村上保壽(高野山大学名誉教授) ・若き空海の悩み
高野山は1000mちかい山の上に広がる仏教の聖地です。
空海は1200年ほど前、当時最新の仏教、密教を中国で学んで日本にもたらしました。
空海は入定、亡くなったともこの地で祈りを続けているとされ、高野山は空海を慕う大勢の人々で今もにぎわっています。
村上さんは京都府生まれの74歳、大学では西洋哲学を専攻、山口大学の教授を務めましたがキリスト教を土台とする学問に行き詰まりを感じ、仏教を学びたいと考えるようになりました。
高野山大学への留学を通して僧侶になる事を決意、得度、49歳で高野山大学の教授に転じ、以来30年以上弘法大師、空海の研究に取り組んできました。
空海とはどのような人物で、どの様に生き、高野山を開いたのか、伺いました。
幼少の頃は賢いことが伝記的には言われているが、15歳叔父の阿刀大足のもとで京都に渡って漢籍の勉強をし、18歳で大学寮(今の上級国家公務員養成)に入るという事になっているが、そこを1年足らずで出てしまう。
当時の奈良の仏教界は荒廃していて、優れた坊さんたちは吉野のお寺に入ってゆく。
比蘇寺に神叡がいたりして 都では見られない様な魅力を感じたのではないかと思う。
自然と闘い苦しみ一緒に生活する事が魅力的だった。
19歳初冬の時期に吉野から高野山を歩いてきている。
仏教を教義の眼で見るのではなく、人々に対する関心、大自然から受ける感覚として受けとめて、考えたのではないかと思う。
仏教の修行の生活に入り、自らが進むべき道をひたすら探す日々でした。
歩く事が修行であることは間違いないが、自分はこれで行くんだという事を探していた。
動乱、飢饉、疫病のはやった時代で、人心が安定していない。
現実を見たときに、仏教の力にかけようかなと言う事があったのではないかと思う。
心の声に素直な人で、自由な人だった。
四国で取り組んだ修行で大きな転機を迎える。
室戸岬の御厨人窟での修行、「虚空蔵求聞持法」を授かった。 出家者空海の誕生。
奈良の都に戻って寺院に出向き、経典を読みあさる日々を過ごす。
『大日経』を初めとする密教経典に出会った、唐に行くしかないと留学僧として唐に行く事になる。
804年 唐に渡ることができ、長安で運命的な出会いがあった。
密教の第七祖である唐長安青龍寺の恵果和尚を訪ね、以降約半年にわたって師事することになる。
「虚しく往きて、実ちて帰る」
わずか2年前無名の一留学僧として入唐した空海の成果がいかに大きなものであったかを如実に示している。
唐で恵果から密教の奥義を授けられた空海は、世の民を救うのはこの教えしかないと確信する。
空海は日本に帰ると、教える道場として高野山を賜る事を朝廷に願い出ます。
空海には若き日に自分自身が魅了された、偉大な自然に向けられる独自の眼差しがあったのです。
密教の教義 曼荼羅 大日如来を中心に他諸仏があるが、大日如来から流出する、生まれる。
即ち命の出生でもある。
あらゆるものは一つの命から生まれでる、あらゆる命は一つとともに生きている、平等の命。
命=存在
生をよしとし、死を避けようとするが、ところがそうではなくて自然を見ると、死が新しい生を作っている。
生の現象としての死があると考えた時に、如何に死ぬか、と言う事は如何に生きるかということであり、死にざまが、その人の生きざまでもある。
1200年前であろうと今でも、お大師さんが言っている事は、今も正しいだろうし、慈悲(思いやり)が原理になって実践的な場面で如何に利他をやって行くかが、お大師さんの最終的な目標です。
こちらが虚しくして初めて他に対して行うことができる。
『秘密曼荼羅十住心論』 大切なことは何か信ずるものをもつ事、信ずるものがあるという事。
大自然が語っている事に、耳を傾けて聞かなければいけない。
自分の力で生きているわけではない、他との関係、命の恵み、を頂いているので、自分も返さなければいけない。
楽しく生きる、自信をもって生きる為の、あるのが信仰です。
命の継承 一つの命を共に生きている、そのことを継承させようとしている、一人で生きてきたわけではなく、お陰さまで生きている、悠久の生と死を包み込んでいる様な、人間だけでなくあらゆるものが一つの命を繋いで来ている。
日本の各地に空海の救済伝説がある。
「虚空盡き、衆生盡き、涅槃盡きなば、我が願いも盡きなん」
62歳で入定した空海の祈りは、今この時も世界で生きる人々のために続いている。
宇宙が存在する限りは、衆生も、願いも、涅槃もあるので、尽きない様に永遠に願っている。