2015年7月18日土曜日

森 南海子(服飾デザイナー)    ・布を愛しリフォームの心を伝える

森 南海子(服飾デザイナー)       ・布を愛しリフォームの心を伝える
81歳 服飾デザイナーとして、長年にわたって活躍、戦後大阪梅田のデパートに出した店を拠点に、洋服の手直しを意味するリフォームと言う言葉を全国に広げました。
本来のリフォームの意味は、改善、改良、改革、刷新の意味で服の手直しの意味はありません。
洋服の手直しを意味するリフォームは森さんの造語でした。
NHKTVの婦人百科にもたびたび出演、著書なども通して布を大切にするリフォームの心を伝えました。
又着やすさを大切にした服作りの参考にしようと、各地を歩き、日本国内だけでなく世界各地の服を集めました。
そんな中で出会ったのが千人針です。
布を愛し針と糸に生きた半生を振り返っていただきました。

作務衣(沖縄の麻の様な感触)をよく着ています、母が良く着ていました。
伊予がすり(紺に白い点々)、格子柄(黒とグレー)  
袖の付け根がゆったりしているので動きやすい、身体と手が一体の様になっている。
洋服の場合は袖とボディーが別にたっている。
掻き合わせて着るという事が、自由さを生みだしている、洋服とは一番違う点。
巻き袖 カタツムリのようにぐるぐると巻いている、とても着やすいが、ある種の感触で作るので、人に教えることも難しい。(感性で作る)
ドンザ 火消が着る様なもの 薄い生地が何枚も集まっている。  五島の福江島のもの
雨にも風にも耐える万能なもの、防水のレインコートみたいなもの。
船で出てゆくときに、海水から、風から身を守ることができる。
地域に根差した仕事着を求めて日本国内だけでなく世界各地を目指した。
「私のエプロン図鑑」著作 世界各地のエプロンが載っている。
ロシアのエプロンは色彩が綺麗、フランスのエプロンはおしゃれです。

昭和8年生まれ 母は家庭科の先生だった。(京都府立第一高等女学校)
母は下着からオーバーコートまで、何でも作っていた。
手作りは自慢げな半面、嫌だった(恥ずかしかった)ところもあった。
早くから母のミシンの作業をするところにいたので、早くからミシンで物を作るという事になじみがあった。
洋裁の勉強は母親と、近くに洋裁をしている方がいて、そこに良く行っていました。
その人は外国の雑誌から写してデザインしていた。(私としては写してデザインすることに拒否感があった)
23歳 梅田のデパートにリフォームの店を出す。
手直しする事に興味をもっていた。
「リフォーム」 形を変えるという意味で使った。
男物を女物に変えることが多かった。
背広を女もののジャケットに替えることが多かった。
ワイシャツはなんにでもなった、女物ブラウス、下着、枕カバー等。

昭和38年NHKTV 婦人百科に出演。
リフォームで物を捨てたくなかったという事を伝えたかった。
そのものの持っている価値を捨てたくなかった、何でも捨てる時代に入っていて、私の執念みたいなものはありました。
手縫いの会を作ったが、手で縫ったものは手でほどいて使える。
手で縫う事は身近ではなくなったが、縫いながら考える事ができたので、私には大事な時間だった。
格好がよくても、着にくいものは、人間の動き、暮らしに対して不自然ではないかと、日々の経験から感じていたので、人間の身体の伸び縮み、動きに沿った衣服を作りたいというのが私の願いでした。
作務衣は簡単なようで作るのは難しい、丸みをもたせることが和裁ではなかった。
もんぺパンツ、格好よく作るのが難しい。
体の不自由な人のための衣服専門店も開店する。
体の不自由な人が着るのに難儀していたので、足の出し入れなど工夫したが、特別な感じでない工夫をしたいと思った。
「手縫いの服作り」点字の本を出す。

千人針 小学生の時に皆で機械的に教室でやっていた。
大分県の或る蔵の中から千人針が出てきて、そのことに心を奪われて、ショックだった。
一針一針がかえし縫で、帰ってくるようにとの思いを込めて、かえし縫をして又次の人が縫う。
無事に元に戻ってくるように願って縫っていた。
先に縫ったらもう一回戻って、ループを描く様に縫ってゆく。
千人針を全国から集めたが、現在実物は沖縄の読谷村の歴史民俗資料館に寄託している。
5銭を縫い込み、死線を超えるという意味で、10銭は苦戦を越えるという痛切な願いです。
自分でもどうして集めようと思ったのか、よくわからない。
北海道からタイまで廻って集めた。
無事に帰ってくることが歓迎されない時代だったので、無事に帰ってきた当人、家族も肩身の狭い思いをしていた。
良く帰ってきたと言って、抱きしめられなかったことが、悲しかったという話を聞いています。
嬉しかったと言おうとしても言えなかった時代は恐ろしい時代だったと思います。
タイで終戦後も過ごすことになった人がいるが、もう日本には帰りたくない、近所の人に生きて帰ってどういう言い訳をしたらいいのか、もう帰らないと言っていましたが、その決意の中に日本という国に対する複雑な思いはあったと思います。
恨み、怒りと言ったらいいか判りませんが。

千人針をお腹に巻くが、千人針が頼りになるという事は誰も本当は思っていなかったと思いますが、千人針にすがるしかない様なことが実態だったと思います。
意味が無いという方もいましたが、家族の思いを身体に抱きしめて、と言う方が多かったと思います。
沖縄は激戦地だったので、集めた千人針を受け取って下さるのは沖縄だと思って、沖縄の読谷村の歴史民俗資料館に寄託している。
縫うという事の面白さも悲しさも無くなり、縫うという言葉の中に悲しみも喜びも縫い込めてきたんですが、それが縫い込めることができなくなった今、わたし自身の心はいったいどこへ行くんだろうという気がします。
口に出しては言えない様な心の思いですね、針と糸は要らない時代になっているのかもしれません。
これをどうすればいいかということは、大変なことだとは思いますが、もう一度取り戻すという事の大変さをどう解決したらいいんでしょうか。
「継ぎ当て」が死語になっているかもしれないが、継ぎ当てをして一枚の布をいたわる事の大切さだけは伝え残したいと思っています。
一枚の布はそれぞれ命の有るもので弱ってきたりほころんできたりするので、それをどういたわるかという事を何とか伝え残したいと思っています。