2015年10月23日金曜日

沢井一恵(箏曲家)        ・伝統の箏曲で世界の音楽と共演 

沢井一恵(箏曲家)          ・伝統の箏曲で世界の音楽と共演 
日本の伝統楽器琴の第一人者である沢井さんはこの度永年の活動が認められて、民間の邦楽の音楽賞を受賞されました。
沢井さんは8歳の時に宮城 道雄に師事し、その後東京芸術大学の音楽部を卒業されました。
1979年には新進の筝曲家沢井忠雄さんと結婚、沢井箏曲員院を設立して国の内外出多くの後進を育てています。
ご自身も琴の研さんに励み、伝統の演奏分野だけでなく、クラシック音楽、現代音楽とも共演して活動の幅を広げて来ました。
アメリカ、ロシアの作曲家にも作曲を依頼し、日本伝統の琴の音楽を世界的に広げる役割も果たしています。

いろんな楽器との共演をやっています。
日本の琴は350年前から始まったと言われている。
古典だけを深めてゆく人達は沢山いますが、自分としてはもっと表現できる物があるのではないかと思い始めました。
民間の東燃ゼネラル音楽賞を受賞する。
明治時代女の人は琴を弾いて、女子のたしなみをする習慣がありまして、母がちょうどそういう時代で母が琴を弾いていまして、琴が一面有りまして、琴を始める事にしました。
家から1分のところに宮城先生が出張稽古に来ていまして、8歳の時に宮城先生に習う事になりました。
大人には厳しかったが、子供には優しかった。
最初直接は若先生に教わって、そのあと宮城先生に習いましたが、高校1年の時に宮城先生は亡くなりました。

琴はあまり好きではなかったが、父から辞めることはならぬと言われて、母が宮城先生に相談行ったら、この子は何かがあるから続けさせなさいという事になったんですが、、青山学院の中学高校と行っていたが、国立大学に行きたくて、東京芸術大学に進学する。
学生の90%は洋楽を専攻する人達でした。
同じ土壌でやれたらいいなあと思っていました。
琴の可能性、音楽の幅が広がらないとそうはなれないだろうなあと、卒業するころはそう思っていました。
3年先輩の沢井忠雄さんとの出会いがありました。
当時学年の壁は凄くきつくて、4年生に口を聞くということはほとんどあり得ないことでした。
各流派に家元があり、演奏してそういう社会で立派に生きていけるわけですが、沢井は一般家庭の出なので、琴で生きていけるかわからない状態でした。
卒業後、沢井箏曲院を設立、若い人たちが集まってきて、組織を作るしか仕方なかったという様な感じでした。(家元制度ががっちり有った)

家庭をもってから夫は古典から新しいものを始める時期にもなって、夫もハンサムでしたので結婚していることも隠した方がいいとも言われて、私は琴は止めました。
1回でいいからリサイタルをさせてほしいと言って、一回やってみたら次々にやりたいことが出てきた。(初リサイタルは昭和54年 39歳の時)
文化庁芸術祭優秀賞を初リサイタルでいきなり受賞。
これがきっかけでこういう事をしたら琴の可能性が有るのではないかと思って、自分のリサイタルで始めました。
作曲家の武満徹さんが組織してパリでフェスティバルが毎年あって、そこに連れて行ってもらったりして、石井眞木さんに曲を書いてもらう様に依頼し吉原すみれさん(打楽器)と共にやろうと言う事になり、それからいろんな楽器の人とやったり作曲してもらったりしました。
これ以上開拓してゆくには外国の音楽家の力を貰わないといけないと思って、出会った外国の作曲家に曲を書いてもらったりしました。
琴の楽器を知らないほうが可能性が出るのではないかと思いました。

琴を見たことも聞いた事もない作曲家から楽譜が来たが、素晴らしい曲だった。
ジョン・ケージ アメリカの有名な現代音楽作曲家 
1930年に書かれたピアノ2台のための、ピアノの弦に物を挟んだ(ピアノの音ではない様にする)プリペアド・ピアノの未来のための曲というのを聞いて物凄い衝撃を受けました。
これは琴にも応用できるのではないかと思って、楽譜を下さいと楽譜を貰って四苦八苦してやりました。
ジョン・ケージは琴は嫌いだと言っていたが、プロデューサーがなんとか取り持ってくれて、一番前に座って私のリサイタルを聞いてくれて、それで楽譜をくれました。
ジョン・ケージは私の名前を入れて詩を書いてくれて、「今まで西と東別々だったものが、今日ジッパーで一つにつながった。 今日私たちは零の地点二人は立って、これから色々新しくやっていこう」みたい詩を書いてくださった。

ソフィア・グバイドゥーリナ  ジョン・ケージの後世界一だそうですが、日本に来た時に彼女の休日に、沢井さんのところにでも行って琴でも聞いてもらう様にという事で来まして琴を聞いてもらったら、演奏が終わるなり、楽器に近寄ってきて、反対側から弾きはじめるわけですが、素晴らしい音だった。
こんな楽器は私知らなかった、なんでこんないい楽器があったのと、楽器から離れなかった。
一面上げますと言ったら、持って帰った。
曲を書いてくださいと言ったら書きますと言って帰って行って、楽譜が突然送られてきた。
7重奏の曲で赤坂草月ホールのロビーで(イサム・ノグチ設計)やりたいと思ってそこで発表コンサートをしました。
パリでソフィア・グバイドゥーリナと即興をレコーディングする話があり、そのときに曲を書いたら弾いてくれるかと言われていたが、5年後、N響が依頼したら琴のコンチェルトが出来てきて「樹影にて」ができてきた。
コップで擦れ、弓で弦を弾く、そういう音楽を書いていただいて、それが私には凄く面白かった。
ソフィア・グバイドゥーリナが4日私の家に泊って、歯磨き用のコップを渡したら、或る朝そのコップを使って弾いた事から始まってコンチェルトになった。
私がやってきたことは進化したとは思っていなくて、伝統を壊しているということは自覚しています。
ソフィア・グバイドゥーリナによって地の果てまで連れて行ってもらえたような感覚があります。