2015年7月31日金曜日

谷川浩司(日本将棋連盟会長)   ・勝負は日々の積み重ね

谷川浩司(日本将棋連盟会長)   ・勝負は日々の積み重ね
53歳神戸市出身、 5歳で将棋はじめ、中学2年生でプロデビュー、史上最年少の21歳で名人のタイトルを取り、将棋界の頂点に立ちました。
羽生善治名人との 160局を越える戦いは多くの将棋ファンを魅了し、名人位を5期以上に贈られる永世名人の称号、17世名人の資格保持者です。
今も第一線で走り続けながら、日本将棋連盟会長として将棋界のかじ取りも行う谷川さんに伺いました。

父が兄弟の喧嘩を無くすめにはどうしようかと思って、5歳から将棋をやらせるようになる。
プロ棋士になる様な人は、幼稚園とか小学校低学年で将棋を覚えて熱中する事が多い。
兵庫県で行われる将棋大会にも出るようになる。
小学校2年で若松7段の将棋教室に通う様になる。
小学校3年生で、飛車角落ちではあるが、内藤8段に勝つ事になる。
中学2年制でプロ棋士になる。
21歳で当時の名人の加藤一二三さんを制して、史上最年少の名人になる。(実力的には5番目ぐらいと思っている)

名人は400年前からあり、最初に大橋宗桂が初代名人。
中原誠先生に挑戦するのが大きな目標だった。
23歳の時は私が名人位で中原さんから挑戦を受けたが、26歳の時には中原さんに挑戦と言う事になった。
3勝1敗で第5局で、優勢な状況であったが、休憩時間後再開したが、中原さんの悠然とした態度に、こちらが追い込まれたのではないかと思った経験がある。
1992年竜王、棋聖、王位、王将の4冠を獲得。(29歳)
2か月で公式戦の対戦が25局あった。(30歳直前)
事前の研究する時間が無かったが、公式戦の対局が一番の研究になる。
研ぎ澄まされている時は、集中力があるし、読みを積み上げていかなくても、結論が見える状況になっていた。

対局で疲れてくると甘いものがほしくなる。(ケーキ、フルーツ等 飲み物はレモンティー)
20歳代は先輩とのタイトル争い、30歳代では下の若い人たちが勝ちあがってきてタイトルを争う。
羽生さんとは30歳前半で数多く戦ったが、結果は出なかった。
タイトル戦で7連敗もしてしまうと、戦う前から結果の事を考えてしまう。
精神的によくない状況が続いた。
羽生さんには嫉妬すると本に書いたが、その人を越えたいという想いがあるから嫉妬する。
1995年、1996年王将戦 1995年の時は羽生さんが6タイトルをもって、王将戦になったが、1局目が終わって4日後に阪神淡路大震災が起きて、不自由な生活を強いられた中で戦った。
その年は4勝3敗で防衛できた。 
翌年は同様に羽生さんが6タイトルを得て、王将戦になったが、私はふがいなくストレート負けしてしまった。
私が無冠になって、新たなスタートラインに立つ事が出来たと言う意味では大きかったのかもしれない。

羽生さんを意識するあまり、勝たなくてはとの思いから小手先の技に走っている様なところがあり、自分自身の実力を高めることが一番大切なことで、それをぶつけて負けたら又精進をすればいいと、少しづつ思えるようになった。
棋士にとって大切なことは勝負師であり、研究者、芸術家であることと思っている。
情報量が格段に増えて研究はより大事になり、二人で作り上げる棋譜に芸術性は求められると思うし、最後には勝ち負けがあるので勝ちを求める姿勢が大事になるので、この3つをバランスよく持って臨む必要がある。
どんなに強い人でも1年間に20回ぐらい負けるが、勝負の世界でも負けることが許されない世界があるが(ボクシング)、将棋の世界は、ひとたび結果がついたらそれを研究材料にして、次に生かしてゆくかと言う事が大事だと思う。
負けて悔しいという気持ちが無くなったら、現役で戦っている意味はないと思う。
負けを引きずってはいけないし、負けた後は研究者の目になって、どの手が悪かったのか、どういう風に読んでいたのか、心理状態などをきちんと分析した後、後は忘れる。(言うは易し、行う難しだが)

2012年から日本将棋連盟の会長になる。
私の10代20代は将棋に勝つことに全精力を集中させていたが、今の若手の棋士は学業、将棋の普及にも熱心なので頼もしい。
昔の常識は今は全く通用しなくなってきている。
昔は玉を安全にかこってから仕掛けることだったが、玉を囲う間もなく隙があれば仕掛けるようになった。
電王戦では今年は勝つ事が出来た。
プロ棋士の威厳をもって戦うので、今までとは比較にならない重圧があると思う。
日本将棋連盟としては次世代の育成、子供たちへの普及、これが一番です。
将棋を通し記憶力、集中力、決断力を身につけて、或いは好きなこと得意なことを見つけることで、社会に出て生きていく上で必要な力を身につけてほしいと思う。