2015年10月2日金曜日

浜 美枝(女優)         ・逢えてよかった

浜 美枝(女優)            ・逢えてよかった
日本人初のボンドガールとして「007は2度死ぬ」に出演、1967年のことでした。
女優、司会、パーソナリティーと幅広い活動の一方で、4人のお子さんを育て上げてきました。
この間日本古来の手仕事や農業に魅かれるようになり、地方で元気で魅力な女性たちに出会います。
今年72歳になる浜さんの「逢えてよかった」の講演です。

箱根に暮らして40年になります。
宮本常一さんの足跡の旅、民芸運動家の創始者の柳宗悦先生の足跡の旅など、また全国の農村女性たちとネットワーク作りをしていて逢いに行きますが、いつも小田原の駅が見送ってくれます。
歴史のある城下町の小田原が大好きです。
身体の調整をになっているのは毎日の山歩きです。(雨、仕事が無い限り)
朝6時過ぎから歩きます。
今の季節、夜に運が良ければ流れ星が見ることができます。
箱根神社に参拝、太陽に手を合わせて、箱根の山のエネルギーを頂いている様な気がします。
人生って旅ではないでしょうか。
今振り返ってみると、4人をなりふり構わず育て上げ、007に出演するためにイギリスに渡って、右も左も判らずおろおろしていて、女優が合わないのでは、才能が無いのではないかと思ったり、農業や食に興味を持ち、福井県若狭の地で畑仕事に汗を流した時代、友達と笑ったり泣いたり、そんな全ての自分が愛おしい、旅をしている様なそんな人生の様な気がします。

30年前、富山の地方鉄道 浦山と言う無人駅があり、善功寺(ぜんぎょうじ)の住職で前は新聞記者でギリシャに取材で行った時にご一緒した人。(ゆきやまさんご一家)
以来お寺に入ってからも家族ぐるみのお付き合いをさせてもらいましたが、病で50歳で亡くなられてしまいました。
そこの5歳の坊やが駅に迎えに来てくれて、お寺案で迎えに来てくれました。
夕食の時に、坊やが「この家で一番最初に生まれたのは誰」、と言って、お爺さん、お婆さん、お父さん・・・お姉ちゃんと説明してゆき 次はと自分の番になった 「僕だよ。」と母親がいうと、「みんな会えたねー。」とその少年は言った。
母親が「そうかい、皆会えてよかったね。」と言って、家族の会話を聞きながら何故か涙がこぼれてきてしまった。
皆御縁があってこうして出会えているんですね。

15歳から仕事をしてきましたが、この人に出会えたから今の私がいる出会いがありました。
40歳を迎える前、新潟県の北部 奥三面(おくみおもて)という42戸の集落
1968年 治水と電源開発の名のもとに、この村はダムの底に沈むことになってしまいました。
決定17年後 1985年の秋 閉村式を迎え村は無くなりました。
姫田忠義先生がここの生活を何年もかけて映像として記録を残そうとしました、私もご一緒させてもらい3年間22回通いました。
自然に生かされた所でした。
92歳小池さちさんは、死んだ後だったらよかったのに、生きているうちに出ていかなければいけないので本当に困っているといっていたが、村が無くなる4か月前1985年7月7日に亡くなりました。
村を後にする悲しみを拒絶する死だったと私は思いました。

伊藤きいさん 当時74歳 50年の歳月を田んぼに入り畑を耕して頑張ってきました。
お宮参りの前に赤ん坊が亡くなると、お墓に入らず牛小屋馬小屋の下に祭ります。
家族が寝静まったあとに、幼くして亡くした我が子に語れるのは牛小屋馬小屋の下です。
閉村式になって家、子が祭ってある牛小屋、馬小屋、田んぼが無くなってゆくが、何もかもおしまいですねと言うと、子供達の幸せのためなら我慢すると一言ポツンと言いました。
その時に私は演ずるという女優を止めようと思いました、それからひたすら全国を旅しています。
1987年から始まった遺跡調査では旧石器時代からの遺跡(奥三面遺跡)が発掘され、旧石器時代からこの地に営みが有ったわけです。

1984年 沖縄の与那嶺貞さん 花織 
戦争で何もかも失ってしまったが、父が私に与えてくれた教育だけは誰も奪う事が出来なかったとおっしゃっていました。
工芸学校で学んだ技術が後の幻の花織(はなうい)の再現に結びつけました。
20数年与那嶺さんのところに通いました。
「女の人生 ざりがなね(もつれた糸をほぐして一本の糸にすること)」 といわれました
根気良くほぐせば元の一本になる。 一本になれば又織ることができる。
もつれた糸をほぐしてちゃんとした布にする女 
人間国宝になりもう亡くなられました。

中原淳一さん(画家) 昭和21年「ソレイユ」が発刊 爆発的に売れた。
展覧会に行って、文章に出会い素敵な人間哲学があると思った。
「大丈夫かい 女性でいてください」というフレーズにとても心に残ります。

松本民芸生活館の館長 池田三四郎先生に話を伺うと魔法を掛けられた様に元気になって戻ってくることができます。 
(1948年、柳宗悦に師事し、民芸運動に参加。柳の「用の美」の思想を実践。)
池田先生は
「人間が自己の力を過度に評価し、科学を過信し、一切を知性によって合理的に極め得ると錯覚した時代は、その後の日本が歩いた道であった。
自然に対する人間の勝利とは虚妄の勝利で有ったのではないか。
人間の自力に信頼を置く事は一種の虚妄に過ぎ無くはなかったか。
日本の近代精神のもたらしたものは人間の傲慢であった。
その傲慢さゆえに自己の作った科学文明のために、自分自身が復讐されつつあるとは言えないか。」と書かれていました。
先生は私には
「一本のネギにも、一本の大根にも、この世の自然の創造物のどんなものにも美がある。
問題は人間がそれを美しいと感じる心を体で会得しているかどうかなんだよ 」
と淡々と語られました。

「私は毎日散歩をしながら道端の草や花やすれ違う動物なんかと話しながら歩いているんだよ。
私の暮らしの身の周りに在るものたち、それが現実なんだ。
その現実が大事なんだよ」とおっしゃられました。
今、今の身の周りにあるものを真摯に見つめて、それらを大切にして暮らして生きなさい。
自分が一歩一歩歩いているこの道の先には必ず未来がある。
貴方はそれを信じていままで通りに生きていけばいいんだよ、暮らしていけばいいんだよ」
とおっしゃられました。