きずらさを感じている人が多い。 家族的な背景、社会的な背景、職場の環境とかが生きずらさを招くという問題意識がありますが、 もっと大事なのはそれらが全て解消されたとしても、なおかつ私たちは生きづらいという、根源的な生きづらさを持っているんだという、生きづらさと言う経験そのものの中から実は生きやすさが生まれるんだという、生きにくさにもっと発想を変える必要がある。

自分の情けない経験、失敗した経験をどんどん前向きに発信していき、上手くいかなさ、不確かなことをみんなが堂々と発信し合える、そして生かしあえるる社会になったらいいなあと思います。

(説明が難しくて、上手く理解でいない部分がいくつかあります。)




















2025年12月18日木曜日

中林美恵子(早稲田大学教授)        ・トランプ2.0の衝撃

中林美恵子(早稲田大学教授)        ・トランプ2.0の衝撃

今年世界から大きな注目を集めているアメリカのトランプ大統領、アメリカ第一主義を掲げ各国に厳しい関税措置を打ち出すなど、国内外に多きな影響を与えている二期目のトランプ政権は、これから何を目指そうとしているのか、そしてアメリカ国民がトランプ大統領を支持する背景には何があるのか、中林美恵子さんに伺います。 中林さんはアメリカの大学院で学び、アメリカ合衆国連邦議会上院予算委員会で10年に渡り国家予算編成の実務を担うなど、政治の中枢で働いた経験がある、アメリカ政治の専門家です。 

二期目のトランプ政権は一期目と大分違う政権になっていると思います。 一期目は政治には素人であり、政治経験も軍隊の経験もないという事で、周りの意見を聞いた閣僚の選択などをしていました。 本人がちょっと変わったことをやろうと思っても、閣内に止める人が複数いた。  本人がやりたいことをやるために、反対する人を入れないために、本人の直接知っている人を選んだという事が特徴です。 一期目よりもトランプカラーが相当出る政権になっている。  移民に対するアメリカ人の脅威感というものを、二期目もしっかりと強硬な形で受け継いで実行している。  移民を強制送還するために、外から来た人を探し出し捕まえてゆくというようなことを強硬に行うようになりました。 そこに予算もたっぷり付けるというようなこともしています。  

関税については最初は中国にかなり関税をかけましたが、バイデン政権になっても取り外されませんでした。  日本も鉄鋼、アルミなどに関税をかけられて、バイデン政権になってから例外をたくさん作って、重い部分を回避してきたところがあります。 二期目になると思い切った関税をかけてきています。  物作りがアメリカになくなってしまったという事で、アメリカの一つの敗因として見ているわけです。  製造業をアメリカに取り戻したいという事です。  バラバラになった家族を作り、コミュニティーを作り、伝統的な価値感を継承してゆく大事な人間の営みだという考え方に基づいているんだと思います。

今はマネーゲーム、AI、デジタルとか,そういったものに移ってしまったことにより、昔ながらのスキルを活かすことが出来ない、取り残された人が出て来てしまった。  こういう人たちが麻薬性のある、とても安く手に入る薬に頼って、そこから抜け出せなくなって地域が荒廃し、自殺者も増え、アメリカの社会が荒んでゆく、これを直したいと言うのが製造業だという事が根底にある。 トランプ大統領を支持する人たちの中に、そういったアメリカ社会に対する危機と言うものが可成り積もり積もって、今迄の伝統的な主流派の、政治家、官僚に任せておいても今後も全然変わらないのではないかと言う気持ちが積もっていた。  そこに出てきたのがトランプ氏だった。  このぐらい変った人でないとアメリカの積もり積もったアメリカのエリート政治は直せないのではないかとおもって、かけてみた人が二期目にも出て来た。  それを生んでいるアメリカ社会を私たちが見て行かないと、このトランプ現象は、トランプ氏が退任してからも続く可能性はある。  彼は退任した後も発信するかもしれない。 

自分たちが追い詰められたという感覚持った人たちは、伝統的な主流派の政治を見えてこなかった人たちなんです。 そこに光を当てたというのがトランプさんの天才的なところで、ワシントンにいた人たちにはこれが目に入っていなかったんでしょうね。  現在のトランプさんのことを見ると、本当に極端なことを言うし、昨日言っている事と今日言っている事とひっくり返るし、いったいどんな人なんだろうと、私たちはかく乱されてしまうというところがあり、トランプ研究に走ってしまう。  トランプさんは今自分が何を考えているのか、次にどんな手を打つか、知られたくない人なんだそうです。  アメリカの或る方からやっていることをしっかり見ないと間違えますよと言われました。  長期的に見ると、何故トランプさんを選んだのか、有権者の方を見る必要があります。 

11月4日に行われた地方選挙、ニューヨークの市長選挙がありました。 バージニア州、ニュージャージー州で知事さんが選ばれました。  どの選挙区でも民主党が勝ちました。  反トランプ政権の芽がふきだしたかのように見えますが、よく見るとちょっと違いが見えます。  ニューヨークの市長選挙で当選したマムダニ氏は34歳で、イスラム教徒、インド系の方ですが、ウガンダで生まれて幼い頃アメリカに来て、国籍を取った移民中の移民です。  ニューヨーク州や市などで、今迄光を当てられてこなかった問題がどんどん膨らんだという事に気が付かされるんです。  民主党の強いところですが、民主党の予備選挙で前のニューヨーク州の知事をしていたアンドリュー・クオモが戦ったが、予備選挙で負けました。   本選挙では民主党ではなく無所属として立候補しました。 でもマムダニ氏が勝ちました。 民主党の中にも反エリートの感覚が出て来てるのではないかと思います。 今迄の政治に怒る根拠を持っていた。 過去5年間の家賃の上がり具合を見ると、25%ぐらいあがっているが、給料は1%ぐらいしか上がっていない。  自分の家賃の半分ぐらいを家賃に費やさなけrばならない人たちも出て来ている。  24%ぐらいは貧困層だと言われる。

民主党の中で起こったニューヨークの市長選挙の構図と、トランプさんが共和党の中から芽が出て来た構図は、実は同じではないかという風に言われる。  マムダニ氏が言っていることは出来るかどうか、本当にわからない、(おそらくできることは相当多いと思うが)それでも投票してみようというのはよっぽど限界に来てるのかなと言うところはあります。 アメリカの政治風土のなかにぼちぼちトランプさんが唱えたような、反エリートの意識が出て来ていて、(エリートに対する失望)ニューヨークの市長選から左側からも見えて来た。

年収でもトップの0.01%ぐらいの人は、1979年をベースにゼロと考えれば今は800%ぐらいアップしています。  トップ1%だと600%アップ、下の20%はほとんど伸びていない。     格差がどんどん広がっているという事も、アメリカ社会の暗い部分、不満が大きくなる部分だと思います。  トランプ政権が起爆剤になった要因だと思いますが、これが混乱や分断の象徴と言われていますが、ヨーロッパには来ていますが、日本も来る可能性があります。 極右派の票がどんどん伸ばしています。  トランプさんの真似をする政治家が各地に出て来ているものと思います。 それが分断に繋がっていくという事があると思います。

保守とリベラルが分断と言う風に見がちでしたが、エリート支配と生活者主義、生活者が主導すべきだという考え方というものと、グローバリズム対地域主義というものが台頭してきているので、いまはその変遷期であるが故の混乱ではないかと私は考えています。  アメリカは変革を目指す事のできる、社会実験を出来る国なんです。 アメリカが第二次世界大戦後、グローバル社会のリーダーとして、民主主義のお手本としてかなりリーダーシップを発揮してきた。  アメリカに負担や責任が押し付けられているではないかと、同盟国として責任を果たしていないのではないかと、今迄のエリート政治家だと今までのまんまのことをするに決まっているので、落ちこぼれた人に変えてもらうしかないという気持ちになるまで、相当引きずりました。 オバマ大統領は世界の警察官ではないと言った。  バイデン大統領は同盟国と一緒になって、格子状の安全保障の体制を作ってみんなで抑止力を発揮すればいいのでないかと言う言い方に変って行った。  トランプさんになったらアメリカ第一主義となった。    他の国もそうしろと、9月の国連の演説で堂々と述べている。  世界秩序が変ってしまうかもしれないという時代に入ってきています。

アメリカは日本にとっても世界にとっても重要な国です。  トランプさんの言動だけにとらわれることなく、振り回されていたら、トランプさんさえいなくなれば、アメリカは元通りに戻るという間違った期待が出てくる可能性がある。  アメリア国民は大きな壁を感じてしまっているので、トランプさんが選らばれたと認識すれば、私たちの見方も変わらなければならない。  ヨーロッパも混乱しています。  今の日本は世界がうらやましがる状況にあると思います。  日本の社会の安全さ、人間同士のコミュニケーションのいいところが残っている。バランスを取りながら日本の良さを残したら、世界中の人がうらやましがる気がしました。  

私が生まれた家は渋沢栄一の産まれた家のすぐ近くなんです。  農家で泥まみれになって遊んでしました。  知らないことに対する興味は大きかったのかもしれません。  政治は混乱していますが、アメリカには素晴らしい個人個人がいっぱいいると思います。 横並びと言う意識はなく、頑張った人にはそれなりの報酬と光の当たるものが与えられて当たり前という事で、自分は自分と言う自由があります。 日本にいる時には周りを気にしていましたが、こんなに自由なんだ、何をやってもいいんだと感じました。 お互いに認め合うという事もありました。  

来年は1月に中間選挙があります。 もし下院だけでも民主党が取ってしまったら、おそらく弾劾裁判にかけられると思います。  上院は100人のうち1/3づつ2年毎の改選なので、政党がひっくり返るという事は厳しいが、下院は435人全員が改選になるので、民主党にもチャンスが回ってくるという事で重要な分岐点になると思います。  

若い人は自分の好きなことを捜してゆくという事はとっても大事だと思います。 好きなことは深く集中してできるので、好きなことを捜して思い切りやって欲しいと思います。

































2025年12月17日水曜日

佐野稔(フィギュアスケート解説者)     ・〔スポーツ明日への伝言〕 世界への扉を開けたスケート人生

佐野稔(フィギュアスケート解説者・〔スポーツ明日への伝言〕 世界への扉を開けたスケート人生 

来年の2月にはイタリア、ミラノ、コルチナで冬のオリンピックが開かれます。 そのフィギュアースケートの日本代表の座をかけて、あすから東京で全日本フィギュアースケート選手権が開かれます。 1977年の世界選手権男子シングルで銅メダルを獲得、日本のフィギュア―界で最初に世界選手権でメダルを手にされた、日本フィギュアースケーケーティングインストラクター協会会長、フィギュア―スケート解説者の佐野稔さんに、ご自身の選手時代のことから佐野さんから引き継がれた日本のフィギュアースケートの系譜、来年のオリンピックでの日本選手への期待などを伺います。

練習は朝の6時には靴を履いているという状況です。 山梨県石和町出身です。 初めてスケート靴を履いたのは4歳です。  父が東京に行って買ってきてくれました。  兄、姉と私の3人兄弟です。 父はスケートが好きで、PTAの会長をやっていた時に校庭に水を撒いてスケートリンクをつくってしまいました。  僕は精進湖ではじめて滑りました。  小学校2年生の時に父に連れられて東京のスケートリンクに行った時に都築章一郎コーチに出会いました。  小学校5年生で川崎のリンクに行きましたが、近くの小学校にも入りました。  都築先生は厳しかったです。  上手にやりたい、いいものをやりたいと思ったのは、高校時代だったと思います。  

高校2年の時、全日本選手権で優勝しました。 その後5年連続優勝となります。  世界選手権にも出ていました。  1976年インスブルックオリンピックに出場を目指しましたが、9位でした。 その後の世界選手権では7位、1977年に東京の世界選手権がありました。 3回転の中には5種類あり、そのなかでも一番難しいトリプルルーツでした。 僕は5種類の3回転を入れていました。  規定がおこなわれて、6位でした。  翌日ショートがあり5位になりました。  最後が5分間(現在は4分)のフリーで、6点満点で、5,8が一人で他は5,9の点を出しました。  フリーは1位、総合で銅メダルとなりました。(大学3年生)

上を目指すのにはコンパルソリー(氷上を滑走して課題の図形を描き、その滑走姿勢と滑り跡の図形の正確さを競う種目)が僕は圧倒的に弱かった。  コンパルソリーの練習は日本ではなかったんです。  品川スケートリンクは西武系で堤社長と話をした時に、引退してアイスショーをやったらどうかと言う話が出ました。  約1か月アメリカのアイスショーを見に行き、アイスショーを立ち上げることになりました。 (現「プリンスアイスワールド」)

NHK杯フィギュアーが始まったのが1979年、解説を始めました。  ニュースのスポーツコーナーなどいろいろやらさせて貰いました。  フィギュアースケートは女性がするものと言う部分はあったかもしれないが、男が成績を残すことが当たり前になって来た状況はあったかもしれない。  羽生結弦さんは小学校の時に同じ都築章一郎コーチから指導を受けている。 

今度のオリンピックには女子は行けるのではないかと期待しています。














2025年12月16日火曜日

秋野太作(俳優)              ・つらいことがあればやり過ごす秋野流生き方

秋野太作(俳優)              ・つらいことがあればやり過ごす秋野流生き方

 秋野さんは1943年東京都生まれ。 大学在学中の1963年に俳優座養成所第15期生として入所。  1967年テレビドラマ木下恵介劇場「記念樹」で俳優デビューします。 その後テレビドラマの「男はつらいよ」「天下御免」「必殺仕掛人」など人気ドラマに出演、1975年から一年間放送されたテレビドラマ俺たちの旅』が話題となり、その後も10年おきにドラマ化されます。      1976年津坂 匡章から芸名を秋野太作に変更します。 現在も俳優として活躍中。 今年ドラマ「俺たちの旅」が50周年を迎え、鎌田敏夫さんの脚本、中村雅俊さんが監督し、「五十年目の俺たちの旅」と言う映画が2026年1月に公開されます。

テレビドラマ俺たちの旅』は大学生を対象にして、これから世に出る直前の3人を主人公にして、風変わりな作品でした。 終わってから何度も再放送することになり、名作扱いとなりました。 時代が移りこんで、若者がもがいていました。  ドラマを見てマネする若者が出て来ました。  「五十年目の俺たちの旅」と言う映画が2026年1月に公開されることになりました。  

母親が早く亡くなって父子家庭でした。  昭和18年生まれで、2歳の時に空襲で大分の方に疎開しました。  母は再婚で、家は前の旦那の家なんです。 義理の兄さんが2人いました。 母親は肺病になってしまって病院に入ってしまって会いたくても会えませんでした。    先夫の家で死なす訳には行けないという事で、父が母と私を連れて戦後の東京に引っ越しました。 狭い長屋で母親は直ぐに亡くなります。 近所のおばさんが「お母さんは亡くなったの。」と聞かれて、初めてあれは母親だったんだと判りました。 小学校1年から3年生までは学校は給食を食べに行くところで、一切勉強はしませんでした。  授業の時にはぼーっとしていました。  父親は銀行員でしたが、独立して印刷屋を始めますが、長屋は巣鴨にあってて、週末だけ父親が迎えにきて印刷屋のほうにいって、土曜日の夜だけ一緒に寝ていました。父親から小遣いをもらって、日曜日には一人で2本の映画を見るのが物凄く楽しかった。 夕方にはまた巣鴨の長屋に帰って行きました。 後から秋野君は寂しそうな子だったよねと友達から言われました。

大分にいた頃に弟が出来ていて、小学校1年生になる時には引き取らなくてはいけなくなって、母親の親友(永田さん?)が弟を東京に連れてきてくれました。(2泊3日)  酷い状況なので、親友(永田さん?)が半年ぐらい必死になって、私の面倒をいろいろ見てくれました。  身の廻りのもの、勉強も教えてくれて、それで奇跡的に助かった。  父は婚活をして2度目の母親が子連れでした。(同じ歳の女の子)  小学校で何故か級長に選ばれました。(女の子にもてた。) 成績が良くないことを先生が知っていたので、級長にはなれなかった。 2学期には級長になり何とか務められました。  5年、6年では学校に行くのが楽しみでした。(人気者) 

中学生のころになると、2度目の母親は可哀そうな人で、教養が無くて人柄にいろいろ問題があり、私へのいじめが始まります。 学校では相変わらず人気者で、勉強も出来ていたが、家に帰ると散々でした。  公立の高校に入り、相変わらず母親とのバトルがあり、家出のことしか考えていなかった。  日本大学法学部に入って、3年間で全部単位を取って、司法試験を受けるクラスがあってそこに入って、1年で挫折しました。 進路をどうするか考えました。

俳優座養成所第15期生として入所しました。(20歳) 仲代達也さんに影響されました。   養成所以降はバラ色でした。 養成所は3年間で、その後俳優座に入りました。 栗原小巻さんと原田芳雄と私でした。    いい先生にも巡り会えました。 

天気の悪い日は頭を沈めて、無理に表に出ないで、抵抗しないで、雨雲が去ってゆくのを待った方がいいと思います。 天が味方する時期があるんですね。

外の世界へ出るとそれはそれで面白かった。 新劇の世界の枠から違う視点で考えられるから。 テレビドラマはいろんな雑多な世界から集まって他流試合をする場所なんですよ。    ワクワクして本当に勉強になりました。  僕は渥美清さんの大フアンだったので喜んで出ました。  それから幅広く芝居が出来るようになりました。   外の世界をもっとやりたいという思いが劇団を辞める原因の一つにもなりました。   「天下御免」は自由にやっていました。 渥美さんとは非常に馬が合いました。  「必殺仕掛人」もやりました。 「五十年目の俺たちの旅」もビックリです。

父からは「金と女と健康には気を付けろ。」と言われています。 父は女運にも悪かったし、金も戦中戦後苦しい時を生きてきているし、歳をとった来ると健康も壊していたので。  健康は自分のせいですね。 健康が一番ですね。 舞台をやりたい、本当は演出もしたい。




























2025年12月15日月曜日

伊集院光(タレント)            ・〔師匠を語る〕 六代目 三遊亭円楽を語る 後編

伊集院光(タレント)          ・〔師匠を語る〕 六代目 三遊亭円楽を語る 後編 

伊集院さんのデビューは6代目三遊亭円楽さんの門下の落語家でした。 伊集院さんと6代目円楽さんとはどんな師弟関係だったんでしょうか。

僕が落語を廃業するときにも、直接には落語を辞めるなとは言いませんでした。 「じゃあ 頑張れよ。」と言うだけでした。  大師匠のところに行くのは勇気が要りました。  「辞めるというのには誰も止はしなよ。  一つのことを続けられない人間が、上手くいくわけないっけどね」と言うようなことは言われました。  一か月後に空いている日に大師匠の家に集まるようになっていましたが、兄弟子から聞いた話ですが「最近落第が来ないけど何かあったのか。」といったそうです。  大師匠は瞬間に怒るけど直ぐに優しくなる人でした。

楽太郎の弟子だというようなことは、相手側から言われるまでは辞めようと思っていました。 師匠とは全く交流がなかったです。  困らせて困ったところを応援したいという番組があって、女性の下着をつけてしゃべっているところへ、うちの師匠が突然現れるというものでした。  ラジオでしどろもどろになったのはあの時だけですね。  終わった後に、自分の立場がはっきりしていないので「今の状態は破門という事ですか。」と聞いたら、「お前が今でも尊敬しているのならば、師弟関係だよ。」と言ってくれました。  その後クイズ番組などでご一緒したりするようになりました。 ラジオの競演もしてもらえました。  

コロナが流行ってゲストが呼べない時期があり、或る番組に対して師匠がゲストに呼んで欲しいと言ってきました。(ゲストを呼べない時期で困っているのを察してのことです。) そこで対談があってアシスタントのアナウンサーが最後のころに、「伊集院さんは落語をやってはいけないのですか。」といったら師匠が「やろうぜ。」と言いだして、二人会をやることがトントン拍子でやることになりました。(2020年)  師匠が体調を崩していたりする時には、師匠のラジオ番組に出演したりする様になりました。  師匠の弟子として一番充実していたのは、二人会が決まってやって終わって、その期間は短かったが楽しかったですね。  二人会は一回だけの予定でしたが、 舞台上で後3回やろうと言ったんです。 自分では完全燃焼したつもりでした。  「死神」をやることになり自分でも工夫してやろうとしていたら、師匠がそれは「トリ」にやってもらおうという事で「トリ」を務めました。 その時の師匠は入院するほどではないんですが、完全回復ではないが大熱演しました。  疲れたから帰ると言ったんですが、私の話の後迄いて、楽屋のソファーで横になっていました。  「寝ちゃったな、聞いてはいたけど。」と言いましたが、「 見て聞いていて寝たふりをしているだけです。」と、一門の弟弟子たちは「一生懸命に見ていました。」と言っていました。 

「お前らは先人たちが削って削って綺麗な古典にしたのに、足し過ぎだ。 そんなに説明しなくてもいいんだよ。 落語は理屈じゃあないんだから、ここからどれぐらい削るかと言う作業なんだよ。 削って下さい。」と言われました。  落語のなかで「結局」と言うのに古い表現だと「とどのつまり」と言うのがあります。  「とどのつまり」を使ってもかみさんにはわからないといったら、師匠が「うーん まあな」でどうだと言ったんです。 「結局」と「とどのつまり」の両方の意味で使えることにぞっとしました。

2018年に初期の肺がんを師匠が公表しました。  手術をして翌年高座に復帰、2022年脳梗塞で再び入院。  肺がんの話はショックでしたが、また倒れたという事もショックでした。  5月に退院して、8月の国立演芸場中席でトリを務める。  9月30日旅立ちました。  師匠は一切泣き言を言わない人でした。(錦糸町で写真週刊誌に撮られた時も動じませんでした。)  お墓は群馬県前橋市の釈迦尊寺にありますが、火事になって大きなダメージを受けました。  いろいろ迷った時に、師匠だったらどういうだろうか、と言う時にお墓は必要なんです。    時間を忘れて夢中になったぐらい好きになったことに、社会性を持たしてしゃべりなさい、そうすればくいっぱぐれる事は無いというんです。 例えば野球が好きならば、社会性を持たせるという事は、野球を全く知らない人にも届く様に、面白さが判る様にしゃべるという事。 

師匠への手紙

「師匠 ここの所小言を言ってくれませんね。 ・・・60歳近くになると小言を言ってくれる人がいませんから、小言無しは寂しいものです。 ・・・三回落語会をしようと言われ、戸惑ったもののいろんな演目についてアドバイスを頂く日々は、長く不義理をしてしまった不肖の弟子としては修行生活のなかでとても充実した日々でした。・・・僕の朝毎日やっていたラジオ番組が終わってしまい、凹みに凹んで、毎日のラジオ番組なんてこりごりですと強がった時に、師匠が「これで芝浜もうまくなるかも知れねえな。」と「朝起きて魚屋の仕事を行かない気持と久しぶりに魚屋やりてえなあと思う気持ちがいつか判るんじゃあねえか。」と言うアドバイスです。・・・ 「宮本武蔵」みたいなもんだと言われて、後で宮本武蔵」の本を読んで、やっと意味が分かりました。 芝浜をやる事は無くなったけれど、今僕は昼のラジオをまたやっていると、たまにこの言葉を思い出します。 ・・・僕は師匠の言葉を胸にもう少し頑張ってみようと思います。」



















2025年12月14日日曜日

バトバヤル・エンフマンダハ(モンゴルの視覚障害児支援センター )・母国で視覚障害児の光に~日本の学びに支えられて

 バトバヤル・エンフマンダハ(モンゴルの視覚障害児支援センター )・母国で視覚障害児の光に~日本の学びに支えられて

エンフマンダハさんは37歳、幼い頃の事故がもとで13歳の時に失明しました。 モンゴルの大学で日本語を学び、2009年に来日、猛勉強の末に日本の按摩、マッサージ、指圧師、鍼師、灸師の3つの国家資格を取得しました。 2013年にはモンゴルで初となる視覚障害児を支援する団体、「オユンラグセンター」を設立、首都ウランバートルでマッサージ店を営みながら、地方に暮らす視覚障害児の修学支援を続けています。 

今回15人で日本行きました。  モンゴルにある唯一の盲学校の校長先生と3人の先生、モンゴル科学大学の特別教育部の主任の先生、盲学校の生徒たち3人親二人、幼稚部の先生とオユンラグセンターの事務局長。  日本に来た目的は日本での特別教育を聞くよりも見たほうが確実で、実際マネが出来るのではないかと思ってきました。  障害者スポーツセンター、筑波大学、筑波大学付属視覚特別支援学校の見学をしたりしています。  先生方が教える教材を工夫して作っているところが大変参考になりました。 私も日本に来て初めて白杖を持ったし、モンゴルでは今でも白杖をもって歩くのは難しい。 点字ブロックもありますが、途中で切れて居たり、電柱が有ったりして、逆に危ないかもしれない。  一人で行くことはなかなかできないです。

5歳のころに外で遊んでいた時にブランコから落ちて網膜剥離を起こしてしまい、段々悪化していって全く見えなくなったのが13歳ぐらいです。  学校は高校まで盲学校に通っていました。  視覚障害児は3千何百人いると言われますが、今盲学校には108人だけです。  日本の按摩、マッサージ、指圧師、鍼師、灸師の資格を取った先生から話を聞いて、自分も資格を取りたいと思いました。  大学で日本語を勉強しました。 点字の教科書など何もない状況でした。  大学も視覚障害者の受け入れは初めてなので、視覚障害への理解がなかなか得られませんでした。  いろいろな壁を乗り越えてきました。 

大学2年の時に日本の国際視覚障害者援護協会の日本語の試験に合格し、日本に来ました。(2009年) 筑波大学付属視覚特別支援学校に入学しました。(19歳)  魚が食べられなかったし、野菜も嫌いでしたので、食べものには困りました。  カレーなどを食べていました。 漢字、医学用語も大変でしたが、先生はじめ回りから助けられました。  今でもその方たちとの付き合いがあります。  家族の私への期待、応援もあって頑張ってこれました。      

帰国して「オユンラグセンター」を立ち上げたのは2013年です。 経済的な理由でモンゴルで唯一の視覚障害者の学校を辞めて行ってしまう事に対して、残念に思っていました。  日本での作文コンクールがあって3位に入ってその賞金(5万円)を「オユンラグセンター」設立に使いました。 オユンラグ=知恵と言う意味です。  今は10人ぐらいの生徒を学校に行せています。  学校へ行くための生活資金、交通費などを支給することをしています。  視覚障害の子を見つけ出して、説得して学校に行かせるようにすること自体が、大変という事もあります。 

今は10人ぐらいの生徒がいますが、親に置いておかれて孤児になってしまった子が3,4人います。  2014年に出会って小学1年生に入学した男の子が今回一緒に来ています。   やって来てよかったし、今後も続けたいと思っています。  「宝の家」と言う施設を日本人のお母さんが作ってくれて、そこを利用してサマースクールを開いています。(7年目)    生活訓練などもしています。  保護者に対しても、危険だからやらせないという様な、考え方を改めてもらうようにしています。  私も結婚して子供が出来て、1歳1か月で大変です。 来年は「宝の家」の施設を冬でもできるようにしようと思っています。  勉強したり経験できることは全て日本の支援の皆様のお陰なので、これからの人生を明るく生きる子が多いので、感謝の気持ちで一杯です。 
















2025年12月13日土曜日

2025年12月12日金曜日

大橋弘一(野鳥写真家)           ・〔人生のみちしるべ〕 “鳥屋”として生きる

大橋弘一(野鳥写真家)           ・〔人生のみちしるべ〕 “鳥屋”として生きる 

大橋さんは1954年生まれ(71歳) 北海道札幌市を拠点に野鳥写真家として活躍しています。 今年の3月まで7年間深夜便科学部鳥の雑学ノートのコーナーを担当しました。 鳥にまつわる様々な話題を楽しく伝えていました。 今年の10月に野鳥の写真の本ではなく、鳥にまつわる日本史の本を出版しました。 深夜便の鳥の雑学ノートのコーナーが大きく広がって到達した一冊とのこと。  

深夜便の鳥の雑学ノートのコーナーではラジオなので、写真を見ていただけないので、言葉の力も含めてどう鳥を伝えるか、という事が凄く勉強になりました。  鳥を知らない方にも、その鳥って魅力的だなあと思ってもらえるような内容、題材、言葉の力は凄く大事だと思います。 今年は本を3冊出版しました。  最初に写真集を1999年に出しました。 平均すると1年に一冊のペースでした。  ビジュアル図鑑「北海道の鳥」870点の写真が使われています。 272種の鳥。  子供のころから図鑑が好きで、特に鳥の図鑑が好きでした。   日本鳥類目録が2024年に新しくなりました。(明治時代から作られている日本の鳥の全部の鳥のリスト)  分類が違ってくるといろいろなものが変って来る。  それで新しい図鑑としてビジュアル図鑑「北海道の鳥」を出しました。  

10月には「鳥たちが彩る日本史」武将・文人と交わる8種類の鳥  この本は読み物で鳥の写真は10数点小さく載せましたが、読み物として作った本です。   鳥の語源について考えました。  「すずめ」 鳴き声が「ちゅんちゅん」ですが、昔の人は「しゅんしゅん」と聞いていたようです。  「しゅんしゅんめ」とめを付けていた。 「め」は鳥を意味する古い接尾語。  「しゅんしゅんめ」が段々変わって来て「すずめ」になったと言われる。

「うぐいす」は鳴き声を表している。 「ホーホケキョ」だと思いますが、昔の人は「うーぐいす」と聞いていたらしいという事が調べると判るわけです。                        「いかなれば春きたろごとうぐいすの己の名をばひとにつぐらん」と言う和歌があります。(大江 匡房 平安時代後期)  どうしてうぐいすは春になるたびに自分の名前をひとに告げているんだろう、と言う歌です。  うぐいすの鳴き声が「うーぐいす」だったという事になる。

調べてゆくと清少納言は「ほととぎす」が大好きだったことがわかり、鳥の語源だけではなく、人と鳥とのかかわりが判って来る。  深夜便の鳥の雑学ノートではそういったことをお話ししたつもりです。  その雑学の一つの到達点が「鳥たちが彩る日本史」と思って頂ければと思います。 鳥を説明するのに科学的な視点だけではなく、文系からも鳥を説明するということをずーっとやり続けてきています。 そうなると写真だけではなく、言葉も必ず必要になって来る。 

東京に住んでいましたが、昭和30年代は鳥が少なかった時代です。  高度成長期で自然環境があまり顧みられない時代でした。 水が汚れ、空気が汚れ公害の問題が発生しました。  子供心に野鳥なんかいないと決めつけていました。  でもスズメ、ヒヨドリ、オナガなどがいました。  オナガは関東の特産種であることを図鑑から判り衝撃を受けました。  早稲田大学法学部に進みましたが、鳥のことは全くやっていませんでした。(スキーに熱中)   ヤマハに就職しました。(スキーの板なども製作) しかし楽器がメインであることにがっかりしました。  札幌への転勤になり、音楽教室の業務を行っていました。 

スキーは続けていましたが、30歳ぐらいでスキーでトップになろうという思いは駄目だと悟りました。 網走に仕事で行っていた時に、「ノビタキ」と言う鳥を見つけて、写真を撮ってみました。  子供の時に鳥が好きだったことを思い出しました。 鳥を仕事にやろうと思いました。  超望遠レンズも買って写真を始めました。  38歳の時に溜め込んだ写真をもって出版社へ行きました。  シジュウカラの特集をするという事で雑誌に写真を提供しました。 アマチュアから集めた写真を一冊の写真集をつくっていて、 2点採用されました。            「チゴハヤブサ」の鳥の写真を、銀行の広告にその写真を使わせてほしいという連絡がありました。  3か月間毎週のように週刊誌の裏側にでかでかと写真が載りました。 他の写真も新聞にも頻繁に載るようになりました。  写真一枚で100万円もらえるので食っていけるかもしれないと思いました。 45歳で会社を退職しました。 

写真一枚で100万円の仕事は一回きりで、それ以来一つもありません。  食って行けるかどうかの辛い思いは何度もしてきました。  頂点を極めたいとの思いでやって来ました。  極めようという頂き、到達点が高ければ高いほど悩み苦しみもついて来るものなのではないかと思います。  プレッシャーみたいなものを常に感じます。  それを一つ一つ乗り越えるように励ましながらやっていこうと思います。  雑学を極めたい。 

3冊目は「鳥たちの素敵な名前の物語」 です。 5年間連載をしていたものを一冊にまとめた本です。  新しい要素も入れて、古典文献の解説も中に入れています。  いろんな切り口で鳥を知ってゆくと鳥の見方も変わってくると思います。 深く鳥のことを知ることができる。 鳥を通して古い文化、歴史、価値観と言ったもの知ると、我々の祖先が歩んできた道が見えてくるように思います。
































2025年12月11日木曜日

あご勇(コメディアン・“スペシャル添乗員”)  ・芸能生活50周年~還暦からバスツアー添乗員に~

 あご勇(コメディアン・“スペシャル添乗員”)・芸能生活50周年~還暦からバスツアー添乗員に~

あご勇さんは1957年千葉県出身。  1974年に民放テレビ番組の「素人コメディアン道場」で7代目チャンピオンの座を獲得。 同じ優勝者仲間たちとコミックグループ「ザ・ハンダース」を結成し、コミックソングハンダースの想い出の渚』は約30万枚を売り上げ、有線大賞新人賞を獲得。 数々のバラエティー番組で活躍しました。

「素人コメディアン道場」へ出場して5週勝ち抜いてチャンピオンになりました。 ドリフターズの若手をという事で、6人なので1ダースの半分なので「ハンダース」と言う名前になりました。  清水アキラさんとか、桜金造さん、中本賢さんとかがいました。 渡辺プロダクションには入れてもらえませんでした。 笑って!笑って!!60分』(TBS)などにレギュラー出演する。 漫才コンビ「アゴ&キンゾー」を結成お笑いスター誕生』に挑戦、ゴールデンルーキー賞から10週勝ち抜きグランプリにも輝きました。バセドー病になってしまって芸能界を辞めようかなと思いました。 収入も沢山になって、酒を飲んだりして遊んじゃいました。 今度は白内障になってしまって、桜金造さんとももめてしまって、芸能界を辞めてしまいました。 (実家の千葉に戻る。) 芸能界に戻ろうと思ったら、千昌夫さんが声をかけてくれて、桜金造さんとのコンビが復活しました。

清水あきらさんとも会って、仕事をさせて貰うようになりました。  清水あきらさんが出る、バス会社主催の大感謝祭が1年に一遍やっていました。(1500人ぐらい呼んで劇場でやっていた。)  バス会社の社長と知り合いになって、バスツアーをやろうという事になりました。  資格を取って還暦からバスツアーをやる様になりました。(8年前) トイレの問題など大変でした。  昼食を境にお客さんの雰囲気が変わって来ます。 最初のころは自分中心で面白いことを言ったりしていましたが、面白いことを言っていればいいわけではなく、謝らなければいけないようなことも、しなかったりしました。  段々要領を覚えていきました。   添乗員は1万歩ぐらい歩きます。  ディナーショーなどの司会もやっています。  バスの中では人数が少なかったりしていますが、人前でやることは絶対大丈夫だと思うようになりました。 

夢は一人芝居をやりたいなあと思っています。  大きな荷物を持った行商のおばあさんの一人芝居をやりたいです。  いろいろな人生が出て来て、笑いもあり、最後はグッとくるようなものをやりたいです。 






















2025年12月8日月曜日

亀山永子(切り絵・絵本作家)        ・平和への思いを“切り絵・絵本”に込めて

亀山永子(切り絵・絵本作家)        ・平和への思いを“切り絵・絵本”に込めて 

愛知県一宮市の亀山永子さんは13年前から地域の小学校や児童館で絵本の読み聞かせボランティアを続けています。  自分が生まれる前にグアム島から帰国した横井庄一さんの話に感動を覚え、子供たちに戦争の悲惨さと平和の大切さを伝えたいと、地元にある横井庄一記念館に通って、妻の美穂子さんから話を聞いたり、取材を続け手作りの切り絵絵本を完成させました。 様々な苦労を経て出版社から世に出たハードカバーのこの本は生前の横井美穂子さんとの約束通り、現在日本全国の図書館に置かれています。 亀山さんはその後も子供たちに戦争の悲惨さと平和の大切さを伝えたいと、様々な戦争体験の話を元に切り絵絵本を作り続けています。

13年前から二人の子供を育てながら、児童館で読み聞かせをしていたのが、絵本との出会いでした。 パステルで小さな絵を描いていました。  それを纏めて手作りの絵本を作って、娘たちに見せているうちに、自分が子供のころに本を書く人になりたかったことを思い出しました。  横井庄一さんに出会って、横井さんの絵本を作ろうと思ったことが、本格的な絵本を作るきっかけになりました。  独学で切り絵に挑戦しました。 自宅に近い名古屋市に横井庄一記念館があることを知りました。 館長を務めていたのが奥さんの美穂子さんでした。 1mぐらいの手織り機がおいてあって、自分で布を作って洋服を作っていたという事で吃驚しました。 自分で服を作り自分で食べ物を捜して、生きる姿に強く心打たれました。   

横井さんの絵本を子供たちに読み聞かせしようと思ったのですが、一冊も見つかりませんでした。 自分で作ろうと思いました。  試作品を美穂子さんのところへ持っていったら喜んでもらえました。  どこから出版されるのかと言われました。  出版予定のないことを返事したらがっかりしていました。  手作りの本を結局800冊作って寄贈していました。  全国の図書館におくという美穂子さんとの約束は果たせないと思っていました。 POD出版 を知りました。(誰でも出版できる仕組みになっている。)  POD出版の最優秀賞を頂き、ハードカバーを付けて全国の図書館に置いてもらおうと思いました。  或る出版社に相談したら出しましょうという事になりました。 美穂子さんが凄く喜んでくれました。  図書館側が購入してくれるようになって、全国の図書館に置かれるようになり、美穂子さんとの約束を果たすことが出来ました。 2022年に美穂子さんはお亡くなりになりました。

横井庄一さんは28年間ジャングルで生活していて、ネズミ、カエル、デンデンムシなどを食べて生き延びてきたが、彼らの碑を建てたいと言っていて、亡くなった後に横井さんのお墓の脇に小動物の為の慰霊碑を建てています。(慈悲深い)  1万9000人ぐらいがグアム島で命を落としたそうです。  横井さんら3人になり、2人も亡くなり遺骨を日本に持って帰る約束をしたそうです。  1972年日本に帰国しました。(56歳) 「恥かしながら生きながらえて帰ってまいりました。」と言う言葉を述べました。  野菜作りとか陶芸に打ち込んでいたようです。 1997年82歳で亡くなりました。 

小動物の為の慰霊碑の横に辞世のような歌があります。  「この次は 戦なき世に生まれきて 父母子等と夕餉を囲まん」  白黒の切り絵だと、戦争の不気味さ、悲惨さ、残酷さを効果的に伝えていて、又温かみもあるという声を頂きました。 45ぺージになっていて長いのですが、子供たちも最後までよく聞いてくれています。

「きせきのやしのみ」 昭和50年島根県出雲市の稲佐の浜の近くで釣りをしていた人がヤシの実を見つけて拾い上げました。  乾いてくると文字が現れました。 「昭和19年7月19日所原陸軍伍長飯塚正一君と墨で書かれていた。 昭和20年7月にフィリピンで戦死した出雲市出身の山之内辰四郎さんが、フィリピンのマニラの港から流したものであることが判りました。  二人は故郷が同じだという事で親しくしていた様です。 亡くなる前に戦友の名を記して流したヤシの実が31年後に出雲市大社町の漁港に漂着し、妻の元に返ったという実話です。  「先の戦争でおよそ240万人もの日本人が海の向こうの戦場で命を落とし、そのうち遺骨となって日本に帰ってこられたのは僅か半数ほど、今でも100万人以上の人たちが日本に帰れないまま、真っ暗で冷たい土の中や、海の底に取り残されています。  その一人一人に帰りたかった故郷があり、待っている家族がありました。」         奇跡的にたどり着いたヤシの実から無念の思いが伝わってくる様です。  ご家族もヤシの実を見て、 山之内辰四郎さん自身が帰ってきたように思われたそうです。  この奇跡のヤシの実は靖国神社に納められました。  私の切り絵もヤシの実の脇に飾られています。  今年ヤシの実が流れ着いてから50年、終戦後80年になります。 

知れば知るほど戦争は、本当に悲惨で、だからこそ今の平和は大切なんだという事を切実に感じています。  横井さんが言っていた「負けるでないぞ。」と言う言葉に励まされながら生活しています。 美穂子さんからは「どんな小さな明かりでも、平和の明かりはともし続けなければならない。」と常々言っていました。










2025年12月7日日曜日

桐野夏生(作家)              ・未来に先んじる作品を書きたい

 桐野夏生(作家)              ・未来に先んじる作品を書きたい

桐野さんは1951年石川県生まれ。 大学卒業後24歳で結婚、子育てをしながら30代で小説家デビューをしました。  1993年顔に降りかかる雨で江戸川乱歩賞、1998年OUT』で第51回日本推理作家協会賞を受賞、1999年『柔らかな頬』で第121回直木三十五賞を受賞するなど多くの文学賞を受賞しています。  ドラマ化、映画化された作品も多く、去年NHKで放送された代理母?の問題を扱った「燕は戻ってこない」は大きな反響を呼びました。 2021年からは日本ペンクラブの会長となり、現在3期目です。 今年はイギリスの推理作家協会によるダガー賞翻訳の部門で日本人女性作家の作品が受賞するなど、強さを前面にうちだした女性像と、そういう主人公を生み出す女性作家に注目が集まっています。 桐野さんも自身唯一のシリーズ作品私立探偵村野ミロの新作「ダークネス」を10年振りに出版しました。

「ダークネス」の10年前が「「ダーク」で、その前が「ローズガーデン」で、最初顔に降りかかる雨』で江戸川乱歩賞を頂いた時に、書いた作品でその時の主人公が村野ミロで30代前半の女性でした。  20年ぐらい書て来て「ダーク」で終わりにしようと思いました。 妊娠して逃避行で終わるつもりでした。 産んだ男の子はどうなるんだろうと思いました。 「ダークネス」ではミロは60歳になっていて、纏める意味で書きました。 ミロが孤独になってゆく姿を書いてみたかった。   東日本大震災があり、コロナがあり社会の形が変ったような気がして、この20年の変化は物凄い事だと思います。

自分が作り出した人物なので、責任を感じてしまって、60歳になったミロを書いている「ダークネス」で、自分の作った世界なのにそこにちゃんといきている人がいて、パラレルワールドで歳を取っているんだと思って、不思議な感じでした。

OUT』では4人の主婦が描かれている。  ひょんなことで道を踏み外す話はどうだろうかと思って、書きました。  主婦たちを労働に駆り立てている状況を知りたいと思ったのと、その人たちが壊れていきながらも自由になってゆくみたいなものが書けたら面白いと思いました。  夜中に取材もしました。   ほとんどは頭の中で作った人物です。 

グロテスク』は1997年(平成9年)に起きた東電OL殺人事件をモチーフとして、現代の階級社会を身一つで闘う女性たちの生き様をセンセーショナルに描いた作品。 実在の人物を書いていても想像で書いていますが、難しいです。

「ナニカアル」林芙美子のこと。 何を書きたかったかと言うと戦争責任を問われた事。 林芙美子は偽装病院船で南方へ向かった。陸軍の嘱託として文章で戦意高揚に努めよ、という命を受けて。 女性の苦しみもあっただろうと思って林芙美子を書きたいと思いました。

「オパールの炎」、時代に先駆けてピル解禁を訴えていた女。  中ピ連の榎美沙子さんも選挙の後に消えてしまった。 その後どうなったのかもわからない。 私も彼女に賛成していました。  この30年で女性に対することが変ってきたと思います。  直木賞の選考委員も6:3で女性の方が多くて、女性の作品も共感を持って読まれるようになったと思います。

2021年からは日本ペンクラブの会長となり、現在3期目です。 理事になりましたが,不熱心な理事でした。  その後の選挙で僅差で私でしたが、固辞しましたが、説得されてやらせてもらう事になりました。  日本ペンクラブは出来て90年になります。 PENのPがポエット(詩人、俳人、歌人、劇作家),Eがエディター(編集者)、Nがノベリスト(作家)ほか、言葉に関わる方たち(編集者、研究者、出版社など)。 表現の自由、そのためには平和が絶対に必要であろうことでそういう事も訴えてましょうという事です。  声明、談話等を発表します。  

この20年で予想していなかったような状況になり、いつ何時とんでもないことが起こるかわからないので、それに備えたものを先んじて書きたいと思っています。  来年の1月からは女性の徴兵制みたいなことを書いています。  世界的には判らないですね。  貧困対策、少子化対策でそう言う事をする政府があったり、考えたりしていることを書いたりとかしています。  作家の役割は井上ひさしさんが「炭鉱のカナリヤた。」と言うようなことをおしゃいましたが、社会の無意識みたいなものを救い上げて、言葉にしてゆく事が作家の仕事だったと思います。  そういう風に出来たらいいなあと思います。  無我夢中でここまで来たという感じです。 

































2025年12月6日土曜日

京山幸枝若(二代目・浪曲師)        ・極めた芸を次世代へ~浪曲初の人間国宝

京山幸枝若(二代目・浪曲師)        ・極めた芸を次世代へ~浪曲初の人間国宝

京山幸枝若さんは昨年度人間国宝に認定されました。 浪曲界から人間国宝に認定されるのは東西合わせて初めてです。 啖呵、セリフと歌い上げる節で物語を語る浪曲は落語、講談と並ぶ三大話芸の一つです。 幸枝若さんは関西弁を交えた啖呵と自在な節回しで、任侠物から人情噺、時代物など幅広いレパートリーで知られ、その芸は上方浪曲の代名詞と言われています。  17歳で先代で実の父でもある初代京山幸枝若さんに入門、以来50年余りに渡り磨き上げた芸と次世代に繋ぐ思いが、高く評価されての人間国宝です。 

 電話で聞いた時には本当かと吃驚しました。  浪曲は明治、大正、昭和30年ごろまでは凄い人気の芸でした。  桃中軒雲右衛門が流行らせて、浪花節になりました。忠臣蔵を中心に歌っていました。  伊藤博文が雲右衛門さんの大ファンでした。  一時期は3000人ぐらいいました。  今は東西含めて60人ぐらいです。  関西で14人ぐらいです。

兵庫県姫路市出身今年70歳。 1971年17歳の時に初代幸枝若さんに入門、以来上方浪曲の第一線で活躍してきました。  物語の伏線が長いところもあり、今の若い人は聞くという事が出来ない。  いろいろな浪曲師の節を聞いて学びました。  父は幸枝節を習いましたが、テンポ早くしていきました。 河内音頭をやり出してから速いテンポになる。  幸枝若節になって行った。 幸枝若節を節を変えたり工夫していきしました。 関西弁を取り入れました。 

4歳の時から三波春夫さん、村田英雄さん、三橋美智也さんなどの歌を歌って稼いでいました。  私が生まれて7か月で両親が離婚しました。  兄が3人います。 母と一緒になった父になる人も浪曲師でした。  定時制高校の時に部屋を借りていたが、友人が京山幸枝若のレコードを持って来て聞くことになりました。  1週間で覚えました。 他にも覚えて敬老会へ行って披露しました。  そのうち一日に3,4回掛け持ちで行ったりしていました。   母親から京山幸枝若のところへ弟子入りするように言われて、会いましたが1万円をくれただけでした。  母親に自分は京山幸枝若の子かと言ったら「そうやで」と言われました。 弟子入りすることになりました。  仕草などは機嫌がいい時には教えてくれましたが、節は絶対教えてはくれませんでした。  

浪曲を一人でも多く知ってもらいたいのと、若い浪曲師をもっと増やしたい。 浪曲と言う芸を残していきたい。  































2025年12月5日金曜日

棚原喜美枝(一般社団法人ある代表理事)   ・生きていればOK 沖縄・“ケアリーバー”支援者

棚原喜美枝(一般社団法人ある代表理事)   ・〔人権インタビュー〕生きていればOK 沖縄・“ケアリーバー”支援者 

沖縄では子供の貧困が大きな問題になっています。 とりわけ児童養護施設や里親家庭などから離れた子供はケアーから離れた人、いわゆるケアーリーバーと言われています。 そうした子供や若者はその後の生活の中で、困難を抱えることが多く中に命の危機にある人もいるなど、どう支えていくか課題になっています。 今回はそんなケアーリーバーの若者たちの相談室、「虹のしずく」をつくり包括的な支援を先進的に担う棚原喜美枝さんに伺いました。

ケアーリーバーと言うのは、児童養護施設や里親家庭でケア―を受けていた子供たちが、そこを離れるという意味でケアーリーバーと言われています。 18歳で高校を卒業すると措置解除と言って、社会的養護の解除になります。 措置延長制度もかなり充実してきました。 まだ居たいという事になれば、年齢を区切らないことになっています。 「虹のしずく」は2019年から開所していて、相談台帳上は400人の子供たちの登録があります。  27,8歳の子もいます。  18歳になるとうちに繋がって、子供たちと毎月120件ぐらいラインで連絡したり電話したりして毎月関わっています。  一番多いのはラインでの相談です。 女性が6割を占めています。 若年で妊娠出産された方が多いです。 私たちが行ってお話を聞くこともあります。 

出前講座の「命の教室」で性教育もしています。  若年妊産婦の支援をしています。  経済的な問題はダイレクトで切実です。  非虐待児の入所は6割に達していると思います。  パートナーからのDVもありますが、自分が不利益だと判っていても切れないという事を言います。   負の連鎖になってしまう。  自分の傷つきの部分をきちんとケアーできていないから、同じようなサイクル、人間関係のサイクルに入ってゆく。 トラウマケアーが必要なんだと思います。  昨年からトラウマ治療を始めました。  本人が子供時代に受けた逆境体験を引きずっていて、その傷を癒さない事には先に進めないという事が判りました。    精神科に通院している子が多いんです。  400人のうち40人程度が通院しています。  通院同行が20人います。  

トラウマの原因は、子供のころに適切に扱われなかったので、母親が泣くのは自分がいい子にしていなかったからだとか、何かしら自分を自虐的に見てる、自分はいいよとさがってしまう、被害体験があると似た様なシチュエーションの場に行けなかったり、一人で行動できなかったり、パニック発作が起きてしまったりする。 無力な自分しか自覚できていないから、そういう場面に出くわさなようにしようとすると、外に出られないとかあります。   多くは性の被害が多かったです。 他には近親者(親とか)からの暴力。 

トラウマ治療はTF-CBT(Trauma-Focused Cognitive Behavioral Therapy 米国で開発された子どもを対象とした治療プログラムです。1990年代に性的虐待を受けた子どもの治療に試行されたのを皮切りに、養育者の治療参加、子どもの発達的要素への着目など、修正と改良が加えられながら発展してきました。)トラウマフォーカスト認知行動療法を取り入れてやっています。 約1年ぐらいかかります。  自分が悪かったのではないんだという事がはっきりしてきます。   辛い箱を開ける前にリラックスゼーションを行います。  当時の記憶に戻って再挑戦して、違う自分を作って行って、あれは過去に起きた事だったと自分に中で整理をつけると、同じ穴に落ちない。  

途中でリタイアする子もいます。 誰にでもできる事ではないです。 トラウマが邪魔をして自分に有益なことを選択しないことがある。 それを除くことによって選択肢が変って行って、出会う人たちが変ってくる。 自分の環境が明らかに変わってくる。  

私が施設にいる頃、15歳で卒業して高校生になれない子が二人いて、就職しました。 施設を出て自分の生計を立てていきます。  二人は目の届かない県外に行ってしまいました。  持病があって亡くなってしまったという事がありました。 ちゃんとつながっていればそんな事は無かっただろうと思って、後悔しました。 社会が悪いと思いました。 「虹のしずく」ではシンプルに「兎に角生きていればいい。」と子供たちに言い続けています。  この仕事をしていて10代で亡くなってゆく子が他にもいるんです。  

必要なことはやるという事でやって来て気が付いたら、認可外保育園もやってしまっています。 新生児から預かります、という事をコンセプトにしています。  子育て支援を大事にしています。 出産後1か月に赤ちゃんを特に大事にすると、母子の愛着を育み易くなります。 生後半年の時期は手厚くやってもらいます。  自分の子育てを通して、自分の育ち直し、育て直しをするというのが、今効果的に働いているのかなあと思います。 自分の子供時代を、自分の子供を通して、親の立場を比較できる。 自分の親と、親になった自分を比較できる。  辛い経験があるからこそ,人の痛みが判るので、自分の周りにいる子たちを底上げする力が彼らにはあると思うので、それを伸びやかにやって欲しい。














2025年12月4日木曜日

川瀬佐知子(大阪赤十字病院 看護師)     ・〔人権インタビュー〕 命の保障がない中、人権とは

 川瀬佐知子(大阪赤十字病院 看護師)  ・〔人権インタビュー〕 命の保障がない中、人権とは

川瀬さんはこれまでジンバブエでのコレラ救援事業や、ハイチでの地震災害救援などを経験してきました。 2023年7月にはパレスチナのガザ地区に派遣され、現地の看護技術の向上に取り組みました。  しかし派遣中の2023年10月イスラエル軍とハマスとの戦闘が始まり、川瀬さんは爆撃を目の当たりにするなど混乱の中で帰国を余儀なくされました。  帰国後は何の罪もない多くの市民が犠牲になっているガザ地区の状況や経験を講演などで伝えています。 現地の看護師が川瀬さんに幾度も伝えたという、「私たちに人権はない」という言葉の真意とは、川瀬さんのお話です。

戦争とか紛争はわれわれとはかけ離れた世界と言うふうにとらえられがちですが、人の人生が本当に一変してしまうことがこの世の中に有りうるという事で、ガザでは今その状況が続いていて、大変な状況をまずお伝えしたいという事がります。  

2023年7月ガザへ訪れました。 真っ青な空で雲が全然ないんです。 日本からよく来てくれたと凄く喜んでくれます。 子供たちも多くて、元気に走り回っています。  病院の規模に対して医療者が圧倒的に少ない。  教育の機会も限られています。 看護部長と現地職員が2人、男性の看護師さん、私ともう一人大阪赤十字病院から派遣に行きました。  男性の看護師のハムリは凄くよくやってくれる人で皆から信頼されています。  10月の17,8日に大きな研修を予定していました。 

10月7日ガザ地区を実効支配するイスラム組織ハマスがイスラエルに対して大規模な攻撃を開始、直ぐイスラエル軍はガザ地区にあるハマスの拠点を空爆しました。  朝6時過ぎぐらいで私は自分の宿舎にいました。(休みの日だった。)  最初花火の音か何の音なのかわからなかったが、鳴りやまないのでちょっと違うと思いました。  赤十字国際委員会から連絡があって、宿舎に待機するように言われました。  珍しくハムリが動揺していました。 テレビを見て事情を知りました。  私は後部座席で、車で別の宿舎にようやくたどり着くことが出来ました。  病院にはいけなくて、情報では1日目、2日目は運ばれてくる人数の連絡がありましたが、その後はどのぐらいの数なのかの連絡もなくなりました。  近所の住民も病院に避難してきました。 

病院で働いていた医師のお子さんが亡くなられて、辛い環境のなかで皆さん働いていました。将来に向かって病院の質の向上を目指して笑顔で皆働いていたのに、数日で全てが変ってしまいました。  10月13日北部全体が攻撃の対象になるという事で、南部のラファフへ移動することになりました。  避難民が沢山いて、そこで避難人の健康管理を行いました。  医師のいない環境で、自分がいろいろな判断をしなければいけないが、貢献できるという事では気持ちに安定感はありました。 11月1日の朝6時半に、エジプトへの避難をすることを言われて、急遽7時半に出発することになりました。  当時のことを日記に記しています。ハムリとの電話連絡で、大切な場所を攻撃されても、まだ世界中から攻撃されているというようなこと、涙ながらの訴えを涙を流して聞くしかなかった。  

この衝突が起こる前から彼は「人権がない。」と言っていました。  その時には実感がなかったが、衝突が起こってこれまでの歴史の中で何度も起きてきたことなんだと、改めて考えさせられました。  何も悪い事はしていないのに、このような攻撃を受けるのか、この世の中はフェアじゃないと、彼はずっと言っていました。  でも誰も助けてはくれない、自分たちは見捨てられたと言っています。  人権とは一言では言えないが、その人らしさかと思います。 その人がその人らしく生活する一つ一つのことが人権かなと思います。 しかし、食べ物がない、着るものもない、プライバシーがない状況です。  食べ物を奪い合う映像が流れたりするが、本来彼らは決してそのようなことをする人たちではない、優しい人たちなんです。

一番大事なことは、伝える事と、伝え続けることで、今だけではないずーっと伝え続けてゆく事です。  制限のない自由、私たちにとっては当たり前のことですが、彼らにとっては何年も何年も夢見て来た難しい壁なんです。














 









 







2025年12月3日水曜日

松井佑介(きつ音の子どものためのスポーツ教室)・自分らしく、自信をもっていい ~きつ音を乗り越えた当事者が伝えたい思い~

 松井佑介(きつ音の子どものためのスポーツ教室)・自分らしく、自信をもっていい ~きつ音を乗り越えた当事者が伝えたい思い~

現在はほとんど吃音は出ませんが、幼少期から思た通りに言葉を出すことが出来ず、人前で話す機会を避ける日々を送って来ました。  しかし学生時代に得た小さな自信をきっかけに、いまではスポ―ツ教室を始め、富山市や金沢市で様々な吃音当事者への支援活動を行っています。 今年8月には吃音当事者の自己表現と啓発を目的に3年おきに開かれている吃音世界大会に日本人として唯一出場し、大会を主宰する国際吃音協会の理事にも就任しました。 自ら苦しんだ吃音に向かいあい続ける松井さんに、吃音当事者に何が必要なのか、伺いました。

吃音を感じ始めたのは4,5歳の頃です。  吃音の症状は3つに分類されていて、①連発(あああああありがとうございます。)、②新発(あーーありがとうございます 言葉を伸ばす。) ③難発(うううありがとうございます 最初の言葉が出てこない。) 小学生にあがる前には7~8割は自然消滅すると言われています。 症状は個人によって様々です。 

4,5歳の頃兄の友人から「あいうえお」と言ってみろと言われて、ちゃんと言えなくて大爆笑されたことがありました。  小学校4年生の頃には授業中に答えを回避したり、先生にさされて言いにくい答えだと判りませんと言ったりしていました。 自分に劣等感を抱きました。高校1年生の時にくじ引きでクラスの会長になってしまって、 「起立」「礼」「着席」の号令をかけなくてはいけなくて、ちゃんと対応できなくていじめみたいなことや、仲間外れとかが起こってきました。  先生から号令について指導されましたが、なかなかできなくて、会長の任期の最後に、「最後ぐらいちゃんと言えよ。」と先生から言われて、それもショックでした。 父に対して「こういう身体に産んだ親が悪いんだ。」ともっと酷い言葉を投げかけました。 

2年生になる前に担任になる先生に吃音のことを打ち明けました。  大学では受ける授業によってメンバーが全然違うので、最初に自己紹介タイムが設けられていて、又アクティブラーニングが多い授業はいけなくて、午後2時ぐらいに起きる生活をしていました。 アルバイトにチャレンジしようと思いました。  焼肉屋のキッチンのアルバイトがありました。(人と話すことはないと思った。)  行ったら接客係が足りないのでそちらに回って欲しいと言われてしまいました。  接客も工夫したりして段々自信が付くようになっていきました。   アルバイト後も吃音はありましたが、心理的症状が和らいだのか、今に繋がっていきました。  

4年前からきつ音の子どものためのスポーツ教室「ドモスポ」の運営をしています。 自分自身辛い思いをしてきたので、今の活動をしています。  吃音は百人に一人居る障害と言われています。  前半は僕が考えているスポーツプログラムで後半は子供たちがプログラムを考えて実施してゆきます。  対象は小学生、中学生です。 吃音を前向きにとらえて挑戦している子が少しづつ増えてきています。  

今年8月フィンランドで開催された、当事者が自らの経験を発信する吃音世界大会に出場しました。  吃音で悩んでいる人に、堂々と発表する姿を見せて希望になればいいかなと思いました。  吃音があっても自分らしく生きれるし、選択できるんだという事をメッセージとして最後に伝えてきました。  世界吃音協会の理事を決める総選挙にも立候補し、就任しました。  世界の吃音の人たちにも力になりたいと思いました。  

学校で悩んでいる子が多いので、そこに直接働きかけないと根本の問題解決にはならないと思います。  先生が気付いたら、フォローしてあげる姿勢が凄く大切なんだと思います。  吃音の正しい知識が不足していると思います。  経験した声は貴重だし、届けやすいと思います。  吃音には触れない方がいいという意識が働いているかと思いますが、そこは大きく変えていきたいと思います。  それが核になっている。  積極的に介入していただければと思います。  悩みを一人で抱え込まないで、周りの大人の人に相談していいんだよと言いたいです。






















2025年12月2日火曜日

赤塚興一(ハンセン病家族訴訟原告団 副団長) ・父を差別したあの日 悲しみの連鎖を断つために

赤塚興一(ハンセン病家族訴訟原告団 副団長) ・父を差別したあの日 悲しみの連鎖を断つために 

現在87歳になる赤塚さんはハンセン病家族訴訟原告団 副団長として裁判に関わって来ました。赤塚さんの父親はハンセン病患者でした。  赤塚さんが小学校3年生のころ、父親が島にある国立療養所奄美和光園に強制収容されました。  ハンセン病患者への差別は家族にも向けられ、赤塚さんはいじめに苦しみました。  しかしその怒りをいじめた側ではなく、病に苦しむ父親に向けてしまい、父親が亡くなるまで顧みることはありませんでした。 親を差別してきた自分の人生を反省し、20年ほど前から差別によるハンセン病被害の救済に取り組んでいます。    父親との思い出から自分の人生をどう振り返って行ったのか、伺いました。

昭和13年に生まれて3歳のころ父親の出身地鹿児島県奄美大島に移り住みました。 父親は黒糖を作るためのサトウキビを作りに南の方に行きました。  ポナペ(ミクロネシアの主要な島)でサトウキビを作ったり指導したり、黒糖を作ったりしました。  父は熱帯病にかかったと言う事で帰ってきました。  ハンセン病の患者という事で、島にある国の療養所奄美和光園に強制収容されました。

昭和22年2月に警察官と職員、突然3人が来て連れて行きました。 父は42,3歳でした。  小学校4年生の時に「乞食」と言われました。 ハンセン病の子供も乞食になるという考えを村の人は持っていたかもしれない。  そこで判りました。 父の顔が赤っぽくて薬をつけても治りませんでした。  同級生が8人いましたが遊んではくれなかったです。   同級生の親に往復で顔を殴られて(海軍びんた)、悔しい思いをしました。 母親は咎めにも行かなかった。  指さすと指が腐ろなどとも言われていました。  

私が親替わりをして下の子の面倒を見たりしました。  父が家に来る時には夜来て朝方帰っていきました。  高校時代に親の話になったりすると逃げだしたくなりました。  高校を卒業後工場勤務を転々として、奄美大島に戻って来て県の職員として働き始めました。(25歳)  結婚式の時には父を呼んでいませんでした。  子供が出来て5,6歳ぐらいの時に、父は70代ぐらいで家にたまに抜け出して帰って来ますが、妻は子供のことを心配しました。はやく戻るように言ったんです。(贖罪 罪滅ぼし) 父はその時「まだお前はハンセン病のことを理解していないのか、自分は首でも切って死ぬよ。」と言いました。 初めて私に対して怒りました。  ハンセン病が治ったという事を理解していなかったという事です。 それからは家に来なくなりました。  亡くなるまで親を遠ざけたいという思いはありました。

父は83歳の時家で亡くなりました。 父をさするという事は出来なかったです。 知識が足りなかったという事が反省です。  大変な病気で一生かかっても治らない病気であると言われていた時代がありました。  私は手足が欠けたり鼻がくずれたりした人を見て来てるんです。  でも知らないという事は罪なんです、罪を作っているわけです。  いろいろ勉強してハンセン病の内容も判って来ました。  

腑に落ちないから反省してこの問題に取り組んでいるんです。  隔離という事は自由を奪う事です。 人権の侵害になるわけです。  ですから国と争っているわけです。                2001年にはハンセン病の元患者に対する国の賠償責任が裁判で認められ、2019年にはハンセン病元患者の元家族に対しても認められました。  勝ち取りましたが、申請は全体の3割です。 貰う事によって逆に差別される恐れがある。  離婚の原因にもなる、そういう人たちが多いという事です。  ハンセン病に対する理解が行き詰まっている感じです。   出来るだけ人に話したくないという病気なんですね。  まだ隠し続けたいという思いです。

講演を行っていますが、まずは物事を正しく知る事です。 正しく知らなければ間違った判断がいろいろ出てくると思います。  































 



















2025年12月1日月曜日

小山美砂(ジャーナリスト)         ・〔人権インタビュー〕 置き去りにされたグローバルヒバクシャ

 小山美砂(ジャーナリスト) ・〔人権インタビュー〕 置き去りにされたグローバルヒバクシャ

グローバルヒバクシャと言うのは広島や長崎だけでなく、アメリカや旧ソビエトなどの核実験やウラン採掘など世界各地で放射線の被害を受けた方々のことです。 この問題について取材を続けているのが、広島市在住のジャーナリスト小山美砂さん(30歳)です。  小山さんは 大阪市の出身、毎日新聞社の記者として広島に赴任し、原爆10日後に降った所謂黒い雨の裁判を取材しました。  2023年にフリーの記者に転身し、その年の10月にはこの黒い雨の取材で日本ジャーナリスト会議賞を受賞しました。  その後も小山さんは置き去りにされた核による被害者の取材を進め、去年の9月には旧ソビエト時代に核実験が繰り返されたカザフスタンを訪問し、慢性的な貧血や頭痛に悩まされる現地の被害者の声を聞き集めました。  小山さんにグローバルヒバクシャの歴史と現状を伺い、世界の被爆者の人権について考えます。

今年被爆80年で、核に対する関心とか、過去の戦争を原爆を含めて伝えてゆくという一年であったと思います。  一方で今も光が当たっていないか、置き去りにされている被害に私はどうしても目を向けなければいけないという思いがあったので、今年出した2冊も改めてだしたいという2冊になりました。 

2922年『「黒い雨」訴訟』を出版。  黒い雨は原爆10日後に長崎で降った雨のことを言います。  原爆由来のすすとか灰も含めて放射性降下物を総称して、黒い雨を捉えるという観点で私は取材と発信を続けています。  私が赴任した時には「黒い雨」訴訟の裁判が始まっていました。 高東征二さんと言う方が原告でありながら、黒い雨の被爆者の証言を聞いている人でした。  「黒い雨」は語り継ぐ歴史だと思っていましたが、現在進行形の問題であると実感して、取り組まなければいけない問題だと思いました。  もう一つ隠されてきた被害であるという事を非常にあります。  取材をすることで責任感も生まれてきました。

アメリカでの核実験のテストがあって、それからずーっと核開発が進んできて、新たに被爆者も生み出されてきている。  グローバルヒバクシャは核実験の被害者、ウラン採掘、原発事故、原発労働者、などの放射線の被害を受けた方々の言葉として知られるようになってきています。 核実験は地球上でこれまで2000回以上実施されています。  マーシャル諸島の核実験では1946年から10年間で60回以上も核実験が行われています。 第五福竜丸の事件もありました。(他にもあり)  旧ソ連でも沢山の核実験があり、インド、コンゴなどではウラン採掘が行われて病気を訴えている方がたくさんいます。 

去年カザフスタンに取材に行きました。  450回以上核実験が実施されています。 1949年8月に最初の原爆実験が実施されました。(旧ソ連として初めて成功した場所)    核実験の被害を受けた人は子孫を含めて150万人とも言われています。  他のところと比べ乳がん、肺がんの罹患率が2倍近く増加していた。 心臓に関わる病気も1,3倍とかデータとして出ています。  精神的な病気も倍増したといわれる。  カザフスタンは日本の7倍の面積があります。 国土の大半が草原と砂漠です。 2024年9月1日から11日まで行きました。 3か所に行きました(首都、旧首都、核実験場があったところのセミパラチンスク)  セミパラチンスク核実験場は市の中心から150kmは離れている。  四国ぐらいの面積のところで何回も核実験を繰り返していた。  周辺の住民が影響をうけてしまった 。  最後の実験から30年以上経ってしまっているが、放射線量は下がっていないところもある。 そこらじゅうにクレーターが出来てしまっている。 

 核抑止論は嘘だと思いました。  カザフスタンの場合は軍事機密だったので、なんかおかしいと思いながらも被害を認識することが出来なかった。  真実をそのままにしておいてはいけないという、真実を伝えてゆくこだわりは「黒い雨」と共通していると思います。 取材して60歳まで生きられる人が少ないという事はショックでした。  86歳の女性が核実験のことをよく覚えていました。  爆発があるよ親が村の中にある穴の中に子供たちを隠した言っていました。  上から絨毯をかぶせてしばらくいるように言われたそうです。 好奇心で絨毯をめくってきのこ雲を見たと言っていました。  親は経験的に知って子供たちを守ろうとしたんですね。 

首都でも取材をしましたが、彼女は核実験場のあった市で生まれました。 皮膚がかぶれてしまって辛かったそうです。  佐々木貞子さん(2歳で原爆に会い10歳で白血病で亡くなる。)の名が彼女の口から出てきました。  広島、長崎のことに心を痛めていました。 しかし、実は自分たちも核の被害者であることを後で知ったと言いました。  広島、長崎もセミパラチンスクも同じ核の被害で、だから手を携えて人類の危機ともいえるような状況を乗り越えていかなければならないと言っていました。 自分の視野の狭さを感じました。  核の問題は地球規模で考えないといけないと思いました。 

今年8月6日にカザフスタンの女性(71歳)を招待しました。 17歳の時に母親をがんで亡くして、その後姉二人を病気で失い、弟も失い、自身も肺がんを患って治療中とのことでした。 核実験との結びつきを意識しました。  カザフスタンの被爆者の権利を拡充、反核、核実験の現状を訴える活動をしている方です。 原爆ドーム等見学して、被爆者などとの交流を通して、広島のことを学ぶと共にカザフスタンの核実験についても知らせて頂くという滞在になりました。 彼女は子供たちの絵を60枚お土産にという事で持ってきてくれました。  セミパラチンスクと広島が未来に向かって一緒に歩んでゆくという動きを作りたいと言って、持って来てくれたものです。  

今関心があるのは、繋がる、繋げるという事です。  カザフスタンでは精神的つながりと言うものを強く言われました。  自分一人ではない、一緒に歩んでくれる人がいるという事が彼女を強くもするし、ある意味身体も軽くすると思います。  世界中に仲間がいるという事は背中を押しているんだなと言う様な気がします。  人々がよりよく生きられる世界を目指すためにも、核被害者の声をちゃんと受け取って、苦しんでいる人たちを救済してゆく、そういう社会を目指した方が、絶対みんなが生きやすいので、核なき世界を目指していると同時にもっとみんなが生きやすい社会を作りたいという思いで、活動しています。